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真言宗豊山派の日照山・普賢寺(ふげんじ、東京都葛飾区東堀切)は桓武平氏秩父氏の一族豊島氏から分派した葛西清重(かさい・きよしげ、1162~1238)が寿永年間(1182~84)年前後に創建したと伝えられています。<br /><br />清重は治承4年(1180)源頼朝が石橋山合戦に敗れ安房に逃れて以来、頼朝側に属して常陸国佐竹氏討伐、続く平氏追討等にて戦功を挙げます。<br /><br />文治5年(1189)の奥州藤原氏攻めには頼朝に従い、伊達郡阿津賀志山合戦で先陣を勤め数々の戦功を得た為、戦後頼朝から葛西五郡、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・六十六島など、現在の宮城県北部から岩手県南部にかけて広汎な領土を賜り次いで隣接する本吉・登米・桃青郡をも加増、合わせて30万石となります。<br /><br />また清重は陸奥国在住の御家人奉公権「奥州総奉行」及び旧藤原氏本拠であった平泉における「検非違使」に任命されますがこの役職は諸国の守護に相当する重職でありました。<br /><br />清重後は清親(きよちか、生誕不詳~1207)を二代目とする関東葛西氏と朝清(ともきよ、生没不詳)を二代目とする奥州葛西氏との二つの流れに分かれます。<br /><br />この現象は本領の他新恩の領土を得た御家人に見られる当然の配置で、奥州合戦で得た新領土の経営には代官あるいは庶子をあてがい、庶子は任地に下向しやがて土着化する例がみられ、葛西氏も例外ではなく庶子の朝清に託されたと思われます。<br /><br />嫡流の関東葛西氏は清親以降鎌倉に居を構え幕府に仕えますが、清信時代にの建治2年(1276)に奥州に下向したと伝えられています。<br /><br />嫡流が事実上本領を捨てて下向することはよくよくの事ですが、もはや葛西氏嫡流が幕府出仕において政治的役割が果たせなくなった状況を示しています。<br /><br />下向の理由は明らかではありませんが、幕府末期の政治は北条氏を主体とするいわゆる得宗政治が強化され、得宗家(北条氏嫡流)とそれを取り巻く親戚衆によるいわば独裁政治が日常的で、源頼朝の御家人の子孫たちは自らの政治関与が否定された背景があったのではないかと思われます。<br /><br />元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡、関東の御家人は本領を失い地方に土着の旧御家人の子孫は自領の安堵を受けるべく新政府あて奔走します。<br /><br />建武親政成立後、奥州では多賀国府に義良親王を奉じて南朝公家武将北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)が入城、葛西氏は国府に赴き所領の安堵を求めこれに対し安堵の書状を受けます。<br /><br />こうして奥州は北畠顕家ら南朝勢力下にあり葛西氏は追随して南朝方として顕家の足利尊氏ら北朝との戦いに臨み南朝勝利を実現します。<br /><br />然しながら尊氏が九州武士を編成し勢力を盛り返し、湊川にて楠正成らを破りその後再度西進してきた顕家軍を和泉国石津の戦いで破り顕家ら諸将は戦死、尊氏は征夷大将軍となり室町幕府が開かれます。<br /><br />幕府成立に伴い奥州についても南朝方は勢力振るわず幕府方に攻勢を許し幕府の支配が確立、葛西氏は足利尊氏に敗れそれまでの南朝方から北朝方に転じることにより自領の安堵を受けるに至ります。<br /><br />関東と共に陸奥・出羽両地域は鎌倉に派遣された鎌倉公方と公方を支える関東管領の支配下に入ることになります。<br /><br /><br />2022年10月25日追記<br /><br />「葛飾区寺院と調査報告書による普賢寺の縁起」については下記の如く詳細に亘って紹介されています。<br /><br />『 当寺山門の天井板碑によれば、当寺は治承4年(1180)8月の開基である。また「新編武蔵風土記稿」の掲げる縁起では寿永(1182~84)の頃、この地にあった朽ちた大木の根本から、清水が湧き出したので、領主葛西兵衛尉入道寂昌がその根を掘らしめて薬師仏の像を得た。よって寂昌は堂を建て、普賢寺と名づけ、寺領等を寄付した(この寺領が足立郡普賢寺村の30町歩という)。その後、建治元年(1275)、和田北条合戦のとき、領主葛西民部少輔は討死し、寺も焼亡したので、その子六郎常則は僅かに3歳、その母が薬師像を懐にして母子ともに立ち退き、14年の後、常則は北条家に仕えて、本領葛西の地に戻り、弘安6年(1283)、薬師堂を再興し、法空阿闍梨を請待して導師としたと伝え、山門の天井板銘ではこの法空を中興開山としている。<br /><br />天文7年(1538)10月、国府台の合戦で、兵火に罹理、多くの寺宝・記録を失い、北条氏綱の再興を経て、天正18年(1590)再び兵火のために焼失し、慶長年間、宥海法印がその荒廃を惜しみ、衆縁を募って再建した。その後も、水火災に本堂大破し、昭和39年12月、現在の本堂が完成した。』

武蔵堀切 平安末期に秩父平氏の流れを汲む葛西清重の開基なるも戦火で幾度も焼失を経て江戸期慶長年間に宥海が荒廃した寺を再興した『普賢寺』散歩

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2013/11/23 - 2013/11/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

真言宗豊山派の日照山・普賢寺(ふげんじ、東京都葛飾区東堀切)は桓武平氏秩父氏の一族豊島氏から分派した葛西清重(かさい・きよしげ、1162~1238)が寿永年間(1182~84)年前後に創建したと伝えられています。

清重は治承4年(1180)源頼朝が石橋山合戦に敗れ安房に逃れて以来、頼朝側に属して常陸国佐竹氏討伐、続く平氏追討等にて戦功を挙げます。

文治5年(1189)の奥州藤原氏攻めには頼朝に従い、伊達郡阿津賀志山合戦で先陣を勤め数々の戦功を得た為、戦後頼朝から葛西五郡、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・六十六島など、現在の宮城県北部から岩手県南部にかけて広汎な領土を賜り次いで隣接する本吉・登米・桃青郡をも加増、合わせて30万石となります。

また清重は陸奥国在住の御家人奉公権「奥州総奉行」及び旧藤原氏本拠であった平泉における「検非違使」に任命されますがこの役職は諸国の守護に相当する重職でありました。

清重後は清親(きよちか、生誕不詳~1207)を二代目とする関東葛西氏と朝清(ともきよ、生没不詳)を二代目とする奥州葛西氏との二つの流れに分かれます。

この現象は本領の他新恩の領土を得た御家人に見られる当然の配置で、奥州合戦で得た新領土の経営には代官あるいは庶子をあてがい、庶子は任地に下向しやがて土着化する例がみられ、葛西氏も例外ではなく庶子の朝清に託されたと思われます。

嫡流の関東葛西氏は清親以降鎌倉に居を構え幕府に仕えますが、清信時代にの建治2年(1276)に奥州に下向したと伝えられています。

嫡流が事実上本領を捨てて下向することはよくよくの事ですが、もはや葛西氏嫡流が幕府出仕において政治的役割が果たせなくなった状況を示しています。

下向の理由は明らかではありませんが、幕府末期の政治は北条氏を主体とするいわゆる得宗政治が強化され、得宗家(北条氏嫡流)とそれを取り巻く親戚衆によるいわば独裁政治が日常的で、源頼朝の御家人の子孫たちは自らの政治関与が否定された背景があったのではないかと思われます。

元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡、関東の御家人は本領を失い地方に土着の旧御家人の子孫は自領の安堵を受けるべく新政府あて奔走します。

建武親政成立後、奥州では多賀国府に義良親王を奉じて南朝公家武将北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)が入城、葛西氏は国府に赴き所領の安堵を求めこれに対し安堵の書状を受けます。

こうして奥州は北畠顕家ら南朝勢力下にあり葛西氏は追随して南朝方として顕家の足利尊氏ら北朝との戦いに臨み南朝勝利を実現します。

然しながら尊氏が九州武士を編成し勢力を盛り返し、湊川にて楠正成らを破りその後再度西進してきた顕家軍を和泉国石津の戦いで破り顕家ら諸将は戦死、尊氏は征夷大将軍となり室町幕府が開かれます。

幕府成立に伴い奥州についても南朝方は勢力振るわず幕府方に攻勢を許し幕府の支配が確立、葛西氏は足利尊氏に敗れそれまでの南朝方から北朝方に転じることにより自領の安堵を受けるに至ります。

関東と共に陸奥・出羽両地域は鎌倉に派遣された鎌倉公方と公方を支える関東管領の支配下に入ることになります。


2022年10月25日追記

「葛飾区寺院と調査報告書による普賢寺の縁起」については下記の如く詳細に亘って紹介されています。

『 当寺山門の天井板碑によれば、当寺は治承4年(1180)8月の開基である。また「新編武蔵風土記稿」の掲げる縁起では寿永(1182~84)の頃、この地にあった朽ちた大木の根本から、清水が湧き出したので、領主葛西兵衛尉入道寂昌がその根を掘らしめて薬師仏の像を得た。よって寂昌は堂を建て、普賢寺と名づけ、寺領等を寄付した(この寺領が足立郡普賢寺村の30町歩という)。その後、建治元年(1275)、和田北条合戦のとき、領主葛西民部少輔は討死し、寺も焼亡したので、その子六郎常則は僅かに3歳、その母が薬師像を懐にして母子ともに立ち退き、14年の後、常則は北条家に仕えて、本領葛西の地に戻り、弘安6年(1283)、薬師堂を再興し、法空阿闍梨を請待して導師としたと伝え、山門の天井板銘ではこの法空を中興開山としている。

天文7年(1538)10月、国府台の合戦で、兵火に罹理、多くの寺宝・記録を失い、北条氏綱の再興を経て、天正18年(1590)再び兵火のために焼失し、慶長年間、宥海法印がその荒廃を惜しみ、衆縁を募って再建した。その後も、水火災に本堂大破し、昭和39年12月、現在の本堂が完成した。』

交通手段
私鉄 徒歩
  • 普賢寺・山門

    普賢寺・山門

  • 普賢寺・寺標<br /><br />「日照山普賢寺」と刻した石碑が建立されています。

    普賢寺・寺標

    「日照山普賢寺」と刻した石碑が建立されています。

  • 普賢寺・山門

    イチオシ

    普賢寺・山門

  • 普賢寺・山門脇長い石標<br /><br />山門左側には「普賢寺願掛け水かけ不動」と刻された石碑が見えます。<br />

    普賢寺・山門脇長い石標

    山門左側には「普賢寺願掛け水かけ不動」と刻された石碑が見えます。

  • 普賢寺・山門右側石標<br /><br />「都重宝 普賢寺宝篋印塔」の石標が見えます。

    普賢寺・山門右側石標

    「都重宝 普賢寺宝篋印塔」の石標が見えます。

  • 普賢寺・山門扁額<br /><br />山門に掲示されている扁額「日照山」が見えます。

    普賢寺・山門扁額

    山門に掲示されている扁額「日照山」が見えます。

  • 普賢寺・参道<br /><br />山門を潜り抜けて参道から本堂を捉えます。

    普賢寺・参道

    山門を潜り抜けて参道から本堂を捉えます。

  • 普賢寺・本堂<br /><br />山号は日照山、院号は原光院、寺号は普賢寺、宗派は真言宗豊山派となっています。

    普賢寺・本堂

    山号は日照山、院号は原光院、寺号は普賢寺、宗派は真言宗豊山派となっています。

  • 普賢寺・鐘楼堂

    普賢寺・鐘楼堂

  • 普賢寺・宝篋印塔(ほうきょういんとう)<br /><br />左側石標には「普賢寺 宝篋印塔 三基」と刻されています。

    普賢寺・宝篋印塔(ほうきょういんとう)

    左側石標には「普賢寺 宝篋印塔 三基」と刻されています。

  • 普賢寺・宝篋印塔

    普賢寺・宝篋印塔

  • 宝篋印塔(三基)<br /><br />向かって中央の搭が鎌倉時代後期、左塔が南北朝時代前期そして右搭が室町時代前期の建立とされます。<br /><br />

    イチオシ

    宝篋印塔(三基)

    向かって中央の搭が鎌倉時代後期、左塔が南北朝時代前期そして右搭が室町時代前期の建立とされます。

  • 普賢寺・宝篋印塔<br /><br />中央の塔で鎌倉時代後期の建立とされます。高さ190Cm。<br />

    イチオシ

    普賢寺・宝篋印塔

    中央の塔で鎌倉時代後期の建立とされます。高さ190Cm。

  • 普賢寺・宝篋印塔<br /><br />右搭で室町時代前期に建立とされます。高さ124.2Cm。

    普賢寺・宝篋印塔

    右搭で室町時代前期に建立とされます。高さ124.2Cm。

  • 普賢寺・宝篋印塔<br /><br />左搭で南北朝時代前期に建立とされます。高さ183.4Cm。

    普賢寺・宝篋印塔

    左搭で南北朝時代前期に建立とされます。高さ183.4Cm。

  • 普賢寺・宝篋印塔

    普賢寺・宝篋印塔

  • 「普賢寺宝篋印塔」説明板

    「普賢寺宝篋印塔」説明板

  • 普賢寺・願掛け水かけ観音像

    普賢寺・願掛け水かけ観音像

  • 普賢寺・大師堂

    普賢寺・大師堂

  • 普賢寺・大師堂

    普賢寺・大師堂

  • 庚申燈籠・説明板

    庚申燈籠・説明板

  • 庚申燈籠(対の右側)<br /><br />「寛文6年(1616)丙午、石燈籠庚申成就二世樂処、十二月今日」の刻銘が竿の正面にあります。

    庚申燈籠(対の右側)

    「寛文6年(1616)丙午、石燈籠庚申成就二世樂処、十二月今日」の刻銘が竿の正面にあります。

  • 庚申燈籠(対の左側)

    庚申燈籠(対の左側)

  • 普賢寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を捉えます。

    普賢寺・境内

    本堂から山門方向を捉えます。

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