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JR横須賀線から徒歩で約10分の地に身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院である妙本寺(みょうほんじ、神奈川県鎌倉市大町)があります。<br /><br />当該寺のある谷戸は源頼朝に仕えた有力御家人の比企能員(ひき・よしかず、生誕不詳~1203)一族の屋敷があり、頼朝がなくなった後2代将軍を補佐する13人の御家人の一人として幕政を司りやがて北条氏と対立するようになり、最後はこの地での戦いによって滅ぼされ、一族の中で生き残った能員末子の比企能本(ひき・よしもと、1202~1286)は京都にて朝廷に仕えた後、鎌倉に戻り儒学者の道を歩み、帰依していた日蓮に屋敷を提供し妙心寺を開基することになります。<br /><br /><br />それまでの経緯については下記の通りです。       <br /><br />源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)が源家の家運を曾祖父義家(よしいえ、1039~1106)の全盛時に回復させるべく本拠鎌倉にて関東の求心力を次第に高め、組織化した武士団の力を背景に京都にて武門の棟梁として行動を開始します。<br /><br />記録は定かではありませんが数代遡った時代から源家に仕えていた武蔵国比企郡を本拠とする棟梁の比企掃部允(ひき・かもんのじょう,生誕不詳)は義朝の側近として他の武蔵武士ともども家人として仕えます。<br /><br />久安3年(1147)3月に頼朝が生まれると武家のならいとして最も親睦な家人の妻を乳母に選ぶわけですが、この時義朝は頼朝の乳母役に比企掃部允の妻(比企局)を指名します。<br /><br />その後平治の乱にて平氏に敗れ、平氏に捕えられた頼朝(よりとも、1147~1199)は永暦元年(1160)3月伊豆に流され、治承4年(1180)挙兵に至るまで流人として20年という気の遠くなるような期間を送ることとなります。<br /><br />上記に従い比企局(ひき・つぼね、生誕不詳)は夫と共に京を去り武蔵国比企郡中山郷(現在の比企郡川島町と東松山市あたり)の本領に戻り、配流中の頼朝に生活物資等を送り続けています。<br /><br />鎌倉に幕府創設するとこれまでの忠勤ぶりをを覚えていた頼朝は、夫に先立たれ尼となった比企局を鎌倉に呼び寄せて当地に住まわせることにします。<br /><br />頼朝は更に比企尼の推挙を得て甥にあたる能員(よしかず,生誕不詳~1203)を御家人としていきなり頼朝の側近として扱うほどの信頼を与えます。<br /><br />寿永元年(1182)8月に室政子(まさこ、1157~1225)が頼家を出産、その産所は比企尼の館である比企谷であり、また頼家の乳母として比企尼の娘の一人が召され、これにより源家と比企氏との親密な主従関係が更に継承されていることも明確に示しています。<br /><br />比企氏出身の乳母のもと頼家が成長するにつれて比企能員及びその一門は盛んに頼家に接近することは当然の事です。<br /><br />頼家が特に目をかけている側近の中に能員の息子の比企三郎(ひきさぶろう、生誕不詳)や比企弥四郎時員(ひき・やしろう・ときかず、生誕不詳)の名前が見られます。<br /><br />また能員の娘である若狭局(わかさ・つぼね、生誕不詳~1203)は頼家の寵愛を受け建久9年(1198)には頼家の嫡男一幡(いちまん、1198?1203)をもうけます。<br /><br />正治元年(1199)頼朝が死去、長男頼家(よりいえ、1182~1204)が家督を相続しますが独裁を制限するため幕府のいわゆる宿老13名合議による政権運営が発足、従来より幕府内で重要な地を占めていた比企能員は当然ながら合議の一員として加わっています。<br /><br />上述の合議制の採用はそれまで頼朝の裁量により抑え込んでいた有力御家人の対立が頼朝死去により一挙に表面化したのを緩和するものでしかなく、やがて幕府実権を掌握しようとする北条時政(ほうじょう・ときまさ、1138~1215)が官僚を代表する大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)を誘い幕府主導権を握る第一歩でもあります。<br /><br />この合議制による幕府体制は頼家にとっては喜ぶはずもなく対立軸が浮き彫りとなります。即ち一方では頼朝独裁政治の継承しようとする頼家と頼家を支持する立場にある比企一族、他方では頼朝時代に見られた武家政権の諸矛盾を克服して確固たる武士階級による政治を目指してその指導的地位を手中に収めたい北条氏とそれを支持する有力御家人たちとの確執となるに至ります。<br /><br />建仁3年(1203)頼家が病気になり重態に陥り、頼家死後を考慮した北条時政は諸国の総守護職と関東二十八ケ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ケ国の地頭職を頼家の弟千幡(後の実朝)にそれぞれ譲渡の処置を採ります。<br /><br />この決定に不満を持つ能員は当件に全く関知していなかった頼家に内報、折りから病状が回復していた頼家はこの知らせを聞き、時政の専制的な振る舞いを怒り、密かに能員を病床に呼び自らの権力を確保するため北条氏討伐を命じます。<br /><br />この密議を北条政子の知る所となりすぐさま時政に連絡、かねてより打倒比企氏の機会をうかがっていた時政は大江広元(おおえ・ひろもと)らを誘い比企能員に反逆の企てありとして比企一族討伐を決意します。<br /><br />直ちに時政は薬師供養に託して比企能員を名越(なごし)の時政私邸に招き信頼置ける家人らに命じ誅殺します。<br /><br />能員謀殺の知らせを受けた一族は頼家の子息一幡を擁して小御所(比企谷)に籠り、時政が差向けた北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)を先頭とする諸御家人らの軍勢を迎え撃ちますが大勢に逆らえずとうとう火を放ち一幡とともに一族は自害するに至ります。<br /><br />事件後頼家は将軍職を剥奪され、弟実朝(さねとも、1192~1219)が第三代将軍となります。廃位された頼家は伊豆の修禅寺に幽閉されたのち北条氏の手によって暗殺されます。頼家追放によって北条氏が幕府の実権を掌握することになります。<br /><br /><br />2022年10月24日 追記<br /><br />当該寺院ホームページに掲載の「由緒・その他」については下記の通り記述されています。<br /><br />『 妙本寺由来<br /><br />妙本寺は、日蓮上人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本です。<br /><br />この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)出会ったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。<br /><br />比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に<br />立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会いm「わが一族の菩提を弔って下さるのは、この聖人しかいない」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。<br /><br />日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山妙本寺」と名付けられました。<br /><br />第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本願寺は一人の貫主が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。 』<br /><br /><br />『 比企の乱とは?<br /><br />比企一族は、初代将軍皆本頼朝公の乳母を務めた一族であり、党首比企能員は頼朝公の右腕として活躍した武将でありました。比企能員夫妻は、やがて第2代将軍頼家公の乳母を務め、また、娘の若狭局は頼家公の側室として嫡男を授かるに至りました。しかし、3代将軍をめぐる北条時政の謀略によって、建仁3年(1203年)9月27日、一族は滅ぼされたのです。 』<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

相模鎌倉 頼朝の乳母を背景に第2代将軍頼家の乳母になるも北条氏との対立で比企一族は滅亡生存の末子が両親供養のため居館跡に開基の『妙本寺』散歩

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2013/11/17 - 2013/11/17

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR横須賀線から徒歩で約10分の地に身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院である妙本寺(みょうほんじ、神奈川県鎌倉市大町)があります。

当該寺のある谷戸は源頼朝に仕えた有力御家人の比企能員(ひき・よしかず、生誕不詳~1203)一族の屋敷があり、頼朝がなくなった後2代将軍を補佐する13人の御家人の一人として幕政を司りやがて北条氏と対立するようになり、最後はこの地での戦いによって滅ぼされ、一族の中で生き残った能員末子の比企能本(ひき・よしもと、1202~1286)は京都にて朝廷に仕えた後、鎌倉に戻り儒学者の道を歩み、帰依していた日蓮に屋敷を提供し妙心寺を開基することになります。


それまでの経緯については下記の通りです。       

源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)が源家の家運を曾祖父義家(よしいえ、1039~1106)の全盛時に回復させるべく本拠鎌倉にて関東の求心力を次第に高め、組織化した武士団の力を背景に京都にて武門の棟梁として行動を開始します。

記録は定かではありませんが数代遡った時代から源家に仕えていた武蔵国比企郡を本拠とする棟梁の比企掃部允(ひき・かもんのじょう,生誕不詳)は義朝の側近として他の武蔵武士ともども家人として仕えます。

久安3年(1147)3月に頼朝が生まれると武家のならいとして最も親睦な家人の妻を乳母に選ぶわけですが、この時義朝は頼朝の乳母役に比企掃部允の妻(比企局)を指名します。

その後平治の乱にて平氏に敗れ、平氏に捕えられた頼朝(よりとも、1147~1199)は永暦元年(1160)3月伊豆に流され、治承4年(1180)挙兵に至るまで流人として20年という気の遠くなるような期間を送ることとなります。

上記に従い比企局(ひき・つぼね、生誕不詳)は夫と共に京を去り武蔵国比企郡中山郷(現在の比企郡川島町と東松山市あたり)の本領に戻り、配流中の頼朝に生活物資等を送り続けています。

鎌倉に幕府創設するとこれまでの忠勤ぶりをを覚えていた頼朝は、夫に先立たれ尼となった比企局を鎌倉に呼び寄せて当地に住まわせることにします。

頼朝は更に比企尼の推挙を得て甥にあたる能員(よしかず,生誕不詳~1203)を御家人としていきなり頼朝の側近として扱うほどの信頼を与えます。

寿永元年(1182)8月に室政子(まさこ、1157~1225)が頼家を出産、その産所は比企尼の館である比企谷であり、また頼家の乳母として比企尼の娘の一人が召され、これにより源家と比企氏との親密な主従関係が更に継承されていることも明確に示しています。

比企氏出身の乳母のもと頼家が成長するにつれて比企能員及びその一門は盛んに頼家に接近することは当然の事です。

頼家が特に目をかけている側近の中に能員の息子の比企三郎(ひきさぶろう、生誕不詳)や比企弥四郎時員(ひき・やしろう・ときかず、生誕不詳)の名前が見られます。

また能員の娘である若狭局(わかさ・つぼね、生誕不詳~1203)は頼家の寵愛を受け建久9年(1198)には頼家の嫡男一幡(いちまん、1198?1203)をもうけます。

正治元年(1199)頼朝が死去、長男頼家(よりいえ、1182~1204)が家督を相続しますが独裁を制限するため幕府のいわゆる宿老13名合議による政権運営が発足、従来より幕府内で重要な地を占めていた比企能員は当然ながら合議の一員として加わっています。

上述の合議制の採用はそれまで頼朝の裁量により抑え込んでいた有力御家人の対立が頼朝死去により一挙に表面化したのを緩和するものでしかなく、やがて幕府実権を掌握しようとする北条時政(ほうじょう・ときまさ、1138~1215)が官僚を代表する大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)を誘い幕府主導権を握る第一歩でもあります。

この合議制による幕府体制は頼家にとっては喜ぶはずもなく対立軸が浮き彫りとなります。即ち一方では頼朝独裁政治の継承しようとする頼家と頼家を支持する立場にある比企一族、他方では頼朝時代に見られた武家政権の諸矛盾を克服して確固たる武士階級による政治を目指してその指導的地位を手中に収めたい北条氏とそれを支持する有力御家人たちとの確執となるに至ります。

建仁3年(1203)頼家が病気になり重態に陥り、頼家死後を考慮した北条時政は諸国の総守護職と関東二十八ケ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ケ国の地頭職を頼家の弟千幡(後の実朝)にそれぞれ譲渡の処置を採ります。

この決定に不満を持つ能員は当件に全く関知していなかった頼家に内報、折りから病状が回復していた頼家はこの知らせを聞き、時政の専制的な振る舞いを怒り、密かに能員を病床に呼び自らの権力を確保するため北条氏討伐を命じます。

この密議を北条政子の知る所となりすぐさま時政に連絡、かねてより打倒比企氏の機会をうかがっていた時政は大江広元(おおえ・ひろもと)らを誘い比企能員に反逆の企てありとして比企一族討伐を決意します。

直ちに時政は薬師供養に託して比企能員を名越(なごし)の時政私邸に招き信頼置ける家人らに命じ誅殺します。

能員謀殺の知らせを受けた一族は頼家の子息一幡を擁して小御所(比企谷)に籠り、時政が差向けた北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)を先頭とする諸御家人らの軍勢を迎え撃ちますが大勢に逆らえずとうとう火を放ち一幡とともに一族は自害するに至ります。

事件後頼家は将軍職を剥奪され、弟実朝(さねとも、1192~1219)が第三代将軍となります。廃位された頼家は伊豆の修禅寺に幽閉されたのち北条氏の手によって暗殺されます。頼家追放によって北条氏が幕府の実権を掌握することになります。


2022年10月24日 追記

当該寺院ホームページに掲載の「由緒・その他」については下記の通り記述されています。

『 妙本寺由来

妙本寺は、日蓮上人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本です。

この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)出会ったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。

比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に
立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会いm「わが一族の菩提を弔って下さるのは、この聖人しかいない」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。

日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山妙本寺」と名付けられました。

第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本願寺は一人の貫主が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。 』


『 比企の乱とは?

比企一族は、初代将軍皆本頼朝公の乳母を務めた一族であり、党首比企能員は頼朝公の右腕として活躍した武将でありました。比企能員夫妻は、やがて第2代将軍頼家公の乳母を務め、また、娘の若狭局は頼家公の側室として嫡男を授かるに至りました。しかし、3代将軍をめぐる北条時政の謀略によって、建仁3年(1203年)9月27日、一族は滅ぼされたのです。 』

















交通手段
私鉄 徒歩
  • 妙本寺・参道

    妙本寺・参道

  • 妙本寺・参道石碑

    妙本寺・参道石碑

  • 妙本寺・総門<br /><br />宗派日蓮宗、山号寺号長高興山(ちょうこうざん)妙本寺、創建文応元年(1260)、開山日蓮上人、開基比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)となっています。

    妙本寺・総門

    宗派日蓮宗、山号寺号長高興山(ちょうこうざん)妙本寺、創建文応元年(1260)、開山日蓮上人、開基比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)となっています。

  • 妙本寺・説明板

    妙本寺・説明板

  • 比企能員邸跡記念碑<br /><br />総門の右側には頼朝重臣の比企能員(ひき・よしかず)邸跡の記念碑が建立されています。

    比企能員邸跡記念碑

    総門の右側には頼朝重臣の比企能員(ひき・よしかず)邸跡の記念碑が建立されています。

  • 妙本寺文学・案内板

    妙本寺文学・案内板

  • 妙本寺・大円坊(比企谷幼稚園)<br /><br />幼稚園とは思えない個性的な建物で周辺の寺院に溶け合った佇まいです。

    妙本寺・大円坊(比企谷幼稚園)

    幼稚園とは思えない個性的な建物で周辺の寺院に溶け合った佇まいです。

  • 妙本寺・境内絵<br /><br />方丈門の傍らに境内絵地図が立てられています。

    妙本寺・境内絵

    方丈門の傍らに境内絵地図が立てられています。

  • 妙本寺・方丈門

    妙本寺・方丈門

  • 妙本寺・方丈門階段<br /><br />階段を登ると社務所・書院の建物が控えています。

    妙本寺・方丈門階段

    階段を登ると社務所・書院の建物が控えています。

  • 妙本寺・石碑<br /><br />階段を上がった所に石碑が何気なく建っています。即ち左側石碑には「妙本寺」、右側石碑は「長興山」と刻されています。

    妙本寺・石碑

    階段を上がった所に石碑が何気なく建っています。即ち左側石碑には「妙本寺」、右側石碑は「長興山」と刻されています。

  • 妙本寺・本堂

    妙本寺・本堂

  • 妙本寺・歴代住職墓

    妙本寺・歴代住職墓

  • 妙本寺・歴代墓所石柱

    妙本寺・歴代墓所石柱

  • 妙本寺・歴代住職墓

    妙本寺・歴代住職墓

  • 妙本寺・鐘楼堂

    妙本寺・鐘楼堂

  • 妙本寺・参道

    妙本寺・参道

  • 妙本寺・二天門

    妙本寺・二天門

  • 妙本寺石・寺柱<br /><br />二天門の傍らの石柱には「霊跡本山妙本寺」に合わせて「比企谷」と併記されています。頼朝が流罪の間生活物資の支援を続けていた比企尼に対し感謝を込めて新たに住居地を提供し住まわせた地はその後比企谷と称されることになります。

    妙本寺石・寺柱

    二天門の傍らの石柱には「霊跡本山妙本寺」に合わせて「比企谷」と併記されています。頼朝が流罪の間生活物資の支援を続けていた比企尼に対し感謝を込めて新たに住居地を提供し住まわせた地はその後比企谷と称されることになります。

  • 妙本寺・祖師堂

    妙本寺・祖師堂

  • 妙本寺・日蓮上人像

    妙本寺・日蓮上人像

  • 妙本寺・比企氏一族の墓

    妙本寺・比企氏一族の墓

  • 妙本寺・比企能員一族之墓

    妙本寺・比企能員一族之墓

  • 妙本寺・比企氏一族墓内

    妙本寺・比企氏一族墓内

  • 妙本寺・比企氏一族墓誌

    妙本寺・比企氏一族墓誌

  • 妙本寺・比企氏一族墓

    妙本寺・比企氏一族墓

  • 妙本寺・比企氏一族墓

    妙本寺・比企氏一族墓

  • 妙本寺・境内<br /><br />比企一族墓から境内を一望します。

    妙本寺・境内

    比企一族墓から境内を一望します。

  • 妙本寺・一幡(いちまん)墓<br /><br />二代将軍頼家の長男一幡の墓が境内にあります。一幡の母親は比企能員の娘の若狭局で、政権を掌握している政子・時政が実朝を次期将軍に立てるべく比企氏棟梁の能員を殺害、同時に時政は畠山、三浦、和田らを引き入れ一幡を擁して立て籠もる比企谷の比企氏館を襲います。<br />比企一族はこれを防戦するものの館に火を放ち当寺6歳の一幡は母親と共に滅亡します。<br />

    妙本寺・一幡(いちまん)墓

    二代将軍頼家の長男一幡の墓が境内にあります。一幡の母親は比企能員の娘の若狭局で、政権を掌握している政子・時政が実朝を次期将軍に立てるべく比企氏棟梁の能員を殺害、同時に時政は畠山、三浦、和田らを引き入れ一幡を擁して立て籠もる比企谷の比企氏館を襲います。
    比企一族はこれを防戦するものの館に火を放ち当寺6歳の一幡は母親と共に滅亡します。

  • 一幡墓

    一幡墓

  • 一幡墓石柱

    一幡墓石柱

  • 妙本寺・手水舎(てみずや)

    妙本寺・手水舎(てみずや)

  • 万葉集研究遺跡

    万葉集研究遺跡

  • 源婦子石碑

    源婦子石碑

  • 源婦子説明石<br /><br />婦子は二代将軍源頼家の息女で第四代将軍頼経の夫人で文暦元年(1234)に32歳で死去しています。

    源婦子説明石

    婦子は二代将軍源頼家の息女で第四代将軍頼経の夫人で文暦元年(1234)に32歳で死去しています。

  • 源頼経室墓<br /><br />源家が三代で消滅し、次期将軍は摂関家から招くとことなり第四代将軍は頼経と名乗り、室には頼家息女が入ることとなります。

    源頼経室墓

    源家が三代で消滅し、次期将軍は摂関家から招くとことなり第四代将軍は頼経と名乗り、室には頼家息女が入ることとなります。

  • 墓地風景<br /><br />

    墓地風景

  • 妙本寺祖師堂風景<br /><br />祖師堂の遠景を捉えます。

    妙本寺祖師堂風景

    祖師堂の遠景を捉えます。

  • 妙本寺・霊宝殿

    妙本寺・霊宝殿

  • 妙本寺・境内<br /><br />祖師堂から中門を向いてその風景を捉えます。

    妙本寺・境内

    祖師堂から中門を向いてその風景を捉えます。

  • 妙本寺・祖師堂

    妙本寺・祖師堂

  • 妙本寺・祖師堂<br /><br />祖師堂から周囲風景を見渡します。

    妙本寺・祖師堂

    祖師堂から周囲風景を見渡します。

  • 妙本寺・祖師堂内部

    妙本寺・祖師堂内部

  • 妙本寺・祖師堂

    妙本寺・祖師堂

  • 妙本寺・「日蓮聖人鎌倉開教埜地」石碑

    妙本寺・「日蓮聖人鎌倉開教埜地」石碑

  • 妙本寺・境内<br /><br />祖師堂から参道を捉えます。

    妙本寺・境内

    祖師堂から参道を捉えます。

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