1992/09/27 - 1992/09/30
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1992年のベトナム旅は、ハノイが最後の訪問地。
最初は予定に無かったハロン湾にも足を伸ばしてみたり、ハノイでは自転車で街巡りをしてみたり。
ハロン湾から8時間もかかってハノイにたどり着いたあとでは、香港行き飛行機に乗れないかも!Σ(゚д゚ll) というハプニングもあったっけ。(。・w・。) ププッ
過ぎている間は大変でも、今となればそれも旅の醍醐味になっていたように思えるのが不思議。
う〜ん、だから旅ってやめられない!
未発掘の写真はまだまだ多いんですが、とりあえずこの時の旅の大まかな行き先を示すだけの数は出て来たので一旦アップを完了してしまおうと思います。
表紙の画像は、ハノイからハロン湾へ向かう途中で渡った川(紅河?)のフェリー乗り場。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 船 自転車 タクシー 飛行機
- 航空会社
- ベトナム航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
これは、前編のダナンからホイアン、フエ編に続く、1992年当時のベトナム旅行の記録。
旅行後にA4サイズ11枚にまとめたオリジナル記録です。
当時はワープロも個人的には持っていなかったので、手書きになっています。(。・w・。) ププッ
下手な字ですみません。<(_ _)>
内容は、当時の交通機関、宿、訪れた場所の印象などなどについてザックリとおおまかに書いてあります。
今回アップする旅行記内の状況は、この記録に基づいたものになります。
●注: これはその7ページ目のダナンからハノイ到着後空港から市内までのタクシー料金、ハノイでの宿、ハノイのレンタル・バイクの記録なんですが、プライベートな内容の箇所はカットして掲載します。
個人旅行が出来るようになったこの当時でも、ホーチミン市とハノイ以外は訪問許可を取得しなければならなかったんですが、ダラット→ファンラン→ダナン→フエを含めた許可はホーチミン市で取得済み。
ハノイ到着後には、旅行社で手配してもらった車でハロン湾へも行ってみました。
●注: 画像下方には、ハノイの印象として「ホーチミン市と比較してずっと落ち着いた街並みで交通量も少なく…。」と書いてありますが、これは1992年のこと。
今では乱暴な運転のバイクが街中に溢れ、喧騒の街になっています。 -
1992年当時のハノイ市内は自転車天国。
上の画像の記録に感想を書いたように、この時のハノイ市街地はしっとりと落ち着いた風情でバイクより自転車が圧倒的に多かった。
この画像でも、のんびりした街と言う雰囲気が分かるんじゃないでしょうか。
それが、その後の訪問では、行くたびに乱暴な運転のバイクが増えて喧騒の街に。
びっしりと道を埋め尽くすバイクの群れで道の反対側に渡るのもままならなくなり、その変化にびっくり! Σ(・ω・ノ)ノ
1992年には、SUR SHANGHAIたちも宿で自転車を借りて(1日1米ドル)、周辺巡り。
降りて見て回りたい時には、あちこちにある有料駐輪所に行き、番号札と引き換えに預けるようになってました。
今は博物館的に公開されているホアロー収容所へも自転車で。
高い塀に囲まれた収容所は自転車でぐるりと一回りしても5分かからないほどだったんですが、1992年にはまだ監獄として機能していて、警備の人たちがあちこちに立ってました。
当然、外壁や入口周辺などの外観も撮影不可。
この収容所が完全に閉鎖になったのは1993年になってからだったそうです。
ホアロー収容所の歴史もちょっとだけ書いておくと、ホアロー収容所がフランスによって監獄として建てられたのは1896年。
1954年のインドシナ戦争勝利後は、ベトナム政府が刑務所として利用したと言う歴史があります。
ベトナム戦争中、捕虜となったアメリカ軍パイロットを収容していた時期にはハノイ・ヒルトンと呼ばれ、その後は戦争映画『ハノイ・ヒルトン』の舞台にもなったホアロー収容所。
そんなホアロー収容所も、2000年代初めに再訪してみると、すでに公開が始まっていました。 -
ハノイではまずホーチミン廟があるバーディン広場周辺へ。
肝心のホーチミン廟などの見所写真は未発掘ですが、目下、広場の南端近くにある圓覚門の写真だけが出て来ました。(;^ω^)
この門はその後数度の訪問時にも健在。
ハノイでの宿は、SOPHIRE HOTEL。
始め当てにしていた列車駅近くの宿が満員で、路上で行き会った西洋人パッカーに紹介してもらったんだっけ。
あの頃の旅って、パッカー同士すぐに話しかけあったり情報交換が出来たのよね。
宿のロビーの掲示板にはいろんな情報メモや伝言が貼ってあったし…。
う〜ん、懐かしい。
その1992年当時のSOPHIRE HOTELは、シャワー・トイレ、エアコン付きのダブルが15米ドル。
具体的な番地は憶えてはいないけれど、今も賑やかなホアンキエム湖南側にあって、郵便局が近くだった。
この頃はハノイに限らず、泊まった宿の写真を撮る習慣が無かったのが、今から思うと惜しい。(´-ω-`)
2013年現在あるSOPHIRE HOTELと同一なのかは不明です。 -
1992年には、ハノイに限らずホーチミン市にもダナン周辺の町にもまだめぼしいお土産品が無くてちょっとがっかり。
おかげでお金はそんなに使わずに済みましたが。(ノω`*)
今のようにセンスのいい雑貨やお土産品が並び始めたのは、2000年代に入ってから。 -
ハノイの路上市場。
旧市街地の東河門(ドンハー・モン)近くにあったと思うけど、どうだったかな。
市場のざわめき、道端に並ぶ商品、売る人買う人、どれを見ても楽しかった。
最近では昔ながらの路上市場が解体されたり、移転しているようなのが残念。 -
ハノイの路上市場。
ここも旧市街地の東河門(ドンハー・モン)近くにあったと思うけど…。
この写真に写っている人たち、あれからどんな人生を送っているんだろ。 -
ここは現在も賑やかなハノイのドンスアン市場。
商品の積み上げ方が一種のアートになっているお店が多かった。
思わずドミノ倒しにしてみたくなる。
(ΦωΦ)フフフ・・ -
ハノイのドンスアン市場の一角。
この毒々しい色の袋に入って売られていたのは何だったんだろう。
これがインドなら、ホーリー用のカラフルな粉かと思うんだけど。 -
1992年のハノイ・ファッション。
ベトナムと言えば、アオザイを着た清楚な姿の女性を思い浮かべますが、この時のベトナム旅では見た覚えが無いSUR SHANGHAI。
成人女性は皆、質素な無地のブラウス+無地のズボンのいでたち。
この頃はどこでもまだまだ経済的・精神的に、優雅なおしゃれを楽しむまでには行っていなかったんでしょうね。
そもそも気の利いた衣料品店をみかけなかったし。
南部のホーチミン市、中部のダナンとは一線を画して、ハノイの男性はミリタリー調の色使いのいでたち+鉄兜が主流。
ベトナム戦争当時からに違いないと思える鉄兜ファッションは、ほかでは見た覚えが無いから、やたらに目を引いた。
この10年後、2000年代初めに再訪した時には、女性たちはかなりお洒落になってました。 -
1992年には思いっきりアジアだったハノイの町角の露天商。
地べたに置いた籠にはバゲットがぎっしり。
ベトナムは、1847年にフランスの侵略が始まった時から数えると約100年ほどフランスの植民地支配を受けた国。
その間に、ベトナムの人々もフランスのパンを日常的に食べる習慣が出来たんでしょうね。
今でもバゲットを使ったサンドイッチのバイン・ミーは屋台で買える名物スナックだし。
ただ、こんな風に売られていたバゲットには、なにやら悲しげな雰囲気があった。
かつて植民地にされたベトナムの歴史を想い出させるから? -
バイン・ミー(バゲットを使ったベトナム風サンドイッチ)の露天商。
1992年当時は、時々警察による身分証チェックがあるという事だったので、パスポートや通行許可証は持ち歩いていたSUR SHANGHAIとその旦那。
結局は一度も職質はされたことはありませんでしたが。
この頃は、未回収の地雷に要注意時期だったので、さすがのSUR SHANGHAIも人が歩いた痕跡が無い場所へは立ち入らないようにしてました。 -
イチオシ
これは、ハノイからハロン湾へ向かう途中にあった、川を渡るためのフェリー乗り場。
赤く濁った水の色、木製の古びた船、編み笠をかぶった質素な身なりの女性たち。
ベトナムをテーマにした映画の一場面のような写真が撮れた。
ハロン湾は元々は予定に無かった場所だけど、その噂を聞き、旅行会社に手配してもらって出かけることに。
SUR SHANGHAIたちは、運転手さん付きの車を1泊付き往復70米ドルで雇って行きました。
今ではこの道筋も整備されて、ハノイからバスで行っても3時間程度のようですが、1992年には片道6?8時間もかかっていたんですよ?。( ̄m ̄*)
それはなぜかと申しますと…、 -
…1992年当時のハノイ⇔ハロン湾の道は状態が悪かった上に、途中には時間制一方通行になる狭い橋が二ヶ所、フェリーで渡る川が2ヶ所あって、下手をすると一ヶ所での待ち時間が30分もかかっていたんです。
…で、所要時間が片道6ー8時間。
SUR SHANGHAIたちは、ハロン湾への往きは6時間で済みましたが、帰りは8時間!(。・w・。) ププッ
今ではバスでも3時間程度と言うのが夢のよう。
この画像は、そんなフェリー乗り場がある川のひとつ。
フェリーに乗り降りする人たちはみんな大荷物が当たり前。
この振り分け荷物を積んだ自転車のおにいちゃんとそのお母さん(?)も、坂道を上るのに苦しい汗をかいていた。 -
ハノイからハロン湾へ向かう途中にフェリーで渡った川。
紅河(ホン河)のほかにも川がたくさん流れている地域だし、これら一連の画像に写っているのも、そのひとつだったんでしょうね。
それはいいんですが、川を渡るフェリーがすごかったんですよ。
このとおり、吹きさらしの平らなボートで、重さのバランスが取れないと斜めになって渡って行くんです。( ̄m ̄*)
今から見ると貴重な体験をしたなとは思いますが、乗ってる時にはただただ怖い乗り物でした。 -
イチオシ
上掲の画像と同じく、ハノイからハロン湾へ行く途中で渡った川とフェリー。
甲板はもとより、バスの上にも荷物がぎっしり。
びっしりと乗ったお客さんのうち、男性のほとんどはやっぱり鉄兜ファッション。合間に見える編み笠は女性のファッション。
SUR SHANGHAIたちは次の便に乗ることになって、このフェリーが対岸へ行く様子を見守った。
人も車も荷物も積めるだけ積んでヨロヨロと進むフェリー。
この日は天気がよかったからまだいいものの、大雨で増水した時なんかは、地元の人でも乗るのが怖かっただろうな。 -
上掲の画像のフェリーが無事対岸に着いた。
また降りる人乗る人で混み合うフェリー乗り場が見えた。
フェリー乗り場の建物をよく見ると、HAI PHONG(ハイフォン)の文字が壁に出ていた。
ハイフォンは、ハノイから東へ100kmほど行った場所にある街。
じゃ、この川は紅河(ホン河)の支流のひとつ? -
フェリー乗り場付近に持ち舟を停めて、フェリー待ちのお客さんにスナックを売る女性。
不謹慎ながら、当時、1日どのくらいの収入になったのかが気になったSUR SHANGHAI。 -
フェリー乗り場にしゃがむ男性、舟を漕いで横切る女性。
それぞれのストーリーを感じさせる一風景。 -
ん? この子はフェリー乗り場に釣りに来ているのかな。
何が釣れるんだろう。
釣れたら市場に持って行くの? それとも今晩のおかずにしてもらうのかな。 -
これは、ハロン湾が近づいた頃に見た風景だったと思う。
この画像に写っているのは、竹を大きなざる状に編み上げた小舟。
網目に牛糞や樹液を塗りこんで防水してあるんだそうです。
ほかの町にもあったのかもしれないけれど、実際に見たのはここが初めてじゃなかったかな。
これはざる舟の中では大きいほう。
このあとは、一寸法師が乗るような小舟に子どもが一人だけで乗っている場面にも出会いました。 -
ハロン湾が近づくと、車道の両側の風景は、まるで中国の桂林のよう。
それもそのはず、このあたりの石灰岩台地は桂林にまで続いているんだそう。
浸食作用によって造り上げられた景色は、本当に桂林と瓜二つ。 -
中国の桂林に対し、≪海の桂林≫とも呼ばれるハロン湾の奇岩風景が川の向こうに見えて来た。
ハロン湾全体では大小合わせて2千とも3千あるとも言われるこれらの奇岩の島々には言い伝えがあって、昔中国がベトナムに攻め入った時に龍の親子が現れて中国の軍隊を打ち破り、口から吐き出した宝石が奇岩に変貌したのだそう。
ハロン湾のハロンも、龍の降臨を意味し、漢字では下龍と書くんだそうです。
そんなハロン湾が世界遺産の自然遺産に登録されたのは1994年。
SUR SHANGHAIたちが訪れた2年後の事だったようです。 -
いよいよハロン湾に到着。
ハロン湾巡りの船の料金は、1時間3米ドルー7米ドル。
●注:1992年当時の相場です。
ところがあいにくの雨で、湾巡りに出てくれそうな船がいなかった。
安くても、あんまりボロボロの船だとこれから波も大きくなりそうな日には安心してお願いできないので、翌日ハノイに戻る前に出かけてみることにしてこの日はホテルでリタイア。
この時のハロン湾には遊びに行けそうな場所も無かったし。
ハロン湾巡りの船が出る岸壁そばのVAN HAI HOTELにしたんだよね。
シャワー・トイレ共同のダブルが5米ドル。
う?ん、雨風が防げたのはうれしかったけど、この旅では一番ボロい宿だったなあ…。(??〆)
一夜明けたハロン湾はまたも雨降りで、天候待ちをしたのにも関わらず湾内巡りはまたまたボツ。
これは2000年代に入ってからの訪問でリベンジ完了したのでいいんですが、1992年のこの日にはハロン湾を出てハノイに向かったのが結局午後になってから。
ハノイまで8時間もかかって、途中からは真っ暗な道だったんですよ?。
よく無事にハノイまで戻れた!
あの時の運転手さんに感謝! -
イチオシ
これは、1992年の訪問時には上記の理由で島巡りには行けなかったハロン湾。
ハノイに戻った後はもう問題なく振り出しの香港に飛んだんだろうと思うでしょうが、最後の最後に危機が!Σ(゚ж゚;)!!
この当時はまだまだ航空券のリコンファームと言うものがあった時代。
24時間前までに航空会社に来てくださいねと言われていたのを、30分遅れて行ってみたところ、なんと!SUR SHANGHAIだけタイム・アウト!!
それをどうにか拝み倒し頼み込んでOKをもらったものの、翌日飛行機が飛びたつまで気が気でなかったハプニング付き。ハラハラドキドキ…。
それがいい教訓になって、その後のリコンファームはまじめにするようになりましたとさ。
この時のベトナム航空の入っていたビルは、2012年の再々訪問時にもホアンキエム湖南端に現存。
一目見たら、あの時の焦燥感が甦ってきてΣ(OωO)ビク…、という20年越しのおまけもつきました。(;^ω^)
さて、これで1992年のベトナム旅の旅行記は一旦終了といたします。
またそのうちにどこからか資料や写真が出て来たら、内容を追加して行こうと思います。
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この旅行記へのコメント (3)
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- kioさん 2013/09/21 22:43:48
- ベトナム戦争
- surshanghaiさん こんばんわ
私の世代はベトナムというとかなり特別な意味があります。
一番多感な時期を過ごした年代とベトナム戦争がそっくり被るのです。
新聞の戦争を伝える見出しも、ベトナムの街の名前も記号のように
私の記憶に刷り込まれています。
トンキン湾事件、フエ事件、クリスマス休戦、北爆停止、 北爆再開
サイゴン陥落、テト攻勢、パリ和平会議、、枯葉作戦、
グエン・カオ・キ大統領、ソンミ村、次から次へと、新聞の大きな見出しが
私の記憶の奥底に刷り込まれて、出てきます。
それにしてもsurshanghaiさん 銀塩カメラ時代からいい絵を撮って
いますね <ハノイの路上市場>の最初の4枚、雰囲気が出て
素晴らしいです。思わず拡大して見入ってしまいました。
報道写真として使えるくらいのレヴェルだと思います。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2013/09/25 17:07:16
- RE: ベトナム戦争
- お返事が遅れて失礼いたしました〜。<(_ _)>
私が子どもだった頃は末期となって続いていたベトナム戦争ですが、当時(私の田舎では)ニュース解説とか子ども向けに噛み砕いた内容のニュースや新聞なんていうものが無く、周りの大人たちもよく分かっていなかったフシがありました。
聞くと、自分たちも分からないもんだから 「Σ(OωO)ビクッ! 女の子の癖にそんなこと! 知りたかったら自分で調べろ! (`・ω・´)キリッ!」 と言われましたが、田舎の悲しさでさっぱり資料も無く…。(-ω-ll)
子ども心に『ベトナムという所では、テトと言うものが来ると戦争も一休みになるらしい。』位の理解しか無かったのでありました。
それから年月は流れ、今ではリゾート地もあちこちに出来たベトナム。
かの地の経済が潤うのはいい事ですが、なんだか一抹の違和感が…。
この≪ちょっと昔のベトナム≫編は旅の回顧編ということにして、ベトナム戦争については取り上げませんでしたが、その後行ってみたハノイのホアロー収容所(今は博物館的に公開)については、いつか旅行記に仕立てたいですねえ。
ここが舞台になった映画『ハノイ・ヒルトン』、そのほかにも『フル メタル・ジャケット』、『地獄の黙示録』などなどをまた見たくなりました。
- kioさん からの返信 2013/09/25 21:08:58
- RE: ベトナム戦争
>ここが舞台になった映画『ハノイ・ヒルトン』、そのほかにも『フル メタル・ジャケット』、『地獄の黙示録』などなどをまた見たくなりました。
フルメタル・ジャケットで挿入されているストーンズのPaint it black-黒く塗れ、、とてつもなく印象が強かったことを覚えています。
<ディア・ハンター>というベトナム戦争を題材にした映画も印象深かった。 <ロシアン・ルーレット>という言葉とその意味もこの映画で
初めて知りました。凄く緊迫感のあるシーンでした。
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