1992/09/19 - 1992/09/22
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SUR SHANGHAIさん
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今では急速に現代化・観光化が進んでいるベトナム。
高級ホテルもお洒落な街も優雅なリゾートも出来て、優雅な休暇を楽しむための旅も可能になりました。
そんなベトナムも、外国人の個人旅行は1990年になってやっと解禁されたと聞いたら、ちょっとびっくりする人もいるかも。
今は昔、せっかくベトナムに行くなら団体旅行じゃなくて個人旅行で、と思っていたSUR SHANGHAIとその旦那。
「個人旅行が解禁された!というニュースを聞いて2年後の1992年にやっと行ってみることに。
この年、香港からベトナムを訪れた時の写真や資料の発掘調査(笑)もボツボツと進んだので、ここで一度アップしておこうと思います。
表紙の画像は、ミトの町で見たミト川(メコン川の支流)の上流方向。
もうすぐスコールがやって来る。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 自転車 タクシー バイク 飛行機
- 航空会社
- ベトナム航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
これは、この時のベトナム旅行の記録。
知り合いから情報依頼があったので、旅行後にA4サイズ11枚にまとめたオリジナル記録です。
当時はワープロも個人的には持っていなかったので、手書きというのがずいぶんアナログ。(。・w・。) ププッ
下手な字ですみません。<(_ _)>
内容は、当時のビザや宿、交通機関、注意事項、訪れた場所の印象などなどについてザックリとおおまかに書いてあります。
今回アップする旅行記内の状況は、この記録に基づいたものになります。
●注: これはその1ページ目なんですが、プライベートな内容の箇所はカットして掲載します。
●注: この資料は、日記風に○月×日にどこそこへ行って何をしたと言う詳細な書き方ではなく、出て来たネガや写真も不完全だったりするので、各地の訪問時期については日付が特定できなかったりします。
当時のベトナムのビザは別紙になっていて、しかも後でベトナムのイミグレで回収されたので、当時のパスポート内にはベトナム出入国のスタンプは残っていません。
いまから思うと、あの別紙のビザ、香港で取得した時に写真に撮っておけばいい資料になったと思うんですが…。後の祭り。( ̄_ ̄||)
ただ、ベトナム訪問前後に訪れた香港のスタンプを見ると、ベトナムを訪れたのは、1992年9月19日から1992年9月30日。
その日付に従って、この旅行記を進めて行こうと思います。 -
上記のとおり、当時のベトナムビザは別紙で発行され、その後ベトナムのイミグレで回収されたので、当時のパスポートにはベトナム出入国のスタンプはありません。
これは、当時はパスポートにベトナムのスタンプがあると、アメリカ合衆国には入国できないと言う決まりがあったからだったと思います。
間違っていたら、すみません。<(_ _)>
ただ、こういう記録が残っていました。
これは最初にホーチミン市に到着したあとで、各地を訪れるための許可申請した時の用紙。
外国人の個人旅行は1990年に解禁されたと言っても、この当時は全く自由にあちこち行けたわけではなく、ホーチミン市とハノイ以外は前もって旅行会社に申請し、宿泊の可能性がある場所は当局の許可を得るのが必須条件。
手続きは、ホーチミン市の宿のスタッフがしてくれました。
用紙にはホーチミン→ダラット→ファンラン→ダナン→フエ→ハノイの名が出ています。
SUR SHANGHAIとその旦那はダラット、ファンラン、それにフエに行く予定は無かったんですが、スタッフに「あとで予定変更して行き先を追加するとまた手続きが面倒。外国人がよく行く場所は最初にまとめて申請しておくといい。」と言われて「あ、なるほどね。」
結局あとで予定を変更してフエには行ったので、これで正解。
当時の旅行会社の住所は、古い情報になるのでカット。
SUR SHANGHAIを含めた申請者の名やパスポート番号などの個人情報もカットしてあります。
人数が4人になっていますが、これは同じ宿だった旅行者の名が混じっていたり、名を打ち間違えた部分を横線で消してあったり。
当時はタイプで打っていたから、マージン設定とかも面倒だったし、打ち間違えた部分を修正すると痕が汚くなったりで大変だったんですよ。
コンピューター時代のいまから思うと、すごいアナログな事をしていたのよねえ。
遠い目…。 -
これは、当時買った絵葉書の1枚なんですが、≪縫い物をしている家族≫としか注釈が無いんです。(;^ω^)
で、話があれこれ前後しますが、1992年9月に香港のフェニックスという旅行会社で取ったベトナム・ビザは300香港ドル。発給に二日かかりました。
この頃、香港九龍ネイザン・ロード沿いの雑居ビルには、小さなホステルや旅行会社がコチャコチャ入っていて、当時バックパッカー的な旅が多かったSUR SHANGHAIや旦那もけっこうお世話になりました。<(_ _)>
ベトナム行きの航空券も同じ旅行会社で手配してもらい、ベトナム航空の香港→ホーチミン市→ハノイ→香港が4500香港ドル。
これはベトナム到着後に内容を変更したんですが、それは今後の旅行記に記そうと思います。 -
これも当時買った絵葉書の1枚で、かつてのサイゴンのチョロンにあったという産科病院。現在はPHAM NGOC THACH病院、と出ていましたが、その≪現在≫というのも、この絵葉書を買った1992年の時点でのことです。
この旅行記を書いている2013年現在もあるのかな。
1992年9月当時のベトナムでは米ドルのT/Cも両替可能だったんですが、小さな町では現金のみ両替可、という所が多数でした。
当時のレートは1米ドル≒1万ドン。
一番レートがよかった時で1米ドル≒1万850ドン。
一度、一気に50米ドルを両替したら小額紙幣だらけで、物凄い厚さの札束になったことも。(ノω`*)
ところで、上記のT/C、今では「何、それ(・・?」と思う人もいるのかも?(;^ω^)ハハハ…。 -
これも当時買った絵葉書の一枚で、かつてのサイゴンにあったザ・カジノ。
現在は映画館になっていると言うんですが、その≪現在≫というのも、この絵葉書を買った1992年時点でのことです。
香港からベトナム入りした時の写真が発掘できていないんですが、ホーチミン市の空港から市内へは旅行会社が手配した無料シャトルバス。
ホーチミン市での宿は、当時のロンリープラネットで紹介されていた69 HAI BA TRUNG HOTEL。
名前のごとく、HAI BA TRUNG STREET(ハイバーチュン通り)の69番地にあった雑居ビルを改装したようなホテル。
周辺はゴチャゴチャしてましたが、シャワー、トイレ、扇風機付きのこざっぱりとしたツインが10米ドルでした。
今でもこのホテルは残っているらしいのに、2012年にホーチミン市を訪れた時には道の名前を忘れてしまって見に行けなかった。ドンコイ通りの近くだったのに…。
次にホーチミン市に行く時には、探してみようっと。
いまもあの時の面影は残っているだろうか…。 -
これは、当時郵便局で買ったベトナム戦争の様子をモチーフにした切手。
実際の大きさは、一枚が4×3cmほど。
左側の切手に出ている、撃墜された軍用機には、USAF(UNITED STATES AIR FORCE アメリカ空軍)と書かれています。
子ども用算数のテキストに、アメリカの軍用機を撃ち落して、残りの数を計算させる問題もありましたよ。 -
ホーチミン市内。
ここはどの街角だったかな。道の名の標識も写っているのに不鮮明で残念。
この頃のホーチミン市はまだ街の中は人も物も入り混じって混沌。
その中から何かが生まれて来るようなエネルギーが感じられた。
かつてサイゴンと呼ばれていた街がホーチミン市になったのは、南ベトナム陥落後の1975年から。
ホーチミン市の歴史や由来は、次のウィキペディアのページで見てみるといいですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%9F%E3%83%B3%E5%B8%82
ホーチミン市内は、徒歩のほか、シクロと呼ばれる自転車タクシー、自転車、それにオートバイも使ってみたSUR SHANGHAIとその旦那。
相場が分からず、シクロのおにいちゃんやおじさんたちにはボラれっぱなし。あとからホテルのスタッフに聞いてガッカリ。(-_-)
最初に相場を確かめておくのが大事と学習した旅。
レンタル・バイクは当時1日7米ドル。これは、泊っていたホテルで斡旋してくれました。 -
ホーチミン市内。
ここもどの街角だったかな…。
1992年のこの訪問以後、ベトナムには2,3度訪れましたが、その時の市街地は既にどこも暴走バイクでぎっしり。
この当時は、道を行くのは自転車とバイクが半々といった感じで、まだ通行人が割り込む隙間がありました。
この頃は、今のようにきれいに整備された見所や、ちょっといい雰囲気での買い物・食事が出来る場所が見当たらず、物乞いの人や子どもが多かったホーチミン市。
洗い晒したTシャツの格好で歩いていても、どこまでもついて来られたり、ちょっとした食堂で食事をしていると、痩せた子ども達が窓越しに中を覗いていたり…。
今と違って、外歩きが苦しい街だった。 -
これは、1992年には戦争犯罪展示館と呼ばれていた戦争証跡博物館のパンフレット。
この1992年当時の戦争犯罪展示館は、木造だったような気がするなあ…。
どうだっただろう。
写真が未発掘なのでお許しを。
ベトナム戦争時代、アメリカ軍が犯した戦争犯罪に関する展示がこれでもかと並んでいた戦争犯罪展示館。
展示館の目だつ場所に、枯葉剤の影響によって生まれた人間や家畜の子どもの奇形標本が展示されていたのを、いまも生々しく思い出す。
この展示館が1975年に設立された時には、アメリカ傀儡戦争犯罪展示館という名だったらしいのですが、2012年に再訪した時には、戦争証跡博物館と名を変え、建物自体もとても立派に生まれ変わっていてびっくり。
名を変えたのは1990年代で、アメリカ人旅行客への観光上の配慮だったんだとか。
2012年に訪れた時には、かつて見た上記の奇形標本の実物は見当たらず、写真展示になっていました。
その時にいただいたパンフレットも、1992年のこの画像のパンフレットと同じような装丁でしたが、上の方で言ったように展示館の名が変更されていたり、使われている写真が増えたほか、日本語での説明もついていました。 -
これは、戦争犯罪展示館(現・戦争証跡博物館)の中庭に展示されていたヘリコプター。
この頃は、空き缶で作った精巧なヘリコプターの模型があちこちの路上で売られていた。
一つ買って、当時の友人へのお土産にしたのよね。 -
ホーチミン市の中心からちょっと外れにあるお寺さんにバイクで行ってみた。
ただ、そのお寺さんの名前は何だったのか…。はて(・・?
覚園寺(ヤックヴィエン寺)、だったのかも…?
う〜ん。(-"-) 写真は数枚まとまって出て来ているのに、上の方に出した当時の資料には、なぜかこのお寺さんについての記述無し。
なんだか表通りから結構離れたお寺さんで、周りがこの画像のように萱葺きの民家やパゴダが並ぶ湿地になっていたり、その合間には門だけが残っていたり。
この門には漢字で『舎利…』と言う言葉が残っていたので、これもそのお寺さんの一部だったんでしょうね。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺。
この柱のある部分だけ見ると瀟洒で、お寺さんらしからぬ雰囲気。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の1階通路部分。
屋根が架かったテラス兼通路のようなスペースで、風通りを重視した造り。
そこかしこにテーブルや椅子が配置されてあったのがいい風情。 -
イチオシ
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の1階通路部分。
上掲の画像と同じく、テーブルや椅子が風通しのいい日陰に配されてあった。
それなのに、お坊さんや参拝者らしき人の姿が無かった午後のひと時。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の中を、一人でチョロチョロ歩き回っていた子。
あれ? お父さんやお母さんは?
写真を撮ろうとしたら、恥ずかしがって柱に抱き付いてしまった。
びっくりさせてゴメンね。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の内部。
屋根がちょっと破れている箇所があって、そこから入って来る日の光が間接照明のように柔らかかった。
誰もいないはずは無いのに、シーンと静まり返った寺の中。
写っている太鼓は、祭礼の時には盛んに打ち鳴らされるだろうに、この時には物も言わない置物のよう。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の霊安所。
1階通路の片隅にありました。
棚にずらりと並んでいる壷には随分カラフルな絵模様がついていて、ここがお寺さんじゃなかったら、陶磁器店かと思ってしまいそう。
罰当たりなSUR SHANGHAIでございます。お許しを。<(_ _)>
よく見ると、壺には故人らしき方々のお顔や名前も焼き付けてあって、線香の煙も漂っている。
「あ、これは骨壷なんだ。(-人-) 南無南無・・」
骨壷の数に比べて、若い顔がずいぶん多い気がする。
ベトナム戦争時に命を落とした兵士たちなのかも。
遺影はフレームに入れて置く位の日本。
国によっては、故人の面影をプレートに焼き付けて墓石や骨壷にまで貼り付ける風習のある所も。
文化の違いって不思議。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の屋根瓦。
一見すると中国風。
でも、よく見ると、陶器(?)の皿も装飾に使ってあって、ちょっとタイ風のモチーフもあったり。 -
覚園寺(ヤックヴィエン寺)らしき寺の塀。
なにやら向こう側から声がすると思ったら、男の子がヒョイと塀の上から顔を覗かせた。
こらこら、危ないぞ〜。 -
ここはサイゴン川の支流だったかな。
穏やかな流れに棹差して、こちら側に渡って来る人がいた。
このあと、同じ宿に泊まっていたアメリカ人一人旅バックパッカーに遭遇。
彼はホーチミン市のあとは列車で北上しようとしているらしかった。
「一緒に来ないか。」みたいな感じだったけど、SUR SHANGHAIとその旦那は、主要都市間は飛行機という計画でチケットも香港で買っておいたし、「ごめんね〜。」でスルー。
あのあと、無事にハノイまで行けたかな?
うんと若かった時って、旅先でも見知らぬ同士気軽に話が始まって、それからずっと縁が続いている人もいる。
あれはあれでいい時代だったな。(*^。^*) -
イチオシ
一度日帰りで、ホーチミン市からミトの町へ。
当時は道も悪くて公共の交通機関は便が悪く、いつ来るのかいつ着くのか分からない状態。
SUR SHANGHAIとその旦那はホテルが斡旋してくれた運転手さん付きプジョーを1日30米ドルで雇って行くことに。
これはその途中で見た、社会主義賛美の巨大看板。
看板の下にいる人と比べるとその大きさがよく分かります。
素朴な感想が一つ。
社会主義国の宣伝看板って、どこでもデカイ! -
イチオシ
ミトは、ホーチミン市の南西にあるメコン・デルタの町。
この当時、ホーチミン市から雇って行ったプジョーだと、片道2時間半はかかったような…。
到着後は運転手さんと待ち合わせ場所を決めて後は徒歩。
最初に行ってみたのはミトの路上市場。
メコン川の支流のバオディン川沿いにあったんじゃないかな。
カラフルな水瓶が並ぶチュンチャック通り。
大きな水瓶はベトナムでは貴重品で富の象徴って聞いたような気がする。
なのに、こんなに大量に積んであると、何となく拍子抜け。
のんびりした様子の売り子さんの前にはアヒルが行儀よく並んでガアガア。 -
ミトの路上市場。
大きなざるにはアヒルやガチョウのヒナがぎっしり。
ピヨピヨピーピー大賑わい。
ヒナを買いに来る人がいると、一度に何羽も手ですくって空いたざるに入れていたおばさん。
こうしてたちまちヒナたちは次々に買われて行きました。
なんだかちょっと残酷で可哀想。(´;ω;`)
いまどきだと、鳥インフルエンザ発生が怖い。
ベトナムでも、活きた鳥の販売禁止とか、予防策は立てているんだろうか。
こんな風景はもう無くなったかも? -
ミトの路上市場。
ヒナがぎっしり入った大きなざるがいくつもいくつも。
メコン・デルタの町だけあって、ニワトリよりもアヒルやガチョウの水鳥多し。
自分で飼うらしい人は、ざる単位でのまとめ買い。
自分の家そばの池や水路で飼うんでしょうね。 -
ミトの路上市場。
ヒナから育てる時間の無い方、今すぐの食事の材料が欲しい人は、こちらのお店で。
アジアではよく見かける風景。
日本でも、昔はこういうスタイルで鳥が売られていて、自分で絞めていたんじゃないかな。
いつから、今のように解体済みの部分別の肉として売られるようになったんだろう、と思う。 -
ミトの町。
ミトは、メコン・デルタにある町、と言うのがよく分かる町並み。
人々の交通路となっているメコン川の支流や、そこからまた枝分かれしている水路も多数。
船や民家が水路沿いにびっしり立て込んでいた。
ちょっと昔のバンコクのチャオプラヤー川沿いもこんな感じだったな。
通りかかったフェリーにカメラを向けると、目ざとく見つけた人たちが手を振ってくれた。ヾ(´ー`)ノ -
ミトの町。
バオディン川沿いのチュンチャック通りを、ミト川(メコン川の支流)方向へ向かって歩く。
途中には、やけに派手なカーテンをかけたドアがいくつか並ぶ建物が。
旦那が「おい、このドア…、」
「何?」
「夜になったら、おねえちゃんが立つんじゃないか?」
「 (怒▼ω▼)! 」 -
ミト市街地を抜けて、ミト川(メコン川の支流)の岸に出た。
小船を漕ぐ人がシルエットになる昼下がり。
川幅が思っていたほど広く見えないのは、川中島があるため。
ミトと対岸の間には、トイソン島、フーン島、ロン島、クイ島の四つの島が横たわる。
この島はロン島だったかな。 -
金色の流れになったミト川(メコン川の支流)。
この画像だと、右手が上流。
メコン川は、チベット高原に流れを発し、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、そしてベトナムと、いくつもの国境を次々に通って南シナ海に注ぐ川。
その延長は4023km。
このミトを通り過ぎたら、もうすぐ長い旅の終わりだね。 -
同じミト川(メコン川の支流)の川中島でも、民家が立ち並ぶ島も。
これはフーン島だったかな。
結構賑やかに見えた。
ミトを通り抜けると、もうすぐメコン川の終点の南シナ海。
これまでに通ってきた国々の土を溶かし込んだ水の色はまさに土の色。 -
イチオシ
ミト川(メコン川の支流)の川中島に小舟で渡ってみようか、と言っているうちに、ゴロゴロと聞こえて来た遠雷。
さっきまで晴れていた空が見る見るうちに暗くなってきた。
ミト川上流方向を見ると、「あ、スコールがやって来る!」
雨が降っている場所が、肉眼でもくっきり。 -
せっかく、ミト川(メコン川の支流)の川中島にも小舟で行ってみたかったのに、このあとすぐに猛烈なスコールに包まれてしまい、雨宿りの場所を探すだけで一苦労。
ひゃ〜、あの時ボートに乗っていたら、ぐしょぬれになるところだったね!
ふぅε-(´ωノ|┬
結局、この時には行けなかった川中島。
今では島巡りのフェリー・ツアーもあるらしいから、次にミトに行くことがあれば乗ってみてもいいな。
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この旅行記へのコメント (2)
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- belleduneさん 2013/06/26 11:03:45
- 懐かしいですね...
- SUR SHANGHAIさん、1992年にいらしたのですね。私がホーチミンへ行ったのは、1999年10月でした。サイゴン市からホーチミン市へと移行し、街中は外資系ビルの建設が盛んでした。
個人旅行だったので、ビザの取得が結構面倒でしたが、その頃は、アフリカへよく旅行していたため、税関で,私だけパスポートとPCを見比べて、相当時間が掛かっていました。翌日、ホテルで教えて貰った旅行会社で、日帰りのメコン川に行き、地元の小舟のお兄さんと交渉して、翌日から1泊のカントーへの旅行を計画して貰いました。潜りですが、他に手段がないため、彼の車で妹やその友人など3人で、カントーへの旅行でした。
2、3回フェリーで川を渡り、カトリーヌ・ドヌーブの「インドシナ」を夕暮れのメコン川を眺めながら、思い出していました。
その内、北部へも行ってみたいです。
またお邪魔します。
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2013/06/28 07:10:09
- RE: 懐かしいですね...
- はい、行ってみました〜。(^◇^)
今はもうすっかり優雅な旅の選択できる所になったベトナムも、この頃は人も物も入り混じってゴチャゴチャとした混沌の中から何かが生まれつつあると言った雰囲気でした。
惜しいのは、その頃はただでさえフィルム節約時代だったので、撮った写真自体がうんと多くは無いこと、そして行方不明になっているネガや写真の方が多い事。
当時の雰囲気が伝わらず、もどかしいほどです。(-_-)
追加すべき写真などが出て来たら、あとからでも載せて行こうと思っています。
belleduneさんの1999年ベトナム旅行記、アップしてありましたっけ?
後ほどお伺いいたします。
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