2010/01/09 - 2012/10/06
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鎌倉市植木・城廻には玉縄城址が残る。玉縄城は相模国鎌倉郡玉縄村にあった平山城である。永正9年(1512年)に、三浦氏攻略のために北条早雲によって築かれ、元和の一国一城令により元和5年(1619年)に廃城になった。
元禄以前には相模国鎌倉郡玉縄村があり、元禄年間に植木村が分離し、正保年間(17世紀中頃)に城廻村貞宗寺持であった関谷地蔵堂付近が相模国鎌倉郡関谷村になっている。また、幕末には、関谷村、岡本村、植木村、城廻村は旗本領となっていた。どうやら、幕末には玉縄村は無くなっていたようだ。しかし、明治22年(1889年)4月1日の町村制施行に伴い、岡本村、城廻村、植木村および関谷村が合併し、玉縄村が成立する。その後、鎌倉郡玉縄村は昭和8年(1933年)4月2日に鎌倉郡大船町に編入された。おそらくは、この時点で玉縄の地名は再び消滅してしまったのであろう。しかし、玉縄村に編入された関谷地区(大字関谷)の南側の字山居付近が、昭和44年(1969年)になって玉縄2・4-5丁目として分離されている。玉縄1・3丁目の由来は不明である。
このように、玉縄の地名はWebで調べても不詳である。しかし、それ以上に不詳なのはこの地にあった玉縄城であろうか。
玉縄城はこうした地元の人たちは誰もがそまつな山城であったと信じている。玉縄城址には石垣さえもなく、そうした「そまつな城」観を生んでいる。しかし、関東甲信越以北では石垣に覆われた城などそう多くはない。石垣が積まれた城址では、小田原城、松本城、甲府城、新発田城、村上城、江戸城、会津若松城、小峰白河城、白石城、仙台青葉城、盛岡城、弘前城などがあるが、土塁だけで石垣がない城の方が断然に多いのである。川越城のように、石垣は無くても立派な本丸御殿が残っていたりする。したがって、石垣がないことが「そまつな城」であったことにはならず、普通の一般的な城であったと認識すべきである。
玉縄城址近くの植木小の校門は冠木門であるが、これは玉縄城の城門をイメージしているという。城門としては殆んど見掛けない冠木門であり、強固な城門といったイメージは湧かないのが実情であろうか。それでも、玉縄藩2万2100石の居城に相応しい城門は存在したはずだ。しかし、石高2万2千石余りの小藩の居城は全くといってよいほど見てはいないので城の実態が思い浮かばない。
忘れてはならないことは、玉縄城内諏訪壇には神社(諏訪社)があり、城内には城中、城外の平安を祈る祈願所として護城山円光寺があったとされている。城内に神社を祀った例は多いが、城内に寺院を建立していた城は萩城(城内に満願寺、妙玖寺など)(山口県)、黒瀬城(城内に光教寺)(愛媛家)、三木城(城内に雲龍寺)(兵庫県)と織田信長が築城した安土城(城内に總見寺(「そう」は手偏))(滋賀県)くらいで、城郭寺院である誓願寺は姫小川城の城内で一郭を成していた可能性もあるというくらいしかない。しかも、江戸時代の元和元年の1国1城令まで存続していたのは萩城、三木城とここ玉縄城だけである。
安土城よりも60年余り前に築城された玉縄城であるから、石垣が積まれることもなく、最上段には天守ではなく諏訪社が建ち、それでも本丸には本丸御殿に相当する建物が建っていたであろう。その本丸御殿が周りの諏訪社や円光寺よりも著しく見劣りすることなど有り得ないことだ。
(表紙写真は玉縄城本丸跡にある清泉女学院中学高等学校グランド)
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「玉縄城址緑地保全地区」の看板。七曲坂あたりは緑地保全地区になっており開発はされないのだ。
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ここの山道は「七曲坂」と名が付いているようだ。下水道管を埋めただけの戦後・昭和の代物か。コンクリートの階段もある。
本来は、七曲坂を上がると大手門があったのであろう。 -
清泉女学院中学高等学校グランド下から近道して降りる山道の「七曲坂」。
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「陣屋坂もず公園」コーナンを過ぎたコンビニから長い坂を上るとある。城下に陣屋などあるだろうか?玉縄城廃城後に陣屋が置かれ、それに由来する地名であろう。
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玉縄城の土塁。
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玉縄城の土塁。
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玉縄城の土塁。
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玉縄城の土塁。
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玉縄城の土塁。
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玉縄城の土塁。
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玉縄城の土塁。
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「玉縄城址」石碑(大正15年 1月、鎌倉同人会)。清泉女学院中学高等学校正門横、諏訪壇登り口にある。学校事務所で入場許可書に記入すると見学できる。
昭和38年(1963年)に清泉女学院中学高等学校が玉縄城跡に移転してきたが、大正15年(1926年)当時からこの地にあるのなら、一番高い諏訪壇が玉縄城址を象徴すると考えられていたのだろう。 -
史跡碑横には「諏訪壇」へ登る階段がある。
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「諏訪壇」上。 それでもテニスコート3面分くらいはあろうか?
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「諏訪壇」から降りる階段。
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「諏訪壇」から降りる階段。
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清泉女学院中学高等学校グランド。本丸部分に相当しようか。
昭和38年(1963年)に清泉女学院中学高等学校が玉縄城跡に移転してきて平地にしたのだろうが、随分と広い。 -
植木小校門。
植木小の開校は昭和60年(1985年)であるが、その時に玉縄城の城門をイメージして建てられたという。それ以来、植木小の卒業生は玉縄城の城門をイメージして、お城の建物も砦程度で丸太組のようなイメージを持っているようだ。
周りに玉縄1〜5があるが、玉縄2・4-5丁目は昭和44年(1969年)になって大字関谷の南側の字山居付近が分離したものである。どうやら、玉縄城址は玉縄1〜5には含まれないようである。しかし、玉縄の名は岡本や岡本2などにも散見され、玉縄城の周りは通称玉縄で通っていたのであろう。 -
諏訪・御霊神社。
玉縄城主北条綱成(つなしげ)公が軍神の称ある信州諏訪の建御名方富命(たてみなかたとみのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)二座の神霊を勧請し、諏訪壇に祀っていた諏訪神社が、元和5年(1619年)に、玉縄城が廃城となり、鎌倉権五郎景政一門の霊を祀った御霊神社がこの地にあったので、この御霊神社と諏訪神社が合祀されて現在に至る。 -
城護山円光寺本堂。
元和5年(1619年)、玉縄城が廃城となってから現在の場所に移ってきた。
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