サンクトペテルブルク旅行記(ブログ) 一覧に戻る
サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって、1703年に築かれた人工の都市です。北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸に、新しい都として建設されています。建設前のサンクトペテルブルク一帯は、荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞を同時に建設されるなど、建設作業は苛酷なもので、多くの人命が、病や飢えなどで失われ、その数は4万人以上ともいわれています。<br /><br />建設後は、ロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう、歴代の皇帝により整備が行なわれました。1712年にモスクワからサンクトペテルブルクに遷都、1714年にはピョートル大帝の夏の宮殿が、1725には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬の宮殿が完成、ネフスキー大通りが整備され、冬の宮殿を中心とした放射状の街並みが作られました。1757年には演劇アカデミーが創設され、エカテリーナ2世時代の1762年には、冬の宮殿の一角にエルミタージュ美術館が開設されています。<br /><br />1764年には、スモーリヌイ修道院が、1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設され、1837年にはサンクトペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間に、ロシア初の鉄道が建設され、1851年にはサンクトペテルブルクとモスクワ間の鉄道が完成しています。この頃からロシアの近代化が急速に進み始めます。1858年には聖イサク大聖堂、1907年には血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建設物が相次いで建築され、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りの中心に豪壮な建築物が建ち並ぶようになっていきます。<br /><br />1917年のロシア革命では、二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制度会議の解散が行なわれ、共産党の1党独裁体制が成立します。その後、ソヴィエト政府は外国からの干渉を恐れ、1922年に首都をより国境から遠いモスクワに移転したため、サンクトペテルブルクの、約200年間の首都としての栄光と栄華も終焉を迎えました。<br /><br />第二次世界大戦中には、ドイツ・フィンランド両軍を主力とする枢軸軍により、約900日にわたり包囲(レニングラード包囲戦)を受けたが、凍結した湖から細々と物資輸送を行なうなど耐え抜きました。戦後もレニングラードは、ソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯からモスクワとは違う文化や風土を維持しています。1991年のソ連崩壊後、レニングラードは、再びサンクトペテルブルクへと名前が戻りました。現在のサンクトペテルブルクは、開放的でヨーロッパ的、そして文化・芸術の町です。保守的でロシア的、政治・経済の町であるモスクワとは、対照的な町として発展しています。<br /><br />

ロシアの旅(7)・・ロマノフ王朝の栄華と終焉の地、サンクトペテルブルクを訪ねて

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2012/07/18 - 2012/07/18

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YAMAJI

YAMAJIさん

サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって、1703年に築かれた人工の都市です。北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸に、新しい都として建設されています。建設前のサンクトペテルブルク一帯は、荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞を同時に建設されるなど、建設作業は苛酷なもので、多くの人命が、病や飢えなどで失われ、その数は4万人以上ともいわれています。

建設後は、ロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう、歴代の皇帝により整備が行なわれました。1712年にモスクワからサンクトペテルブルクに遷都、1714年にはピョートル大帝の夏の宮殿が、1725には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬の宮殿が完成、ネフスキー大通りが整備され、冬の宮殿を中心とした放射状の街並みが作られました。1757年には演劇アカデミーが創設され、エカテリーナ2世時代の1762年には、冬の宮殿の一角にエルミタージュ美術館が開設されています。

1764年には、スモーリヌイ修道院が、1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設され、1837年にはサンクトペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間に、ロシア初の鉄道が建設され、1851年にはサンクトペテルブルクとモスクワ間の鉄道が完成しています。この頃からロシアの近代化が急速に進み始めます。1858年には聖イサク大聖堂、1907年には血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建設物が相次いで建築され、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りの中心に豪壮な建築物が建ち並ぶようになっていきます。

1917年のロシア革命では、二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制度会議の解散が行なわれ、共産党の1党独裁体制が成立します。その後、ソヴィエト政府は外国からの干渉を恐れ、1922年に首都をより国境から遠いモスクワに移転したため、サンクトペテルブルクの、約200年間の首都としての栄光と栄華も終焉を迎えました。

第二次世界大戦中には、ドイツ・フィンランド両軍を主力とする枢軸軍により、約900日にわたり包囲(レニングラード包囲戦)を受けたが、凍結した湖から細々と物資輸送を行なうなど耐え抜きました。戦後もレニングラードは、ソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯からモスクワとは違う文化や風土を維持しています。1991年のソ連崩壊後、レニングラードは、再びサンクトペテルブルクへと名前が戻りました。現在のサンクトペテルブルクは、開放的でヨーロッパ的、そして文化・芸術の町です。保守的でロシア的、政治・経済の町であるモスクワとは、対照的な町として発展しています。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
3.5
交通
3.5

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  • ホテル・スモルニンスカヤのレストランです。<br />昼食を頂きました。ロシアの食事にはがっかりしていましたが、今日は違いました。レストランの雰囲気も良いし、食事にも満足でした。

    ホテル・スモルニンスカヤのレストランです。
    昼食を頂きました。ロシアの食事にはがっかりしていましたが、今日は違いました。レストランの雰囲気も良いし、食事にも満足でした。

  • まずはスープです。<br />野菜のうま味を活かした、野菜スープです。

    まずはスープです。
    野菜のうま味を活かした、野菜スープです。

  • メインのビーフストロガノフです。<br />肉やキノコが、ホワイトソースでじっくり煮込まれた、ロシアの家庭料理です。

    メインのビーフストロガノフです。
    肉やキノコが、ホワイトソースでじっくり煮込まれた、ロシアの家庭料理です。

  • チェリーのジュースも頂きました。

    チェリーのジュースも頂きました。

  • サンクトペテルブルク最古のスーパーに立ち寄りました。

    サンクトペテルブルク最古のスーパーに立ち寄りました。

  • お目当てのチョコレート売り場へです。<br />今回の旅行では、チョコレートとチェブラーシカのマトリョーシカと蜂蜜酒(ノンアルコール)を買いました。

    お目当てのチョコレート売り場へです。
    今回の旅行では、チョコレートとチェブラーシカのマトリョーシカと蜂蜜酒(ノンアルコール)を買いました。

  • お目当てのチョコレートのひとつ、アリョンカちゃんのチョコです。

    お目当てのチョコレートのひとつ、アリョンカちゃんのチョコです。

  • スモーリヌイ聖堂です。<br />スモーリヌイは、エリザヴェータが女子教育の場として、18世紀に修道院を開設したことに始まります。その後エカテリーナ2世が女学校を開き、ロシアの女子教育の礎を築いた場所です。

    スモーリヌイ聖堂です。
    スモーリヌイは、エリザヴェータが女子教育の場として、18世紀に修道院を開設したことに始まります。その後エカテリーナ2世が女学校を開き、ロシアの女子教育の礎を築いた場所です。

  • 旧女学校(市庁舎)です。<br />1917年10月25日にレーニンが、ソビエト政権樹立を宣言した場所で、翌1918年に首都がモスクワに移されるまで、ここが、ソビエト政府の中枢でした。

    旧女学校(市庁舎)です。
    1917年10月25日にレーニンが、ソビエト政権樹立を宣言した場所で、翌1918年に首都がモスクワに移されるまで、ここが、ソビエト政府の中枢でした。

  • ネヴァ川と川岸です。

    イチオシ

    ネヴァ川と川岸です。

  • 巡洋艦オーロラです。<br />ロシア革命(1917年10月革命)の始まりを合図して、冬宮に向かって発砲したのがこの巡洋艦オーロラ号です。1905年の日本海海戦に参加して、日本軍の砲撃を受け大きな損傷を受けています。

    巡洋艦オーロラです。
    ロシア革命(1917年10月革命)の始まりを合図して、冬宮に向かって発砲したのがこの巡洋艦オーロラ号です。1905年の日本海海戦に参加して、日本軍の砲撃を受け大きな損傷を受けています。

  • 大きな帆船レストランも、接岸されていました。

    大きな帆船レストランも、接岸されていました。

  • 大型クルーズ船も接岸しています。<br />バルト海クルーズの途中に立ち寄った船でしょうか。

    大型クルーズ船も接岸しています。
    バルト海クルーズの途中に立ち寄った船でしょうか。

  • ヴァシリエフスキー島の先端の岬、ストリェールカからネヴァ川を見たところです。

    ヴァシリエフスキー島の先端の岬、ストリェールカからネヴァ川を見たところです。

  • 中央海軍博物館です。<br />1810年に建てられた旧証券取引所で、現在はピョートル大帝の模型コレクションを基にした博物館になっています。

    中央海軍博物館です。
    1810年に建てられた旧証券取引所で、現在はピョートル大帝の模型コレクションを基にした博物館になっています。

  • ロストラの燈台柱です。<br />ストリェールカの先端に建つ、昔の燈台で、高さ32mあり、1810年に建てられています。

    ロストラの燈台柱です。
    ストリェールカの先端に建つ、昔の燈台で、高さ32mあり、1810年に建てられています。

  • ペトロパヴロフスク要塞です。<br />1703年から建築が始まった要塞で、サンクトペテルブルクの発祥の地です。当時強国だったスウェーデンと対峙するために、ピョートル大帝によって造られた要塞です。実際に要塞としての役目を果たすことはなく、おもに監獄として利用されていました。

    ペトロパヴロフスク要塞です。
    1703年から建築が始まった要塞で、サンクトペテルブルクの発祥の地です。当時強国だったスウェーデンと対峙するために、ピョートル大帝によって造られた要塞です。実際に要塞としての役目を果たすことはなく、おもに監獄として利用されていました。

  • ペトロパヴロフスク聖堂です。<br />要塞の中心に建つ18世紀初めに建設された教会で、鐘楼の高さは122mあります。ピョートル大帝とそれ以降の歴代の皇帝が埋葬されており、皇帝一族の墓所となっています。

    ペトロパヴロフスク聖堂です。
    要塞の中心に建つ18世紀初めに建設された教会で、鐘楼の高さは122mあります。ピョートル大帝とそれ以降の歴代の皇帝が埋葬されており、皇帝一族の墓所となっています。

  • モイカ川に幅99mの橋が架かっています。

    モイカ川に幅99mの橋が架かっています。

  • マリインスキー宮殿です。<br />19世紀半ばに建てられた新古典主義様式の建物で、迎賓館や議事堂として利用され、現在は市議会が置かれています。

    マリインスキー宮殿です。
    19世紀半ばに建てられた新古典主義様式の建物で、迎賓館や議事堂として利用され、現在は市議会が置かれています。

  • イサク広場の中央に建つ、ニコライ1世の馬上像です。

    イサク広場の中央に建つ、ニコライ1世の馬上像です。

  • イサク聖堂です。<br />帝政ロシアのシンボルとして、1858年に建設された大聖堂です。高さ101.5m、左右の幅が97.6m、奥行きが111.3mで、収容人員1万4000人を誇る、世界でも最も大きな教会建築のひとつです。

    イサク聖堂です。
    帝政ロシアのシンボルとして、1858年に建設された大聖堂です。高さ101.5m、左右の幅が97.6m、奥行きが111.3mで、収容人員1万4000人を誇る、世界でも最も大きな教会建築のひとつです。

  • 青銅の騎馬像です。<br />デカブリスト広場の中央に建つ、ピョートル大帝像で、1782年に大帝の後継者を自認するエカテリーナ2世により建てられています。

    青銅の騎馬像です。
    デカブリスト広場の中央に建つ、ピョートル大帝像で、1782年に大帝の後継者を自認するエカテリーナ2世により建てられています。

  • カフェ「MUMU」です。<br />夕食を頂きました。店の入口では、「コサックの衣装と寝そべる犬」の彫刻がお出迎えです。

    カフェ「MUMU」です。
    夕食を頂きました。店の入口では、「コサックの衣装と寝そべる犬」の彫刻がお出迎えです。

  • 店内では、「等身大のおじさんの銅像」がお出迎えです。

    店内では、「等身大のおじさんの銅像」がお出迎えです。

  • 店内風景です。<br />壁一面に絵画が飾られている店内は、昔懐かしい、落ち着いた雰囲気です。

    店内風景です。
    壁一面に絵画が飾られている店内は、昔懐かしい、落ち着いた雰囲気です。

  • メインのジャルコーエ(壺煮込み料理)です。<br />野菜と肉を煮込んだ、ロシア風「肉ジャガ」です。壺の中に入っており、熱々を頂きます。美味しかったです。

    メインのジャルコーエ(壺煮込み料理)です。
    野菜と肉を煮込んだ、ロシア風「肉ジャガ」です。壺の中に入っており、熱々を頂きます。美味しかったです。

  • グリポエードフ運河です。<br />楽しみにしていた、運河クルーズは、波が高く実現しませんでした。シャンパンとキャビアそして、ショー付きで8000円でしたが残念でした。

    グリポエードフ運河です。
    楽しみにしていた、運河クルーズは、波が高く実現しませんでした。シャンパンとキャビアそして、ショー付きで8000円でしたが残念でした。

  • 血の上の救世主教会です。<br />1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建つ教会で、25年の歳月をかけて1907年にアレクサンドル3世によって建てられています。

    イチオシ

    血の上の救世主教会です。
    1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建つ教会で、25年の歳月をかけて1907年にアレクサンドル3世によって建てられています。

  • 血の上の救世主教会です。<br />内外装とも、豪華なモザイクで覆われた、壮大な建築物です。

    血の上の救世主教会です。
    内外装とも、豪華なモザイクで覆われた、壮大な建築物です。

  • 正面上のモザイク画です。

    正面上のモザイク画です。

  • ネフスキー大通りです。<br />旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー修道院まで延びる、サンクトペテルブルクの目抜き通りです。

    ネフスキー大通りです。
    旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー修道院まで延びる、サンクトペテルブルクの目抜き通りです。

  • 大通りに面している、食料品店の「エリセーエフスキー」です。<br />1903年にエリセーエフ商店として建てられた、モデルン建築の代表作です。

    大通りに面している、食料品店の「エリセーエフスキー」です。
    1903年にエリセーエフ商店として建てられた、モデルン建築の代表作です。

  • 小路のカフェテラスです。

    小路のカフェテラスです。

  • 小路は歩行者天国でした。

    小路は歩行者天国でした。

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