2016/12/11 - 2016/12/11
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佐倉市と言えば京成線。都内への通勤圏としてはぎりぎりこの辺りまでかなあというイメージくらいしかありませんでしたが、調べてみると下総の豪族で頼朝を援けたことでも知られる名門、千葉氏の後期の本拠地、本佐倉城はここにあったし、江戸時代は堀田家佐倉藩の城下町としての歴史もある。これは街歩きすると面白そうなところであることが分かってきました。となれば、行ってみるしかないでしょう。
さらに調べると、佐倉城は、徳川秀忠・家光の時代に絶大な権勢を誇った土井利勝が、徳川家康の命を受け築いた城。土井利勝は、ほどなく、古河藩に移封となりますが、その後を受けた下総佐倉藩初代藩主、堀田正亮も大物。佐倉藩主となってすぐに老中首座。1万石の加増も受けています。ちなみに、堀田家が幕府の重臣として重きをなすようになるのは、堀田正亮の曽祖父の堀田正盛から。堀田正盛は春日局の義理の孫であることから徳川家光の近習に抜擢され、頭角を現します。その子、堀田正俊も、家光の子、徳川家綱の小姓となり、大老へ。
言わば、春日局という大きな後ろ盾と平和な時代の才覚で出世した家柄。江戸近くに居城があり、宮仕えに徹すれば心配はいらない身分ですが、その分、地味な印象はぬぐえません。
ただ、そんな中にあって、一瞬現れた幕末の光芒。開国への思いも危機を迎えた徳川家への忠誠心に基づくものだったような気もします。
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京成佐倉駅に到着。佐倉市の散策は、ここから始めます。
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ここは、駅の正面にあるパンと洋菓子のお店。コーヒークリームのドックがずらりと並んで、今売出し中のようですね。パンとコーヒーって合わないはずはない組み合わせ。それを柔らかいパンとマイルドな甘さで上質に仕上げています。佐倉の街歩きの前に気分よくいただきました。
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さて、まず訪ねたのは海隣寺。佐倉市街でも一段高い場所にあって、石段をけっこう上っていくさみしい道。近道なので仕方ないと思いますが、ちょっと変な道でした。
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境内に寺の歴史が書かれた説明板。それによると本佐倉城主であった千葉氏歴代の五輪の塔があるとのこと。お寺の人に聞くと飛び地境内にあるということで、あとで、そちらを訪ねてみました。
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海隣寺の境内端っこに建つ熊野神社。
ちなみに、海隣寺は時宗。その開祖、一遍は熊野参詣の折、熊野権現のお告げを聞き、開眼するということがあった人ですから、時宗と熊野の縁は深い。
なので、自然な感じに思えたのですが、お寺のひと曰く。神社はうちとは関係ありませんとのこと。確かにそうかもしれませんけど、ちょっと傷みもひどくなってきているようだし、ちょっと考えた方がいいような気もしました。 -
イチオシ
先ほど聞いた石塔。千葉氏は戦国時代に内紛もあり滅びていますが、本来は頼朝を助けた大立者。これでなんとか面影を偲ぶことができました。
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ここから、また細い道を下って。
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続いては、重願寺です。真宗大谷派の寺ですが、近くの路地にはこの寺を示す標識がいくつかあって、佐倉市では見どころという位置づけにはなっているようですね。
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ただ、山門とか申し訳程度の構えだし、山蔭の陰気な場所。観光案内には誰かの墓があるとかも紹介されていましたが、探そうと思ってもよく分からない。観光というには限界がある寺ではないかと思います。
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そこから、愛宕神社へ。この辺りは山蔭に隠れた小さな集落で、この神社もその集落の鎮守という域は出ていないと思います。
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ちょっとあるとすれば、佐倉の秋祭りの神社のうちの一社だということくらい。正面に絵馬が掛けてあって、見ると一乗谷の戦いの敦盛。寂しい神社ですが、ちらり華やかなものを見つけました。
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さて、今度は国立歴史民俗博物館にやってきました。
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国立歴史民俗博物館があるのは、佐倉城跡。
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佐倉にあるくらいなので、ローカルな博物館と思ったらさにあらず。
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イチオシ
さすが国立という充実の内容です。
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名前の通りに日本全体の歴史民俗を総合的に展示解説するなんて、本来は途方もないことなんですが、
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それを平気でやってのけている。
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ただ、そうすると、普通の人だとその場所がどこにあるのか、どんなところなのかのイメージがないので、なかなかいろんな情報や知識がすとんと落ちないのではないかとも思います。
さて、権勢をほしいままにした道長ですが、浄土への思いも人一倍。熊野詣でも頻繁に行っています。 -
そして、これは藤原道長の経筒。経筒は、56億7000万年後にこの世に現れる弥勒菩薩へ宛てたタイムカプセルです。
末法思想の広がりから鎌倉仏教という大衆仏教へと発展するのはもうちょっと先。まだまだ仏教は幼稚な時代です。
参考:http://4travel.jp/travelogue/11008018 -
荘園の絵図ですね。律令国家の考え方は土地や人民は国家のもの。それを抜け出すために、有力貴族や寺院に土地を寄付する。荘園は国家の基盤を揺るがす獅子身中の虫だったのですが、わが身さえよければという貴族にとっては豊かな財政の元となりました。
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瀬戸内海の航路図ですが、備前焼の伊部に朝鮮通信使の牛窓、オリーブの小豆島。今でも当時の繁栄の名残りがないことはないですね。
陸路に比べれば、海路は物資も多く運べるし、その威力は比べ物にならない。そして、波穏やかな瀬戸内海が他の地域に一歩先んじて発展したのは当然です。清盛が日宋貿易に着目し、合わせて音戸の瀬戸など瀬戸内海の航路を整備する。さらに古くは、三韓征伐の神功皇后。飛鳥時代の聖徳太子が難波津から大和への道を重視したり、天智天皇は逆に新羅を恐れて大津へとか。瀬戸内海は中国、朝鮮への窓口でもあり、特別な地域だったわけですね。 -
同じ瀬戸内海の草戸から出土した食器など。
日本には七つしかない国宝の五重塔の一つがあって、それは民衆の力によって建てられたもの。瀬戸内海をバックにした民度の高さが窺われます。 -
一方の関東では。周囲を塀や堀が囲んで、館といった感じ。土地を開墾し、自らの所領を広げていく武士の力が蓄えられる。
しかし、その所有権は律令制の建前の前では儚いもの。一所懸命という言葉もここから生まれます。 -
元寇のイメージが強い鎌倉時代ですが、平安時代から続いた宋との貿易は盛んだったよう。博多と並んで、坊津ですか。坊津は前々から気になっている場所。いつか行かないと収まりがつかないかなと思います。
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鎌倉の地形。周囲を山に囲まれて、防御しやすい地形です。今でも切り通しややぐら、谷(やつ)は鎌倉観光の見どころでしょう。
参考:http://4travel.jp/travelogue/10885053 -
さて、鎌倉幕府を支えた関東の武士団。平家が滅びても平氏系の豪族はあまたいます。しかし、その平氏系の豪族にとっても所領安堵をしてくれるのは、やっぱり鎌倉幕府。その恩に報いるための「いざ鎌倉」です。
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同じように守りに固かったのは、朝倉氏の根拠地、一乗谷。こうした狭い場所にも京都の雅な文化が根付いていたことが知られます。
最後は信長に滅ぼされますが、結局、天下統一の理念に対抗するものはなかったというしかないでしょう。 -
3日3晩燃え続けたと言われる一乗谷からは今でも多くの遺物が出土します。そうしたこともあって、福井県では観光スポットとしての復権が目覚ましくて、喜ばしいことだと思います。
参考:http://4travel.jp/travelogue/10734605 -
イチオシ
中世の街並み。平安時代はまだ竪穴式の住居に住んでいた人も多かったと思いますが、だんだんと豊かな地域もでてきます。通りの中心に小川が流れて清潔な空間となっています。
つまり、街にはこうした水の流れが必要。なので、街の出来たのは傾斜地が多かったんです。今だと平地のイメージですが、水の流れる地形が本来は基本です。会津なんかも傾斜地であることが、街の発展の一つの要因。タモリじゃないですが、傾斜はとっても大事です。 -
人が集まるところに文化が生まれ、行事や祭りが整えられる。京都の例ですが、こうしたことも社会の秩序を作り、生活を安定させることとなったのではないかと思います。稲作によって、人々が組織化されたことはよく知られていますが、人が集まる街でも結果としてこうした動きになるのは自然なことのように思います。
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商品経済の発達は専門の戦闘員としての武士の存在を可能にする。
経済の発展が社会構造を形造っていくというのは、マルクスの経済学の基本的な考え方です。 -
イチオシ
鎖国までの期間でしたが、江戸時代の初期まで続いた朱印船貿易は、東南アジアの各地を駆け巡ります。もちろん、南蛮船も頻繁に来航し、日本人はこれを積極的に吸収する。そして、それが日本文化の彩りを豊かなものにしたんですね。
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ところで、日本は島国だから日本の文化も純粋培養的なものと思っている人も少なくないと思いますが、それはまったくの理解不足。私に言わせれば、日本の文化の爆発は3回あって、それは天平時代、安土桃山時代、明治時代。いずれも海外の文化と触れ合うことで今では最も日本的なものといわれるものが生まれているんです。
御朱印線や南蛮船の時代に生まれた茶の湯もそうした背景があってのこと。千利休、古田織部、小堀遠州など。美意識の中には海外の文化を意外に多く取り入れていて、びっくりするくらい。織部焼の緑は東南アジアがルーツだし、小堀遠州の直線を多用した作庭は西洋の庭園技術を取り入れたもの。日本文化は海外の文化に触れた時に逆に日本的なものが生まれるという不思議な力を持っているんですが、ここのところは和辻哲郎の世界ですね。 -
出島の屏風絵。出島はオランダ貿易として認識されていますが、中国との貿易も続いて行く。有田の柿右衛門の色絵も中国の知識を得てのもの。日本はそれによって磁器の生産が本格化しますが、中国の焼き物はその後さらに発展を遂げて、最高峰は清朝時代の粉彩。これは西洋のホーローの技術を入れたものなんですが、結局、日本は中国からするとひと時代前の技術を発展させただけ。鎖国でなければ、もっとちゃんと技術導入できたのか。ただ、明治期になってから、紛彩を知った日本人はあまり興味を持っていなかったようだし、そこはちょっとよく分かりません。
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江戸期の町人文化を知る発掘品。江戸時代は町人文化が勃興した時代と位置付けられていますが、私はそれにはちょっと違和感あり。武家の文化の熟成は江戸の初期で終わったものというのは短絡的。徳川政権を倒した明治政府の偏見もあったような気がします。
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東海道の行き来だとか、楽しい時代に入りましたね。
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旅に適したコンパクトな道具類。コレクションとしてはけっこうよく見かけるもの。今でも人気があるのだと思います。
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伊勢参りの賑やかさ。平和な時代を謳歌する、日本史では珍しい時代。家康の偉大さは、もう少し評価されていいかもしれません。
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華やかな着物も技術進歩の賜物。木綿に絹。染め物の技術も合わせ、各地で生産力が向上して、いい時代ということでしょう。
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イチオシ
ただ、人間は経済的に豊かになるだけでは満足しない。幕末に突然やってきた黒船ですが、それまでには幕藩体制、封建制という不自由な状態を疑問に思う人たちも増えつつあって、大塩平八郎の乱とか、新しい時代を期待するエネルギーは蓄積されていたというのが大事なところでしょう。
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明治維新の素晴らしい吸収力は、江戸時代の蓄積もとても大きなことだったと思います。
一方で、明治維新は、例えば、坂本龍馬の薩長同盟とかで理解するのは司馬遼太郎の影響でしょうか。どうも時代背景というか、時代の流れがよく理解されていない。大佛次郎の「天皇の世紀」みたいに、ちゃんと時代背景を描かないと真の理解にはつながらないと思います。 -
そして、日清・日露戦争。坂の上の雲の世界ですが、日本がアジアの国として初めて列強の仲間入りをするというサクセスストーリー。ここから結局は太平洋戦争に進むのですが、実は、そこのところはまだきちんと解明されていないかもしれません。
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満州事変から日中戦争というのは、大陸進出が侵略戦争の本性を現したもの。司馬遼太郎は統帥権という怪物のせいだと言うのですが、やっぱり背景にあったのは貧困でしょう。有り余る生産力のはけ口を求めた欧米の植民地政策とは明らかに異なります。食べるものがない。娘は身売りしなければならない。それが珍しいことではなかった貧困の解決を侵略に求めたという単純な構図であり、それは古来から繰り返されていた略奪とほとんど変わりはなかったのではないかと思います。
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太平洋戦争は、その名前の通り、広い太平洋を舞台にして戦われた戦争。日中戦争で実はもうへとへとになっていた日本ですが、さらに泥沼にはまってしまいます。これはレイテ戦で、末期のもの。海軍がミッドウエーなら、陸軍はガダルカナル。それが潮目になって、サイパンや硫黄島などの玉砕が相次ぐ。沖縄戦を最後の戦いに位置付けていた海軍と本土決戦を意図していた陸軍。そして、ソ連の参戦と広島・長崎の原爆投下。
日本はいかに戦争が無意味なものかを知ったわけですが、人間はそうしたDNAを持っているのも事実。そして、日本人は特攻隊にも象徴されますが、戦争の初期から命を惜しまない肉弾戦が真骨頂。さらに違ったDNAも持っているのかもしれません。日本人として学ばないといけない歴史は、近代においてもまだまだたくさん残っているような気がします。 -
さて、これくらいにして。今度は国立歴史民俗博物館を出て、ここからは佐倉城跡を回ってみます。
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国立歴史民俗博物館から出て、ここは二の丸跡。この先が本丸跡ですね。
ちなみに、佐倉城跡全体は佐倉城址公園として整備されていて、いくつかのエリアに分かれています。大手門側から本丸跡に至る林のエリア、本丸跡、本丸跡から国立歴史民俗博物館に至る二の丸跡。これは、それを逆に歩いているところです。 -
城の建物はどこにも残っていませんが、縄張りが意外にはっきりしているし、元からあった台地の地形も感じられて、城のなわばりの面白さのようなものが楽しめるように思います。
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ここが本丸跡。つまり、これだけの縄張りを見れば、十分に往時の威容は想像できるというものでしょう。
なお、築城は、徳川家康の命を受けた土井利勝の手によるもの。その後、城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、関東では重きをなした城です。なお、明治に入ってからの建物の廃棄後は、帝国陸軍歩兵第2連隊の駐屯地となっていて、これで軍都佐倉の流れができる。その駐屯地の跡は二の丸跡の方に少し残っています。 -
イチオシ
本丸跡の周囲はちょっとした土塁が巡っていて、
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公園としては、ちょうどいい感じですね。
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正岡子規の句碑は、本丸跡から大手門の方へ向かってすぐの林のところ。意外に立派な句碑です。
「常磐木や 冬されまさる 城の跡」明治27年。総武鉄道に乗ってやってきた正岡子規が詠んだ句。子規は同じく軍関係で有名な呉市なんかも訪ねていて、ここも佐倉城だけではなく、陸軍の方にも興味があって来たのではないかと思います。
なお、佐倉ではもう一句読んでいて、JR佐倉駅付近にも句碑があるようです。 -
イチオシ
堀田正睦像は、さらに大手門の方に下った場所。茶室 三逕亭の横にある裃姿の像です。
この堀田正睦は、下総佐倉藩の第5代藩主。外国掛老中を兼ねた老中首座として、日米修好通商条約の調印を求めるアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスに相対します。しかし、朝廷からの条約締結の勅許は得ることができず、暗礁へ。将軍の跡継ぎ問題では、南紀派の井伊大老が就任すると勅許を得易いようにと一橋派に鞍替えしていた正睦は排斥されてしまうのですが、いずれにしても、基本は生粋の開国論者であり、時代を見据え難局に立ち向かった人物。ここに像があればそれなりに感慨も深まる。悪くないように思います。 -
日米和親条約の締結を求めたアメリカ総領事タウンゼント ハリス像は、堀田正睦像の隣りに並んでいます。碑には、条約締結による開国が日本にも好ましいものという信念で、堀田正睦の心を開かせたといった説明があって、二人の関係が悪くないものだったことが分かります。堀田正睦は失脚してしまい、自らの手では締結を実現させることはできませんでしたが、ハリスに与えた影響も少なからずあったと考えれば納得感もあるのではないかと思います。
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堀田正睦像、ハリス像が立つ同じエリア。林に囲まれた涼しげな一角に建つ茶室 三逕亭です。
茶室なので、建物は自然に溶け込んで目立たないのですが、この茶室は大徳寺の塔頭、孤蓬庵の忘筌を模したものだとか。東京の乃木神社から移築されました。この日も茶席が開かれていて、縁に座っている人影がポツポツ見えています。 -
大手門からだと公園はここが入り口だったんですね。
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今度は姥が池へ。ここも佐倉城址の一角なんですが、斜面をどんどん降りて行った先。
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溜池みたいな感じですが、けっこうな広さがあって、周囲を取り囲む斜面に包まれた感じはここだけで独立した一つの風景となっています。なかなかに見応えがありますね。
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そして、姥が池のほとりに訓練用の12階段というのがあります。
これは戦時中に、兵士が訓練用をしていたものということです。さほどの大きさもないのですが、階段は急。これを駆け上るのはけっこうしんどそうです。それに、中国大陸とかの市街地での戦闘を想定した訓練でしょうか。そう考えると、ちょっと気味が悪いような気持ちにもなってきます。 -
もう一度、先ほどの公園入口に戻って。こちらはくらしの植物苑。
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国立歴史民俗博物館の付属施設のようですが、場所はけっこう離れています。
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日本人ははっきりとした季節の移ろいを感じながら暮らしてきたので、
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生活や文化の中に植物は欠かせないものとなっています。今は山茶花が見ごろでしたが、その他、古くから大事にされてきた植物が数多く植えられ、紹介されていました。
私は嵯峨菊に目が止まりましたが、この優美な姿は、それをめでた京都の貴族の趣味を思わざるを得ない。日本の誇れる文化です。 -
佐倉城跡からけっこう歩いてきたような気がしますが、これが佐倉城大手門跡。ここはもう完全に佐倉城址公園の外ですね。城址公園の地図にも大手門跡は載っていないし、どうしたんだろうと思いましたが、そういうことだったんですね。跡は、立派な石柱が建っているだけすが、この場所にあったことを知れば、城の規模感がまたよく分かるような気がします。
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成徳書院跡は、市民体育館前。二つの石碑があって、成徳書院跡と刻まれたものと江戸時代の成徳書院の風景を描いたもの。
ちなみに、成徳書院は、さきほどの堀田正睦が整備した佐倉藩の藩校。主として、藩の子弟教育のために作られたものだと思いますが、蘭学などもあったというのは堀田正睦の開明派の面目躍如といったところかと思います。しかし、そのために、水戸学を標榜する徳川斉昭に好まれなかったというのは皮肉なものです。 -
西村勝三の像は、これも佐倉市民体育館の玄関前。碑文に細かくその人となりを紹介してあります。まあ、要は、幕末の士族授産行政の先兵だった人。断髪を率先して行い、成徳書院の武道場を製靴の場に変えたり。明治の新しい息吹の中で、積極的な活動を行ったのですが、それが銅像を建てるほどのことだったのかはよく分かりません。
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済生堂浜野病院跡もその並び。明治14年に作られた外科を中心とした総合病院。佐倉では順天堂病院と双璧だったそうです。説明板が建っているだけですが、院長の浜野昇の略歴も。衆議院議員となって、結核の予防にも力を尽くしたようです。
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佐倉城址公園から大手門跡を過ぎて、やっと佐倉市街に入ってきました。これは麻賀多神社。
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佐倉城の鎮守神として歴代城主に庇護されたというのは、この神社の位置からしてもまあそうかなという感じ。しっかりした石垣の一段高い場所に境内があって、この日は七五三とか茅の輪くぐりなども用意されていました。人の出入りがそこそこあって、活気もある神社です。
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市街ではちょっと有名な大津屋商店は、ピーナッツの専門店。
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いろんな商品があるのですが、お勧めを聞くとやっぱり殻つきのピーナッツ。二種類のピーナッツを試食させてもらいましたが、やっぱりさすが味が濃いですね。ただ、多分食べるとごみがすごいので、お土産は、ピーナッツバターの方にしてみました。
と、これは家族に大好評。ピーナッツの濃さが違うのかなと思います。 -
旧平井家は、麻賀多神社から成田街道に出たところ。信号機の脇に建つそれなりに大きな旧家なのですが、説明板とかもないので、特別な建物とは誰も思わないでしょう。薪炭商や酒店を営み佐倉を代表する商家だったようですが、ここからそれを想像するのはちょっと難しいと思います。
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続いては、蔵六餅本舗 木村屋。成田街道に面した立派な構えのお店です。
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木村屋というのは、あの銀座木村屋から最初に暖簾分けをしてもらったという老舗。蔵六は亀のことで、堀田家の家宝に蔵六石というのがあってそこから取っているのだそうです。
水分が多めの餡子は素直な甘さ。そこにお餅が入っているのですが、これもどうせ求肥かなと思ったら、わらび餅のようなどろんとしたお餅で、しっとり餡子とベストマッチ。ちょっと出来過ぎのような気がしないでもない。もしかして究極の最中のような気もします。 -
佐倉市立美術館は、建物が千葉県の指定文化財。全体としては大きな鉄筋コンクリート造りの建物なのですが、
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一部は大正7年に、旧川崎銀行佐倉支店として建設された部分で、そのまま保存されています。中の展示を見なくても、この建物は一見の価値ありの建物。石造りの玄関と残りはすべて茶褐色の煉瓦壁面という、このバランスが特徴かと思います。
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さて、そろそろ昼飯です。
玉家でうな重をいただきました。 -
メニューはうな重の上3000円と特上4000円の二種類。上の方を注文しましたが、量が違うだけのようです。
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この広間で悠々いただきましたが、迷路のようにあちこち広間があって、かつては大いに賑わっていたことが想像されました。
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イチオシ
さて、いただいたうな重はご飯が熱々。たまたま炊き上がったばかりのごはんを盛ったからということでしたが、こんなうまいうな重は滅多にない。うなぎと熱々のごはんがこんなにうまいことをここにきて初めて知りました。
もちろんベースになっているうなぎのうまさがあってのことだとは思いますが、本当に素晴らしい経験をさせてもらいました。 -
落ち着いたところで、今度は武家屋敷に向かいます。
旧河原家住宅 旧但馬家住宅 旧武居家住宅の三つの武家屋敷は、佐倉ではこれも見どころの一つでしょう。佐倉城の建物が残っていないので、江戸時代の雰囲気が偲ぶのに、この武家屋敷は貴重です。一つ一つのお屋敷は周囲を生垣で囲まれて、藁ぶき屋根や質素な建物などこれはこれで悪くないんですが、この三つが並んでいることで武家屋敷町のようなものまで想像できる。お寺もいくつか並んでいるので、全体として楽しむことをお勧めします。 -
まずは、旧河原家住宅。
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土塁と生垣で囲まれた屋敷で、門を入ると藁ぶき屋根の建物が二棟寄り添うように建っています。
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一方の建物の縁側は割と余裕の長さ。
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敷地内にはちょっとした畑もあって、かつての武士の生活の様子が偲ばれます。
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続いては、旧但馬家住宅。
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土塁と生垣に囲まれたお屋敷に入ると藁ぶき屋根のかぎ型の建物。
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さらに、その継ぎ合わせの場所に付いている玄関を入ると、広くはありませんが、落ち着いた日本間がいくつかある邸内。
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質実剛健といった佇まいのお屋敷です。
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最後は旧武居家住宅。旧但馬家住宅と繋がっていて、旧武居家住宅の敷地内から入ることになります。
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ここも、中堅の武士だったと思われるお屋敷ですが、残念なことに屋根はトタン葺になってしまっているので、風情という点では一格落ちるように思います。
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中をちょこっと拝見して、
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武家屋敷は、以上でおしまいです。
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大聖院は、三軒並んだ武家屋敷のさらに少し奥。
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細い参道を入ると境内はよく整備された芝生のエリアなどびっくりするくらい美しい日本庭園のような空間が現れました。
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佐倉七福神のうち大黒天を祀っているとかもありますが、空海の像とかも立派。
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美しい境内を楽しむお寺だと思います。
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イチオシ
武家屋敷から、今度は旧堀田邸へ。少し距離があって、けっこう歩きました。それに道を間違えて、庭の裏の方を乗り越えて敷地内に入ることになりました。
ほー、芝生の庭が美しいですね。 -
後ろに大きな建物がありますが、それは関係ない建物。手前の木造建築群が最後の佐倉藩主堀田正倫が明治23年に建てた別邸、旧堀田邸です。
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別邸の周囲に広がるこの芝生庭園がさくら庭園。
なだらかなアンギュレーションの中に低木の松が適度に配されて、日本風と洋風がいい感じでミックスされています。大きく言えば、小川治兵衛なんかも同じですが、明治時代の趣味の一つが表れているように思います。 -
イチオシ
一方、ここは高台にあって、本来なら遠くの景色も見渡せるのでしょうが、今は周囲の木々も大きくなって、そこは限定的。ただ、本邸建物との組み合わせを楽しめばまったく問題はないでしょう。
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こちらは、旧堀田邸の玄関です。
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最後の佐倉藩主、堀田正倫は東京で暮らしていましたが、改めて旧領になにがしかの貢献をしたいという思いもあって建てたということ。そういう意味では、今やここは佐倉観光の必須ポイントですから、その堀田正倫の思いは叶ったといえるでしょう。
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建物内は、主屋から離れまでいくつかの建物を結んで、それぞれの場所から違う外の景色を楽しむという池泉回遊式の建物版。
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まあ、大名家の建物としては一般的な贅沢趣味なんですが、一つ一つの日本間は今一つ決して豪華ではないような。細かくじっくり見るということではなくて、あちこち歩き回って、その歩き回る気持ち良さを感じるのが旧堀田邸の味わい方かなと思います。
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さて、旧堀田邸から今度は順天堂へ。
妙経寺は、その途中です。 -
赤いべんがらの柱や梁と青銅製かなにか金属葺きの屋根の取り合わせが特徴的な日蓮宗のお寺です。境内からそのまま墓地が続いていて、ここには黎明期の民間航空発展に尽くした、飯沼金太郎の墓というのもあるようです。
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少し歩いて、これは大月堂菓子舗。
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小さな和菓子屋さんです。
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いただいたのは、少し大きめのうさぎまんじゅう。これはいわゆる薯蕷饅頭なんですが、山芋が練り込んである生地のふわふわ感を楽しみます。
なるほど、香りもあるような。しっかりその味わいが出ていて、これは期待以上の逸品です。やっぱり街歩きはこういうのに出会わないと楽しくありませんよね。ご馳走様でした。 -
佐倉順天堂記念館に到着。
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こちらは、時の老中でもあった藩主堀田正睦が招いた蘭医佐藤泰然が開いた蘭医学の塾兼診療所の遺品を展示・紹介する施設。
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佐倉では順天堂以前にも蘭方医家の系譜がなくはなかったようですが、佐藤泰然によって明治になってからも医学界をリードする人々を輩出するという目立った存在になったということ。佐藤泰然の人となりや蛮社の獄で騒然としていた中での庇護者、堀田正睦の蘭癖なども解説されています。
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奥には、
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外科手術で使った道具類とかの展示もありました。
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さて、後は、また駅に戻りながら、お寺などをチェックします。城下町ではお寺のチェックは必須ですからね。
この石渡家は、旧成田街道沿い。家並みが続くエリアなので迷いましたが、地元の人に聞くとすぐに分かりました。
こちらは、明治時代からの商家。壁にまだ真新しいような説明板もあって、主屋は「みせ」と「すまい」からなり、「みせ」は大正5年、「すまい」は明治40年に建てられたことが分かっている。云々と簡潔に説明されていました。東西の壁を漆喰塗にするのも佐倉の町屋の特徴だそうです。たぶん、デザインとともに、防火の関係だとは思います。 -
旧成田街道の角を曲がった奥の松林寺は、寛永年間、当時の佐倉藩主、土井利勝が創建したもの。
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藩主が創建したにしては本堂とか少しくたびれた感じがしなくはなかったのですが、
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境内並びの墓地には土井利勝父母、夫人の供養塔が三基並んで建っていました。左から、父、母、夫人の順。母の33回忌の法要に合わせて建てられたということです。これは勿体があって、確かに大名風です。
ちなみに、土井利勝の父は、土井利昌という徳川家家臣。実父は水野信元ですが、水野信元の死後、土井利昌の養子となりました。ところで、この水野信元というのが、なかなか面白い。徳川家康の母、於大の方は水野信元の妹。しかし、於大が嫁いだ松平家は今川氏についているし、水野家は織田氏についていたんですね。松平家と水野家は好敵手といった感があったのですが、家康はその両方からいい血を受け継ぐことになっています。
徳川秀忠のもとで権勢をふるった土井利勝ですが、ちゃんと信頼される立場にはあった人物なんですね。なお、佐倉藩からはほどなく古河藩に移封となり、家光の下で大老にもなっていますが、佐倉との関係は長くはありません。 -
勝寿寺は、松林寺の裏手の方なんですが、入口は大通りからになるのでちょっと分かり辛いかもしれません。
ただ、苦労して探した割には。。コンクリートの門から見えた本堂は典型的な都会のお寺。鉄筋コンクリート造りの建物で、風情は感じられず。観光の寺ではないと思います。 -
教安寺は、境内に縁起の案内板があって、それによると、さきほどの土井利勝の預かり人、花井左門という人物が創建。しかし、この花井左門がけっこうすごい。家康の六男、松平輝忠の家老を勤め、信州松代海津城6万石を有していたのだとか。松平輝忠は、その後、高田城60万石を領しますが、一説には家康に嫌われ領地は没収されます。花井左門はそれにより配流を重ねたのだそう。これに関係した人だったとはなかなか興味深い話です。
境内本堂前には、野ざらしの金銅地蔵菩薩坐像があって、これが見どころ。つるんとしたいいお顔の地蔵です。 -
続いての延覚寺は、駐車場があって、その奥が境内です。
江戸時代初めに出来た浄土真宗の寺のようですが、火災にあっていてよくわからないよう。本堂は方形の鉄筋コンクリート造り。屋根の形にちょっと特徴がありますが、敢えて言えばというくらい。観光の寺ではないように思います。 -
肴町 山車飾は、佐倉の旧成田街道沿い。市街地の中心部で、道路原票も近くです。
山車の飾りに波型の彫り物が使われたりしているのはよく見かけますが、その並みの彫り物のあれこれをコレクションのように外壁に飾ったもの。 -
よく見るとなるほど、それぞれに味わいがあって、意外に見応えがありました。雨に打たれて傷んではいますが、問題はありません。
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佐倉新町おはやし館は、麻賀多神社の祭礼に使われる山車や山車人形を紹介する施設。まあ、ちょこっとしたものだし、見学は無料です。
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係りのおばちゃんがいていろいろ聞くと、かなり歴史があるお祭りなんですね。しかし、実際のところは、やっぱりイマイチ有名ではないような。佐原の祭りと日がダブるのも原因なのかなあと思います。
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佐倉新町おはやし館の前広場には、高札場跡。木の柵で囲われたしっかりした造り。人々に情報を伝える昔の掲示板ですが、現在は、佐倉市市民憲章と何か。佐倉城の城内地図も掛けてありました。ただ、地元の人に場所をきいたのですが分からなかったので、認知度はイマイチなのかなと思います。
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この辺りも寺町がありまして、
宗円寺は、佐倉七福神の寿老人を祀る寺。 -
寿老人は鹿と戯れる好々爺のおめでたい顔つきでしたが、一方の本堂は鉄筋コンクリート造り。ちょっと味気ないかなと思います。
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宗円寺の向かいの嶺南寺は、佐倉七福神の弁財天。
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ただ、こちらの弁財天は石像ではなく石版にぼうっと浮かび上がる絵のように描かれた姿。細かいところまで描き切ってあるし、ちょっと面白い弁財天です。
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その一角の一番奥が甚大寺。天台宗の寺で、もともとは山形にあったようですが、山形藩主堀田正亮が佐倉藩に移った際、こちらに移動してきたようです。本堂は妻入り。妻の部分が赤い木枠で千鳥破風のようなデザイン。それが目を引きますが、逆に言うとそれしかないでしょう。
ただ、ここは佐倉藩主、堀田家の菩提寺。見どころは、隣りの堀田家墓所の方です。 -
堀田家墓所は、入口が分かりにくいですが、個人住宅の脇をどんどん入った先です。ちょっと荒れていますが、確かにこの雰囲気は大名墓所ですね。
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佐倉藩主、堀田家歴代の墓がありまして、これは初代の堀田正俊の墓。
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そして、こちらが日米修好通商条約の締結の責任者だった堀田正睦の墓です。
それぞれ、墓前に説明板がありますが、 -
それとは別に「堀田正睦公追遠之碑」という大きな石碑があって、堀田正睦の業績をたたえています。もしかしたら、この立派さの裏側には、志半ばで失脚した正睦の悔しさのようなものもあるかもしれません。
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旧成田街道に戻って、これは佐倉一里塚。一里塚というのであれば、土塁があったり、松の木が生えていたりする場所なのかと思ったら、ここは明治時代の呉服商「駿河屋」を利用した施設。壁に建物の説明がありましたが、江戸時代は油屋という旅籠。桂小五郎、清河八郎といった幕末の志士たちが宿泊したこともあったようです。建物は真っ黒な板壁。規模は小さいですが、意外に存在感のある感じです。
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京成佐倉駅に戻って、最後にもう少しB級グルメのチェックです。
駅前通りに、佐倉煎餅の看板。ただ、なんか様子がおかしい。よく見ると閉店の挨拶が。。50年間煎餅を焼いてきたが、高齢のため続けることができなくなったのだとか。名物店でも跡継ぎはなかなかいない。日本中でこうしたことが起きているのだと思いますが、残念なことです。 -
京成佐倉駅の裏側の焼栄堂。駅からはそんなに距離はないんですが、トンカツ屋さんや飲み屋さんが固まっている一角だし、まったく小さな店舗なので目立ちません。
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幟を立てるとかしたらいいのにと思いながら、お店に入ると、粉だらけになってさっきまで作業をしていましたというような若いご主人。なんか一生懸命さが伝わってきますね。
いただいたのは、バニラクッキーのクリームのコッペパン。これがとってもいい。アイスなんかでこの手の味わいはなくはないですが、サクサクっとした食感があって、このクリームは新鮮な感覚です。そして、それ以上にパンの方はしっかり小麦の味わいが濃縮されたような感じ。独創的で、この域まで来るとちょっと佐倉の文化の匂い、までもしてくるような。妙な気分にもなってきます。
さて、以上で佐倉の旅は終了。いろんな歴史や文化のある街だということがよく分かりました。ありがとうございました。
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