2014/07/15 - 2014/07/15
414位(同エリア790件中)
ペコちゃんさん
- ペコちゃんさんTOP
- 旅行記443冊
- クチコミ111件
- Q&A回答1件
- 723,538アクセス
- フォロワー24人
梅雨の合間の暑い一日、千葉県・佐倉の散策に出かけました。
以前、車で印旛沼を通って、佐倉宗吾(惣五郎)を祀っている宗吾霊堂(東勝寺)に行ったことがありますが、この霊堂は成田市・・・従って、佐倉は初めて訪れます。
仲間16名で電車を乗り継ぎ、日暮里から成田空港行き特急で、京成佐倉に10時半に着き、《国立歴史民俗博物館 ⇒ 武家屋敷 ⇒ 城下町散策》
というコースで、佐倉の街を楽しみました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
池袋から日暮里まで行き、京成線に乗り換えます。
平成元年に開設された、緑の三角帽子型駅舎でお馴染みの JR日暮里駅・南口・・・それまでの改札口は北口のみだったので、利用者の利便性は大幅に向上しました。
南口からは、谷中霊園や谷根千へと続くので、「寺町に合った駅舎」という注文からデザインされたのだそうです。 -
昭和6年開業の京成・日暮里駅は、平成22年の新ルート・成田スカイアクセス(成田空港線)の開業に合わせて、従来の1階ホームを上り線専用ホームとし、下り線は新設の3階専用ホームへ移設して、3層構造の駅として生まれ変わりました。
ここは、2階の北口改札。 -
日暮里から成田空港行き特急に乗り、50分で京成佐倉駅に到着。
佐倉市の人口は約17万人で、20%が都心に通勤する「千葉都民」。 -
駅から線路沿いに成田街道を歩き、途中から旧成田街道に入ると、こんな茅葺屋根の家が道路に面して建っています。
-
佐倉の周辺は、戦国時代に本佐倉城、江戸時代初期に佐倉城が築かれ、11万石の城下町として繁栄しました。
幕末には順天堂が開設されて「西の長崎、東の佐倉」と言われ、西洋医学の街としても栄えます。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
-
佐倉城趾の一角にある「国立歴史民俗博物館」に向かいます。
橋を渡って・・・日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
-
お濠の鯉を見ながら、正面入り口の横から進みます。
-
佐倉城は石垣がなく、代わりに土塁(土手)を築いて城を守りました。
日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
-
ここが博物館の入り口。
-
佐倉城の天守閣の模型。
佐倉城は、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって、1611年から1616年までの間に築造された平山城です。
天守閣は三重櫓で、内部は5階という質素な造りですが、水堀・空堀・土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して、城下町としました。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
-
当時の大手門。(写真はHPより)
-
明治維新後には、城址に陸軍歩兵第二連隊(佐倉連隊)が置かれたために、櫓や門などは全て取り壊され、終戦まで軍隊が置かれていました。
公園の本格的な整備は昭和54年度から始まり、また、昭和58年に明治百年記念事業として、公園隣接地に国立歴史民俗博物館が開館しました。国立歴史民俗博物館 美術館・博物館
-
正門入口から続く愛宕坂を登って行くと・・・
-
右手に、何故か大分県・臼杵石仏・大日如来像のレプリカが・・・
-
愛宕神社があったので、この坂は愛宕坂。
-
京成佐倉駅からゆっくり歩いて、30分ほどで博物館に到着。
国立歴史民俗博物館のコンコースを進んで、入口に向かいます。国立歴史民俗博物館 美術館・博物館
-
日本には、明治時代から東京・京都・奈良に、美術系の国立博物館がありましたが、戦前から国立歴史博物館の必要性は叫ばれていました。
国立歴史民俗博物館は、昭和58年に開館した日本の歴史と文化について総合的に研究・展示する、我が国で唯一の国立の歴史博物館です。
日本の古い文化財は、紙・木・繊維など常設展示に耐えないものが多いため、復元模型やレプリカの展示物を多用しているのが、この博物館の特色。国立歴史民俗博物館 美術館・博物館
-
博物館の通称は「歴博」・・・約13万平方mの敷地に、延べ床面積約3万5千平方mの壮大な規模を有する歴史の殿堂です。
中庭も、ゆったりしています。(入館料:420円) -
第1展示室は「原始・古代」(旧石器時代から奈良時代)がテーマ。
北海道から沖縄までの縄文土器が一括展示され、興味をそそります。 -
前方後円墳の副葬品も、実物と殆ど見分けのつかない精巧なレプリカ。
この周辺でも印旛沼を中心に、多くの原始古代遺跡があります。 -
長持型石棺(5世紀)・・・これは群馬県伊勢崎市お冨士山古墳の長持形石棺で、近畿の大王陵の古墳の石棺と全く同じ形式なので、近畿の石工が東国へ来て製作したと推測されています。
-
人物埴輪を並べた古墳が多いのが、6世紀の関東の古墳の大きな特色。
人物埴輪は、大型の前方後円墳だけでなく、小型の円墳でも見られます。 -
第2展示室のテーマは「中世」(平安時代~安土桃山時代)。
これは、旧暦4月から9月に着用する夏装束・・・女官は十二単(ひとえ)の盛装、奥の左は朝廷の儀式で着用された男子武官の束帯の盛装で、右は直衣という公家の平常服。 -
12世紀末頃の貴族の邸内の一部を、調度を配して推定復元したものです。
琴などが置かれ、平安貴族の優雅な日常が偲ばれます。 -
印刷は、奈良時代から始まっていたそうです。
-
戦国末期(1570~1580年頃)の京都・四条室町付近の街並。
-
相撲の歴史は、その年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、神話の時代まで遡りますが、中世でも庶民の間で人気があったようです。
-
第3展示室のテーマは「近世」(江戸時代の人々の生活や文化)。
寛永11年(1634年)に、長崎・清水寺に奉納された船絵馬などをもとに復元した、御朱印船の模型。 -
沢山の展示物の中で、興味を引いた一つが、このキリシタン大名のローマ字の印鑑。
-
近世日本で作られた世界図や日本図をみると、当時の人々が世界や国土をどのようにとらえていたかを知ることができます。
-
精巧極まりない江戸の町並風景は、宮大工の方が製作したそうで、街並を行き来する人々の姿も、活き活きしています。
これは、日本橋・江戸橋周辺の家並みと日本橋川のジオラマ。 -
第4展示室のテーマは「民俗」。
各地の祭りの飾りつけなどが展示されています。 -
妖怪のコーナーでは、各地の河童像の紹介があります。
河童は川や沼などの水界を住処とする妖怪の一種・・・子供の背格好で、背中に甲羅、頭には水の入ったくぼみ(皿)があり、どことなく愛嬌があるイメージです。 -
この河童の模型は、高木春山の『本草図説』に描かれた河童をもとに制作した像。
享和元年(1801)に水府・東浜で網にかかり、高さ三尺五寸(約107cm)、重さ12貫(約45キロ)だったと記されています。 -
コーナーの一角には、宮城県気仙沼市にあった、築200年以上の古民家の一部を復元・展示しています。
-
実は、この家は、東日本大震災で崩壊した江戸時代の住宅で、尾形さん一家は、あの震災の当日まで住んでいたそうです。
瓦礫の中から取り出した生活用具や家の部材を使って復元されました。
写真などから、津波がどんな被害をもたらしたのか、感じることができます。 -
第5展示室のテーマは「近代」。
これは、明治23年製の山葉オルガン・・・オルガンの普及で、唱歌は学校教育に定着しました。 -
昔懐かしい、かまどのある台所。
-
第6展示室のテーマは「現代」。
これは佐倉連隊兵営の模型・・・佐倉城址全体が兵営舎になり、堀などは崩さずに、地形をそのまま活かして利用していたようです。 -
戦時中の、愛国心を煽るポスター。
-
終戦の日の毎日新聞・・・心が揺さぶられる想いです。
-
アメリカの号外・・・ ” 戦争は終わった! ”
-
戦後の玩具や雑誌の展示・・・懐かしさを覚えます。
-
博物館は、1階(第1~第3展示室)、地階(第4~第6展示室)で、その見学距離は、なんと4.5km。
見ごたえのある展示品の数々でしたが、1時間半の駆け足見学でした。 -
広い佐倉城址公園は、他にも見所がありますが、暑い日だったので省略して、姥ヶ池からひよどり坂を歩いて武家屋敷に向かいます。
日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
-
姥ヶ池。
天保年間に、この池の周りで家老の娘のお守りをしていた姥が、誤って娘を池に落としてしまい、娘はそのまま沈んでしまいました。
姥は困り果てて身を投げた、という哀しい話が伝わる姥ヶ池。 -
城址公園は梅・桜・花菖蒲・アジサイなどの花の名所ですが、姥ヶ池には約1000株のスイレンが育っています。
-
鯉や亀も多数生息していますが、誰かが放ったブルーギルが爆発的に増えているのは困り物です。
-
江戸時代とほとんど変わらない佇まいを残すといわれる「ひよどり坂」。
鬱蒼とした竹林の坂を登りきれば、武家屋敷通りに出ます。 -
武家屋敷は、江戸時代後期の佐倉藩士の住まい3棟が公開されており、質素な造りの中に当時の生活が偲ばれます。
旧河原家住宅で入館料(210円)を払うと、全ての武家屋敷が見学できます。旧河原家住宅 名所・史跡
-
旧河原家住宅は1840年頃の建築で、佐倉に残されている武家屋敷の中では最も古いものと言われています。
建物の中には入れないので、外からの見学です。
旧河原邸は、禄高三百石以上の藩士が居住した、とされる大屋敷・・三百石といえば、現在のサラリーマンの年収に換算すれば、1,500万円程度。旧河原家住宅 名所・史跡
-
この旧河原家住宅と三番目の旧武居家住宅は、もともとこの近くにあった鏑木小路から移築・復元されました。
旧河原家住宅 名所・史跡
-
これは、土間から見た台所。
-
外に井戸がありました。
-
当時の武家屋敷は、藩が藩士に貸し与えていました・・・いわば「社宅」。
そのため、間取りや様式が身分によって細かくきめられており、質素倹約を旨として建てられています。
ここは、お客様用の ” 座敷 ” 。 -
立派な鎧と刀が展示されています。
-
真ん中の建物は「旧但馬家住宅」。
-
この建物だけは、この場所にあったもので、植栽や屋敷の形状などもそのまま残されているそうです。
この住宅は、禄高百石以上(サラリーマン年収で500万程度)の武士が住んだ、とされる中屋敷です。
因みに、この屋敷の茅葺きは20年に一度行われるそうで、1,500万円かけて最近葺き替えを行ったとのこと。 -
ここにも、立派な鎧がありました。
-
最後は、一番小さな「旧武居家住宅」。
門の大きさや造りが、他の2軒より小さい・・・旧武居家住宅 名所・史跡
-
旧武居家住宅は、百石未満(サラリーマンなら、年収500万未満)の藩士が住む小屋敷で、建坪24坪ほどの質素な佇まいです。
3軒とも、敷地には雨垂れ用のジャリが敷かれています。旧武居家住宅 名所・史跡
-
建物内には、屋敷跡から出土した陶磁器などが展示されています。
かつては、こんな厳つい武士が住んでいたんですね。 -
武家屋敷は静かな住宅地の中に、時間が止まったように残されていました。
武家屋敷から少し歩くと「児玉源太郎旧宅跡」の案内板があります。
この地には佐倉連隊長の借家があり、児玉源太郎は佐倉歩兵第2隊長として、明治13年から明治18年までこの地に住んでいました。 -
城下町は、城の周りに配置された武家屋敷(武士)と、街道沿いの町屋(商人)に分けて造られました。
昼食の店を目指して、電線地中化で風情を増した佐倉城下町商店街通り(新町通り)を歩きます。 -
「銘菓木村屋」・・・明治15年創業の和菓子処で、「蔵六餅」「栗蔵六」「梅のかほり」「くずきりそうめん」など、佐倉を代表する銘菓を製造販売しています。
-
この店は、銀座木村屋の第二号店として、明治15年に佐倉の歩兵第57連隊に非常食やパンを納入するご用商人として創業。
中庭にあるこの蔵は、江戸時代からのものです。 -
蔵に保管されていた安政5年(1858)の箱書きがある杯や、皿、古九谷の盃等が、店の奥座敷に展示されています。
-
一番のお勧めは、佐倉藩主・堀田家の蔵六石にちなんだという亀甲形の餅入り最中・蔵六餅・・・お土産に買いました。
-
「三谷屋呉服店」・・・寛政創業の老舗の呉服屋さんです。
-
旧城下町の中心部に位置する、平成6年開館の「佐倉市立美術館」・・・この地で育った浅井忠など、佐倉市と房総ゆかりの画家を中心に収蔵しています。
佐倉市立美術館 美術館・博物館
-
「中井せともの店」・・・歴史を感じさせる店構えが、レトロな雰囲気を醸し出しています。
-
「佐倉一里塚(旧駿河屋)」・・・明治の頃、呉服商を営んでいた、築120年程の古民家です。
-
「茶舗・小川園」・・・明治45年創業のお茶の製造・販売の老舗です。
明治4年の廃藩置県で刀を捨てた佐倉藩士達が、生活のため「同協社」を設立し、荒野を開墾して、お茶の栽培・製造を始めました。
大正9年に解散した後は、小川園により佐倉茶の伝統が守り続けられています。 -
城下町商店街を歩いて「おかやま食堂」に着きました。
もう、2時・・・遅い昼食です。 -
トンカツに刺身やデザートまで付いて、1100円・・・ビールと共に、満腹になりました。
-
城下町商店街は、2月~3月に行われる「ひなめぐり」のイベントが楽しそうです。
これは、土井利勝による佐倉城と城下町建設400年を記念して始まった催しで、新町通りを中心に、お店や古民家・資料館など約40か所以上で、新旧ひな人形が展示されます。
城下町の風情をゆっくり楽しむためにも、この時期にもう一度訪れたくなる佐倉の街でした。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
76