2010/01/03 - 2011/10/23
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ドクターキムルさん
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鎌倉には鎌倉時代以降の中世に造られた墓も多いが、中には間違えられた墓もある。
多宝寺の石塔(五輪塔)は江戸時代から有名であったが、「忍性」の墓とされていた。しかし、昭和51年(1976年)に修復した際に、内部から「多宝寺覚賢長老遺骨也」と記された納骨壺が見つかり、覚賢の墓と判明した。関東大震災で崩れたことが真の埋葬者の判明に繋がった。多宝寺が廃寺となった現在では浄光明寺五輪塔として国の重要文化財に指定されている。
葛原岡にある藤原仲能(なかよし)の墓(塚)は道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていたが、海蔵寺伝により藤原仲能(道智禅師)の塚と判明している。
最も如何わしいのは極楽寺坂上にある「伝上杉憲方墓」である。国の史跡に指定されており、史跡看板には、「七層塔は鎌倉末期の作と推定される。塔身には仏像を刻み基台には粋をめぐらし、格侠挟間を刻んでおり、すぐれたものである。」と記載されている。墓石は憲方が亡くなった応永元年(1394年)よりは60年以上前に作られているのだ。墓石は再利用しないだろう。もっと不可解なのは、すぐ近くに永和5年(1379年)銘の宝篋印塔が伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔)としてある。逆修塔とは生前に、自分の死後の冥福のために建てた石塔をいう。江ノ電・極楽洞のトンネルがある山裾に西方寺址があり、西方寺に建てられた。憲方の墓は自らが創建した明月院に残っている。墓は1つに限らないのだが、100m足らずしか離れていないところに憲方の墓が並んでいるのはやはりおかしい。そのために現在でも伝上杉憲方墓と伝上杉憲方逆修塔とを取り違えているWebが何と多いことか。驚くほどだ。昔の人も同じように間違えたのであろう。
(表紙写真は覚賢塔(石造五輪塔(嘉元4年(1306年)銘))(重文))
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覚賢塔(石造五輪塔(嘉元4年(1306年)銘))。国指定重要文化財「浄光明寺五輪塔」。
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伝藤原仲能の墓(塚)。
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「藤原仲能之墓」(昭和11年(1936年)3月):鎌倉町青年團、梶原5-9-1、葛原岡神社社務所の東方20メートル
「藤原仲能之墓
此処ハ道智塚或ハ阿古耶尼ノ塚ト傳ヘラレシモ海蔵寺傳ニ拠リ藤原仲能ノ墓所ト考察セラル仲能ハ従五位下前能州大守ニシテ鎌倉幕府評定衆タリシガ後年海蔵寺中興ノ大檀越トナリ建長八年十二月九日寂シ道智禅師ト称ヘラレシモノノ如ク其位牌同寺ニ現存ス
昭和十一年三月建 鎌倉町青年團」
建長八年は1256年 -
伝上杉憲方墓とされる七重石塔。塔上の九輪は地震で下に落下したままだ。
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「史跡
伝上杉憲方墓
昭和二年四月八日文部省指定
上杉憲方は憲顕(のりあき)の子である。天授五年(一三七九)美濃の土岐頼康の謀反を討つため出陣したが三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を輔佐する関東管領に任じられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。
応永元年(一三九四)十月、六十歳で亡くなり法名は明月院殿天樹道合という。
墓地には上杉憲方墓と伝えられる尖塔岩製の七層塔の他、凝灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製五輪塔多数ある。
七層塔は鎌倉末期の作と推定される、塔身には仏像を刻み基台には粋をめぐらし、格侠挟間を刻んでおり、すぐれたものである。
昭和四十六年五月十五日
神奈川県教育委員会」。
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