2010/01/09 - 2010/01/09
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ドクターキムルさん
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鎌倉市極楽寺3(西ケ谷)にある月影地蔵堂には鎌倉時代に書かれた紀行文日記「十六夜日記」にも出てくる古い名を冠したお地蔵さまが祀られている。月影地蔵尊は、赤い衣を着た真っ白なお地蔵さまだ。
北条業時(なりとき)(仁治2年(1241年)または仁治3年(1242年)〜弘安10年(1287年))の家に仕えていた母親が事故を起こしたが、これを親孝行で知られていた娘の「露」という童女のせいにした。業時も娘「露」の評判をよく知っていたので、露を呼び「母親の仕業であろう」と問い詰めたが、露は「親孝行は子の努め、まして親を罪人にするなど思いも及ばぬことでございます」と譲らなかったため、しかたなく業時は親子二人に暇を出した。その後に及んで、母親は慌てて自分の罪を白状したが、既に遅く、母親は追放され、娘の「露」は身元の確かな人に預けられた。屋敷を出るとき業時は梅小紋の高価な小袖を露に与えたが、母親はそれを奪い、どこかへ流れて行ったという。露を預かってくれた家では、彼女を大切に遇したが、母親と別れた悲しみからまもなく病に倒れ、幼くして逝ってしまった。辺りの人々はこれを哀れみ、露の生まれた月影ガ谷の谷戸に小さな墓を建ててやった。やがてその墓に「梅の木苔」がびっしりと生え、袖を通すことの無かった梅小紋の代わり、と噂されたという月影地蔵に絡めて悲しい物語が伝えられている。おそらくは、月影ガ谷の谷戸には月影地蔵が古くからあり、その傍らに露の墓を建てたということであろう。
月影というのは、ここから南西に山を越した所にある月影ガ谷からきている。月影地蔵堂の横の谷にある墓地から山道を上り、稲村ガ崎5方面に下りないで、尾根道を海側に下るとそこが月影ガ谷である。鎌倉時代にはそこにあったが、こちらに移って来たとされる。
月影ガ谷には、「十六夜日記」(弘安6年(1283年)頃に成立か)の作者で知られる阿仏尼が住んでいた。江ノ電極楽寺駅から下ると江ノ電唯一の電車区があり車庫があるが、それを過ぎ、踏切を渡ったところに、大正9年(1920年)3月に鎌倉町青年会が建てた「阿仏邸旧蹟」の史跡碑がある。なお、現在の月影地蔵尊は江戸時代のもののようであり、阿仏尼が参拝した月影地蔵尊を模したものであろうか。
月影地蔵堂のある境内には石仏群があり、墓地も近いことから、極楽寺の塔頭跡かの廃寺跡の一角に地蔵堂が建てられ、月影地蔵尊が移って来たのだろう。
(表紙写真は月影地蔵尊)
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