2010/01/05 - 2010/01/05
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ドクターキムルさん
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勝長寿院跡は滑川に架かる大御堂橋を渡った鎌倉市雪ノ下4にある。勝長寿院は大御堂(おおみどう)、南御堂(みなみのみどう)とも言う。源頼朝が創建した3大寺院は鶴岡八幡宮寺、永福寺とこの勝長寿院であるが、勝長寿院は中でも極めて壮大であり、今でも大御堂の地名が残っている。暦元年(1184年)、源頼朝が父源義朝の菩提を弔うための寺の建立を大御堂ヶ谷の地に定めた。頼朝は後白河院に依頼して義朝の首を探し出し、義朝とその腹心鎌田政清の首は院の勅使となった大江公朝によって鎌倉に届けられた。文治元年(1185年)9月3日、義朝の遺骨と政清の首は南御堂の地に埋葬され、頼朝の他は平賀義信とその子息惟義、源頼隆ら平治の乱関係者のみが立ち会いを許された。同年10月24日に堂舎が完成し、盛大に落慶供養が行われた。勝長寿院は源氏の菩提寺の性格が濃く、源氏関係者の供養が行われている。三代将軍源実朝は甥の公暁に暗殺された(承久元年(1219年))のち勝長寿院の傍らに葬られた。また、源実朝公御首塚が金剛寺(秦野市)に残っている。その後、北条政子(嘉禄元年(1225年没))もこの寺に葬られたというが、その存在は不明である。お堂に祀られたのであろう。現在では、寿福寺に北条政子と源実朝の供養塔(五輪塔)、安養院にも北条政子の墓(宝篋印塔)が伝わっている。しかし、後に建てられた供養塔であろう。
大御堂とは程遠い小さなお堂が建てられるかぐらいの狭いところに勝長寿院跡を示す石碑と源義朝墓(五輪塔)と鎌田政長墓(五輪塔)が並んでいるだけである。これらは昭和59年(1984年)に源義朝公主従供養塔再建委員会によって建てられたものである。この頃では勝長寿院跡地も宅地開発されてしまった後であったのだろう。
(表紙写真は勝長寿院跡)
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勝長寿院旧跡と源義朝主従の供養塔。
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源義朝の墓と鎌田政家の墓。
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石碑。
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「勝長寿院旧蹟址碑」。
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「勝長寿院旧蹟」。
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「勝長寿院と源義朝主従の供養塔」の説明板。
勝長寿院と源義朝主従の供養塔
由来
文治元年(1185)、源頼朝は父・義朝の菩提を弔うため、この地に勝長寿院を建立し、同年九月三日、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頚を埋葬した。
石碑の背後の五輪塔は、主従の供養のため源義朝公主従供養塔再建委員会(代表・鎌田丙午氏)の方々の御厚意により建てられたものです。勝長寿寿院には、定朝作の本尊・金色阿弥陀仏像を始め、運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が立ち並んでいました。
鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって護持されましたが、十六世紀頃に廃絶したと思われます。ここに集められた礎石は工事等で出土したものですが、柱を据えるための整形跡や火災で焼けた痕跡が認められ、勝長寿院の歴史を語る貴重な遺物です。
平成八年三月六日 鎌倉教育委員会
源義朝公主従供養塔再建委員会の協力により之れを建てる。 -
「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)(雪ノ下4-6-20、大御堂橋を渡り坂上)。
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