2006/06/22 - 2006/06/28
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旅人のくまさんさん
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<2006年6月25日(日)>
この日の朝のメモから紹介します。「6:10目覚まし、7:00モーニングコール、8:00麗江へ陸路出発」でした。2泊のシャングリラ滞在が終わり、次の世界文化遺産の街、麗江への出発でした。天候が回復し、絶好の旅行日和となりました。
途中の景色に見所が多く、シャングリラと麗江の中間地点で、現地ガイドさんが交代されました。チベット族の松さんからナシ族の張さんです。(ウィキペディア)
<陸路、麗江へ>
シャングリラを発って、麗江までは、やや東に振った南下のコースです。途中の景色や名勝地を見学しながら、雲南省の旅行を楽しみました。最初はシャングリラの郊外、中甸と小甸です。
この辺りは、のんびりとした田園風景が広がっていました。菜の花畑や、景色のいいポイントで、何度か車を停めて写真撮影や、景色を楽しみました。「失われた地平線」に描かれた平和な理想郷の1つでしょう。
ガイドの松さんは、シャングリラの意味を。平和は土地だけでなく、心の問題として解説してくれていたようです。2002年にシャングリラ県に改名される前の「中甸」は、チベット語で「心の中の日月」を意味しているとされます。現在、シャングリラ県に住んでいるのは、チベット族が50%以上ですが、その他の8民族とも仲良く平和に暮らしてきた伝統も説明されていたようでした。
<崖を下って虎跳峡見学>
次の見学地は、シャングリラと麗江の中間辺りの、虎跳峡と呼ばれる景勝地です。両岸から5千mクラスの山が迫って、長江が金沙江という名前に変わり、標高差3千mの崖が流れを狭めている場所が虎跳峡です。流れの一角に虎が踏石にして跳んだといわれのが、名前の由来です。
その流れを真近に見るには、崖伝いに設えられた長い階段を下ることになります。駕籠を雇って往復することも出来ます。目前にする激流は、とにかく、迫力満点です。
1990年頃に、この地を訪れた日本人旅行者のホームページを読みましたが、その当時は、「落ちたら、絶対に助かりそうに無い細い山道を、崖にへばりつくようにして進んだ」と紹介されていました。この場所の見学には、地元に宿泊して2日を要したようです。
今は道路と散策コースが整備されていますが、駐車場は入場制限されています。激流にせり出した桟敷は人数制限がされ、迫力満点です。
<チベット族の松さんから、ナシ族の張さんにガイド交代>
虎跳峡の見学を終えた後で、近くの集落まで戻り、そこでの昼食となりました。食事の後で、シャングリラのガイドさんの松さんから、麗江からやって来られた張さんと交代されました。
シャングリラからご一緒の運転手さんは、引き続いて麗江観光もご一緒でしたから、松さんは、長距離バスでシャングリラまで戻られることになりました。言葉が通じなかったのは、残念でしたが、この2日間、本当にお世話様になりました。シャングリラを誇りに想い、西蔵族を誇りに想っての観光案内に、心から拍手をお送りします。理想郷、香格里拉のガイドさんとして、ますますのご活躍をお祈りいたします。再見。
<長江第一湾遠望、村のお葬式>
松さんはマイクを持ったら熱弁と歌も披露してくれましたが、張さんも熱弁を奮っていました。要約すれば、「ナシ族の女性は働き者で、旦那さんは、仕事をせずに舞踊、楽器などで遊んでいればいいです」といったことでした。
そんな話をお聞きしている内に「長江第一湾」と呼ばれる景勝地に到着しました。長江が山に阻まれてUターンする場所です。Uターンの状況は、ガイドさんの説明に従って遠望するだけでしたから、余り実感がわきませんでした。それで、絵葉書を買い求めました。空からの撮影です。
その見学場所は、青空市場にもなっていました。丁度、村の葬式が始まりましたから、そちらの見学が主になりました。ナシ族の祖先は、古代中国の西北部に住んでいた遊牧民族、羌族とされ、独自の文化を伝え、日本の平安時代に存在した、「通い婚」の風習も一部に残っています。
<麗江到着、玉泉公園散策>
麗江郊外から市内にかけては道路工事中の悪路が続きました。日本では見られない、全幅・全長開削工事といったところでした。ダンプ列が土砂を運び、それをブルドーザーが均していました。
麗江に到着した後は、荷物は車に置いたまま、徒歩での市内見学となりました、最初に向かったのが玉泉公園、別名、黒龍譚でした。湧き水があり、その水は市内の四方街に引かれています。
今日は雲に隠れて姿を見ることが出来ませんでしたが、玉龍雪山を臨む絶好のポイントでもあります。穏やかな日には、水面に映った「逆さ玉龍雪山」を見ることもできます。こちらのほうは、絵葉書やインターネットの写真で拝見しました。
<今も使われている象形文字、トンパ文字について>
トンパ文字研究所訪問の前に、簡単にトンパ文字について説明しておきます。中国雲南省のナシ(納西)族のあいだで、約1000年も前から使われ続けている、世界で最も古い、生きている象形文字が、「トンパ(東巴)文字」です。
「トンパ」は、そのナシ族の中の、祭司とか歴史を記録する書記官にあたる人達のことを指します。結婚式やお葬式、病気の時のお祓い、占い等を司る人達です。このトンパが、村の人々に神話や説話を話して聞かせるために、トンパ文字でその物語の内容を書き記したのが、起源とされます。その数、千数百種類の文字があるとされます。
このトンパ文字が、世界に広く知られるようになったのは、つい25年ほど前の1980年頃です。当時、60名の古老によって受け継がれていましたが、その時の古老で、一番若い方でも、78歳になられました。今回、トンパ文字を揮毫して頂いた東巴大師、和丁巴さんです。
トンパ教は、ナシ族の原始宗教で、太陽、月、星、山、水、風、火などの自然物を崇拝し、万物に霊魂が宿ると信じられていました。多神教の日本神教の考え方にも共通性がありそうです。韓国語も含めて、文法が類似なのも、同じアジアの国として、親近感を感じます。
唐の時代から、ナシ族とチベット高原の吐蕃とは頻繁に接触があり、トンパ教は、チベットのボン教の影響、および仏教、道教の影響も受けているといわれます。トンパ文字の例を示しておきます。左から「賀正」、「新春」、「松竹梅」を表します。
*図:記載省略
宗教儀式同様、今ではこのトンパ文字を読める人間もほとんどいなくなってしまい、トンパ文化研究所を中心に保存活動が行われています。『言語』(大修館)によれば、「表意」「表音」「表意音」の3種類に分類されるようです。この研究所を訪問しましたので、引き続いて説明します。
<トンパ文字研究所訪問>
少しくどくなりますが、象形文字についても少し説明しておきます。世界最古の象形文字はアルファベットの原点であるヒエログリフとされ、中国最古、漢字の起源である甲骨文字も象形文字です。トンパ文字は、現在も使われている最古の象形文字ともいえます。
*図:記載省略
本題に戻って、トンパ文字研究所のことです。最近、日本から国立博物館の館長が見学にみえ、日本文化との共通性の多さに驚かれていたとのエピソードが披露され、その折の写真も紹介されました。
中央の机に民族衣装の長老が座られ、その場で注文のトンパ文字を揮毫して頂くことになりました。費用の代わりに、200元の寄付の形をとりました。私は、「福如東海」の文字を選択して、エンちゃんの通訳で揮毫をお願いしました。付録をご覧ください。些かでも、トンパ文字の継承と普及にお役に立てばとの思いでした。
トンパ文字が揮毫されるのは、和紙とそっくりの漉き方をする紙です。「千年は持ちます」と紹介されました。
<疎水沿いに歩いて玉龍花園大酒店へ>
トンパ文化研究所からは、疎水沿いに歩いて宿泊の玉龍花園大酒店へ向かいました。途中広場に出ましたが、大きな木の水車の横には世界文化遺産の記念碑がありました。ユネスコへの登録は1997年です。その広場には、かつての交易のシンボル、「茶馬古道」の銅像もあります。
玉龍花園大酒店は、その広場の近くにありました。新市街から旧市街の麗江古城にまたがる、迷路のような造りの広大なホテルでした。泊まったのは、四合院の造りになった2階の部屋でした。
<麗江の夕食>
ホテルで暫く休憩した後、歩いて入植のお店に出かけました。狭い石畳の路を曲がりくねって、2階に上がったお店でした。この日は鍋料理で、銅製の容器がテーブルの真ん中に据えられました。野菜が主体の、シャブシャブ風の料理でした。
元々テーブルが少し高かった上、銅製の容器も高くなっていましたから、立食パーティ風の食事風景になってしまいました。この日も、冷えたビールが1卓に本ずつ用意されていましたから、追加注文無しでした。
この銅製のシャブシャブ用の容器は、中に炭火が入れてあり、食事中、火力の追加が要りませんでした。汁に少し圧力がかかって沸騰させているようでした。空気の薄い高山に適した構造なのかも知れません。
<麗江古城散策>
夕食の後はホテルへは戻らず、そのまま麗江古城の散策になりました。食事のお店自体も、古城の中にあったためです。
麗江古城の歴史等を先に紹介しておきます。この一帯に多く棲むナシ族は8世紀、現在の青海省付近から南下してきたと言われています。南下した当時は、磨些詔と呼ばれる小国を建国していましたが、西蔵、中国、雲南の少数民族の影響を受け、麗江に独自の景観を作り上げました。これが、現在に残る旧市街です。
麗江の旧市街の建築物は、ほとんどが木造です。仏教や道教の仏像もあり、少数民族によって書かれた麗江壁画も残っています。南宋時代の土司、木(ムー)氏による城も残っていましたが、残念ながら1996年に起きた地震で崩壊しました。
城壁がない古城としても、他に例をみないとされます。青黒い、つるつるした石畳で出来た狭い路地が迷路のように続き、道路沿いには、民家や商店が並び、各家の前には水路が流れます。その畔には柳の木が植えられ、数百年前と変わらない風情を、今に残します。
「四方街」は以前の都の中心で、かつて交易の中心地でした。今でも「茶馬古道」と呼ばれる、それぞれ違う方向へ向かう道が、四方八方に伸びています。散策もよし、民芸品等の買い物もまたよしの観光街です。
<歌合戦、ヤーヤッショー>
シャングリラのガイドの松さんに教えて貰った掛け声が、ここでも役に立ちました。「ヤッショー・ヤッショー・ヤーヤッショー」の掛け声です。お店の前には民族衣装の娘さん達が声を合わせて歌い、そのお終いには、必ず、掛け声が入りました。
孫濱先生にご馳走になった赤ワインを飲みながら、麗江の夜の歌合戦を満喫しました。
玉龍公園で
雨止て暑き日差は戻れども雪山隠す雲は晴れなん
トンパ文字研究所で
象形の文字は懐し古の人の語い今聞く如し
麗江古城で
麗江の古城に衣装の花咲揃い歌合戦の夜は更行く
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
-
香格里拉から、次の宿泊地、麗江へ向かう途中のバスの中からの写真です。時々窓を開けたり、ガラス窓越しに写しました。
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シャングリラの現地ガイドさんと麗江の現地ガイドさんの交代地点は、それぞれの拠点から中間部分に決まりました。麗江まではバス移動です。
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麗江までは、行程に少し余裕が持たせてあったようです。ところどころで車を停めて、シャングリラの最後の景色を楽しみました。可愛い野の花です。
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菜の花畑が広がるところでも一旦停車して頂きました。天候は更に回復して、雨季入りの感じはしませんでした。中甸と呼ばれる郊外です。
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農作物を干す台が、至る所に設置してありました。直立する棒の先端が尖っていて、不思議な形をしています。単純に考えれば、鳥避けでしょう。
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背景が余り冴えませんでしたが、松さんの記念撮影です。昨日と違って、今日はタイガーウッズのナイキの帽子でした。
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この辺りでは、デジカメの充電不足で、もっぱらAU携帯を使って撮影をしました。子豚を連れた、黒豚が放牧されていた地点です。
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2つの大河の合流地点です。左手は黄色から赤い色をしていますが、右手は黒っぽい色をしています。最終的には揚子江に合流する川でしょう。
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今回の見所の1つ、虎跳峡です。人気スポットですから、駐車場の入場制限をしていました。川の左手が香格里拉、右手が麗江の区域になります。
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両岸から4、5千mクラスの山が迫って、川幅が狭くなって、急流となった場所です。その急流と、大理石の橋が、眼下に見えてきました。
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急流を真近かに見学するには、崖沿いの階段を下って行かなくてはなりません。そのための駕籠屋さん達の休憩場所です。
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階段を半分以上下った場所です。下りはまだ楽ですが、上りは骨が折れそうです。それでも、その苦労が報われる景観でした。
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自然のがけ崩れというより、道路建設のために崩れ落ちたもののようです。崩れ落ちた土砂が多いところでは、川幅が半分くらいになっていました。
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崖伝いに設置された階段です。この部分はその一部です。休み、休み、ゆっくり登らないと大変です。
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急で長い崖ですから、駕籠を使用される人もいました。途中で横を見たら、眼が眩んでしまうのではないでしょうか。
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これだけの急流、激流ですと、魚も棲めないかも知れません。山の高さ、水量が違いますから、日本ではお目にかかれない光景です。
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雨上がりの奔流ではありません。長江が、狭くなった崖で遮られる場所で流れが速くなるためです。実に迫力がありました。
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右手に張り出しているのは見学用のステージです。強度上の問題でしょうか、この範囲での見学に、人数制限がされていました。
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左下に大理石で出来た橋が小さく見えます。狭くなった長江の両岸には、高い山が迫っていました。
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この写真には入られていませんが、徐さんのご両親を含めて、全員が無事、予定の場所に集合しました。その集合場所での記念撮影です。
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虎跳峡の見学を終ったところで昼食の時間です。昼食の町まで麗江のガイドさんが出向いてきて、シャングリラのガイドさんと交代する手筈となっていました。
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この町でシャングリラのガイド松さんとお別れです。S.P.先生とご一緒に記念撮影です。松さんはこの町からバスで戻られるようでした。
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昼食を摂った虎跳峡の麓の町です。長江の支流に架かる橋です。虎跳峡旅行の以前のブログを読みますと、現地まで到達するのに相当に困難と、時間がかかったようです。
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シャングリラのガイドの松さんは、麗江から見えた現地ガイドさんと引継ぎを済ませた後、バスの中で皆さんにお礼とお別れのご挨拶をされました。徐さんが日本語に通訳してくれました。
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長江は揚子江とも同義です。中国大陸を延々と流れて、最後は上海の北側で東シナ海に注ぎます。その長江がUターンする場所が長江第一湾です。
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長江第一湾は、ガイドさんの説明に従って、遠望しました。その見学場所は、青空市場になっていました。その近くで、村の葬式が始まりました。
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頭に白いターバンのようなものを巻いた人たちが葬式に参列された村の人達です。先祖代々のお墓が並んだ場所でした。
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順番にお墓に参られる村人達です。赤いターバンの方が喪主にあたる人のようです。土葬の風習も残っているようです。
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麗江市街に近づいたところで、のろのろ運転となりました。ダンプが列を成し、もし、ダンプがいなくてもスピードが出せる道ではありませんでした。
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道路工事は、既設の道を連続・全面を掘り返し、下水管等を埋設しているようでした。先ほどのダンプが運んだ土を、ブルドーザーで均していました。
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