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<2007年1月29日(月)><br /><br /> この日の予定です。5時20分にホテル出発で、アンコールワットの日の出見学となっていました。4時半に目覚ましをかけました。昨晩、予定よりは1時間ほど遅れましたが、余り遅くない時間にホテルにチェックインできましたから、十分に睡眠をとることができました。<br /><br /><アンコールワットの日の出見学><br /> 迎えの車は予定通り5時20分にはホテルを出発し、もう2箇所ほど別のホテルを回って、アンコールトムへ向かいました。当然ですが、辺りはまだ真っ暗闇でした。<br /> 現地ガイドのペン・ホーさんの予測ですと、6時45分頃の日の出とのことでした。アンコール遺跡に入場するには、1日券か、顔写真を貼った3日券などが必要でした。その券の発行は、アンコールワットへの入口の建物だけで扱っていました。顔写真は、旅行社からお聞きして、日本を発つ時に用意していました。私の場合、ビザ申請の時の残りの写真で間に合いました。<br /> 朝日は、アンコールワットに向かって右手の林の上から顔を覗かせました。その前に空が茜に染まり始め、アンコールワットと高い椰子のシルエットが、何とも言えない異国情緒を醸していました。<br /><br /><ホテルで朝食の後、アンコールトム見学へ><br /> 最初にアンコールトム遺跡について、フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しながら説明します。<br /> アンコールトム(Angkor Thom)は、アンコール遺跡の一つで、アンコールワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡です。12世紀後半、ジャヤ・ヴァルマン七世により創建されたとされます。アンコールは、「大きい都市」を意味します。「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)を起源とし、「トム」は、クメール語で「大きい」を意味します。<br /> アンコールトムは、一辺3kmの堀と、ラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれています。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門と勝利の門の五つの城門でつながっています。東西南北の四面には、観音菩薩の4面像が彫刻されています。<br /> ホテルがあるシェムリアップからは、アンコールトムはアンコールワットより更に北側に位置します。途中まで、アンコールワットの日の出を見学した道を走ったようです。<br /><br /><アンコールトム遺跡・南大門><br /> 南大門といえば、韓国の国宝第1号の城門を思い浮かべますが、こちらも立派な南大門です。アンコールトムに五つある門の内の一つです。その城門は塔になっていて、頂部には4面菩薩像が飾られています。<br /> 門から堀を結ぶ橋の欄干は乳海攪拌を模したナーガ(大蛇)になっています。ナーガは、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神のことです。頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身は蛇(コブラ)の姿をしています。天気を制御する力を持ち、怒ると 干ばつに、なだめられると雨を降らすとされます。<br /> このナーガを引っ張る阿修羅と神々の像が、欄干に並んでいます。蛇の胴体部分が壊れて、それぞれが独立した像のように見えます。門に向かって右手が阿修羅、左手が神々です。アンコールトムを城砦としている、一辺が3キロの環濠は、広さが113mとされます。今は干上がっていて、水はありませんでした。<br /><br /><アンコールトム遺跡・バイヨン><br /> バイヨン(Bayon)は、カンボジアのアンコール遺跡群のヒンドゥー・仏教混淆の寺院跡です。アンコールトムの中央に位置します。クメール語の発音では、「バヨン」の方が近いとされます。バは「美しい」、ヨンは「塔」の意味を持ちます。<br /> アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤ・ヴァルマン七世がチャンパ王国に対する戦勝を記念して、12世紀末ごろから造成に着手したと考えられています。しかし、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されています。<br /> 当初は大乗仏教の寺院でしたが、後にアンコール王朝にヒンドゥー教が入り、寺院全体がヒンドゥー化しました。これは、建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡があることや、ヒンドゥーの神像があることなどから推測されています。<br /> クメール様式とされる建築には、アーチ部分の石を水平に少しずらしながら空間を得る、擬似アーチと呼ばれる構造が多用されています。迫り出しアーチとも呼ばれます。アーチとの比較図を引用しておきます。(比較図:記載省略)<br /> 建築全体ではおおむね三層に分かれていて、高さ約43mの中央祠堂を中心に、その第1層に二重の回廊が配置された構造となっています。50近い塔と、百個以上の人面像があります。<br /> 第2回廊には、チャンパ王国との戦争の様子や、バイヨン建設当時の市場や、狩の様子等がレリーフに刻まれ、当時の庶民の暮らしを窺い知ることのできる貴重な資料とされています。<br /> ところで、チャンパ王国は、192年から1832年まで東ベトナム中部沿海地方に存在した、オーストロネシア語族を中心とする王国でした。カンボジアの東と接した国です。その主要住民の「古チャム人」は、今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされています。中国では唐代まで「林邑」と呼び、一時「環王国」と自称しましたが、宋代以降は「占城」と呼ばれていました。<br /> 第2回廊に刻まれたレリーフは見飽きることがありませんし、巨大な4面菩薩像には圧倒されます。こちらも微妙に表情が異なっていて、興味が尽きません。<br /><br /><パプーオン><br /> ガイドブック等に載っている紹介記事を引用させて頂きます。11世紀に建てられたヒンドゥー教寺院の「パプーオン」は、「隠し子」の意味を持ちます。<br /> その伝説は、現在のタイ王国のシャム王と、現在のカンボジアのクメール王は兄弟だったことに由来します。シャム王がその往時をクメール王に預けると、臣下は陰謀だとして往時を殺害しました。<br /> これに怒ったシャム王がクメールを攻めたところ、クメール王妃が、その往時をこの寺院に匿った事が「隠し子」の由来です。アンコールトム以前に建設されたこの寺院は、高さではアンコールトムよりも高かったことが、13世紀の元朝フビライの紀行文に記されています。現在、その中央祠堂が大掛かりな修復工事に入っていました。フランスによる修復工事は、内戦前から始まったようですが、中断を経て、現在も継続中です。<br /> パプーオンで見逃せないのが空中回廊です。200mに亘り、2mの四列円柱に支えられた回廊は、その後の寺院建築に伝承されました。<br /><br /><ライ王のテラスと象のテラス><br /> 象のテラスとライ王のテラスは、隣接した場所にあります。それで、まとめて説明します。最初はライ王のテラスです。三島由紀夫の戯曲の題材にも使われました。その伝説の要約です。<br /> 「その昔、ある王様が密林の中で毒蛇と戦い、仕留める時に返り血を浴びました。これが元で、ライ病(ハンセン氏病)に罹りました」と、言うのがクメールの神話「ライ王伝説」です。<br /> 現在、ライ王のテラスには、その王様の石造が座していますが、これはレプリカです。本物はプノンペンの国立博物館に収蔵されています。<br /> ところでライ王は、アンコールトムを創建したジャヤ・ヴァルマン七世であるとの説があります。七世王は、道路建設や病院建設などにも熱心だったとされます。しかし、その晩年は、仏教寺院の建設などで財政破綻を招き、王国衰退の原因を作った、ともされています。<br /> 次は「象のテラス」の説明です。「象のテラス」は、王宮前広場に面して、南北方向に300m続く、高さ3mの長大なテラスの呼び名です。12世紀後半、ジャヤ・ヴァルマン七世によって作られ、閲兵等に使われました。<br /> 東方面には勝利の門があり、戦に勝った時、この勝利の門を潜ってアンコールトムに凱旋した兵士達が、この象のテラスで、王の閲兵を受けたとされます。<br /> テラスの上にはナーガの欄干があり、側壁にはその名の通り象のレリーフが施され、格好の撮影ポイントとなっています。レリーフの主題は、主に象による狩の様子です。テラスの北側の側壁にはガルーダのレリーフがあるようですが、残念ながら見落としました。<br /><br /><タ・プロム遺跡><br /> アンコール遺跡群の中でも、巨大なガジュマルに絡みつかれたタ・プロムの写真には、少なからず驚かされていました。<br /> そのタ・プロム(Ta Prohm)も、アンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院や宮殿などの遺跡群の内の一つです。12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡です。創建したのは、クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤ・ヴァルマン七世です。仏教を信仰した王です。<br /> ところで、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続されています。熱帯の巨大な樹木は、遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論です。<br /> 一般に遺跡の修復は、崩れている石材を積み直し、失われた部材を補充して、かつての姿を取り戻すために、作業計画を立案します。しかし、タ・プロムから巨木を切り払い、崩れている石材を元に戻した場合、この遺跡の魅力が失われる可能性があります。それほどまでに、ガジュマルの根に侵食されたタ・プロムの遺跡は有名になってしまいました。<br /> そのタ・プロムは、7世王が母の菩提を弔うために建造した仏教寺院です。境内は、東西が1000m。南北が600mの塀に囲まれています。以前は縦横に回廊がありましたが、今は壊れ去っています。<br /> ガジュマルの樹に侵食されたのは、13世紀後半にシャム軍に侵略を受け、また、内部分裂で、国が乱れたため、数百年に亘って熱帯雨林の中に放置されたためとされます。屋根や塀の上にガジュマルが育ったのは、小鳥の糞によって、ガジュマルの実が運ばれたためとされます。<br /><br /><午後にもう一度、アンコールワット遺跡へ><br /> アンコールワットの主要門が西側に作られていますから、午前中は逆光となります。見学する時間帯としては相応しくありません。それで、アンコールトム等を午前中に見学し、午後にもう一度アンコールワットを訪ねました。<br /> フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しながら、アンコールワットのあらましを説明しておきます。<br /> アンコールワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤ・ヴァルマン二世によって、ヒンドゥー教寺院として30年余の歳月を費やし建立されました。しかし、1431年頃には、アンコールワットが放棄されました。<br /> その後、プノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られましが、再発見されました。アンチェン一世は1546年から1564年の間に未完成であった第1回廊北面とその付近に彫刻を施しました。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を、四体の仏像に置き換えたとされます。<br /> アンコールは王都、ワットは寺院を意味します。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも象徴として描かれています。<br /><br /><第1回廊、南面のレリーフ><br /> 南面西は「歴史回廊」と呼ばれています。行幸するスーリヤ・ヴァルマン二世と、それに従う王師、大臣、将軍、兵士などが彫られています。それに続く南面東は、「天国と地獄」と呼ばれています。上段に天国へ昇った人々、中段に閻魔大王らとその裁きを待つ人々、下段に地獄へ落ちた人々が彫られています。地獄では痛々しい刑が行われ、ライオンに食い付かれている人のレリーフもありました。また中段から下段への落とし穴も描かれていました。<br /> レリーフの保存状態は良く、修復の跡も見受けられませんでした。黒光りするレリーフは、見学者が手を触れたためとされます。このままでは磨耗してしまいますから、現在は木の柵が置かれて、直接手に触れることはできません。<br /> 天井はフランスによって修復されていました。修復時点では、原形が残っていなかったそうですが、付近の文様を参考に花弁模様の天井が造られています。クメール・ルージュ支配時代に仏像の多くが首を斬られ、敷石にされたなど、多くの文化財の被害を受けました。この壁面のレリーフの被害が無かったことは、カンボジアだけで無く、世界の遺産としても幸いでした。<br /><br /><アンコールワット遺跡、東面のレリーフ><br /> 東面南側には、乳海攪拌の様子が彫られています。神々と阿修羅等が大蛇ヴァースキを引き合ってマンダラ山を回し、海を混ぜている構図です。その伝説について説明します。少し長くなりますが、フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しました。<br /> 「神々と阿修羅が、不老不死の妙薬アムリタを手に入れようと考えた。ヴィシュヌ神の化身である大亀クールマに大マンダラ山を乗せ、大蛇ヴァースキを絡ませて、神々とアスラがヴァースキを引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。海にすむ生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になった。さらに1000年間攪拌がつづき、乳海から白い象アイラーヴァタや宝石、聖樹、天女ラムバー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミらが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れた。しかしアムリタをめぐって神々と阿修羅が争いを続けることになった。<br />その結果、アムリタは神々のものとなったが、神々がアムリタを 飲むさいにラーフという阿修羅がこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤でラーフの首を切断した。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようとする(日蝕・月蝕)。その体ケートゥとともに凶兆を告げる星となった」と、説明されています。<br /> 日本神話はギリシャ神話に起源を持つとされる説や、中国や東南アジアの神話との共通性を持つことが指摘されています。<br /> 例えば、イザナキ・イザナミが島々を生んだ後、神々を生み出していった、国産み(くにうみ)と神産み(かみうみ)の神話、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島になり、国を引いた綱が弓浜半島になったとする出雲に伝わる国引き(くにびき)の神話、太陽神であるアマテラスが隠れ、世界が真っ暗になってしまった天岩戸(あまのいわと)神話、8つの頭と8本の尾を持ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)神話など、限が無いほどです。<br /> こんな日本神話との共通性や、カンボジア独特の表現を持つ神話を比べながらの見学も楽しいものです。建造物等も、夏至、春分、秋分等の天体活動を考慮した造りとなっているようです。<br /><br /><アンコールワットの石段登り><br /> 第2回廊は、東西115m、南北100mあります。彫刻などは無く、何体かの仏像が祀られているだけの、飾りの少ない回廊となっています。この場所から第3回廊へは、幅が狭く、急な石段を登って入ります。両手両足を使わなければ登れません。<br /> 最初は登るのを躊躇しましたが、東京からツアーに参加された方の5歳になるErkちゃんが、1人で登ってしまいましたので、私も登ってみることにしました。下りの方が大変でしたが、上からの眺望はそれを補うに十分でした。第2回廊の先に、熱帯雨林が広がっていました。<br /> アンコールワットのおさらいです。130年余り密林の中で眠り続けていたこの寺院は、ヒンドゥー教三大神のうちのヴィシュヌ神に捧げるために創建されました。以前に開催された「大アンコールワット展」の説明文から、アンコールワットの見所を要約しておきます。<br /> 「その後、創健者スールヤ・ヴァルマン二世がヴィシュヌ神の生まれ変わりの神王と考えられていたため、王の死後は墳墓寺院となりました。中央の祠堂は、世界の中心山で神々が住む須弥山を象徴し、周囲の回廊は雄大なヒマラヤ連峰を、環濠は無限の大洋をあらわしています。<br /> アンコールワットは、まさに王権を神格化するためにクメール人独自の「宇宙観」を実現したものだと言えます」と、紹介されていました。<br /><br /><プノンパケンの丘からの夕陽><br /> プノンパケンの岡は夕陽見学の名所です。夕刻になりますと、続々と車が集まってきます。象に乗るとか、急坂を登るコースもありますが、緩やかな登山道を登るコースを選びました。<br /> 大変なのは、日没後の下山です。大混雑しますから、現地ガイドさんが、日没前の集合時間を決めてくれました。観光客が乗り込み終わらないバスが、道を塞いだりしますと、すぐに大渋滞となります。<br /> 乾季のこの時期、空が霞んでいますから、ゆっくりと熱帯樹林に沈んでいく夕陽を直視することが出来ます。岡の上は、ヤショ・ヴァルマン一世が9世紀末に創建した、ヒンドゥー教のピラミッド型遺跡があります。<br /><br /><民族舞踊を見ながら夕食><br /> カンボジアの舞踊には、王宮内で存続してきた王宮古典舞踊と、農民など庶民の間で受け継がれてきた庶民舞踊との二つの流れがあります。この夜、食事をしながら鑑賞したのは、王宮古典舞踊でした。<br /> 王立プノンペン芸術大学の古典舞踊科を卒業され、今はカンボジア古典舞踊家として活躍されている山中さんのHPを引用しながら、カンボジアの古典舞踊について説明します。最初はその起源です。<br /> 「カンボジア古典舞踊の歴史をたどると、インドのヒンズー教の影響を受けたクメール民族が、それを自分たち独自の文化として開花させ、9世紀から14世紀のアンコール王朝時代に、アンコールワット遺跡群で、神々と王に捧げるために儀式の中で踊っていた舞踊が始まり」と、紹介されています。次は、その後の盛衰です。<br /> 「その後、アンコール王朝は衰退し、(中略)古典舞踊も廃れていきますが、19世紀フランスの植民地になり、民族の独立を確保したいクメール民族と自らの植民地を『東洋の神秘』としてヨーロッパで宣伝したいフランス側の意向が重なり、再興されました」と、盛衰が記されていました。次は、一番不幸だった時代のことです。<br /> 「多くの国民、そして舞踊家や踊りの先生の9割が、このポル・ポト時代に殺されてしまいました」<br /> この記述は、ほかのHPにもありましたし、現地ガイドさんからもお聞きしました。僅かに生き残った舞踊家により、その踊りが復興されつつあります。次は、カンボジア舞踊の特徴です。<br /> 「踊りそのものは、指先・足先をそらせること、ポーズや手の印の形、きらびやかな衣装、高い塔を持つ冠、ラーマヤナ物語を元にした話が多いことなど、タイやラオスの舞踊と大変似ています」と隣国との共通性についても触れられていました。更に、<br /> 「今のカンボジア人にとって古典舞踊は、彼らの敬愛する王家に捧げるものであり、自分たちの民族のアイデンティティの証であり、アニミズムと祖先崇拝による彼らの宇宙観を伝えるもの」と締め括られていました。舞台袖で、熱心に踊りに見入る、欧米からの子供さんが居ました。<br /><br /><br />  アンコールワットの夜明け<br /> 夜明け待つ泉はやがて薄明かり赤き睡蓮花開きたる<br /><br />  アンコールトムで<br /> 千年の時経て四面の菩薩像何を諭すかその目その口<br /><br /> 国創り神話の世界刻まれて阿修羅神々大蛇綱引く<br /><br />  タ・プロムで<br /> SFの世界かガジュマル天を突き白き太き根塀を跨ぎぬ<br /><br />  アンコールワットで<br /> 石段を両手使いて頂きに果無く続く熱帯雨林<br /><br />  プノンクロムの夕陽<br /> 天空を渡り終えたる太陽は茜に染めて今沈み行く<br />

2007冬、カンボジア王国旅行記1(3/13):1月29日:アンコールワット、アンコールトム

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2007/01/28 - 2007/02/01

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2007年1月29日(月)>

 この日の予定です。5時20分にホテル出発で、アンコールワットの日の出見学となっていました。4時半に目覚ましをかけました。昨晩、予定よりは1時間ほど遅れましたが、余り遅くない時間にホテルにチェックインできましたから、十分に睡眠をとることができました。

<アンコールワットの日の出見学>
 迎えの車は予定通り5時20分にはホテルを出発し、もう2箇所ほど別のホテルを回って、アンコールトムへ向かいました。当然ですが、辺りはまだ真っ暗闇でした。
 現地ガイドのペン・ホーさんの予測ですと、6時45分頃の日の出とのことでした。アンコール遺跡に入場するには、1日券か、顔写真を貼った3日券などが必要でした。その券の発行は、アンコールワットへの入口の建物だけで扱っていました。顔写真は、旅行社からお聞きして、日本を発つ時に用意していました。私の場合、ビザ申請の時の残りの写真で間に合いました。
 朝日は、アンコールワットに向かって右手の林の上から顔を覗かせました。その前に空が茜に染まり始め、アンコールワットと高い椰子のシルエットが、何とも言えない異国情緒を醸していました。

<ホテルで朝食の後、アンコールトム見学へ>
 最初にアンコールトム遺跡について、フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しながら説明します。
 アンコールトム(Angkor Thom)は、アンコール遺跡の一つで、アンコールワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡です。12世紀後半、ジャヤ・ヴァルマン七世により創建されたとされます。アンコールは、「大きい都市」を意味します。「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)を起源とし、「トム」は、クメール語で「大きい」を意味します。
 アンコールトムは、一辺3kmの堀と、ラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれています。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門と勝利の門の五つの城門でつながっています。東西南北の四面には、観音菩薩の4面像が彫刻されています。
 ホテルがあるシェムリアップからは、アンコールトムはアンコールワットより更に北側に位置します。途中まで、アンコールワットの日の出を見学した道を走ったようです。

<アンコールトム遺跡・南大門>
 南大門といえば、韓国の国宝第1号の城門を思い浮かべますが、こちらも立派な南大門です。アンコールトムに五つある門の内の一つです。その城門は塔になっていて、頂部には4面菩薩像が飾られています。
 門から堀を結ぶ橋の欄干は乳海攪拌を模したナーガ(大蛇)になっています。ナーガは、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神のことです。頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身は蛇(コブラ)の姿をしています。天気を制御する力を持ち、怒ると 干ばつに、なだめられると雨を降らすとされます。
 このナーガを引っ張る阿修羅と神々の像が、欄干に並んでいます。蛇の胴体部分が壊れて、それぞれが独立した像のように見えます。門に向かって右手が阿修羅、左手が神々です。アンコールトムを城砦としている、一辺が3キロの環濠は、広さが113mとされます。今は干上がっていて、水はありませんでした。

<アンコールトム遺跡・バイヨン>
 バイヨン(Bayon)は、カンボジアのアンコール遺跡群のヒンドゥー・仏教混淆の寺院跡です。アンコールトムの中央に位置します。クメール語の発音では、「バヨン」の方が近いとされます。バは「美しい」、ヨンは「塔」の意味を持ちます。
 アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤ・ヴァルマン七世がチャンパ王国に対する戦勝を記念して、12世紀末ごろから造成に着手したと考えられています。しかし、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されています。
 当初は大乗仏教の寺院でしたが、後にアンコール王朝にヒンドゥー教が入り、寺院全体がヒンドゥー化しました。これは、建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡があることや、ヒンドゥーの神像があることなどから推測されています。
 クメール様式とされる建築には、アーチ部分の石を水平に少しずらしながら空間を得る、擬似アーチと呼ばれる構造が多用されています。迫り出しアーチとも呼ばれます。アーチとの比較図を引用しておきます。(比較図:記載省略)
 建築全体ではおおむね三層に分かれていて、高さ約43mの中央祠堂を中心に、その第1層に二重の回廊が配置された構造となっています。50近い塔と、百個以上の人面像があります。
 第2回廊には、チャンパ王国との戦争の様子や、バイヨン建設当時の市場や、狩の様子等がレリーフに刻まれ、当時の庶民の暮らしを窺い知ることのできる貴重な資料とされています。
 ところで、チャンパ王国は、192年から1832年まで東ベトナム中部沿海地方に存在した、オーストロネシア語族を中心とする王国でした。カンボジアの東と接した国です。その主要住民の「古チャム人」は、今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされています。中国では唐代まで「林邑」と呼び、一時「環王国」と自称しましたが、宋代以降は「占城」と呼ばれていました。
 第2回廊に刻まれたレリーフは見飽きることがありませんし、巨大な4面菩薩像には圧倒されます。こちらも微妙に表情が異なっていて、興味が尽きません。

<パプーオン>
 ガイドブック等に載っている紹介記事を引用させて頂きます。11世紀に建てられたヒンドゥー教寺院の「パプーオン」は、「隠し子」の意味を持ちます。
 その伝説は、現在のタイ王国のシャム王と、現在のカンボジアのクメール王は兄弟だったことに由来します。シャム王がその往時をクメール王に預けると、臣下は陰謀だとして往時を殺害しました。
 これに怒ったシャム王がクメールを攻めたところ、クメール王妃が、その往時をこの寺院に匿った事が「隠し子」の由来です。アンコールトム以前に建設されたこの寺院は、高さではアンコールトムよりも高かったことが、13世紀の元朝フビライの紀行文に記されています。現在、その中央祠堂が大掛かりな修復工事に入っていました。フランスによる修復工事は、内戦前から始まったようですが、中断を経て、現在も継続中です。
 パプーオンで見逃せないのが空中回廊です。200mに亘り、2mの四列円柱に支えられた回廊は、その後の寺院建築に伝承されました。

<ライ王のテラスと象のテラス>
 象のテラスとライ王のテラスは、隣接した場所にあります。それで、まとめて説明します。最初はライ王のテラスです。三島由紀夫の戯曲の題材にも使われました。その伝説の要約です。
 「その昔、ある王様が密林の中で毒蛇と戦い、仕留める時に返り血を浴びました。これが元で、ライ病(ハンセン氏病)に罹りました」と、言うのがクメールの神話「ライ王伝説」です。
 現在、ライ王のテラスには、その王様の石造が座していますが、これはレプリカです。本物はプノンペンの国立博物館に収蔵されています。
 ところでライ王は、アンコールトムを創建したジャヤ・ヴァルマン七世であるとの説があります。七世王は、道路建設や病院建設などにも熱心だったとされます。しかし、その晩年は、仏教寺院の建設などで財政破綻を招き、王国衰退の原因を作った、ともされています。
 次は「象のテラス」の説明です。「象のテラス」は、王宮前広場に面して、南北方向に300m続く、高さ3mの長大なテラスの呼び名です。12世紀後半、ジャヤ・ヴァルマン七世によって作られ、閲兵等に使われました。
 東方面には勝利の門があり、戦に勝った時、この勝利の門を潜ってアンコールトムに凱旋した兵士達が、この象のテラスで、王の閲兵を受けたとされます。
 テラスの上にはナーガの欄干があり、側壁にはその名の通り象のレリーフが施され、格好の撮影ポイントとなっています。レリーフの主題は、主に象による狩の様子です。テラスの北側の側壁にはガルーダのレリーフがあるようですが、残念ながら見落としました。

<タ・プロム遺跡>
 アンコール遺跡群の中でも、巨大なガジュマルに絡みつかれたタ・プロムの写真には、少なからず驚かされていました。
 そのタ・プロム(Ta Prohm)も、アンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院や宮殿などの遺跡群の内の一つです。12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡です。創建したのは、クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤ・ヴァルマン七世です。仏教を信仰した王です。
 ところで、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続されています。熱帯の巨大な樹木は、遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論です。
 一般に遺跡の修復は、崩れている石材を積み直し、失われた部材を補充して、かつての姿を取り戻すために、作業計画を立案します。しかし、タ・プロムから巨木を切り払い、崩れている石材を元に戻した場合、この遺跡の魅力が失われる可能性があります。それほどまでに、ガジュマルの根に侵食されたタ・プロムの遺跡は有名になってしまいました。
 そのタ・プロムは、7世王が母の菩提を弔うために建造した仏教寺院です。境内は、東西が1000m。南北が600mの塀に囲まれています。以前は縦横に回廊がありましたが、今は壊れ去っています。
 ガジュマルの樹に侵食されたのは、13世紀後半にシャム軍に侵略を受け、また、内部分裂で、国が乱れたため、数百年に亘って熱帯雨林の中に放置されたためとされます。屋根や塀の上にガジュマルが育ったのは、小鳥の糞によって、ガジュマルの実が運ばれたためとされます。

<午後にもう一度、アンコールワット遺跡へ>
 アンコールワットの主要門が西側に作られていますから、午前中は逆光となります。見学する時間帯としては相応しくありません。それで、アンコールトム等を午前中に見学し、午後にもう一度アンコールワットを訪ねました。
 フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しながら、アンコールワットのあらましを説明しておきます。
 アンコールワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤ・ヴァルマン二世によって、ヒンドゥー教寺院として30年余の歳月を費やし建立されました。しかし、1431年頃には、アンコールワットが放棄されました。
 その後、プノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られましが、再発見されました。アンチェン一世は1546年から1564年の間に未完成であった第1回廊北面とその付近に彫刻を施しました。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を、四体の仏像に置き換えたとされます。
 アンコールは王都、ワットは寺院を意味します。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも象徴として描かれています。

<第1回廊、南面のレリーフ>
 南面西は「歴史回廊」と呼ばれています。行幸するスーリヤ・ヴァルマン二世と、それに従う王師、大臣、将軍、兵士などが彫られています。それに続く南面東は、「天国と地獄」と呼ばれています。上段に天国へ昇った人々、中段に閻魔大王らとその裁きを待つ人々、下段に地獄へ落ちた人々が彫られています。地獄では痛々しい刑が行われ、ライオンに食い付かれている人のレリーフもありました。また中段から下段への落とし穴も描かれていました。
 レリーフの保存状態は良く、修復の跡も見受けられませんでした。黒光りするレリーフは、見学者が手を触れたためとされます。このままでは磨耗してしまいますから、現在は木の柵が置かれて、直接手に触れることはできません。
 天井はフランスによって修復されていました。修復時点では、原形が残っていなかったそうですが、付近の文様を参考に花弁模様の天井が造られています。クメール・ルージュ支配時代に仏像の多くが首を斬られ、敷石にされたなど、多くの文化財の被害を受けました。この壁面のレリーフの被害が無かったことは、カンボジアだけで無く、世界の遺産としても幸いでした。

<アンコールワット遺跡、東面のレリーフ>
 東面南側には、乳海攪拌の様子が彫られています。神々と阿修羅等が大蛇ヴァースキを引き合ってマンダラ山を回し、海を混ぜている構図です。その伝説について説明します。少し長くなりますが、フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照しました。
 「神々と阿修羅が、不老不死の妙薬アムリタを手に入れようと考えた。ヴィシュヌ神の化身である大亀クールマに大マンダラ山を乗せ、大蛇ヴァースキを絡ませて、神々とアスラがヴァースキを引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。海にすむ生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になった。さらに1000年間攪拌がつづき、乳海から白い象アイラーヴァタや宝石、聖樹、天女ラムバー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミらが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れた。しかしアムリタをめぐって神々と阿修羅が争いを続けることになった。
その結果、アムリタは神々のものとなったが、神々がアムリタを 飲むさいにラーフという阿修羅がこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤でラーフの首を切断した。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようとする(日蝕・月蝕)。その体ケートゥとともに凶兆を告げる星となった」と、説明されています。
 日本神話はギリシャ神話に起源を持つとされる説や、中国や東南アジアの神話との共通性を持つことが指摘されています。
 例えば、イザナキ・イザナミが島々を生んだ後、神々を生み出していった、国産み(くにうみ)と神産み(かみうみ)の神話、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島になり、国を引いた綱が弓浜半島になったとする出雲に伝わる国引き(くにびき)の神話、太陽神であるアマテラスが隠れ、世界が真っ暗になってしまった天岩戸(あまのいわと)神話、8つの頭と8本の尾を持ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)神話など、限が無いほどです。
 こんな日本神話との共通性や、カンボジア独特の表現を持つ神話を比べながらの見学も楽しいものです。建造物等も、夏至、春分、秋分等の天体活動を考慮した造りとなっているようです。

<アンコールワットの石段登り>
 第2回廊は、東西115m、南北100mあります。彫刻などは無く、何体かの仏像が祀られているだけの、飾りの少ない回廊となっています。この場所から第3回廊へは、幅が狭く、急な石段を登って入ります。両手両足を使わなければ登れません。
 最初は登るのを躊躇しましたが、東京からツアーに参加された方の5歳になるErkちゃんが、1人で登ってしまいましたので、私も登ってみることにしました。下りの方が大変でしたが、上からの眺望はそれを補うに十分でした。第2回廊の先に、熱帯雨林が広がっていました。
 アンコールワットのおさらいです。130年余り密林の中で眠り続けていたこの寺院は、ヒンドゥー教三大神のうちのヴィシュヌ神に捧げるために創建されました。以前に開催された「大アンコールワット展」の説明文から、アンコールワットの見所を要約しておきます。
 「その後、創健者スールヤ・ヴァルマン二世がヴィシュヌ神の生まれ変わりの神王と考えられていたため、王の死後は墳墓寺院となりました。中央の祠堂は、世界の中心山で神々が住む須弥山を象徴し、周囲の回廊は雄大なヒマラヤ連峰を、環濠は無限の大洋をあらわしています。
 アンコールワットは、まさに王権を神格化するためにクメール人独自の「宇宙観」を実現したものだと言えます」と、紹介されていました。

<プノンパケンの丘からの夕陽>
 プノンパケンの岡は夕陽見学の名所です。夕刻になりますと、続々と車が集まってきます。象に乗るとか、急坂を登るコースもありますが、緩やかな登山道を登るコースを選びました。
 大変なのは、日没後の下山です。大混雑しますから、現地ガイドさんが、日没前の集合時間を決めてくれました。観光客が乗り込み終わらないバスが、道を塞いだりしますと、すぐに大渋滞となります。
 乾季のこの時期、空が霞んでいますから、ゆっくりと熱帯樹林に沈んでいく夕陽を直視することが出来ます。岡の上は、ヤショ・ヴァルマン一世が9世紀末に創建した、ヒンドゥー教のピラミッド型遺跡があります。

<民族舞踊を見ながら夕食>
 カンボジアの舞踊には、王宮内で存続してきた王宮古典舞踊と、農民など庶民の間で受け継がれてきた庶民舞踊との二つの流れがあります。この夜、食事をしながら鑑賞したのは、王宮古典舞踊でした。
 王立プノンペン芸術大学の古典舞踊科を卒業され、今はカンボジア古典舞踊家として活躍されている山中さんのHPを引用しながら、カンボジアの古典舞踊について説明します。最初はその起源です。
 「カンボジア古典舞踊の歴史をたどると、インドのヒンズー教の影響を受けたクメール民族が、それを自分たち独自の文化として開花させ、9世紀から14世紀のアンコール王朝時代に、アンコールワット遺跡群で、神々と王に捧げるために儀式の中で踊っていた舞踊が始まり」と、紹介されています。次は、その後の盛衰です。
 「その後、アンコール王朝は衰退し、(中略)古典舞踊も廃れていきますが、19世紀フランスの植民地になり、民族の独立を確保したいクメール民族と自らの植民地を『東洋の神秘』としてヨーロッパで宣伝したいフランス側の意向が重なり、再興されました」と、盛衰が記されていました。次は、一番不幸だった時代のことです。
 「多くの国民、そして舞踊家や踊りの先生の9割が、このポル・ポト時代に殺されてしまいました」
 この記述は、ほかのHPにもありましたし、現地ガイドさんからもお聞きしました。僅かに生き残った舞踊家により、その踊りが復興されつつあります。次は、カンボジア舞踊の特徴です。
 「踊りそのものは、指先・足先をそらせること、ポーズや手の印の形、きらびやかな衣装、高い塔を持つ冠、ラーマヤナ物語を元にした話が多いことなど、タイやラオスの舞踊と大変似ています」と隣国との共通性についても触れられていました。更に、
 「今のカンボジア人にとって古典舞踊は、彼らの敬愛する王家に捧げるものであり、自分たちの民族のアイデンティティの証であり、アニミズムと祖先崇拝による彼らの宇宙観を伝えるもの」と締め括られていました。舞台袖で、熱心に踊りに見入る、欧米からの子供さんが居ました。


  アンコールワットの夜明け
 夜明け待つ泉はやがて薄明かり赤き睡蓮花開きたる

  アンコールトムで
 千年の時経て四面の菩薩像何を諭すかその目その口

 国創り神話の世界刻まれて阿修羅神々大蛇綱引く

  タ・プロムで
 SFの世界かガジュマル天を突き白き太き根塀を跨ぎぬ

  アンコールワットで
 石段を両手使いて頂きに果無く続く熱帯雨林

  プノンクロムの夕陽
 天空を渡り終えたる太陽は茜に染めて今沈み行く

同行者
一人旅
航空会社
タイ国際航空

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  • ホテル出発は5時20分でした。昨晩はホテルへチェックインした後、外出なしでした。十分な睡眠が取れました。アンコールワットの日の出見学です。

    ホテル出発は5時20分でした。昨晩はホテルへチェックインした後、外出なしでした。十分な睡眠が取れました。アンコールワットの日の出見学です。

  • アンコールワットのシルエットが浮かび上がってきました。日の出はもう直ぐです。現地ガイドのペン・ホーさんは6時45分頃の日の出予測でした。

    アンコールワットのシルエットが浮かび上がってきました。日の出はもう直ぐです。現地ガイドのペン・ホーさんは6時45分頃の日の出予測でした。

  • 日の出はもう直ぐです。アンコールワットのシルエットが明るみ、次第にその造作まで見えるようになってきました。

    日の出はもう直ぐです。アンコールワットのシルエットが明るみ、次第にその造作まで見えるようになってきました。

  • この時期の日の出は、アンコールワットに向かって右手の方でした。明るんできた空の色が、右手の方が、次第と赤みを帯び始めました。

    この時期の日の出は、アンコールワットに向かって右手の方でした。明るんできた空の色が、右手の方が、次第と赤みを帯び始めました。

  • 右手の森の上に、ほぼ太陽の全景が見えてきました。空の色も微妙にグラディションになっていました。待った甲斐があったこの朝の見学でした。

    右手の森の上に、ほぼ太陽の全景が見えてきました。空の色も微妙にグラディションになっていました。待った甲斐があったこの朝の見学でした。

  • アンコールワットの東門近くです。この場所でずっと、日出を待っていた人達もいました。

    アンコールワットの東門近くです。この場所でずっと、日出を待っていた人達もいました。

  • 朝早く出かけた甲斐がありました。アンコールワットの日出ショーを存分に堪能できました。

    朝早く出かけた甲斐がありました。アンコールワットの日出ショーを存分に堪能できました。

  • 日の出を見学した後の集合場所です。見学を終えた人達が、三々五々に集まっていました。正面の遠くには、アンコールワットの塔が見えます。

    日の出を見学した後の集合場所です。見学を終えた人達が、三々五々に集まっていました。正面の遠くには、アンコールワットの塔が見えます。

  • 森の上に太陽が顔を出しました。空には鳥が飛び交い始めました。

    森の上に太陽が顔を出しました。空には鳥が飛び交い始めました。

  • 日が昇りました。乾季のこの時期、少し空気が霞んでいますから、太陽を直視することができます。堀にも朝日が写っていました。

    日が昇りました。乾季のこの時期、少し空気が霞んでいますから、太陽を直視することができます。堀にも朝日が写っていました。

  • 一旦、ホテルへ戻って、朝食を済ませた後の見学です。次は巨大な遺跡のアンコールトムの見学です。前方に見えるのは南大門です。

    一旦、ホテルへ戻って、朝食を済ませた後の見学です。次は巨大な遺跡のアンコールトムの見学です。前方に見えるのは南大門です。

  • 南門から中央部分のバイヨンまでは、象に乗って見学することができます。その距離は、約1.5キロです。その象の乗り場です。<br /><br />

    南門から中央部分のバイヨンまでは、象に乗って見学することができます。その距離は、約1.5キロです。その象の乗り場です。

  • 観光客が乗っていない象さんです。段差がある場所を越えようとする瞬間です。少し千切れた大きな耳の端には、白っぽい部分がありました。

    観光客が乗っていない象さんです。段差がある場所を越えようとする瞬間です。少し千切れた大きな耳の端には、白っぽい部分がありました。

  • 今、象の上に乗り込んだばかりです。2階建ての高さです。2年ほど前のタイ旅行の際に乗ったことがありますが、結構、前後左右に揺れました。

    今、象の上に乗り込んだばかりです。2階建ての高さです。2年ほど前のタイ旅行の際に乗ったことがありますが、結構、前後左右に揺れました。

  • 沿道のお土産屋さんです。長い草葺の屋根の下で。日除けの帽子や民芸品を売っていました。草葺の屋根は椰子類の葉のようでした。

    沿道のお土産屋さんです。長い草葺の屋根の下で。日除けの帽子や民芸品を売っていました。草葺の屋根は椰子類の葉のようでした。

  • 二輪車を単車で引いた3輪車です。象と同じように、これに乗っての見学も出来るようでした。ちゃんと、日除けの屋根付きです。

    二輪車を単車で引いた3輪車です。象と同じように、これに乗っての見学も出来るようでした。ちゃんと、日除けの屋根付きです。

  • 南大門が更に近づいてきました。正面と左右の面がかなりはっきりと見えてきました。観光スポットですから、大勢の人出となってきました。

    南大門が更に近づいてきました。正面と左右の面がかなりはっきりと見えてきました。観光スポットですから、大勢の人出となってきました。

  • 南大門の前の石像です。左側の像は阿修羅とお聞きしました。顔がいかつい感じの石像です。白っぽいお顔は、あとで修復された頭部です。

    南大門の前の石像です。左側の像は阿修羅とお聞きしました。顔がいかつい感じの石像です。白っぽいお顔は、あとで修復された頭部です。

  • 神様の列です。大蛇を引いていた元の姿は失われて、単独の像のようになっていました。黒ずんだ像は、建造当時のままのようです。

    神様の列です。大蛇を引いていた元の姿は失われて、単独の像のようになっていました。黒ずんだ像は、建造当時のままのようです。

  • 頭にとんがり帽子を被った像を持つ南大門が、すぐ近くになりました。アンコールトムは、アンコールワットの後に建てられた、巨大な寺院遺跡です。

    頭にとんがり帽子を被った像を持つ南大門が、すぐ近くになりました。アンコールトムは、アンコールワットの後に建てられた、巨大な寺院遺跡です。

  • 8つの頭を持った大蛇、ヴァースチの頭部です。ヒンデュー教の神話が基になっています。色がまだらなところは、部分的に修復がされているようです。

    8つの頭を持った大蛇、ヴァースチの頭部です。ヒンデュー教の神話が基になっています。色がまだらなところは、部分的に修復がされているようです。

  • 阿修羅と綱引きをされた神様のグループの像です。いくつか紹介します。上半身は、建設当時のままのようですが、頭部は新しく造られたものです。

    阿修羅と綱引きをされた神様のグループの像です。いくつか紹介します。上半身は、建設当時のままのようですが、頭部は新しく造られたものです。

  • この顔も、阿修羅と対抗する神様の方です。やはり頭部だけが、後から修復されたようです。おそらく、切り取られ、持ち去られたのでしょう。

    この顔も、阿修羅と対抗する神様の方です。やはり頭部だけが、後から修復されたようです。おそらく、切り取られ、持ち去られたのでしょう。

  • この像の頭部も白っぽいですから、後から修復されたものでしょう。神様の方は耳が長いですが、その特徴がありませんから阿修羅像でしょう。

    この像の頭部も白っぽいですから、後から修復されたものでしょう。神様の方は耳が長いですが、その特徴がありませんから阿修羅像でしょう。

  • 南大門上部の菩薩頭部のアップです。この写真で見る限り、南門は、ポルポト政権時代や、その後の内戦被害は少なかったように見えます。

    南大門上部の菩薩頭部のアップです。この写真で見る限り、南門は、ポルポト政権時代や、その後の内戦被害は少なかったように見えます。

  • 南大門に向かって右手方向の写真です。この部分は、城の防衛機能としての、水濠があった場所でしょう。幅が113mあるようです。

    南大門に向かって右手方向の写真です。この部分は、城の防衛機能としての、水濠があった場所でしょう。幅が113mあるようです。

  • かなり風化が進んだ石像です。城塞都市のアンコールトムは、12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたと言われています。

    かなり風化が進んだ石像です。城塞都市のアンコールトムは、12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたと言われています。

  • 南大門前の賑わいです。1辺が3キロのアンコールトムには東西南北に4つと、もう一つ勝利の門があります。一番重要なのが、この南大門です。

    南大門前の賑わいです。1辺が3キロのアンコールトムには東西南北に4つと、もう一つ勝利の門があります。一番重要なのが、この南大門です。

  • 南大門の塔の高さは、25mとされます。その真下からの撮影です。4面を向いて造られているのは、菩薩像です。それぞれ喜怒哀楽を表すものとされます。

    南大門の塔の高さは、25mとされます。その真下からの撮影です。4面を向いて造られているのは、菩薩像です。それぞれ喜怒哀楽を表すものとされます。

  • 南大門の右手部分のアップです。細かな造作がされていたようですが、壊れた部分もあるようです。この写真の一番上には、小さな顔が彫られています。

    南大門の右手部分のアップです。細かな造作がされていたようですが、壊れた部分もあるようです。この写真の一番上には、小さな顔が彫られています。

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