isabonさんの行ってきます一覧(2ページ)
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2013/02/23 投稿
AIRASIAのセールで、成田⇔新千歳が5000円弱であった。夫婦で往復20,700円程度である。ついふらふらと、6月中ごろの往復を買ってしまった。これから計画だ。
釧路のホテルはビジネスホテルのようなホテル946を2泊、夫婦で、素泊まり10,500円とこれは安い。更に釧路湿原パーク憩いの家を2泊、夫婦で1泊2食35,600円と、かなり高い。
で、そのまま放っておいたが、新千歳⇔釧路の計画が必要だ。
調べると、特急おおぞらで、自由席片道8,220x2人x往復=32,880円も掛かる。驚いた。ついふらふらと、新千歳便を買ったのだが、新千歳と釧路はかなり遠く、金が掛かるのだ。航空便を見直すと、成田⇔釧路の直行便は無いが、羽田⇔釧路の直行便があり、安い時に買うと、往復20,000円強/1人らしい。これでは、新千歳便を買うべきではなかったと、安い新千歳⇔釧路の交通を更に調べることにした。
帯広⇔釧路間は、自由席往復S切符が5,200円、新千歳空港⇔帯広がバスで、片道3,300円があることが判った。夫婦合計23,600円
若しくは札幌まで行って、都市間バスだと、往復10,200円で夫婦で20,400となる。が、問題は都市間バスは釧路着が夜中近くなることで、これは検討対象から外した。新千歳⇔帯広のバスについては、飛行機到着とバス発車時間が1時間程度しかない。成田発11:40発は、新千歳便の2便目だから、1往復目で遅れるとその分が簡単に遅れる。その場合、それと、予約できない帯広行きバスが満席の場合は、帯広まで列車になる。
新千歳便1便は7:15だから、早朝行動すれば出来ないことはない。が、女房殿は厭だと言う。最近はいよいよ女房殿は僕の節約行動に反射的に反対する習性が身についたようだ。こうなると、がんとして言うことを聞かなくなる。あきらめて、11:40発で行き、遅れれば列車で帯広まで行くことにした。
北都交通? バス事業部 [hokto-nb@guitar.ocn.ne.jp]に問い合わせると、航空便が遅れたことでキャンセルになった場合はキャンセル料不要とのことであった。
かくして、申し込みはとかちミルキーライナー予約受付 [milky-bus@obiun.co.jp]で行ったら、夫婦往復だと、回数券で11,600円となり、1人片道3,000円を切れた。
帯広⇔釧路のS切符は、時間が有れば新千歳駅で、時間が無ければ帯広駅で買えば良い。これは往復1人5,200円だ。
続いて、阿寒バスで、ピリカ号4,500円とノロッコ号で湿原ツアー3,200円を予約した。
http://www.akanbus.co.jp/sightse/index.html
これで予約は完了です。 -
小隊長ダージリンに再チャレンジ
出発:2013年05月09日~(10日間)| 航空会社:中国東方航空 エリア: その他の都市
2013/02/10 投稿
僕は、単独行でダージリンをめざしたが、ダージリンの宿を予約しておらず、それがしかも、インド大祭のさなかで、グームまでは到達したが、宿がまったく取れずに撤退した経験がある。そこで今回は老弟、老嬢達をひきつれて、全てを予約して行くこととした。またまた、東方航空で、デリーが安かったので、一人45,000円で、これは何と、その後予約したアンコールワット往復の料金と同値段と安かった。しかも、共に上海経由だから昆明通過の苦労はなさそうに思える。それはともかく、デリーから列車では大変なので、AirIndiaも往復15000円程度で予約した。
デリー到着が夜遅いので、空港近くのEurostarInternationalも1000円/1人程度で予約した。更に、ダージリンの宿は5泊送迎付で、10,000円/1人で予約した。
後は、ダージリンでのツアーの計画と、帰路デリー2日間の宿予約を含めての過ごし方を計画しなければならない。
そうそう、列車の予約も必要なので、インド国鉄のメンバーになったが、参考のためにその手順を以下に記載する。ただ、これで予約が取れるか否かは、これから実行します。
「インド国鉄メンバーになる手順」
sign upするには、インドの携帯番号入力が必要ですが、
あなたにはありません。
申請が完了すると、E-MAILが送られてきて、別に、携帯に携帯用PassWardが送られてきて、それをE-MAILの指示に従って入力すると、SighUpが完了します。
が、あなたにはインドの携帯がありません。
そこで、IRCTCにメールで、Sign-UPしたいが携帯がありません。どうすればいいですか?と問い合わせると、
インドの携帯でなくともいいいから入力しなさい。携帯PassWardは、申請のSubmitが終わったことを連絡してくれれば、そのE-MAILに送る。なお、あなたのパスポートの電子データをその連絡メールに添付してください。」と連絡がきます。
そこであなたは、申請入力して、submitします。Submitがうまく行くと、画面上で「successfulyに申請された。e-mailを送るので、携帯に送る携帯PASSWARDを入力すれば、申請は完了し、会員パスワードを送る」
と表示があります。そうして、携帯パスワードを入力して申請を完了するE-MAILが送られてきます。
なお、submitのための入力に失敗する(これが簡単に失敗するんですね)と、その前に入力した、E-MAILとか仮携帯番号は無効になるので、両方とも予備を準備しとく必要があります。E-MAILは重要ですから、WebE-Mailを複数個用意することです。仮電話番号は結局は無関係ですから、一桁数字を変えるとかでいいです。
SUBMITが成功したら、「Submitに成功した。パスポートを添付します。携帯パスワードを送ってほしい。名前はだれだれ、e-mailは何々」その他識別すべきがあればそれもメールすれば、携帯PASSWARDが返信が送られてきます。パスポートはあなたの写真があるページをスキャンしてPDFにしたのを添付しましょう。必ず添付で送りましょう。
これを先のe-mailの指示通り入力すれば、会員パスワードが送られてきます。
登録e-mailだったか、あなたの登録名(本名ではなくて登録した登録名)と会員パスワードでIRCTCにSignINして、会員Pasuwardを変更して完了です。
さて、clearTripの画面の中に、IRCTCの会員が入れる画面があったと思います。
そこで、切符が買えるようになるわけです。
さてダージリン旅行計画はこれからが、最終段階です。
先ず列車切符ですが、あらゆる手段を尽くしたのですが、結局失敗の連続でした。あきらめて、ダージリン鉄道は、現地のホテルに頼み購入です。自分で買えば1人片道100〜120RSですが、業者は270RSを言ってきました。仕方なく発注しました。
ビザ取得は、その経験談を示すと下記です。
茗荷谷インドビザセンターでの経験です。
●先ずはONLINE申請が必須ですが、以前に比して極めて面倒な入力が必要です。
●添付写真は正方形サイズで、容量は250KB以下です。
●ONLINE入力ですから、その内容が細かい誤りがあっても、再入力と出力が必要です。
センターでの手書き修正は許されません。ですから、遠方地から来られる場合は、若しかを考えて入力装置を持参の方が安心でしょう。
私の場合、既に無効になっている以前のインドVISAの発給日で、xx/Aug/20XX がVISAに記載されているのを、ONLINE入力は、月も数字入力ですが、間違って、xx/09/20XX と書いてしまい、出力は再び月は英語表記に変換されて、xx/Sept/20XX となっていました。これだけで、再提出となり泣く泣く家に帰りました。
●WEB申請ページには、申請書の枚数は書いていませんが、一枚だけで良いのです。
●SingleVISAもあるかのような料金表示ですが、Singleとして記載しても、結局はMultiVisaが発給され、その金額が徴収されます。関東地区の人は、2135円で、九州の人はなぜか500円高いです。
●添付写真は、背景が色が着いていると受付けてくれません。必ず白に近い色であることが重要です。眼鏡は着けない写真が無難です。待っている間に背景色がだめだと、近所の証明写真を撮りに行く人が二人も居ました。僕の写真の背景はクリーム色だったので、露出を強くして変色させましたが、それでもOKでした。
●申請は、観光VISAはB窓口です。別の窓になる可能性もあり、何の説明書も書いていませんから、解らない場合は必ず聞くことです。ビサセンターは、ただ待っていても無意味です。
●申請日時の指定は、突然無くなりました。その記載は、ビザセンターWEBの端にちょこっと出ました。混むと再び再開になるかもですから、WEBを必ずチェックしましょう。
●受取日は一週間後(観光ビザの場合)と言われます。何の記載もありません。
●受取は、夕方の5時からですが、私が5時前に入ったら、30人分はある椅子にはびっしりと申請者が座っていました。受付はひとつの窓口(受取説明書に書かれたカウンターとは全く違う)の紙箱に受領書を入れるのですが、箱が満杯になるといったん箱は取られてしまうので、その後で来た人はどうすれば良いのか全く分からなくなります。その時でも、必ず窓口に聞きましょう。
それにしても、夕方の5時からって、遠方から来る人にはつらい時間帯です。冬は特に寒いので困ります。近くに図書館があり、地下鉄駅前の掲示板に位置は書いていますから、そこで休憩できます。でも図書館は月曜は休みですよね。
●定刻になると、一つの窓口から一人ずつ名前が呼ばれます。ひとりずつひとりずつ呼ばれるので、衆人環視状態下での手渡しです。変なシステムです。パスポートを受取ったら、ありがとうって礼を言いましょうね。僕は、二人の老嬢分を、代理受取したので、礼を言う気分的余裕がなかったです。委任状を用意したのですが、委任状を殆ど確かめないのが不思議でした。
てなことで、ONLINE方式になり状況はより複雑になりました。
ところで、受取は、実際には少なくとも20分前から受付は始まっています。
宿泊地は以下の通りです。
デリー到着日は、夜遅いので、空港そばのホテルです。
評価も載っています。
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g304551-d1106938-Reviews-EuroStar_International-New_Delhi_National_Capital_Territory_of_Delhi.html
位置は、GOOGLEで、N28.546727E77.126255
METRO空港駅(ターミナル3の前)の、ひとつ東側の、AERO CITY駅ですが、夜遅くてMETROは動いていません。TAXIです。
翌朝はMETROで空港へ行きます。
これで調べていて判ったのですが、ターミナル3は北を向いていて、向かいにターミナル2があり、その間を地下鉄が通っているのです。ターミナル1は北東の外れにあるようです。
DARJEELINGは、SNOWLION HOMESTAY
http://www.snowlionhomestay.com/Index.htm
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g304557-d612067-Reviews-Snow_Lion_HomeStay-Darjeeling_West_Bengal.html
空港から車で行きますが、場所は、GOOGLEで、
N27.039007E88.266193
ふたたび、デリーに戻り、HOTEL VISTA INN
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g304551-d2013787-Reviews-Hotel_Vista_Inn-New_Delhi_National_Capital_Territory_of_Delhi.html場所は、GOOGLEで、N28.6506E77.190928
です。地下鉄ではIGI AIRPORTからAIRPORTLINE(オレンジ)一つ西の終点で、DEWARKAで、BlewLineに乗り換え、
Karol Bagh で降りて、北に約1kmです。
ここを拠点に、地下鉄でデリー観光をします。
その後、急激な円安で、予算が上がってしまった。が、保有外貨系資産も上がっているから、差し引き損は無い筈です。例えば、以前に豪州旅行した時に70円で買った1000豪州ドルT/Cだけでも、かなり儲かっているのですから。
それはともかく、計画の仕上げとして、デリー到着日の真夜中と翌日の空港へのタクシーはやはりホテルに送迎を頼みました。5人乗りで空港から700RS、空港へは350RSです。
ダージリンでのツアーもホテルに頼みました。5人分です。
早朝のタイガーヒル他訪問早朝ツアー 1500RS
紅茶園とか市内主要ツアー 1,850RS
ネパールとの境界1日ツアー 3,100RS
ロックガーデン等半日ツアー 1,850RS
です。
帰国時デリーの宿、HotelVistaINNは、ホテルズ.comでの地図位置と、地球の歩き方や、Agodaの地図位置が異なるので、ホテルに問い合わせ中です。しかし返信はなかった。で、結局ホテルの場所は、地下鉄カロールバルから徒歩5分で極めて便利であった。
が、グーグル地図や一部のホテル検索の位置とは違っていて、地球の歩き方の位置が近いが、それも微妙に違っている。これは、Saraswati通りやMaharanaPratap通りが実際にはとても狭い道とすれば一致する。但し、地球の歩き方の場合だ。
● 旅行経過
成田空港に着くと、3時間前であった。チェックインは2時間半前とのことだが、看板の前で順番を取れるようになっている。行きも帰りも東方航空は融通がきいて、切符はQステータスだが、東京発や逆にデリー発で早めにチェックインすると、良い席が取れるようだ。東京発上海経由は荷物も搭乗券もデリーまで対応してくれる。HP記載とは違い、デリー発も荷物・搭乗券も東京や関空まで対応してくれる。これもHPとは異なるが、上海では入出国手続きなしで、TransferServiceなるカウンターで、TRANSIT処理して、ここからセキュリティ経由で3階に上がれば搭乗ゲートに直行であった。大阪組はこれに気付かず、入出国手続きをして1階から上がってきて無事に搭乗ゲートで合流できて、老老男女5人での行動となった。
初日は、夜中の2時にデリーに着き、外部の人間が入れない到着ロビーでATMで10,000RSをキャッシングして、外に出ると、運転手も入れる外側ゲートの6番に僕の名前を持った運転手を見つけた。ホテルは空港から1kmで、狭い路地にあった。風呂も入らず仮眠を取った。クーラーは効かず扇風機が天井で回っていた。ホテルは3室で3000RSだから、1000RS/室と、安くはない。TAXI代金は、700RS+500RSであった。
空港で朝食を取ったが、その売り場の女性が、以前にも来ましたね、と挨拶した。僕も有名になったものだ。
DARJEELINGもよりのBagdogra空港(N26.699919E88.316345)には簡単に着いた。空港は小さな空港であるが、清潔で過ごしやすい空港であった。出口には僕の名前看板を持つポーターも見つけ、駐車場に案内した。そこから3時間半を掛けて、高度2400mのダージリンに夕刻到着した。道路はシリグリ(N26.714027E88.420372)からダージリンへのHillCartRoadとクルシャン(N26.879512E88.276863)で合流するRohiniRoadなる道路で、かなり整備された道であった。道はBalasonRiverに沿っている。
なお、5人旅行のため、全旅行期間中、デリーのクトウブミナールへのMETRO駅からの往復をオートリキシャ利用とメトロ利用以外、空港との往復、ダージリン移動は全て4駆の大型ジープ利用となった。その分、デリー空港への送迎費は高くなった。
そんな理由で、前回のダージリン挑戦とは違い、簡単に、ダージリンに着いてしまった。ダージリンには乞食もオートリキシャは全く居ない。ちょっとインドの都市からは想像できない街だ。しかし、その分、四駆や普通車が街への道路や街内にあふれて交通渋滞が常態化している。
宿の紹介や、環境を書くと以下の通りだ。
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宿SnowlionHomestay(N27.038744E88.265834)は古いが清潔です。建物は西斜面に建ち、2階の4室のうち、2室からヒマラヤが見えます。最上階3階はオーナーが住み、朝食・リビング用広間がある。部屋の中には、便座とシャワーが隣接するのがあり、便座カバーシート準備が良いです。シャワーは電熱タンクで、1人分です。複数人数では時間を開けて入りましょう。30分も待てば十分です。
操作には要領があり、冷水及び温水蛇口の他に、下蛇口と上蛇口(シャワー)其々のハンドルがあり、下を閉めて上を開ければシャワーにながれます。逆で下蛇口から出ます。先ず下蛇口を開けて、温水、冷水蛇口の操作で水温を設定し、下蛇口を閉め、上蛇口を開いてシャワーに流します。
朝食は8時からでなかなかおいしいです。早朝出発の場合、前日にバナナとビスケットをもらいましょう。夕食は準備できないですが、出て右側(北側)に進み、先の階段道を斜面側に下がると、レストランのペナンPENANGがあり、安くおいしいです。または、階段を下りずに進むと時計台の上に出て、すこしで、右側建物に、KungaResturantはおいしく安いです。狭いので2Fにも清潔な高めのレストランがあります。なおこの道をまっすぐ、歩行者天国を更に進むと、直ぐにチョーラスターです。
駅には、出て左(南側)に少し行くと、斜面を下る道があり、直下降方向に下ると、駅の北端におります。
ツアー内容、価格は各部屋のファイルに記載されていますし、予約時に連絡すれば送信してくれます。送迎価格も記載されています。連絡は、オーナーの息子mr.Gailが行いますが、現地ではあまり姿は見せず、彼の父母が3階で対応してくれます。なお、ホテルの受付でツアーアレンジはやってくれます。
Wifiは不調です。IPアドレス入力法で対処出来るらしいですが、判らんのであきらめました。どうしてもNETをしたいなら、ホテル側にセットしてもらいましょう。
紅茶の店は、Penangへの階段道を降りて左にモール(N27.039499E88.265083)があり、この入口及び内部にも店があり、両店とも対応は良いです。紅茶には初回摘み、2回目摘み、3回目摘み、それに、本年度産か昨年度産か、の区別があり、品種、及び、摘み(初回〜3回の)価格表があり試飲させてくれます。GreenTea(緑茶でない)とかwhiteTeaとかもありますが、高いです。でも試飲させてもらえば良かった。
Taxiと交渉して個人的にHappy Valley Tea 工場(西斜面北側)に行って試飲も含めて値段交渉するのがベストかな、と思います。(ツアーで行くと、運転手が自分の知る店に連れ込む)
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ってなことで、朝食以外はレストランで食べたが、大体、1人当たり100RS〜200RSで充分に食べられる。ツアー料金は先に書いた通りで、我々は5人グループだから自分たちだけで行動出来た。少人数の時は、恐らくグループツアーがあると思える。
ツアーとしては、初日はダージリン鉄道でクルシャンまでを往復した。この列車は何度乗っても楽しい。グームの手前で、ループがあり左側窓の下の方に線路を見かけた。
クルシャンでは下に向かう道路に沿って行くと、HotelAmarJeetのレストランが雰囲気も良くおいしい。クルシャンはいつも人でいっぱいなのだが、その理由が良く理解できない。
到着3日目はTigerHillに行く予定であったが、天候が良くなく4日目に変更してもらい、
3日目はMilkiLake(N26.890842E88.184509)周辺とネパール国境のツアーとした。GoomからMirikLakeに降りてくる道は、ネパールの東端の国境に沿っていて、Sumira(N26.948507E88.121982)って所に国境Gateがある。
Lakeは標高1600m程度の谷間にあり、インド人に取っては避暑地のようであるが、特に素晴らしい景観は無い。標高の高い所は森林で、ネパールまで続く広大な森林らしい。標高が低い所は茶畑が延々と続き、村々は、茶摘みで生計を立てているように思える。ネパールへの国境は現地人には自由に往復出来て、それぞれの国の事情で物の価格が異なるので、かなりの交易が行われているようだ。食事はMirikLake街で取ったが、なかなか清潔なレストランである。旅そのものは、森林と茶畑の中ばかりって単調なものだが、ネパールとの国境を走るって稀有の旅であった。
ところで、グームの直前で運転手(DAWAっておしゃべりな男)が、「今天気が回復した。今の内にTigerHill(N26.994825E88.285189)に行くとヒマラヤが見える。追加金額は900RSだ」と言いだした。ちょっと悩んだがOKとした。で、ヒマラヤを遠望したが、今回の旅でこの機会が唯一のヒマラヤ遠望となった。お調子運転手ではあったが感謝せねばなるまい。
なお、頂上へは10RSが必要となる。
この時期は天候が急変するので、晴れ間を縫ってTaigerHillに行くことが重要だ。
翌日は、早朝から天気が良く、ヒマラヤ遠望日和であった。今日は運転手がDAWAではなかった。どうやらDAWAは儲けになる仕事を選んでいるようだ。再びGOOMへ降りてTigerHillへと登った。前回の切符売り場で、今回は寒いので遠望室の切符を50RSで買った。が、上に上がると霧が掛かっていて、様子は悪化の一途で会った。
多数の椅子が東向きに配置されていて、朝日を見るようになっていて、観光客は我先にと椅子にすわる。が、ヒマラヤは北から北西だから、ヒマラヤを見るときは椅子から離れねばならない。無償のTEAやクッキーが後方に並べられていた。
東側の窓からおじさんが窓を越えて入ってきたが、この人は状況説明者であった。結局、朝日も、ヒマラヤも見ることなく帰還となった。ツアーには帰路に日本寺やループの見学があったが、余りにも渋滞が酷いので、観光の意欲をそがれてしまった。宿に帰り朝食後市内ツアーである。で、今度はDAWAが現れた。
先ずは博物館(BengalNaturalHistoryMuseum)N27.047306E88.265896である。
そこの昆虫の殆どは、ロシア人と日本人が寄付したのだが、二人とも昆虫類の不法収集で逮捕されてしまったらしい。なかなか豊富な収集だが、配列とか保管がもうひとつであった。その後、ダージリンンの丘の北端の動物園、登山協会を訪れ、次いで、丘の東側のテムジン岩、更に、茶園を訪れた。その後DAWAの口車で600RSを追加で、HappyValleyTeaFactory(N27.050995E88.25842)を訪れた。工場はなかなか面白いのだが、紅茶造りは午前中らしく、その点が残念であった。
http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g304557-d3532063-Reviews-Happy_Valley_Tea_Estate-Darjeeling_West_Bengal.html
翌日は午前中をRockgardenを訪れた、場所はグームに至る前に谷に降りて行く。標高は1600mで、岩壁を滝が流れる公園である。RockGarden(N27.025422E88.237993)
再びDarjeelingに行くなら、四駆で訪れるのではなく自分の足で谷を上がり下がりして行くのが楽しそうに思えた。ダージリンは東西に歩くととても凄いハイキングになってしまう。気楽な街歩きは南北に歩く場合だが、そちらの方は極めて気楽に楽しめる。そのような地形である。ダージンリンで最も楽しいのはやはりToyTrainで、次いでTaigerHillからのヒマラヤの眺望、そうして茶園と紅茶工場、それに、紅茶買いであろう。ただ、交通渋滞はあるものの、インドの他の地域に比較すると、気候的にも環境的にも過ごしやすい地域と言えるだろう。
かくしてあっと言う間に4日間を過ごした。一か所に長期間居るのは実に気楽である。
デリーへは午後の便であったが渋滞を考慮して、7時半には宿を出た。
その後順調にデリーに着き、デリーではクトウブミナールと国立博物館を訪れた。42度を超える暑さで体調を悪くしてしまった。特に、Central Cottage Industries Emporium(N28.625948E77.220068)に行こうとするのだが、詐欺師どもの連携プレーで一筋違いの
Cottage Industries Emporium(N28.626362E77.224038)に連れ込まれそうになった。僕は3度目だから判ったが、初めての人なら完全にだまされたであろう。とにかく、そこから正しい場所に移動するのにとても疲れてしまったのだ。
帰路の空路は実に容易であった。東方航空のHPでは、荷物はスルーでは日本に送れないことになっているが、実際には送ることができて搭乗券も日本まで発券してくれた。ただ夜中2時発の航空便でチェックインは5時間前から受付で、そうでなければ、チェックインAREAには入れず、国際線右端の待合室で5時間前まで待たされたが、これも体力的にはどうってことはなかった。が、徐々に腹の調子が悪くなり、これが帰国後2日間は続いた。
旅の容易さに比してこれほど疲れるとはどうしたことだろう。これはやはりインドの為せる芸に違いない。
だがまぁ、かくして今回も、問題無く我が老々男女は旅を終えた。 -
花の盛りの関西へ
出発:2013年04月03日~(7日間)| 交通機関:飛行機(その他) エリア: 京都駅周辺 二条・烏丸・河原町 東山・祇園・北白川 今出川・北大路・北野 下鴨・宝ヶ池・平安神宮 八瀬・大原・貴船・鞍馬 嵐山・嵯峨野・太秦・桂 伏見 山科
2013/02/14 投稿
JETSTARのセールがあって、成田⇔関空が片道、3000円を切れる。ちょうど都合もあって、女房と大阪に行くことにした。預け荷物無し、手荷物7kgとしても夫婦だと14kgもある。で、夫婦往復で、席の予約料を入れても10,000円で、往路成田発9:55、復路関空発で19:05だから時間も良い。ただ関空⇔枚方の金が高いが、それを考えても、桜の盛りにこれはお得である。と、近畿に行くこととした。楽しみです。
出発前日に、成田発が12:45a.mってメールが来た。前日は春の爆弾低気圧が猛威を振るい、当日はまだ激しい雨が続いた。出発は更に1時間程度遅れてしまった。
桜開花は一週間は早くなったのだが、開花後に寒さが訪れて、開花期間はぐっと延びたので、関西訪問は最適の時期となった。
が、しかし、我が関西拠点の家のメンテナンスにはまってしまい、結局、桜を見ることなく過ごしてしまった。
何にはまったかと言うと、特に家の塗装である。まずは屋根の塗り替えである。関西の屋根は概ね勾配がゆるく屋根作業が容易だ、しかし、家の幅の狭い側は勾配6分(役30度)となっている部分もある。関東の屋根は30度の所が多い。勾配30度となると、屋根面に道具類を置くと。ほぼ転がってしまい、靴底に溝が十分に切ってある作業靴だと、慣れれば立っておれる。作業は素人にはちょっと無理な勾配である。
そこで、僕はロープワークを使って30度勾配の部分を塗り替えることにしたのだ。9mm径程度のロープを使い、細いロープでスリングを自作で作りこれを、バッチマン結びとかで9mmロープに巻きつけて腰にはめて作業すれば恐怖感はほぼなくなって作業ができる。なお、屋根の洗浄は、高圧洗浄機を使えば安心して作業ができる。しかし、下塗り、上塗り塗装は、ローラで行い、最後にスレートの縁切りが必要だが、これらの作業は屋根の端まで行かねばならない。しかし、これら作業は、だんだんと慣れることができて、実に達成感が大きい。また、室内では、壁紙の上に塗装を行った。壁紙用塗料なるものがあり、これは、塗った当初はむらも見えるのだが、時間が経つと発色してむらがなくなる。ローラで押し付けて塗装するとむらも少なくなる。
つまり、屋根の塗り替えと屋内の壁紙塗装にはまってしまったことになる。
屋根作業で最も恐ろしいのは、液体が靴の下を流れた時である。高圧洗浄機の水、それと、誤って塗料容器をひっくり返し、塗料が靴のところを流れた時である。水であろうと塗料であろうと、靴の底を流れた途端に、激しくひっくりかえる。
僕も、塗料缶を転がして塗料が靴底に流れたことがある。あっと気づいた時には屋根を転がっていたが、ロープでかろうじて支えることができたのだ。
だが、十分に注意すれば、このような事態は確実に防げる。
しかも屋根上作業の達成感はとても大きい。
このような事情で、この春は、塗料作業だけの旅になってしまった。
かような作業にはまる人が居るようです。
http://www.geocities.jp/ja4cam/diy.html -
再びマレーシャへ、単独縦走避寒の旅
出発:2013年01月21日~(14日間)| 航空会社:エアアジアX エリア: マレーシア
2012/11/06 投稿
ここんとこ親戚の連中の部隊長としての旅が多かったが、人数が多く老嬢の数も多い旅は、無理な行動には文句が多く、ちょっと金を出し合えば、交通費も安く行動できるので、どうしても安易な方向に進んでしまう。それはそれで、楽しい旅になるのだが、基本に戻り単独行を計画した。
マレーシャとなれば、当然、AirAjiaだ。往復39,140円で手配した。KLからMelakaに直行し、その後ジョホールバルを拠点にシンガポールも訪れる。あれこれ調べたが、シンガポールは僕には余り興味ある所でもないので、一日観光とした。その後列車で、北上し、イポーで泊まり、そこからコタバルに行き、そこから南下して、クアンタンからKLに向かう。
宿はAGODAとBOOKING.COMで手配を終えた。後は、列車の予約となる。楽しみだ。これでもやはり、出発前にはブルーになるのだろうか。
12月に入り列車の予約を試みたが、列車・シートリストは出るのだが、予約までには至らなかった。で、国鉄にメールしたが返信無く、数日後に再トライすると簡単に予約出来た。安いほうのASCクラスで、JBからIPHOまで、46MRであった。
これで、バスと食事以外は全て予約を終えた。
年末はノロウイルスにやられ、1月半ばは長い風邪に悩まされた。インフルエンザ予防接種が効かないウイルスで、香港A型とのことだ。早めに医者に行けば、例のクスリで簡単に治り、家族にも迷惑をかけないで済んだのだろうかと後悔、後悔である。
1月21日は降雪が予想されたのか、10分程度早く出発になった。荷物を機内持ち込みだけにしようとがんばったが、鍋やナイフも持参となると手荷物だけでは収まりきれなかった。とにかく、夜行便で、やはり体にこたえるようになってしまった。歳のせいだろう。KLのLCCT着6時半で、マラッカ行きバス7:30には十分に間に合った。機内での冬服をバス待合ベンチの上でスーツケースに納めた。半そで3着持参は良かったが、冬用長ズボン2着は暑くて数も少なすぎた。3着の内1着は尻に穴があいたズボンなので2着しか使えないのだ。結局、ジョホールバルのジャスコで450円の短パンツを2着購入し、これが役にたった。暑いマレーシャでは汗で直ぐに臭くなるので、毎日洗濯を続けた。朝にはほぼ乾いているのでありがたい。
22日10時にはマラッカバスターミナルに着き、ATMで現金を補充した。ATMの操作で、クレジットではなくWITHDRAWを操作で選ぶのに手間取った。が、横で操作していた兄ちゃんが丁寧に教えてくれた。マレーシャ人は親切なのが多い。が、油断できないのも多いと言うか、下手な失敗を自ら行うことがあるので注意を怠らないことが重要だ。今回もIPOHの市場(果物や魚の巨大な市場である)で梨をかったが、袋の中でちょっと汚れているなと気になったが、ホテルに戻り食べようとすると、一個は完全に腐ってカビまで生えていた。シンガポールのQueenStreetバスターミナルでは、トイレで金集めの婆さんが30セントと言うので、50セント渡したら、つりを寄越さない雰囲気なので、20セント取ろうとしたら、手を出すなと、黄色い声を挙げられた。等々と、うっとうしいことも起こるのも旅の常でもあろう。ただし、単にトイレを預かっているだけの婆さんに馬鹿にされてたまるものかと、こちらも、No!ThankYou、と怒鳴り、50セントを取り戻した。トイレは無料のジョホールバル側のきれいなトイレで済ませた。
なお、ジョホールバルからの早朝のシンガポール入りは、通勤者が多く、概ね、東京駅の地下鉄を通勤者が流れるような中で、旅行者が一人、うろうろとする有様になる。このようなのも精神的には疲れるものだが、その状況下で彼らの生活と僕のそれを比較すると、遥かに僕の方が幸せな行動をしているわけで、そう考えれば、そんなことで滅入るなんてありえないことなのだ。
話を元に戻して、MelakaBusセンターは、遠距離バスと市内バスのターミナルが二つの円形を太い通路でつないだ形なので、ある場合は、外部をトコトコと行けば移動できるし、ある場合は中央の通路を移動しなければならない。とにかく運ちゃんに「市内バスは?」あるいは、「HighWayBusは?」と聞けば、あっちだと教えてくれる。市内バスは別名PanoramaBusと称し、17番のバスがバスステーションと市内、特にDuchSquuareと結んでいる。このバスはDuchSquareまでは1.4MR程度だが、これは遠く、マラッカ海峡を見下ろすところまでも巡回するので、BusStationに戻るときには2MRかかる。ところで、僕は2泊後の10時半発JyohorBahru行きMujiBusの切符も買っておいた。話は先になるのだが、帰路にDuchSquareで朝7時のバスに乗ったので余りにも早くバスステーションに着いたので9時半のバスに変更した。
MELACAのホテルはDatchSquareの少し北側で、横にレストランが併設し、食事はマレーシャ風の食べやすい食事だ。バイキング式だが夕方には殆ど無くなるので、フライドライス卵焼き付と言えば、直ぐに作ってくれる。一食6〜7MRだから食事予算は大幅に助かった。当日は荷物を置いて、DutchSquareから上流に散策した。花が美しく、また町並みも興味深い町だ。昼食は途中の市民用オープンレストランで食べたが、カレー味ヌードルでこれもうまかった。紅茶付でやはり6MRだ。が、これを観光地たる中華街で食べるとすれば一気に値段が上がるようだ。
帰り路の中華街で、李10個とマンゴー3個を買ってホテルで食べたが、どれも、特にマンゴーは濃厚でうまかった。そのあと丘に登り涼しい風で体を冷やした。丘の周囲をぐるっと歩き、大体の見所を見終えた。再び起点のDucheSquareに戻り、Squareのリキシャ運転手と仲良くなり、花壇のコンクリに座り話して時間を過ごした。
ホテルは一泊食事つきで65RMと、今回の旅では高いほうだが、それなりの価値はあった。
翌日は、Squareからの17番のバスターミナル行きバスの運行状態を見るため、7時にはSquareに行き、リキシャ運ちゃん、それにバス待ちのポーランド人とあれこれ話した。バスは確かにSquareバス乗り場に停車することを、それも、来た時と同じ方向に止る(そこは一方通行だし、バスは巡回してバスステーションに戻ってゆくのだ)ことも確認した。後顧の憂いを無くして先ずは中華街を散策した。かような遣り方は失敗は少ないのだが、かなり無駄な時間を浪費する。
ところで、中華街は、なんとも懐かしく涙がこぼれそうな町並みだ。恐らく、なぜ懐かしさを感じるかは判らないが、とにかく、懐かしさを感じるのだ。主なる3通りを歩き、ゆっくりと街を楽しんだ。それから河の右岸の沿って、マラッカ海峡までを歩いた。少しもどり低い橋を渡り今度は河の左岸を町に戻った。とにかく河口部はそれほど良い景観で無いことは確認した。ところで、マラッカバスセンターへのバスはこの河口の高いほうの橋をぐるっと回ってバスセンターに行くことを翌日に知った。
準備万端を済ませていたので翌日には7時のバスに乗り、早くバスセンターに着いたので、Johorbahruへのバスを一台早くに変更した。
なお、バスセンターでの市バス(PanoramaBus)の乗り場は市バス側の17番(バス番号も17番)で、Muji 遠距離バスの乗り場は、遠距離バス側の18番であった。Platformナンバーは建物外に出ないと判らないのが難点だ。
1月24日(木)
朝7時にdutch squareでバスに17番のバスに乗った。先に書いたようにバスは信じられないほど、グルグルと市内を循環して、最後に河口にかかる橋を越えてからバスセンターにと向かう。橋の上から河口部とマラッカ海峡がよく見える。バスは17番乗り場につかず乗客を降ろしてから17番乗り場に向かう。HighwayBUS?と聞くと指押さしてくれるのだが、真っ直ぐに行くと、HighwayBUS乗り場も通り過ぎるので、途中で何度も聞く方がよい。
早く着き過ぎたので、Transnationalの窓口で、9時半のバスに変更してもらった。乗り場は18番だというが、内側からは見えない。外に出てようやくプラットホーム番号が見えるようになっている。
適当に座って待っていると、同年齢程度の日本人らしい人がバスの写真を撮っていた。 -
なんとなく大阪へ
出発:2012年11月07日~(7日間)| 交通機関:飛行機(その他) エリア: 寝屋川・枚方・交野
2012/11/06 投稿
JETSTARが、往復7000円なんて破格の値段だし、枚方のGuestHouseのメンテも兼ねて行くことにした。
便は、成田14:24発、帰路 関空発16:10 発と極めて好ましい時間であった。が、その後、成田発21:05、関空発20:40 と変わってしまった。これだと、往路で関空に着いてから、その日の内に、枚方にたどり着けない。そのため、天王寺の動物園前辺りの、朝食2200円の宿を予約した。懐かしい天王寺も楽しめるかと楽しみにしていた。
ところが、そののち、また連絡が来て、成田16:10発が無くなって、早朝6:15発になった。動物園前の宿はキャンセルしたが、この便には乗れる筈がないと、キャンセルしようかと電話したら、成田の宿を無料で予約してくれるってなった。今回はいいのだが、これから、この便に乗るにはどうすりゃいいのだろうか。こんなことしてたら、JetstarJapanに乗る人が無くなってしまうのじゃ、と心配だ。どうやら、やはりバス便が僕の身に合っているのだろうか。
どうせならと、小学校の友人をネットで探したら、古墳を楽しむ会に所属する、それらしき人名の人に連絡を取ったら、やはり、小学校の友人であった。彼と会う約束もした。
楽しい旅になりそうだ。
出発当日のホテルは、成田ビューホテルと称され、送迎バスが駅、空港の双方を結んでいるらしい。夕食は京成成田駅で降りてJR成田駅に行く途中のコンビニで買い、国鉄駅前のロータリー前で送迎バスの停留所を探したが見当たらない。また戻ってゆくとなんとコンビニの眼前に目当てのバスらしきものが停まっていた。乗り込むとしばしで出車した。ホテルにまっすぐに向かうかと思いきや、なんと、イオンの前に停まり多くの乗客が降り出して心配になり、運転手に聞くと、そのあと、ホテルに向かうとのことで安心した。ホテルはかなり空港に近い場所にあるが、やはり早朝送迎バスでないと行けない。そのため翌日は早いので、早々に就眠とした。
結局、LLCってことは、あまりサービスも求めない僕向きのFLIGHTだってことだった。が、早朝便のことだけあって、雲は多い日であったが、富士山が実に見事に見える旅であった。
何のトラブルも無く、天王寺に着いて朝食を食べ、河内松原駅に向かった。小学校の時代とは違い、立派な駅に変わっていて、駅前で小学校の旧友I君と、それは簡単に出会った。やはり、子供の頃の面影は、お互いに、見事に残っていたようだ。僕の頭の中の彼の顔の記憶が、不思議なことに、すぐさま今の彼の顔にと置き換わった。
その昔の我が家は、松原駅から東西に走る線路に沿って、西の方2KM程度にあった。一方、彼の家は、今は無くなった小学校、それは駅に沿って南側にあったが、その小学校の更に僅かだが、南側にあった。が、そこに至る道には竹林に覆われた場所を通らねばならず、その竹林が怖くて、彼の家を含めてその南側に行ったことはなかった。が、今ではすべてが商店街と住宅街に変わっていて、I君は彼の車で、先ず僕を彼の家に連れていった。家の場所は同じだが新しく建て直された家であった。彼についての記憶からすると、彼はとてもはりきり屋で、いつもクラス活動を真っ先にする少年だったのだが、いろんな思い出話をしているうちに、僕たちの小学時代には、彼は既に父親を病気で亡くしていたとのことで、学校生活で、あれほど活発な少年が、と愕然とした。そう考えると、わが人生とは、長い人生で付き合いのあった多くの人々の人生については殆ど知ることなく過ごしてきたことにも思い至った。戦時中の疎開者住宅で育ったことに加えて、小学校高学年で引っ越し、市内の、公立ながらも受験中学校、受験高等学校に通ったことからも、この傾向を高めてしまったのであろう。さびしい気持ちもするが、どうしようもないことでもある。
家に招待されるとは思いもせず、お土産も準備していなかった。どうも、まともな人付き合いが少なく、しかも、現役引退が長く続いたことも影響してまともな社会人では無くなったらしい。ちょっと話は飛ぶのだが、帰ってからお礼にと、ネパールで買ったお茶を送ったが、このお茶の味について、女房や娘の感想と同様な感想の感謝メールが送られて来て驚いた。僕の味覚が最悪なのは、てっきり戦後の物質不足のせいだと考えていたのだが、I君のことから推察すると、どうやら、そのせいではなく、生まれつきのものかもしれないと思えたのだ。
さて話は元にもどして、その後、彼は車で松原市内の見どころを案内してくれたが、ほとんどは僕の知らない、それに、驚くほど由緒のある場所であった。順にたどると、南に下って、柴垣神社
http://www.e-kokoro.ed.jp/matsubara/matsu-e/6nen/6-3new.pdf#search='%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%9D%BE%E5%8E%9F+%E6%9F%B4%E5%9E%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE'
更に南に下ると、黒姫山古墳がって、ここで昼食をご馳走になった。なかなかおいしかった。やはり、食事は関西の方がおいしい。
http://inoues.net/ruins/kurohimeyama.html
僕の青年時代は、この古墳よりは東側の、仲哀天皇や応神天皇のエリアを主に回っていて、これほどの古墳が松原地区にあろうとは思いもしなかった。
少し西の26号線、これは、松原と高見の里のほぼ中間辺りを南北に走る道で昔はなかったのだが、おそらく細い旧道があったのだろう、それに沿って北上し、先ずは、鋳物師発祥の地、
http://kamnavi.jp/en/kawati/hirokuni.htm
次いで、法雲寺、更に来迎寺(丹南藩陣屋跡)を訪れた。これら由緒のありそうな施設は、僕の住んでいた場所から、南にそれほど遠くは無い場所の筈なのだが、まったく行ったことがなかったのだ。僕たちの子供の頃は、それほど、行動範囲は小さかったのだろう。
次いで彼は、大塚山古墳を案内してくれた。なんとも懐かしいエリヤの自分の知らなかった素晴らしい場所を案内してもらい、感動の時間を過ごすことができた。
その後、松原駅で再会を約束して別れた。
その後、枚方では家の修理を楽しみ、天気があまり良くなく、外ではたまにしかできなかった。が、暇を見て、京阪私市線に沿って河内磐船、つまり交野近くまで歩いた。枚方からの道はなかなか面白い道であった。
これからもいろいろと大阪を楽しめそうだ。 -
ローマ、ナポリからバーリへ、親戚5人旅
出発:2012年05月09日~(12日間)| 航空会社:中国国際航空 エリア: イタリア
2012/05/03 投稿
5月9日から20日までイタリアに行く。既に行ったことのあるルートで、女房方の兄弟姉妹総勢5人での旅である。僕に取っては、イタリアには5回目になる。今までと違う点と言えば、AirChinaだから北京乗換って点と、親戚を連れて行くので、食事はちゃんと食べねばならないってことだろう。イタリア語も再勉強したし、もう後はどうなるか、まぁ、なるようになるだろう。
予算は、1人当たり、航空運賃97,000円+1000EUR 程度となっている。そのうち列車料金100EUR程度は先払いだが、5人分で、4500EURが現地で必要になる。2800EUR程度はEURの安い時に、平均レート108円程度で購入した。残りは現地キャッシングの予定で、カードは2枚(共に限度20万円)を用意した。
成田発と、関空発で、北京で全員が集まることになる。宿は全てVENERE.comで予約した。ROMA着は夕方7時頃になるので、AirPortShuttleにTAXIを49Eurで予約した。ほぼ気づく点は予約したので宿と移動については確保したと思う。その宿が親戚の連中に意にかなうかは別にして、まぁ何とかなるだろう。一番心配なのは食事の確保で、僕1人なら適当に済ませるものも、親戚一同だとあまり自信はない。さてさて、いかなる珍道中となるか、観光には余り執着しないで、その珍道中なるものを楽しむことにしよう。
ところで、今年は庭のツツジが見事に咲いている。庭に目をやるたびに感動してしまう。去年の津波以来、いろんなことが次々と起こる。ついでに僕は、家の修理とか外壁の塗装に挑戦して、いろんな出来事を増やすことにした。人生をいろんな経験で、それも愉快な経験で豊かにして行くことにした。去年の悲惨な出来事からの逃避かもしれないが、もう僕の活動的な人生も、それほど多くは残されていないだろう。なれば、今の間に頑張るしかないだろう、との思いだ。 -
京都桜旅行
出発:2012年03月25日~(15日間)| 交通機関:路線バス・夜行バス エリア: 京都
2012/03/11 投稿
京都桜旅行
昨年の今頃も、青春18切符を用意して、大阪・京都に行くことにしていた。
同時に、7月にはカムチャッカに行こうと、現地ツアー会社と交渉してほぼ折り合いが付き、現地ツアー会社から入手した招待状をロシア大使館にメールし、ビザ発行に有効であること等を確認し、最後に、航空券だけを先行予約しようとした。が、カムチャッカ直行便をチャーターしているロシア・ビューロー社は、ツアーであれば先行予約出来るが、航空券の予約だけではもっと先になる、と返信してきた。要するに儲けの少ない仕事はしないと言うことだ。そこで、ネットを調べ、米国ウラジオストック航空支店で、同じチャーター便を、つまり、7月のカムチャッカ直行チケットを販売していることを知った。メールで問合せしたところ、「販売出来る」との回答を得た。よしこれで全てOKと、カムチャッカ現地ツアー会社に支払い条件を確認したら、全て前金との回答であった。が、参加者が8人程度で総額160万以上にもなっており、とても全額前金では、僕が参加者全員への責任を持てないとの判断で、ツアーを中止することにした。
仕方なく、米国ウラジオストック航空に、ツアーの事情説明しようとパソコンに向かっている最中に、あの地震が来たのだ。恐ろしい揺れで、その揺れのゆるんだ一瞬に、パソコンを持って庭に飛び出し、庭で英文を打ち、メールを発信した。メールには今、地震の最中であるとも付け加えた。庭の周囲の電柱や木々が恐ろしく揺れ動く中でいったいどうなるのかと地面に座りこんでいた。思えば、その日は、今年とは全く違って暖かく、庭に居ても地震の恐ろしささえ無ければ心地よい日であったのだ。
その後、米国からメールの返信が来た。米国人て友人にふさわしい連中だ。
XXXX-san
We are following news about the earthquake very closely and our heart goes out to you; we hope that you and your family are safe. We wish you and all the Japanese people well in dealing with this tragic incident.
Respectfully,
Mxxx
この連絡に、翌日、僕はかく答えた。
Dear Mxxx-san
Thanks for your sincere words.
Fortunately my family are all safe. My last daughter came back in the early morning who stayed in Office in Tokyo because of traffic stoppage.
May be Takase-san also stayed in Tokyo last night as my daughter.
Maximum vibration power of the earth-quake is near 2000gals and over the last biggest Kobe's earth-quake which maximum is about 1000gals.
I know that most structures are designed less 1000gals vibration but safety factor about 2 is additionally considered.
so even if those are not destroyed but most structures including atomic-power stations shall be damaged.
And Thunami attacked coast area, Therefore more than 1000 people are dead or missing and now more increasing.
I am living in Chiba near Tokyo where basically bad ground condition. But fortunately my house is on old and hard ground.
So my house is all OK even if vibration of the house was the biggest ones I had ever experienced.
Now still it happened earth-quake each one hour or half an hour. But those are usual one.
So my life is now almost usual and watching miserable situation of North Japan in TV.
Japanese government and self-defense force are properly working and USA-force also joined in the work.
And most function of Japan is all OK.
Thanks for your kind words from one of Japanese.
この時点では、まだ原発の危機については全く気付いていなかったようだ。この地震、特に原発の崩壊で、日本、それに、勿論、僕の人生はとても暗いものになったような気がする。
更に、この時点で既に米軍が動いていたのだ。この事実は忘れてはならないと思う。
ところで、その後の日本社会の乱れは凄いもので、交通機関もがたがたになってしまった。結果から言えば、カムチャッカ旅行は中止して正解だったと思える。なお、最近になってロシアのビザ取得条件が緩和されるとの情報が流れている。カムチャッカ旅行は、それが実現されてから再考するとしよう。
先にも書いたが、その後、関東そのものが無茶苦茶になってしまった。その状態は、僕が好きだったSF小説の、近未来でのパニック、例えば、原子爆弾戦争や、小松左京の日本沈没、其のほかいろんな小説で書かれた世界が、そのまま関東でも有ったのだ。特に放射能の恐怖を、かように身近に感じる時代が、僕の人生、一度も戦争を経験することなく生きてきたその末期に、訪れるなんて思いもしなかった。それまでは、我々の世代は戦争を経験することなく過ごせる、日本人どころか世界でも稀な存在だとの誇りを持つだけではなく、日本の技術者としての誇りにも満ちていたのだが、東京電力、特に原子力関係の技術者や、日本の原子力関係者が、これらの誇りを粉々に砕いてしまった。どうやら、日本の電力、原子力分野には、最低レベルの人間達が集まっていて、彼らが日本を無茶苦茶にしてしまったようだ。
彼らの無能ぶりは無数にあるのだが、若し僕が現場責任者であったとすれば、少なくとも、廃炉にはなったかもしれないが、世界中に放射能をばらまくなんて結果にはならなかったであろうとさえ思える、さように馬鹿げた出来ごとであったのだ。一例をあげれば、現場に送られた発電機の電圧や、接続口仕様が合わなかったなんて、こいつら阿呆か!と怒りを感じる。それどころか、後からの情報だと、首相自身が、発電機の台数とか仕様を確認していたらしい。こんな仕事は首相が尋ねるまでもなく、それに関与する技術者であれば充分に確認しておくべきことなのだ。それほど、原子力関与の技術者達は、原子力なんて危険な物を扱うとの経験どころか、全く危機感がなかったのだ。原発技術者は科学者の阿呆さ加減は別にしても、最後の段階でも、恐らく、全電源遮断時の現場訓練さえ実施していれば、あの事態を防ぐ態勢作りは、僅かな費用で簡単にできたであろう。
そうして、僕が見る限り、菅首相はよくやったと言えるだろう。それに対して、マスコミや自民党、それに経済界、その彼等は、そもそも原発を推進した連中なのだが、その彼等は菅首相の足を引っ張るばかりであった。
連中、主に原発を推進した科学者達は、今でも安全だ安全だと言いまくり、その一方で、原発事故以前の安全基準を、無節操、自由勝手に危険な側に移して、それを説明の根拠にしている。連中がよく言うのは、「焼却ごみの8000Bq/kgは全く安全です。なぜなら人体には7000Bqは誰でも持ってるんですよ」ってパターンだが、成人男性は体重60kgはあるだろう、とすれば人体の放射能強度は、7000/60=117bq/kgになり、焼却ごみの放射能強度はその68倍もの大きさなのだ。この言い草ひとつとっても、原子力科学者の頭脳は狂っていると考えて良いだろう。彼等は食品に対する放射能レベルが国際標準に戻されたことについても非常に不満だと表明している。前の非常時基準でも健康には全く問題は無い、とこれは僕が直接聞いた発言だ。
かくして、連中は、日本人を放射能の影響について、国際標準よりもっと危険なレベルで生活すればどうなるかの、恰好のモルモットに提供したいとと考えているようだ。原発以前には、彼等は日本の原発の安全性を世界に表明していたのに、今はえらく違うことを言っているのだが、本人達にはそこにある、大きな矛盾が全く感じられないらしい。
そのような状況下で、日本中の交通機関が混乱して、青春18どころではなくなった。仕方なく、津田沼に切符のキャンセルに向かったが、給油を求める車の列で国道16号線はすさまじい渋滞で、駅の切符売り場も、何とか目的地に向かおうとする人、切符をキャンセルする人々であふれかえっていた。青春18は何とかキャンセルできたが、どうしても大阪に用事があり、青春18はキャンセルして、JR昼間高速バスを予約して大阪に行ったのだ。
さて今年は、青春18を使いたかったのだが、女房も別件で用事があり、女であれば、楽な方が良かろうと高速バスを選んだ。ただ今年は寒さが厳しく、桜の京都を楽しめるかどうかが問題なのだ。
ところで、僕の住む場所での放射線量だが、千葉県では、測定点が市原にある。新聞で発表される測定点は、不思議なことに、各地で高さがばらばらで、何ヶ月かしてから漸く地上1mでの測定データも発表されるようになった。特に千葉市原での1m高さでの測定値は、なかなか発表されず、恐らく、人々を驚かせたくなくて、地上部での放射能レベルを下げるために何らかの処理をしたのだろう。それにしても、NHKは相変わらず高さも判らない測定データを毎日毎日放送し続けている。はっきり言って馬鹿ですな。
僕の住む市は、ホットスポットの柏に近いのだが、市は全く無関心を決め込んでいる。仕方が無いので、自分は自分で守ることにして放射能のことを勉強し始めた。
その勉強結果を記すと、次のようになる。
放射能物質が均一に降下したとし、さらに、放射能物質をセシウム137とした場合、その濃度と放射能レベルは下記の資料から算出される。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/housha/docs/BqToSv.pdf#search='面線源 シーベルト算出式'
計算手順を理解できれば、より確実な理解となるが、それが出来なくても結果の式で簡単に放射能物質密度と放射能レベルの関係を計算できる。なお、結果式の誘導には微分方程式も使われているが、指数関数の積分を含む、極めて一般的で簡単な解法で容易に解ける代物でもある。
とにかく、この、P14の17式で、地上面での放射能物質密度がp = 1 kBq/m2 なら、高さ1 mでの吸収線量率ϵabs は約0.002 μSv/h ということになる。同じ関係を逆に使えば、線量計の読みから地面の汚染を計算できる。グラフからμh(μ=0.01、h(m))から、係数を決めることも出来る。ただこの式は、半減期30年のセシウム137の場合で、今回の事故では、半減期2年のセシウム134が、降下時点で降下量の1/2を占めている。そこでセシウム134の影響がどうなるかも調べた。
下記の論文によると、セシウム134は、エネルギー的にセシウム137に対して、2.倍の放射線を総計2.7倍程度のエネルギー量になる。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/housha/details/Cs137vs134.html
放射能測定機には、2種類あって、安価な放射線測定器は、ガンマ線の数を測定して、これに、セシウム137の放射エネルギー量を掛けて数値を放射線レベルとして表示するのだが、これが一般的で、更に高価な測定機は、放射線一本毎のエネルギーを測るタイプだ。そのため我々の買える通常の測定器で測定し、セシウム134が半分を占める場合は、その表示に対して、(1+2.7/2+2.7/2)/3=1.23倍すれば良いことになる。ただ2年すれば、セシウム134は半減するので、測定値と実情値は一致することになる。
これらの知識を元に、家の周辺の放射能を測ったが、結果はこうなった。但し、セシウム137のみとして測定している。
•自宅周辺の放射能レベルの報告 単位は全てμSv。
?自宅屋内は、0.01程度
?屋外周囲は0.15〜0.2程度
?集水舛周辺 0.2〜0.3程度
?集水舛地面 0.5〜0.55程度
?家の前の溝周辺地面 0.25〜0.3
?貸農園周辺(地上100mm) 0.1〜0.2
貸農園では想定外に少ないようだ。若干ほっとした、と、言っても、放射能降下量は数万Bq/m2以上はあることになる。米国では地上放射能密度が数千Bq/m2でもわ〜わ〜と言ってるようだ。これに較べて、恐ろしいことだが、日本人全体が、かような事態に、精神的に慣れてしまったようだ。モルモットとしては最適の国民ってことだろう。
貸農園では、周囲に建物や舗装が無いことで、放射能がまんべんなく降下したまま、放射能物質が集中することがなかったせいで予想外に少なかったと思える。逆の理由で家の周辺の方が放射能レベルが高いのだろう。
僕の測定した貸農園は、僕自身が、かなりの期間を借りていて、収穫物の残さに加えて、家の生ゴミ、庭の雑草や剪定物を埋め込み、長年に亘って土地を、無農薬ながらも改良を重ねてきたが、これらの努力も、原発からの降下物で一瞬にして無駄になってしまった。東京電力や原発科学者、技術者は、僕のこの悲しさに比べて遥かに巨大な悲しみを日本中に与えたのだが、彼らの言動を見る限り、彼らにはこの責任感は殆ど感じられず、あたかも、人々の悲しみとか苦労は、人々が勝手にそうしているとさえ発言している。
ほんとに疲れる事態だ。
集水枡は、水洗いしたが、0.05程度の効果しかなかった。つまり、0.5μSvなんて悲しい事態になっているのだ。だが、不幸中の幸いと言うか、集水枡の放射能は点音源なので、ちょっと離れれば放射能レベルは一気に下がってくれるのだ。
これらの結果からすると、我が家は、集水枡内の砂か泥をなんとかすれば、人間が生存できる環境になることが判った。が、問題は、その砂や泥をどう始末するかである。庭を深く掘ってそこに埋めるって方法もあるが、30年後でさえ、そのことを知る人間は存在しなくなって、誰かが掘り返すことになり、思わぬ事態が生じる可能性がある。よっく考えてみることで現状放置とした。できれば、東京電力に引き取ってもらいたいが、その方法には極めて妥当性がありそうに思える。
今回の出来ごとでいよいよその感覚を強く感じるのだが、日本は、もう組織的にはどう仕様も無い状態になっているようだ。戦争での崩壊そのものが、日本の組織そのものの腐敗で生じたのだが、その腐敗の責任を問うことなく復興したがために、組織が腐敗する原因はそのまま、新しい腐敗を生じたのだろう。そうして、今回の出来事も、誰の責任であるかの追及も無く、組織の何が問題かを掘り下げもせず、単に、忍耐強い一般人の力で復興が行われ、どうせまた、腐敗した組織がその上に出来るだけのことであろう。だから日本の今後には何も期待することなく、自分の喜びだけを追求することにしよう。
だが、何故か地震以来、鬱々とする時間が多くなった。困ったことだ。自分の喜びを追求するとの趣旨に沿って、何とか今回の京都旅行を楽しめるように工夫しなければならない。
桜鑑賞地点は下記の場所を目標として、知積院では長谷川等伯の作品を見ることもできる。
? 知積院 ? 知恩院藤桜 ? 京都府立植物園
実は、桜見物だけではなくて、大阪にある別宅の内装、特に、壁紙に塗料を塗ることも今回の重要な目的としている。最近は壁紙を張り替えることなく、塗装で済ませることが出来るようなった。おかげで、塗装工事にはかなり達者になったのだが、その奥義については記述を省略する。
東海道昼特急の旅は、もう何度もの事だが、相変わらず楽しいものだ。実は、朝の九時代は、以前は東海道経由であったが、今は、恐らく新宿からの乗客も集客したいので、中央道経由になってしまった。東海道経由は、織田徳川の歴史街道だが、中央道経由は、武田の歴史街道となる。更に、東海道は海の道であり、中央道は山の道って楽しさがある。共に素晴らしい旅だが、今では東海道経由の旅は、その運行時間からして難しくなってしまい、かなり寂しい状況だ。
参考のために昼特急の時間帯は下記となる。また、運賃は週日が1000円程度安いのだ。
http://www.kakuyasubus.jp/kanto_kansai/tokaido/index.html#timetable
ただ、今回は、桜の季節が遅れ、関西の桜を楽しんでから、帰路や千葉に帰ってからも桜を楽しむことができた。 -
インドぶらぶら独り旅
出発:2011年10月02日~(22日間)| 航空会社:エアアジアX エリア: インド
2010/12/12 投稿
中華航空のマイルが今年(2010年)年末で時間切れになる。そこでインド往復出来ないかと調べたが、一席も空いていないと出るばかり。多分、マイレージ用の席を持っていないのだろう。そこで、クアラルンプール往復で調べたが、常に、片道は満席と出る。仕方ないので、往路をビジネスクラスとした。が、台北で一泊は必要な便になる。マイレージ航空券は全くの無料ではなくて、ホテル代以外に6900円程度は掛かった。クアラルンプールで一泊として、AIRASIAでコルカタに行き(約9,000円)、ダージリン訪問後⇒バナラシ⇒AGRA⇒JAIPUR⇒JODHPUR⇒NEWDELHIと、前回のルートも再訪する。NEWDELHIからKUALALUMPUR(約15,500円)、次いで羽田までをAIRASIAとする。
日程は、2012年10月2日〜10月23日とする。
AIRASIAのKUARALUMPUR⇒羽田(想定15,000円)はまだ発売でないので未購入だが、他の航空便は予約完了です。購入を終り約15,000円)
航空便を全て確保してから、旅の詳細予定とホテルの予約です。ダージリン以外は再訪問ですから余裕で楽しみです。
ただ最近の情報では、ネットでの鉄道予約が外国人には出来なくなっているとのことで、この点が心配です。
さてクアラルンプール⇒羽田ですが、12月17日にAIRASIAを覗くと、既に発売になっていました。で、10月23日のを早速購入しました。食事込みで520MYR=15,000円ですね。
従って、航空運賃は総額で47,900円です。
どうせの事だから工程や宿の手配を含めてシミュレーションをしてみます。
さてシミュレーションを開始しました。
10月2日台北に着き翌日発です。ビジネスクラスだからCHINAAIRのラウンジで夜を過ごせるかと調べたが、朝7時から11時頃まで開いていて、航空便の2時間前からしか使えないらしい。空港内TransitHotelは予約を受け付けない。空港近くの城市商旅は、最安値から2000円も高くないと予約出来ない。モーテルも探したが、公共交通が無い。ならいっそのことと、桃園駅近くのHuaYueHotel(花語ホテル)を朝食付2500円で予約した。行きはバスで60NT=180円、翌日は朝が早いのでTAXI=500NT=1500円となる
翌日はKUALALUNPURに昼ごろ着くので、バスで市内まで20RS=600円行き、アラマンダホテル1408円を予約した。台北もKLも先払いであった。
10月4日はAIRASIA LCCT発14:30発でKolkata15:50着となる。
Kolkata空港から市内へのバスは、DomesticTerminal前からEsperaned行きがあるらしい。若しくは、Jessore通りまで行けば、30BまたはL30Bのバスで20Rs程度でESPRANEDまで行けるようだ。
http://www.kolkataweb.com/bus.php?srchtxt=Dum+AIRPORT
これらのバスは、Jessore通りからDamdamRoadを通過するから、地下鉄に乗りたければ、DamdamJunctionで地下鉄に乗換れば良い筈だ。
安くてSEALDER駅に近いホテルをいろいろ探したが、結局地球の歩き方で、AshreenGuestHouseにメールした。HPもあり対応は良いが、24時間前にReconfirmが必要である。500Rs(1000円)程度のA/C無しを予約した。
さて、10月6日からの列車予約だが、アメックスカードも用意してIRCTCでの予約万全の体制としていたのだが、IRCTCへのSigninで、メールアドレス変更をしたら、インド国内の携帯番号入力が必須となっていて、SignInnができなくなってしまった。どうやらIRSTSのsiteは基本、外人を排除する方針らしい。仕方なくClearTripのSiteからの予約となってしまった。このSiteでは、3カ月+2日前の予約しかできない。
が、Kolkata6日早朝、Sealdah発でNewjalpaiguriまで昼間特急で行き、NJの宿は前日でも電話でやるしかない。NJの北2KMほどのSiliguriにはホテルは多数あるようだが、NJ駅近辺北側には、HotelBreezeってホテルしかなさそう。
7日は、荷物をホテルに預けてDarjeelingに行くことにして、NewjalpaiguriからDarjeelingは購入画面になるが、購入しようとするとERRORになる。結局、NJからKursengまでは不通であろうと思われ、Kursengまではバスで行くことにして、Kurseng⇒Darjeelingを予約した。Kursengへのバスは、SiliguriJNのテムジンバスStation(TenzingNorgayBusStation)から出るらしい。このバスStationは、HillCartRoadってdarjeelingに向かう道路に隣接しているようだ。
Darjeelingでは、やはり地球の歩き方のPrestigeHotel(やはり500RS以下)に宿泊の予定だ。前日に電話予約だな。
8日は、TigerHillで早朝ヒマラヤ遠望に参加し、TigerHillへの途中でGuhmからKurseng(Kurseng⇒NJは不通の様子)まで列車予約しようとするが、ERRORを起こすので、DarjeelingからKursungを買った。要するに途中駅からは売りたくないらしい。
9日はNJからVARANASIへの昼間特急だが、VARANASI近くのMugahlSaraiへの列車が望ましいようだ。で、購入しようとするが、受け付けない。結局、その先のFatepurまでの切符を買えば受け付けることが判った途端に、あらゆる発注を受け付けなくなった。FATEPUR近辺で列車事故があって多数の死者が出たのだ。
だが、夕方にはSITEは復旧して切符は無事に買えた。かくして、10日早朝にVARANASIに着くことになった。(MugahlSaraiからVARANASIは列車もバスもある)
ところで、ここまで進んだ時に、VISAのacountを調べたら、NJからFATEPUR(841RSx1.8526=1,558円)が2回請求されていることが判った。クレームのメール入れると、翌日には修正されていた。この会社は動きが早いので感心したが、念のため、VBVパスワードは変更しておいた。なお、今のレート仲値は1インド ルピー (INR) = 1.7761 日本円 (JPY)です。とにかく、これでAGRAまでは到着です。宿は今、調査中。Agra からJaipurはバスの方が便が良いので、列車は予約しない。
JaipurからJodhpurも簡単に予約出来た。
ホテルはBANARSは駅周辺で格安ホテルは予約出来ないので、駅から電話になりそうだ。AGRAはAjayInternationalを500RS/夜、Jaipurは、StephelsGuestHouseを300rs/夜で予約した。Jaipurの住み心地良かったAryaNiwasは高くなっていたのであきらめた。
8月11日には、NewJalpaiguri、Darjeelingの宿、AgraからJaipurのバスを除いては、予約を終えた。
インドって実に予約手続きが容易な国だ。かように開かれた国は発展が期待できるだろう。僕が中国よりインドが好きな理由はここにある。後はVISAを取得すること、通貨をいくら要するか算出することかな。それと、AirAsia航空券を購入してからVISAを変えたことが大丈夫かチェックすることだ。
8月23日に東京VISA事務所に行った。入った入口の左側の片隅に発券機があり、これが受付表示されるようになっている。1時間以内には受け付けるが、申請書、裏にサインした写真、パスポートを渡すと、申請書をさっさと見て、写真も貼ってくれて、2135円出せ、と言い、領収書にサインを要求される。そのサインの様子をじっと見て、本人かどうかも確認している。で、「一度ですね?」と聞くので、何のこと判らず、「前に一度行ってますけど」って答えると、「それは判ってます。一度入るだけね?」と再度聞かれ、はいっと答えた。つまり、2カ月ルールの確認でした。これで終わりで、明日夕方5時から5時半に同じ窓口で引き渡しってことだ。(500円で郵送要請も出来るが)非常に効率的な事務所だが、出来れば、NET VISAにしてほしいものだ。で、翌24日の夕刻16:30に事務所に行くと、既に列が出来ていて、暑い中を列に並び、VISを得た。後は本論になる。 -
ホタル見物
出発:2011年01月21日~(12日間)| 航空会社:ベトナム航空 エリア: マレーシア
2010/08/29 投稿
突然、ホタルを見に行こうってことになった。
マレーシャの河に沿ってのクリスマスツリーのようなホタルです。
調べると、クアラルンプルの北部近郊のクアラスランゴールだ。
ついでに、カンボジャのアンコールワットも訪問することにした。義理の姉にも、どうか?って聞くと、行くって答えたので、奥さんと合わせて3人の旅行となった。
時期を来年2月としたが、YAHOOの安売り航空券は、現在はまだ1月分までしか発売しておらず、海外期間12日となると、ベトナム航空の41,000円が最安値だった。で、accord international とflex internationalに見積もりを依頼した。accodは初めての接触だ。accordから直ぐに返信があり、諸経費込みで56,000円/1人だが、2月初旬だと帰国便がキャンセル待ちとのことだった。1月21日発はどうか、って返信すると、往復とも席ありとのことで、直ぐに発注して予約金20,000円/1人を入金した。これらの連絡、作業を終えた頃に、flex internationalから「ご指定の便では席がありません」って連絡が来た。彼らの間には何らかの連絡があるのだろうか?永遠の謎ですね。
なお、発注の前に、マレーシャ航空のKUALALUNPUR⇔カンボジャSIEMREAPを、ネットで801MYR=24,000円/1人で発注した。
アンコールワットの拠点都市は、SIEMREAPで、KUAKALUMPURから、ここへの直行便を選んだのだ。
で、合計80,000円/往復となった。この価格ってどうなんだろ?よく判らん。
発注した翌日にRAJの破産が報道された。RAJは一度使ったことがあり、対応の良い会社だった。とても残念なことだが、今はそれどころではない。
直ぐに、accordに「残金納入すれば、即発券はできるか」って問い合わせたら翌日10時に、「航空会社で発券コード発行の準備ができていれば発券できる」ってことで、発券できるなら直ぐに入金するって答えた。直ぐに「発券可」って来たので、昼までに入金すると、夕方には発券された。
で、後顧の憂いなく、旅の計画に没頭できることになった。
今回判ったのだが、今までの格安航空券購入では、パスポート情報が必ず要求されたが、accordではこの要求が無かった。で、「パスポート情報の連絡は不要か?」って聞くと、旅行上のパスポートやビザ条件は顧客自身で確認くださいってことで、つまり、航空券発券ではパスポート情報は不要ってことなのだ。
結局、accordの言う通り、パスポート情報無しで発券はなされ、しかも、ベトナム航空のE-ticketって、今までの他社E-TICKETよりも、遥かに顧客に便利な様式であった。これって凄いよね。
てなことで、一応、KUALALUMPUR、SIAMREAP、それに、ホタルの拠点都市KUALASELANGORのホテル調査までを終えて、後は、オーストラリアから帰国後とします。まぁとにかく、1月末は避寒旅行できることになった。
さて、豪州旅行を無事に終えて、それも英語のNative国での英語旅行で、会話能力が錆付いたのか、殆ど英語は通じなかったが、それでも着々と旅を終えて自信を持ったのだから、とマレーシャ旅行の計画再開となった。
旅程は、1月21日Kualalumpur到着後翌日22日、23日はKualaslengorに宿泊し、ホタルと自然公園を楽しむ。宿泊場所を調べたが、Kualaslengorには、まともな宿泊設備は、De Palma Inn Kuala SelangorかFireflyresortの2か所(男同士だともっと安いとこがある)しかない。簡単に予約出来るのはFireflyresortであった。シャレー(4人用)宿泊で朝食付、230MR=7,200円/泊
24日は再びKualalumpurで25日はアンコールワットのあるSiemreapに行く。29日チェックアウトまでの4泊は、Tripadviserの3星で、安くて評判を見て、Kazna Hotelを$26.5/部屋を2部屋4日間を予約した。
そうだ肝心のKualalumpurは、CitinHotelPuduを、やはりTripAdviserを元に、117.5MR/部屋・泊(3500円)で予約した。
足と寝所で、予約できるものは全て完了した。
後は、現地ツアーをどうするか、で、ゆっくりと考える。
ここのシンバさんの旅行記でタケオGHの存在を知った。
http://4travel.jp/traveler/sinnba/album/10389899/
そこのNO.2はうちの奥さんも泊れそうなのでホエル変更も考えてコンタクトしたが、日本語でNO.2は満室って返事が来た。
が、そこのHPに種々ツアーがあって、特にガイド付ならタケオオプションツアー、安くて良いなら車チャーター(ツクツクは2人乗りまでだろう。それにうちの奥さんや義理の姉も一緒では・・・)がいいと、それに、ガイドブックも調べて、以下で発注した。
http://angkor.main.jp/takeo/index.html
●RT−2 +タケオ、タプローム、バンテアイクデイ、スラスラン、プラサットクラバン 70ドル
●Camry1日チャーター コーケー遺跡群 (時間あればベンメリア遺跡) 85ドル
●Camry1日チャーター朝日鑑賞 Dコース+Bコース+(プノンクロム)トンレサップ湖 80ドル
D=クバルスピアン、バンテアイスレイ、バンテアイサムレ(地雷博物館は行かない)
B=大回りコースのプリアカン、ニャックポアン、タ ソム、プレループ
●空港まで車で 5ドル
●総額、235ドルか・・・豪州に比べると安いもんだ。なお、ドルで使い残したT/Cで支払出来るかって問い合わせると、円、ドルで支払できる。T/Cの場合は、手数料3%だって返信が来た。それなら、円で持って行くのが最も有利ってことですね。
昼食は、どうするか現地で相談して決めることにした。
かような経過で、本件、計画は完了です。
が、いつものことだが、完全ってことはなかった。
2011年1月になって、KualalumpurのCitinHotelPuduは、booking.comで予約したのだが、ホテル自体のHPを発見し調べると、booking.comよりかなり安いのだ。それと、タケオにRECONFIRMしてもなかなか返事が返ってこない。しかも、その頃、7月末のカムチャッカの件でも懸案事項があり、ちょっとつらい事情が続いた。
だが、問題は順次解決するしか方法は無い。
先ず、booking.comは、キャンセルは前日まで可能だから、CitinHotelPuduのHPで予約して、booking.comをキャンセルした。ただ、予約が遅い分は部屋が悪くなる可能性もある。単独であれば、それもいいのだが、女2人連れなので、それではまずい。そこで、ほぼ同じ金額となるが、部屋のランクを一つ上げて予約した。この経験からすると、予約サイトでの予約は、予約してからもときどき調べることが必要なのだろう。
タケオのRECONFIRMは、もう返信が無ければ、他をあたろう、と決心した頃に、無事返信があった。我々は小型車一台の貸切で予約したので、少々高めのツアーになっている。が、相乗りツアーに比べて稼働効率が悪いとか、運転手が見つからないとかのトラブルだろうかと多いに心配したのだ。
カムチャッカの方は、手配がかなり高度なテクニックが必要で、心配の種ばっかりだったが、1月半ばにはロシア大使館員からのメールももらって、ほぼ解決となった。本件は、別途、行ってきま〜すに投稿する。 -
志賀から広島、大阪、京都、奈良、紅葉見物あれやこれや。
出発:2010年11月09日~(10日間)| 交通機関:路線バス・夜行バス エリア: 志賀
2010/10/22 投稿
1.まえがき
例の如く、前書きが長いので、これを飛ばして本文に行くも、全く読まないのでも、いずれでもOKです。
毎年、女房方の親戚が集合して旅をするのだが、今年は志賀、比叡の紅葉見物となった。その後、大学の同窓会が広島であるので、これもついでに行くことにして、更に、会社の部門OB会が大阪であり、これも行くことにした。
実は会社全社のOB会もその頃にあるのだが、長年頑張り続け、担当したプロジェクトは工夫と努力で生涯黒字を維持して、その為には宮沢賢治も驚くほどに、祝日、休日も休まず、雨の日も風の日も拘わりなく、私利私欲には一切走らず、必死で多いに儲け続けたにも拘わらず、ある歳になったら、途端に肩を叩かれた。それも、昼食を食べようと弁当持って歩いてる時に、高校の先輩であった部門長が立ち話し1分で、しかも管理職は断れんのや、との脅し付きの肩叩きであった。誰でも彼でも55歳になれば肩を叩くって時期ではあったが、個人的には受注が続いていた時期で、それは無いだろうと思っていたが、そこまで会社の状況が悪いのなら仕方が無かろうと退職を決意した。ただ仕事はあるので外注として働けるとのことで、管理部長が後の仕事の継続の仕方の説明をしたが、その際に、「事業部長はあっさり辞めてもらえって言ってるのだけど・・」と、これが生涯頑張って来た先輩に対する言葉かと情けなくなった。当時受注した案件で一緒に働いた環境施設の人に、退職するとの話をすると、なら、一緒に働きませんか、と声を掛けられて、環境施設で外注として働かせてもらうことになった。さて、退職間際になっての説明会で渡された離職票には、「自己都合退職」と書かれていた。これって中小の、しかも、その中でも特に悪徳企業の遣り方やないか?と、「ちょっとこれは井桁マークの重機械メーカー(後、面倒なんで、はっきり言うと、住友重機械工業 略称 住重)としてはなぁ」と抗議したけれども、会社側には無視された。通常の人情であれば、会社の都合で辞めて行く人間には、少しでも良い待遇で、と考えるのが同じサラリーマンの思いであるべきが、そのような人情さえ無い会社であったのだ、と会社生活の最後の土壇場で、とても悲しい思いを与えてくれた、そんな会社のOB会に出る気はしますかね?この問いに対する答えは人により異なりますが、僕の場合は、例え、飲み食いタダでも、出る気にはなれないって言うか、ここはパスってことで済ませることにしたいです。それにしても、そんな扱いをした退職者に、OB会の招待状を出し続けるって会社も奇妙な存在ですよね。しかも、大学の同級生が「そんなあほな!財閥系ともあろう会社が!」と誰も信じないのだが、この会社には企業年金がないのだ。そのような事情で、この会社と僕の繋がりは、抑え込んではいるが、時に、ふっと思い出しては嫌な気分になる僕の胸の内と、1年に1度のタダ飲みのお誘いのハガキだけとなっている。
とにかく、かような事情で、無料飲み食いは、意地って面倒なるもんの都合もあって、これをやめて、自分の腹を痛めての全て有料の飲み食いに参加することにはしたのだが、旅行原資を有効に使うためには、つまり腹の痛みを少なくするために、東京−大阪の往復はバス、でも健康の為にも、安い夜行はやめ昼間高速で往復して、大阪の無料宿泊場所、ここは個人的に使えるGHみたいなもんで、ここで自炊若しくは外食して、大阪から広島は鈍行で往復って旅程を計画した。で、金銭的には貧しい旅行ですが、時間的、精神的には豊かな旅になりそうです。結局、スケジュールは11月9日から20日までの旅になる。
他方、女房殿は別行動で親戚一同を引き連れて、新幹線をひかり先得きっぷでの往復てすね。
ところで後になって気づいたのですが、「離職票を自己都合にした」のは、退職金の割り増しを防ぐ手段だったのではないだろうかってことです。これが事実なら、その重機械工業は、悪辣どころか、卑劣としか言いようの無い会社ですね。先にも書いたように、会社の為にと辞めて行く人間への配慮なんて全く無く、むしろ、そのための経費をいかに少なくするかとの、これが人事や総務の作戦だったのでしょうけど、これを実行したのが高校の先輩だったって、これは悲劇のストーリィに入ります。いや、これを喜劇にするのが大阪人の真骨頂とすべきでしょう。肩を叩かれたから、僕が自分で探した就職先、と言っても別の環境施設事業部の外注として使ってもらったのですが、ここは僕の技術力を評価して使ってくれたので、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。ところで、そこでも何件か受注を果たしたのですが、それも、1件20億程度を数年間受注したところ、僕の肩を叩いた後に、元の事業部から天下りで子会社の重役として行った、その先輩が、僕の受注した案件の部分的発注を僕に頼んできました。これって喜劇でしょ?僕はその仕事の、その会社への発注は邪魔も支援もしなかったですけど、かなり厳しい値段で受注してました。
ところで、そんな先輩の居た、天王寺高校のOB会や同窓会の誘いにはどうすべきでしょうか?
そう言えば、これも喜劇なんですが、技術家である僕の肩叩きについては、当然、その後の仕事に支障がないかどうかは、僕と一緒に働いていた営業部門に確認して決めた筈ですが、肩を叩かれた後、僕がもう別の所で働いている時に、元の事業部の営業課長がやって来て、「コンテナクレーン基地の物流シュミレーションが必要なんだけど、やってくれんか?」と頼まれたのだが、心情的には遣る気は毛頭無いし、それにそもそも、もう既に別の事業部の世話になっている身としては、当然ながら断った。これに対して彼は、「君は、君が長く務めた事業部への愛着はないのか!」って怒っていた。
これって、不可思議な論理ですね。肩叩き先輩も事務家さんだけど、事務屋さんって頭のネジがおかしいのかな、と思いました。
個人的な経験や感情は別にしても、住友重機械工業だけど、今から思うととても変な会社だった。技術が重要な業種なのだが、技術とか技能に関しては殆ど留意しない、と言うか、そんな余計なことに拘泥しない方が望まれるように思えた。実際の所、自分の担当する技術に打ち込むような人は先ず出世できない社風だ。
僕はと言えば、残念ながら技術に拘泥するタイプで、僕の専門は長距離コンベヤだが、一般的コンバヤも含んで自動設計できるプログラムで、コンベヤの屈曲点の位置情報、搬送能力情報等を仕様入力すると、部品レベルまで算出するプログラムを土曜、日曜、休日を費やして、個人的に開発した。いかに人を掛けないで、しかも最適な装置を設計するかが、企業競争の鍵だと思ったのだ。これが三十代の、ほぼ一年で完成し、その頃東京の見積部隊に転勤となり、このプログラムは更に有効に使えるようになった。後は、時々プログラムを改良し続けた。このプログラムを使うだけで、100億円程度の案件も1人で見積もり出来るようになった。東京に転勤してから自分だけで使うのではなくて取扱説明書も作って課内、部内に配布したが全く反応がなかった。それどころか、部内で、コンベヤシステムの見積プログラムを、これは多額の部門費を使って開発しだした。だが不思議なことに、開発者はコンベヤの実施設計をした経験の無い人間が選ばれた。実は、この頃、いろんな製品の見積もり方法として、詳細設計では無く、過去の実績からの推測方式がブームになっていて、この方式を採用したものと思われる。だが、そのような見積もり方法には必ず限界が存在する。あるレベルまでの見積もりは出来たとしても、激烈な競争下での最後の値決めに使える筈はない。そのような状況で、そのプログラムを使えば、最後には賭けになってしまうのだ。他方、僕のプログラムは設計プログラムそのものだから、詳細設計を元にした見積もりとなる。しかも僕の設計能力は人並み外れて有能だから、それを元にした設計は最適そのものである。そんな当然の事がなぜ判らないのだろう、と不思議で仕方無かった。特に重要なのは、受注した時点で、実行予算を作ることが重要だが、僕のプログラムでは、実行予算そのものが殆ど出来ているが、推定方式であれば、見積もりとは全く別に実行予算のための作業を開始しなければならないのだ。結果として、部長が栄転して、大金を掛けて開発されたプログラムは誰も使わないままに朽ちてしまった。この事に限らず、多くの技術的改革が同じような結果をたどった。
全社に亘って、ゼロデイフェクトから始まり、TQCとか、手法そのものには意味があるとしても、その実際の適用方法が、極めて一時的と言うか、あきらかに時間の無駄ってわけの判らん手法での業務改革が取り入れられ、誰もが熱病の如くにこれに熱中しだすのだが、責任者が替わる度に彼の採用したテーマは消えて、熱病が冷めて、新しい責任者がまた新しいテーマを立ち上げる。先を読んで、最終的成果で評価されることはないと、これに積極的に応じる人間が評価され出世して、批判的な人間は左遷されないまでも無視されるのだ。つまり、業務改革手法は、ただ単に忠誠心で人を選別するシステムになっているのだと、そんな単純な事が判らなかった僕が馬鹿だったのだ、と今になって気づいた。つまり、何か花火を、例え、あっと言う間に消え去るテーマでも、派手にブチ上げて忠誠心を示さねば駄目だったのだ。
しかし、業務改革的手法について言えば、ひととき、とは言え何年にも亘って、日本中が、傲慢にも日本的TQCなるものに熱狂しまくり、大学の先生方の多くがTQC指導員として高額の報酬を得て企業の指導と只の飲み食いに走り回り、バブル崩壊と共に、これも崩壊した。その後は、小泉改革と欧米的経営で、社員の整理が当然のこととして行われた。僕の悲劇も、その成果のひとつだったのだが、米国やバングラデッシでのプロジェクト、据付経験から、日本的TQCより欧米的経営の方が効果的だと知る僕には、いささか皮肉な結末でした。しかし、今の日本の経営者達は、あれほど日本的TQCに熱中したにも拘わらず、これを一気に放棄して、更には米国型経営の悪いところばかりを追求しているとしか思えないのですけどね。
とにかく、そんなこととは無関係に、僕は着々と受注し儲けていったのだけど、そんなのは通常の業務だから評価の対象とはならなかった。
ところで、僕が専門馬鹿かと言うと、そうでもない。と言うのは、僕が大阪で所属した部門での仕事は、設計だけではなくて、プロジェクトの見積もりから納入まで、しかも、採算責任を持つ仕事であったから、プロジェクトでの金もうけには、充分に実力を発揮したし、国内だけでは無くて海外での据え付け業務や採算管理でも成功している。僕の設計、ないしは見積りした設備は、何件か、それも世界最大級のものも、ネットで見られるし、それに、対外的技術活動としては、産業機械工業会で、JISベルトコンベヤの設計基準作りでもかなりの活動を果たし、そのJISには名前も載っている。それと、この活動と並行して、勿論本来の実務としてのプロジェクトをこなしながらも、海上土木協会なるものの活動に参加して、後の、関空の土木工事受注のための活動に従事した。さらには、ずっと後になるが、日本機械学会物流部門のまとめ作業も経験したし、そこでは、かなりの力を発揮したと自分では思う。今ではあちこちで使われ平凡な言葉になったが、当時としては新鮮だった、機械学会の「進化する物流機械」って標語は僕が作ったものだ。
業務改革についてだけど、社内の熱病的改革活動には批判的だけど、会社をやめる頃になって判ったのだが、特許・実用新案申請数では、僕は社内2位だった。それに、改善提案数も社内有数であったに違いない。特許とか業務改善って日々の仕事を工夫していれば自然と出来て行くものだが、殆どの管理職、それに、指導者層は、そのようなことは人に遣らせるので、そのために、どこかの部門から人を引っ張ってくるのが有能な管理職だとみなされるのかもしれない。その評価観点からすると、僕は、結局は、井桁マークの重機械会社の社風に合わないと言うか、それに、僕には理解しがたかった「忠誠心選別方式」なるもので振り落とされたと言うのが実情だろう。
それに、会社の利益のことは一生懸命に考え実行したが、自分の利益は守れないどころか、会社の悪辣な手段に翻弄され、最低の条件で放り出されたってことは、こりゃやっぱり専門馬鹿なんでしょうかね。でも、会社が酷過ぎるんじゃないだろうか?
かなり脱線したが、話題を旅に戻して、「行ってきます」をここまで書いたところで、人生そのものが長い旅だと言うことに、今更ながらも思い至った。言い古された言い方だが、その言葉の意味は、その人生の終焉に近くなって初めて理解出来るものなのだろう。いや、より感性の高い人なれば、もっと早く理解出来たのかもしれないが、残念ながら、それは断定的に言えることなのだが、僕の感性はそれほど高度なものではないのだ。
河内の、周囲を田んぼに囲まれた疎開住宅地に生まれ育ち、歳と共に大阪府内を転々と移動して、その後一気に、これも当然だが会社都合なるもので、遠路はるばる移動して千葉の社宅に移り、今は千葉のまんなか辺りの自宅に住んでいる。これらのこと自体が人生が旅であることの証のような気がするのだ。
ただ、千葉に移ったことについては、今になって思うと、新しい経験を得られたと全く後悔はしていない。それに、かって済んだ田んぼに囲まれた疎開者住宅は、今や住宅に覆われた醜悪な地域になっていて、むしろ今の場所の方が自然に満ちているのだ。少なくとも、僕の人生の間はまだ自然が維持される程度の破壊の速さと思えるのだ。自然の面白さを知らない人にはこの感覚は理解できないだろうけども、これは僕に取っては極めて重要なことなのだ。
大阪平野の南、東西を葛城山脈と上町台地に挟まれたエリヤを河内平野と称するが、かって、古墳時代ごろには河内平野から北、つまり大阪平野の殆どは入り海になっていた。その海岸線が河内松原辺りで松並木があり、それ故にそこは松原と名付けられたのだ。僕の子供時代の河内平野は、所々の丘に村があり、僕の住む疎開者住宅は、丘に挟まれた低地にあった。住宅地の南側を狭山池からの西除川が流れ、住宅地を過ぎた辺りで流れを南に替えて、大和川、それは住宅地からはかなり離れてはいるが、東から大阪平野を横断して大阪湾に注いでいて、これに西除川は流れ込んでいた。川は住宅地よりも高い位置を流れていて、普段は穏やかに所々で美しい淀みを造って流れているのだが、大雨や台風の度に水が溢れだして、水は大和川への近道として住宅の中を激しく下って行った。住宅地は洪水に襲われ、その時には家の前を魚や蛙が泳ぎ回るのさえ見られ、親たちにはいまいましい、かような事態を、僕たち子供はこれを楽しみにしていた。
住宅の外を見渡すと、丘にある古い村々の方向を除いては、遥かなる山系の彼方にまでに田畑が続いていて、秋の台風の去った後には、彼方にあるべき山々が声の届きそうなほどに近くに見えたものだ。僕は思うのだが、おそらくそんな環境で育ったものだから、人の組織の中を、要領よく泳ぎ回ることは余りにも至難となったに違いない。
人との付き合いでは要領は悪かったが、自分がこれから何をすべきかについては、それが結果として良かったのかどうかは別にして、自分を厳しい状況には落ち込ませないとの本能には優れていたようだ。小学校ではきちんと宿題をするだけでずっと優等生を続けることができたが、ただ、4年生のクラスに朝日新聞の論説者を父に持つと評判の、特別優秀な岡明人って秀才と一緒になり、これは優等生から滑り落ちたなと覚悟したが、彼はやはり特別らしく、僕は彼よりも一段下だが優等生を保った。最近、彼の名前でググルと、朝日新聞の科学系の論説者として活躍しているのを見つけた。僕が一目を置いた人間が、何かを成し遂げたって嬉しいことだ。
話を元に戻して、中学校に入って直ぐに高校入試のことが心配になった。英語の先生が文法のことを説明なしに一気に授業を進めていったことがその最初の原因だった。引っかかったのが、be動詞と普通の動詞をどう使うかが理解できなかったことで、頭は混乱状態になった。だが、何かのきっかけで、be動詞は形容詞と組み合わさり、動詞とは組み合されない、と気づいて、それからは一気に英語の理解が進んだ。この経験で、勉強の先行きのことが心配になり、それも3年間の勉強分が高校入試に出るって事態に気づき、その大変さに恐怖を感じた。そこで考えて、授業のノートのページの1/3の所で折り曲げて、そこに毎日の授業分を、その折り曲げた所に質問として書き、毎日電車での行き帰り、それも帰りは殆ど友人と一緒にふざけまわっていたから、行きの20分程度をその復習に割いた。また、手のひらに入る程度の漢字帳を買ってこれも同じように勉強した。
定期テストの勉強は殆どしないもんだから、定期テストの結果はいつも7番程度だった。朝は家を6時30分には出て、学校に着くと7時過ぎで、それから友達と始業時間まで遊ぶ毎日を過ごしたが、3年生になってから行われた実力テストでは、成績は公表されないのだが、教師からの暗示では成績はかなり良かったらしい。そのため、進路選択で、最も難関な天王寺高校って学校を希望したらあっさり許可され、入試もなんなく通過した。受験技術が進んでいない時代は、この程度の工夫で簡単に優秀校に入れた時代なのだ。高校に入り、中学と同じように友人と遊ぼうと学校に7時過ぎに着いたら、まだ門が閉じられていて、門をよじ登って校内に入った。この出来ごと一度だけで、高校生活には、早朝に友人たちと遊ぶ習慣は無いのだと気づいた。
1年間は何もせず、土曜日には学校の帰りに映画をみて過ごした。当然だが成績は高校1年生の多分600人の末尾に近かった。だがやはり生来の臆病心が蘇り、2年になった時から1年2年の教科書をここからここまで、と勉強の予定表を作った。やはり、定期テストは無視して長期計画である。計画実行の為にはTVが邪魔だと、学校から帰ったら直ぐに寝て、TVの終わる11時頃、当時TVは11時〜12時には終了だったのだが、その時間に起きて3時、4時まで勉強することにした。さすがに参考書も必要になり、数学は矢野健太郎、化学は化学精義を使った。矢野健太郎は、後の教育行政では誤った道を進んだが、彼の参考書は非常に役に立ったし、化学精義は、これは、自分を磨くに最高の参考書だった。物理は教科書だけで充分だったが、不思議なことに、結局、僕の人生、勿論、仕事を進める上での知識としては、この物理の教科書の理解だけで殆どの問題を解決できた。受験に関するこの勉強法は、3年の12月半ばまでで、それからは普通の生活に慣れるように体調を整えるだけに過ごした。
ところで成績だが、定期テストは、一気に中位程度になり、クラス担当を驚かせた。が、3年になり実力テストがあり、これは廊下に貼り出される。初回は60番程度で、2回目は、張り出された最後の落ちそうな所に名前がで友人に笑われてしまった。が、12月の最終回では一気に2番になった。クラスの友人たちはそれには何のコメントも発しなかったのだが、どう考えていたのだろう。
ところで、その時一番となったのは、中野みつ子って女性であった。かくして、一番となるチャンスをこの女性に阻止されたのだが、怨むなんて気持ちは毛頭ない。先日、偶然、彼女の結婚後の姓を知ることがあり、早速、yahooで検索すると、化学関係でかなりの成果を上げていると知った。が、やはり、学生時代に一目置いた人間が、どこかで頑張っていると知ると気持ちが良いものだ。ところで、小学校時代のライバルと言うより、あいつには勝てないって思っていた岡も同じ高校に進んでいて、実力テストでもやはり僕の上位を続けていたが、この最後のテストだけは僕が彼を追い抜いたことになる。これは誇りにしてもいいことじゃないか?しかし、今なお彼を尊敬する気持ちに変わりは無いのだが。
人生2番手と言えば、僕はもうひとつ変なことでも2番手になった。受験勉強しながら、これでは体に悪いと、家の勝手口にちょうど懸垂運動に手ごろな門があり、暇が有ればこれにぶら下がっては牽垂をした。学校でも昼休みには鉄棒で懸垂や鉄棒運動に取り組み、小車輪までは簡単に出来るようになった。その頃、体育の時間に体力測定があり懸垂の回数を測定したのだが、記憶では33回程度は出来た筈だ。この全校成績が廊下に貼り出されたのだが、このトップは俵って、名前通りに体格頑丈な男で、2位は僕であった。この時も級友たちからは何のコメントも無かった。かような事情で、僕の体は、サイズは普通だが、腕の筋肉は太く、腹には筋ができたような体になった。体は軽いから普通に立った姿勢から体を曲げて腕を地面に置いて、ゆっくりと逆立ちが出来るようにもなった。この後、人生ではまともな運動をすることは無かったから、この時に造り上げた体力で後の人生を過ごしたことになる。
ところで、結局僕がどこの大学に進学したかだが、当時は、就職に有利な学科として、機械工学科の機械、電気、応用化学が御三家と称されていた。臆病者の僕は、地元大学の機械工学科を希望したのだが、担任は「たまたま実力テストが良かったといっても、あそこは無理だ」と、レベルを落とすようにと指導した。今であれば、その教師の気持ちは判るのだが、当時は、前後左右とかを考える心の広さは無く、将来の就職ってことばかりを考えていた。そのため教師の助言を振り切って、その大学の機械工学科を受験した。
試験では得意な筈の化学で実に馬鹿げた失策をした。「下記の条件に合う物質の化学式を示せ」との問題で、化学得意の僕には余りに簡単な設問で、裏を読み過ぎて、分子式を各分子毎の組成にまとめてしまったのだ。家に帰りそのことに気づいて愕然となり、そのため、受験は完全に失敗だとあきらめていた。が、一週間後か10日後の、中之島での受験結果発表の表示を見に行くと、なんと、僕の番号があった。茫然として、電車に乗っていったん帰ったものの、そんな馬鹿なことがある筈はない、と、もう一度電車に乗って中之島まで行った。が、やはり、僕の番号はちゃんと載っていた。
かように僕は臆病なだけではなくて、ちょっと抜けてはいるが、とても用心深いのだ。この性癖は、会社生活でもそうであったし、今でも完璧に残っている。
大学では何を考える必要もなく、遊ぶだけ遊んだって言っても、自転車で紀伊半島を一周するとか、大峰山から熊野まで歩くとかで、休みごとを過ごした。概ね友人と一緒の行動が多かったが、単独で大隅半島を縦断して、台風で荒れる海を屋久島に移動したが、2等船室の入口から波が流れ込む様には驚いた。
会社に就職するよりは大学院の方が楽だと修士に進み、流体力学の村田研究室に入った。横断流送風機(今では電車の多くに、空調送風に採用されている、車内長手方向に長い風車を持つ送風機)の流れを研究した。この送風機は、送風機内部に渦が出来て、羽根車の一方向から他方に空気が流れ、その流れ方向は羽根車の外側に置くケーシングの位置で決まるのだ。教授に送風機内の流れ関数を作れと言われ1週間ほど考えたが、解法が全く判らないので相談すると、一晩で「こうすりゃいいのでは?」と基本的な考え方を示された。その解法は殆ど忘れてしまったが、複素関数平面の?軸に対象に吹出しと吸込みを置くと、当然、流れは吹出しから吸込みに流れる。これを通常平面に変換すると、?軸は円となり、円内の吹出しは強制渦になり、円外の吸込みは逆方向の強制渦になる。ケーシングの位置変化で渦の位置が決まると考えれば、この送風機の流れは計算式で再現されたことになる。学生時代にはこの解法を数式で追うだけで、このような考え方では理解できなかった。歳を経ると、物事を数式で追うのではなくて、ごく簡単な現象での表現で理解できるようになる。会社での技報委員や、機械学会物部門でも、自分の専門外の文献を査読することが必要な時には、このような形而上的な思考順序であらゆる技術を理解出来るようになったが、まだ若い時には、このような思考は出来ず、教授の能力に恐れ入ってしまい、2年間の修士生活を終えると、学生を続けることは断念して就職することにしたのだ。
ところで、最近、その研究がどうなってるかをNETで調べると、僕は積分の流れ方程式を数値計算で解いたのだが、僕の後継者が、方程式を解いて研究を継続していた。流体方程式を解くってことは非常に困難なことであり、これには驚いてしまった。更に彼の機械学会論文集の論文では、僕の名前も書いてくれていた。
なお、当時の計算機を使っての数値計算は、全くの機械語を使っての演算で、なが〜いテープに穴をあけて、実に膨大な労力を要するものだった。ただ僕はかような数多くの変数を頭にしまいこんで、これを必要に応じて引っ張り出しては演算プログラムを作り、変数を再び頭にしまいこむって作業が得意で、先に言ったコンベアの計算プログラムではこの能力を十二分に発揮したのだ。
この頃、就職先の決定では、特に学科御三家では、どこでも選び放題なのだが、僕は言うなら最低の企業を選んだことになるが、これは充分に就職先を調べなかった自分が悪いとしか言いようがない。誰をうらむ事も出来ない。ただ、社員や技術者への待遇や、会社の精神的風土は最低だったが、仕事としては実に面白かった。恐らくこれは、ややこしい仕事は文句を言わない人間に押し付ける、って風土、や、それに、その会社の古い組織から離れた所で仕事を出来て、好きなように出来たことによるのだろうと思う。がしかし、古い組織から離れていると、いくら成果を挙げても会社のうまい部分を食うことは出来なかったってことだろう。
僕の就職した会社は、元々の本拠は新居浜で、就職の最初も新居浜での仕事だった。僕の最初の上司は、その最初の日に走行式水平引込型クレーンの全体計算書を渡し、この旋回部分を設計せよ、と命じた。さて、大学ではクレーンは天井クレーンの事しか教わったことはない、それも、クレーン鉄骨のクレモナ線図を書いただけだ。旋回装置なんて皆目見当もつかない。僕はそのまま会社の図書館に行って本を探すと、ソ連の設計者の書いた本、当然日本語に翻訳されたものだが、これを見つけ借りてきて、一週間ほどで計算して図面に書いた。まるで戦車みたいな旋回部分になってしまった。が、上司にこれを見せると、「図庫に行けば以前のクレーンの図面がいっぱいある。それに、計算基準はこのファイルだ」と渡してくれた。最初から言ってくれればよかったのにと思った。だが、以前に誰かが設計したり標準化したりしたものを設計するのはこれが最初で最後だったような気がする。自分から望んで、古い組織の新居浜から出て、大阪に移ってから以降は、殆ど、自分で見積り受注して、これを設計して予算管理と、日々身を粉にして働き、工夫し続ける仕事ばかりとなった。特に、縦割り組織の新居浜から離れ、プロジェクト全体を見るセクションに移ったことで、実に面白い仕事を出来たと考えている。
新居浜での仕事は6ヶ月程度で、それも図面台の前だけの仕事であった。しかし設計的には、旋回車輪軸のきしり運動の解析とか、前後動するクレーンブームの吊下げた荷の、旋回時の動きとか、面白いテーマも解析できた。その頃、設計部長、この人は僕の尊敬する人で、他にも僕の上司で尊敬する人も居たのだが、そんな人は、肩を叩かれた僕よりは出世出来たものの、その能力にふさわしい地位にはなれなかった。とにかく、その設計部長にスカウトされて大阪に転勤となった。行った翌日には、そこで上司となった技術者に連れられて浜松に設計打ち合わせとなった。何本かで全長3km程度のコンベヤの設計打ち合わせで、客先を前に広げた図面で、初めてベルトコンベヤとはどのようなものかを知ったのだ。ところが打合せを終えて大阪に帰ると、その上司は「僕は、もうコンベヤ担当をやめて、自動倉庫って物の開発を始める。だから、後は1人でやれ」と宣言して、その件に関するファイルを全て僕に渡してしまったのだ。嘘だろと思ったが、それは嘘ではなくて、その仕事は僕1人ですることになった。仕方が無いので、梅田の本屋旭屋に行きベルトコンベヤの本を探すと、今回は幸いなことにロシアの本ではなくて、日本語の本で、「ベルトコンベヤの設計と管理」ってかなりまともな本を見つけて買った。これを夜遅くまで勉強しながら設計を続けて、一週間後の客先打合わせには1人で行った。客先の住友セメントでは井川さんて課長が待っていて、「あれ?XXさんは?」って聞くので、「え〜っと、XXは別の仕事に移りました」って答えた。「え〜!本当ですか!」、課長は非常に驚いたものの、別に文句は言うことなく、しかしながらも、とても不安そうな面持ちでの打ち合わせとなった。それからは東京に転勤するまでベルトコンベヤ設備一筋に働いた。
ベルトコンベヤって例えば僕が28歳で納入を終えたのがこれで、
http://www.from-a.jp/sansaku/fs7_sumikinn.htm
真ん中右側の写真の、紫色の線で示された、地下を走る12kmのコンベヤだ。これは、山元で採掘した石灰石を1000t/h程度の能力で、セメント工場や、港の船積み設備に送る設備なのだ。
八戸鉱山では、長距離コンベヤだけではなく、採掘した石灰石を地下100m程度から地上に送る設備、港での船積設備なども設計したのだ。この設備は騒音、振動対策を非常に重視した設備で、特に長距離コンベヤは地下に施設されている。このため、全長が12kmにも達するのに、殆どの八戸市民さえもが、この設備の存在を知らないのだ。
後年、お世話になった本、「ベルトコンベヤの設計と管理」が新刊となる際には、その長距離コンベヤの騒音対策の項で、その多くの下書きを僕が書いたし、その複数の著者の中でも特に主要な一人である、加藤竹雄さんとは、産業機械工業会の委員として御一緒することが出来た。
八戸の設備計画は、僕が25歳の時に始まり、住友系の各社、つまり住友石炭、住友セメント、住友金属、それに、鹿島建設や明電舎と僕の所属する重機械が集まる打合せ会で、僕が技術説明するのだが、さすがに足が震えたものだ。各社の人から見れば、あまりパッとしない、学生みたいな僕をよくまぁ容認したものだと、今になってみると感心するのだ。だが、最近、当時作った技術資料を見る機会があったが、我が事ながら、見事に吟味検討した資料を提出していた。ただ、いつもそうなのだが、僕の技術的資料に直接触れるせいか、外部の人の方が僕を良く評価してくれたようだ。住友セメントや八戸石灰の人の恩義は今でも忘れることは出来ない。それに、一緒に活動した産業機械工業会の人や、機械学会物流部会の人々にも本当にお世話になったと考えている。そして、それは、それぞれが楽しい思い出なのだ。それに、米国のガルフでの石炭ターミナルの建設とか、バングラデッシのASHUGANJI肥料設備の建設でも、何故かぱっとしない僕を応援する人が出来て、苦労はするものの、その苦労は評価されて無事仕事を終えることができた。
僕の働いたASHUGANJ肥料工場はここです。
http://www.wikimapia.org/17167943/Ashuganj-Zia-Fertilizer-Factory
グーグルアースで、「24.0235647N,90.9880722E」って入れてもはっきりと見えます。
ここには延1年間据付のスーパーバイザーとして滞在した。実は設計は僕がしたものではなく、僕のプロジェクトでも無かった。が、結局、この土地柄だと、行こうとする人間がおらず、多分、新居浜製造所の裏工作で、僕が行くことに決まったのだろう。ところが、この人選には海外営業、それも当時天皇と称された営業部長が怒り、結局両者の狭間で、会社の命令は絶対と信じる僕は、東京の営業も新居浜の製造所(据付責任部署)の応援も無く、僻地に派遣された。英語も喋れないのに、現地出向の最初から営業には無視され、誰も付いて行かず、海外営業からのけしかけもあったのだろう、ダッカの商社、住友商事もほったらかしって有様でした。ひどいもんだった。
でもまぁ、一か月もすれば、現場は英国のスコットランド本拠のエンジニヤリング会社FWの運営で、そのスコットランド訛りも理解できるようになったが、問題は、新居浜製造所の管理下で作った製品が、多分、まともな検査をしないで、しかも、梱包リストとチェックせずに梱包に放り込んだらしく、何がどこに入っているか判らないってありさまだった。つまり、単体主体の製造所は、プラント設備で最も重要な、物品管理には全く考慮を払わず、しかも、製品の検査も全くしてなかったのだ。このままでは、膨大なバックチャージが掛かると、僕は、FWのElectionSupervisorのMr.Canonや、MechanicalSuperviserのMr.Atokinsに頼み、現地人の人手、ガスや溶接機械を借用して、物品の改造や、物によっては、製造さえ行い、特に千個を上回る梱包は、全て自分の手で開梱して物品の整理をすることにした。FWの保管セクションに頼むと、物品の管理に困っていたFWは、バングラデッシ人の職員タマールを僕に付けてくれた。彼は教育は無いものの、かなり有能な男であった。つまり、僕に誤魔化されない為にも有能な男を付けたのだろう。そうして彼はその職責を見事に果たしたので、僕も誤魔化すことは出来なかった。いずれにしても、彼等にすれば、物品の管理や据付がきちんと進むことが何よりも重要なので僕に協力してくれたのだ。物品の管理で見つけた不足は、機械部品でさえも、手作りの代品を作ったりして、据付は順調に進んだ。ただ問題は、岸壁の肥料袋の船積機であった。これ以外の陸側の設備はFW直轄で据付だったが、船積機の据付だけは、FWから韓国の企業へと発注された。おそらく、世銀案件の汚い部分での交渉の結果なのであろうと推測した。その装置の機械部品の梱包検査は、何とか僕自身で出来るようにと交渉したが、鉄工品は梱包のまま韓国企業に渡し、韓国企業自身で管理する手順となった。案の状、品質管理も梱包管理も為されずに送りこまれたせいで、韓国企業は、改造とか部品不足による追加金額がFWに直接出始めた。FWはその請求を正式に僕の会社、つまりは、僕に請求し始めた。FW据付分での部品不足や改造に対する我々への追加は、数万円なのに、韓国企業からの追加は、どんどんと膨れ上がりだした。いち早くこれを予想していた僕は、部下の一人を韓国企業専属として、追加を抑えることも含めて据付指導では韓国企業に協力していたのたが、この親切は無視され、僕には何の相談も無く、追加をFWに直に出し続けた。そこで僕は先ずFWのSTRAGE部門に行き、FWから韓国企業への物品の流れを調べた。それで判ったのだがFWつまりは井桁マークの会社が納入した梱包が両社間で手渡される時に、韓国企業が梱包ごとに、梱包リスト通りの物を受け取ったとのサインをしていることを確認した。つまり、井桁マークの会社だけではなく、韓国企業も同様にスキマだらけの仕事をしていたわけだ。そこで、全ての梱包が引き渡された時点で、STRAGE部門に頼み引渡証を全てコピーして、「韓国企業は全ての部品を受け取った筈だから物品の不足はありえない」との書類と一緒に、FWに提出して、全てをチャラにしてしまった。なぜなら、韓国企業の申し出を証明する証拠が無い以上は、この引渡証のみが物品の不足を証明するもので、そこには全て受取った、と韓国企業が認めているのだから、不足は無いとする以外に仕方がないではないか。ってことで、これ以外にも徹底的に韓国企業を攻撃して、その現場から韓国企業を追い出した。後は我々がゆっくりと、しかも韓国企業よりは効率的に、残された据付と仕上げを行った。だが当然ながら、こちらの隙を見せないようにと頑張ったが、詳しくは書かないが、これが新居浜や海外営業からの根も葉もない批難の種になったようだ。あれやこれやと有ったが、僕はその現場の各国からの設備では、最も早く据付を終えて、更に試運転も行い、試運転証明書も手に入れて帰国した。ところが、他社の設備はなかなか据付が終わらず、結局、最終顧客は、FWを契約不履行で訴えるなどのトラブルが続いた。が、何年か後になって、プラントは漸く稼働した。
その頃、新居浜製造所は、イラクとシベリヤでプラント建設をしていたが、共に大赤字であった。据付込みの受注だから仕事が遅れれば遅れるほど赤字がかさみ、他方、僕の方は、スーパーバイザー業務だけではなく、製品に対するバックチャージが出ないように、あらゆる工夫で製品の品質は維持したから、我々の滞在費も全額支払われた。月に200時間の、客先指定の残業もしたが、バックチャージは全く無く、しかも、僕と僕の部下全ての業務時間に対して支払いが会社に入金された。だが、会社は、イラクやシベリアの現場では、赤字で残業代も支払っていないからと、僕の残業手当は半額に減額された。新居浜の赤字を僕の残業費で少しでも賄おうって情けない手段で、基本的に彼らにはプラントを遂行する能力が無いのだろうと思った。
ここまで思い出して気づいたのだが、彼等は、僕が肩を叩かれた時も同様の思考方法で、僕の離職票を自己都合退職とすることで、金を節約したのだろう。
実はバングラデッシの件では続編があるのだ。仕事を完全に終えて、帰国したが、先に言ったように、僕のセクションでは、自分の担当するプラントは仕掛品や発生予定金額を含めて、全ての金額を自分で管理することになっている。それで判ったのだが、出張手当が、僕の部下として行った仕上げや検査の人間の方が僕より多いのだ。職階も僕の方が当然高く、出張期間は全く同じ筈だ、と大阪の総務に申し出し、大阪の総務と新居浜の総務の話し合いになったが、結局、新居浜の総務は誤魔化しまくった。残業費どころか出張費そのものも誤魔化す会社って成立つのだろうか。それよりも不思議なのだが、僕への僅かな金を誤魔化すことが、誤魔化した当人達、それに会社に取っていったい何のメリットがあったのか、それが今でもなお、理解できないのだ。当然、誤魔化した当人達は、そのことで自分が高く評価されると考え、僕の金を誤魔化した筈だが、それを彼等の上司が褒めて、それをまた、その上の重役達が褒めたってことになるのだが、そんな組織っておかしいのではないか?。これは、僕の残業代や、出張手当だけの問題でなく、離職票の偽造があったのだから、退職手当の誤魔化しにまで繋がることではないだろうか。
こんなことは、十年以上前から社内で社訓とされ、言い続けられている、遵法とか、コンプライアンス、とかの、そのまだ以前の問題じゃなかろうかと思う。
総務と言えば、今でも怒りが消えないが、会社を辞めさせられるのだからと、昔、転勤前に大阪で買った家の、会社から借金し、既に返済を終わった抵当権を抹消しようと、抹消手続きに必要な会社証明を総務から何千円かで発行してもらった。2週間ほどして時間が出来たので大阪の法務局に行って提出したら、その会社証明は期限切れだと言われ受理されなかった。連中(総務の)は、僕の頼む前に発行して保管して使わなかった古い証明書で、期限が一週間に迫ってるのを、金を惜しんで僕に渡したのだ。大阪東京の交通費は私用だから私費で、これも無駄になってしまった。が、再発行ではなくて、ちゃんと発行してくれと言うと、金を要求した。さすがにこれは拒否して、有効期間がちゃんと数カ月のを発行させた。
いかん!更に腹が立ってきた。冷静に、冷静に。
とにかく、会社の遵法精神、コンプライアンス、とかはどこに行ってしまったんでしょうか。
ところで、製品の出来の悪さ、ぐちゃぐちゃの梱包、それに重要部品の不足などで、僕が現地で悪戦苦闘している最中に、日本では、営業も新居浜製造所も、あいつは気が狂ったとか、戦線を放棄したとか、勝手気ままに悪口を流していた。
試運転証明書をもらって日本に帰っても、誰一人として、自分たちの誤解を弁解するでもなく、勿論、誰も褒める人は居なかった。
更に数年して、たまたま事業部長に会った時に、「あの設備は、大丈夫なんだろうな?」って念を押してきた。恐らく新居浜で納入したイラクの設備、それにシベリヤの設備も、まだまともに稼働出来ていないので、バングラデッシのことも心配したのだろうが、僕の仕事は、手抜きもなく、試運転証明書ももらっていて、しかも、保障期間はとっくに済んでいるのだから問題が起こる筈がない。質問に答えながら、こんなことは、プラント納入の常識ではなかろうか、と思った。
さて、今になって思うと、バングラデッシでは客先代行のエンジニヤリング会社FWの現場指導員に頼み、FWの上層部を誤魔化して、人手や工具を使いまくった、と思っていたが、実際にはFWの上層部には「英語もろくに喋れない日本人」の行動は、掌にあるが如くに充分に把握していたのだろう。彼等の製作部門(納入品の不良を改造する部門)を通して、製品の改造や新作をすれば、その費用はバックチャージされるが時間が掛かる。日本人どもが自分たちで、安い現地人の労働力を使って、無料で改造したり新作しても、それだけ早く設備が完成すれば、我々に払う高いSupervisor費も節約出来るし、最終顧客である、バングラデッシ肥料公社からの、まとめエンジニヤリング会社への評価も高くなる。そう考えて我々を泳がせていたに違いない。そう考えれば、彼等も、手間や時間の掛かる製作部門と、その部門以外に我々が作ったと同様の改造グループを組織しだしたのも納得できるのだ。
この事は、更に言うなら、最終顧客のバングラデッシの肥料公社も認めていたに違いない。後年、この現場の建設長であったMOMIN氏と、チッタゴンの案件でも御一緒したが、僕に対しては「頑張れ!」と、極めて友好的な態度で接してくれた。この件では東洋エンジニヤリングとの競合で、有能な僕が負ける筈が無いと、充分に準備をして入札書類をまとめあげた。これで勝ったと思ったのだが、ODA案件は殆ど営業的な話し合いで決まるが、これも同様の経過をたどり、氏の期待には沿えず、肥料袋の船積機だけをかなりの利益とともに受注した。
http://www.chemicals-technology.com/projects/chittagong-urea/
船積機は新居浜の対応なので、僕とは関係なく納入が進み据付試運転となった。その頃、たまたまASHUGANJIを訪問する必要があり、出張の用意をしていると新居浜の設計から電話があった。
ASHUGANJIに行くついでに、CHITTAGONGに寄って船積機の様子を見てきて欲しいのです。ちょっと調子が悪いらしいが、たいしたことでは無い、とのことだった。
新居浜相手では、あっさり断るのが安全なのだが、CHITTAGONG肥料設備も見学したかったので了解した。
了解はしたものの、かなりの大ごとだろうと推察した。袋の船積機は極めて単純な構造で、ブーム先端に長い、垂直長さ20mほどのスパイラルシュートがあり、袋はこのシュートに沿って落下して船底に運ばれる。この単純な構造からして、問題と言えば、恐らく袋が詰るのだろう、と簡単に推測できた。そのため、念のためにとゴマ油を鞄に忍ばせて出張した。現地に着き、ここではCHITTAGONG工場の工場長で、肥料公社の重役になっていたMOMIN氏に再会すると、「あの船積機には困っている。船の滞船料が莫大な金額になる」と困った顔で訴えた。早速現場に行ったが、船積はしていない状態であった。が、シュートを見て、こりゃ駄目だ、と即座に思った。スパイラル状態になった内側が袋が食い込むような形状になっているのだ。
船が着き、袋の積込みが始まると、案の状、何個かの袋が流れた後、たまたま一個が詰ると、追随する袋がこれを押して、さらに食い込みが激しく起こり、袋はシュートの上から下まで袋でいっぱいに詰ってしまった。仕方が無いので、シュートのガイドに掴まり、下まで降り、袋を一個ずつ、食い込みから外しては下に滑らせた。20mの高さでの作業で必死であった。シュートが空になってから、ゴマ油をシュート最上端に塗布して運転を再開した。最初の袋が油をシュート全体に曳いて、後続の袋は全く止まることなく流れ続けた。
その間、現地に居てトラブルを知っている筈の新居浜からの指導員は一切姿を見せず、最後の段階になって漸く姿を見せた。新居浜の人間って一体何を考えとるんだろうか・・・
一緒に行ったバングラデッシ人の現場監督は、住友のハイテクノロジーだ、と大笑いしがらいい続けた。僕も彼の笑いにつられてケタケタと笑い続けた。
事務所に戻り、MOMIN氏に状況を説明すると、
「ごま油であろうと、何であろうと、無事に船積みができりゃ、それでいいんだ。君!他の設備も調査してほしい・・ああ、そうか、君の納入は船積機だけだったのだ・・・」と、最後の言葉は寂しそうに言った。
その件から以降、東京に転勤になりバングラデッシには行っていない。MOMINさんは、どうしているのだろうか。
更に、僕の仕事をNETで探すと、グーグルアースで「ポート・セント・ジョー,フロリダ,合衆国」と入力、または、「29.837861N,85.302875W」と入力して、拡大してゆくと中央に、川沿いにバージが並んでいるのが見えている。その陸側に石炭ターミナルがあるが、そこのターミナルの受入コンベヤ設備以降の計画、見積から納入までのプロジェクトを管理した。
この石炭ターミナルはCentralGulfという船会社が、石炭のバージ輸送や、そのターミナルでの保管、そこから鉄道で発電所に輸送する仕事を受けて、そのために自らターミナルを建設したのだ。担当は、副社長のMr.Lahsenと称す30代後半の男で、部下として秘書1人、男職員1人だけでこの大仕事の建設から運営までを遣り遂げたのだ。全米中の業者と電話で接触し、見積もりを取り、必要に応じて走り回り、信頼できる業者を競合させ、貨物列車の支線を引き込み、水路にバージ接岸の土木工事を行い、我々に石炭ターミナルを建設させたのだ。彼は完全なる事務屋である。そんな若い彼が、これだけの大工事を、殆ど助けなしに遂行する。建設計画時には、我々をセスナ機に乗せて、何か所もの建設予定地の上空を飛び回らせて調査させたのだ。かくも大きなスケールと実行力で行動すること。これこそが本来の米国型経営なのだ、と僕は思ったものだ。僕が彼を心から尊敬したからか、彼もまた僕を信頼してくれて、僕の言うことには全面的な信頼を置いてくれた。
Mr.Rahsenのダイナミックな行動力、それにバングラデッシでの英国的現場の運営は、僕のその後の仕事の進め方に非常に役立ったと考える。要するに、例え独力であろうと、考えに考えて、工夫すれば出来ないことは無い、との自信が、その最たるものであった。だから、どんな仕事が与えられても全力でぶつかることにして、そしてそれは必ず成果を生み、不思議なことに、人が嫌がる仕事は、何故か利益が大きい、ということを知った。
円高になったことと、新居浜で受注した海外案件で大赤字が続いたことで、運搬機事業部は海外案件から撤退することになり、東京部隊は、国内の新しい装置や設備の受注に注力することになった。彼等の大赤字はそもそも見積もり時の検討不足、それに円高対応での海外製作の失敗と、縦割り組織であることでの実行力不足が原因なのだが、もう一気に海外案件に弱気になってしまったのだ。結局は田舎の工場に過ぎなかったのだ。だが、東京部隊は国内の新しい設備や装置の受注を目指すことになり、なんとか頑張り受注を継続したが、新居浜は過剰な人員を維持できず東京部隊を解散との方針を決めた。この時代に東京から撤退とは、いよいよ田舎者である。そんな考えの僕には行きどころが無くなり、物流部門に引き取られた。で、ここでは官公需を担当してそれなりの成果を挙げていたが、慣れてくると、会社初めての冷凍倉庫の受注とか、印刷局の自動倉庫とか、なかなか面白い設備を受注できるようになり、肩を叩かれる直前には、世界初のリサイクルごみの自動倉庫システムを受注した。巨大なごみ容器を扱う自動倉庫であった。
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/4040/aicle/index.html
以上の経過から判るように、僕達の年代は、世界最大級の設備を作り、この技術を持って、世界に雄飛して行った時代なのだ。
かくして世界をまたにかけ、更には日本国内でも、儲け続けたのだが、会社はいつも損益が悪いと言い続けて給料を抑え、余った金を変なものに投資し、バブル破たんと共に全てを失い大赤字になり、これを、小泉改革で公然と許されることになった「肩叩きなる人員整理と、離職票を誤魔化し」で穴埋めしたわけだが、考えてみると、僕の人生で唯一の失敗、多分、多くの真面目で有能な技術者も同じ思いだと思うが、それは、井桁マークの重機械に就職したことだろう。
でもまぁ、その他では多いに楽しんだからそれでいいのじゃなかろうか。それに、この会社に就職していなければ、今の女房との出会いも無く、その兄弟たちとの楽しい付き合いも存在しなかったことになる。これはちょっと問題だし。仕事もまた、巨大な設備を作るって、僕に相応の仕事だったような気がする。考えてみると、大学院を出てから、仕事に関しては誰に何かを教わることも無く全ての仕事を完遂できたことになる。しかも、その仕事の困難さを考えると長いタイトロープの人生だったと思わずにはいられない。
そうそう!もういっちょ忘れていた。
50歳になった頃に、小説を書こうと考えて、新潮新人賞に応募を始めたが、2年ほどで第一次審査は確実に通過するようになった。そのうち長編を書き始め、第1作目は、ASAHI新人賞のラスト8人までに残った。更に長編を一作書いた所で肩を叩かれて小説どころではなくなった。が、これもまた面白い経験であった。おかげで長い文章も簡単に書けるようになったのだ。
2.本文
東京八重洲発8:10のJR中央道高速バスで大阪に向かった。景観としては東名経由の方が良いのだが、紅葉の季節は中央道が良いようだ。またバスは甲府を過ぎると南アルプスを左に北上し、八ヶ岳を右に見て、諏訪湖の南端で南アルプスの先端を反時計方向に回り、中央アルプスを右にミナミアルプスを左に南下する。これらの光景は実にすばらしいものだ。紅葉もかなり、と思ったが、良く見ると、針葉樹林帯の立枯れかとも思えた。もしそうなら、八ヶ岳は悲惨な状況になっていると思えた。だが、通り過ぎる麓の村々には、穏やかな、日本の原風景とも思える風情が見られた。青春18切符とか、バスの旅は、通りすぎる風景が身近で、それと、その地方の歴史の知識も思いだされて楽しいものだ。特にこの周辺は武田信玄の侵入路でもあるのだ。
南アルプスと中央アルプスの峡谷を南下して道は中央アルプスの下を抜けて美濃に入る。春日井で東名と合流して、美濃を横断、大垣、関ヶ原を抜け、琵琶湖南端を走り、山科トンネルを経て京都府に入る。この歴史に満ちた遠路をたった8時間で走行するのだからたいしたものだ。ただ、帰路は渋滞に巻き込まれて、2時間程度遅れてしまった。東名の方が渋滞は少ないのではないだろうか。とにかく紅葉も満喫して、京都深草で降り、京阪で枚方公園駅に行き、無料のGHにたどり着いた。GHまでの途上で、野菜と牛肉や牛乳などを買いこみ、焼き肉の準備をしておいた。自炊は焼き肉が最も簡単だ。
●親戚一同で、志賀を拠点に比叡山の紅葉を楽しみ、近江八幡の古い街並みを楽しんだ。大阪で生まれ育ったにも拘わらず、かような素晴らしい街並みが有るとは知らなかった。帰路、関東の親戚たちは女房に任せて僕は京都府立植物園の紅葉を楽しんでからGHに戻った。
●大学の同窓会が広島空港の空港ホテルで開かれ、JR大阪発8:20、姫路、相生、糸崎乗換で、白市着13:56の列車の旅を楽しんだ。紅葉と美しい村々、歴史の道筋、全てが楽しい旅だった。和気駅手前には、和気清麻呂の碑を見つけた。てっぱんの尾道も通過した。帰路、鈍行が三原駅に着く前に、駅弁なんとかと書いた武者旗を掲げた一行が乗車してきて、その中の少し太めの40歳前後の男が、列車の前の席からインタビューを始めた。てっきり駅弁の宣伝かな、と思っていたが、僕の席の前に座って、僕にインタビューを始めた。完全な大阪弁で、なんで広島で大阪弁なんや、と奇妙に思えた。
「僕が誰か知ってますか?」と言うので、
「さぁ、知りませんね」と答えると、後ろに立った若い女性が写真を見せた。後で名前は知ったが、整いました、の相方の方であった。
http://talent.yahoo.co.jp/pf/profile/pp290873
次いで
「夕方ネットワークって番組知ってますか?」
って質問されたが、広島のテレビなんて知らんなぁと思いながら、
「しりませんね」
と答えたが、NHKの全国ネットだと教えられて、そう言えばちょっと聞いたことあるか、と気づいた。
あと、インタビューが続いたが、インタビューのテーマが判らず、面白いインタビューにはならなかった。多分カットであろう。これからは常にインタビューがあることを予想しながら旅をすべきであろうか。
そんな馬鹿げた出来事もあったが、なかなか楽しい帰路であった。
●肥後橋の会社クラブでの物流部門のOB会に出て、大阪時代の懐かしい先輩達との楽しい会話を楽しんだ。井桁マークからの退職は物流部門の時であったが、その退職時には、そこに居た先輩たちは既に物流部門には居なかった。しかし、物流部門は、僕が大阪に来た時に、浜松のコンベヤの仕事で、



