【最大40円割引】会津松平氏庭園 御薬園 入園チケット
大人(中学生以上)330円 →290円(税込)
御薬園(会津松平氏庭園)
公園・植物園
3.40
会津若松 観光 満足度ランキング 7位
室町時代の領主・葦名盛久が霊泉の湧き出たこの地に別荘を建てたのがはじまりといわれている。保科氏が会津藩主となった時に保養所となった当地では、庭の一部で朝鮮人参をはじめとする薬草を栽培したため「御薬園」という呼び名で親しまれている。作庭家の目黒浄定を幕府から招いて庭園の形を整え、大名の私園として個性的な趣となっている。池の奥右手には雄滝、左に雌滝を落とし、石組も添景物も控え目に配して、簡素な中に温かさのある好感の持てる庭である。
4.0
松平氏の藩祖保科正之(ほしなまさゆき)が整備した、中央に心字の池を有する池泉式回遊式大庭園です。園内には「薬用植物標本園」... 続きを読むや、「重陽閣」「楽寿亭」など歴史的に貴重な建物もあります。 庭園を散策して、時間に余裕があれば御茶屋御殿で抹茶と和菓子をいただくのもいいと思います。 閉じる
3.4
(49件のクチコミ)1~20件(全49件中)
会津若松にある薬草園の御薬園(おやくえん)のその歴史は古く、室町時代の中期にその起源をもつとされています。
実際に現在の...
続きを読むような美しい日本庭園となったのは江戸時代とのことですが、歴代会津藩主の別荘だった庭園でもあり、池越しに見る茶室のある風景が美しいです。
この茶室ですがちょっとユニークな造りをしていて、茶室を池の真ん中に設置することで、スパイによる盗聴を気にすることもなく話をできることから、密談会場としても重宝されたそうで、なるほど!と思いました。
茶室には戊辰戦争の時の刀傷が残されていて、歴史を感じます。
夏の暑い時期は涼しい朝に訪れるのがお勧めです
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投稿日:2021/06/29
<会津・磐梯山巡り>
たまには小旅行もしようと会津へ。
会津・磐梯山巡りは第三日:
御薬園(おやくえん)と重陽閣...
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2017年9月30日 9:40~10:30
国指定名勝・会津松平氏庭園の御薬園(おやくえん)には見事な庭園と、秩父宮勢津子妃殿下ゆかりの重陽閣があると聞き及んでいたので、是非訪れてみたい所なのだ。
開園時間:8:30~17:00
鶴ヶ城の東にあり、宿泊先ホテルニューパレスからほぼ真っすぐ、車で数分と近い。
回遊式の借景園と、各種薬草を栽培する薬草園(今も400種の薬草を栽培する)で知られている。薬草園が御薬園の名前の由来になったそうだ。
元来は15世紀室町時代の守護大名、葦名盛久が霊泉の湧き出た地に自らの別荘を建てたのが始まりと伝承が残る。後に会津藩主が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励したという会津藩らしい旧跡といえる。
現在に残る庭園は17世紀後半の元禄時代に遠州風山水庭園に大改造したもので、園内の楽寿亭や御茶屋御殿の建物は、戊辰戦争時に新政府軍の傷病者の診療所となった為、戦火を免れた。
その敷地面積は約1.7haもあり、中央に心字の池を配し、池の中央に亀島があり、そこに数寄屋造りの楽寿亭が建っている。楽寿亭には戊辰戦争時につけられた刀傷もあって、歴史の生々しさに驚く。園内には泉石、灯籠、そして樅の木、杉、松、伽羅木、五葉の松などの見事な大木もあってもなかなかの景観である。
不思議に、ぐるりと庭園内を回遊すると気分も爽快になる。
庭園北西側には、戊辰戦争当時の会津藩第9代藩主(かつ最後の藩主)であった松平容保の孫にあたる秩父宮妃勢津子(1909年~1995年、享年85歳)ゆかりの重陽閣(ちょうようかく)が移築されている。
重陽閣では70代と思しき男性ボランティアの方がご案内の上、色々と説明してくださった。その説明ぶりに会津の方らしい、妃殿下に対する思い入れを感じさせるものがあった。
秩父宮妃勢津子殿下の会津訪問時に宿泊した1階は「思い出の部屋」として妃殿下来訪時の写真が拝見できた。2階は妃殿下が好んでお召し上がりになっていた紅茶・デザートなどが楽しめるそうだが、この日はそうした企画もなく、立ち入り禁止であった。
重陽閣傍に秩父宮勢津子妃殿下顕彰碑も立つ。
勢津子妃殿下は外交官の松平恆雄(後に駐英大使、駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任)の長女でした。松平恆雄は旧会津藩主・松平容保の六男ですから、容保の孫になります。
1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)との婚儀が行われる。
この婚儀には次のような話が残っている。
当時の皇室典範では、皇族の妃は皇族もしくは華族である必要があった。勢津子妃の父・恆雄の身分は松平容保の六男ながら、平民であった。父の平民籍のままでは皇族へ嫁ぐことができなかった為、一旦叔父・松平保男(松平容保の七男。子爵、海軍少将)の養女となり、華族としての身分を得てから婚儀に臨んだそうである。
維新戦争後も「逆賊」、「朝敵」として会津藩や会津藩主である松平容保は長く指弾されてきただけに、容保の孫にあたる勢津子妃の皇室への入輿(じゅよ=嫁入り)は、旧会津藩の士族、関係者にとっては大きな希望となり、その復権にも繋がったという。
今に至るも会津人の感激は並々ならぬものであったようだ。
更に言うと、秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう)の紀子(きこ)妃殿下は現天皇家にとって将来の皇統を継ぐ唯一の男子である悠仁親王(ひさひとしんのう)をご出産。将来は所謂“天皇の母”となるわけです。
妃殿下の祖先を遡ると、父方の高祖父は池上武輔(会津藩郡奉行)がおり、会津藩家中でも250石取りの上級藩士の家であったそうです。
つまりここでも、既に「朝敵」は死語となり、会津人にとっては大きな喜びが存在する。
会津を回り、会津の教育、精神を語る会津藩校の「日新館」を巡ってみると、あらためて会津藩が如何に良き人材を育てたことが分かる。
しかもそれらの人材が各界で見事な働きをしたこともよく分かる。
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投稿日:2017/11/02
御薬園(会津松平氏庭園)について質問してみよう!
会津若松に行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。
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