平和記念公園
公園・植物園
4.31
平和記念公園 クチコミ・アクセス・周辺情報
広島市 観光 満足度ランキング 2位
平和記念公園は、旧太田川(本川)が元安川と分岐する三角州の最上流部に位置し、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して開設された都市公園です。公園内には、原爆ドーム、広島平和記念資料館、平和の願いを込めて設置された数々のモニュメント、被爆したアオギリなどがあります。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
広島に来たなら絶対行くべき
5.0
- 旅行時期 2025/08
- by いつも旅してたいさん
広島旅行において外せないのが平和公園ではないでしょうか。 アクセスは簡単で、広島駅から市電で原爆ドーム前へ行くか、バスで... 続きを読む平和記念資料館前まで行くかが便利ですが、バスで本通りや袋町で降りても歩いていけました。 平和公園に来たならせっかくなので資料館にも入って行ってほしいですが、8月はどうしても混雑しています。冬に来ると空いていたので季節によって全然違うように思います。 夏はその分開館時間も普段より長くなっているみたいなので朝早くにオンライン予約して行ったりするなどの工夫も必要かもしれません。 特に本館への通路がいっぱいになります。本館は暗い、狭いでいつも人が多い状態になっており場所によっては前に進めないような状態になっています。 ひどいときはチケットを購入するために長い列ができていますのでそういう時はオンラインで購入するか、無料で入れるエリアだけ(1階や地下にも少し無料で見られるところがあります)でも是非見ていってください。 ただ写真や絵などショッキングなものもありますので特に繊細な方やお子さんは気を付けてください。 公園の中にはほかにも無料で見学できる施設がいくつかありました。 人ごみに入るのが嫌な人はそういうところで見学されてもいいかもしれません。 またボランティアのガイドさんが公園の中の慰霊碑を案内してくれますので(10時半~2時半まで)時間が合えばこちらもおすすめです。 (ただし熱中症警戒アラートが出ている日はないようです) 私は8月6日に合わせて行ったので、色々なイベントをやっており、被爆者の証言を聞くことができました。生で被爆者の声を聴ける機会はどんどん減っていると思うので貴重な時間をすごすことができました。 閉じる
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満足度の低いクチコミ
平和記念公園(広島県広島):外国人観光客多い
1.0
- 旅行時期 2023/08
- by TTukomiさん
平和記念公園は外国人観光客が多く、現在の「原爆ドーム」は美しい廃墟だが、ここに降り立つと、いつも鳥肌が立ち、目頭が熱くなる... 続きを読む。 平和記念公園は、爆心地に近い旧太田川が元安川と分岐する三角州にあり、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を願う公園。 閉じる
クチコミ・評判 32ページ目
621~640件(全1586件中)
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静かに平和への祈りをささげる場所です。
- 5.0
- 旅行時期:2017/10(約8年前)
- 0
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修学旅行生がボランティアガイドの方の原爆の悲惨さの話に熱心に耳を傾けていました。
- 5.0
- 旅行時期:2017/10(約8年前)
- 1
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観光案内所です
- 3.0
- 旅行時期:2017/09(約8年前)
- 0
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平和学習の場です
- 4.0
- 旅行時期:2017/09(約8年前)
- 1
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原爆ドームのそばにあります
- 2.0
- 旅行時期:2017/09(約8年前)
- 0
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なぜ?どうして・・・?。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 15
第二次世界大戦中に労働力不足を補うために多くの学生が動員されました。全国で三百数十万人とも言われる動員学徒のうち戦禍に斃れ... 続きを読むた一万余名を御霊を慰めるために昭和42(1967)年に『動員学徒慰霊碑』が建立されました。
広島で学徒動員され被爆死した学徒数は6,000名を超えているそうです。
全国の学徒動員による犠牲者を祀るために建立されたものですが、改めて訪れると『おや?』っと感じることがありました。実はこの動員学徒慰霊碑、平和記念公園内にはありません。いわゆる『周辺緑地帯』と呼ばれる場所にあるのですが、なぜ聖地である平和記念公園内にないのかと不思議に思います。学校跡地という広島高女の慰霊碑の建立はともかく、広島二中や広島市商・造船工業学校慰霊碑もやはり周辺緑地帯にあり、勤労奉仕に参加中での被爆犠牲者の扱いにいささか疑問を感じます。
公園外にあった韓国人原爆犠牲者慰霊碑は明確な建立意図があったにも関わらず、差別だとして平和記念公園内に移設されています。では学徒の慰霊碑はどうなるのでしょうか?まるで建立者からの異議申し立てがなければそのままにされてしまうような判断には憤りを感じずには入られません。今で言うならば小学校高学年から中学生位の子供達がお国のために動員され、まだ見ぬ将来に心を馳せながら志半ばで斃れた史実を『正確』に後世に伝えなければならないのでは・・・、そう私は思います。 閉じる投稿日:2017/09/22
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記念と祈念・・・。
- 3.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 10
広島平和記念公園の北端で、戦前の中島本町の北慈仙寺鼻に昭和42(1967)年に広島鯉城ライオンズクラブが建立した高さ20m... 続きを読むの時計塔です。毎日8時15分に鳴るチャイムは、世界初の核兵器が投下された時刻を風化させないようにしています。
付近の平和の鐘共々平成8(1996)年に残したい日本の音100選に選ばれていますが、建立時に『平和記念公園という聖地にモニュメントを作ること』が問題視されました。最終的には関係者の説得により認められたとはありますが、社会奉仕団体としてのライオンズクラブの事業としては、少し行き過ぎているところもあるように思います。恒久平和を願う気持ちはあったとしても、やはり一団体として『平和を願う象徴』としては、大げさな建物に見えて仕方がありません。
被爆の痕跡を残す『被爆した墓石』が人知れずポツンと残る中で、視覚的に平和記念公園北半分の中心となってしまっている事実は残念に思う以外にありません。
広島平和記念公園を設計した丹下教授の『聖地になんでもかんでも作るものではない』との言葉の重みが2回目の訪問でようやくわかったように思います。 閉じる投稿日:2017/09/21
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観音像の前には旧西国街道が走っていました。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 9
元安橋と本川橋を繋ぐ平和記念公園内の道は旧西国街道です。毛利輝元による広島城築城時に現在の平和記念公園北半分の場所である元... 続きを読む安川と本川の間のデルタ地帯が『中島』と名付けられたことに端を発した歴史ある街でした。
広島の市制が敷かれる前から商業や文化の中心地として発展し、西国街道沿いには商店や映画館などが立ち並び、中島本町商店街と呼ばれる程に栄えていました。大正時代には市内電車の開通により本通・紙屋町・八丁堀が歓楽街の中心になるも、依然中島本町は映画や洋食などモダンな文化を発信する街としてはなお健在であり、古い歴史を持つ広島有数の盛り場として栄えていました。加えて戦前期広島の繁華街を象徴する『すずらん灯』は中島本通にも設置され、夜の街並みを彩っていました。
街の北部の通称『慈仙寺鼻』と呼ばれていた部分には、昭和9(1934)に市内電車併用橋として架け替えられた相生橋が延伸されています。当時から上空からも確認できる『T字型』をした橋として、戦前の絵ハガキなどに描かれていました。しかしその特異的な形状が災いし、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B-29『エノラ・ゲイ』が『世界最初の核兵器』である『リトル・ボーイ』を目視確認で相生橋を照準点として投下し、現島内科医院上空680mで炸裂しました。
爆心半径500mの同心円内にほぼ全部の町内が入っていた中島本町は、爆風・熱線により瞬時にして街も住民も消滅しました。加えて建物疎開に動員されていた県立二中・市立高女・市立造船工業学校の学徒、そして近郊地区からの義勇隊員もそのほとんどが全滅しています。
疎開等でたまたま被爆を免れた町民たちが、消滅した街にバラックを建てて住み始めて戦後が始まりました。そして平和記念公園建設の話が持ち上がった際に、被爆土壌に『盛り土』をすることになり、多くの住人が立ち退きを余儀なくされました。
平和記念公園の開園後は、往時を知るものとして原爆に耐え焼け残ったレストハウス(旧「大正屋呉服店」)以外には、公園内の街路として残された中島本通や、慈仙寺の跡地に残る『被爆した墓石』位のものだったそうです。そこへ昭和31(1956)年には『平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)』が『中島本町被爆復元地図』とともに建立され、原爆の犠牲となった458名の御霊を慰めつつ現在に至っています。
平和記念公園の構想に於いて、特定の宗教に纏わる慰霊碑の建立は認められないとされていました。その中でやはり『平和乃観音像』も例には洩れなかったようですが、像を作った彫刻家の荒井秀山氏の『芸術作品』として、建立が認められています。
平和記念公園には『盛り土』がされていることや、旧街道が未だ『貫いている』ことはあまり知られていないことだと聞きました。確かにそれをすぐに『わからせる表示板』がないこともあるのかも知れません。単純に街の原爆犠牲者の慰霊だけではなく、住んでいた街に対する住人の『想いの深さ』も感じて欲しい…そんな風に思います。 閉じる投稿日:2017/09/21
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1300羽の折り鶴…。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 9
佐々木偵子さん、広島に投下された原子爆弾リトルボーイによって2歳で被爆し、黒い雨にもうたれました。しかし被爆症状は現れず不... 続きを読む調を訴える母とは異なり、元気に育って行きました。しかし昭和29(1954)11月頃から首周りにしこりが現れ、年が明けると顔が腫れ上がるようになったため原爆傷害調査委員会で検査を受けたところ、原爆による〝亜急性白血病〟の診断を受け広島赤十字病院に入院します。
入院中に贈られた折り鶴に影響され、入院患者の多くがそれに続き、1000羽折ると病気が治ると信じて折り続けて夏頃には1000羽を折り切り、もう千羽と言っていたそうです。当時高価だった折り紙ではなく、薬包のセロファン等を利用して折り続けました。しかしその願いも叶わず、昭和30(1955)年10月25日朝、家族に看取られて12歳の短い生涯を終えました。
偵子さんの死後、そのニュースを知った同級生の呼び掛けにより、原爆の犠牲となった子供達の慰霊の碑を作る提案がなされ、広島市はもちろん他府県、外国から予想以上の募金が集まって昭和33(1958)年5月5日に慰霊碑〝原爆の子の像〟が完成します。
偵子さんが病気が治ると信じて折り続けた千羽鶴、碑に祀られている子供たちの供養の意味で世界各国から届く折り鶴ですが、平成15(2003)年8月1日に〝折り鶴放火事件〟に遭遇します。ひとりの大学生による身勝手な自己満足の結果、14万羽の折り鶴が焼失しました。
子供達の願いが込められた〝原爆の子の像〟ゆえ、聖地的な考えもあったのかも知れません。しかし〝折り鶴置き場〟の設置ではやはり対策と言える程のものではないように思います。またこの折り鶴は後々どうなるのか…と思っていたところ、平和記念資料館の入場時に〝千羽鶴再生はがき〟として配布されていました。これならば贈った方々も受け取った子供達も満足の行くものだと思います。
ただ漠然とした〝慰霊碑〟というと、面白半分にいたずらをしたりする輩は残念ながらいるのが現実です。しかしその活動を啓発することで、理解できる者は尚更理解を深めてくれると信じています。犠牲者が安らかに眠る場所で騒動は起こしたくはありません。 閉じる投稿日:2017/09/16
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強固な骨組みと開口部の方向が明暗をわけました。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 10
昭和4(1929)年3月に建てられた『大正屋呉服店』が対岸の細工町から新築移転したもので、当時としてはめずらしい鉄筋コンク... 続きを読むリートのモダンな建物として完成しています。1~3階はショーウィンドウのある売場で土足で回ることができ、屋上からは市内が一望できまたという一昔前の『デパート』のようなお店でした。しかし昭和18(1943)年12月に繊維統制令により呉服店は閉鎖、被爆当時は他の耐火建物と同じく国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得して使用していました。そして昭和20(1945)年8月6日の原爆投下時には、爆心地から170mという至近距離で被爆し、熱線によって地下室を除いて全焼し、爆風によって屋根が押しつぶされ建物内部もめちゃくちゃに壊れました。しかし建物の開口部が爆心地の方向にはほとんどなかったこともあり、建物外と内部による気圧の差が生じなかった、あるいは小さかったため基本的形態は破壊を免れて残存しました。その際に建物内で働いていた従業員のうち28名は即死、8名は傷付きながらも脱出しましたがその後亡くなられました。そして戦後は早い時期での補修工事が進み、引き続き燃料会館として使用されていました。
平和記念公園の建設に伴い『取り壊し』が議論されますが、昭和32(1957)年に広島市が買収し、東部復興事務所として使用しました。その後拐取を含めた大規模な補修工事が行われた後に、昭和57(1982)年からは平和記念公園レストハウスとして使用され現在に至っています。込み合った時間帯だったので、そのままとされる地下室の件は次の機会のお楽しみにしました。
閉じる投稿日:2017/09/15
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4年後のヒロシマ・・・。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 12
Norman Cousins(ノーマン・カズンズ)氏はアメリカ出身の作家・ジャーナリストです。原爆投下後4年後の昭和24(... 続きを読む1949)年に広島を訪れて原子爆弾投下の惨状を視察をしました。その中で出会った広島戦災児育成所の原爆孤児たちに強い衝撃を受けて、帰国後に広島の現地レポとして『4年後のヒロシマ』を発表しました。
これを契機に広島流川教会牧師の谷本清氏らとともに米国人が被爆孤児育成のために養育費を送るという『精神養子運動』開始に尽力し、400名以上の孤児に対する支援を実施するシステムを構築しました。
また原爆によってケロイドを負った若い女性たち『原爆乙女』への義援金を募るために、谷本牧師とその家族をエノラゲイ副機長であったロバート・A・ルイスと対面させました。この番組は大いなる反響があり、5万ドルものの寄付金が集まりました。その結果昭和30(1955)年に原爆乙女25名がアメリカにて治療を受けられるようになりました。
その功績により昭和39(1964)年には広島市特別名誉市民の称号を与えられます。その後核兵器廃絶運動や環境汚染への反対運動などでも活躍されましたが、平成2(1990)年に死去します。
広島市民の被爆孤児やケロイドを負った乙女たちなどに対する人道的・精神的サポートを行った彼の偉業に対し平成15(2003)年に広島平和記念公園内ノーマンカズンズ記念碑が建立され、現在に至っています。
著者である『笑いの治癒力』にも書かれていますが、『笑い』で『膠原病』を直してしまった逸話には、正直宗教めいたものを感じ、あまり良くは思えませんでした。しかしその『笑い』がもたらす『精神的余裕』が結果として『良いもの』をもたらして行くという持論は、結果として正しいものであることは疑う余地がありません。描き方によっては見せ物で金を集めたようにもいわれますが、それによって多くの被爆者の『未来』が変わったのは事実です。
碑を見ながら改めて浅はかな先入観を持っていた自分に気づかされました。 閉じる投稿日:2017/09/13
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ヒロシマの恩人顕彰碑です。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 11
スイス出身の医者であるMarcel Junodは、赤十字国際委員会の派遣員を第二次エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界... 続きを読む大戦の期間に渡って務めた方です。昭和20(1945)年8月9日に来日し、当初は連合国の捕虜収容状況の確認に当たっていました。9月になり原爆が投下された広島の惨劇の報告を聞き、GHQにおよそ15tにも上る医薬品の提供を交渉し、認めさせました。
ジュネーブ条約に批准していなかったアメリカと日本。捕虜の収容状況の確認も医薬品の提供もお互いが守る必要がなかった中でのジュノー博士の取った行動は、まさに神業的なものでした。自身も広島へと入り、僅かな滞在時間の中で多くの被爆者の前で膝をつきながら治療にあたられたそうです。
最初でただ一人の外国人医師であるマルセル・ジュノー博士、日本を離れた後も事あるごとに核兵器の廃絶を説いて回られたそうです。そして超法規的な人道的支援を行った彼のことを『ヒロシマの恩人』と呼び、その功績を後世に伝えるべく昭和54(1979)年に広島平和記念公園内に顕彰碑が建立されました。
ジュノー博士の逸話は着眼点だけを取っても凡人にはできないことです。広島平和記念公園内の慰霊碑の数の多さには明るい気持ちには到底なれませんが、その中のひとつであるジュノー博士顕彰碑にホッとした気持ちになれたのは私だけではないと思います。 閉じる投稿日:2017/09/11
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広島市戦災死没者供養塔に始まりました。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 11
昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、相生橋を投下目標とした原子爆弾『リトルボーイ』が島病院上空680mで炸裂し、... 続きを読む広島の街は一瞬にして廃墟と化しました。昭和20(1945)年末までの死者は14万人と言われており、中には一家全滅となり身元不明の多くの遺体や遺骨が散乱していたと言われています。その氏名・年齢・性別等ほとんどわからない痛ましい無数の遺体がこの場所にあった慈仙寺境内に集められ、臨時の火葬場となりました。
昭和21(1946)年1月には『広島市戦災死没者供養会』が被災直後に死体が焼かれた家屋疎開作業の現場や川岸・学校・寺院・練兵場等などに散在する遺骨を収集し、供養することを目的として設立されました。同年5月には『広島市戦災死没者供養塔』が建立されますが、卒塔婆を模った高さ6mの供養塔は、木材の不足から張りぼてで作られていました。同年7月には市民の寄付によりバラック建ての納骨堂と礼拝堂が建立され、8月6日に初めての慰霊祭が供養塔前で各宗派合同によって執り行われ、以後毎年慰霊祭が行われることになりました。
供養塔建立後の昭和22(1947)年ころから始まった市内の復興作業が執り行われるようになり、その際に道路を設けたり家を建てたりするところから遺骨が発見されることが増え、それらの遺骨は供養塔に届けられました。さらに昭和24(1949)年に公布された『広島平和記念都市建設法』によって平和記念公園等が建設されていく中で瓦礫の奥底に眠る遺骨が次々と見つかって行きました。これらの遺骨のほとんどは、身元が確認されず引き取り手もないためそのまま供養塔に納められました。
昭和25(1950)年には広島市戦災死没者供養会は『広島戦災供養会』に改組され、この新供養会は地元各界から選ばれた民間組織となりました。それ以降毎年の慰霊祭は、供養会主催によって8月6の、朝6時15分から執り行われるようになりました。現在の原爆供養塔は昭和30(1955)年7月に前供養塔から北へ50m程離れた現在地に建立されました。中世の『御陵』をイメージして作られた新慰霊塔は、直径16m、高さ3.5mの円形をした土盛の表面には芝生を植えたものとなっており、その頂上部には石造の相輪の塔が据えられています。子の土盛の中には平成22(2010)年現在身元不明の遺骨約7万柱と氏名のみ判明している遺骨817柱が納められた遺骨箱・聖観音像・死没者名を刻んだ象牙の塔が納められています。
この臨時火葬場となった慈仙寺は付近一帯に広がっていた大きな敷地を持つお寺さんだったそうです。しかし爆心地から僅か200mの距離で被爆し、お寺にいたもの全てが亡くなったそうです。唯一住職の三男が学校に行っていたため助かっています。その慈仙寺の遺構は平和記念公園内の『被爆した墓石』として残っています。周辺の土地よりも少し低い場所に残されている墓石は、被爆当時土地の高さを示しており、その後の平和記念公園の造成等で土が盛られたことによって現在の地面の高さになっていることを指し示しています。
やはり資材不足で慰霊塔を建立するのが困難だった時代に、野ざらしになっている遺骨を放置することを忍びないと感じた生存者たちの熱意から生まれたのがこの原爆供養塔になっています。場所は違いますが沖縄の糸満にある『魂魄之塔』と形が似ていることに気付きました。対象となった犠牲者は落命の理由も違うのかも知れませんが、亡くなった方々に区別はないという考えは同じです。
慰霊碑の名称は知っていてもその経緯までは知らないという意見を聞きました。被爆したことによって志半ばで斃れた人々を慰霊することは、背景が違っても万国共通のものに違いないと改めて思いました。 閉じる投稿日:2017/09/10
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被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 10
平和記念公園内にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑、この場所に移設されたのは平成11(1999)年7月と比較的新しいものとなってい... 続きを読むます。元々は昭和45(1970)年4月10日に建立されたものですが、とある経緯があって移設されています。
元々は本川橋西詰に建立されました。それを『平和記念公園内』にという運動の結果で移設となっています。日本語・英語・韓国語で刻まれた碑文には、強制連行され日本に連れて来られた末に被爆死した同胞を慰霊する意味の文面が書かれています。確かに日韓併合後多くの韓国人が日本に『来た』ことは事実であれど、すべてが『強制連行された』というと辻褄の合わないことがでてきます。
東京の靖国神社と広島平和記念公園とは『同等』と考えている研究者もいますが、それならば最初から平和記念公園内に作ることをしていれば問題なかったはずです。しかしなぜ少し離れた場所に建立されたのか?それにはある『武人』の被爆死が絡んでいます。李鍝(イ・ウ)公。朝鮮李王家一族として生まれ、皇族として扱われ来日し陸軍大学校を出て、第二総軍教育参謀中佐であった時に、司令部に出勤途中に被爆。そのまま馬を進ませるものの、元川橋西詰付近でうずくまっているところを発見され、似島の臨時野戦病院に担ぎ込まれるも翌日死亡しています。その最後に発見された場所が最初に『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』が建立された場所でした。
平和記念公園内の原爆犠牲者の慰霊碑には日本人・韓国人・朝鮮人全員の名前が記載されていいます。そしてこの移設された『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』の裏面には建立に協力をした李鍝公の陸軍士官学校の同期生である多くの日本人の名前も刻まれています。
目立たない場所に建立されていた『旧韓国人原爆犠牲者慰霊碑』を見て差別だとの発言が蔓延し、強引に移設を進めた現実は、その慰霊碑に込められた『原爆戦没者慰霊』の想いすら汲み取らないものでした。それがプライドと言えばそれまでですが、『慰霊』には差別もへったくれもありません。ただ亡くなられた方々の尊い御霊をただ鎮めるだけに過ぎません。こんなことを国際的な問題にすること自体正気の沙汰とは到底思えません。少なくとも原爆が投下されたときに自らが助かるために人に壁を作らせたとの情報がないのであれば…。多くの犠牲者が出た原爆被害、それに出身も性別もないと思っている私は幸せなのでしょうか…。 閉じる投稿日:2017/09/09
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また立ち寄ってしまった
- 3.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 1
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平和祈念式典が行われる公園
- 4.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
- 1
-
エアコンがきいてました
- 4.0
- 旅行時期:2017/07(約8年前)
- 0
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平和記念公園の隣
- 4.0
- 旅行時期:2017/07(約8年前)
- 0
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平和の灯
- 4.0
- 旅行時期:2017/07(約8年前)
- 0
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原爆の子の像
- 4.0
- 旅行時期:2017/07(約8年前)
- 0
投稿写真
基本情報(地図・住所・アクセス)
- 施設名
- 平和記念公園
- 住所
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- 広島県広島市中区中島町1および大手町1-10
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- 大きな地図を見る
- アクセス
- 1) 広島駅から路面電車で15分「原爆ドーム前」電停下車、すぐ
2) 広島駅からバスで15分「平和記念公園」バス停下車、すぐ
- その他
- 面積: 12.2ha
バリアフリー設備: 障がい者用P ○
バリアフリー設備: 車椅子貸出 ○
バリアフリー設備: 車椅子対応スロープ ○
バリアフリー設備: 車椅子対応トイレ ○
バリアフリー設備: 盲導犬の受け入れ ○
バリアフリー設備: オムツ交換台 ○
文化財: 国指定名勝 昭和時代 日本の歴史公園100選
※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。
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