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名古屋市熱田区の伝馬町にある真言宗豊山派のお寺、蓮台山・実相院の紹介です。真言宗豊山派(ぶざんは)の本山は、奈良県桜井市の長谷寺です。宗祖は弘法大師空海で、御本尊は大日如来です。

2015秋、実相院と福重寺(14/19):蓮台山・実相院:旧東海道標識、実相院石標

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2015/09/26 - 2015/10/09

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旅人のくまさん

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名古屋市熱田区の伝馬町にある真言宗豊山派のお寺、蓮台山・実相院の紹介です。真言宗豊山派(ぶざんは)の本山は、奈良県桜井市の長谷寺です。宗祖は弘法大師空海で、御本尊は大日如来です。

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 旧東海道の表示がある伝馬町(てんまちょう)にある横断看板です。熱田神宮の門前町である伝馬町には、東海道五十三次の41番目の宿場、宮宿(みやしゅく。みやじゅく)がありました。中山道垂井宿に至る脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもありました。

    旧東海道の表示がある伝馬町(てんまちょう)にある横断看板です。熱田神宮の門前町である伝馬町には、東海道五十三次の41番目の宿場、宮宿(みやしゅく。みやじゅく)がありました。中山道垂井宿に至る脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもありました。

  • 今はほとんど面影が残っていない、旧東海道の街並み光景です。『宮宿』は、幕府や尾張藩の公文書では『熱田宿』と記されたとされます。東海道でも最大の宿場であり、天保14年(1843年)には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2900軒余、人口1万人余を数えたとされます。

    今はほとんど面影が残っていない、旧東海道の街並み光景です。『宮宿』は、幕府や尾張藩の公文書では『熱田宿』と記されたとされます。東海道でも最大の宿場であり、天保14年(1843年)には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2900軒余、人口1万人余を数えたとされます。

  • 赤い幟が見えてきました、目指す『蓮台山・実相院』でした。境内には大木が育って、歴史を感じさせましたが、全体的な印象としては、荒れ寺に近いものでした。

    イチオシ

    赤い幟が見えてきました、目指す『蓮台山・実相院』でした。境内には大木が育って、歴史を感じさせましたが、全体的な印象としては、荒れ寺に近いものでした。

  • 『蓮台山・実相院』の縁起が記された看板の光景です。永禄12年(1569年)の創建、真言宗豊山派のお寺です。ご本尊は如意輪観音です。梵字(サンスクリット)の真言も記されていました。真言は、『オン・バラダハンドメイ・ウン』と『オン・ハドマ・シンダマニ・ジバラ・ウン』です。

    『蓮台山・実相院』の縁起が記された看板の光景です。永禄12年(1569年)の創建、真言宗豊山派のお寺です。ご本尊は如意輪観音です。梵字(サンスクリット)の真言も記されていました。真言は、『オン・バラダハンドメイ・ウン』と『オン・ハドマ・シンダマニ・ジバラ・ウン』です。

  • 『蓮台山・実相院』の文字が刻まれた石標の光景です。『尾張名所図会』に記されたの実相院の紹介です。『中道町(現在の伝馬一丁目)にあって、真言宗の寺院である。長野村(現在の稲沢市)の万徳寺の末で、永禄十二年(1569年)に加藤図書助順政(かとうずしょのすけのぶまさ)が建立した。本尊は不動明王で、脇壇に如意輪観音を安置する。この尊像はもとここにあった如意輪寺の本尊であった。この寺は延享四年(1747年)に知多郡平島村(現在の東海市)に移った』と紹介されていました。

    『蓮台山・実相院』の文字が刻まれた石標の光景です。『尾張名所図会』に記されたの実相院の紹介です。『中道町(現在の伝馬一丁目)にあって、真言宗の寺院である。長野村(現在の稲沢市)の万徳寺の末で、永禄十二年(1569年)に加藤図書助順政(かとうずしょのすけのぶまさ)が建立した。本尊は不動明王で、脇壇に如意輪観音を安置する。この尊像はもとここにあった如意輪寺の本尊であった。この寺は延享四年(1747年)に知多郡平島村(現在の東海市)に移った』と紹介されていました。

  • 『南無観世音菩薩』の文字が記された赤い幟の光景です。先に紹介した、尾張名所図会』に記されたの実相院の紹介に対し、『名古屋市史』では、『山号は連台山で、初め伝馬町にあった。創建は加藤図書助順政ではなく順盛(のぶもり)である。延享四年に如意輪寺(実相院の末)が知多郡平島村に移って、宝暦元年(1751年)に実相院が如意輪寺のあった場所に移った』と、一部訂正されていました。

    『南無観世音菩薩』の文字が記された赤い幟の光景です。先に紹介した、尾張名所図会』に記されたの実相院の紹介に対し、『名古屋市史』では、『山号は連台山で、初め伝馬町にあった。創建は加藤図書助順政ではなく順盛(のぶもり)である。延享四年に如意輪寺(実相院の末)が知多郡平島村に移って、宝暦元年(1751年)に実相院が如意輪寺のあった場所に移った』と、一部訂正されていました。

  • 『蓮台山・実相院』の本堂になるようです。上部は、白い漆喰で外装されていました。歴史的な『中道町』という地名はなくなり、『伝馬1丁目』と改められました。先程の 『名古屋市史』に記された、『はじめ伝馬町にあった』の部分は、『はじめ中道町(現在の伝馬一丁目)にあった』と改めた方がよさそうです。

    イチオシ

    『蓮台山・実相院』の本堂になるようです。上部は、白い漆喰で外装されていました。歴史的な『中道町』という地名はなくなり、『伝馬1丁目』と改められました。先程の 『名古屋市史』に記された、『はじめ伝馬町にあった』の部分は、『はじめ中道町(現在の伝馬一丁目)にあった』と改めた方がよさそうです。

  • 歴史を忍ばせる鬱蒼とした木々に囲まれた『蓮台山・実相院』の境内光景です。神社の『鎮守の杜』は、宗教としての振動に結びついた呼び名のようですが、外見上は『鎮守の杜』と呼んでもよさそうです。『鎮守の杜』は、『社叢(しゃそう)』とも呼ばれますから、寺院の場合は、『寺叢』とでも呼んでみたくなります。

    歴史を忍ばせる鬱蒼とした木々に囲まれた『蓮台山・実相院』の境内光景です。神社の『鎮守の杜』は、宗教としての振動に結びついた呼び名のようですが、外見上は『鎮守の杜』と呼んでもよさそうです。『鎮守の杜』は、『社叢(しゃそう)』とも呼ばれますから、寺院の場合は、『寺叢』とでも呼んでみたくなります。

  • 同じく、鬱蒼とした木々に囲まれた『蓮台山・実相院』の境内光景です。日本の森林生態学では、『鎮守の杜』は重視され、『神社林』、あるいは『社寺林(しゃじりん)』と呼ばれ、よく調査の対象とされるようです。その過程で貴重さが確かめられ、天然記念物等の形で保護を受ける例も多いとされます。『寺叢』の造語はやめて、『社寺林』と呼んだがよさそうです。

    同じく、鬱蒼とした木々に囲まれた『蓮台山・実相院』の境内光景です。日本の森林生態学では、『鎮守の杜』は重視され、『神社林』、あるいは『社寺林(しゃじりん)』と呼ばれ、よく調査の対象とされるようです。その過程で貴重さが確かめられ、天然記念物等の形で保護を受ける例も多いとされます。『寺叢』の造語はやめて、『社寺林』と呼んだがよさそうです。

  • 『蓮台山・実相院』の境内と、その周りの市街光景です。神社や、寺院に残された『社寺林』は、地域の貴重な財産として、長く保存してほしいものです。

    『蓮台山・実相院』の境内と、その周りの市街光景です。神社や、寺院に残された『社寺林』は、地域の貴重な財産として、長く保存してほしいものです。

  • 『蓮台山・実相院』の境内と、その周りの大木のズームアップ光景です。この樹はイチョウ(公孫樹)のようです。黄葉の時期には見応えがありそうですが、落ち葉の掃除も大変そうです。

    『蓮台山・実相院』の境内と、その周りの大木のズームアップ光景です。この樹はイチョウ(公孫樹)のようです。黄葉の時期には見応えがありそうですが、落ち葉の掃除も大変そうです。

  • ビルと大木の間から眺めた大通りの光景です。この大通りは、旧東海道と多くの区間が共通する国道1号線です。江戸時代には、お伊勢さんへの近道となる、宮の渡しから桑名への七里り渡しと呼ばれる海路が多く利用されたようです。

    ビルと大木の間から眺めた大通りの光景です。この大通りは、旧東海道と多くの区間が共通する国道1号線です。江戸時代には、お伊勢さんへの近道となる、宮の渡しから桑名への七里り渡しと呼ばれる海路が多く利用されたようです。

  • 『蓮台山・実相院』の紹介を終わって、次の目的地の寺社や名所旧跡に向かう途中の街路光景です。

    『蓮台山・実相院』の紹介を終わって、次の目的地の寺社や名所旧跡に向かう途中の街路光景です。

  • 『中村宗十郎出生地』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の立看板の光景です。中村宗十郎(1835~1889年)は、明治時代に上方で活躍した歌舞伎役者です。同時期の初代實川延若、初代市川右團次とともに、『名人延若、上手宗十郎、業物右團次』の『延宗右』と呼ばれ、関西劇壇の重鎮として人気を集めました。熱田富江町の銭湯の主人の子として生まれ、のち母の実家で入歯師の藤井家に養子にいきました。芸事が好きで、踊りや三味線を習い、家を出て旅役者の一座に入り、嵐亀蔵と名乗り伊勢から名古屋で舞台に立つうち、来合わせた大坂の芝居関係者に見いだされて大坂に行き、歌舞伎の世界で名を残しました。

    『中村宗十郎出生地』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の立看板の光景です。中村宗十郎(1835~1889年)は、明治時代に上方で活躍した歌舞伎役者です。同時期の初代實川延若、初代市川右團次とともに、『名人延若、上手宗十郎、業物右團次』の『延宗右』と呼ばれ、関西劇壇の重鎮として人気を集めました。熱田富江町の銭湯の主人の子として生まれ、のち母の実家で入歯師の藤井家に養子にいきました。芸事が好きで、踊りや三味線を習い、家を出て旅役者の一座に入り、嵐亀蔵と名乗り伊勢から名古屋で舞台に立つうち、来合わせた大坂の芝居関係者に見いだされて大坂に行き、歌舞伎の世界で名を残しました。

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