2004/04/27 - 2004/04/28
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jijidarumaさん
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『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』
第6章 死んでも離れない:フランツ・フェルディナントと
ゾフィー・ホテク
実は読んでいないのだが、目次でこれが誰の事かすぐわかる。
第一次大戦のきっかけとなったサラエボ事件で暗殺された
<フランツ・フェルディナント皇太子夫妻>の事だろう。
本編は前回の【22歳の年の差(身分違い:貴賤結婚)を乗り越えて、
オーストリアのヨハン大公は郵便局長の娘アンナと幸せな結婚をした。】
の続編(副産物)のようなものになる。
フランツ・フェルディナント*皇太子夫妻も貴賤結婚だった。
(*フランツは皇位継承者と認められていたが、事実上の皇太子であったので、本編文中では皇太子にした)
欧州の王室の中でも、オーストリアは記録されている貴賤結婚が、
比較的多いように思えるが、【色恋沙汰の決着の仕方】が
ドイツの王室に比べると、優しい。
私の記憶の中で、ドイツの王室に起こった次の2例(いずれも貴賤結婚
ではないが)をあげると、対処の仕方が、実に厳しい。
番外編:「愛妾の運命の年月」ザクセンの強王に愛妾コーゼル伯爵夫人
はその死までの49年間、幽囚された。
https://4travel.jp/travelogue/11617400
2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:
⑰ツェレに英国王ジョージ1世(先のハノーファー選帝侯ゲオルク1世
ルートヴィヒ)の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。
https://4travel.jp/travelogue/11616535
参考写真:Sophie、Herzogin von Hohenberg (1868~1914) 、 Pastellgemälde vor 1910、im Schloss Artstetten aufbewahrt。
ゾフィー・フォン・ホーエンベルク女公爵(女性でもママあった。公爵夫人ではない・・・1868年~1914年)・・・1910年以前のパステル画で、アルトシュテッテン城に所蔵されている。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
【南ドイツとオーストリア周遊の旅】
( 2004年4月21日-5月4日 :2週間 )
*ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と
オーストリア皇后エリザベート・・・愛称 “シシィ” を 巡る旅*
<4月27日(火) 晴 120km>
ウィーン 9:40スタート=>ATB A1/E5 Melk 11:10 70km、メルクの修道院 見学、12:20スタート=>BST29・3 ドナウ川左岸:Willendorf:ヴィーナス像、Weissenkirchen、昼食13:00-14:00=>Dürnstein :ハウプト通りを散策、ヴァッハウ渓谷周遊 17:00 、50km
参考写真:Wachau(Übersichtskarte)ヴァッハウ渓谷地方Map
ヴァッハウ渓谷地方Mapを見てびっくりしたのは、本編の主人公フランツ・フェルディナント皇太子夫妻が、サラエボ事件で暗殺された後、終焉の地として、葬られたのは左下端にあるSchloss Artstettenアルトシュテッテン城だったことだ。
この時はヴァッハウ渓谷のドナウ川左岸を「ヴァッハウ渓谷の珠玉と呼ばれたDürnsteinデュルンシュタイン」に向かい、アルトシュテッテン城に気づかなかった。
思えばもったいないことである。
ドナウ川の左右には、ドイツのライン川流域の古城群ほどではないものの、世に知られた古城が見られる。 -
アウトバーンは快適に進み、この旅の走行距離も1000kmを超える頃、ヴァッハウ渓谷の西の入口にあたる、メルクの修道院に着いた。
11世紀レオボルド1世がベネディクト派の修道院として建立したものである。
18世紀にはオーストリア・バロックの至宝と言われるほど華麗に改築された。
1770年、女帝テレジアの娘、マリー・アントワネットがルイ16世に嫁ぐ際に、ここに一泊したそうだ。
モーツアルトも二度ほど来訪したと言われている。
修道院はドナウ川を見下ろす高台に立ち、それは見事な眺望である。大理石の広間、10万冊もの蔵書を持つ図書館、教会は一見の価値があります。
この旅は、家内の友人母子を伴った4人の旅で、総計2,054kmの距離を走った。
写真:2004.04.27.aドナウ川・ヴァッハウ渓谷:Melkメルク修道院メルク修道院 寺院・教会
-
Donaubrücke_Melkメルク(メルク修道院近く)のドナウ橋(長さ835m)は、1973年1月に開通したドナウ川にかかる道路橋(B3a)である。
ドナウの南側にあるメルクと北側のEmmersdorfエマースドルフをつなぐ道だ。
参考写真:Donaubrücke_Melkメルクのドナウ橋 -
イチオシ
Dürnstein :4/27(火) (1泊)
古城ホテルHotel Schloss Dürnstein デュルンシュタイン
5星・全40室 Euro 186。
A-3601 Dürnstein /Wachau 2
注:ハルブペンジョン方式を適用された。
*メインレストランはゴー・ミヨーでは13点。
ドナウ川の流域、ヴァッハウ渓谷を巡り、メルクの修道院、ヴィレンドルフの旧石器時代のビ-ナス像にびっくりしながら、念願の5星の古城ホテルデュルンシュタインに17時に到着です。プレシ-ズンということで、ホテル側の配慮が行き届いて、予約した部屋より格上げされた、ドナウ川を眺望できる部屋に変更して頂けましたし、レストランもハルブペンジヨン方式----朝、夕食付の部屋料にしてくれて、この旅で一番高い部屋料でしたが、結果的に安くして頂いたようです。
3階でエレベ-タ-を降りると、目の前の空間は、書斎やら、応接の間のような場であり、花や絵画、本、古めかしいピアノ、家具で優雅さを演出しています。各部屋はこれを囲むようになっていて、我々の部屋は天井も高く、アンチ-ク家具が備えられて、落ち着いた良い部屋でした。
ともかく、窓から見るドナウの眺望は素晴らしく、折からの観光船が到着し、その2隻が相互に向き合っているのが、直ぐ下に見えました。また、テラスレストランとその上に咲き誇っている桜の花、席をうめて、なにやら歓談している観光客達の姿が見えます。
370年前に侯爵の城としてルネサンス様式で建てられ、ドナウ川に面した、絶好の位置にホテルとして、生まれ変わり、美しいドナウの流れを見下ろすテラスレストランや見事なアンチ-ク調度品が備わったメインレストランは大変、魅力的でした。“王様のように眠り、貴族のように食事をし”とホテルのパンフレットにありましたが、一泊だけでは----と残念に思われます。20年前、夏の休暇旅行に、子供達と一緒に訪れましたが、大人の世界に気おくれしたことを思い起こします。
写真:2004.04.27.ドナウ川・ヴァッハウ渓谷:古城ホテルデュルンシュタインホテル シュロス デュルンシュタイン ホテル
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イチオシ
<4月28日(水)快晴 210km>
朝食8:30、買物、デュルンシュタイン10:00スタート=>BST33 Krems、ドナウ川右岸:Schlos Schönbühel =>(Melk)ATB A1/A7 Linz 13:00 140km リンツ市内観光:リンツ城、市庁舎、州庁舎等、15:20スタート=>ATB A7/A1-BST144=>Gmunden 16:00、グムンデン陶器工場16:10-16:40、オルト城16:50-17:20、ホテル17:30、 70km
写真:2004.04.28.ドナウ川・ヴァッハウ渓谷:右上から時計回りで、クレムスの旧市街、対岸に見えるBurg Ruine_Hinterhaus ヒンターハウス城址、Schlos Schönbühelシェーンビュール城シュタイナー門 モニュメント・記念碑
-
次の町、Kremsクレムスはヴァッハウ渓谷の東の入口に位置して、周辺はブドウ畑に囲まれて、ワインの博物館、試飲場もありと、ワインとかかわりの深い町ですが、旧市街と船着場に近い美術館---ちょうど、諷刺画、漫画の出展があり---の近辺を見たぐらいで、ドナウの右岸へ向かう。
点在する村々をゆっくり走る。対岸には、青と白の彩色が美しく映えるデュルンシュタインの参事会教会や昨夜の古城ホテル、イギリスのリチャード獅子心王が十字軍遠征の帰路、捕らえられて、幽閉されていた史実もあるクエリンガー城址が遠望できる。
途中、ドナウ川に面して建つ、ヒンターハウス城址や、シェーンビュール城をドナウと共に写真におさめ、昨日のメルクに到着です。
給油をしてから、アウトバーンをLinzリンツへ走る。
<シェーンビュール城>
ドナウ川右岸、約40mの高さの岩上に、かつておそらくローマ時代の要塞があった場所に、12世紀初めにMarchwardus de Schoenbuchele マルクワルドゥス・デ・ショーンブーフェレによって、ドナウ川の防衛する城が築城された。力強い塔や円形塔が見栄えよい城郭である。建築様式はバロックに近い。
1930年、Franz von Beroldingenフランツ・フォン・ベロルディンゲンの大甥がシェーンビューヘル城をGraf Oswald von Seilern-Aspangオズヴァルト・フォン・ザイラーン・アスパング伯に売却した。第二次世界大戦中には没収され、その後1955年までロシア軍に占領されたが、その後再びザイラーン・アスパング家に戻り、現在に至るまで個人所有されている。
この為、見学はできずに、周辺やドナウ川畔から見る城を撮っただけだ。
参考写真:Schloß_Schönbühel_an_der_Donauドナウ川とシェーンビュール城の古い絵 -
<ヒンターハウス城址>
写真は1830年頃のリトグラフである。
ヒンターハウス城址のあるのはOberhausオーバーハウスと呼ばれる場所で、 Spitz an der Donau ドナウ川沿いのシュピッツにある、ほぼ千年の歴史を持つ要塞であった。
初めて文書に登場したのは1243年。城址周辺には「Tausendeimerbergタウゼントアイメルベルク」と呼ばれるリースリングのワイン畑があり、毎年一定量のブドウが収穫される。
この城址は見学ができる。
1970年にシュピッツの町が所有し、1977年からはシュピッツ観光協会が修復作業を始めたと云う。
参考写真:Schloss-Ruine_Hinterhaus Lithografie um 1830 -
さて、この当時、ハンガリーの騒乱(革命)で、国家の要人が民衆に襲われて暗殺される事件が起こった。
パプスブルク家のKaisertum Österreichオーストリア帝国(1804年~1867年)、後のÖsterreichisch-Ungarische Monarchie オーストリア・ハンガリー帝国(1867年~1918年)は、政治的かじ取りが、たいへん難しい時代に突入していた。
参考写真:1848年9月28日、Franz Philipp Graf von Lambergフランツ・フィリップ・フォン・ランベルク伯爵(1791年~1848年)はブタペストの民衆に襲われて命を落とした。 -
Franz Philipp Graf von Lambergフランツ・フィリップ・フォン・ランベルク伯爵(1791年~1848年)は、32年間の軍務を経て、1842年2月7日に中将に昇進し、1843年にはグラーツの師団長、1845年には4. Husaren-Regiment第4フサール連隊(花形の騎兵部隊)の第二代指揮官となった。
つまり、Kaisertum Österreichオーストリア帝国の陸軍中将は、皇帝Ferdinand Iフェルディナント1世の信頼も厚く、ハンガリーで騒乱(革命)が始まった際、これに対処する全権(皇帝の代理、人事権やハンガリーの全ての軍隊の最高司令官として秩序を回復する任務)を与えられていた。
だが、ランベルク伯爵が現地ブタペストに赴いた早々、1848年9月28日、Pontonbrückeポントーン橋で民衆に襲われて命を落とした。(前の写真参照)
尚、Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵(ヨハン大公と愛妃アンナとの長男(ひとり息子)は1862年7月8日に、ニーダーエスターライヒ州(ドナウ川沿いのKremsクレムスから北西36km、車で30分)のオッテンシュタイン村にあるBurg Ottensteinオッテンシュタイン城(ランベルク家累代の居城)において、Theresia Gräfin von Lambergランベルク伯爵夫人テレージア(1836年~1913年)と結婚したことは、先のヨハン大公の編で書いた。
メラン伯の義父となったランベルク伯の娘、テレージアが皇后エリザベートの宮廷女官であったことも先に述べたが、ランベルク家はオッテンシュタイン城を1536年から400年以上の間、居城としていた名門貴族でした。 -
そして、時代はさらに進み、恐ろしいことにあの美貌を謳われた、Kaiserin Elisabethエリザベート皇后は、1898年9月10日、イタリア人無政府主義者により暗殺され、崩御された。
残された記録によると、エリザベート皇后は1898年9月10日午後1時35分、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに、長さ4インチ(約9~10cm)ほどの鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺された。負傷した直後、皇后の意識はあり、侍女に付き添われながら蒸気船ジュネーヴ号に乗り込んだが、乗船のために渡っていたタラップを100ヤード(約91m)ほど渡ったところで意識を失った。
エリザベート皇后は船のデッキでコルセットを外され一時的に意識が戻ったが、少しの受け答えの後、午後1時54分頃に再び意識を失った。侍女はこの時点で皇后が暗殺に遭ったと確信し、船長に身元を明かした。
ジュネーヴ号は急いで岸に戻ったが、船から運び込まれたホテル・ボー=リヴァージュに到着した時点でも意識が戻っておらず、到着したマイヤー医師、エディエンヌ・ゴレイ医師によって午後2時10分に死亡宣告がされた。
享年60歳であった。 -
エリザベート皇后の故郷、思い出の地にある ゴルフホテル カイザリン エリザベートにこの旅の後半、3泊して、ミュンヘンなど近隣を周遊した。
【2004.04.30.(金)~05.03.(月) 3泊
Starnbergerseeシュタルンベルガーゼー:Golfhotel Kaiserin Elisabeth
ゴルフホテル カイザリン エリザベート】
Am Starnberger See、 D-82340 Feldafing
(4星) 120x3 Euro=360
このホテルは日経BP社の“ドイツ・バイエルン州“で見つけた。
ドイツアルプスの高い山々----3000m弱級----は暖かな陽気に少しずつ雪を融かしてきていますが、南バイエルンの野から見上げる山々は雪で白々と見えます。
そしてこのホテルの庭からも、ドイツアルプスが湖の先に白く遠望できます。
この庭にはエリザベート皇后の座像があり、ホテルの正面テラスレストランから良く見える小高くなった場所に置かれています。
ここで皇后は座りながら、物思いにふけっていたそうです。この近くにはエリザベートの散歩道が標識で示されており、なだらかな道が湖畔まで、続いています。
あの独特の急ぎ足で、お供がついて行くのが難しいあの速さでこの道を散歩したのでしょうか?!!
子供時代をこの近くのPossenhofenポッセンホ―フェンの城で過ごしたエリザベートはこの地を愛して、オ-ストリア皇后になってからも、しばしばこの地を多数の随行員と愛馬と共にお訪れた由です。
このホテルで24回の夏を過ごし、それは都度、数週間も滞在したとのことです。
皇后のまた従兄弟に当たるバイエルン王国のル-ドヴィヒ2世ともこの地でよくお会いになり、1886年6月13日、王のBergベルクでの不慮の死には、この地からエリザベートが駆けつけたとの話も残っています。
皇后が最後の夏を過ごされたのは1894年ですが、ホテルのその長い歴史の中で、もっとも著名なお客様と言えましょう。
1898年、皇妃が暗殺された後、1905年にはウイ-ンの王宮の勅許により、ホテル名をホテル-カイザリン-エリザベートとすることが許され、今日に至っている。
ホテルの2階には、オリジナル“Sisi-Suite”という部屋があるそうですが、残念ながらのぞいていません。
ホテルの本館と別館には65の部屋と1スイートがあり、正式なレストランもテラスや、室内に幾つもあり、また、バイエルン風なレストランやバー等もあって、様々な客の要望に対応出来るようになっている。
写真:2004.04.30.~05.03.南ドイツ・オーストリア周遊:Golfhotel Kaiserin Elisabeth に3泊した。
2008.04.19.Golfhotel Kaiserin Elisabeth (Feldafing)ゴルフホテル カイザリン エリザベートにある皇后像を再び訪ねた。ゴルフホテル カイザリン エリザベス ホテル
-
【Schloss Artstetten アルトシュテッテン城】
3661 Artstetten、Schlossplatz 1,
1889年、父であるErzherzog Carl Ludwigs von Österreichオーストリアのカール・ルートヴィヒ大公から、フランツ(1863年~1914年)はアルトシュテッテン城を贈られた。
現在、そこにはフランツ・フェルディナント博物館がある。
これから述べるÖsterreichisch-Ungarische Monarchie オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻(貴賤結婚)は自らの終焉の地を、アルトシュテッテン城(ドナウ川ヴァッハウ渓谷の北にある)に定めていた。
アルトシュテッテン城はニーダーエスターライヒ州Melkメルク地区のArtstetten-Pöbringアルトシュテッテン・ペーブリング村(人口1300人)にある。
この村は、ドナウ川渓谷の北にある高地の一段目、南のWaldviertelヴァルトフィアテル地方に位置している。
Hohenbergホーエンベルク家の居城である。
城の敷地内にはアルトシュテッテンの教区教会もあります。
アルトシュテッテン城はウィーンの歴史的地区への小旅行には理想的な場所である。
*メルク修道院 約17km
*ウィーン軍事史博物館 約95km
*ウィーン、シェーンブルン宮殿 約100km
ホーエンベルク家の成り立ち、その歴史や、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻の貴賤結婚の背景、自らの終焉の地に定めた経緯は後述する。
参考写真:Schloss Artstetten Map・・・フランツ・フェルディナント皇太子夫妻は自らの終焉の地であるアルトシュテッテン城 -
1914年6月28日、第一次大戦の引き金となった<サラエボ事件>が起きた。
この事件で、Österreichisch-Ungarische Monarchie オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク皇太子(事実上の皇位継承者であり、ここでは皇太子で通した)夫妻はセルビア人に銃撃され、暗殺されたのである。
【ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ・・・】
<死を呼ぶ公式訪問>と後に称された、1914年6月28日(この日は2人の14回目の結婚記念日だった)、サラエボの軍事式典(軍事演習)に、オーストリア皇帝兼ハンガリー国王Franz Joseph Iフランツ・ヨーゼフ1世は、貴賤結婚したフランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク皇太子夫妻に、帝国の代表として公式な訪問を許した。
初めてゾフィーは公の場に皇太子の妻として同席できたのである。
皇太子夫妻は反皇帝という民衆側の機運が当時高まっていたこともあり、危険を避けて、別々の列車で現地入りするが、現地での予定外の進路変更となり、そのすきに乗じた「青年ボスニア党」のセルビア青年Gavrilo Principガヴリロ・プリンツィプによって、車に同乗した二人は銃撃されたのだった。
銃撃された場所は、サラエボ市内を流れるミリャッカ川に架かる「ラテン橋」の右岸橋詰めでした。
最初の発砲でフランツ・フェルディナントは首を撃たれ、すぐ続いた弾がゾフィーの腹部に当たった。ゾフィーは夫の膝へ崩れ落ち、フランツは血を押さえながら、
「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ・・・」
と声を絞り出したと、車に同乗していたハラッハ伯爵は記している。
車は総督官邸へ急行したが、ゾフィー(享年46歳、妊娠中であった)は搬送中に、フランツ(享年50歳)も程なく息を引き取った。互いに抱き合う余裕はなく、医務記録には「夫婦とも担架移動時すでに無意識」とだけ残る。
・・・・・・・・
参考写真:Attentat von Sarajevoサラエボ事件(1914年6月28日)の暗殺・・・衝撃的な2発目と思われる場面。 -
オスマン帝国時代からの歴史あるラテン橋(ラティンスキー橋とも呼ばれる)はAttentat von Sarajevoサラエボ事件の現場となった。
1908年にオーストリア・ハンガリー帝国が、膨大なセルビア人人口を抱える
Bosnien und Herzegowinaボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言すると、Königreich Serbienセルビア王国の政府と国民はこれに強く反発し、オーストリアに対する感情を極端に悪化させた。
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、かねてよりボスニア系セルビア人がオーストリアによる併合に不満を抱いており、後年「青年ボスニア党」として知られるようになる、反オーストリア的・大セルビア主義的な革命運動が若者を中心に台頭していた。
この暗殺が発端となり、一ヶ月後には第一次世界大戦が勃発した。
終戦は1918年のことだ。
参考写真:1913年頃のラテン橋・・・サラエボの旧市街地の南側を流れるミリャツカ川にかかるラテン橋のたもとの辺りでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺され、この暗殺事件が第一次世界大戦を引き金になった。ミリャツカ川 滝・河川・湖
-
皇太子夫妻の長男Maximilian ”Max“ Hohenberg(1902年~1962年:ホーエンベルク公爵家 の初代当主)マクシミリアン・ホーエンベルクによると、ゾフィーが視察旅行に同行したのは夫の安全を危惧してのことだったと云う。
夫妻は演習の後にサラエボを訪問し、そこに新設される国立博物館の開館に立ち会うことを計画してうたのだ。
参考写真:Attentat von Sarajevoサラエボ事件(1914年6月28日)・・・現在のラテン橋の暗殺現場に碑が建てられた。 -
翌日のNYタイムズは表紙で暗殺事件を大々的に報じた。
参考写真:Headline_of_the_New_York_Times_June-29-1914 -
"セルビア死すべし!" (Serbien muss sterb[i]en!; 韻を踏むようsterbenの本来のスペルに[i]が加えられている)
オーストリアがセルビア人を成敗する様子を描いた1914年のプロパガンダ戯画に象徴されるように、戦時機運が盛り上がった。
1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、翌7月29日には首都ベオグラードを砲撃した。
同日、ロシアはセルビアを支援すべくオーストリア・ハンガリーに対する部分動員令を発し、翌7月30日には総動員令を出した。
このロシアの総動員令に反応したドイツは8月1日、ロシアに宣戦布告して動員令を発し、ついに第一次世界大戦の勃発につながった。
【第一次世界大戦】
年月:1914年(大正3年)7月28日 ~1918年(大正7年)11月11日
場所:主戦場はヨーロッパ。他に東アジア、中東など。
結果:連合国側の勝利となり、ベルサイユ体制が成立した。敗戦国ドイツの再興を阻止するため①領土割譲②植民地没収③軍備制限④巨額の賠償金支払いなどを科した。過酷な処分への不満、ドイツ経済の破たんなどから、ベルサイユ体制打倒を掲げるヒトラーのナチスが30年代に台頭した。
交戦勢力:
連合国・・・ イギリス帝国、フランス、 ロシア帝国、 イタリア王国、大日本帝国、 アメリカ合衆国 他
中央同盟国・・・ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、 オスマン帝国、 ブルガリア王国
参考写真:"セルビア死すべし!" (Serbien muss sterb[i]en!; 韻を踏むようsterbenの本来のスペルに[i]が加えられている)
オーストリアがセルビア人を成敗する様子を描いた1914年のプロパガンダ戯画 -
このウィーン軍事史博物館の最大の目玉は、「Attentat von Sarajevoサラエボ事件の車」だというが・・・。
参考写真:Museum_Wien_Attentat_in_Sarajevo_Autoウィーン軍事史博物館_サラエボ事件での暗殺の際に皇太子夫妻が乗車していた車 -
<フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク皇太子夫妻の葬儀>
皇太子夫妻の遺体は戦艦フィリブス・ウニティスでトリエステ(イタリア北部の都市)まで運ばれ、その後は特別列車でウィーンへと運ばれた。
多くの外国の王族が葬儀への出席を希望したが、オーストリア帝国政府はそれを断り、ウィーンの葬儀に参列したのはオーストリア皇室のメンバーのみであった。
ゾフィーは宗家・皇室メンバーが納骨される決まりのKapuzinergruftカプツィーナー納骨堂を使用することができず、皇太子夫妻は生前の希望通り、彼らの遺体は【Schloss Artstetten アルトシュテッテン城の付属教会堂の霊廟】(前述)に埋葬された。
つまり、皇太子夫妻は【貴賤結婚】であったため、権利放棄宣言で定められた私領アルトシュテッテン城の霊廟へ直送され、埋葬されたわけだ。
ゾフィー・ホテクは、身分差ゆえ皇后の座も、二人間に生まれた子供たちの帝国の帝位継承権も得られなかった。
宮廷での葬儀参列は最小限だったが、沿道には黒服の市民が列を成し、棺のそばには地元から届いたラベンダーの束と素朴なパンが並べられた。
身分の壁を越えて、民衆の支援を続けたゾフィー夫人への静かな弔いであった。
ゾフィーの最後はサラエボで皇太子とともに銃弾に倒れ、オーストリア帝国の終幕を告げる引き金となったのも皮肉なことといえようか。
参考写真:Aufbahrung von Franz Ferdinand und seiner Frau Sophie in der Hofburgkapelleフランツ・フェルディナント皇太子と妻ゾフィー・フォン・ホーエンベルク女公爵がウィーンのホーフブルク礼拝堂に安置された様子。 -
【死んでも離れない:フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク】
オーストリア・ハンガリー帝国は多民族国家である。だからというわけでもないだろうが、本編の主人公フランツ皇太子は、Isabella Prinzessin von Croÿ-Dülmen イザベラ・フォン・クロイ・デュルメン大公妃(1856年~1931年:ベルギー系ドイツ貴族のクロイ公家の公女:Erzherzog Friedrich von Österreich-Teschenフリードリヒ・フォン・エスターライヒ・テシェン大公(1856年~1936年)の妻。大公は第一次世界大戦時にオーストリア・ハンガリー帝国軍人で最高司令官)の女官であったチェコ貴族のホテク伯爵令嬢ゾフィー(1868年~1914年)を見初めた。
2人は1894年にプラハで出会い、恋に落ちた。それ以降フランツはPressburgプレスブルク(現在のスロバキアの首都ブラチスラヴァの旧称)の Herzog von Teschenテシェン公家の別荘を頻繁に訪れるようになっていた。
ゾフィーはフランツ・フェルディナントの結核回復を祝う手紙を彼の療養先のロシニ島に送っている。
2人は周囲に関係が露見しないように細心の注意を払っていた。
ゾフィーが皇太子に見初められたのも納得する写真(表紙参照)が残る。
ゾフィーはフランツの思いを受け入れ、御互いの愛情を確認したころ、この貴賤結婚への道を後戻りできない事となっていた。ただ、秘密の恋として、周辺には知られずにとりあえず時を過ごそうと思っていたのでしょう。
イザベラ・フォン・クロイ・デュルメン大公妃は1898年にオーストリア・ハンガリー帝国を揺るがした大スキャンダルの発端を作った。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で継嗣のフランツ・フェルディナント大公(後の皇太子:1863年~1914年)が、テシェン公爵家の持ち城の一つ、Schloss Halbturnハルプトゥルンの城館に数週間滞在した際、金の懐中時計を置き忘れていったのである。
イザベラは、フランツが頻繁に自分の城を訪れるのは、長女のマリア・クリスティーナに求婚するつもりなのだと勝手な期待を抱いていた。
イザベラはフランツの懐中時計を開ける誘惑を逃れられなかった(懐中時計の中には意中の女性の写真を貼るのが、当時の習慣だった)。
時計の蓋を開けたイザベラは、深い失望を禁じ得なかった。蓋に貼られていた写真は自分の大勢の娘たちのうちの一人ではなく、自分に仕える女官で、無名の外交官の娘であるゾフィー・ホテク伯爵令嬢の肖像だったからだ。
腹を立てたイザベラはすぐにゾフィーに暇を出し、この事実を明るみに出した。
これを機に、フランツ・フェルディナントは多くの人々を敵に回して、身分違いの恋愛結婚(貴賤結婚)に踏み切らざるを得なくなった。
オーストリア皇室では、フランツ・フェルディナントが皇位継承者として認定されるようになると、由緒ある王家の出身者との結婚話を進めていたらしい。だから、このスキャンダルには驚き慌てたことだろう。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は甥のフランツが結婚の認可を求めても、返事をしのないまま、時が過ぎた。
皇帝は当事者が甥であり、皇位継承者たる者であり、熟慮の末、二人が結婚してもその子供には皇位を継がせないと宣言する。
(ヨハン大公の場合に比較すれば、これは早い対応といえるが、早めの火消しを図って、諦めるのを期待したのか)
所が思ってもいないこととなる。フランツ・フェルディナントが皇帝の意向に同意したのだ。驚いた皇帝は1年間考える時間を与えたそうだ。
それでも事態は変わりませんでした。反対されればされるほど、強固になるのも、愛の常道でしょう。結局、皇帝は諦めて、*結婚の許可を与えた。
*皇帝は貴賤結婚をするのに反対したが、フランツはゾフィー以外の女性との結婚を拒否したため、フランツのStiefmutter Maria Theresa von Portugal継母マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル(1855年~1944年:オーストリア大公カール・ルートヴィヒ(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟)の3度目の妃)が、皇帝に謁見した後、1900年4月8日、ようやく二人に貴賤結婚の許可を得ました。
1900年6月28日、ウィーンのホーフブルク宮殿で、フランツ・ヨーゼフ1世は一族の大公たちに対し、ゾフィーが皇族としての特権を全て放棄し、将来生まれる子供には帝位を継がせないことを条件に結婚を承認すると宣告した。
表だってから2年が過ぎ、フランツとゾフィーの結婚式は1900年7月1日、北ボヘミア の Schloss Reichstadtライヒシュタット城で行われた。
しかしながら結婚式に参列したのは、フェルディナントの義理の母親とその娘たちのみだったと云う。
参考写真:Franz Ferdinand und Sophie フランツ・フェルディナントとゾフィーの死後に作成された二人一緒の写真 -
イチオシ
故人の残された肖像画で、最も美しい。
彼女はヨハン大公のアンナ妃(ブランドホーフェン女男爵)と同じように、ゾフィー・フォン・ホーエンベルク女公爵(女性でもママあった。公爵夫人ではない・・・1868年~1914年)が正式な呼称であった。
参考写真:Sophie、 Herzogin von Hohenberg (1868~1914) 、 Pastellgemälde vor 1910、 im Schloss Artstetten aufbewahrt。
ゾフィー・フォン・ホーエンベルク女公爵(1868年~1914年)・・・1910年以前のパステル画で、アルトシュテッテン城(ホーエンベルク家)に所蔵されている。 -
フランツ・フェルディナンド公とソフィーの結婚式の写真(1900年7月1日)が残る。フランツ・ヨーゼフ1世は出席を拒否し、彼の弟妹や他の皇族が出席することも許可しなかったので、参列者は少なく、後の皇太子の結婚式とは見えないが、これも貴賤結婚の姿だろう。
参考写真:北ボヘミアのライヒシュタット城で挙げたフランツ・フェルディナントとゾフィーの結婚式 -
1900年7月1日、フランツ・フェルディナント公はハプスブルク家の規範に反して、イザベラ大公妃の元侍女であったホテク伯爵夫人ソフィーと、北ボヘミアにあるライヒシュタット城の礼拝堂で結婚した。
<Schloss Reichstadtライヒシュタット城(チェコ語で Zákupyザークピ)>
Borská 1, 47123 Zákupy
古くは北ボヘミアのザークビに騎士たちの城砦があった。後に、デュバ家のベルカ男爵がその城砦を手に入れ、城の壁の上に、1559年頃にルネサンス様式でライヒシュタット城を建てた。
時代を経て、1876年7月8日、Kaiser Franz Joseph I.フランツ・ヨーゼフ1世とロシア皇帝Zar Alexander II. アレクサンドル2世は、ライヒシュタット城で会見し、差し迫った露土戦争(ロシアとオスマントルコ:1877年~1878年ロシアの勝利)におけるオーストリアの中立について話し合い、秘密協定=ライヒシュタット協定を締結しと云う歴史が残る。
第一次世界大戦の間、ライヒシュタット城は病院として使われ、戦争が終わった1918年にはチェコスロバキアの土地改革により当時の城の所有者から没収された。
1951年からは博物館として公開され、1977年に改装され、1995年からはバロック様式の公園とともに当地文化の中心地になっている。
特記すれば、ライヒシュッタト城はオーストリア皇帝であり、ボヘミア国王であった「der Gütig善良帝」Ferdinand I、フェルディナント1世(1793年~1875年)の避暑地として使用されていた。
ボヘミア王国最後の王、フェルディナント1世は、1848年3月革命でオーストリア皇帝を退位した後、プラハ城を居城とした。
立場から解放されたためか、元来、蒲柳の質にもかかわらず長命を保った。
退位後も27年間生き続けて、82歳の高齢で崩御した。
遺骸はウィーンに運ばれてカプツィーナー納骨堂に葬られた。
・・・・・ -
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は後年に多少態度を和らげ、ゾフィーを女公爵の称号を与えましたが、それでも対等な身分の保証には至りません。
皇室はあからさまにゾフィーを無視し、ゾフィーに公的な場で夫の隣に座ることも許さなかったと云う。
皇族としての「 殿下」の称号は絶対に許されなかった。
本来はゾフィー皇太子妃殿下(Ihre Königliche Hoheit Kronprinzessin Sophie)とすべきなのでしょうが、ゾフィー・グレーフィン・ホテク(Sophie Chotek Gräfin von Chotova、 Herzogin von Hohenberg:1868年3月1日シュトゥットガルト生まれ、1914年6月28日サラエボで没)は、身分違いの貴賤結婚の為、結婚した1900年からは Fürstin女公爵、1909年からはHerzogin von Hohenbergホーエンベルク公爵夫人と呼ばれた。
ゾフィーはböhmische Adeligeボヘミアの貴族・伯爵の娘で、Ehefrau des österreichischen Thronfolgers Franz Ferdinandオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者(ここでは皇太子)のフランツ・フェルディナントの妻でした。
暗殺されてしまった後のことながら、貴賤結婚のゆがみは葬儀でも続いた。
ゾフィーの棺には女公爵の称号章が捧げられず、ただ女官の印である扇子と手袋が置かれただけでした。しかも棺の位置はフランツよりもゾフィーは45㎝低い場所に置かれたらしい。(葬儀の写真を見ると、確かに高低差がある)
参考写真:オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテク(ゾフィー・フォン・ホーエンベルク女公爵) -
<大公夫妻の長男Maximilian ?Max“ Hohenbergマクシミリアン・ホーエンベルク>
マクシミリアン(マックス)・ホーエンベルク(1902年~1962年)はフランツ・フェルディナント皇太子の長男。ホーエンベルク公爵家の初代当主である。
フランツ皇太子夫妻の死後、姉弟は母方の親族のトゥーン・ウント・ホーエンシュタイン侯爵家に引き取られた。大伯父の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が孤児となったマックスたち3人を王宮に呼んだのは、1度きりであったと云う。
皇族とは決して認められなかったが、その一方で第一次世界大戦中には「戦災孤児福祉のための恰好のモデル」として大々的に取り上げられた。
戦時体制下においてマックスら三姉弟は、多民族国家であるために分裂含みのオーストリア・ハンガリー帝国の「祖国の子供」の創出のために利用されたのである。
両親の死後、マックスは12歳で母親が皇帝から叙爵されたHerzog von Hohenbergホーエンベルク公爵位を相続した。
マックスが36歳の1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア合邦(Anschlussアンシュルス)が行われ、合邦はオーストリアの自主独立を脅かすものだと反対し、兄弟ともに逮捕され、3月31日に最初期のオーストリア人として KZ Dachauダッハウ強制収容所に抑留された。
貴族出身の兄弟に用意されたのは、収容所内のトイレ清掃という屈辱的な仕事だったと云う。
マックスは1940年に解放されたが、居城のアルトシュテッテン城に軟禁された(城は一時的に没収されている)。
第二次世界大戦後、ソ連占領地域となったアルトシュテッテンのBürgermeister村長に選出され、2期5年間にわたり務めた。
マックスは元皇太子オットーから、ハプスブルク家とオーストリア連邦政府の間の財産返還交渉におけるハプスブルク家側の全権代表にされた。マックスは皇帝一族の財産に関して一切の譲歩や妥協を認めなかったため、交渉は決裂した。
オットーはさらに、マックスに自らの帰国許可に関して連邦政府と交渉するよう依頼したが、憲法裁判所はオットーの入国禁止処分を解くことは無かった。
マックスは強制収容所で受けた虐待のために健康を著しく損なっており、1962年に59歳で死去した。
遺骸は父母の眠る、アルトシュテッテン城の付属教会堂の霊廟に納められた。
・・・・・
参考写真:オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの家族(1908年)はゾフィー妃と長女ゾフィー・ホーエンベルク( Sophie Hohenberg: 1901年~1990年)、長男マックス、次男エルンスト・ホーエンベルク(Ernst Hohenberg:1904年~1954年)・・・子供たちはあ父母の死後、試練が続いた。 -
家系図が13世紀までさかのぼる、由緒あるチェコ貴族のホテク伯爵家の令嬢だったと云うゾフィー妃。
参考写真:Gräfin Sophie Chotekゾフィー・ホテク伯爵夫人(1868~1914年) (1910年) -
ゾフィーがこの結婚で、結婚当初から、葬儀に至るまで、差別、辱めを受けたことは、多くの記録が残っています。
第4編のヨハン大公のアンナの貴賤結婚は結果が良かったせいで、ゾフィーのようにその詳細が分からず、書き加えることができませんでした。
やはり暗殺という悲劇のヒロインについては、同時代や、後代の人も同情を寄せて、語り継いだのでしょう。
参考写真:ゾフィー妃(ゾフィー・フォン・ホーエンベルク女公爵)暗殺される2ケ月前の1914年4月に撮影された。 -
<アルトシュテッテン城の歴史>
オーストリアで私有地のまま残っている数少ない城のひとつである。
1263年に初めて文献で言及された前身の城砦は、15世紀までAerendorfエーレンドルフ家の所有で、1560年から1592年にかけてMatthäus Gundrechingマッティアス・グンドレヒングによってルネサンス様式の新しい城に改装された。
何度か城主が変わった後、1823年にオーストリア皇帝フランツ1世がハプスブルク家の王城とし、最初は4度目の妻Karoline Auguste von Bayernカロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン(1792年~1873年)の余生を過ごす城として意図されていた。が、1835年に皇帝が67歳で没すると、ほとんど利用されなかった。
それで、同年アルトシュテッテン城は三男のFranz Karl von Österreichフランツ・カール大公(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の父)の所有となり、さらに1861年にはフランツ・カール大公の三男Karl Ludwig von Österreichカール・ルートヴィヒ大公の所有と転々とした。
先に書いたように1889年、カール・ルートヴィヒ大公は城を息子のフランツ・フェルディナント大公に譲り渡した。
フランツの後援のもと、宮殿と公園は新たに改築・近代化された。
1914年のフランツの死後、アルトシュテッテン城は当時まだ12歳だった長男、Maximilian ?Max“ Hohenbergマクシミリアン(マックス)・ホーエンベルク(1902年~1962年)が相続したのである。
マックスはホーエンベルク公爵家の初代当主である。
1982年、直系子孫により、Erzherzog-Franz-Ferdinand-Museum フランツ・フェルディナント大公博物館が設立されている。
2003年には、アルトシュテッテン城とその全土地をAnita-Hohenberg-Stiftungアニータ・ホーエンベルク財団の管理下に置いた。
2015年12月以降、アニータの娘のAlix de La Poeze d’Harambure-Fraye アリックス・ド・ラ・ポエズ・ド・ハランブレ・フレイ(1980年生)が、アルトシュテッテン城の観光事業を推進している。
参考写真:フランツ・フェルディナントとゾフィーが埋葬された、現在のSchloss Artstettenアルトシュテッテン城の外観 -
<Erzherzog-Franz-Ferdinand-Museum フランツ・フェルディナント大公博物館>
城郭の増築部分を利用して、1982年、フランツ・フェルディナント大公博物館が設立された。
最初の展示『Von Mayerling bis Sarajewoマイアリングからサラエボまで』は、1991年に『Thron oder Liebe abgelöst王位か愛か』という展示に引き継がれた。
それとは別に、毎年特別展も開催されている。
その例として:
*1987年:フランツ・ヨーゼフ皇帝の子ども時代の絵
*1988年:メキシコ皇帝マクシミリアン
*1989年:ハプスブルク家の緑の世界
*1993年:100 Jahre Weltreise des Thronfolgers皇太子の世界一周100年
*1994年:Sarajevo 1914サラエボ 1914年
*1996年:皇太子の父カール・ルートヴィヒ大公
*1998年:中国の芸術と魅力
*2000年:フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテクの結婚100年
*2001年:船がやってくる
*2003年:皇太子と建築
*2005年:ホーエンベルク家・・・阻まれた王朝
*2006年:サラエボの孤児たち
*2007年:使用人の物語
*2009年:ブドワールとその秘密
*2010年:みんなの王位
*2011年:よく守られて
*2014年:統治して負ける
*2016年:レオポルト・フォルストナー
*2017年:良いマナー
*2018年:フランツ・フェルディナント大公と第一次世界大戦
*2019年:Mit Herz und Hand fürs Alpenland心と手でアルプスの国のために
・・・・・・・・・・・・・・
参考写真:アルトシュテッテン城内のフランツ・フェルディナントとゾフィーが眠るMarmorsarkophagen大理石の石棺 ・・・左がフランツ、右にゾフィー、同じ!
大きさの棺が並んでいる。この二人に相応しい、*比翼(ひよく)の棺である。
尚、*比翼とは二羽の鳥が翼を並べること。転じて、男女の仲睦まじい様子の喩え(たとえ)。 -
もう一つ、フェルディナントとゾフィーに関係するボヘミアの古城がある。
<Schloss Konopischt コノピシュト城>
Konopiště, Benešov 1, 25601 Benešov
コノピシュト城(コノピシュチェ城(チェコ語)は、チェコ共和国 中央ボヘミア地方のコノピシュチェ(現在はベネショフの一部)にある、4つの翼を持つ3階建ての城である。
オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であったフランツ・フェルディナント公の最後の居城として有名である。
オーストリアのフランツ・フェルディナントは、1887年、コノピシュト城を購入した。1889年から1894年にかけて、建築家ヨーゼフ・モッカーによって、将来の皇帝にふさわしい豪華な邸宅に改修された。テラス、バラ園、彫像のある225ヘクタールの広大な英国式庭園も同時に造られた。
フェルディナントとゾフィー、そして3人の子供たちは、その城でようやく幸福の日々を過ごせたと云う。
参考写真:Schloss Konopischt コノピシュト城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
貴賤結婚の5例目になる。
少々短い人生で気の毒であった。暗殺という、思いもしない、唐突さで二人は一緒に亡くなられた。
死に際に、【ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ・・・】と叫んだ、フランツの言葉が実に切ない。
パプススブルク家の皇帝廟に無縁であったフランツとゾフィーは、今は自分たちで定めたアルトシュテッテン城の霊廟で静かに眠っている。
幸いなことに、子孫がその大理石の棺を今も大事に守ってくれているようで、何よりなことだ。
(2026年10月10日Wiki/HP参考、訳、編集・追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- Mugieさん 2026/10/11 11:48:15
- 貴賤結婚
- jijidarumaさん、こんにちは。
この夏サラエボに行ったときに、暗殺された現場に行きましたが、その際にゾフィが皇太子の妻としては横に並ぶことはできなかったけど、夫が軍人の立場で公務を行う場合は隣に立つことができ、この訪問を喜んでいたという記述を読みました。
これがjijidarumaさんが書いていた貴賤結婚のことだと思いました。
亡くなった後の葬儀でも、そんな差別が続いたんですねー
jijidarumaさんの旅行記はいつも勉強になります。
旅行前にバルカン半島の歴史の本を読んでいたら、ビザンツ帝国時代、皇帝の花嫁は家柄など関係なく、美人コンテストで選ばれるとあり、それはそれで驚きました。
ムギー
- jijidarumaさん からの返信 2026/10/11 15:27:21
- Re: 貴賤結婚
- ムギーさん、
今日は。ご興味を持ってお読み頂きありがとうございました。
ビザンツ帝国の話は初耳で、私も驚きです。
さて、貴賤結婚もこれで5編、もう残る1編もオーストリアのチロル地方にあるインスブルックの話・・・、かつての旅はただ観光をすることで満足しておりましたが、貴賤結婚の様な歴史的な人間模様は見落としてきたようです。
今になって気づけば、興味深く、このような形でオサライしているのですよ(苦笑)。
もう名前の通り、ジジになって、ムギーさんのように狙いを定めて、旅をすることができなくなりました。いつも楽しく、興味深い旅に感心しております。
ご一緒に旅をしたら、とても楽ができそうです(笑)。
ここまで書いて、ムギーさんのサラエボの編を再見してきました。
ラテン橋、車のレプリカもばっちり、私などは現場を踏査したわけでもないので、臨場感を持って再見した次第。あまり天気が良いので、バルカン半島の政治的な、宗教的な対立や抗争も忘れしまったほどです。
バルカン半島は難しく、結局、私はドイツ駐在初期に半島の先っぽの地理感覚にある、トルコ・イスタンブール訪問をしただけです。
ゾフィーがこの結婚で、差別、辱めを受けたことは、多くの記録が残っています。ヨハン大公のアンナの結婚は結果が良かったせいで、ここまで詳細が分からず、書き加えることができませんでしたが、やはり暗殺という悲劇のヒロインについては同時代や、後代の人も同情を寄せて、語り継いだのでしょう。
何やら追記したい部分をここで書きました。
それではまた。ありがとうございました。
jijidaruma
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