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≪南ドイツとオーストリア周遊の旅≫ <br />(  2004年4月21日-5月4日 :2週間 )   <br />*ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と <br /> オーストリア皇妃 エリザベート・・・愛称 “シシィ” を 巡る旅*<br /><br />表紙の郵便局長の娘アンナには、いくつかの写真やリトグラフが残っている。<br /><br />貴賤結婚(本編は4例目)の例を見ていると、表紙の写真がアンナの代表的なものとして出て来たのだが、何処かでこの写真の記憶があった。<br /><br />何とか記憶の片隅からひねり出してみたら、定年後のドイツ感傷旅行(上述)で、もう20年を超える昔、2004年に南ドイツ、オーストリアを巡った際に、シュタイアーマルク州の州都グラーツで、この写真と「ヨハン大公とアンナのエピソード」に出会っていたのだった。<br /><br />参考写真:Anna_Plochl アンナ・プロッフル (1850年)

番外編:22歳の年の差(身分違い)を乗り越えて、オーストリアのヨハン大公は郵便局長の娘アンナと幸せな結婚をした。

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2004/04/24 - 2004/04/24

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪南ドイツとオーストリア周遊の旅≫ 
( 2004年4月21日-5月4日 :2週間 )
*ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
 オーストリア皇妃 エリザベート・・・愛称 “シシィ” を 巡る旅*

表紙の郵便局長の娘アンナには、いくつかの写真やリトグラフが残っている。

貴賤結婚(本編は4例目)の例を見ていると、表紙の写真がアンナの代表的なものとして出て来たのだが、何処かでこの写真の記憶があった。

何とか記憶の片隅からひねり出してみたら、定年後のドイツ感傷旅行(上述)で、もう20年を超える昔、2004年に南ドイツ、オーストリアを巡った際に、シュタイアーマルク州の州都グラーツで、この写真と「ヨハン大公とアンナのエピソード」に出会っていたのだった。

参考写真:Anna_Plochl アンナ・プロッフル (1850年)

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配
  • <Steiermarkシュタイアーマルク州><br /><br />シュタイアーマルク州は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州の1つであり、同国内2番目の面積を誇る。州都はグラーツ。州内の人口は約121万人。<br />鉄資源が豊富で鉄鋼業が盛んなため「Eisener Mark鉄の辺境地」とも呼ばれ、自動車生産でも有名である。<br /><br />そのドイツ語の「Markマルクの意味」だが、「辺境地・国境地・境界地」を意味すると云う。<br />歴史的には1056年にMarkgraf der Karantaner Markカランタニア辺境伯(マルクグラーフ)となったOttokar I.オットカール1世(在位~1075年)が、Steierシュタイアー(Traungauトラウンガウ)に居城を置いていたことに由来するとか。<br /><br />本編に登場するヨハン大公とアンナ・プロッフルが出会うのは、Bad Ausseeバート・アウスゼーの近くで、地図では左上にアウスゼーがある。<br /><br />手元の観光本には簡単に【Salzkammergutザルツカンマ―グートの奥座敷バート・アウスゼー】と、その名前が出てくる。Hallstattseeハルシュッタット湖の東、Grundlseeグリンドル湖、Altausseeアルトアウスゼー湖、Toplitzseeトプリッツ湖などに囲まれた高級リゾート地だとあるのだが、私にはハルシュッタット湖以外は知らなかった。<br /><br />ついでながら、ヨハン大公はザルツカンマーグート地方の楽器や音楽を収集するように命じ、それがドイツ語圏での最も早い民俗音楽の収拾事業となったと云う。<br /><br />参考写真:オーストリアの地図(昭文社)・・・ヨハン大公夫妻の関係都市は州都Grazグラーツが右手の半ば、Bad Ischlバート・イシュルとBad Ausseeバート・アウスゼーが中央右手に、そして終焉の地Meranoメラーノ(メラン=Schloss Schennaシェンナ城(シェーナ城)が左手中央近くに位置する。

    <Steiermarkシュタイアーマルク州>

    シュタイアーマルク州は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州の1つであり、同国内2番目の面積を誇る。州都はグラーツ。州内の人口は約121万人。
    鉄資源が豊富で鉄鋼業が盛んなため「Eisener Mark鉄の辺境地」とも呼ばれ、自動車生産でも有名である。

    そのドイツ語の「Markマルクの意味」だが、「辺境地・国境地・境界地」を意味すると云う。
    歴史的には1056年にMarkgraf der Karantaner Markカランタニア辺境伯(マルクグラーフ)となったOttokar I.オットカール1世(在位~1075年)が、Steierシュタイアー(Traungauトラウンガウ)に居城を置いていたことに由来するとか。

    本編に登場するヨハン大公とアンナ・プロッフルが出会うのは、Bad Ausseeバート・アウスゼーの近くで、地図では左上にアウスゼーがある。

    手元の観光本には簡単に【Salzkammergutザルツカンマ―グートの奥座敷バート・アウスゼー】と、その名前が出てくる。Hallstattseeハルシュッタット湖の東、Grundlseeグリンドル湖、Altausseeアルトアウスゼー湖、Toplitzseeトプリッツ湖などに囲まれた高級リゾート地だとあるのだが、私にはハルシュッタット湖以外は知らなかった。

    ついでながら、ヨハン大公はザルツカンマーグート地方の楽器や音楽を収集するように命じ、それがドイツ語圏での最も早い民俗音楽の収拾事業となったと云う。

    参考写真:オーストリアの地図(昭文社)・・・ヨハン大公夫妻の関係都市は州都Grazグラーツが右手の半ば、Bad Ischlバート・イシュルとBad Ausseeバート・アウスゼーが中央右手に、そして終焉の地Meranoメラーノ(メラン=Schloss Schennaシェンナ城(シェーナ城)が左手中央近くに位置する。

  • <シュタイアーマルクのプリンス、Erzherzog Johannヨハン大公の像><br /><br />ヨハン大公は、オーストリアの高位にランクする貴族でありながら「民のための政治と文化」を貫いたことで知られ、今もグラーツでは「地元を愛した改革者」として敬愛されている人物である。<br /><br />ヨハン大公の像は旧市街の中心Hauptplatzハウプト広場の真ん中に立っている。<br />銅像の南側には市庁舎があり、文字通りの中心地である。<br /><br />ヨハン大公が1859年に亡くなった後、1878年に銅像と噴水が一体となった形で造られた。ヨハン大公像が四人の女性を配した大きな噴水Erzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水 が中央に建てられている。<br /><br />Erzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水 <br />Hauptpl. Stand, 8010 Graz,<br /><br />写真:2004.4.24.Graz⑥ヨハン大公の像・噴水、Glockenspielplatzからくり時計広場

    イチオシ

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    <シュタイアーマルクのプリンス、Erzherzog Johannヨハン大公の像>

    ヨハン大公は、オーストリアの高位にランクする貴族でありながら「民のための政治と文化」を貫いたことで知られ、今もグラーツでは「地元を愛した改革者」として敬愛されている人物である。

    ヨハン大公の像は旧市街の中心Hauptplatzハウプト広場の真ん中に立っている。
    銅像の南側には市庁舎があり、文字通りの中心地である。

    ヨハン大公が1859年に亡くなった後、1878年に銅像と噴水が一体となった形で造られた。ヨハン大公像が四人の女性を配した大きな噴水Erzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水 が中央に建てられている。

    Erzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水
    Hauptpl. Stand, 8010 Graz,

    写真:2004.4.24.Graz⑥ヨハン大公の像・噴水、Glockenspielplatzからくり時計広場

  • この4つの女神像は当時のシュタイアーマルク州を流れる主要な4本の川(Murムール川、 Ennsエンス川、Drauドラウ川、Sannザン川)を象徴しているとされている。<br /><br />それぞれの像は「水の恵み」や「大地を潤す力」を表していると云われ、大公が進めた農業改革や、灌漑への関心を象徴しているとも伝えられている<br /><br />参考写真:2004.4.24.Graz⑥Erzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水と4女神

    この4つの女神像は当時のシュタイアーマルク州を流れる主要な4本の川(Murムール川、 Ennsエンス川、Drauドラウ川、Sannザン川)を象徴しているとされている。

    それぞれの像は「水の恵み」や「大地を潤す力」を表していると云われ、大公が進めた農業改革や、灌漑への関心を象徴しているとも伝えられている

    参考写真:2004.4.24.Graz⑥Erzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水と4女神

  • Erzherzog Johann Baptist von Österreichヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ大公(1782年伊・フローレンス生まれ~1859年グラーツで逝去)は、ハプスブルク家出身のオーストリア帝国の軍人、皇族であり、1848年三月革命期の困難な時期にReichsverweserドイツ帝国摂政を務めた。<br />シュタイアーマルク公国では、半世紀にわたり産業、農業、鉄道、文化や教育の発展と近代化を支援した。<br /><br />ヨハン大公として知られ、山登り好きで、スイスの山岳を愛したことから「アルプス王」と称され、グラーツの様々な改革をしたことで慕われ、民衆からも親しみをもって「Steiermarkシュタイアーマルクのプリンス」とも呼ばれた。<br /><br />驚くことに、1819年7月、彼はいわゆる平民(郵便局長)の娘Anna Plochlアンナ・プロッフル(1804~1885年)を見初めて、恋に落ちた。<br />1829年2月、オーストリア皇帝フランツ1世からの正式な許可が下り、社会的な身分差と22歳の年齢差を越えて貴賤結婚をした。<br /><br />後にアンナは周囲の理解が進み、「ブランドホーフェン女男爵(珍しいが女性が男爵位を与えられることがあった。男爵夫人ではない)」及び「メラン伯爵夫人」の称号を得て、貴族階級になった。<br /><br />尚、有名な「ヨハン大公のヨーデル」を先に進む前に、是非お聴き下さい。<br />【ヨハン大公のヨーデル(オーストリア民謡)】<br /> Angela Wiedl - Erzherzog Johann Jodler<br />https://youtu.be/YvGATm_CbMU<br /><br />口コミ:<br />グラーツ:ハウプト広場にある貴賤結婚したヨハン大公の像、近くの楽しいカラクリ時計は見ものだ。<br />https://4travel.jp/os_shisetsu_tips/15193632<br /><br />良ければ、もう1曲もどうぞ!<br />https://www.youtube.com/watch?v=Bp_7UkRTh00&amp;list=RDYvGATm_CbMU&amp;index=2<br /><br />写真:2004.04.24.グラーツ:この旅で滞在したのは、Schlosshotel Schlossberg古城ホテル シュロスベルクである。

    Erzherzog Johann Baptist von Österreichヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ大公(1782年伊・フローレンス生まれ~1859年グラーツで逝去)は、ハプスブルク家出身のオーストリア帝国の軍人、皇族であり、1848年三月革命期の困難な時期にReichsverweserドイツ帝国摂政を務めた。
    シュタイアーマルク公国では、半世紀にわたり産業、農業、鉄道、文化や教育の発展と近代化を支援した。

    ヨハン大公として知られ、山登り好きで、スイスの山岳を愛したことから「アルプス王」と称され、グラーツの様々な改革をしたことで慕われ、民衆からも親しみをもって「Steiermarkシュタイアーマルクのプリンス」とも呼ばれた。

    驚くことに、1819年7月、彼はいわゆる平民(郵便局長)の娘Anna Plochlアンナ・プロッフル(1804~1885年)を見初めて、恋に落ちた。
    1829年2月、オーストリア皇帝フランツ1世からの正式な許可が下り、社会的な身分差と22歳の年齢差を越えて貴賤結婚をした。

    後にアンナは周囲の理解が進み、「ブランドホーフェン女男爵(珍しいが女性が男爵位を与えられることがあった。男爵夫人ではない)」及び「メラン伯爵夫人」の称号を得て、貴族階級になった。

    尚、有名な「ヨハン大公のヨーデル」を先に進む前に、是非お聴き下さい。
    【ヨハン大公のヨーデル(オーストリア民謡)】
    Angela Wiedl - Erzherzog Johann Jodler
    https://youtu.be/YvGATm_CbMU

    口コミ:
    グラーツ:ハウプト広場にある貴賤結婚したヨハン大公の像、近くの楽しいカラクリ時計は見ものだ。
    https://4travel.jp/os_shisetsu_tips/15193632

    良ければ、もう1曲もどうぞ!
    https://www.youtube.com/watch?v=Bp_7UkRTh00&list=RDYvGATm_CbMU&index=2

    写真:2004.04.24.グラーツ:この旅で滞在したのは、Schlosshotel Schlossberg古城ホテル シュロスベルクである。

  • ヨハン大公の兄はKaiser von Österreich Franz I. オーストリア皇帝フランツ1世 といい、ヨハン大公は臣下となるが、グラーツの様々な改革をしたこと、「Steiermarkシュタイアーマルクのプリンス」とも呼ばれたとか、Wienウィーンの皇帝のオーストリア帝国の治世下で、結構自由な事をしたように見える。<br /><br />もっとも、ヨハン大公の貴賤結婚についてはアンナを見初めてから、皇帝の許可を得るまで凡そ10年を要している。<br />その意味で、ヨハン大公は忠実な臣下であった。<br /><br /><Erzherzog von Österreichオーストリア大公の称号><br /><br />オーストリア大公を称号は、Haus Habsburgハプスブルク家(Habsburg-Lothringenハプスブルク=ロートリンゲン家を含む)により用いられたオーストリア(オーストリア大公国)の領主としての称号である。<br />16世紀以降は君主以外の一族の成員も用いた。<br />帝国法によって正式の称号として定められた。<br /><br />ハプスブルク家では元来、兄弟で所領を分割あるいは共同統治の形で相続していたため、男子の成員はみな大公の称号を用いることになった。後に長子一括相続に改められたが、大公の称号はそのまま平等に用いられた。<br /><br />後に、ハプスブルク・ロートリンゲン家の分家であるオーストリア・エステ家では、オーストリア・エステ大公(Erzherzog von Österreich-Este)の称号も用いられた。<br /><br />写真:写真:2004.04.24.グラーツ:Schlossbergシュロスベルク(城山)と、グラーツのシンボルである時計塔。

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    ヨハン大公の兄はKaiser von Österreich Franz I. オーストリア皇帝フランツ1世 といい、ヨハン大公は臣下となるが、グラーツの様々な改革をしたこと、「Steiermarkシュタイアーマルクのプリンス」とも呼ばれたとか、Wienウィーンの皇帝のオーストリア帝国の治世下で、結構自由な事をしたように見える。

    もっとも、ヨハン大公の貴賤結婚についてはアンナを見初めてから、皇帝の許可を得るまで凡そ10年を要している。
    その意味で、ヨハン大公は忠実な臣下であった。

    <Erzherzog von Österreichオーストリア大公の称号>

    オーストリア大公を称号は、Haus Habsburgハプスブルク家(Habsburg-Lothringenハプスブルク=ロートリンゲン家を含む)により用いられたオーストリア(オーストリア大公国)の領主としての称号である。
    16世紀以降は君主以外の一族の成員も用いた。
    帝国法によって正式の称号として定められた。

    ハプスブルク家では元来、兄弟で所領を分割あるいは共同統治の形で相続していたため、男子の成員はみな大公の称号を用いることになった。後に長子一括相続に改められたが、大公の称号はそのまま平等に用いられた。

    後に、ハプスブルク・ロートリンゲン家の分家であるオーストリア・エステ家では、オーストリア・エステ大公(Erzherzog von Österreich-Este)の称号も用いられた。

    写真:写真:2004.04.24.グラーツ:Schlossbergシュロスベルク(城山)と、グラーツのシンボルである時計塔。

    グラーツ市歴史地区 旧市街・古い町並み

  • 【番外編:22歳の年の差(身分違い)を乗り越えて、オーストリアのヨハン大公は郵便局長の娘アンナと幸せな結婚をした。】<br /><br />ヨハン大公とアンナにとって、大事な場所がある。<br />その一つはBrandhofブランドホフ(後に「ブランドホフ城」、<br />次にグラーツのPalais Meranパレス・メラン(メラン宮殿)であり、<br />そして終焉の地、安息の地となったSchloss Schennaシェンナ城(シェーナ城とも)であろう。<br />それらは以降、順に登場する。<br /><br />最初のBrandhofブランドホフ(後に「ブランドホフ城」と称した)は、元々、シュタイアーマルク州Bezirk Bruck-Mürzzuschlagブルック・ミュルツーシュラッグ地区Mariazellマリアツェル村のMariazeller Straßeマリアツェラー通り沿い、am Fuße des Seebergsattels ゼーベルクサッテルの麓にある農場でした。<br /><br />ヨハンとアンナに関係するブランドホフは、かつてSt. Lambrecht聖ランブレヒト修道院が所有していた、一階建ての農家だった。<br /><br />参考写真:Schloss_Brandhof_J.F.Kaiser_Lithografirteブランドホフ城 - J.F.カイザーのリトグラフ (1825年)

    【番外編:22歳の年の差(身分違い)を乗り越えて、オーストリアのヨハン大公は郵便局長の娘アンナと幸せな結婚をした。】

    ヨハン大公とアンナにとって、大事な場所がある。
    その一つはBrandhofブランドホフ(後に「ブランドホフ城」、
    次にグラーツのPalais Meranパレス・メラン(メラン宮殿)であり、
    そして終焉の地、安息の地となったSchloss Schennaシェンナ城(シェーナ城とも)であろう。
    それらは以降、順に登場する。

    最初のBrandhofブランドホフ(後に「ブランドホフ城」と称した)は、元々、シュタイアーマルク州Bezirk Bruck-Mürzzuschlagブルック・ミュルツーシュラッグ地区Mariazellマリアツェル村のMariazeller Straßeマリアツェラー通り沿い、am Fuße des Seebergsattels ゼーベルクサッテルの麓にある農場でした。

    ヨハンとアンナに関係するブランドホフは、かつてSt. Lambrecht聖ランブレヒト修道院が所有していた、一階建ての農家だった。

    参考写真:Schloss_Brandhof_J.F.Kaiser_Lithografirteブランドホフ城 - J.F.カイザーのリトグラフ (1825年)

  • Kaiser Franz I. von Österreichオーストリア皇帝フランツ1世(1768年~1835年)の一番若い弟、Erzherzog Johannヨハン大公は、1818年に行われた競売でこの農場を手に入れ、農場を立派なJagdschloss狩猟用の城館に改築した。<br />さらに土地の追加購入によって所有地も大幅に拡大された。<br />取得後すぐに、この農場を「Freigut Brandhofenフライグート・ブランドホーフェン」として土地台帳に登録した。<br /><br />参考写真:Schloss_Brandhofブランドホフ城(1844年)

    Kaiser Franz I. von Österreichオーストリア皇帝フランツ1世(1768年~1835年)の一番若い弟、Erzherzog Johannヨハン大公は、1818年に行われた競売でこの農場を手に入れ、農場を立派なJagdschloss狩猟用の城館に改築した。
    さらに土地の追加購入によって所有地も大幅に拡大された。
    取得後すぐに、この農場を「Freigut Brandhofenフライグート・ブランドホーフェン」として土地台帳に登録した。

    参考写真:Schloss_Brandhofブランドホフ城(1844年)

  • 1829年2月、新しく建てられたブランドホフ城の礼拝堂で、ヨハン大公はアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルと結婚式を挙げた。<br /><br />とはいえ、見初めた1819年の時から、1822年、大公がついに結婚を決意し、皇帝の結婚許可を得たものの、貴賤結婚であるため皇族・貴族等が猛反発し、最終的に当面話題にしないこととなった。それ以来、二人は兄の皇帝からの結婚許可を凡そ6年間待たなければならなかった。<br /><br />前述したように、皇帝の亡くなる2年前、1834年にアンナ・プロッフルは『Freifrau von Brandhofenブランドホーフェン女男爵』の貴族称号を授与された。<br /><br />ヨハン大公は特に狩猟シーズンの間、ブランドホフ城に滞在するのを好んだ。ここは彼と狩猟のゲストたちにとって、Hochschwabgebiet高地シュヴァーブ地域でのGamsjagdカモシカ狩りの拠点となっていた。<br />ヨハン大公のAlpengartenアルペンガーデンにはヨーロッパやアジアの珍しい山岳植物があり、非常に有名でした。<br /><br />想像するに、ブランドホフ城での滞在は二人にとっても、幸せな時であったろう。<br /><br />現在もこの城は、子孫であるメラン家が所有している。<br /><br />参考写真:Schloss_Brandhofブランドホフ城 (2007年)

    1829年2月、新しく建てられたブランドホフ城の礼拝堂で、ヨハン大公はアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルと結婚式を挙げた。

    とはいえ、見初めた1819年の時から、1822年、大公がついに結婚を決意し、皇帝の結婚許可を得たものの、貴賤結婚であるため皇族・貴族等が猛反発し、最終的に当面話題にしないこととなった。それ以来、二人は兄の皇帝からの結婚許可を凡そ6年間待たなければならなかった。

    前述したように、皇帝の亡くなる2年前、1834年にアンナ・プロッフルは『Freifrau von Brandhofenブランドホーフェン女男爵』の貴族称号を授与された。

    ヨハン大公は特に狩猟シーズンの間、ブランドホフ城に滞在するのを好んだ。ここは彼と狩猟のゲストたちにとって、Hochschwabgebiet高地シュヴァーブ地域でのGamsjagdカモシカ狩りの拠点となっていた。
    ヨハン大公のAlpengartenアルペンガーデンにはヨーロッパやアジアの珍しい山岳植物があり、非常に有名でした。

    想像するに、ブランドホフ城での滞在は二人にとっても、幸せな時であったろう。

    現在もこの城は、子孫であるメラン家が所有している。

    参考写真:Schloss_Brandhofブランドホフ城 (2007年)

  • アウスゼーの町と周辺の地図を見つけた。<br />ヨハン大公やアンナという主役が登場するには驚くような山間の地である。<br />が、山登り好きで、スイスの山岳を愛したことから「アルプス王」と称されたヨハン大公には最もふさわしい地であったかもしれない。<br />そこで出会ったアンナの若々しい、野趣めいた美しさの魅力はヨハンにとっては好ましかったのだろう。<br /><br />参考写真:Aussee_Ortschaften_und_Umgebungアウスゼーの町と周辺Map

    アウスゼーの町と周辺の地図を見つけた。
    ヨハン大公やアンナという主役が登場するには驚くような山間の地である。
    が、山登り好きで、スイスの山岳を愛したことから「アルプス王」と称されたヨハン大公には最もふさわしい地であったかもしれない。
    そこで出会ったアンナの若々しい、野趣めいた美しさの魅力はヨハンにとっては好ましかったのだろう。

    参考写真:Aussee_Ortschaften_und_Umgebungアウスゼーの町と周辺Map

  • Bad Ausseeバート・アウゼーは、シュタイアーマルク州、シュタイアー・ザルツカムマーグートのリーツェン区にある、人口5千人の町である。<br />バート・アウゼーはアウスゼー地方の中心地で、標高は659mに位置する。<br />この町はTraunトラウン川の源流の合流地点にあって、アルトアウゼー近郊の Salzbergwerk塩鉱山とそれに関連する Saline塩田(1300年以前)によって発展した。バート・アウゼーは、Pötschenpassポーツェンパスと Koppenpassコッペンパスという2つの峠でOberösterreich上オーストリアとつながっている。<br /><br />Altausseeアルトアウスゼーはバート・アウゼーの北部にある人口2千人の山村だ。<br />92.57平方キロメートルの面積でアウスゼー地方とトーテン山地の大部分を含んだ地域になる。<br /><br />ともあれ、今は高級リゾート地として、知られた地方になった。<br /><br />参考写真:Aussee(現 Bad Aussee)-J.F.Kaiser_Lithografirteアウスゼー- J.F.カイザー のリトグラフ風景(1825年)

    Bad Ausseeバート・アウゼーは、シュタイアーマルク州、シュタイアー・ザルツカムマーグートのリーツェン区にある、人口5千人の町である。
    バート・アウゼーはアウスゼー地方の中心地で、標高は659mに位置する。
    この町はTraunトラウン川の源流の合流地点にあって、アルトアウゼー近郊の Salzbergwerk塩鉱山とそれに関連する Saline塩田(1300年以前)によって発展した。バート・アウゼーは、Pötschenpassポーツェンパスと Koppenpassコッペンパスという2つの峠でOberösterreich上オーストリアとつながっている。

    Altausseeアルトアウスゼーはバート・アウゼーの北部にある人口2千人の山村だ。
    92.57平方キロメートルの面積でアウスゼー地方とトーテン山地の大部分を含んだ地域になる。

    ともあれ、今は高級リゾート地として、知られた地方になった。

    参考写真:Aussee(現 Bad Aussee)-J.F.Kaiser_Lithografirteアウスゼー- J.F.カイザー のリトグラフ風景(1825年)

    バート アウスゼー駅 駅

  • さて時間を戻すと、1819年7月19日、ヨハンは37歳のとき、シュタイアーマルク州の*Toplitzseeトプリッツ湖西岸で、当時15歳だったAusseeアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルに初めて出会い、その美しさに魅了されたと云う。<br /><br />*トプリッツ湖は、オーストリア・シュタイアーマルク州のアルプスの高地の深い森の中に位置する湖である。ザルツブルク市からは98kmの距離にある。絵のように美しいザルツカンマーグート湖水地方にあり、トーテス・ゲビルゲつまり「死の山」の崖と森に囲まれている。およそ2km西に、Grundlseeグルントル湖がある。<br /><br />参考写真:Johann_und_Anna_Plochl_am Grundlseeヨハン大公とアンナ・プロッフル、グルントルゼーでの出会いを描いた絵(1819年7月19日)

    さて時間を戻すと、1819年7月19日、ヨハンは37歳のとき、シュタイアーマルク州の*Toplitzseeトプリッツ湖西岸で、当時15歳だったAusseeアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルに初めて出会い、その美しさに魅了されたと云う。

    *トプリッツ湖は、オーストリア・シュタイアーマルク州のアルプスの高地の深い森の中に位置する湖である。ザルツブルク市からは98kmの距離にある。絵のように美しいザルツカンマーグート湖水地方にあり、トーテス・ゲビルゲつまり「死の山」の崖と森に囲まれている。およそ2km西に、Grundlseeグルントル湖がある。

    参考写真:Johann_und_Anna_Plochl_am Grundlseeヨハン大公とアンナ・プロッフル、グルントルゼーでの出会いを描いた絵(1819年7月19日)

  • Anna Maria Josephine Plochlアンナ・マリア・ヨゼフィーネ・プロッフル(1804年1月6日~1885年8月24日)はアウスゼー地方の郵便局長ヤコプ・プロッフルの長女として誕生した。母が13番目の子を出産後に死亡したため、長女であった彼女は責任感も強く、情愛深く弟妹の面倒を見ていたと云う。<br /><br />1819年7月19日、偶然ヨハン大公(当時37歳)一行とトプリッツ湖畔で出会い、大公は清楚な彼女に魅了される。<br />次に会ったとき大公は彼女に恋人の有無を尋ね、アンナが否と答えると「では誰にも迷惑はかからないわけです。どうか私と仲良くして下さい」と告げ、こうして2人の交際が始まり、大公は彼女を真剣に愛するようになる。<br /><br />しかし、父ヤコプは娘が単なる大公の愛妾にすぎず、弄ばれているのではないかと心配するが、大公の真摯な態度に次第に理解を深めていく。ただ、大公は帝都ウィーンでの公務があり、思うように会えない日々が続く。<br /><br />1822年、ヨハン大公は自分が病に陥ったとき、アンナの存在の大きさを痛感し、結婚を決意した。疎遠であった、オーストリア皇帝Franz Iフランツ1世に面会し、結婚許可を願い出た。<br />予想もしていたことだが、貴賤結婚である理由で皇族・貴族等から猛反発を受けてしまった。最終的にヨハン大公は、この件は当面話題にしないことを皇帝に約束せざるを得なかった。<br /><br />アンナはその後、ブランドホーフの館で大公と生活を共にするが、「Hausangestellte家政婦」という名目であり、その立場は気の毒で、不確かなものだった。<br /><br />参考写真:Erzherzog-und-Plochlヨハン大公とアンナ・プロッフルの可愛い絵も残る。

    Anna Maria Josephine Plochlアンナ・マリア・ヨゼフィーネ・プロッフル(1804年1月6日~1885年8月24日)はアウスゼー地方の郵便局長ヤコプ・プロッフルの長女として誕生した。母が13番目の子を出産後に死亡したため、長女であった彼女は責任感も強く、情愛深く弟妹の面倒を見ていたと云う。

    1819年7月19日、偶然ヨハン大公(当時37歳)一行とトプリッツ湖畔で出会い、大公は清楚な彼女に魅了される。
    次に会ったとき大公は彼女に恋人の有無を尋ね、アンナが否と答えると「では誰にも迷惑はかからないわけです。どうか私と仲良くして下さい」と告げ、こうして2人の交際が始まり、大公は彼女を真剣に愛するようになる。

    しかし、父ヤコプは娘が単なる大公の愛妾にすぎず、弄ばれているのではないかと心配するが、大公の真摯な態度に次第に理解を深めていく。ただ、大公は帝都ウィーンでの公務があり、思うように会えない日々が続く。

    1822年、ヨハン大公は自分が病に陥ったとき、アンナの存在の大きさを痛感し、結婚を決意した。疎遠であった、オーストリア皇帝Franz Iフランツ1世に面会し、結婚許可を願い出た。
    予想もしていたことだが、貴賤結婚である理由で皇族・貴族等から猛反発を受けてしまった。最終的にヨハン大公は、この件は当面話題にしないことを皇帝に約束せざるを得なかった。

    アンナはその後、ブランドホーフの館で大公と生活を共にするが、「Hausangestellte家政婦」という名目であり、その立場は気の毒で、不確かなものだった。

    参考写真:Erzherzog-und-Plochlヨハン大公とアンナ・プロッフルの可愛い絵も残る。

  • 11世紀後半ごろ、シュトレハウの城山に最初の城砦が建てられていた。<br /><br />グラーツからアウスゼーに向かうA9、B113号線沿い(車で1時間半)にシュタイアーマルク州で二番目に大きなBurg Strechauシュトレハウ城がある。<br />Lassingラッシング村にある高地城で、この城の管理者アントン・シュタリーは、ヨハン大公の友人であった。フランス軍に二度占領された後、ヨハン大公の個人的・公式な用途のために城内のいくつかの部屋を改装している。<br />たいへん美しい中庭を持つ城でヨハン大公は、後に妻となるアンナ・プロッフルとこの城で何度も会い、ここの素晴らしいMarienkapelleマリエン礼拝堂で結婚式をあげたいと考えていた。<br />こうしてみると、ヨハン大公は愛するアンナの為に、この間、よく努力していたと思われる。<br /><br />ヨハン大公は前述したように、すでに1823年のイースター(春先の復活祭)に、Lassing/Strechauラッシング/シュトレハウにあるBurg Strechauシュトレハウ城でアンナと結婚しようと目論んでいた。<br />しかし、彼の兄である皇帝フランツ1世は、すでに許可されていた平民との結婚でしたが、その実行までは認めませんでした。<br /><br />それにもかかわらず、アンナはめげずに1823年9月20日に、よりグラーツに近くなるVordernbergフォルダーンベルクに転居した。<br />そこにヨハン大公は車輪製造工場を所有していて、アンナは多忙な大公に代わって、その工場管理所の経営を引き継いだ。<br /><br />ヨハン大公はその多才な活動の一環としてシュタイアーマルク州で休む暇もなく働き、ウィーンの宮廷にも定期的に訪れていた。<br />アンナはフォルダーンベルクでの事業を取り仕切り、同時に1824年4月25日からは、Mariazellマリアツェル村にあるヨハン大公のブランドホフ城(農場も経営)でも働いたと云う。<br /><br />1829年2月、皇帝から漸く正式な結婚許可がおり、身分差と22歳の年齢差を越えてアンナはヨハン大公の妻となった。<br /><br />参考写真:Erzherzog-und-Plochlヨハン大公とアンナ・プロッフルのボート遊びの絵・・・少々、ヨハン大公(当時37歳)が若すぎるが!

    11世紀後半ごろ、シュトレハウの城山に最初の城砦が建てられていた。

    グラーツからアウスゼーに向かうA9、B113号線沿い(車で1時間半)にシュタイアーマルク州で二番目に大きなBurg Strechauシュトレハウ城がある。
    Lassingラッシング村にある高地城で、この城の管理者アントン・シュタリーは、ヨハン大公の友人であった。フランス軍に二度占領された後、ヨハン大公の個人的・公式な用途のために城内のいくつかの部屋を改装している。
    たいへん美しい中庭を持つ城でヨハン大公は、後に妻となるアンナ・プロッフルとこの城で何度も会い、ここの素晴らしいMarienkapelleマリエン礼拝堂で結婚式をあげたいと考えていた。
    こうしてみると、ヨハン大公は愛するアンナの為に、この間、よく努力していたと思われる。

    ヨハン大公は前述したように、すでに1823年のイースター(春先の復活祭)に、Lassing/Strechauラッシング/シュトレハウにあるBurg Strechauシュトレハウ城でアンナと結婚しようと目論んでいた。
    しかし、彼の兄である皇帝フランツ1世は、すでに許可されていた平民との結婚でしたが、その実行までは認めませんでした。

    それにもかかわらず、アンナはめげずに1823年9月20日に、よりグラーツに近くなるVordernbergフォルダーンベルクに転居した。
    そこにヨハン大公は車輪製造工場を所有していて、アンナは多忙な大公に代わって、その工場管理所の経営を引き継いだ。

    ヨハン大公はその多才な活動の一環としてシュタイアーマルク州で休む暇もなく働き、ウィーンの宮廷にも定期的に訪れていた。
    アンナはフォルダーンベルクでの事業を取り仕切り、同時に1824年4月25日からは、Mariazellマリアツェル村にあるヨハン大公のブランドホフ城(農場も経営)でも働いたと云う。

    1829年2月、皇帝から漸く正式な結婚許可がおり、身分差と22歳の年齢差を越えてアンナはヨハン大公の妻となった。

    参考写真:Erzherzog-und-Plochlヨハン大公とアンナ・プロッフルのボート遊びの絵・・・少々、ヨハン大公(当時37歳)が若すぎるが!

  • 1829年2月18日の真夜中に、新しく建てられたブランドホフ城の礼拝堂で、<br />Erzherzog Johann von Österreich, Sohn Kaiser Leopolds II., オーストリアのヨハン大公(皇帝レオポルト2世の息子)は、Anna Plochl, die Tochter des Postmeisters von Ausseeアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルと正式に結婚した。<br />オーストリア皇帝フランツ1世の承認を巡る6年間の長い戦いの末に、結婚ができましたが、それでも、ヨハン大公が正式に結婚を公表できたのは、1833年になってからだった。<br /><br />ヨハン大公が購入したMusterweingut in Pickernピッカーンのモデルワイナリー (スロヴェニアのPickern bei Marburgマーブルク)で、アンナは1830年に初めて義兄であるフランツ皇帝に会う事ができた。しかし、実際に会話が交わされたのはグラーツであったそうだ。<br /><br />アンナは庶民の出であり、貴賤結婚の当事者のヨハン大公は皇位継承から除外され、妻アンナ及びその子孫は皇族としての諸権利を得られないことが結婚の条件になった。この事は当時の制度では普通であった。<br />その後、アンナは1830年に皇帝フランツ1世と私的に面会したことで、皇帝に好感を持たれたようである。<br /><br />1834年、ヨハン大公の尽力もあって、兄であるKaiser Franz I. von Österreichオーストリア皇帝フランツ1世によって、妻アンナはFreifrau von Brandhofenブランドホーフェン女男爵に叙された。<br />さらに1839年3月11日、大公の年齢のこともあり半ば諦めていたが、二人の間に長男フランツが生まれ、落ち着いた3人家族の充実した生活を過ごすようになった。<br /><br />アンナは女男爵に叙されてから10年の年が経った、1844年にはヨハン大公の甥であるKaiser Ferdinand I. von Österreichオーストリア皇帝フェルディナント1世(der Gütige善人フェルディナントと云われた)により、新たにGräfin von Meranメラン伯爵夫人に叙された。<br /><br />Palais Meran in Grazグラーツのメラン宮殿はヨハン大公が建設し、1843年の完成と共にその名を付けた。つまり、アンナの為に宮殿を作り、新たなメラン伯爵家を創立し、アンナに低位の貴族ながら、メラン伯爵夫人の資格を与えたようだ。<br /><br />翌年の1945年には、息子のフランツにもメラン伯爵の称号を授けている。<br />(帝国の老獪な政治家Klemens von Metternichクレメンス・フォン・メッテルニヒと交渉し、息子の世襲称号『メラン伯爵』の認可を求め、成功したのだ)<br /><br />ヨハン大公は皇帝の名のもとに、アンナ母子にしっかりとした基盤を作ってあげたことになる。<br /><br />彼らの子孫には、Dirigent Nikolaus Harnoncourt 指揮者のニコラウス・アーノンクールやkatholische Theologe Philipp Harnoncourtカトリック神学者のフィリップ・アーノンクールが出ている。<br /><br />参考写真:Anna_Plochl アンナ・プロッフル (1819年)・・・1819年は2人の交際が始まった頃で、この写真には少々装いすぎた感があり、違和感を持った。

    1829年2月18日の真夜中に、新しく建てられたブランドホフ城の礼拝堂で、
    Erzherzog Johann von Österreich, Sohn Kaiser Leopolds II., オーストリアのヨハン大公(皇帝レオポルト2世の息子)は、Anna Plochl, die Tochter des Postmeisters von Ausseeアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルと正式に結婚した。
    オーストリア皇帝フランツ1世の承認を巡る6年間の長い戦いの末に、結婚ができましたが、それでも、ヨハン大公が正式に結婚を公表できたのは、1833年になってからだった。

    ヨハン大公が購入したMusterweingut in Pickernピッカーンのモデルワイナリー (スロヴェニアのPickern bei Marburgマーブルク)で、アンナは1830年に初めて義兄であるフランツ皇帝に会う事ができた。しかし、実際に会話が交わされたのはグラーツであったそうだ。

    アンナは庶民の出であり、貴賤結婚の当事者のヨハン大公は皇位継承から除外され、妻アンナ及びその子孫は皇族としての諸権利を得られないことが結婚の条件になった。この事は当時の制度では普通であった。
    その後、アンナは1830年に皇帝フランツ1世と私的に面会したことで、皇帝に好感を持たれたようである。

    1834年、ヨハン大公の尽力もあって、兄であるKaiser Franz I. von Österreichオーストリア皇帝フランツ1世によって、妻アンナはFreifrau von Brandhofenブランドホーフェン女男爵に叙された。
    さらに1839年3月11日、大公の年齢のこともあり半ば諦めていたが、二人の間に長男フランツが生まれ、落ち着いた3人家族の充実した生活を過ごすようになった。

    アンナは女男爵に叙されてから10年の年が経った、1844年にはヨハン大公の甥であるKaiser Ferdinand I. von Österreichオーストリア皇帝フェルディナント1世(der Gütige善人フェルディナントと云われた)により、新たにGräfin von Meranメラン伯爵夫人に叙された。

    Palais Meran in Grazグラーツのメラン宮殿はヨハン大公が建設し、1843年の完成と共にその名を付けた。つまり、アンナの為に宮殿を作り、新たなメラン伯爵家を創立し、アンナに低位の貴族ながら、メラン伯爵夫人の資格を与えたようだ。

    翌年の1945年には、息子のフランツにもメラン伯爵の称号を授けている。
    (帝国の老獪な政治家Klemens von Metternichクレメンス・フォン・メッテルニヒと交渉し、息子の世襲称号『メラン伯爵』の認可を求め、成功したのだ)

    ヨハン大公は皇帝の名のもとに、アンナ母子にしっかりとした基盤を作ってあげたことになる。

    彼らの子孫には、Dirigent Nikolaus Harnoncourt 指揮者のニコラウス・アーノンクールやkatholische Theologe Philipp Harnoncourtカトリック神学者のフィリップ・アーノンクールが出ている。

    参考写真:Anna_Plochl アンナ・プロッフル (1819年)・・・1819年は2人の交際が始まった頃で、この写真には少々装いすぎた感があり、違和感を持った。

  • 今も残るアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルの生家は、なかなか立派な建物である。当時もそうだったかは不明だが、当時の郵便局長は地域の信望も厚い、それなりの資産を持った名士であったのだろう。<br />勿論、それでもヨハン大公とは大きな身分違いがある。<br /><br />当時の郵便制度の郵便局長は、支配者や都市を結ぶ公的な要職という性格が強まっていた。タクシス家がハプスブルク家の郵便網を担い、郵便業務が宮廷や統治と深く結びついていたことからも、その重要性が理解できる。<br /><br />イタリア出身のトゥルン・ウント・タクシス家に、富をもたらしたものは1489年からで、そのきっかけは郵便でした。初めはハプスブルク家のマクシミリアン一世の郵便物を無料で届けることでした。しかし、やがてハプスブルク家に取り入ったタクシス家は皇帝の信任を得て、ハプスブルク家が統治している地域に郵便馬車を走らせます。その郵便システムは駅や厩舎を作り、代え馬を用意し馬車と馬車で手紙をリレーするという当時としては大がかりなもので、スピードもさることながら、郵便物を運ぶ距離も従来の飛脚便よりはるかに大きいものでした。<br />郵便制度はうまく機能していましたが、料金は非常に高いものでした。<br />ハプスブルク家の治世下で、貴族や聖職諸侯、外交官、商人の通信も扱う特権を得て、郵便の隆盛と共に、タクシス家はますます財を成していき、貴族の位まで手に入れました。<br /><br />≪Fuersten von Thurn und Taxisトゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)≫<br />トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は“皇帝の外交郵便屋”とか、“郵便侯爵”と呼ばれた侯爵家である。この侯爵家が郵便事業をヨーロッパで独占的に行っていた。<br />また、皇妃エリザベートの姉ヘレーネとの結婚で、オーストリア皇帝の縁戚になっていたのだ。<br />つまり、Maximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxisマクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子(1831~1867年)が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの皇后エリザベートの姉であるHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834~1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルンと1858年に結婚し、皇帝の親戚にもなっている。<br /><br />参考写真:Bad_Aussee_Plochlhaus バート・アウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルの生家 (2012年)

    今も残るアウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルの生家は、なかなか立派な建物である。当時もそうだったかは不明だが、当時の郵便局長は地域の信望も厚い、それなりの資産を持った名士であったのだろう。
    勿論、それでもヨハン大公とは大きな身分違いがある。

    当時の郵便制度の郵便局長は、支配者や都市を結ぶ公的な要職という性格が強まっていた。タクシス家がハプスブルク家の郵便網を担い、郵便業務が宮廷や統治と深く結びついていたことからも、その重要性が理解できる。

    イタリア出身のトゥルン・ウント・タクシス家に、富をもたらしたものは1489年からで、そのきっかけは郵便でした。初めはハプスブルク家のマクシミリアン一世の郵便物を無料で届けることでした。しかし、やがてハプスブルク家に取り入ったタクシス家は皇帝の信任を得て、ハプスブルク家が統治している地域に郵便馬車を走らせます。その郵便システムは駅や厩舎を作り、代え馬を用意し馬車と馬車で手紙をリレーするという当時としては大がかりなもので、スピードもさることながら、郵便物を運ぶ距離も従来の飛脚便よりはるかに大きいものでした。
    郵便制度はうまく機能していましたが、料金は非常に高いものでした。
    ハプスブルク家の治世下で、貴族や聖職諸侯、外交官、商人の通信も扱う特権を得て、郵便の隆盛と共に、タクシス家はますます財を成していき、貴族の位まで手に入れました。

    ≪Fuersten von Thurn und Taxisトゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)≫
    トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は“皇帝の外交郵便屋”とか、“郵便侯爵”と呼ばれた侯爵家である。この侯爵家が郵便事業をヨーロッパで独占的に行っていた。
    また、皇妃エリザベートの姉ヘレーネとの結婚で、オーストリア皇帝の縁戚になっていたのだ。
    つまり、Maximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxisマクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子(1831~1867年)が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの皇后エリザベートの姉であるHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834~1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルンと1858年に結婚し、皇帝の親戚にもなっている。

    参考写真:Bad_Aussee_Plochlhaus バート・アウスゼーの郵便局長の娘アンナ・プロッフルの生家 (2012年)

  • アンナ・プロッフル(1804年1月6日、アウスゼー(現在のバート・アウスゼー)生まれ、本名アンナ・マリア・ヨゼフィーネ・プロッフル 1885年8月4日同地に没した)は、1829年からオーストリア大公ヨハン(1782年~1859年)の妻で、貴賤結婚によるものでした。<br />ブランドホーフェン女男爵(1834年)、メラン伯爵夫人(1844年)。<br /><br />参考写真:Anna-plochl(1804年~1885年)-Freifrau-von-Brandhofenブランドホーフェン女男爵となった(1834年)。これにより紋章を有することも許された。

    アンナ・プロッフル(1804年1月6日、アウスゼー(現在のバート・アウスゼー)生まれ、本名アンナ・マリア・ヨゼフィーネ・プロッフル 1885年8月4日同地に没した)は、1829年からオーストリア大公ヨハン(1782年~1859年)の妻で、貴賤結婚によるものでした。
    ブランドホーフェン女男爵(1834年)、メラン伯爵夫人(1844年)。

    参考写真:Anna-plochl(1804年~1885年)-Freifrau-von-Brandhofenブランドホーフェン女男爵となった(1834年)。これにより紋章を有することも許された。

  • 参考写真:Anna_Plochl_Litho平民の娘であったアンナ・プロッフルのリトグラフ (1846年)・・・・美しさが納得できる。

    イチオシ

    参考写真:Anna_Plochl_Litho平民の娘であったアンナ・プロッフルのリトグラフ (1846年)・・・・美しさが納得できる。

  • 参考写真:Anna Maria Josephine Plochlアンナ・マリア・ヨゼフィーネ・プロッフル(1850年)・・・最も彼女らしい写真(絵)と思われる。<br />

    イチオシ

    参考写真:Anna Maria Josephine Plochlアンナ・マリア・ヨゼフィーネ・プロッフル(1850年)・・・最も彼女らしい写真(絵)と思われる。

  • ヨハン大公は女帝マリア・テレジアの三男であるトスカーナ大公レオポルド(後の皇帝レオポルト2世)とその妃であるスペイン王女マリア・ルドヴィカの13番目の子としてフィレンツェで生まれた。<br /><br />兄たちのうち皇帝となるフランツ1世よりも、有能な軍人であるカール大公に親近感や憧れを抱いていたという。<br /><br />ヨハンはWienのハプスブルク宮廷とはしばしば対立した。アンナと結婚するつもりだと表明してから、この対立はさらに増した。彼の手紙や記録には、ウィーンの宮廷や貴族の地主たちが普通の人々の問題や願いに十分に関心を持っていないという意見が何度も表現されていたと云う。<br />それでも最終的には、彼は常に皇帝の宮廷に忠実であり続けた。<br /><br />参考写真:Erzherzog_Johann als Reichsverweserドイツ帝国摂政でもあったヨハン大公 (1848年)

    ヨハン大公は女帝マリア・テレジアの三男であるトスカーナ大公レオポルド(後の皇帝レオポルト2世)とその妃であるスペイン王女マリア・ルドヴィカの13番目の子としてフィレンツェで生まれた。

    兄たちのうち皇帝となるフランツ1世よりも、有能な軍人であるカール大公に親近感や憧れを抱いていたという。

    ヨハンはWienのハプスブルク宮廷とはしばしば対立した。アンナと結婚するつもりだと表明してから、この対立はさらに増した。彼の手紙や記録には、ウィーンの宮廷や貴族の地主たちが普通の人々の問題や願いに十分に関心を持っていないという意見が何度も表現されていたと云う。
    それでも最終的には、彼は常に皇帝の宮廷に忠実であり続けた。

    参考写真:Erzherzog_Johann als Reichsverweserドイツ帝国摂政でもあったヨハン大公 (1848年)

  • アンナはヨハン大公の領地の管理を引き受けるようになった。<br />さらに社会問題についても深く考え、グラーツにアンナ子ども病院を創設した。<br /><br />1859年、ヨハン大公は77歳で死去したが、アンナは26年後の1885年に、晩年を過ごしていた故郷アウスゼーの生家で、81年の生涯を閉じた。<br />漸く、南チロルのシェンナ城の霊廟に、2人揃って埋葬されたのである。<br /><br />二人の貴賤結婚は、長きにわたる紆余曲折があったが、この地で見事に結実したといえよう。<br /><br />参考写真:Erzherzog_Johann_von_Österreich_mit_familie_Lithoオーストリアのヨハン大公と家族(アンナ夫人と長男フランツ)のリトグラフ (1848年)

    アンナはヨハン大公の領地の管理を引き受けるようになった。
    さらに社会問題についても深く考え、グラーツにアンナ子ども病院を創設した。

    1859年、ヨハン大公は77歳で死去したが、アンナは26年後の1885年に、晩年を過ごしていた故郷アウスゼーの生家で、81年の生涯を閉じた。
    漸く、南チロルのシェンナ城の霊廟に、2人揃って埋葬されたのである。

    二人の貴賤結婚は、長きにわたる紆余曲折があったが、この地で見事に結実したといえよう。

    参考写真:Erzherzog_Johann_von_Österreich_mit_familie_Lithoオーストリアのヨハン大公と家族(アンナ夫人と長男フランツ)のリトグラフ (1848年)

  • ここで、ヨハン大公の両親と兄夫妻について書き纏めた。<br /><br /><Römisch-deutscher Kaiser LeopoldII神聖ローマ皇帝レオポルト2世><br /><br />ヨハン大公の父であるレオポルト2世(1747年~1792年)は、神聖ローマ皇帝(在位:1790年~1792年)である。皇帝に即位する以前はトスカーナ大公レオポルド1世(在位:1765年~1790年)と称した。<br /><br />オーストリアの女帝マリア・テレジアとその夫の神聖ローマ皇帝フランツ1世の子で、先帝ヨーゼフ2世の弟である。短い統治にもかかわらず、外交史家ポール・シュローダーは彼を「王冠を着用した最も機敏で賢明な君主の一人」と絶賛した。<br /><br />皇后マリア・ルドヴィカ(スペイン国王 カルロス3世の娘)との間に、16人の子を設けた。<br />その内、知られた人物は<br />*フランツ(1768年~1835年) - 神聖ローマ皇帝 フランツ2世であり、オーストリア皇帝としてはフランツ1世と称した。<br />*ヨハン(1782年~1859年) - Erzherzog von Österreichオーストリア大公、アンナ・プロッフルと貴賤結婚した。本編の主人公でもある。<br /><br />参考写真:父はRömisch-deutscher Kaiser LeopoldII 神聖ローマ皇帝レオポルト2世( 女帝マリア・テレジアの三男) (1806年)

    ここで、ヨハン大公の両親と兄夫妻について書き纏めた。

    <Römisch-deutscher Kaiser LeopoldII神聖ローマ皇帝レオポルト2世>

    ヨハン大公の父であるレオポルト2世(1747年~1792年)は、神聖ローマ皇帝(在位:1790年~1792年)である。皇帝に即位する以前はトスカーナ大公レオポルド1世(在位:1765年~1790年)と称した。

    オーストリアの女帝マリア・テレジアとその夫の神聖ローマ皇帝フランツ1世の子で、先帝ヨーゼフ2世の弟である。短い統治にもかかわらず、外交史家ポール・シュローダーは彼を「王冠を着用した最も機敏で賢明な君主の一人」と絶賛した。

    皇后マリア・ルドヴィカ(スペイン国王 カルロス3世の娘)との間に、16人の子を設けた。
    その内、知られた人物は
    *フランツ(1768年~1835年) - 神聖ローマ皇帝 フランツ2世であり、オーストリア皇帝としてはフランツ1世と称した。
    *ヨハン(1782年~1859年) - Erzherzog von Österreichオーストリア大公、アンナ・プロッフルと貴賤結婚した。本編の主人公でもある。

    参考写真:父はRömisch-deutscher Kaiser LeopoldII 神聖ローマ皇帝レオポルト2世( 女帝マリア・テレジアの三男) (1806年)

  • ヨハンの母であるMaria Ludovika von Spanienマリア・ルドヴィカ・フォン・スペイン(1745年~1792年)は、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の皇后である。<br />父はスペイン国王カルロス3世、母はポーランド国王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘マリア・アマリア。<br />1764年にハプスブルク・ロートリンゲン家のレオポルト大公と結婚し、翌1765年にレオポルトが父である皇帝フランツ1世からトスカーナ大公国を相続したことでトスカーナ大公妃となった。<br />さらに、1790年にはレオポルトが兄ヨーゼフ2世から帝位を継承したため皇后となった。1792年に夫と死別後、間もなく自身も死去した。<br /><br />参考写真:母は皇后Maria Ludovika von Spanien マリア・ルドヴィカ・フォン・スペイン (1770年)

    ヨハンの母であるMaria Ludovika von Spanienマリア・ルドヴィカ・フォン・スペイン(1745年~1792年)は、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の皇后である。
    父はスペイン国王カルロス3世、母はポーランド国王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘マリア・アマリア。
    1764年にハプスブルク・ロートリンゲン家のレオポルト大公と結婚し、翌1765年にレオポルトが父である皇帝フランツ1世からトスカーナ大公国を相続したことでトスカーナ大公妃となった。
    さらに、1790年にはレオポルトが兄ヨーゼフ2世から帝位を継承したため皇后となった。1792年に夫と死別後、間もなく自身も死去した。

    参考写真:母は皇后Maria Ludovika von Spanien マリア・ルドヴィカ・フォン・スペイン (1770年)

  • ヨハンの兄はFranz IIフランツ2世(1768年~1835年)で、最後の神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)であった。<br />神聖ローマ皇帝を退位する前に、初代オーストリア皇帝Franz Iフランツ1世(在位:1804年~1835年)を兼ねることで皇帝の称号を維持した。(フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの中欧での覇権追求に対抗し、地位の低下を防ぐための策だったと云う)<br />また、ハンガリー国王、ボヘミア国王を兼ねた。<br /><br />ハプスブルク・ロートリンゲン家の当主であり、全名は長々しいFranz Joseph Karl von Habsburg-Lothringenフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲンである。<br /><br />国家運営をすべて老獪な政治家メッテルニヒ等臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位も神聖ローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも「Guten Kaiser Franz善き皇帝フランツ」と称された。<br /><br />生涯に4度結婚した。4男9女を設けたが、夭逝した長女を除き、全員が2番目の妻マリア・テレジアとの間の子供である。<br />主な子共は<br />*マリア・ルイーゼ(1791年~1847年) - フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。<br />*フェルディナント(1793年~1875年) - オーストリア皇帝。<br />*マリア・レオポルディーネ(1797年~1826年) - ブラジル皇帝ペドロ1世の皇后。<br />*マリア・クレメンティーネ(1798年~1881年) - サレルノ公レオポルド妃。<br />*カロリーネ・フェルディナンデ(1801年~1832年) - ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世妃。<br />*フランツ・カール・ヨーゼフ(1802年~1878年) - オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(メキシコ皇帝マクシミリアンの父)<br /><br /><祖母である女帝マリア・テレジアの結婚政策>に似た様子がみえて興味深い。<br />テレジアはプロイセン打倒のため、マクシミリアン1世の時代に始まる200年来の宿敵フランスと和解する必要から、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族(多くはルイ15世の孫)と結婚している。<br /><br />参考写真:兄はKaiser von Österreich Franz I. オーストリア皇帝フランツ1世  (1825年)

    ヨハンの兄はFranz IIフランツ2世(1768年~1835年)で、最後の神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)であった。
    神聖ローマ皇帝を退位する前に、初代オーストリア皇帝Franz Iフランツ1世(在位:1804年~1835年)を兼ねることで皇帝の称号を維持した。(フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの中欧での覇権追求に対抗し、地位の低下を防ぐための策だったと云う)
    また、ハンガリー国王、ボヘミア国王を兼ねた。

    ハプスブルク・ロートリンゲン家の当主であり、全名は長々しいFranz Joseph Karl von Habsburg-Lothringenフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲンである。

    国家運営をすべて老獪な政治家メッテルニヒ等臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位も神聖ローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも「Guten Kaiser Franz善き皇帝フランツ」と称された。

    生涯に4度結婚した。4男9女を設けたが、夭逝した長女を除き、全員が2番目の妻マリア・テレジアとの間の子供である。
    主な子共は
    *マリア・ルイーゼ(1791年~1847年) - フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。
    *フェルディナント(1793年~1875年) - オーストリア皇帝。
    *マリア・レオポルディーネ(1797年~1826年) - ブラジル皇帝ペドロ1世の皇后。
    *マリア・クレメンティーネ(1798年~1881年) - サレルノ公レオポルド妃。
    *カロリーネ・フェルディナンデ(1801年~1832年) - ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世妃。
    *フランツ・カール・ヨーゼフ(1802年~1878年) - オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(メキシコ皇帝マクシミリアンの父)

    <祖母である女帝マリア・テレジアの結婚政策>に似た様子がみえて興味深い。
    テレジアはプロイセン打倒のため、マクシミリアン1世の時代に始まる200年来の宿敵フランスと和解する必要から、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族(多くはルイ15世の孫)と結婚している。

    参考写真:兄はKaiser von Österreich Franz I. オーストリア皇帝フランツ1世  (1825年)

  • ヨハンの義姉(兄嫁)はMaria Theresia von Neapel-Sizilienマリア・テレジア・フォン・ネアペル・ジツィーリエン(1772年~1807年)といい、神聖ローマ皇帝フランツ2世の2度目の妃であった。<br />フランツ2世は1804年以降オーストリア皇帝フランツ1世と名を変えたので、マリア・テレジアも最後の神聖ローマ皇后および最初のオーストリア皇后となった。<br /><br />マリア・テレジアはナポリ国王及びシチリア国王フェルディナンド4世/3世(後の両シチリア国王フェルディナンド1世)とその王妃マリア・カロリーナの長女である。名前は夫と共通の祖母である「女帝」マリア・テレジアに因んでつけられたそうだ。<br /><br />参考写真:義姉の皇后Maria Theresia von Neapel-Sizilien マリア・テレジア・フォン・ナポリ・シチリア (1790年)

    ヨハンの義姉(兄嫁)はMaria Theresia von Neapel-Sizilienマリア・テレジア・フォン・ネアペル・ジツィーリエン(1772年~1807年)といい、神聖ローマ皇帝フランツ2世の2度目の妃であった。
    フランツ2世は1804年以降オーストリア皇帝フランツ1世と名を変えたので、マリア・テレジアも最後の神聖ローマ皇后および最初のオーストリア皇后となった。

    マリア・テレジアはナポリ国王及びシチリア国王フェルディナンド4世/3世(後の両シチリア国王フェルディナンド1世)とその王妃マリア・カロリーナの長女である。名前は夫と共通の祖母である「女帝」マリア・テレジアに因んでつけられたそうだ。

    参考写真:義姉の皇后Maria Theresia von Neapel-Sizilien マリア・テレジア・フォン・ナポリ・シチリア (1790年)

  • Palais Meranパレス・メランは、グラーツのレオンハルト通りにあるかつての宮殿で、第二市区の St. Leonhard聖レオンハルトにある。<br /><br />すでに1828年には、ヨハン大公はザンクト・レオンハルト地区に家といくつかの区画を購入していた。 。<br />この宮殿は1841年から1843年にかけて、かつての大農場の敷地にErzherzog Johann大公ヨハンの居住用宮殿(後期古典主義様式)として建てられた。<br />そして、1843年に家族3人が移り住みました。<br /><br />参考写真:Palais Meran in Grazグラーツのメラン宮殿 (1843年完成時)

    Palais Meranパレス・メランは、グラーツのレオンハルト通りにあるかつての宮殿で、第二市区の St. Leonhard聖レオンハルトにある。

    すでに1828年には、ヨハン大公はザンクト・レオンハルト地区に家といくつかの区画を購入していた。 。
    この宮殿は1841年から1843年にかけて、かつての大農場の敷地にErzherzog Johann大公ヨハンの居住用宮殿(後期古典主義様式)として建てられた。
    そして、1843年に家族3人が移り住みました。

    参考写真:Palais Meran in Grazグラーツのメラン宮殿 (1843年完成時)

  • Franz Ludwig Johann Baptist Graf von Meran, Freiherr von Brandhofenフランツ・ルートヴィヒ・ヨハン・バプティスト・グラーフ(伯爵)・フォン・メラン、およびフライヘア(男爵)・フォン・ブランドホーフェン(1839年3月11日生まれ~1891年3月27日死去)は、オーストリア・ハンガリー帝国の貴族。<br />ハプスブルク・ロートリンゲン家の庶系の1つメラン伯爵家(Grafen von Meran)の初代当主である。<br /><br />つまり、ヨハン大公とアンナ夫人との間に生まれた一人っ子・長男である。<br /><br />フランツという息子が生まれた後、グラーツのメラン宮殿は徐々に家族の中心地となっていく。<br />この唯一の息子フランツ・メラン伯爵はランベルク伯爵家出身のテレージア(1836年~1913年)と結婚し、以降、今日まで「シュタイアーマルクの王子」の子孫が900人以上になったそうだ。<br /><br />参考写真:Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵_Litho (1855年)

    Franz Ludwig Johann Baptist Graf von Meran, Freiherr von Brandhofenフランツ・ルートヴィヒ・ヨハン・バプティスト・グラーフ(伯爵)・フォン・メラン、およびフライヘア(男爵)・フォン・ブランドホーフェン(1839年3月11日生まれ~1891年3月27日死去)は、オーストリア・ハンガリー帝国の貴族。
    ハプスブルク・ロートリンゲン家の庶系の1つメラン伯爵家(Grafen von Meran)の初代当主である。

    つまり、ヨハン大公とアンナ夫人との間に生まれた一人っ子・長男である。

    フランツという息子が生まれた後、グラーツのメラン宮殿は徐々に家族の中心地となっていく。
    この唯一の息子フランツ・メラン伯爵はランベルク伯爵家出身のテレージア(1836年~1913年)と結婚し、以降、今日まで「シュタイアーマルクの王子」の子孫が900人以上になったそうだ。

    参考写真:Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵_Litho (1855年)

  • メラン宮殿は大きな公園に囲まれて、素晴らしい環境にある。<br /><br />メラン宮殿の名前は、1845年、 ヨハン大公が購入し、彼の居城としたシェンナ城のある、チロルの要塞都市Meranoメラーノ(Meranメラン)から採ったのだろうか。この地はヨハン大公とアンナ妃にとって好ましく、終焉の地に選んだ、思い入れの深い場所だからだ。<br /><br />アンナ夫人は1844年にメラン宮殿に因んだ、メラン伯爵夫人の称号を得ている。<br />翌1845年、ヨハン大公と愛妃アンナとの長男(ひとり息子)のフランツも Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵(1839年生まれ)の爵位を得たのである。<br /><br />1880年に北翼が増築され、さらに建物は1939年と1963年に拡張された。<br /><br />1963年以降、この宮殿はUniversität für Musik und darstellende Kunst Grazグラーツ音楽・舞台芸術大学のキャンパスとして使用されている。<br /><br />Graz, Steiermark, Österreich<br />Leonhardstraße 15<br />Bewohner/Nutzer<br />Universität für Musik und darstellende Kunst Graz<br />グラーツ、シュタイアーマルク、オーストリア<br />レオンハルトシュトラーセ 15<br />居住者・利用者:<br />グラーツ音楽・舞台芸術大学<br /><br />参考写真:Palais Meran in Grazグラーツのメラン宮殿 (2013年)

    メラン宮殿は大きな公園に囲まれて、素晴らしい環境にある。

    メラン宮殿の名前は、1845年、 ヨハン大公が購入し、彼の居城としたシェンナ城のある、チロルの要塞都市Meranoメラーノ(Meranメラン)から採ったのだろうか。この地はヨハン大公とアンナ妃にとって好ましく、終焉の地に選んだ、思い入れの深い場所だからだ。

    アンナ夫人は1844年にメラン宮殿に因んだ、メラン伯爵夫人の称号を得ている。
    翌1845年、ヨハン大公と愛妃アンナとの長男(ひとり息子)のフランツも Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵(1839年生まれ)の爵位を得たのである。

    1880年に北翼が増築され、さらに建物は1939年と1963年に拡張された。

    1963年以降、この宮殿はUniversität für Musik und darstellende Kunst Grazグラーツ音楽・舞台芸術大学のキャンパスとして使用されている。

    Graz, Steiermark, Österreich
    Leonhardstraße 15
    Bewohner/Nutzer
    Universität für Musik und darstellende Kunst Graz
    グラーツ、シュタイアーマルク、オーストリア
    レオンハルトシュトラーセ 15
    居住者・利用者:
    グラーツ音楽・舞台芸術大学

    参考写真:Palais Meran in Grazグラーツのメラン宮殿 (2013年)

  • ヨハン大公は1859年5月11日午前9時に肺炎で死去された。享年78歳でした。<br />その後、大公は1859年5月14日にグラーツで埋葬され、さらに1869年6月21日に完成したばかりのシェナ城の霊廟に改葬された。<br /><br />アンナ夫人はまだ55歳である。<br /><br />1859年にヨハン大公が亡くなった後、アンナ夫人は26年も彼より長く生きた。<br />アンナはシュタイアーマルクでの彼の活動を引き継ぎ、特に社会施設の世話をしました。その中で、Anna-Kinderspital in Grazグラーツのアンナ子ども病院は彼女に因んで名付けられました。1872年には、アンナがシュタイアーマルクの蚕業協会の創設者として記された証明書が見つかっている。<br />1873年8月18日、彼女がその年ウィーンの万国博覧会で展示した農産物に対して、表彰状を授与されている。<br />1883年、アンナは赤十字社の名誉会員およびシュタイアーマルク愛国協会の副会長となっているとか、多くの社会的活動や奉仕の様子がうかがわれて、ヨハン大公の妻にふさわしい活躍である。<br /><br />未亡人時代、アンナにも特記すべきことがあった。<br />1870年から1871年にかけて、二人の娘たちGisela und Marie Valerieギーゼラとマリー・ヴァレリーと共に、メラン近くのSchloss Trauttmansdorff bei Meranトラウットマンスドルフ城(Villa別荘)で数か月を過ごしていたオーストリア・ハンガリー帝国のKaiserin Elisabethエリザベート皇后(1837年12月24日~1898年)に、アンナ未亡人は何度か会っている。<br /><br />アンナの嫁、テレージア・ランベルク伯爵夫人は、1862年7月にフランツ・メラン伯爵と結婚してからわずか数か月後に、皇后エリザベートのHofdame宮廷女官に任命された。このため、皇后の多くの旅に同行したそうである。<br />ただ、1860/61年の冬に、ポルトガルのInsel Madeiraマデイラ島に滞在した際も皇后エリザベート一緒でしたとあり、テレージア・ランベルク夫人は結婚前から女官らしき職務にあり、フランツとの結婚も皇后の配慮があったかと思ってしまう。<br /><br />1885年8月4日、メラン伯爵夫人アンナは、81歳の高齢で故郷のアウスゼーの生家で亡くなりました。南チロルのシェンナ城にヨハン大公と共に2人揃って埋葬されている。<br /><br />なにやら、考えていなかった記録を読んだ。<br />ヨハン大公の妻、アンナは皇帝家の一員として、十分に遇されていたと思う。<br /><br />参考写真:Anna-Plochlアンナ・プロッフル・メラン伯爵夫人(ヨハン大公の未亡人) (1860年)

    ヨハン大公は1859年5月11日午前9時に肺炎で死去された。享年78歳でした。
    その後、大公は1859年5月14日にグラーツで埋葬され、さらに1869年6月21日に完成したばかりのシェナ城の霊廟に改葬された。

    アンナ夫人はまだ55歳である。

    1859年にヨハン大公が亡くなった後、アンナ夫人は26年も彼より長く生きた。
    アンナはシュタイアーマルクでの彼の活動を引き継ぎ、特に社会施設の世話をしました。その中で、Anna-Kinderspital in Grazグラーツのアンナ子ども病院は彼女に因んで名付けられました。1872年には、アンナがシュタイアーマルクの蚕業協会の創設者として記された証明書が見つかっている。
    1873年8月18日、彼女がその年ウィーンの万国博覧会で展示した農産物に対して、表彰状を授与されている。
    1883年、アンナは赤十字社の名誉会員およびシュタイアーマルク愛国協会の副会長となっているとか、多くの社会的活動や奉仕の様子がうかがわれて、ヨハン大公の妻にふさわしい活躍である。

    未亡人時代、アンナにも特記すべきことがあった。
    1870年から1871年にかけて、二人の娘たちGisela und Marie Valerieギーゼラとマリー・ヴァレリーと共に、メラン近くのSchloss Trauttmansdorff bei Meranトラウットマンスドルフ城(Villa別荘)で数か月を過ごしていたオーストリア・ハンガリー帝国のKaiserin Elisabethエリザベート皇后(1837年12月24日~1898年)に、アンナ未亡人は何度か会っている。

    アンナの嫁、テレージア・ランベルク伯爵夫人は、1862年7月にフランツ・メラン伯爵と結婚してからわずか数か月後に、皇后エリザベートのHofdame宮廷女官に任命された。このため、皇后の多くの旅に同行したそうである。
    ただ、1860/61年の冬に、ポルトガルのInsel Madeiraマデイラ島に滞在した際も皇后エリザベート一緒でしたとあり、テレージア・ランベルク夫人は結婚前から女官らしき職務にあり、フランツとの結婚も皇后の配慮があったかと思ってしまう。

    1885年8月4日、メラン伯爵夫人アンナは、81歳の高齢で故郷のアウスゼーの生家で亡くなりました。南チロルのシェンナ城にヨハン大公と共に2人揃って埋葬されている。

    なにやら、考えていなかった記録を読んだ。
    ヨハン大公の妻、アンナは皇帝家の一員として、十分に遇されていたと思う。

    参考写真:Anna-Plochlアンナ・プロッフル・メラン伯爵夫人(ヨハン大公の未亡人) (1860年)

  • 2004年4月23日(金)Salzkammergutザルツカンマ―グート地方を周遊した。<br />その時、Bad Ischlバード・イシュルというオーストリア有数の保養地を訪ねた。<br />ここにはKaiservillaカイザーヴィラという、1854年エリザベート皇后との結婚記念に皇帝の両親に贈られた別荘があり、ヨーゼフ皇帝が好んで毎夏を過ごした場所である。<br /><br />明日がヨーゼフ皇帝とエリザベート皇后の結婚150年にあたります。<br />1854年4月24日にウイーンで婚儀が行われた事を忘れていましたが、たまたまの航空郵便を出しに立ち寄った郵便局で、親切な局員さんに薦められて、「皇帝夫妻結婚150年記念切手」を購入した。<br />局の裏手で、其の記念切手にスタンプを押すサービスを受け、シシィ=エリザベートの旅に相応しいものを買うことができた。<br /><br />写真:2004年4月24日Kaiserin-Elisabeth-Kaiser-Franz 成婚150周年記念切手

    イチオシ

    2004年4月23日(金)Salzkammergutザルツカンマ―グート地方を周遊した。
    その時、Bad Ischlバード・イシュルというオーストリア有数の保養地を訪ねた。
    ここにはKaiservillaカイザーヴィラという、1854年エリザベート皇后との結婚記念に皇帝の両親に贈られた別荘があり、ヨーゼフ皇帝が好んで毎夏を過ごした場所である。

    明日がヨーゼフ皇帝とエリザベート皇后の結婚150年にあたります。
    1854年4月24日にウイーンで婚儀が行われた事を忘れていましたが、たまたまの航空郵便を出しに立ち寄った郵便局で、親切な局員さんに薦められて、「皇帝夫妻結婚150年記念切手」を購入した。
    局の裏手で、其の記念切手にスタンプを押すサービスを受け、シシィ=エリザベートの旅に相応しいものを買うことができた。

    写真:2004年4月24日Kaiserin-Elisabeth-Kaiser-Franz 成婚150周年記念切手

  • さて、このような本を見つけた。<br />勿論読んでいないが、他の話に埋もれてしまっているのか、ヨハン大公とアンナの名は第一章~第六章の目次に見当たらない。<br />多分、第4章の中に書かれているのだろう。<br /><br />【Sigrid-Maria Größingジクリト・マリア・グレーシング 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』 東洋書林、1999年】<br /><br />内容説明:<br />歴代の皇帝、王や大公と、彼らが愛した女性たちとの愛の数々を、きめこまやかな筆致で描く。<br /><br />目次:<br />第1章 恋のため彼女は気が狂った―フィリップ美公と狂女フアナ<br />第2章 皇帝に愛され、英雄の母となって―バルバラ・ブロムベルク<br />第3章 「とまれ、これ以上に素晴らしい結婚はなかった」―ヨーゼフ2世とパルマ公女イサベラ<br />第4章 秘められた愛―フランツ・ヨーゼフをめぐる女性たち*<br />第5章 マイヤーリングの悲劇はブリュッセルで始まった―ルードルフ皇太子とベルギーのシュテファニー<br />第6章 死んでも離れない―フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク<br /><br />参考写真:『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』*

    さて、このような本を見つけた。
    勿論読んでいないが、他の話に埋もれてしまっているのか、ヨハン大公とアンナの名は第一章~第六章の目次に見当たらない。
    多分、第4章の中に書かれているのだろう。

    【Sigrid-Maria Größingジクリト・マリア・グレーシング 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』 東洋書林、1999年】

    内容説明:
    歴代の皇帝、王や大公と、彼らが愛した女性たちとの愛の数々を、きめこまやかな筆致で描く。

    目次:
    第1章 恋のため彼女は気が狂った―フィリップ美公と狂女フアナ
    第2章 皇帝に愛され、英雄の母となって―バルバラ・ブロムベルク
    第3章 「とまれ、これ以上に素晴らしい結婚はなかった」―ヨーゼフ2世とパルマ公女イサベラ
    第4章 秘められた愛―フランツ・ヨーゼフをめぐる女性たち*
    第5章 マイヤーリングの悲劇はブリュッセルで始まった―ルードルフ皇太子とベルギーのシュテファニー
    第6章 死んでも離れない―フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク

    参考写真:『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』*

  • Margarethe von Tirolマルガレーテ・フォン・チロル(1318年~1369年)は、ゲルツ家最後のチロル女伯爵。ケルンテン公兼チロル伯ハインリヒ6世とブラウンシュヴァイク・リューネブルク公ハインリヒ1世の娘アーデルハイトの一人娘。<br />Maultaschマウルタッシュ(大口の意)の渾名を合わせてMargarete Maultaschマルガレーテ・マウルタッシュとも呼ばれた。<br />実に面白い、この写真は自らの強大な支配を誇るように、右手にチロル伯、左手にバイエルン公、足元にケルンテン公の3つの紋章が描かれている。<br /><br />参考写真:Margarethe von Tirolマルガレーテ・フォン・チロル、ゲルツ家最後のチロル女伯爵。

    Margarethe von Tirolマルガレーテ・フォン・チロル(1318年~1369年)は、ゲルツ家最後のチロル女伯爵。ケルンテン公兼チロル伯ハインリヒ6世とブラウンシュヴァイク・リューネブルク公ハインリヒ1世の娘アーデルハイトの一人娘。
    Maultaschマウルタッシュ(大口の意)の渾名を合わせてMargarete Maultaschマルガレーテ・マウルタッシュとも呼ばれた。
    実に面白い、この写真は自らの強大な支配を誇るように、右手にチロル伯、左手にバイエルン公、足元にケルンテン公の3つの紋章が描かれている。

    参考写真:Margarethe von Tirolマルガレーテ・フォン・チロル、ゲルツ家最後のチロル女伯爵。

  • 1859年、ヨハン大公は77歳で死去。大公の死後は長男であるフランツ・メラン伯に譲られました。アンナは1885年に81歳の高齢で死去し、南チロルのシェンナ城に2人揃って埋葬されている。<br />大公の死去後、さらに26年もアンナは長生きした事になる。<br /><br />実は大公たちが本拠地であったグラーツから離れ、辺鄙ともいえるメラーノ(メラン)の地を安息の地(埋葬地)と定めたのをどうしてかと?最初は思ったものだ。<br />調べてみると、メラーノとグラーツの距離は450kmとなかなか遠い、今でも車で西に走って、なんと5時間半もかかるのだ。<br />それだけ、ヨハン大公とアンナにとって、好ましい地であったようだ。<br /><br /><Schloss Schennaシェンナ城(シェーナ城とも)><br /><br />ヨハン大公とアンナにとって、好ましい地であった、シェンナ城はalten Tiroler Residenzstadt Meran古いチロルの要塞都市メラーノ(メラン)の高地に位置している。<br />1350年ごろ、前掲した、有名な*チロル女伯爵Margarete Maultaschマルガレーテ・マウルタッシュが建てたシェンナ城は、南チロル地方で最も重要で美しい城の一つとされている。<br />その後、様々な所有者を経て、1845年に皇帝レオポルト2世の息子であるオーストリアのヨハン大公が購入した。<br />彼のお気に入りの城となり、彼は広大なコレクションを城内に保有し、中世の様式を保ちながら、居住可能な現在の内外観を整えた。<br />今日でも、ヨハン大公の子孫であるメラン伯爵家(メラーノ伯爵)が所有し、居住を継続し、歴史的な特徴をそのままに保たれている。<br /><br />1350年: シェンナ領主(チロル女伯爵)による初期建設。<br />1845年: オーストリアのヨハン大公が購入し、彼の居城となる。<br />現在:城は依然として子孫の私有財産で、一般公開されている。<br /><br />*Margarete von Tirolマルガレーテ・フォン・チロル(1318年~1369年)は、ゲルツ家最後のチロル女伯爵。ケルンテン公兼チロル伯ハインリヒ6世とブラウンシュヴァイク・リューネブルク公ハインリヒ1世の娘アーデルハイトの一人娘。マウルタッシュ(Maultasch=大口の意)の渾名を合わせてマルガレーテ・マウルタッシュ(Margarete Maultasch)とも呼ばれる。<br /><br />参考写真:Schloss Schenna_Eingangstorシェンナ城の武骨い印象の正門

    1859年、ヨハン大公は77歳で死去。大公の死後は長男であるフランツ・メラン伯に譲られました。アンナは1885年に81歳の高齢で死去し、南チロルのシェンナ城に2人揃って埋葬されている。
    大公の死去後、さらに26年もアンナは長生きした事になる。

    実は大公たちが本拠地であったグラーツから離れ、辺鄙ともいえるメラーノ(メラン)の地を安息の地(埋葬地)と定めたのをどうしてかと?最初は思ったものだ。
    調べてみると、メラーノとグラーツの距離は450kmとなかなか遠い、今でも車で西に走って、なんと5時間半もかかるのだ。
    それだけ、ヨハン大公とアンナにとって、好ましい地であったようだ。

    <Schloss Schennaシェンナ城(シェーナ城とも)>

    ヨハン大公とアンナにとって、好ましい地であった、シェンナ城はalten Tiroler Residenzstadt Meran古いチロルの要塞都市メラーノ(メラン)の高地に位置している。
    1350年ごろ、前掲した、有名な*チロル女伯爵Margarete Maultaschマルガレーテ・マウルタッシュが建てたシェンナ城は、南チロル地方で最も重要で美しい城の一つとされている。
    その後、様々な所有者を経て、1845年に皇帝レオポルト2世の息子であるオーストリアのヨハン大公が購入した。
    彼のお気に入りの城となり、彼は広大なコレクションを城内に保有し、中世の様式を保ちながら、居住可能な現在の内外観を整えた。
    今日でも、ヨハン大公の子孫であるメラン伯爵家(メラーノ伯爵)が所有し、居住を継続し、歴史的な特徴をそのままに保たれている。

    1350年: シェンナ領主(チロル女伯爵)による初期建設。
    1845年: オーストリアのヨハン大公が購入し、彼の居城となる。
    現在:城は依然として子孫の私有財産で、一般公開されている。

    *Margarete von Tirolマルガレーテ・フォン・チロル(1318年~1369年)は、ゲルツ家最後のチロル女伯爵。ケルンテン公兼チロル伯ハインリヒ6世とブラウンシュヴァイク・リューネブルク公ハインリヒ1世の娘アーデルハイトの一人娘。マウルタッシュ(Maultasch=大口の意)の渾名を合わせてマルガレーテ・マウルタッシュ(Margarete Maultasch)とも呼ばれる。

    参考写真:Schloss Schenna_Eingangstorシェンナ城の武骨い印象の正門

  • シェンナ城はほぼ当時のままの内装で、15世紀から19世紀のオリジナル家具が各室に完璧に備えてあり、1,200点以上の6世紀にわたる武器(武器の間にはヨハン大公の個人用の剣が展示されている)、日常品もそうだが、有名なチロルの画家たちの絵画、ハプスブルク家や伯爵家の肖像画、最大のプライベートな*Andreas-Hoferアンドレアス・ホーファーコレクション、豪華な暖炉、そして貴重なガラスの入った優雅な大公の食器セットなどが見られる。<br /><br />*チロル出身のアンドレアス・ホーファー(1767~1810年)は、 ナポレオンのオーストリア侵攻時に活躍し、チロル独立戦争の英雄と慕われている。<br />1805年の時期ホーファーは家業(旅館の経営)に戻ったが、密かにヨハン大公と反バイエルンの秘密協定を結んだ。<br /><br />また、フレスコ画のあるゴシック様式の礼拝堂と15世紀の聖遺物箱がある。<br />塔には時折貴婦人の幽霊が現れると云われるのも面白い。<br /><br />公園には数百年を経た木々があり、その中には1848年に植えられた菩提樹もある。中庭からドロミーティ山脈とアディジェ渓谷の壮大な景色を楽しめる。<br /><br />ヨハン大公とアンナが好んだ、この城はメラン伯爵家が所有するものだが、人気の高いヨハン大公についての著述が多く、彼の妻アンナや息子フランツの事が書かれていないように思え、少々影が薄いのが気になった。<br /><br />これも貴賤結婚のなせることなのだろうか!?<br /><br />参考写真:Schloss Schenna_von_Verdinserstrasseフェルディンザーストラーセから望むシェンナ城

    シェンナ城はほぼ当時のままの内装で、15世紀から19世紀のオリジナル家具が各室に完璧に備えてあり、1,200点以上の6世紀にわたる武器(武器の間にはヨハン大公の個人用の剣が展示されている)、日常品もそうだが、有名なチロルの画家たちの絵画、ハプスブルク家や伯爵家の肖像画、最大のプライベートな*Andreas-Hoferアンドレアス・ホーファーコレクション、豪華な暖炉、そして貴重なガラスの入った優雅な大公の食器セットなどが見られる。

    *チロル出身のアンドレアス・ホーファー(1767~1810年)は、 ナポレオンのオーストリア侵攻時に活躍し、チロル独立戦争の英雄と慕われている。
    1805年の時期ホーファーは家業(旅館の経営)に戻ったが、密かにヨハン大公と反バイエルンの秘密協定を結んだ。

    また、フレスコ画のあるゴシック様式の礼拝堂と15世紀の聖遺物箱がある。
    塔には時折貴婦人の幽霊が現れると云われるのも面白い。

    公園には数百年を経た木々があり、その中には1848年に植えられた菩提樹もある。中庭からドロミーティ山脈とアディジェ渓谷の壮大な景色を楽しめる。

    ヨハン大公とアンナが好んだ、この城はメラン伯爵家が所有するものだが、人気の高いヨハン大公についての著述が多く、彼の妻アンナや息子フランツの事が書かれていないように思え、少々影が薄いのが気になった。

    これも貴賤結婚のなせることなのだろうか!?

    参考写真:Schloss Schenna_von_Verdinserstrasseフェルディンザーストラーセから望むシェンナ城

  • ヨハン大公と愛妃アンナとの長男(ひとり息子)の Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵(1839年~1891年、享年52歳)である。<br /><br />両親の結婚は完全な貴賤結婚であり、フランツは皇帝家の一員として認められず、母親が授けられたブランドホーフェン男爵の姓を名乗った。<br />彼は1844年にメラン宮殿に因んだ、メラン伯爵の称号を受けている。<br />1861年には終身のオーストリア貴族院議員となり、翌1862年には父ヨハン大公の個人資産の相続を認められた。<br /><br />1862年7月8日に、ニーダーザクセン州ホルツミンデン郡にあるBurg Ottensteinオッテンシュタイン城において、Theresia Gräfin von Lambergランベルク伯爵夫人テレジア(1836年~1913年、Grundlseeグルンドルゼーで死去、ヨハン大公の霊廟に葬られた。享年77歳)と結婚し、4男3女の7人の子女を設けた。<br /><br />オーストリアの指揮者Nikolaus Harnoncourtニコラウス・アーノンクールはフランツ(1929年~2016年)の曾孫にあたる。<br /><br />参考写真:Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵

    ヨハン大公と愛妃アンナとの長男(ひとり息子)の Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵(1839年~1891年、享年52歳)である。

    両親の結婚は完全な貴賤結婚であり、フランツは皇帝家の一員として認められず、母親が授けられたブランドホーフェン男爵の姓を名乗った。
    彼は1844年にメラン宮殿に因んだ、メラン伯爵の称号を受けている。
    1861年には終身のオーストリア貴族院議員となり、翌1862年には父ヨハン大公の個人資産の相続を認められた。

    1862年7月8日に、ニーダーザクセン州ホルツミンデン郡にあるBurg Ottensteinオッテンシュタイン城において、Theresia Gräfin von Lambergランベルク伯爵夫人テレジア(1836年~1913年、Grundlseeグルンドルゼーで死去、ヨハン大公の霊廟に葬られた。享年77歳)と結婚し、4男3女の7人の子女を設けた。

    オーストリアの指揮者Nikolaus Harnoncourtニコラウス・アーノンクールはフランツ(1929年~2016年)の曾孫にあたる。

    参考写真:Graf Franz von Meranフランツ・フォン・メラン伯爵

  • <Mausoleum von Schennaシェンナの霊廟><br /><br />霊廟は1860年から1869年にかけて、オーストリアのヨハン大公とその家族の埋葬場所として建てられたもので、19世紀の最も美しいネオゴシック様式の宗教建築と称されている。<br />丘の西端にある人工のテラスに位置して、建物は赤い砂岩と花崗岩で建てられている。地下の霊廟礼拝堂には重いリブヴォールトの天井の下、ヨハン大公とその妻アンナが眠る大理石の石棺が置かれている。<br /><br />参考写真:Schloss Schenna_Mausoleumシェンナ城の霊廟

    <Mausoleum von Schennaシェンナの霊廟>

    霊廟は1860年から1869年にかけて、オーストリアのヨハン大公とその家族の埋葬場所として建てられたもので、19世紀の最も美しいネオゴシック様式の宗教建築と称されている。
    丘の西端にある人工のテラスに位置して、建物は赤い砂岩と花崗岩で建てられている。地下の霊廟礼拝堂には重いリブヴォールトの天井の下、ヨハン大公とその妻アンナが眠る大理石の石棺が置かれている。

    参考写真:Schloss Schenna_Mausoleumシェンナ城の霊廟

  • 参考写真:Schloss Schenna_Mausoleumシェンナ城の美しい土産!にはバラの花とアンナ・メラン伯爵夫人の名前がある。

    参考写真:Schloss Schenna_Mausoleumシェンナ城の美しい土産!にはバラの花とアンナ・メラン伯爵夫人の名前がある。

  • 敬愛されてきたヨハン大公とアンナの思い出が残るアウスゼーの地には、立派な大公の像が立っている。<br /><br />いずれも敬意をこめて、Stainzシュタインツ市では、ヨハン大公が市長だったため、Anna-Plochl-Straßeアンナ・プロッフル通りが彼女の名前に因んで名付けられた。同じように、2023年にMürztalミュルツタールのSankt Lorenzenザンクト・ローレンツェン村にもAnna-Plochl-Wegアンナ・プロッフル通りという名前の住宅地がある。<br /><br />参考写真:Erzherzog_Johann_Bad_Ausseeヨハン大公の像はバート・アウスゼーに建てられた。  (2006年)

    敬愛されてきたヨハン大公とアンナの思い出が残るアウスゼーの地には、立派な大公の像が立っている。

    いずれも敬意をこめて、Stainzシュタインツ市では、ヨハン大公が市長だったため、Anna-Plochl-Straßeアンナ・プロッフル通りが彼女の名前に因んで名付けられた。同じように、2023年にMürztalミュルツタールのSankt Lorenzenザンクト・ローレンツェン村にもAnna-Plochl-Wegアンナ・プロッフル通りという名前の住宅地がある。

    参考写真:Erzherzog_Johann_Bad_Ausseeヨハン大公の像はバート・アウスゼーに建てられた。  (2006年)

  • こちらは大公とアンナの二人が初めて出会った地、トプリッツ湖の記念碑である。<br />1819年7月19日の事だ。<br /><br />参考写真:Gedenkstein_Toplitzsee_Erherzog_Johann_und Anna Plochlトプリッツ湖の記念碑_ヨハン大公とアンナ・プロッフル (2017年)<br /><br />

    こちらは大公とアンナの二人が初めて出会った地、トプリッツ湖の記念碑である。
    1819年7月19日の事だ。

    参考写真:Gedenkstein_Toplitzsee_Erherzog_Johann_und Anna Plochlトプリッツ湖の記念碑_ヨハン大公とアンナ・プロッフル (2017年)

  • Grazer Burgグラーツの城は、グラーツの旧市街の東部、グラーツ大聖堂の近くにあり、1438年から後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世になるフリードリヒ5世公によって建てられた 。防御能力が低かったため、城はシュロスベルクの要塞と地下通路でつながっていた。<br /><br />1959年に、城の中庭に、die Steirische Ehrengalerieシュタイアー記念ギャラリーが設けられて、Hugo Wolf フーゴ・ヴォルフ、Josef Stammel ヨーゼフ・シュタメル、Johann Joseph Fuxヨハン・ヨーゼフ・フックス、「 Anna Plochl und Paula Grogger アンナ・プロッフル、パウラ・グロッガー」等の大理石の胸像が並んでいる。<br /><br />参考写真:Grazer_Burg_(nach_A._Trost_1700)グラーツの城(A. トロスト 1700年による)

    Grazer Burgグラーツの城は、グラーツの旧市街の東部、グラーツ大聖堂の近くにあり、1438年から後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世になるフリードリヒ5世公によって建てられた 。防御能力が低かったため、城はシュロスベルクの要塞と地下通路でつながっていた。

    1959年に、城の中庭に、die Steirische Ehrengalerieシュタイアー記念ギャラリーが設けられて、Hugo Wolf フーゴ・ヴォルフ、Josef Stammel ヨーゼフ・シュタメル、Johann Joseph Fuxヨハン・ヨーゼフ・フックス、「 Anna Plochl und Paula Grogger アンナ・プロッフル、パウラ・グロッガー」等の大理石の胸像が並んでいる。

    参考写真:Grazer_Burg_(nach_A._Trost_1700)グラーツの城(A. トロスト 1700年による)

  • また、貴賤結婚で幸せをつかんだアンナの胸像がグラーツの城の中庭に立っているのを見ると、この地の人達の敬愛や思い入れが分かる。<br /><br />参考写真:Grazer_Burg_Büste_Anna_Plochlグラーツ城内にある アンナ・プロッフルの胸像 (1994年)

    また、貴賤結婚で幸せをつかんだアンナの胸像がグラーツの城の中庭に立っているのを見ると、この地の人達の敬愛や思い入れが分かる。

    参考写真:Grazer_Burg_Büste_Anna_Plochlグラーツ城内にある アンナ・プロッフルの胸像 (1994年)

  • 加えて、Die_Hochzeit結婚式(ヨハン大公とアンナの結婚式)を書いたパウラ・グロッガーの胸像もある。<br /><br />彼女自体の事は全く知らないのだが、胸像の縁と作品【結婚式】の縁で、ここに登場したもらった。<br /><br />参考写真:Grazer_Burg_Büste_Paula_Groggerグラーツ城にあるパウラ・グロッガーの胸像

    加えて、Die_Hochzeit結婚式(ヨハン大公とアンナの結婚式)を書いたパウラ・グロッガーの胸像もある。

    彼女自体の事は全く知らないのだが、胸像の縁と作品【結婚式】の縁で、ここに登場したもらった。

    参考写真:Grazer_Burg_Büste_Paula_Groggerグラーツ城にあるパウラ・グロッガーの胸像

  • Paula Grogger (1892 年~1984年) パウラ・グロッガーはオーストリアの作家である。<br /><br />1952年、彼女はシュタイアーマルク州からペーター・ローゼガー賞を受賞した。<br />1966年には教授に任命された。<br />1968年には詩人団体ディヒタースタイン・オッフェンハウゼンのディヒタースタイン盾を受賞。<br /><br />そのほかにも、エンリカ・ハンデル・マッツェッティ特別賞、銀のヨハン大公章、シュタイアーマルク州の名誉リングなどの表彰を受けている。<br /><br />参考写真:Paula_Groggerパウラ・グロッガー(1931年)

    Paula Grogger (1892 年~1984年) パウラ・グロッガーはオーストリアの作家である。

    1952年、彼女はシュタイアーマルク州からペーター・ローゼガー賞を受賞した。
    1966年には教授に任命された。
    1968年には詩人団体ディヒタースタイン・オッフェンハウゼンのディヒタースタイン盾を受賞。

    そのほかにも、エンリカ・ハンデル・マッツェッティ特別賞、銀のヨハン大公章、シュタイアーマルク州の名誉リングなどの表彰を受けている。

    参考写真:Paula_Groggerパウラ・グロッガー(1931年)

  • 1937/1967 <br />Die Hochzeit. Ein Spiel vom Prinzen Johann (ein Stück über Erzherzog Johann)【結婚式】プリンス ヨハンの物語(ヨハン大公についての劇)<br /><br />原作の内容は不確かだが、オーストリアの誇る歴史的人物ヨハン大公を称えながら、その歩みを描く舞台らしい。<br />作家の郷里Öblarnエーブラーンでは、この作品が繰り返し上演されていると云う。<br /><br />参考写真:Paula_Groggerパウラ・グロッガー作_Die_Hochzeit_Szenenbild結婚式の場面1

    1937/1967
    Die Hochzeit. Ein Spiel vom Prinzen Johann (ein Stück über Erzherzog Johann)【結婚式】プリンス ヨハンの物語(ヨハン大公についての劇)

    原作の内容は不確かだが、オーストリアの誇る歴史的人物ヨハン大公を称えながら、その歩みを描く舞台らしい。
    作家の郷里Öblarnエーブラーンでは、この作品が繰り返し上演されていると云う。

    参考写真:Paula_Groggerパウラ・グロッガー作_Die_Hochzeit_Szenenbild結婚式の場面1

  • 参考写真:Paula_Groggerパウラ・グロッガー作_Die_Hochzeit_Szenenbild結婚式の場面2

    参考写真:Paula_Groggerパウラ・グロッガー作_Die_Hochzeit_Szenenbild結婚式の場面2

  • パウラの生誕地のÖblarnエーブラーンには、現在も彼女の生活と文学活動の場であった生家があり、博物館になっている。<br /><br />参考写真:Paula-Grogger-Haus(Museum für Paula Grogger)パウラ・グロッガー家(パウラ・グロッガー博物館)<br /><br />Bahnhofstraße 95<br />8960 Öblarn<br />バーンホーフ通り95番地<br />8960 エーブラーン<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />貴賤結婚シリーズ4編目である。<br />本編も妙に記憶の片隅から蘇ったもので、思いもかけない形で、様々に話が拡大してしまった。<br />今回は貴賤結婚ながら、徐々に周囲の理解を受けて、幸せをつかんだように思う。<br />アンナが未亡人の立場になった時にも、オーストリア・ハンガリー帝国の皇后Elisabethエリザベート(1837年~1898年)と度々、会うようになっていたエピソードを知ると、アンナも漸く皇帝家の一員として認められるようになっていたのだと、喜ばしく思ったものです。<br /><br />(2026年9月30日Wiki/HP参考、訳、編集・追記)<br /><br />

    パウラの生誕地のÖblarnエーブラーンには、現在も彼女の生活と文学活動の場であった生家があり、博物館になっている。

    参考写真:Paula-Grogger-Haus(Museum für Paula Grogger)パウラ・グロッガー家(パウラ・グロッガー博物館)

    Bahnhofstraße 95
    8960 Öblarn
    バーンホーフ通り95番地
    8960 エーブラーン

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    貴賤結婚シリーズ4編目である。
    本編も妙に記憶の片隅から蘇ったもので、思いもかけない形で、様々に話が拡大してしまった。
    今回は貴賤結婚ながら、徐々に周囲の理解を受けて、幸せをつかんだように思う。
    アンナが未亡人の立場になった時にも、オーストリア・ハンガリー帝国の皇后Elisabethエリザベート(1837年~1898年)と度々、会うようになっていたエピソードを知ると、アンナも漸く皇帝家の一員として認められるようになっていたのだと、喜ばしく思ったものです。

    (2026年9月30日Wiki/HP参考、訳、編集・追記)

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