2019/03/16 - 2019/03/23
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2019年3月ドイツ・オーストリアハイライト周遊8日間の旅9 グラーツ編2-2
今回は前回(5日目午前 オーストリア・グラーツ編)の続きです。
(無駄話が多いけど、ゆっくりしていってね。)
Grüß Gott(グリュースゴット)こんにちは。心から歓迎します。
Schlossbergplatzシュロスベルク広場前から再開です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
右の入口は
Dom im Berg
ドム・イム・ベルク(山の大聖堂)は、芸術家リヒャルト・クリーシェの構想と理念に基づき、多機能でハイテクな展示・イベント会場として1999年と2000年に建設され、シュロスベルクのトンネル内に埋め込まれた総面積733平方メートル、高さ11メートルの地下空間が誕生しました。
あらゆるジャンルのコンサート(特殊な壁面パネルにより優れた音響効果を提供)、会議、舞踏会、演劇公演、クラブイベント、豪華な企業プレゼンテーション、顧客とのレセプションなど、多岐にわたるイベントに対応できる空間を提供しています。
左の入口は
Grazer Märchenbahnグラーツおとぎ話鉄道
Schlossberg・ lift(Elevator)Rutsche(Slide)の共通入口です。
シュロスベルクリフト:日本ではエレべータになります。 -
上れるかな。
(大丈夫。誰が徒歩で上がるといった?リフトで行こう。)
ありがとう。
(10時20分にグラーツ大聖堂に集合じゃ,遊歩道を徒歩で行くのは時間が掛かりすぎる。)
このリフトにも怪しい光が。 -
正解。もう着いた。
Uhrturm graz(グラーツ時計塔)
グラーツ時計塔は、高さ28メートルの時計塔です。シュロスベルク山に建ち、直径5メートルを超える文字盤と金色の針を備え、シュタイアーマルク州の州都グラーツのランドマークとなっています。
最初の記録は1265年に遡りますが、1569年に完成した改築工事で、3つの大きな文字盤を持つ最初の時計が設置されました。時計の文字盤の上には木製の通路が塔の周囲を巡っており、そこから消防士は街の中心部全体を見渡すことができました。1712年には北側にもう一つの文字盤が設置され、現在の形になりました。 -
ミヒャエル・シルベスター・フンク設計の新しい時計機構は、分も表示できるほど正確でした。元々は大きくて見やすい時針のみで、分針は後から追加されました。この時計の機構は、現在も動いていますが、20世紀半ばからは電気で動くようになりました。
グラーツ時計塔の高さの半分は屋根です。時計台、時計柱と言っても過言ではありません。文字盤は5mを超えます。もちろん時報を打つ鐘があります。
パブリックドメイン「Bürgerbastei(ビュルガーバスタイ)への階段から見た時計塔」
塔には3つの鐘が残っています。碑文によると、時の鐘はグラーツ最古の鐘(1382年)で、毎時鳴らされます。1645年に作られた火の鐘は、鳴らされる回数に応じてグラーツの各地区の火災を知らせました。1450年頃に作られた「哀れな罪人の鐘」は、処刑の際に鳴らされ、19世紀には門限の時も鳴らされました。そのため「ぼろ鐘」とも呼ばれています。 -
塔の3つの角には、かつて城の丘の要塞を飾っていた紋章があります。
シュタイアーマルク公爵の帽子をかぶったシュタイアーマルクの豹(1570年頃)
後の皇帝フェルディナント1世の紋章としての単頭の鷲(1552年)
マリア・テレジアのイニシャルが刻まれた双頭の鷲(18世紀後半)
(行くよ。時計をみて。9時27分よ。)
見にくい針じゃの。 -
(いい景色じゃないの。ここどこ?)マークをつけておかないと忘れます。
Franziskaner・kirche(フランツィスカ―ナー・キルヒェ)
フランシスコ会教会が目印です。 -
ドメニコ・デッラッリオの設計に基づき1544年にシュロスベルクに建設されたルネサンス要塞の遺構の説明です。
軍事および商業の建物があり、地下の砲郭は、1784年に一時的に地下牢として使用されるまで、主に防御の目的で使用されていました。1725年以来大砲の発射と信号で街の火災を警告していた火見の砲兵のために、新しい砲兵小屋が与えられました。要塞が1809年に取り壊された後も、復元された稜堡は19世紀に火見の役割を果たしました。現在は博物館となっており、1981年から2011年までは駐屯地博物館、2020年からはグラーツ・シュロスベルク博物館となっています。 -
シュタルバスタイを下部から見ているところ。
高さ20メートル以上、厚さ最大6メートルの擁壁を備えたこの巨大な堡塁の建設は1544年に始まり、かつて同じ場所に建っていた中世の城の外壁の跡地に建てられました。この場所には厩舎が建っていたため、堡塁の名前の由来となっています。南側の木製の扉は19世紀のものです。突き出た「エジプト門」はボナヴェントゥラ・ヘドルによって1820年頃に、またパーゴラは1900年頃に建てられました。堡塁の東隅には、唯一現存する要塞の監視塔、通称「ルンテン塔(ヒューズ塔)」があります。詩人ルドルフ・ハンス・バルチュの壺は、シュタルバスタイの街に面したレンガの壁に埋め込まれており、小さな記念碑がそれを記念しています。
Türkenbrunnen(トルコ井戸)があります。
深さ94メートルの井戸は、1553年にシュタイアーマルク州から発注され、1554年から1558年にかけて建設されました。ムール川の地下水まで汲み上げられたこの井戸は、長期にわたる包囲下においても要塞に十分な水を供給することが出来ました。建設計画はイタリア人建築家ドメニコ・デッラリオによって設計され、「深井戸」という名称で建設されました。現在の「トルコ井戸」という名称になったのは19世紀になってからです。 -
グラーツ・シュロスベルク博物館の門前
インタラクティブ・ステーションと展望バルコニーを備えた屋外エリアは、すべて無料で、COVID-19パンデミックによるロックダウン中も24時間年中無休で営業しました。2020年までには、お土産売り場の代わりに受付棟とトイレが建設されました。 -
Die Kanonenhütte 大砲小屋のインフォーメーション
-
Graz Museum Schlossbergグラーツ・シュロスベルク博物館
(リニューアルされたようです。)
市はシュロスベルク博物館の建設と改修のためのコンペティションを発表しました。建築家のエルヤヴェツ、グムハルター、レシュライター、リースからなるスタジオWG3がコンペティションを勝ち取り、設計・施工契約を獲得し、2020年9月12日、旧駐屯地博物館にシュタルバスタイを含む拡張された新しいシュロスベルク博物館が開館しました。その栄誉で2021年6月にシュタイアーマルク建築賞を受賞しました。 -
(リニューアルしたと言われてもね。)
私たちが行った2019年のときはこうでしたから、何の問題もありません。 -
リニューアルされても、景観は変わらんでしょう。
(そらそうや) -
(いい景色じゃないの。ここどこ?)
1週間前なら覚えているが、マークを付けておかないとわからなくなるのですいません。グラーツ大聖堂が目印です。 -
クンストハウスが目印です。あとは自力でどうぞ。写真を見て当てるの楽しいよ。
(これ、これ。たのむでほんまに。) -
Die Thomaskapelle聖トーマス礼拝堂
鐘楼のすぐ隣にある聖トーマス礼拝堂の遺跡は、中世の城郭群の痕跡として残る数少ない遺構の一つです。鐘楼と聖トーマス礼拝堂は、もともとカール2世大公の命により建てられました。
半円形の東向きの後陣を持つ円形の建物は、1271年に初めて記録に残っています。簡素な外観とは対照的に、礼拝堂の内部は豪華に装飾されていました。16世紀には、宗教改革の際にプロテスタントのミサも一時的にここで行われました。シュロスベルクに収監されていた囚人のための礼拝は、聖トーマス礼拝堂で行われました。この聖なる建物は取り壊しを免れていましたが、1810年に構造的な損傷により取り壊されました。
今日では基礎部分のみが残っており、鐘楼に隣接する鉄製の通路から見ることができます。 -
(鐘楼は?)振り返れば鐘楼。
Glockenturm 鐘楼を忘れてた。
高さ34メートルの八角形の鐘楼は、1588年にカール2世大公の命により建立されました。鐘楼には、シュタイアーマルク州で3番目に大きな鐘Liesl「リーゼル」(エリザベートの鐘)が収められています。鐘は 1587 年に鋳造されましたが、鐘楼自体は 1 年後の 1588 年にようやく建設されました。戻ってみる?
(あんただけ、そうしたら?わたしは急いでリフトで降ります。) -
いやいや、一人だけリフトに乗せるのは心配だから、いっしょにのってあげる。
ウイ・スキプド・ザらイト・ファンダンゴオォ
タぁンド・カートウィールズクロス・ザ・フロー
アイワズ・フィ―リング・カインダ・スィ-スィク
ザッタ―・ハ・フェイス・アト・ふァーストジャスト・ごストリー・アンダ・ア・ワイト・オフペイル
(なに?)青い影という名曲です。
(わたし、知らない。)知っている人しか知らないか。御一緒に。 -
僕らは軽くファンダンゴのステップで、カートのハンドルを回してフロアーを横切った。
(ゲートを押して乗り場にはいったんでしょ。) -
エレベィターを呼んだら、からのキャビネットをはこんできた。
(あたりまえでしょ。待機中だったから、そのまま開いたんです。) -
なにも押していないのに、ドアが閉まり、降下を始めた。
-
ぎゃ。幽霊のような顔が、あっという間に青ざめた白い顔にかわった。
-
エレベータが振動して天井が飛んでいきそうだった。
(天井抜けてないよ。ガラス天井があるでしょ。) -
船酔いみたいでくらくらした。
(静かに降りていますよ。) -
そのときです。僕の幽霊のような顔が、あっという間に青ざめた白い顔にかわったのは。
-
思ったより早い。1分かかってない。
(面白かった。)
それは何より。 -
(ファンダンゴってなに?)本筋の話じゃないけど。カスタネットを鳴らして踊る6/8拍子のフラメンコの一種。日本なら、鳴子を持って踊るよさこい鳴子踊り。なんだけど、まだダンゴ三兄弟が曲想にあう。
カンタベリー物語に出てくる粉屋の言うことにゃ
1番上は大工さん
3番目は下宿の学生さん
間にはさまれ、大工の若奥さん
なぜか四番目に余計な教会の書記
自分がいちばん奥さん
からかい上手の学生を手をくんで
大工と書記を手玉に取ったんご
ダンゴ、ダンゴ、フォーダンゴ
ダンゴ、ダンゴ、四つどもえ、ダンゴ
(ちがう。)
変えないとむしろまずい。下手だけど絵を付けました。
(歌も下手だけど。坑道の出口に向かって進みましょう。) -
シュロスベルク広場が違って見える。
教会に寄るか。
(だめです。今9時48分です。)
Dreifaltigkeits・kirche(ドライファルティヒカイト・キルヒェ)
トリニティ(三位一体)教会
ムール川をこえてMariahilfer・kirche(マリア・ヒルファー・キルヒェ)聖母救済教会 -
Museum für Geschichte(歴史博物館)
歴史博物館は、中世以降のシュタイアーマルク州の発展と変遷に焦点を当てています。常に現代的なスタイルで、人々に寄り添いながら、政治や経済といったテーマに加え、建築やメディア、移動やコミュニケーション、ファッション、消費文化といった分野における発展についても探求しています。
(グラーツ市立博物館は?)通り過ぎたけど、前回言わなかったけ?
Graz Museum(グラーツ市立博物館)
市立博物館は、訪問者に古代から現在までのグラーツの歴史的進化を示し、さまざまな時代のグラーツを同じ時期の他のオーストリアの都市の現在の状況と比較し、訪問者が都市をより直感的かつ深く理解できるようなります。
(ふーん。)百聞は一見に如かずで、分からんでしょう。また来ましょう。 -
Kastner & Öhler Grazはカストナー&エーラー百貨店です。
1873年1月1日、カール・ケストナーとヘルマン・エーラーがトロッパウ(現在のオパヴァ)に糸細工店を設立したのが始まりです。1883年、カール・ケストナーはグラーツの街を散策中にザック通りに空き店舗を見つけ、そこを借り、会社を設立しました。同社は中央ヨーロッパで初めて固定価格制を導入し、通信販売サービスを開始しました。2代目エーラーはナチス時代強制収容所で亡くなりましたが、戦後3代目が再建しました。 -
Palais-Hotel Erzherzog Johann Grazは創業1852年というパレ ホテル エルツヘルツォーク ヨハンというホテルです。
その歴史は1596年、ザック通り5番地にあった家を宿屋に改装したことに遡ります。18世紀には、壮麗な宮殿へと拡張されました。1852年にフェルディナント・ゾンハンマーが建物を借り、最終的に1877年に購入し、封建時代の宮殿を、ホテルに改装しました。その後、フランツ2世の弟である「シュタイヤーマルクの王子」ヨハン大公にホテルの支援をしてもらったのがホテルの名の依頼由来です。ゾンハンマー未亡人からホテルを購入したフリッツ・ミュラーの代から、100年以上家族経営をしています。 -
Rathaus der Stadt Graz(グラーツ市庁舎)
グラーツ初代の市庁舎は1450年、ユーデンガッセに建てられました。手狭になったため、1550年に現在の中央広場の場所に2代めのルネッサンス様式の新しい市庁舎が建てられました。
1803年にこの建物を取り壊し、3代目として1805年から1807年にかけて新古典主義の建物が建設され、1869年にこの市庁舎は拡張されました。1887年、建築家アレクサンダー・ヴィールマンスとテオドール・ロイターの設計により、以前の建物の一部を組み込んだ新しい建物の建設が開始されました。近隣の建物はこの拡張のために購入されました。しかし、ヘレンガッセ4番地、6番地、8番地の所有者が解体に反対したため、計画は完全には実行されませんでした。
パブリックドメイン:
Conrad_Kreuzer_Rathaus(コンラート・クロイツァーによる鉄版画1843年作成の鉄版画)
Graz_-_neues_Rathaus_mit_Hauptplatz_1898(中央広場のグラーツ新市庁舎1898ころの写真) -
建物の南翼は1889年、メイン翼は1893年に建てられ、中央広場に面した正面ファサードには、建物の高さ全体に突き出たドーム型の中央リザリトと、角に小塔がある。
現在の建物は、ほぼ、最終拡張期のものと一致するが、1922年にファサードの装飾は、大幅に簡素化され、上層階の外壁の偽レンガは取り除かれてファサードは滑らかになり、屋根の装飾は縮小され、壁龕にあった彫像のほとんどが失われた。 -
入口の右側から、シュミードガッセに伸びている部分には、シュタイアーマルク貯蓄銀行の支店があり、その使用権は市庁舎建設の資金調達にまで遡ります。
写真は北東角を撮っています。
入口の左側から、ヘレンガッセに伸びている部分にも店舗が入っています。
(写真に衣料品店のAlphataurii。Redbull worldが見えます。) -
Herrengasse ヘレンガッセ(Herr領主の変形Herren+gasse通り)の入口あたりです。
(うちの子に、何するの。)
うちの子じゃないでしょ。自分だって住んでる家を出ていけと言われても抵抗するでしょう。 -
こんな感じになっています。
-
言われなかったら、気付かないでしょう。
-
左はHerzogshof(ヘルツォークスホーフ)Herzogsは公爵、hofは宮廷(中庭)
公爵公務邸でハプスブルク家は15世紀後半までシュタイアーマルク州の君主としての公務を遂行し続けた。ヘルツォークスホーフが初めて記録されたのは1360年です。シュタイアーマルク公爵は、この邸宅で臣民に土地を貢物として与えました。1450年直後にグラーツ城が完成すると、そちらの方に儀式がうつされた。1600年以降、当時のシュタイアーマルク公で後の皇帝フェルディナント2世の弟がこの邸宅に居住しました。この時、初めて絵画が描かれました。手掛けたのは、フェルディナンドの宮廷画家であり、後に霊廟の建築家となるジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポミスです。
この家は幾度となく所有者を変え、1739年に手に入れた両替商(銀行家)のフランツ・フォン・ラートゥルナーは、1742年画家ヨハン・マイヤーにファサードのフレスコ画を新たに依頼しました。セッコ技法で再塗装をしたので、デ・ポミスのオリジナルの絵画は何も残っていません。1912年までに見苦しくなっていたため、壁画を撤去する予定でしたが、実現せず、1924年、商人のヨーゼフ・スピッツィが建物を取得し、完全に改装しました。1969年になって大規模な修復が行われた。最終的に、2001年に当時行われた上塗りを剥がし、可能な限り元の状態に戻す試みがなされた。同時に、建物は活性化され、最大限の商業目的に使用されました -
ヘルツォークスホフは、大きな中庭に囲まれた4~5階建ての4翼の複合ビルです。1階ゾーンは、大部分が破壊されてビジネスポータルになっていますが、アフレンツ砂岩で作られたルネッサンス時代後期(1600年頃)の素朴なメインポータルは残され、エンタブラチュアのフリーズはライオンの頭とロゼットで飾られています。鉄板で覆われた18世紀第3四半期のドアウィングは、1950年に樽型アーチ型の私道の中庭側に移され、現在は展示通路として使用されています。
時が経つにつれ、ファサードに描かれた人物像の正体は忘れ去られていましたが、数年前までに、ギリシャ・ローマの神々だと特定されています。
(ゲマールテスハウスとは?)見たそのまま、
malen(絵を描く)の過去分詞形gemaltを使って gemaltes・haus「絵の描かれた家」と呼んでいるようですけど。 -
左がGrazer Landhaus(グラーツ州庁舎)
メインウィングは、ヘレンガッセとラントハウスガッセの角に位置し、建築家ドメニコ・デッラリオの設計に基づき、1557年から1565年の間に建設されました。建物の増築(1581-1585年)後、元のファサードの対称性は失われました。17世紀半ば、ファサードの対称性を改善するために、武器庫の隣に丸アーチ様式の2つ目のポータルが建設され、中庭への出入りを容易にする役割も果たしました。
だけど本当はもっと古い。 -
1494年タウンハウスを取得したのが起源で 、シュタイヤマルク州で最も初期のルネサンス建築の一つである最古の翼部が、1500年から1510年の間にグラーツのシュミートガッセに建設されました。その後、1519年隣接する2棟の建物を取得して1527~1531年に改築されました。ラントハウスには、大きなラントハウスホフ、小さなラントハウスホフ、そしてツォイクハウスに最も近いツォイクハウスホフという3つの中庭があります。
(とうとう、中庭は見ずじまいで終わりました。) -
中央広場のErzherzog-Johann-Brunnenヨハン大公の噴水記念碑
ヨハン大公は、ハプスブルク家の一員であり、フランツ1世皇帝の弟で、1848年から1849年の革命期にオーストリア陸軍元帥およびドイツ摂政を務めた。平民と結婚したため、ヨハンは継承権から除外され、子孫が貴族の称号を継ぐことはできないはずでしたが、1834年、皇帝フランツ1世は慈悲を示し、妻であるアンナに「ブランドホーフェン男爵夫人」の称号を与え、下級貴族に昇格させた。この結婚による唯一の息子であり、大公の相続人であるフランツに1845年、「メラーノ伯」の世襲称号を与えさせ息子の爵位授与からわずか5年後、彼女はフランツ・ヨーゼフ1世によって「メラーノ伯爵夫人」に叙されました。 -
ハウプトプラッツ(中央広場)周辺の街並みもたいしたものですね。
(もう10時だよ。) -
歩行者専用道路(ただし、5~10じまで7.5tの積載作業は除く)
-
Luegghäuser(リューグホイザ)
ハウプトプラッツ周辺のファサードの中でも、スポルガッセの角にある「リューグハウス」は、精巧なスタッコ仕上げのファサードとアーケードがひときわ目を引く建物です。果物や花の飾りで飾られたファサードに隠された口や鼻を、注意深く探してみてください。
そういえば顔に見えてきた。(見えません。)
リューグ邸は15世紀から16世紀にかけてバロック様式で建てられました。家の正面に施されたルンドボーゲン様式の装飾は非常に興味深いです。
現在、「リューグハウス」はグラーツのスワロフスキー ストアの本拠地となっています。 -
往路は積載作業をしていましたが、復路のときはいなくなっています。
この建物のアール・ヌーヴォー様式の花模様のファサードは、1900年頃のヨーゼフ・ブルマンとアウグスト・オルトヴァインによるものです -
リューグハウスはここまで。
Taubelという宝石店です。
uhrenウーレンはuhr(時計)の複数.Juwelen(ユーヴェ―レン)はJuwel(宝石)の複数形です。 -
右は
Sonnentor(ゾネントア)というハープ屋さん。
ゾネントア社は 1988年創業、オーストリア北部のヴァルトフィアテルの小さな村から始まったハーブティーは、現在ではそのクオリティの高さから世界中の注目を集め、世界の一流ホテルでも採用されるなど、ヨーロッパを代表するハーブティーブランドとなっています。
左は
「ツム・レーミッシェン・カイザー」 -
かつての宿屋「ツム・レーミッシェン・カイザー」(宿屋:ローマ皇帝へ)は、ロココ様式のファサードと、聖ヨハネ・ネポムツキーの死を描いた大理石のレリーフが施された籠型アーチの石造りの玄関が印象的です。この建物は16世紀に建てられ、1750年から1755年にかけて建築界の巨匠ヨーゼフ・ヒューバーによって再建されました。門はルネサンス様式の中庭に通じていましたが、1943年に一部破壊されました。現在1階のテナントは閉店になっているようです。
-
STYRIA Briefmarken スティリア・ブリーフマルケン
(スティリア郵便切手・文具店) -
階段教会で知られるシュティーゲン教会は、外観からは目立たないが、グラーツ最古の教区教会です。最初の記録は1343年にあり、教会内部へは階段で通じており、塔は市内のごくわずかな場所からしか見られない。
右はドイツ騎士団の家の一部 -
ドイツ騎士団の家(1階に店舗が入っている複合建物)
スポルガッセとホーフガッセの角にあるこの家は、かつてグラーツのリーヒ教会近くに支部を持つドイツ騎士団の所有物でした。15世紀から16世紀にかけて建てられたこの家は、階段と多層のアーケードを備えた中庭が特徴です。 -
ホーフガッセまで戻ってきました。ここまで来たら大丈夫。
(甘い) -
ベーカリーの店エーデッガー・タックスです。
(なぜか簡単な名前になったけどいいの。) -
門構えが立派で由緒がある建物に見えます。1階に店舗が入っています。
1階左
Peppino im Hofkeller(ペッピーノ・イム・ホフケラー) イタリア料理店です。
右
Café Cosimoカフェ・コジモ 喫茶店 -
歩行者専用道路はここまで。
-
集合場所のグラーツ大聖堂前です。
(かなりすっきりした普通の言い方。)
Domkirche zum Heiligen Ägydius in Grazと言ったら怒るやろ。 -
右の建物はDiözesan・museum
グラーツ教区博物館は、教会とキリスト教信仰の歴史、発展、現在について人々に知ってもらうための芸術的対話の場です。 -
上部のランセット窓ですが、あんな窓のゴシック様式はないので、改造したようです。
螺旋階段見に行く?
(ごっつんやカイダン?) -
(何かなこれ。
な。に。か。な。) -
(見ていきたいな。)
脚をくねらすのはやめなさい。宗教の場なんだから。入ろか。 -
Grüß Gott(グリュースゴット)おじゃまします。
北側廊の副祭壇 -
北側廊の礼拝堂
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内陣に向かって両側には2つの歴史的な象牙の聖遺物箱(元々はパオラ・ゴンザーガの結婚用聖櫃)があります。
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主祭壇の祭壇画に幕が掛っていますので見えませんが、フランツ・イグナツ・フルラー作(1733年)の、守護聖人ギレス(聖アギディウス)と、その両脇に置かれた四福音記者の像が描かれた祭壇画だそうです。(ラテン語:Aegidius, 英:Giles, 仏:Gilles,伊:Egidio, 650年頃 - 710年頃の聖人とされる方です。)
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バロック様式の大理石の祭壇(1730~1733年、ゲオルク・クラクスナー作)と18世紀の聖歌隊席。
本尊、もとい内陣主祭壇に向かってアーメン。 -
南側廊の副祭壇と聖具室・礼拝堂
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振り向けば、信心深い奥様
Trauttmansdorff Monument (トラウトマンスドルフ記念碑:紋章の起源をあらわす) -
南側廊もオルガンロフトまで天井に蔓や花のフレスコ画が残されています。
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南側廊の礼拝堂は旧フリードリヒスカペレ(皇帝礼拝堂)
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南側廊の礼拝堂のKreuzkapelle_mit_Bischofsgruft (十字架礼拝堂の司教の納骨所)
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オルガンロフトに置かれたオルガン。
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南側廊からみた北側廊の礼拝堂上部に聖アギディウスのフレスコ画
(わからん)目いっぱい明るくしたんですが。 -
オルガンロフト下のギャラリーホール
西入口から人の出入りがありました。 -
ギャラリーから主祭壇をみる。
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身廊の説教壇が見えます。
-
身廊から主祭壇を拝む。内陣の天井の格子の中にも花のフレスコ画があります。
-
椅子に座ってお祈りするのは、何か思うところがあるのでしょう。
-
と思えば、なにその顔やめなさい。
不思議なのは、大聖堂には前室があるか、大扉の子扉に風除けボックスが付いて光が漏れないようになっているのですが、ここではガラススクリーンになってるため、扉から光が漏れる事です。 -
お目が高い。オルガンに興味がありますか。ただし、1978年に建設された大聖堂のオルガンは後で、2023年リーガーによって完全に再建されました。(オルガンだけで150万ユーロ当てられました。)
-
グラーツ大聖堂が建造された当時、内部は色鮮やかに彩色されていました。後期ゴシック様式のフレスコ画装飾は、1464年に描かれた側廊の天井に描かれた蔓や花の装飾など、一部のみが残されています。
-
天井はかなり細かい交差リブと装飾リブの組み合わせで構成されています。
両側廊と内陣の天井に蔓や花の装飾があります。 -
(風と共に去りぬ)
いずこへ。お待ちなさい。
グラーツ大聖堂前で、全員が揃うのを待って、バスがまっているオペルンリンクまで歩きました。
10:30にグラーツからミュルツツシュラークまでバスで移動。
食事のあと、午後はゼンメリング鉄道を経由してウィーンに入ります。
海外の鉄道は初めて楽しみです。
(ここまで見ていただいて有難うございました。ゼンメリング鉄道ではどうなるか、次回をお楽しみに。)ご覧ください。
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