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「白馬江遊覧船」を楽しんだ後はバスに乗って公州に向かいます。公山城前のロータリーには巨大な武寧王像が睥睨(へいげい)しているのが見えてきます。バスを降りて再現された「公山城」の西の入り口である「錦西楼」までゆっくりと登ります。その後は城壁を時計回りに歩き、展望台からは錦江に架かる古い鉄橋が見下ろせました。この橋は戦前に日本が掛けたものだとガイドさんが説明してくれました。公州(こんじゅ)市と扶余(ぷよ)郡は、韓国三国時代に高句麗、新羅と覇を競った百済王朝の地であり、百済は古代日本ともゆかりが深いのでもう少しじっくり旅してもいいような気がします。この錦江を下っていき、海に出る辺りが「白村江の古戦場」になります。城の見学を終えた後はロータリーの反対側にある「コムサンソン・ブチュヘルム」という店で「カルグクス」という「手切り麺」の鍋をいただきました。大量のアサリとイカが入った薄味のスープも美味しかったです。ここではこの地域名物の栗マッコリをいただきましたが、これも少し甘めでしたが美味しかったです。各地の名物料理とお酒が飲めるのは楽しい旅です。ガイドさんのおすすめの海鮮ちじみは15,000ウォンでしたがとても美味しかったです。食後は隣接する「バムマウル」というベーカリーにも立ち寄りました。ここでは名物の栗のペーストがぎっしり入ったパイを買い求めました。6個入りが13,000ウォンですが1個240円と考えれば安いと思います。帰国して家で食べましたがめちゃくちゃ美味しかったです。さらに隣にある栗の餡を餅で包んだものを買い求めて店で食べましたが、こちらも美味しかったです。その後は少し移動した「武寧王陵」と「王陵園」の見学に移ります。ここは百済の安定に尽力した武寧王(ムリョンワン)の陵墓をはじめ、王族の7基の古墳が集まっています。陵墓はただの芝生の丘ですが、博物館は見ごたえがあり、再現された玄室は素晴らしかったです。

トラピックス マシッソヨ韓国5都市周遊4日間(6)公州の公山城の上から錦江を望み、武寧王陵と王陵園を見学する。

2いいね!

2026/03/23 - 2026/03/23

51位(同エリア60件中)

旅行記グループ 2026韓国清州の旅

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68

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記のスケジュール

この旅行記スケジュールを元に

「白馬江遊覧船」を楽しんだ後はバスに乗って公州に向かいます。公山城前のロータリーには巨大な武寧王像が睥睨(へいげい)しているのが見えてきます。バスを降りて再現された「公山城」の西の入り口である「錦西楼」までゆっくりと登ります。その後は城壁を時計回りに歩き、展望台からは錦江に架かる古い鉄橋が見下ろせました。この橋は戦前に日本が掛けたものだとガイドさんが説明してくれました。公州(こんじゅ)市と扶余(ぷよ)郡は、韓国三国時代に高句麗、新羅と覇を競った百済王朝の地であり、百済は古代日本ともゆかりが深いのでもう少しじっくり旅してもいいような気がします。この錦江を下っていき、海に出る辺りが「白村江の古戦場」になります。城の見学を終えた後はロータリーの反対側にある「コムサンソン・ブチュヘルム」という店で「カルグクス」という「手切り麺」の鍋をいただきました。大量のアサリとイカが入った薄味のスープも美味しかったです。ここではこの地域名物の栗マッコリをいただきましたが、これも少し甘めでしたが美味しかったです。各地の名物料理とお酒が飲めるのは楽しい旅です。ガイドさんのおすすめの海鮮ちじみは15,000ウォンでしたがとても美味しかったです。食後は隣接する「バムマウル」というベーカリーにも立ち寄りました。ここでは名物の栗のペーストがぎっしり入ったパイを買い求めました。6個入りが13,000ウォンですが1個240円と考えれば安いと思います。帰国して家で食べましたがめちゃくちゃ美味しかったです。さらに隣にある栗の餡を餅で包んだものを買い求めて店で食べましたが、こちらも美味しかったです。その後は少し移動した「武寧王陵」と「王陵園」の見学に移ります。ここは百済の安定に尽力した武寧王(ムリョンワン)の陵墓をはじめ、王族の7基の古墳が集まっています。陵墓はただの芝生の丘ですが、博物館は見ごたえがあり、再現された玄室は素晴らしかったです。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 扶余のロータリーの中には扶余陵山里寺跡の工房跡から発見された「百済金銅大香炉」のモニュメントが置かれてありました。左側の席に座っている妻にカメラを渡したら珍しく上手く撮れていました。

    扶余のロータリーの中には扶余陵山里寺跡の工房跡から発見された「百済金銅大香炉」のモニュメントが置かれてありました。左側の席に座っている妻にカメラを渡したら珍しく上手く撮れていました。

  • この辺りはイチゴが名産だということなので、延々と続くハウスで栽培されているのでしょう。美味しいのかは分かりませんが、日本で売っている1/4くらいの値段で売っていました。シャインマスカットもそのままの名前で大きな房が450円くらいで買えます。

    この辺りはイチゴが名産だということなので、延々と続くハウスで栽培されているのでしょう。美味しいのかは分かりませんが、日本で売っている1/4くらいの値段で売っていました。シャインマスカットもそのままの名前で大きな房が450円くらいで買えます。

  • 「公山城(コンサンソン)」に到着しました。ここでバスを降りて1時間弱の観光になります。

    「公山城(コンサンソン)」に到着しました。ここでバスを降りて1時間弱の観光になります。

    公山城 城・宮殿

  • 百済の首都が熊津(ウンジン)と呼ばれた時代の山城で、文周王が文周王元年の475年に漢城(現在のソウル)から遷都した際に建造しましたその後の聖明王16年の538年に扶余に遷都するまで64年間に渡り王都の防衛設備でした。

    百済の首都が熊津(ウンジン)と呼ばれた時代の山城で、文周王が文周王元年の475年に漢城(現在のソウル)から遷都した際に建造しましたその後の聖明王16年の538年に扶余に遷都するまで64年間に渡り王都の防衛設備でした。

  • お腹空いてきましたが、お昼前にもう少し頑張りましょう。

    お腹空いてきましたが、お昼前にもう少し頑張りましょう。

  • 「錦西楼(クムソル)」は「公山城(コンサンソン)」の西側に位置する4つの城門のうちの1つで、かつては城内へ通じる車道として利用されていました。現在の建物は1993年に復元されたものです。

    「錦西楼(クムソル)」は「公山城(コンサンソン)」の西側に位置する4つの城門のうちの1つで、かつては城内へ通じる車道として利用されていました。現在の建物は1993年に復元されたものです。

  • 「百済歴史遺跡地区」は2015年に世界文化遺産として登録され、「公山城」のほか「王陵」や寺院跡など百済後期を代表する複数の遺跡で構成されています。

    「百済歴史遺跡地区」は2015年に世界文化遺産として登録され、「公山城」のほか「王陵」や寺院跡など百済後期を代表する複数の遺跡で構成されています。

  • 韓国の山城は三国時代から高麗から朝鮮時代にかけて造られ、山の稜線や斜面に沿って長い城壁を築くのが特徴です。石積みは自然石をあまり加工せず積んだ乱積みに近いものが多い一方で、百済や新羅の一部山城では切石を整然と積み上げた切石積みの城壁も見られます。

    韓国の山城は三国時代から高麗から朝鮮時代にかけて造られ、山の稜線や斜面に沿って長い城壁を築くのが特徴です。石積みは自然石をあまり加工せず積んだ乱積みに近いものが多い一方で、百済や新羅の一部山城では切石を整然と積み上げた切石積みの城壁も見られます。

  • 「錦西楼(クムソル)」の下を潜ると天井には虎の絵が描かれています。東西南北を守る動物としては中国由来の「四神」が知られています。東を青龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武という神獣がそれぞれの方角を守護する存在とされています。ここは西に当たるので白虎が描かれています。

    「錦西楼(クムソル)」の下を潜ると天井には虎の絵が描かれています。東西南北を守る動物としては中国由来の「四神」が知られています。東を青龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武という神獣がそれぞれの方角を守護する存在とされています。ここは西に当たるので白虎が描かれています。

  • 公山城の城壁の全長は2,660メートルで、土城として知られる東部区間735メートルを除く全ての区間は石造になっています。現在残っている大部分の城壁は朝鮮時代以降に修復されたものです。

    公山城の城壁の全長は2,660メートルで、土城として知られる東部区間735メートルを除く全ての区間は石造になっています。現在残っている大部分の城壁は朝鮮時代以降に修復されたものです。

  • 城壁の築造に用いられたのは「版築技法」という細土と砂土を交互に積み固める方法と「壁柱建物」よいう地面に穴を掘って柱を細かく立てた後、細土で壁塗りして造った建物は古代中国及び日本との文化交流を通して百済の土木建築技術の発展と伝播が窺えます。

    城壁の築造に用いられたのは「版築技法」という細土と砂土を交互に積み固める方法と「壁柱建物」よいう地面に穴を掘って柱を細かく立てた後、細土で壁塗りして造った建物は古代中国及び日本との文化交流を通して百済の土木建築技術の発展と伝播が窺えます。

  • 城壁を進んでいくと視界が開け錦江の美しい風景が望めました。いくつか架かる橋のうち手前の鉄橋は「錦江橋」というものだそうです。

    城壁を進んでいくと視界が開け錦江の美しい風景が望めました。いくつか架かる橋のうち手前の鉄橋は「錦江橋」というものだそうです。

  • この錦江鉄橋がつくられたのは日本統治時代の1933年で、当時は漢江以南では最も長い橋だったというワーレントラス構造の上弦材をアーチ形状にした、当時としては珍しいものだったようです。

    この錦江鉄橋がつくられたのは日本統治時代の1933年で、当時は漢江以南では最も長い橋だったというワーレントラス構造の上弦材をアーチ形状にした、当時としては珍しいものだったようです。

  • 公山と呼ばれる山は南は公州市街地とつながり、北は錦江の流れに面しています。山地の外郭は南東側を除いてほとんどが急傾斜で、全体が屏風をめぐらしたような天然の要塞となっています。「公山城」は峰を結び、渓谷を横切って城壁を築造することで防衛力を最大化した典型的な防衛用山城だということが分かります。

    公山と呼ばれる山は南は公州市街地とつながり、北は錦江の流れに面しています。山地の外郭は南東側を除いてほとんどが急傾斜で、全体が屏風をめぐらしたような天然の要塞となっています。「公山城」は峰を結び、渓谷を横切って城壁を築造することで防衛力を最大化した典型的な防衛用山城だということが分かります。

  • 錦江は韓国中部を流れる大きな河川で、忠清北道から忠清南道方面へ流れ、黄海へ注ぎます。流域には歴史遺跡が多く、かつて百済の文化が栄えた地域として知られています。

    錦江は韓国中部を流れる大きな河川で、忠清北道から忠清南道方面へ流れ、黄海へ注ぎます。流域には歴史遺跡が多く、かつて百済の文化が栄えた地域として知られています。

  • 黄海へ注ぐ辺りは白村江と呼ばれ、天智2年の663年に百済復興を目指す日本と百済遺民の連合軍と唐と新羅連合軍との間の「白村江の戦い」があった場所です。6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、新羅は二国に圧迫される存在でした。

    黄海へ注ぐ辺りは白村江と呼ばれ、天智2年の663年に百済復興を目指す日本と百済遺民の連合軍と唐と新羅連合軍との間の「白村江の戦い」があった場所です。6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、新羅は二国に圧迫される存在でした。

  • 475年には百済は高句麗の攻撃を受けて首都が陥落します。その後はここ熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都しました。当時の百済は倭国(日本)と関係が深く、また高句麗との戦いに於いて度々援軍を送られています。

    475年には百済は高句麗の攻撃を受けて首都が陥落します。その後はここ熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都しました。当時の百済は倭国(日本)と関係が深く、また高句麗との戦いに於いて度々援軍を送られています。

  • 「公山亭」という扁額を掲げた展望台があるので登ってみました。

    「公山亭」という扁額を掲げた展望台があるので登ってみました。

  • 思った通りここからの眺めが一番美しかったです。午前中船に乗った白馬江もこの錦江の別名です。

    思った通りここからの眺めが一番美しかったです。午前中船に乗った白馬江もこの錦江の別名です。

  • ロータリーには武寧王(ムリョンワン)の像が鎮座していました。日本書紀によると461年に百済王の側室が倭国(日本)に向かう途中に加唐島で武寧王を産んだとされるとガイドさんから説明がありました。

    ロータリーには武寧王(ムリョンワン)の像が鎮座していました。日本書紀によると461年に百済王の側室が倭国(日本)に向かう途中に加唐島で武寧王を産んだとされるとガイドさんから説明がありました。

  • 東城王が501年12月に暗殺された後に首都であったここ熊津で即位しました。武寧王は漢江流域に対する高句麗や靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えています。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表しました。

    東城王が501年12月に暗殺された後に首都であったここ熊津で即位しました。武寧王は漢江流域に対する高句麗や靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えています。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表しました。

  • ロータリーの反対側にある「コムサンソン・ブチュヘルム」という店で「カルグクス」という「手切り麺」の鍋をいただきます。

    ロータリーの反対側にある「コムサンソン・ブチュヘルム」という店で「カルグクス」という「手切り麺」の鍋をいただきます。

  • 大きな鍋に太麺が入り、底には大量のアサリが入っています。さらにイカが2杯、ニラがたくさん乗っています。日本人に馴染みのある海鮮の出汁なのでとても美味しいです。これは4人分なのですが食べ応えありました。

    大きな鍋に太麺が入り、底には大量のアサリが入っています。さらにイカが2杯、ニラがたくさん乗っています。日本人に馴染みのある海鮮の出汁なのでとても美味しいです。これは4人分なのですが食べ応えありました。

  • 公州(コンジュ)は栗が名産なので、ガイドさんのおすすめの栗マッコリを飲んでみました。栗のほのかな甘みがあり、色も栗色をしています。日本では飲めないのではないかなと思います。

    公州(コンジュ)は栗が名産なので、ガイドさんのおすすめの栗マッコリを飲んでみました。栗のほのかな甘みがあり、色も栗色をしています。日本では飲めないのではないかなと思います。

  • 2人だとマッコリは簡単に空いてしまいます。マッコリはここでも5,000ウォンです。

    2人だとマッコリは簡単に空いてしまいます。マッコリはここでも5,000ウォンです。

  • 美味しいので何杯もおかわりしてしまいました。

    美味しいので何杯もおかわりしてしまいました。

  • ガイドさんがここの海鮮チジミが美味しいというので注文してみました。大きさもさることながら海鮮も多くて分厚いです。もちろん美味しかったです。これは15,000ウォンとちょっとお高いです。

    ガイドさんがここの海鮮チジミが美味しいというので注文してみました。大きさもさることながら海鮮も多くて分厚いです。もちろん美味しかったです。これは15,000ウォンとちょっとお高いです。

  • 食後は早めに店を出て、これもガイドさんのおすすめの「ベーカリーパムマウル」に行ってみました。韓国のツアーはこれまでずっと女性のガイドさんでしたが、女性だと美味しいものをいろいろ教えてくれるのがいいですね。

    食後は早めに店を出て、これもガイドさんのおすすめの「ベーカリーパムマウル」に行ってみました。韓国のツアーはこれまでずっと女性のガイドさんでしたが、女性だと美味しいものをいろいろ教えてくれるのがいいですね。

  • 店の厨房には山のような剥き栗と栗のペーストが置かれてあります。ここの栗パイは6個で13,000ウォンなので1個240円ですが、ずっしりと重くなるほど栗ペーストが入っていて、濃厚で美味しかったです。

    店の厨房には山のような剥き栗と栗のペーストが置かれてあります。ここの栗パイは6個で13,000ウォンなので1個240円ですが、ずっしりと重くなるほど栗ペーストが入っていて、濃厚で美味しかったです。

  • これは2日後に食べても美味しかったです。かなりしっかりした箱に入っているのでそのままトランクに入れてあっても崩れたりしませんでした。

    これは2日後に食べても美味しかったです。かなりしっかりした箱に入っているのでそのままトランクに入れてあっても崩れたりしませんでした。

  • さらにその隣にある栗の餅屋にも寄って栗のペーストを餅で包んだものも買ってみました。これは1日で硬くなってしまい、6個9,000ウォンの値段を考えたら栗パイの方がおすすめです。

    さらにその隣にある栗の餅屋にも寄って栗のペーストを餅で包んだものも買ってみました。これは1日で硬くなってしまい、6個9,000ウォンの値段を考えたら栗パイの方がおすすめです。

  • バスに乗ってすぐの距離にある「公州武寧王陵と王陵園」の見学に移ります。

    バスに乗ってすぐの距離にある「公州武寧王陵と王陵園」の見学に移ります。

    宋山里古墳群 (武寧王陵) 史跡・遺跡

  • 熊津百済時代の王の墓が集まっている場所で、「武寧王陵(ムリョンワンヌン)」をはじめ7基の墓があります。宋山(ソンサン)の渓谷を挟んで西側に「武寧王陵」と5・6号墳があり、東北側に1~4号墳があります。「武寧王陵」は1971年に5号6号墳の補修工事の際に発見されました。

    熊津百済時代の王の墓が集まっている場所で、「武寧王陵(ムリョンワンヌン)」をはじめ7基の墓があります。宋山(ソンサン)の渓谷を挟んで西側に「武寧王陵」と5・6号墳があり、東北側に1~4号墳があります。「武寧王陵」は1971年に5号6号墳の補修工事の際に発見されました。

  • 「武寧王陵」は百済第25代の武寧王とその王妃の陵で、三国時代の古墳において被葬者の身元が分かる唯一の王陵です。1971年に5号墳と6号墳の排水施設の工事中に偶然発見され、約1,500年ぶりにその姿を現しました。

    「武寧王陵」は百済第25代の武寧王とその王妃の陵で、三国時代の古墳において被葬者の身元が分かる唯一の王陵です。1971年に5号墳と6号墳の排水施設の工事中に偶然発見され、約1,500年ぶりにその姿を現しました。

  • 「武寧王陵」で発見された「鎮墓獣」のレプリカがお出迎えしてくれます。「鎮墓獣(ちんぼじゅう)」とは墓を守り悪霊(邪)を祓うために副葬された獣形や人面獣身などの木像や陶像のことです。このような像を副葬する習慣は春秋時代にはすでに見られ、漢代を経て唐代で流行して朝鮮半島にも伝わりました。

    「武寧王陵」で発見された「鎮墓獣」のレプリカがお出迎えしてくれます。「鎮墓獣(ちんぼじゅう)」とは墓を守り悪霊(邪)を祓うために副葬された獣形や人面獣身などの木像や陶像のことです。このような像を副葬する習慣は春秋時代にはすでに見られ、漢代を経て唐代で流行して朝鮮半島にも伝わりました。

  • 「武寧王陵」の「鎮墓獣」は韓国で発見された唯一の物だということです。

    「武寧王陵」の「鎮墓獣」は韓国で発見された唯一の物だということです。

  • 「武寧王陵」と「王陵園」は百済熊津都邑期(475年から538年)における王宮の面影が残る錦江南部の丘陵地にあります。元々は約数十基の陵があったそうですが、現在は「武寧王陵」をはじめとする7基の陵のみが整備されています。

    「武寧王陵」と「王陵園」は百済熊津都邑期(475年から538年)における王宮の面影が残る錦江南部の丘陵地にあります。元々は約数十基の陵があったそうですが、現在は「武寧王陵」をはじめとする7基の陵のみが整備されています。

  • 以前は本物の陵墓に入れたようですが、現在は博物館とその中に再現されたレプリカの玄室にしか入ることは出来ません。

    以前は本物の陵墓に入れたようですが、現在は博物館とその中に再現されたレプリカの玄室にしか入ることは出来ません。

  • まずは博物館の見学からスタートします。日本にも古墳はたくさんありますが、内部に入れるところはほぼ無いのでテンションは上がります。一昨年行った韓国の慶州の「天馬塚」など素晴らしかったことが思い出されます。

    まずは博物館の見学からスタートします。日本にも古墳はたくさんありますが、内部に入れるところはほぼ無いのでテンションは上がります。一昨年行った韓国の慶州の「天馬塚」など素晴らしかったことが思い出されます。

  • 「百濟歴史遺跡地区」は韓国中西部の忠清南道、公州の扶余と、全羅北道の益山に点在する百済時代の遺跡群をまとめた世界文化遺産です。2015年にユネスコ世界遺産に登録されました。百済は日本とも深い交流があり、仏教や工芸・建築技術を日本に伝えた国として知られます。この遺跡群はその百済の都や寺院・王陵などを通して、東アジア古代国家どうしの交流を物語るものとされています。

    「百濟歴史遺跡地区」は韓国中西部の忠清南道、公州の扶余と、全羅北道の益山に点在する百済時代の遺跡群をまとめた世界文化遺産です。2015年にユネスコ世界遺産に登録されました。百済は日本とも深い交流があり、仏教や工芸・建築技術を日本に伝えた国として知られます。この遺跡群はその百済の都や寺院・王陵などを通して、東アジア古代国家どうしの交流を物語るものとされています。

  • 百濟の古墳は首都の変化により時代が分けられ、それぞれの地域や時代により墓の特性も変化していきます。武寧王陵と王陵園の古墳群はほとんど石室墳ですが、レンガを使用した技法も導入されました。

    百濟の古墳は首都の変化により時代が分けられ、それぞれの地域や時代により墓の特性も変化していきます。武寧王陵と王陵園の古墳群はほとんど石室墳ですが、レンガを使用した技法も導入されました。

  • 玄室を閉じる際には内部の空気を遮断するために、最後に燈明が灯されました。

    玄室を閉じる際には内部の空気を遮断するために、最後に燈明が灯されました。

  • 入口から現在いる博物館、そしてさらに上に広がる古墳の配置図は分かりやすい写真で説明されています。

    入口から現在いる博物館、そしてさらに上に広がる古墳の配置図は分かりやすい写真で説明されています。

  • 博物館の中には再現された玄室がいくつかあり、その中に実際に入ることが出来ます。それほど広くは無いので閉塞感を感じます。

    博物館の中には再現された玄室がいくつかあり、その中に実際に入ることが出来ます。それほど広くは無いので閉塞感を感じます。

  • 中国天文学では天球を天の赤道帯に沿って東方・北方・西方・南方の四大区画に分け、それぞれに四神(四象)を対応付けました。これらを東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀と呼びます。これは二十八宿を七宿ごとにまとめ、その星座を組み合わせた形を龍・鳥・虎・亀(正確には蛇が亀に絡まっている姿)の4つの動物の姿に見立てたことによります。

    中国天文学では天球を天の赤道帯に沿って東方・北方・西方・南方の四大区画に分け、それぞれに四神(四象)を対応付けました。これらを東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀と呼びます。これは二十八宿を七宿ごとにまとめ、その星座を組み合わせた形を龍・鳥・虎・亀(正確には蛇が亀に絡まっている姿)の4つの動物の姿に見立てたことによります。

  • 埋葬室の壁には粘土を塗り、その上に白塗りの四神を描きました。

    埋葬室の壁には粘土を塗り、その上に白塗りの四神を描きました。

  • 埋葬室には墓誌石が残され、それぞれ「買地券」「王妃墓誌」「干支図」「王墓誌」とあります。「買地券(ばいちけん)」は墓を造るために「地下の土地の所有者」に対して、その土地を買ったことを示す「契約書」のような性格を持つ副葬文書です。中国の道教系の信仰から生まれた習俗で、神や地下の王に対して冥銭を支払い、墓地を正式に購入したという形をとります。

    埋葬室には墓誌石が残され、それぞれ「買地券」「王妃墓誌」「干支図」「王墓誌」とあります。「買地券(ばいちけん)」は墓を造るために「地下の土地の所有者」に対して、その土地を買ったことを示す「契約書」のような性格を持つ副葬文書です。中国の道教系の信仰から生まれた習俗で、神や地下の王に対して冥銭を支払い、墓地を正式に購入したという形をとります。

  • 1971年には公州の巨大な武寧王陵の発掘調査が行われ、108件4,600点の遺物が出土しました。 王陵の内部からは王と王妃の墓誌が刻まれた2枚の石板である「誌石」、それが置かれた「羨道」があり、中国の「五銖錢」も出土しました。 墓誌石の後ろには南を向いている石造の守護動物像が御陵を守っているかのように立っています。

    1971年には公州の巨大な武寧王陵の発掘調査が行われ、108件4,600点の遺物が出土しました。 王陵の内部からは王と王妃の墓誌が刻まれた2枚の石板である「誌石」、それが置かれた「羨道」があり、中国の「五銖錢」も出土しました。 墓誌石の後ろには南を向いている石造の守護動物像が御陵を守っているかのように立っています。

  • 鎮墓獣は中国の後漢時代から見られる角と翼が付いた想像上の動物で墓を守り死者の魂を神仙の世界に導く役割を果たしています。武寧王陵で出土した鎮墓獣は韓国で発見された唯一のもので、頭に角があって、胴体に翼が付いており、口の一部は赤く塗られた辟邪のようです。胴体は角閃石岩で角は鉄で造られています。

    鎮墓獣は中国の後漢時代から見られる角と翼が付いた想像上の動物で墓を守り死者の魂を神仙の世界に導く役割を果たしています。武寧王陵で出土した鎮墓獣は韓国で発見された唯一のもので、頭に角があって、胴体に翼が付いており、口の一部は赤く塗られた辟邪のようです。胴体は角閃石岩で角は鉄で造られています。

  • 王と王妃の遺体は木棺に安置され、木棺の破片の下からは「金製冠飾」、「金製耳飾」、「金銀の腰帯」、「金銅靴」、「銀製腕輪」など王と王妃が使っていた数多くの装飾品と副葬品が発見されました。王の腰の周辺からは王の統治権を象徴する龍と鳳凰で飾られた「大刀」が見つかりました。王と王妃の頭を支えていた枕と足座は木棺の前に置かれていました。他にも「青銅鏡 三面」と「承台付有蓋銅鋺(銅托銀盞)」などが出土しました。

    王と王妃の遺体は木棺に安置され、木棺の破片の下からは「金製冠飾」、「金製耳飾」、「金銀の腰帯」、「金銅靴」、「銀製腕輪」など王と王妃が使っていた数多くの装飾品と副葬品が発見されました。王の腰の周辺からは王の統治権を象徴する龍と鳳凰で飾られた「大刀」が見つかりました。王と王妃の頭を支えていた枕と足座は木棺の前に置かれていました。他にも「青銅鏡 三面」と「承台付有蓋銅鋺(銅托銀盞)」などが出土しました。

  • 「金製冠飾(王)」<br />武寧王の頭付近から1組が重なった状態で発見されました。「三国志記」には「28年春に正月元旦に…、金花で少食を施した黒い烏羅冠を被り…、南堂に座って政治を執り行った。」という記載があります。「金花」がこの冠飾で、文様は火花のようにダイナミックで華やかです。金板を薄く伸ばした後に文様を切り抜き、瓔珞を付けています。金の含有量は99.1%だそうです。

    「金製冠飾(王)」
    武寧王の頭付近から1組が重なった状態で発見されました。「三国志記」には「28年春に正月元旦に…、金花で少食を施した黒い烏羅冠を被り…、南堂に座って政治を執り行った。」という記載があります。「金花」がこの冠飾で、文様は火花のようにダイナミックで華やかです。金板を薄く伸ばした後に文様を切り抜き、瓔珞を付けています。金の含有量は99.1%だそうです。

  • 「金製装飾(王)」<br />王の頭付近から銅鏡と重なった状態で出土しました。真ん中には宝珠形または蓮花の蕾の形をした頭が付いており、その下は2枚の翼を広げたような逆三角形の胴体になっています。下部は鳥の尻尾のよう3本に分かれて伸びています。裏面からの打ち出し模様を浮き彫りにし、上部には花びらを、下部には忍冬唐草文を刻んでいます。

    「金製装飾(王)」
    王の頭付近から銅鏡と重なった状態で出土しました。真ん中には宝珠形または蓮花の蕾の形をした頭が付いており、その下は2枚の翼を広げたような逆三角形の胴体になっています。下部は鳥の尻尾のよう3本に分かれて伸びています。裏面からの打ち出し模様を浮き彫りにし、上部には花びらを、下部には忍冬唐草文を刻んでいます。

  • 「金製頸飾(王妃)」<br />王妃の冠飾付近から出土しました。7本の金製棒をつなげたもので「七節頸飾」とも呼ばれています。1本の金製棒の長さは約6センチで多面的に角ばり棒の両端にはつなげるための紐のように長く伸ばした丸い環があります。新羅や伽耶地域では見られない百済特有の特徴を持った首飾りです。

    「金製頸飾(王妃)」
    王妃の冠飾付近から出土しました。7本の金製棒をつなげたもので「七節頸飾」とも呼ばれています。1本の金製棒の長さは約6センチで多面的に角ばり棒の両端にはつなげるための紐のように長く伸ばした丸い環があります。新羅や伽耶地域では見られない百済特有の特徴を持った首飾りです。

  • 「金製耳飾(王)」<br />王の頭付近から一組が発見されました。大きな環に2本の垂飾りをつけた形になっています。1本は先端に大小の心葉形の装飾を付け、円筒状の中間飾りを付けています。もう1本は小さな環を張り合わせて作った球形の装飾5個つなげ、先端には勾玉を付けています。

    「金製耳飾(王)」
    王の頭付近から一組が発見されました。大きな環に2本の垂飾りをつけた形になっています。1本は先端に大小の心葉形の装飾を付け、円筒状の中間飾りを付けています。もう1本は小さな環を張り合わせて作った球形の装飾5個つなげ、先端には勾玉を付けています。

  • 「金製耳飾(王妃)」<br />大きな環は半円状の金板を張り合わせたもので中は空洞です。連結環には金製鎖で2本の垂飾りをつなげ、木の葉の形をした瓔珞を付けています。短い垂飾りには上部に青緑色の瑠璃玉を通し、下部にペン先状の装飾を施しています。長い垂飾りの先端には約3センチの弾丸上の装飾があります。

    「金製耳飾(王妃)」
    大きな環は半円状の金板を張り合わせたもので中は空洞です。連結環には金製鎖で2本の垂飾りをつなげ、木の葉の形をした瓔珞を付けています。短い垂飾りには上部に青緑色の瑠璃玉を通し、下部にペン先状の装飾を施しています。長い垂飾りの先端には約3センチの弾丸上の装飾があります。

  • 「頭枕(王妃)」<br />木材の上部を真中から半円状に切り欠き、頭部を固定するように造られています。表面には天然鉱物である辰砂で赤く塗り、截金で亀甲型に縁取り装飾を施しています。亀甲模様の中には墨と白い顔料で天人や蓮花、マカラなどが描かれています。その図像は蓮花の蕾から生まれた童子が神仙になるという「蓮花化生」です。鳳凰の形をした装飾は元々枕の上部に置かれていたものと考えられます。

    「頭枕(王妃)」
    木材の上部を真中から半円状に切り欠き、頭部を固定するように造られています。表面には天然鉱物である辰砂で赤く塗り、截金で亀甲型に縁取り装飾を施しています。亀甲模様の中には墨と白い顔料で天人や蓮花、マカラなどが描かれています。その図像は蓮花の蕾から生まれた童子が神仙になるという「蓮花化生」です。鳳凰の形をした装飾は元々枕の上部に置かれていたものと考えられます。

  • 「武寧王頭枕」<br />木材の上部を真中から半円状に切り欠き、頭部を固定するように造られています。王妃の辰砂とは違いこちらは漆黒の漆塗りのようです。その上に金の切り板で亀甲文と瓔珞の装飾が施されています。同じデザインの足を置く枕もありました。

    「武寧王頭枕」
    木材の上部を真中から半円状に切り欠き、頭部を固定するように造られています。王妃の辰砂とは違いこちらは漆黒の漆塗りのようです。その上に金の切り板で亀甲文と瓔珞の装飾が施されています。同じデザインの足を置く枕もありました。

  • 「環頭大刀」<br />丸い環状の柄頭を持つ剣は三国時代の墓から出土し、最高権力者の権威を示す品です。先端の装飾には龍、柄頭には鳳凰が刻まれています。同じ百濟の支配地域で出土した同種の剣の中でも最も精巧に造られたものです。

    「環頭大刀」
    丸い環状の柄頭を持つ剣は三国時代の墓から出土し、最高権力者の権威を示す品です。先端の装飾には龍、柄頭には鳳凰が刻まれています。同じ百濟の支配地域で出土した同種の剣の中でも最も精巧に造られたものです。

  • 「武寧王」<br />武寧王は第25代の百済の王で在位501年から523年で、名前は斯麻、又は隆。<br />「三国史記」によると百済第24代東城王の二男で、「日本書紀」によると倭の加唐島生まれ、暗殺された東城王の後を継ぎ40歳で即位し、高句麗に攻められて滅亡寸前の百済を建て直し、民生安定、国力伸長の成果を挙げた百済中興の王とされます。外交も積極的に行い、中国の先進文物を取り入れ、日本には先進文物を伝え、<br />その見返りに日本から軍事力の支援を受けるなど名君であったといわれます。

    「武寧王」
    武寧王は第25代の百済の王で在位501年から523年で、名前は斯麻、又は隆。
    「三国史記」によると百済第24代東城王の二男で、「日本書紀」によると倭の加唐島生まれ、暗殺された東城王の後を継ぎ40歳で即位し、高句麗に攻められて滅亡寸前の百済を建て直し、民生安定、国力伸長の成果を挙げた百済中興の王とされます。外交も積極的に行い、中国の先進文物を取り入れ、日本には先進文物を伝え、
    その見返りに日本から軍事力の支援を受けるなど名君であったといわれます。

  • 玄室を形成するレンガについても詳しく説明がありました。

    玄室を形成するレンガについても詳しく説明がありました。

  • 墓室はレンガのような「塼」を積み上げて築かれています。塼積み墳は中国南朝に多く、その影響で構築されたと考えられます。塼には蓮の花の文様などがみられます。玄室の長さ4.20メートル、幅2.72メートル、高さ2.93メートルです。羨道が玄室中央に取り付く両袖式の墓室になっています。

    墓室はレンガのような「塼」を積み上げて築かれています。塼積み墳は中国南朝に多く、その影響で構築されたと考えられます。塼には蓮の花の文様などがみられます。玄室の長さ4.20メートル、幅2.72メートル、高さ2.93メートルです。羨道が玄室中央に取り付く両袖式の墓室になっています。

  • 「塼室墓 (せんしつぼ)」<br />死者を埋葬するときに「塼」を用いて墓室を構築したもので、中国では前漢時代の中原地方で貴重な木材にかえて「空心塼」という粘土板を箱形に貼りあわせて板や柱の形につくる大型塼を組み立てた墓室が多く造られました。前漢中期以降は地上の居室と同じような空間を地下につくる意図が流行し、墓室の空間が拡張していきます。

    「塼室墓 (せんしつぼ)」
    死者を埋葬するときに「塼」を用いて墓室を構築したもので、中国では前漢時代の中原地方で貴重な木材にかえて「空心塼」という粘土板を箱形に貼りあわせて板や柱の形につくる大型塼を組み立てた墓室が多く造られました。前漢中期以降は地上の居室と同じような空間を地下につくる意図が流行し、墓室の空間が拡張していきます。

  • 「小塼」は煉瓦のような長方塼で、ドーム式やアーチ式の高い天井を築くことが可能であることから中国全域に普及し、以来近世まで墓の構造材として長く使われました。燈明を灯した壁龕に心惹かれてしまいます。

    「小塼」は煉瓦のような長方塼で、ドーム式やアーチ式の高い天井を築くことが可能であることから中国全域に普及し、以来近世まで墓の構造材として長く使われました。燈明を灯した壁龕に心惹かれてしまいます。

  • 生まれた後のお食い初めでは曾祖母が誂えてくれた家紋入りの陶器出迎え、結婚式も同じデザインの睦揃えを式場に持ち込で使いました。残るは骨壺を造らなければと思っています。同じ京都の叔父に製作を頼もうと思っているのですが、あまり早く造るのは良くないと言われています。京都の場合は骨壺はお骨を全部入れないので小さいのですが、東京だと全部入れるので大きくなり高くなりそうです。

    生まれた後のお食い初めでは曾祖母が誂えてくれた家紋入りの陶器出迎え、結婚式も同じデザインの睦揃えを式場に持ち込で使いました。残るは骨壺を造らなければと思っています。同じ京都の叔父に製作を頼もうと思っているのですが、あまり早く造るのは良くないと言われています。京都の場合は骨壺はお骨を全部入れないので小さいのですが、東京だと全部入れるので大きくなり高くなりそうです。

  • 博物館を見学した後は整備された古墳公園を散策します。

    博物館を見学した後は整備された古墳公園を散策します。

  • こんんア芝生の丘がいくつか続いていますが、現在は玄室に入ることは出来ません。さらに奥の方は工事中だったのでちょっと遠めに覗くだけになりました。

    こんんア芝生の丘がいくつか続いていますが、現在は玄室に入ることは出来ません。さらに奥の方は工事中だったのでちょっと遠めに覗くだけになりました。

  • 奥まで行っても同じような芝生の丘が見えるだけのようです。日本にも膨大な数の円墳や前方後円墳がありますが、一部を除いて発掘が進められないのだろうかと思います。

    奥まで行っても同じような芝生の丘が見えるだけのようです。日本にも膨大な数の円墳や前方後円墳がありますが、一部を除いて発掘が進められないのだろうかと思います。

  • 再び錦江を渡ると右手に「公山城」がきれいに見渡せました。次は「椒井行宮」の見学に移ります。

    再び錦江を渡ると右手に「公山城」がきれいに見渡せました。次は「椒井行宮」の見学に移ります。

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