2026/03/17 - 2026/03/17
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fmi(ふみ)さん
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今や「スバル」の企業城下町、群馬県太田市。戦国時代は新田氏所縁の地であり、徳川家康が「徳川発祥の地」と定めた街。
だが、それ以上に、我が国の航空産業発祥の地であり、戦前は一大軍需産業で栄え、そして戦後、自動車メーカーとして復興した。
そもそも、「スバル」の前身富士重工は、ここ、大田で生まれた中島知久平氏が、ここ太田に創業した「中島飛行機」が祖である。隼、鍾馗、疾風... 名立たる太平洋戦争の名機がここで生まれたのだ。
その中島飛行機が開発した飛行機に「百式重爆呑龍」がある。双発の大型機。その「呑龍」の由来が、ここ、太田にある大光院の通称「呑龍さま」に由来し、そして、中島知久平氏が初めて本格的な飛行機工場を創業したのが、その大光院のすぐ隣であることは意外に知られていない。
私の父祖は群馬の出身、そして、陸軍将校だった伯父の愛機であり墓標は中島キ43一式戦隼。「呑龍」の由来と隼が生まれた地を見るために、絹の国東毛、太田を訪れた。暖かい、快晴の日だった。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- タクシー 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
. 「俺の財産は土地でも金でもない。一人あたり何万という価値を持つ技術者を、40人も50人も持っている。それが唯一の財産だ。その財産は放っておいてもどんどん価値が増えるのだよ」
--スバル創業者、中島知久平の言葉-- -
群馬・栃木の両毛地区へ行く場合は、やはり東武特急「りょうもう」が便利、朝8時50分に北千住を出る「りょうもう」号で太田まで往く。
特急だと北千住から太田までは1時間20分。北千住駅 駅
-
「りょうもう」号は平日のビジネス利用客が主で、荷物を抱えた外国人観光客が多く乗車する日光線特急とは対照的。北千住だけでなく東武動物公園や久喜からも乗車があり、車内の半分以上の座席は埋まった。
特急 りょうもう 乗り物
-
やや遅れて高架の太田駅に到着。これから向かう北側の大光院へは、バスなどは無く、レンタサイクルかタクシーで行くことになる。
富士スバルの事業所が市内に点在し、結構ビジネスマンも多く降車するためか、タクシーの利用も多い。タクシーを捕まえる場合は、北口より南口で待った方が良い。
南口は市役所などがある。東武鉄道上毛のジャンクション。規模の大きな駅 by fmi(ふみ)さん太田駅 駅
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まず立ち寄ったのが、太田駅から北へ2.4kmほど行った金龍寺を訪れた。
太田の北にそびえる古城で有名な新田金山の麓、海抜80m。
紅葉の名所で新田家の供養塔がある。
正式には太田山金龍寺で曹洞宗の禅寺。金龍寺 寺・神社・教会
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七福神がずらずらと。
中島飛行機、今のスバルが創業する前は、太田と言えば、新田義貞であった。
新田義貞は清和源氏で南北朝期の武将。鎌倉幕府打倒の貢献者。ここで挙兵後、鎌倉北条軍をおいつめ、最後は稲村ケ崎から鎌倉に突入。北条一門を自害に追い込んだ。時に1333年。
しかし、太田の隣町、栃木県足利市を発祥とする足利尊氏と対立、南北朝時代は南朝側につき、幾度と戦いを繰り広げ(神戸湊川が有名)最期は福井県で戦死。
徳川幕府は新田氏の末裔を自任してたので、江戸時代には手厚く供養され、また明治時代も皇族の忠臣として楠木正成と共に高く評価された。 -
東武、太田駅北口にある新田義貞、脇屋義助象。
新田公の像は、騎乗像が遠く東京都府中市分倍河原駅にも存在する。
新田氏ゆかりの地、というより、江戸時代の太田は宿場町であり、また後述する「呑龍様」の方が有名であった。
また、太田は比較的早く鉄道も開通し、明治期の1909年には東武鉄道が浅草から太田駅まで開業していた。両毛地方は多摩や北総と違い、絹の生産が江戸時代から盛んだったため、両毛線や水戸線などの開業も早かった。 -
金龍寺から新田氏の居城金山を望む。
なお、太田市は群馬県であるが、隣の足利市は栃木県である。また、それより東京に近い館林市は群馬県である。両毛地区はこのあたり結構ややこしい。桐生市やみどり市も群馬県だが、その先の足尾は栃木県日光市。 -
道を南下し、太田の昔からの名刹、「呑龍様」こと「大光院」へ向かう。
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「呑龍様」
正式には義重山大光院新田寺。浄土宗のお寺。
1613年に、徳川家康の命により幕府が天下泰平を願いここにお寺を創建したのがはじまり。
徳川氏は新田氏の子孫を自認しており、その新田氏を祀ることも目的としている。
そして、このお寺の初代住職として、芝増上寺で修業した仏僧が招かれた。それが「呑龍上人」である。大光院(呑竜さま) 寺・神社・教会
-
イチオシ
木蓮の花と大光院開山堂。呑龍上人を祀る。
「呑龍様」と慕われたのは初代住職の功徳による。
俗に「子育て呑龍」と呼ばれた呑龍上人は、その名の通り、身寄りのない子供や、「間引き」に会いそうな子供を引き取り養育した。
中には「孝行」のために禁を犯した子供もかくまい科が及んだこともあるという(赦免されたが)。
そういった「仁」と「義」に生きた上人は、まさに「絹の国」の人々と相性が良く、上毛の賢人に相応しい人物である。
そして、同じく、太田出身で、いかにも絹の国人に相応しい「仁義」の人物が、この呑龍のお寺ともなじみがある、これから紹介する人物。
富士スバルの創始者、中島飛行機の創業者である、「中島知久平」である。 -
梵鐘。
スバル創業者、中島知久平は、1984年、現在の太田市押切の農家に生まれ、1907年海軍機関学校を卒業、海軍少尉に任官した職業軍人だった。
1903年アメリカで「ライトフライヤー」が初めて飛んだばかりの飛行機黎明期でありながら、当時から中島氏は飛行機に強い興味を持っていた。1912年には早くも米国出張と同時に飛行機の操縦免状を取得した。
中島氏はこの頃既に、「飛行機に魚雷を積んで敵艦を攻撃する」、雷撃機の構想を描いていた。1914年に第一次世界大戦で飛行機が実戦に利用される前である。第二次世界大戦で雷撃機が華々しく緒戦を飾ることを考えると、その先見の明に感嘆する。
さすがに当時は荒唐無稽と海軍でもまじめに採用は去れなかったようだが、早くも大正期の1916年には中島設計の複葉水上機が海軍工廠で製作、採用されるなどしました。 -
大光院本堂
さて、中島知久平氏とここ、大光院の関係です。
中島氏が属する帝国海軍は日本海会戦の成功体験もあり、当時は飛行機に消極的、いや発明国の米国さえ積極的とは言い難い、一次大戦で活躍したのもドイツのフォッカー機などでした。
何より中島は軍工廠で飛行機を製作するのではなく、民間工場で技術を磨き大量に飛行機を製造することを当時から考えていました。間違いなく、中島が目指したのは、アメリカのグレン・カーチスや英国のトーマス・ソッピース、ドイツのアントニー・フォッカーでした。
1917年、中島は決意します。軍を退役し、故郷に飛行機工場を創ることにしたのです。
資金集めには当時航空士官だった大西瀧治郎も協力、大西は中島と一緒に軍を辞めるつもりでいたそうです。辞めていれば、彼は1945年に自決する事もなかったでしょう。中島の「航空機で軍艦を撃沈する」構想は、大西が最悪の形で、太平洋戦争末期に実行するからです。
その中島が、工場の場所に選んだのが、ここ、大光院のすぐそば.... -
現在も、「呑龍様」のすぐ東隣に、広い敷地を有する「スバル太田北工場」
この工場こそ、中島飛行機創業の地なのです。
1917年、中島はここの土地で操業を開始しました。創業時の従業員は数十人程度、中島氏本人も、この工場に住み込み飛行機の設計にかかりきり、まさに家族経営的な工場だったそうです。
人呼んで、「呑龍工場」、大光院のすぐそばに、その境内の2倍以上の敷地の工場があるのだから目立ちます。そこは、太田市の新しい新名所となりました。
飛行機開発はすぐに軌道にのったわけではありませんでした。
「札はだぶつく、お米はあがる、何でもあがる、あがらないぞい、中島飛行機」
などと太田の住民が戯れ唄にする状況でした。しかし、絹の民らしく剛毅で合理的な中島氏はくじけません。1919年に中島5型の飛行に成功、陸軍からの受注にこぎつけます。
「自分は単に飛行機を作っているのではない、日本の翼を作っているのだ」と中島は言います。
「三菱が組織なら中島は人だ」、そう中島出身の技師、糸川英夫が言う通り、中島飛行機に有力な人材が集まってきます。 -
イチオシ
かつての「呑龍工場」、今のスバル太田北工場の正門。
現在も自動車の部品製造などを行っています。
中島知久平は、遅刻に対しては厳しかったと言いますが、定時で出勤した後は、職員や技術者が何をしていても構わない、という自由放任的な態度でのぞみました。
「植木屋は煙草を吹かしながら、半日以上何もせず、ただ空を眺めている。あの枝はどういう形にしたらよいかを考えているのだ。朝から晩までハサミをただ動かしているようでは、よい植木屋とはいえない」
中島の自由放任主義は、決して無定見ではなくおおらかでもありました。
そこに、養蚕でつちかった、豪放無頼であり商人気質な合理性を持った、上州人の気性を感じます。 -
百式重爆「呑龍」模型、1939年に中島飛行機が初めて製作した本格的な双発爆撃機です。
呑龍工場と「大光院」からその名をとった飛行機で、気象や鳥の名が多い旧日本軍の飛行機としては珍しい名前です。
この飛行機の設計者はその後、名機「隼」「疾風」を開発する小山悌でした。
他に、戦後、中島飛行機を「富士重工」として再出発させ、今の「スバル」の中興の祖となった小谷武夫。
飛行機エンジン「栄」の開発者で戦後は国際キリスト大学の祖となり、トヨタクラウンに技術的流れを続ける佐久間一郎。
戦後プリンス自動車で名車「スカイライン」をy手掛けた新山春雄と中川良一など、珠玉の技術者が中島の下で育ち、戦後我が国の基幹産業となった自動車産業を支えました。特に中川氏のエンジン開発技術は、その後新幹線の開発にも活かされました。
その中島の技術者の中でも戦後ロケットの父と呼ばれた人がいました。 -
糸川英夫、その人こそ、戦後東大教授となり、ロケットの開発に心を注いだ中島出身の技術者です。
画像は、東京上野の科学博物館屋外に展示されている、糸川が開発したロケットです。現在のH3まで続く国産ロケットの始まりでした。
糸川も、「隼」の設計に携わった技師でした。 -
大光院の真南にある、「吉祥門」。
大坂の陣勝利を記念して建立したと聞く。文化財指定。
小山梯が技師長に就任し、陸軍からの発注も増え、初の国産独自の戦闘機九一式戦を陸軍に納入するなど、中島飛行機は順調に業績を伸ばします。
こうなると「呑龍工場」は手狭になってきました。
そのため、昭和9年、同じ太田市内の東武鉄道太田駅のすぐ北東の平地に、巨大な新しい工場を建設、完成しました。
同時期に、近隣の小泉町や、遠く東京都の杉並区にも工場を建設しました。
以降は、太田本工場と呼ばれる新しい工場で主に飛行機を生産します。 -
東武線太田駅前から俯瞰した、新たに昭和に完成した中島飛行機太田工場。
現在のスバル群馬製作所本工場。現在でも広大な敷地が東武線の車窓から見えます。従業員は4000人を超え、レヴォーグやインプレッサというスバルの代表的な乗用車を製造しています。
戦前から戦中は、ここで、主に陸軍向け飛行機を生産しました。
名機と呼ばれる、97式戦闘機、一式戦闘機隼、二式戦闘機鍾馗、四式戦闘機疾風などは、ここで製造されました。
さらに昭和13年になると、現在の東京都武蔵野市にも工場が設立。
その様な状況で日本は太平洋戦争に突入しました。太田市美術館・図書館 美術館・博物館
-
「呑龍様」大光院には、立派な戦没者慰霊費もあります。
戦争がはじまり、マリアナが陥落すると、そこを基地にした米陸軍は、日本各地にB29による空爆を開始します。
飛行機工場のある太田市は当然ながら米軍の最優先攻撃目標となり、1945年2月10日を最初に、8月14日まで6回にわたって大規模な空襲を受けます。
その時は工場を市内や周辺に分散したこともあり、太田市の中心地は比較的空襲の被害は軽かったのですが、工場周辺の地域は爆撃の惨禍により、延べ160人もの犠牲者を出しました。
2月10日の空襲では当時としては珍しく、空襲の映像が残っているそうです。実際見たところ、V字変態を組むB29と2式戦屠龍や疾風とみられる機体が迎撃に向かう様子、そして撃墜され墜落するB29が映っていました。
この日の空襲では、B29が2機撃墜され、近隣の群馬県邑楽町に墜落、搭乗員23人は全員死亡しました。その慰霊碑も現地にあるそうです。
度重なる空襲で、中島工場は施設の8割が破壊され、100人以上の犠牲者を出しました。 -
戦争が終わり、米軍が進駐すると、太田の工場も進駐軍に一度接収され、中島飛行機は「財閥解体」の対象にされ、幾つもの会社に細分化されます。中島知久平氏本人は戦前戦中に代議士を勤め大臣経験もあったことから戦犯に指定されます。幸いにも2年後に戦犯解除となりますが、その数年後、1949年に中島知久平氏は病没します。
そもそも、中島氏は米国のカーチス社を視察した際、フォード式ライン生産に驚きそれを自社で採用するなど米国の国力を詳しく把握しており、太平洋戦争には反対の立場でした。また、B29のような「戦略爆撃構想」も早くから正しく理解しており、日本の敗戦を予測していました。大正時代にある程度進んでいた民本主義の立場から翼賛政治にも反対の立場で、それに対抗する勢力を模索していたほどです。 -
中島を代表する戦闘機(模型)、手前が四式戦疾風、奥のまだら迷彩が一式戦隼です。
この名機を開発した小山梯氏は、戦後は航空はもちろん、多くの航空技術者が移った鉄道技師(その成果が新幹線である)にもならず、林業機械の製造に腐心します。
「われわれ中島の技術者は国家の存亡ということで必死に飛行機を設計し生産してきた。しかし、その飛行機により尊い若者の命が奪われたことは間違いのない事実である。過去の飛行機を美化するようなことは決してするまい」
そう語り、それ以上、多くを語らなかったと言います。
ゼロ戦の堀越二郎や坂井三郎と違い、中島と陸軍関係者は、そういう人が多いのです。かくいう私の家系も、伯父が二人軍人、軍属として出征し、復員しましたが、戦争については一切何も語りませんでした。
「本当の意味で教育を碌に受けてない人に限って、戦地自慢をするものなんだ」、根っからの上州人である私の父親がはっきりそう言っています。
多くを語らず。仁義と合理に生きる上州の人は、そういう人なのです。 -
群馬も、ようやく花が咲く季節になったようだ。
戦後、中島は富士重工を名乗り自動車メーカーとして再出発し、多くの中島出身の技術者が、スカイラインやクラウンと言った名車を創り、さらには、新幹線、そしてロケットの開発で大きな花を咲かせたことは先述しました。
太田には今も、「スバル」の大きな工場が、街を見守っています。
「何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ」
中島知久平氏の名言です。この言葉は、富士重工、スバルに引き継がれました。
単なる精神論ではなく、生きるための合理的な精神論です。 -
イチオシ
太田市のさらに駅近くの小山に鎮座する、高山神社。標高74m。
江戸後期、太田で育った武士であり尊王思想家であった、高山彦九郎を祭神に祀っている神社。
明治11年に地元有志の働きかけにより創建された。
太田駅から800mほど北東にある。高山神社 寺・神社・教会
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残念ながら、10年ほど前に放火で社が全焼してしまった。
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太田市を南北に通る「平和通り」。
自動車産業として再出発し、復興した太田を象徴する名前だ。 -
太田駅に戻ってきた。
駅北口目の前にある、太田市立図書館。
太田の名建築「さざえ堂」をモデルにした構造で、屋上は展望台になっている。太田市美術館・図書館 美術館・博物館
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図書館屋上から見た太田駅全景
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太田市の街並みと金山。
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太田市街頭部で、街を見守る「スバル本社」と「スバル群馬工場」。
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スバル本社。
太田市はスバルの城下町として、人口22万(群馬県第三位)を擁する産業都市、それは現在も変わりません。
中島知久平の遺産は、我が国の要の産業、自動車産業をはじめ今も大きく育っているのです。 -
最後に。
中島飛行機と、それを代表する技術者に由来した宇宙探査機を紹介します。
上野の国立科学博物館に模型が飾られている、その名も「はやぶさ」。
その名は日本ロケットの父、糸川氏にちなみ一式戦闘機「隼」にちなんだことは間違いありません。この機体が目指した小惑星の名は「イトカワ」。
2010年に地球に帰還したことで有名になり映画も作られました。 -
太田駅で帰りの列車を待つ。
「はやぶさ」の奇跡は皆さんもご存じだと思います。幾多のトラブルに見舞われ、一時は位置を見失い宇宙の迷子にまでなりましたが、JAXAの技術者の不撓不屈の努力により、満身創痍になりながらも地球に帰還し、そして、私たちに数粒の小惑星のかけらを持って帰ってきました。
「その帰路に 己れを焼きし はやぶさの
光輝かに明かるかりしと」 (上皇后陛下御唄)東武鉄道上毛のジャンクション。規模の大きな駅 by fmi(ふみ)さん太田駅 駅
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「何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ」
その中島知久平の教えの通り逆境に屈せず、最後まであきらめない、その大切さを体現した奇跡が「はやぶさ」でした。
そのことを思い出し、太田を後にするのでした。
最後に、中島飛行機と、我が北総佐倉の関りを紹介します。
飯沼金太郎という、佐倉市出身のパイロットがいました。大正の頃に太田に出張した際、中島知久平氏と出会います。
その後飛行機事故で、パイロットとしては引退しますが、中島氏の援助を受け、昭和初期に航空機学校を設立します。昭和39年に病没しますが、民間航空の功労者としてその名が残っていることは、地元佐倉でもあまり知られていません。
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