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 地元の房総を巡る再発見の旅。シリーズ2回目は、地元であり、行政でも深くかかわってきた北総、特に成田市を中心に郷土の歴史を主題に歩いてみました。<br /> とあるトラベラーさんの旅行記で、「光と影は表裏一体である」という一文と、そして、あえて「影」の部分を「隠さず」、むしろ主題とした旅行記に私は心を動かされました。<br /> 「観光」とは「光」ばかりではない、時には「観影」ともいうべき、影の部分も見つめ、そこに光を当てることも必要であると言う点で、私も共感します。<br /> 「負の遺産」というもの、それは古今東西関係なくどこにでも存在しています。それでは、我が郷土北総にも、負の遺産、歴史の「影」があるのでしょか。<br /> あります。今回は、そのうち、2つの「影」を取り上げます。<br /> 「義民佐倉宗吾」と、「成田闘争」です。どちらも北総、佐倉、そして成田の歴史を語るうえで外すことの出来ないものです。<br /> トラベラーの皆さんも利用されることが多い成田空港の「影」、私自身が行政で長く関わった佐倉の「影」。<br /> それでは歴史を旅しましょう。

房総花紀行.2--成田、郷土史の「光と影」-

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2022/04/08 - 2022/04/12

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旅行記グループ 房総花紀行

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fmi(ふみ)

fmi(ふみ)さん

この旅行記スケジュールを元に

 地元の房総を巡る再発見の旅。シリーズ2回目は、地元であり、行政でも深くかかわってきた北総、特に成田市を中心に郷土の歴史を主題に歩いてみました。
 とあるトラベラーさんの旅行記で、「光と影は表裏一体である」という一文と、そして、あえて「影」の部分を「隠さず」、むしろ主題とした旅行記に私は心を動かされました。
 「観光」とは「光」ばかりではない、時には「観影」ともいうべき、影の部分も見つめ、そこに光を当てることも必要であると言う点で、私も共感します。
 「負の遺産」というもの、それは古今東西関係なくどこにでも存在しています。それでは、我が郷土北総にも、負の遺産、歴史の「影」があるのでしょか。
 あります。今回は、そのうち、2つの「影」を取り上げます。
 「義民佐倉宗吾」と、「成田闘争」です。どちらも北総、佐倉、そして成田の歴史を語るうえで外すことの出来ないものです。
 トラベラーの皆さんも利用されることが多い成田空港の「影」、私自身が行政で長く関わった佐倉の「影」。
 それでは歴史を旅しましょう。

旅行の満足度
3.5
観光
4.0
グルメ
3.5
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • .....   「私たち成田市民は、いつも力なく黙って見てきました。しかしこれだけはどうしても言おうと思います、<br /><br /> --政府・空港公団も反対同盟もお互い人間のつどいです。<br />  人間なら話し合いをしてください--<br /> --力と力の対決をいつまでもくり返さないでください--<br /> --もう暴力をふるわないでください。<br />  成田を安心して住める街にしてください--」<br /><br />    ..昭和五十三年五月十日 社団法人 成田青年会議所..

    ..... 「私たち成田市民は、いつも力なく黙って見てきました。しかしこれだけはどうしても言おうと思います、

     --政府・空港公団も反対同盟もお互い人間のつどいです。
      人間なら話し合いをしてください--
     --力と力の対決をいつまでもくり返さないでください--
     --もう暴力をふるわないでください。
      成田を安心して住める街にしてください--」

       ..昭和五十三年五月十日 社団法人 成田青年会議所..

  •  「話し合う」ことは人間社会としてごく当たり前のことですが、それを忘れたために起きた大きな事件が成田には二つあると思います。<br /><br /> 4月8日朝、まず京成電車で、宗吾参道駅に到着。最初に向かうは真言宗鳴鐘山東勝寺。<br /> 通称、「宗吾霊堂」。

     「話し合う」ことは人間社会としてごく当たり前のことですが、それを忘れたために起きた大きな事件が成田には二つあると思います。

     4月8日朝、まず京成電車で、宗吾参道駅に到着。最初に向かうは真言宗鳴鐘山東勝寺。
     通称、「宗吾霊堂」。

    宗吾参道駅

  • 駅から宗吾霊堂までは1キロちょっと。そこまで参道が伸びている。<br />駅前踏切から東に参道を進む。登り坂の1.5車線の細いが整備された道。坂を登りきると県道に突き当たる。<br />京成の宗吾参道駅、昭和後期に車両基地がここに移転し高校も開設されてるので学生中心に利用者が多い。平成の頃まで「ちびっ子天国」という屋外プールがあって夏場はにぎわったが閉鎖された。<br />宗吾霊堂は成田市にあるが、市境が近く、京成の駅は印旛郡酒々井町にある。<br />写真の参道に小さな山門があるのが見えるが、その先の坂のあたりで市境を越える。<br />

    駅から宗吾霊堂までは1キロちょっと。そこまで参道が伸びている。
    駅前踏切から東に参道を進む。登り坂の1.5車線の細いが整備された道。坂を登りきると県道に突き当たる。
    京成の宗吾参道駅、昭和後期に車両基地がここに移転し高校も開設されてるので学生中心に利用者が多い。平成の頃まで「ちびっ子天国」という屋外プールがあって夏場はにぎわったが閉鎖された。
    宗吾霊堂は成田市にあるが、市境が近く、京成の駅は印旛郡酒々井町にある。
    写真の参道に小さな山門があるのが見えるが、その先の坂のあたりで市境を越える。

  • 突き当たった県道を右(北)に曲がり進むと、すぐにまた丁字路に突き当たる。ちょうど突き当りの奥が、宗吾霊堂である。<br />霊堂の周囲はちょっとした門前町になっていて、料理店や旅館がある。

    突き当たった県道を右(北)に曲がり進むと、すぐにまた丁字路に突き当たる。ちょうど突き当りの奥が、宗吾霊堂である。
    霊堂の周囲はちょっとした門前町になっていて、料理店や旅館がある。

  • 鳴鐘山東勝寺、宗吾霊堂の門前。<br />手前の道(国道464号)は左(西)へ行くと、印西、千葉ニュータウンへ向かい途中に宗吾伝説で有名な「甚平渡し」を通って印旛沼を橋で渡る。右(東)へ行くと、公津の新興住宅地や成田日赤を通って成田駅前、そして成田山へ向かう。<br />この国道沿いには80年くらい前には路面電車が走っており、ここ宗吾霊堂と成田山の間を結んでいた。「成宗電軌」というこの路面電車は現在成田を拠点としてるバス会社、「千葉交通」の前身である。<br />

    鳴鐘山東勝寺、宗吾霊堂の門前。
    手前の道(国道464号)は左(西)へ行くと、印西、千葉ニュータウンへ向かい途中に宗吾伝説で有名な「甚平渡し」を通って印旛沼を橋で渡る。右(東)へ行くと、公津の新興住宅地や成田日赤を通って成田駅前、そして成田山へ向かう。
    この国道沿いには80年くらい前には路面電車が走っており、ここ宗吾霊堂と成田山の間を結んでいた。「成宗電軌」というこの路面電車は現在成田を拠点としてるバス会社、「千葉交通」の前身である。

  • 東勝寺大本堂。山門から入って最初に見えるのがこの立派な建物。<br />俗に「宗吾霊堂」「宗吾様」とよばれるこのお寺の正式名称は「鳴鐘山東勝寺」といい、真言宗豊山派のお寺である。同じ成田市の有名な新勝寺も同じ真言宗。<br />ただ、お寺としての歴史は、こちら東勝寺の方が古く、平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂がここに戦没者を祭ったのが最初と言われる。<br />大本堂の俗称である「宗吾霊堂」の名の由来は、良く知られている「義民佐倉惣五郎」こと木内惣五郎の霊が、本尊としてここ大本堂に祭られていることによる。<br />木内惣五郎が刑死した後に、当時の東勝寺住職がその亡骸をここに埋葬したことが「宗吾霊堂」の始まりという。

    東勝寺大本堂。山門から入って最初に見えるのがこの立派な建物。
    俗に「宗吾霊堂」「宗吾様」とよばれるこのお寺の正式名称は「鳴鐘山東勝寺」といい、真言宗豊山派のお寺である。同じ成田市の有名な新勝寺も同じ真言宗。
    ただ、お寺としての歴史は、こちら東勝寺の方が古く、平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂がここに戦没者を祭ったのが最初と言われる。
    大本堂の俗称である「宗吾霊堂」の名の由来は、良く知られている「義民佐倉惣五郎」こと木内惣五郎の霊が、本尊としてここ大本堂に祭られていることによる。
    木内惣五郎が刑死した後に、当時の東勝寺住職がその亡骸をここに埋葬したことが「宗吾霊堂」の始まりという。

    東勝寺(宗吾霊堂) 寺・神社

    奥に梅林、予想外の広さ by fmi(ふみ)さん
  • いわゆる「義民宗吾」伝説がどこまで事実だったのかは現在もよく分かっていない。公式な資料が乏しいためである。なかには全くの「伝説」であり、義民惣五郎そのものが架空の人物であるという説もある。<br /> ただ、承応年間(1650年代)、将軍家綱の時代、前期堀田藩政の末期に何らかの事件が起こり、印旛郡公津村の名主が処刑されたこと、その時期に惣五郎なる名主が実在したこと、その後時の藩主堀田正信が1660年に突如幕政批判を行い無断帰城した罪で「改易」され領地を没収されたことは事実である。<br />1660年の改易以後堀田家は他家預となり、再び佐倉藩主に戻れたのは、86年後の1746年、将軍家重の時代であった。<br />国立歴史民俗博物館のHPには以下のとおり書かれている。<br />https://www.rekihaku.ac.jp/about/books/1.html

    いわゆる「義民宗吾」伝説がどこまで事実だったのかは現在もよく分かっていない。公式な資料が乏しいためである。なかには全くの「伝説」であり、義民惣五郎そのものが架空の人物であるという説もある。
     ただ、承応年間(1650年代)、将軍家綱の時代、前期堀田藩政の末期に何らかの事件が起こり、印旛郡公津村の名主が処刑されたこと、その時期に惣五郎なる名主が実在したこと、その後時の藩主堀田正信が1660年に突如幕政批判を行い無断帰城した罪で「改易」され領地を没収されたことは事実である。
    1660年の改易以後堀田家は他家預となり、再び佐倉藩主に戻れたのは、86年後の1746年、将軍家重の時代であった。
    国立歴史民俗博物館のHPには以下のとおり書かれている。
    https://www.rekihaku.ac.jp/about/books/1.html

  • まだ桜が多く咲いていた綺麗な東勝寺の境内。<br />この東勝寺は予想以上に広いお寺で、裏手(北側)には紫陽花や紅葉、梅林が美しい庭園(というか林)が広がる。<br />このあたりの地名は成田市宗吾。もちろん宗吾霊堂から来た地名で、いわば人名由来の地名。<br />成田市が成立する1954年より前は、公津村という地名で、木内惣五郎はその村の名主だった。<br />木内惣五郎を意味する「宗吾」という名称は、1752年、木内惣五郎百回忌の法要を時の佐倉藩主堀田正亮(正信の子孫)が執り行った際に、惣五郎に「宗吾道閑居士」の号を追贈したことが由来である。<br />すばわち、史実か伝説かに関係なく、佐倉藩は公式に「義民惣五郎伝説」を認めていたのである。<br />

    まだ桜が多く咲いていた綺麗な東勝寺の境内。
    この東勝寺は予想以上に広いお寺で、裏手(北側)には紫陽花や紅葉、梅林が美しい庭園(というか林)が広がる。
    このあたりの地名は成田市宗吾。もちろん宗吾霊堂から来た地名で、いわば人名由来の地名。
    成田市が成立する1954年より前は、公津村という地名で、木内惣五郎はその村の名主だった。
    木内惣五郎を意味する「宗吾」という名称は、1752年、木内惣五郎百回忌の法要を時の佐倉藩主堀田正亮(正信の子孫)が執り行った際に、惣五郎に「宗吾道閑居士」の号を追贈したことが由来である。
    すばわち、史実か伝説かに関係なく、佐倉藩は公式に「義民惣五郎伝説」を認めていたのである。

  • 裏から見た本堂。ヤマザクラかな、盛りはすぎたが綺麗に咲いている。<br /><br />ここで、「成田市」なのに「佐倉藩」が関係することを疑問に感じる方もいると思うので、江戸時代の佐倉藩と、佐倉市、成田市の関係、そして義民宗吾伝説の概略を説明しようと思う。<br /><br />1610年に土井利勝が佐倉城を築いたのが佐倉藩の始まりだが、俗に11万石と呼ばれる佐倉藩は広大な藩で、当時の下総国印旛郡を中心に北総一帯を領地としていた。すなわち、現在の佐倉市、成田市、四街道市、印西市、冨里市、そして八千代市の一部、千葉市中央区、稲毛区、若葉区のそれぞれ一部、八街市の一部、香取市の一部、芝山町や多古町の一部が佐倉藩領で、その行政の中心が佐倉だったのである。<br />特に成田市南東部には、「佐倉牧」と呼ばれる、藩の軍用馬を産出する広大な牧場が広がっていた。そこに現在あるものが「成田空港」なのだ。<br />当然ながら当時の印旛郡公津村も、佐倉藩領の一部だったのである。

    裏から見た本堂。ヤマザクラかな、盛りはすぎたが綺麗に咲いている。

    ここで、「成田市」なのに「佐倉藩」が関係することを疑問に感じる方もいると思うので、江戸時代の佐倉藩と、佐倉市、成田市の関係、そして義民宗吾伝説の概略を説明しようと思う。

    1610年に土井利勝が佐倉城を築いたのが佐倉藩の始まりだが、俗に11万石と呼ばれる佐倉藩は広大な藩で、当時の下総国印旛郡を中心に北総一帯を領地としていた。すなわち、現在の佐倉市、成田市、四街道市、印西市、冨里市、そして八千代市の一部、千葉市中央区、稲毛区、若葉区のそれぞれ一部、八街市の一部、香取市の一部、芝山町や多古町の一部が佐倉藩領で、その行政の中心が佐倉だったのである。
    特に成田市南東部には、「佐倉牧」と呼ばれる、藩の軍用馬を産出する広大な牧場が広がっていた。そこに現在あるものが「成田空港」なのだ。
    当然ながら当時の印旛郡公津村も、佐倉藩領の一部だったのである。

  • お寺の山門をくぐったすぐのところ、本堂より前に、宗吾様の陵墓がある。<br />一説にはここで惣五郎一家は処刑されたという。<br /><br />佐倉藩は江戸幕府にとって北東方向の守りのかなめとなる重要な藩で、代々老中を勤める譜代大名が藩主となった。<br />国替えが頻繁にあった藩だが、その中でも一番長く領主を勤めたのが堀田氏である。3代将軍家光の時代に、堀田正盛が佐倉藩主となり、正盛、正信と2代続いたのだが正信のときに改易、その後80年以上たって、正信の弟の子孫にあたる正亮が佐倉藩主に復帰して以降は、明治維新までの120年間、堀田家の治世が6代続いた。正信までを前期堀田、正亮以後を後期堀田と呼び、特に後期堀田治世は正睦に代表されるように藩政改革が奏功し仁政と言える治世となった。<br />

    お寺の山門をくぐったすぐのところ、本堂より前に、宗吾様の陵墓がある。
    一説にはここで惣五郎一家は処刑されたという。

    佐倉藩は江戸幕府にとって北東方向の守りのかなめとなる重要な藩で、代々老中を勤める譜代大名が藩主となった。
    国替えが頻繁にあった藩だが、その中でも一番長く領主を勤めたのが堀田氏である。3代将軍家光の時代に、堀田正盛が佐倉藩主となり、正盛、正信と2代続いたのだが正信のときに改易、その後80年以上たって、正信の弟の子孫にあたる正亮が佐倉藩主に復帰して以降は、明治維新までの120年間、堀田家の治世が6代続いた。正信までを前期堀田、正亮以後を後期堀田と呼び、特に後期堀田治世は正睦に代表されるように藩政改革が奏功し仁政と言える治世となった。

  • 広い宗吾霊堂の境内でも特に人目を引くのが、奥の方に構える、この「宗吾御一代記館」である。<br />宗吾様こと木内惣五郎の生涯を、66体の人形を使った立体パノラマで音声を交えて解説する。入館料は700円といささか高いが、それなりの展示である。<br /><br />いわゆる「佐倉義民伝」にのっとった展示だが、概略を記す。<br />堀田正信の時に、検地の「改悪」により佐倉藩の農民に重税が課されることになった。公津村の名主木内惣五郎は、農民の窮状を藩庁に訴えたが私曲にふける重役には聞きいられず、さらに江戸に出て老中久世大和守に訴えるも却下。意を決した木内惣五郎は家族と別れ、印旛沼の渡しを越えて、単身江戸寛永寺で、参拝に赴いていた将軍家綱に籠訴する。訴えは幕府に聞きいられ、佐倉藩の年貢は軽減されたが、直訴の大罪により木内惣五郎とその家族は処刑される。時に1653年。<br /><br />この伝説が幕末の1851年に歌舞伎「東山桜荘子」として上演されると人気を博し、明治以降は福沢諭吉も「もって世人の亀鑑(きかん)に供すべし」と「学問のすすめ」で言わしめ、現在も「佐倉義民伝」として歌舞伎を主に公演が続いている。<br />

    広い宗吾霊堂の境内でも特に人目を引くのが、奥の方に構える、この「宗吾御一代記館」である。
    宗吾様こと木内惣五郎の生涯を、66体の人形を使った立体パノラマで音声を交えて解説する。入館料は700円といささか高いが、それなりの展示である。

    いわゆる「佐倉義民伝」にのっとった展示だが、概略を記す。
    堀田正信の時に、検地の「改悪」により佐倉藩の農民に重税が課されることになった。公津村の名主木内惣五郎は、農民の窮状を藩庁に訴えたが私曲にふける重役には聞きいられず、さらに江戸に出て老中久世大和守に訴えるも却下。意を決した木内惣五郎は家族と別れ、印旛沼の渡しを越えて、単身江戸寛永寺で、参拝に赴いていた将軍家綱に籠訴する。訴えは幕府に聞きいられ、佐倉藩の年貢は軽減されたが、直訴の大罪により木内惣五郎とその家族は処刑される。時に1653年。

    この伝説が幕末の1851年に歌舞伎「東山桜荘子」として上演されると人気を博し、明治以降は福沢諭吉も「もって世人の亀鑑(きかん)に供すべし」と「学問のすすめ」で言わしめ、現在も「佐倉義民伝」として歌舞伎を主に公演が続いている。

    宗吾御一代記館 美術館・博物館

    佐倉藩の歴史の影 by fmi(ふみ)さん
  • 大きな宿坊、大本坊。300畳くらいある。<br /><br />佐倉義民伝だが、比較的最近では、中村一門、白鸚が演じたようです。十八世勘三郎七回忌の追善公演とのことです。公演の際にはここ宗吾霊堂に参拝するそうで、多くの各界の著名人がここに参拝しています。<br /><br />佐倉市の公式な市史では、惣五郎伝説そのものに否定的で、当時の訴状は窮状を誇張しているとまで記されています。しかし、1650年代に、「散田」が進むほど領内が窮乏していた事と、その原因に、堀田正信が検地の制度を改めたことは記されています。<br /><br />

    大きな宿坊、大本坊。300畳くらいある。

    佐倉義民伝だが、比較的最近では、中村一門、白鸚が演じたようです。十八世勘三郎七回忌の追善公演とのことです。公演の際にはここ宗吾霊堂に参拝するそうで、多くの各界の著名人がここに参拝しています。

    佐倉市の公式な市史では、惣五郎伝説そのものに否定的で、当時の訴状は窮状を誇張しているとまで記されています。しかし、1650年代に、「散田」が進むほど領内が窮乏していた事と、その原因に、堀田正信が検地の制度を改めたことは記されています。

  • (画像は佐倉市役所です)<br />佐倉市が宗吾伝説を否定的に記録することは分からなくもありません。何よりも第三代佐倉市長堀田正久氏は堀田家の末裔であり、また、佐倉藩士の末裔には、今も佐倉市内に在住している家系もあります。<br />市としては幕末の名君、堀田正睦を中心に歴史として売り出していることもあるのでしょう。<br />しかし、先述のとおり、堀田家佐倉藩が公式に「宗吾伝説」を認め追号までし、祭っています。<br />堀田正信は宗吾事件の後、改易されます。幕政批判が原因とのことですが、幕府では公式には「頭がおかしくなったから」ということにしています。改易の20年後に正信は将軍家綱に殉じ自害します。<br />堀田家も佐倉の領民もそこに惣五郎との因縁を感じないわけがなく、そういった「マイナス評価」からやり直した結果が幕末の藩政改革という善政ではないでしょうか。<br /><br />藩の重役が領民の話を聞き、話し合いなりすれば起きなかった事件なのかもしれません。これは、現在の佐倉市政にも通じる事なんですよ。この15年、話を聞かない、説明責任を果たさない、その結果の醜聞が、今の佐倉市政には少なくないのです。佐倉市政は、350年以上の昔から進歩していないのかもしれません。<br />「佐倉市行政に関わった者」として、それだけは言っておきます。

    (画像は佐倉市役所です)
    佐倉市が宗吾伝説を否定的に記録することは分からなくもありません。何よりも第三代佐倉市長堀田正久氏は堀田家の末裔であり、また、佐倉藩士の末裔には、今も佐倉市内に在住している家系もあります。
    市としては幕末の名君、堀田正睦を中心に歴史として売り出していることもあるのでしょう。
    しかし、先述のとおり、堀田家佐倉藩が公式に「宗吾伝説」を認め追号までし、祭っています。
    堀田正信は宗吾事件の後、改易されます。幕政批判が原因とのことですが、幕府では公式には「頭がおかしくなったから」ということにしています。改易の20年後に正信は将軍家綱に殉じ自害します。
    堀田家も佐倉の領民もそこに惣五郎との因縁を感じないわけがなく、そういった「マイナス評価」からやり直した結果が幕末の藩政改革という善政ではないでしょうか。

    藩の重役が領民の話を聞き、話し合いなりすれば起きなかった事件なのかもしれません。これは、現在の佐倉市政にも通じる事なんですよ。この15年、話を聞かない、説明責任を果たさない、その結果の醜聞が、今の佐倉市政には少なくないのです。佐倉市政は、350年以上の昔から進歩していないのかもしれません。
    「佐倉市行政に関わった者」として、それだけは言っておきます。

  • 奥の院<br />平成14年に、三百五十年祭記念として建立。

    奥の院
    平成14年に、三百五十年祭記念として建立。

  • 東勝寺、宗吾霊堂の特色の一つである、「宗吾霊宝殿」<br />昭和10年開館、木内惣五郎の遺品、関連物品、名寄帳、そして、350年記念の時の各界名士が記した「義」の扁額が多く飾られている。<br />佐倉市所縁の人物では、モンキーパンチ、小出義雄等の額もあった。<br />語一代記館と共通入場で700円。<br />

    東勝寺、宗吾霊堂の特色の一つである、「宗吾霊宝殿」
    昭和10年開館、木内惣五郎の遺品、関連物品、名寄帳、そして、350年記念の時の各界名士が記した「義」の扁額が多く飾られている。
    佐倉市所縁の人物では、モンキーパンチ、小出義雄等の額もあった。
    語一代記館と共通入場で700円。

  • 霊堂裏に広がる庭園と、成田市戦没者供養堂<br />夏は紫陽花が綺麗。

    霊堂裏に広がる庭園と、成田市戦没者供養堂
    夏は紫陽花が綺麗。

  • 宗吾殿<br />

    宗吾殿

  • 薬師堂<br />

    薬師堂

  • さて、宗吾霊堂から旧公津村を歩き、木内惣五郎旧宅と、成田市の麻賀多神社、そして、宗吾伝説のゆかりの地である印旛沼の甚平渡しまで行く。<br />この碑は、先述した「成宗電軌」の記念碑。ここに宗吾霊堂の停留所(終点)があった。今はバスの停留所になっている。

    さて、宗吾霊堂から旧公津村を歩き、木内惣五郎旧宅と、成田市の麻賀多神社、そして、宗吾伝説のゆかりの地である印旛沼の甚平渡しまで行く。
    この碑は、先述した「成宗電軌」の記念碑。ここに宗吾霊堂の停留所(終点)があった。今はバスの停留所になっている。

  • 宗吾霊堂より北側にある、成田市公津公民館

    宗吾霊堂より北側にある、成田市公津公民館

  • 成田市、旧公津村の谷津田風景

    成田市、旧公津村の谷津田風景

  • 公津地区を流れる江川

    公津地区を流れる江川

  • 谷津田のヘリ、山裾にある、木内惣五郎旧宅。<br />現在も居住者のいる民家です。宗吾霊堂から西に2kmほど。<br />

    谷津田のヘリ、山裾にある、木内惣五郎旧宅。
    現在も居住者のいる民家です。宗吾霊堂から西に2kmほど。

    宗吾旧宅 名所・史跡

  • 宗吾旧宅全景<br />木内家当主は現在もここに在住とのこと。<br />木内惣五郎は、娘の一人が嫁に出ていたため、一家断絶はまぬがれており、年月は過ぎて18世紀、時の堀田正亮が藩主の時に、家名再興が認められて現在に続く。同時に「宗吾霊堂」は藩公式となったのだが、これは当事者だった堀田家としての反省と誠意、そして和解の証だったと思いたい。<br />「和解」と「話し合い」は、後に紹介する「成田闘争」でもキーワードになります。<br />敷地内に井戸が現存し、説によると、木内惣五郎はその水で水杯を家族と交わしたと言います。<br />木内家は名主総代であり、代々苗字帯刀御免の家系と言います。

    宗吾旧宅全景
    木内家当主は現在もここに在住とのこと。
    木内惣五郎は、娘の一人が嫁に出ていたため、一家断絶はまぬがれており、年月は過ぎて18世紀、時の堀田正亮が藩主の時に、家名再興が認められて現在に続く。同時に「宗吾霊堂」は藩公式となったのだが、これは当事者だった堀田家としての反省と誠意、そして和解の証だったと思いたい。
    「和解」と「話し合い」は、後に紹介する「成田闘争」でもキーワードになります。
    敷地内に井戸が現存し、説によると、木内惣五郎はその水で水杯を家族と交わしたと言います。
    木内家は名主総代であり、代々苗字帯刀御免の家系と言います。

    宗吾旧宅 名所・史跡

  • 宗吾旧宅の裏手の道はすぐ坂となり、坂の上は国道464号、その脇に、成田の麻賀多神社がある。

    宗吾旧宅の裏手の道はすぐ坂となり、坂の上は国道464号、その脇に、成田の麻賀多神社がある。

  • 麻賀多神社、社殿<br />

    麻賀多神社、社殿

    麻賀多神社 寺・神社

  • 御神木の大杉<br />荘厳な風景、意外と知られているようで、参拝に来る人が見に来ていた<br />

    御神木の大杉
    荘厳な風景、意外と知られているようで、参拝に来る人が見に来ていた

  • 国道464号を西へ、進む<br />目的地は惣五郎伝説所縁の、「甚兵衛渡し」<br />台地から平野へ降りてくると、左手の向こうはもう印旛沼<br />

    国道464号を西へ、進む
    目的地は惣五郎伝説所縁の、「甚兵衛渡し」
    台地から平野へ降りてくると、左手の向こうはもう印旛沼

  • 歩いたら腹減って来た<br />ちょうどお昼だな、ここで鰻を食べよう

    歩いたら腹減って来た
    ちょうどお昼だな、ここで鰻を食べよう

    又兵衛 グルメ・レストラン

  • 遠くに成田スカイアクセスの高架橋が見えてきた。<br />あのあたりで印旛沼を渡る。目指す甚兵衛渡しは近い。

    遠くに成田スカイアクセスの高架橋が見えてきた。
    あのあたりで印旛沼を渡る。目指す甚兵衛渡しは近い。

  • 現在の甚兵衛渡し周辺。<br />国道464号が通る。464号はこの先、スカイアクセスの高架橋をくぐった先で、印旛沼を橋で渡るが、この橋の名が甚兵衛大橋。<br />印旛沼は干拓によって惣五郎の時代とは沼の形が変わってしまっている。このあたりは干拓地。かつては沼の中だった。<br />歌舞伎の義民伝でも、「雪の甚兵衛渡し」のくだりはクライマックスの一つ。<br />佐倉藩は惣五郎の不穏な動きをけん制するため印旛沼の渡しを閉鎖するが、惣五郎の熱意に動かされた渡し守甚兵衛はその閉鎖の禁をやぶり惣五郎を乗せて印旛沼を渡る。そののち、甚兵衛は責任を取って自ら印旛沼に身を投げる。<br /><br />義に立ち義に殉じた男たちの名は、遠い令和の今も、このように、地名として受け継がれていく。永遠に。<br />

    現在の甚兵衛渡し周辺。
    国道464号が通る。464号はこの先、スカイアクセスの高架橋をくぐった先で、印旛沼を橋で渡るが、この橋の名が甚兵衛大橋。
    印旛沼は干拓によって惣五郎の時代とは沼の形が変わってしまっている。このあたりは干拓地。かつては沼の中だった。
    歌舞伎の義民伝でも、「雪の甚兵衛渡し」のくだりはクライマックスの一つ。
    佐倉藩は惣五郎の不穏な動きをけん制するため印旛沼の渡しを閉鎖するが、惣五郎の熱意に動かされた渡し守甚兵衛はその閉鎖の禁をやぶり惣五郎を乗せて印旛沼を渡る。そののち、甚兵衛は責任を取って自ら印旛沼に身を投げる。

    義に立ち義に殉じた男たちの名は、遠い令和の今も、このように、地名として受け継がれていく。永遠に。

  • まだ桜が咲いている甚兵衛公園。<br />渡しの有ったところはこのように公園になっている。大きな数本の松の木が目印。<br />菜の花やコスモスの名所。駐車場完備<br />一応、コミュニティバスが公津の杜・宗吾霊堂から出ている。

    まだ桜が咲いている甚兵衛公園。
    渡しの有ったところはこのように公園になっている。大きな数本の松の木が目印。
    菜の花やコスモスの名所。駐車場完備
    一応、コミュニティバスが公津の杜・宗吾霊堂から出ている。

    甚兵衛公園 公園・植物園

  • 近くに千葉交通のコミュニティバスの終点があるので、そこからバスで、京成線公津の杜駅まで戻った。<br /><br />ここまで、4月8日取材。<br /><br />

    近くに千葉交通のコミュニティバスの終点があるので、そこからバスで、京成線公津の杜駅まで戻った。

    ここまで、4月8日取材。

  • 日を改め、4月12日。<br /><br />JR成田駅から出発。JRバスで行先は、三里塚の記念公園と、航空博物館。<br />JRバスが三里塚方面へ大体20分ごとに出ている。遠く多古や八日市場まで行くバスもあるが、多くは航空博物館で折り返す。<br />今回は成田市現代史の影、成田闘争の地をめぐる。

    日を改め、4月12日。

    JR成田駅から出発。JRバスで行先は、三里塚の記念公園と、航空博物館。
    JRバスが三里塚方面へ大体20分ごとに出ている。遠く多古や八日市場まで行くバスもあるが、多くは航空博物館で折り返す。
    今回は成田市現代史の影、成田闘争の地をめぐる。

    成田駅

  • 三里塚を通るJRバスの半数は、空港を展望できる「さくらの山」を経由するが乗車したバスはまっすぐ三里塚を目指していた。<br />このバスで、三里塚記念公園まで行く。もともと御料牧場だったころの展示物を納めた記念館がある。

    三里塚を通るJRバスの半数は、空港を展望できる「さくらの山」を経由するが乗車したバスはまっすぐ三里塚を目指していた。
    このバスで、三里塚記念公園まで行く。もともと御料牧場だったころの展示物を納めた記念館がある。

  • バスを下車、三里塚記念公園の中にある、三里塚御料牧場記念館。<br /><br />三里塚にあった御料牧場に関する資料を展示している。入園料は無料。<br />後述するが、ここにあった広大な宮内省管轄の御料牧場、その敷地の大半は成田空港の用地になった。

    バスを下車、三里塚記念公園の中にある、三里塚御料牧場記念館。

    三里塚にあった御料牧場に関する資料を展示している。入園料は無料。
    後述するが、ここにあった広大な宮内省管轄の御料牧場、その敷地の大半は成田空港の用地になった。

    三里塚御料牧場記念館 美術館・博物館

  • 三里塚記念公園<br /><br />すぐ近くに空港のA滑走路、ひっきりなしに離着陸する飛行機の爆音がとどろく。<br />ここにはそもそも何があったのか、江戸時代からの歴史を説明します。<br /><br />もともと広大なここ下総台地は水利の関係で、水田耕作は行われておらず、森林や草地、畑であった。稲作はいわゆる「谷津田」という、台地の谷間の湧水が出るところでひっそり行われていたのです。<br />遊休していたこの台地に着目した江戸幕府は、ここに広大な牧場をつくり、佐倉藩が管理しました。それが「佐倉牧」です。最盛期に173平方キロメートル(佐倉市より広い、八王子市よりやや狭い)もあった七つある牧場地のひとつ、取香(とっこう)牧が、ここ三里塚に存在していたのです。<br />すなわち、現在の成田空港がある土地の大半は、江戸時代は「農家が開墾営農している土地」ではありませんでした。幕府や藩の公有地だったのです。

    三里塚記念公園

    すぐ近くに空港のA滑走路、ひっきりなしに離着陸する飛行機の爆音がとどろく。
    ここにはそもそも何があったのか、江戸時代からの歴史を説明します。

    もともと広大なここ下総台地は水利の関係で、水田耕作は行われておらず、森林や草地、畑であった。稲作はいわゆる「谷津田」という、台地の谷間の湧水が出るところでひっそり行われていたのです。
    遊休していたこの台地に着目した江戸幕府は、ここに広大な牧場をつくり、佐倉藩が管理しました。それが「佐倉牧」です。最盛期に173平方キロメートル(佐倉市より広い、八王子市よりやや狭い)もあった七つある牧場地のひとつ、取香(とっこう)牧が、ここ三里塚に存在していたのです。
    すなわち、現在の成田空港がある土地の大半は、江戸時代は「農家が開墾営農している土地」ではありませんでした。幕府や藩の公有地だったのです。

    三里塚記念公園 公園・植物園

  • 記念館内の展示品<br /><br />明治維新の後、佐倉牧のうち、ここ取香牧は宮内省管轄の御料牧場となり、軍馬を主に放牧されるようになりました。<br />御料牧場が出来ると、周辺にも商店を主に町が形成されていき新たな産業も興りました。軽便鉄道も敷かれ(戦時中に廃止)、牧場には多数の桜の樹が植えられ、また歴代の天皇陛下の行幸もありました。御料牧場は地域住民の生活の支えともなっていたのです。

    記念館内の展示品

    明治維新の後、佐倉牧のうち、ここ取香牧は宮内省管轄の御料牧場となり、軍馬を主に放牧されるようになりました。
    御料牧場が出来ると、周辺にも商店を主に町が形成されていき新たな産業も興りました。軽便鉄道も敷かれ(戦時中に廃止)、牧場には多数の桜の樹が植えられ、また歴代の天皇陛下の行幸もありました。御料牧場は地域住民の生活の支えともなっていたのです。

  • 三里塚記念公園から、三里塚交差点を望む。目の前は県道、成田から三里塚、芝山を貫き横芝へ向かう道。かつての軽便鉄道は大体この県道に沿っていた。<br /><br />御料牧場は終戦に伴い、縮小されていったが存続、成田空港に敷地を提供するため昭和44年に、那須へ移転した。<br />4000ヘクタールもあった御料牧場は、終戦後の昭和20年頃から、相当な面積が段階的に民間へ払い下げられていた。<br /><br />この払い下げた国有地に、開拓者として来たのが、後述する成田闘争の主役、三里塚の農民なのである。<br />その開拓、入植者の多くは、戦争で土地を失った、沖縄県出身者と満州からの引揚者であった。<br />強調しておきたいことは、彼らは、江戸時代から定住していたのではなく、昭和、それも戦後にここにきて水利の悪い台地を苦労して開墾し、定住した人たちであり、ある意味、戦争の犠牲者でもあったことである。

    三里塚記念公園から、三里塚交差点を望む。目の前は県道、成田から三里塚、芝山を貫き横芝へ向かう道。かつての軽便鉄道は大体この県道に沿っていた。

    御料牧場は終戦に伴い、縮小されていったが存続、成田空港に敷地を提供するため昭和44年に、那須へ移転した。
    4000ヘクタールもあった御料牧場は、終戦後の昭和20年頃から、相当な面積が段階的に民間へ払い下げられていた。

    この払い下げた国有地に、開拓者として来たのが、後述する成田闘争の主役、三里塚の農民なのである。
    その開拓、入植者の多くは、戦争で土地を失った、沖縄県出身者と満州からの引揚者であった。
    強調しておきたいことは、彼らは、江戸時代から定住していたのではなく、昭和、それも戦後にここにきて水利の悪い台地を苦労して開墾し、定住した人たちであり、ある意味、戦争の犠牲者でもあったことである。

  • 県道と国道296号旧道が交差する三里塚交差点。<br />奥が横芝方向、右が冨里佐倉方向、左が航空博物館と多古方向、手前が成田方向である。<br /><br />1985年10月、長きにわたる成田闘争で、過激派と機動隊との最後の衝突があったのが、この交差点だった。既に空港は開港していた後である。<br />空港反対派と過激派は第二滑走路(B滑走路)建設阻止を掲げ開港後も闘争を続けており、さらに先鋭化過激化していた。<br />最初は付近の公園でデモ集会を行っていた過激派だが用意周到にゲバ棒や火炎瓶で武装し、午後4時以降に1000人を超える武装集団が国道296号旧道を成田空港A滑走路へ向けて進撃、1985年10月20日午後4時20分ここ三里塚交差点で警察機動隊と衝突、59人の警察官が重軽傷を負い、241名の逮捕者が出た。<br />

    県道と国道296号旧道が交差する三里塚交差点。
    奥が横芝方向、右が冨里佐倉方向、左が航空博物館と多古方向、手前が成田方向である。

    1985年10月、長きにわたる成田闘争で、過激派と機動隊との最後の衝突があったのが、この交差点だった。既に空港は開港していた後である。
    空港反対派と過激派は第二滑走路(B滑走路)建設阻止を掲げ開港後も闘争を続けており、さらに先鋭化過激化していた。
    最初は付近の公園でデモ集会を行っていた過激派だが用意周到にゲバ棒や火炎瓶で武装し、午後4時以降に1000人を超える武装集団が国道296号旧道を成田空港A滑走路へ向けて進撃、1985年10月20日午後4時20分ここ三里塚交差点で警察機動隊と衝突、59人の警察官が重軽傷を負い、241名の逮捕者が出た。

  • 三里塚交差点から成田空港方向を望む、この道を数百メートル奥へ行けば、もうA滑走路である。<br /><br />武装過激派は、手前からこの道を奥に向けて進撃しようとし、このあたりで警察機動隊と衝突した。<br />これが最後の衝突となったが、空港反対派はこの騒動の後も活動をさらに先鋭化、千葉県の土地収用委員を襲撃するなどの、もはやテロ行為としか言いようがない手段をとるようになる。

    三里塚交差点から成田空港方向を望む、この道を数百メートル奥へ行けば、もうA滑走路である。

    武装過激派は、手前からこの道を奥に向けて進撃しようとし、このあたりで警察機動隊と衝突した。
    これが最後の衝突となったが、空港反対派はこの騒動の後も活動をさらに先鋭化、千葉県の土地収用委員を襲撃するなどの、もはやテロ行為としか言いようがない手段をとるようになる。

  • ここ三里塚交差点は、かつての軽便鉄道の名残か、JRバスの「駅」が存在していた。現在も広めの敷地を持つバス停留所がある。<br />やって来たJRバスで、いよいよ芝山町の航空科学博物館へ向かう。

    ここ三里塚交差点は、かつての軽便鉄道の名残か、JRバスの「駅」が存在していた。現在も広めの敷地を持つバス停留所がある。
    やって来たJRバスで、いよいよ芝山町の航空科学博物館へ向かう。

  • 三里塚で旧296号へ左折、すぐに成田空港の敷地を左に見ながら走行する。<br />ものものしいフェンスの向こうを、A滑走路から離陸した飛行機が飛んでいく。開港から既に44年が経過するが未だ成田空港問題は解決には至っていない。<br /><br />空港反対派や過激派と、警察機動隊・空港関係者双方に死者が出るまで暴力の応酬が続いた「成田闘争」。<br />なぜ、血で血を洗う闘争にまで発展したのだろうか。その一端を教えてくれる施設が、これから向かう航空科学博物館に併設されているのだ。<br /><br /><br /><br />

    三里塚で旧296号へ左折、すぐに成田空港の敷地を左に見ながら走行する。
    ものものしいフェンスの向こうを、A滑走路から離陸した飛行機が飛んでいく。開港から既に44年が経過するが未だ成田空港問題は解決には至っていない。

    空港反対派や過激派と、警察機動隊・空港関係者双方に死者が出るまで暴力の応酬が続いた「成田闘争」。
    なぜ、血で血を洗う闘争にまで発展したのだろうか。その一端を教えてくれる施設が、これから向かう航空科学博物館に併設されているのだ。



  • バスは航空科学博物館に到着した。成田市の隣、芝山町に存在する施設。<br />ここは成田駅からのバスが30分ごとに来るほか、東京駅から高速バスが直接乗り入れてくる。

    バスは航空科学博物館に到着した。成田市の隣、芝山町に存在する施設。
    ここは成田駅からのバスが30分ごとに来るほか、東京駅から高速バスが直接乗り入れてくる。

    航空科学博物館 美術館・博物館

    高速バスや地元路線バスとの乗り換え地点としても機能 by fmi(ふみ)さん
  • その、航空科学博物館の敷地、駐車場を挟んだ西南の位地にひっそりと存在するのが、「成田空港空と大地の歴史館」である。<br /><br />ここでは、「成田闘争」の概要が、実際に過激派が使った火炎瓶や幟旗などの実物などの資料、闘争の歴史から90年代の円卓会議という「和解」に至るまでの過程を展示している。<br />他には見られない貴重な資料が多いが、残念ながら写真撮影は不可。

    その、航空科学博物館の敷地、駐車場を挟んだ西南の位地にひっそりと存在するのが、「成田空港空と大地の歴史館」である。

    ここでは、「成田闘争」の概要が、実際に過激派が使った火炎瓶や幟旗などの実物などの資料、闘争の歴史から90年代の円卓会議という「和解」に至るまでの過程を展示している。
    他には見られない貴重な資料が多いが、残念ながら写真撮影は不可。

    成田空港 空と大地の歴史館 美術館・博物館

    ぜひ知っておきたい。「なぜ、農民たちは、怒ったのか?」 by fmi(ふみ)さん
  • 桜の花と博物館<br /><br />いわゆる成田闘争の概略は以下の通りです。<br />1960年代半ば、航空需要増加と飛行機の大型化で逼迫する羽田空港に変わる大規模な国際空港を建設する必要性を感じた政府は、いくつかの候補地のうち、北総地区に新空港を建設することにしました。<br />当初冨里に造る計画が、地元の反対運動が強かったため、時の佐藤栄作政権は三里塚に新空港を建設することを突如として決定しました。1966年7月のことです。当初の冨里案が出た時点からもう地元民や千葉県始め自治体に詳しい説明もなく決まり、地元では青天の霹靂といえる状況でした。<br />三里塚はもともと御料牧場という公有地だったことは既に説明しました。空港敷地の半分近くが公有地で収容しやすいことが三里塚に決定した理由と言われています。<br />問題は、残る民有地を持っていた農家たちが「どこから来てここを開拓したか」です。<br /><br />

    桜の花と博物館

    いわゆる成田闘争の概略は以下の通りです。
    1960年代半ば、航空需要増加と飛行機の大型化で逼迫する羽田空港に変わる大規模な国際空港を建設する必要性を感じた政府は、いくつかの候補地のうち、北総地区に新空港を建設することにしました。
    当初冨里に造る計画が、地元の反対運動が強かったため、時の佐藤栄作政権は三里塚に新空港を建設することを突如として決定しました。1966年7月のことです。当初の冨里案が出た時点からもう地元民や千葉県始め自治体に詳しい説明もなく決まり、地元では青天の霹靂といえる状況でした。
    三里塚はもともと御料牧場という公有地だったことは既に説明しました。空港敷地の半分近くが公有地で収容しやすいことが三里塚に決定した理由と言われています。
    問題は、残る民有地を持っていた農家たちが「どこから来てここを開拓したか」です。

  • 航空科学博物館の上を全日空の777が飛んでいきます。<br /><br />三里塚の農民の多くが、「戦後の」開拓農民だったことも先述しました。1966年時点、彼らが入植してからまだ二十年しかたっていません。当時ここには325戸の農家が生活していました。戦禍によって沖縄や満州から逃れてきて、水も満足に確保できないので稲作に適さない下総台地で苦難の果てに生活の基盤をようやく作り上げた矢先の、何の説明もない佐藤政権の決定です。<br />彼らは2度までも、国家、というより長州閥政権の政策に翻弄されたのです。<br />当然、三里塚の農民は怒り、立ち上がりました。木内惣五郎と同じく彼らには「義」があったのです。<br />後に、国や空港公団は「ぼたんのかけ違いがあった」と述懐していますが、私には最初からぼたんをかけるつもりもなかったのではないかと考えています。そうとしか思えないほど佐藤政権の土地収用への見込みは甘いものでした。<br />そくざに「反対同盟」が結成され、当時の社会党や共産党も支援しました。

    航空科学博物館の上を全日空の777が飛んでいきます。

    三里塚の農民の多くが、「戦後の」開拓農民だったことも先述しました。1966年時点、彼らが入植してからまだ二十年しかたっていません。当時ここには325戸の農家が生活していました。戦禍によって沖縄や満州から逃れてきて、水も満足に確保できないので稲作に適さない下総台地で苦難の果てに生活の基盤をようやく作り上げた矢先の、何の説明もない佐藤政権の決定です。
    彼らは2度までも、国家、というより長州閥政権の政策に翻弄されたのです。
    当然、三里塚の農民は怒り、立ち上がりました。木内惣五郎と同じく彼らには「義」があったのです。
    後に、国や空港公団は「ぼたんのかけ違いがあった」と述懐していますが、私には最初からぼたんをかけるつもりもなかったのではないかと考えています。そうとしか思えないほど佐藤政権の土地収用への見込みは甘いものでした。
    そくざに「反対同盟」が結成され、当時の社会党や共産党も支援しました。

  • 博物館の展望台からは成田空港のA滑走路が良く見える。<br />手前の臙脂色の屋根のプレハブ建物はおそらく警察の宿舎tと思われる。<br /><br />江戸時代の「百姓一揆」は闘争よりむしろ義民惣五郎のような直訴、強訴または逃散が多く、農民の集団行動も闘争と言うよりむしろデモ行進が主で略奪放火殺傷はまれだったと国立歴史民俗博物館にありました。<br />初期の成田闘争も同様で、一木運動や今も続く「一坪運動」、デモ行進といった「順法闘争」でした。<br />1960年代末に、いわゆる「新左翼」や学生運動家が成田闘争に加わるようになると様相が変わってきます。反対運動は暴力を伴うものとなっていき、さらに70年代に入って行われた「行政代執行」をめぐる運動と悲劇からさらに過激化、先鋭化します。一方で農地の売却に応じた農家も増え、闘争の軸足は農民運動から極左過激派による暴力闘争に軸足が移っていきます。<br />

    博物館の展望台からは成田空港のA滑走路が良く見える。
    手前の臙脂色の屋根のプレハブ建物はおそらく警察の宿舎tと思われる。

    江戸時代の「百姓一揆」は闘争よりむしろ義民惣五郎のような直訴、強訴または逃散が多く、農民の集団行動も闘争と言うよりむしろデモ行進が主で略奪放火殺傷はまれだったと国立歴史民俗博物館にありました。
    初期の成田闘争も同様で、一木運動や今も続く「一坪運動」、デモ行進といった「順法闘争」でした。
    1960年代末に、いわゆる「新左翼」や学生運動家が成田闘争に加わるようになると様相が変わってきます。反対運動は暴力を伴うものとなっていき、さらに70年代に入って行われた「行政代執行」をめぐる運動と悲劇からさらに過激化、先鋭化します。一方で農地の売却に応じた農家も増え、闘争の軸足は農民運動から極左過激派による暴力闘争に軸足が移っていきます。

  • 1971年9月、最初の悲劇が起きます。2回目の行政代執行のために成田に派遣された神奈川県警機動隊が武装過激派に襲撃され、乱闘の後機動隊員3人が殉職します。<br />国側が聞く耳を満足に持たず強制収容を警察動員で強行しようとしたことに、反対派が態度をさらに硬化し話し合いの道を棄て、暴力に訴えたことによる悲劇でした。<br />しかし犠牲者が出たことによって闘争に「義」は失われました。<br />以降、急速に成田闘争は世論の支持をも失っていくことになります。何より当事者である農家の人たちが運動の変容に戸惑い、反対派もいくつもの派閥に分裂していき、一方で過激派はますます暴力化、過激化していきます。<br />1977年にはついに反対派にも闘争による犠牲者が発生しました。<br />そのような中で1978年5月、遅れに遅れて成田空港は開港しました。管制塔に過激派が侵入し破壊するという事件が起きた直後の開港であり、それで闘争は終わらず、第2の滑走路、B滑走路の完成はもはや絶望的な状況でした。

    1971年9月、最初の悲劇が起きます。2回目の行政代執行のために成田に派遣された神奈川県警機動隊が武装過激派に襲撃され、乱闘の後機動隊員3人が殉職します。
    国側が聞く耳を満足に持たず強制収容を警察動員で強行しようとしたことに、反対派が態度をさらに硬化し話し合いの道を棄て、暴力に訴えたことによる悲劇でした。
    しかし犠牲者が出たことによって闘争に「義」は失われました。
    以降、急速に成田闘争は世論の支持をも失っていくことになります。何より当事者である農家の人たちが運動の変容に戸惑い、反対派もいくつもの派閥に分裂していき、一方で過激派はますます暴力化、過激化していきます。
    1977年にはついに反対派にも闘争による犠牲者が発生しました。
    そのような中で1978年5月、遅れに遅れて成田空港は開港しました。管制塔に過激派が侵入し破壊するという事件が起きた直後の開港であり、それで闘争は終わらず、第2の滑走路、B滑走路の完成はもはや絶望的な状況でした。

  • 航空科学博物館敷地の南西、桜の咲く親水公園の向こうに、黒い鉄塔が建っているのが見えます。<br />反対派が建てた「岩山鉄塔」です。A滑走路の南側(34Lの先)に航空機の離着陸を妨害する目的で建設されていました。1977年にこの鉄塔をめぐり反対派と機動隊との激しい攻防があり、そのさい反対派支援者が1人、亡くなりました。<br />現在では飛行機は支障なく上空を離着陸出来、鉄塔はメモリアル的なものか今も残され当時の闘争の証となっています。<br /><br />開港後も反対派は一坪運動による第2滑走路建設阻止、滑走路の先に「阻塞気球」を揚げる、古タイヤを燃やして着陸を妨害するという実力行動を続けますが、先述した1985年の1020三里塚闘争の後は、空港や行政関係者「個人」を標的にした「テロ行為」にまで行います。<br />特に1988年9月、千葉県収用委員長だった方が自宅で中核派の襲撃を受け重傷を負い、後遺症を苦に2003年には自殺するという痛ましい事件が起こりました。そのほかの県収用委員までも脅迫を受け委員全員が辞職、千葉県の土地収用委員会は全く機能しなくなりました。<br /><br /><br /><br /><br />

    航空科学博物館敷地の南西、桜の咲く親水公園の向こうに、黒い鉄塔が建っているのが見えます。
    反対派が建てた「岩山鉄塔」です。A滑走路の南側(34Lの先)に航空機の離着陸を妨害する目的で建設されていました。1977年にこの鉄塔をめぐり反対派と機動隊との激しい攻防があり、そのさい反対派支援者が1人、亡くなりました。
    現在では飛行機は支障なく上空を離着陸出来、鉄塔はメモリアル的なものか今も残され当時の闘争の証となっています。

    開港後も反対派は一坪運動による第2滑走路建設阻止、滑走路の先に「阻塞気球」を揚げる、古タイヤを燃やして着陸を妨害するという実力行動を続けますが、先述した1985年の1020三里塚闘争の後は、空港や行政関係者「個人」を標的にした「テロ行為」にまで行います。
    特に1988年9月、千葉県収用委員長だった方が自宅で中核派の襲撃を受け重傷を負い、後遺症を苦に2003年には自殺するという痛ましい事件が起こりました。そのほかの県収用委員までも脅迫を受け委員全員が辞職、千葉県の土地収用委員会は全く機能しなくなりました。




  • この県収用委員会の機能不全は円卓会議による両者和解後の2004年まで18年続き、千葉県のインフラ整備に甚大な影響をおよぼします。東京外環も、圏央道も、館山道も、国道464号も、東葉高速鉄道も、北総開発鉄道も、開業は大幅に遅れ現在の高額運賃の遠因にもなっています。千葉の道路行政は20年遅れました。<br />成田闘争は、ついには千葉県全体のインフラ整備まで犠牲にしたのです。<br />お互いに聞く耳をもたず、話し合いをせず暴力の応酬に終始したその代償は重大でした。<br /><br />1990年、両者の歩み寄りがはじまります。時の江藤運輸大臣が現地で反対派との直接対話をしたのをかわぎりに、「円卓会議」が始まりました。1991年、国は収容裁決申請を取り下げるという重い決断を行いました。1995年には時の村山政権による謝罪もありました。<br />27回に及ぶ円卓会議の結果、成田闘争は解決に向かって前進を始めましたが、未だ成田闘争は終わってはいないのです。<br /><br />この空と大地の歴史館も、その両者和解の条件として建設されたものなのです。

    この県収用委員会の機能不全は円卓会議による両者和解後の2004年まで18年続き、千葉県のインフラ整備に甚大な影響をおよぼします。東京外環も、圏央道も、館山道も、国道464号も、東葉高速鉄道も、北総開発鉄道も、開業は大幅に遅れ現在の高額運賃の遠因にもなっています。千葉の道路行政は20年遅れました。
    成田闘争は、ついには千葉県全体のインフラ整備まで犠牲にしたのです。
    お互いに聞く耳をもたず、話し合いをせず暴力の応酬に終始したその代償は重大でした。

    1990年、両者の歩み寄りがはじまります。時の江藤運輸大臣が現地で反対派との直接対話をしたのをかわぎりに、「円卓会議」が始まりました。1991年、国は収容裁決申請を取り下げるという重い決断を行いました。1995年には時の村山政権による謝罪もありました。
    27回に及ぶ円卓会議の結果、成田闘争は解決に向かって前進を始めましたが、未だ成田闘争は終わってはいないのです。

    この空と大地の歴史館も、その両者和解の条件として建設されたものなのです。

    成田空港 空と大地の歴史館 美術館・博物館

    ぜひ知っておきたい。「なぜ、農民たちは、怒ったのか?」 by fmi(ふみ)さん
  • 博物館北東にある仏舎利塔「平和の塔」<br />日本山妙法寺というお寺が所有。もともとは滑走路の建設予定地に「建立」されていた。お寺が空港反対派だったのである。が、1972年に両者話し合いの結果、現在の地に移転した。<br />背後には芝山町の倉庫街がある。貨物の物流が多い成田空港はもはや地元経済にとってなくてはならない物となった。<br /><br />

    博物館北東にある仏舎利塔「平和の塔」
    日本山妙法寺というお寺が所有。もともとは滑走路の建設予定地に「建立」されていた。お寺が空港反対派だったのである。が、1972年に両者話し合いの結果、現在の地に移転した。
    背後には芝山町の倉庫街がある。貨物の物流が多い成田空港はもはや地元経済にとってなくてはならない物となった。

  • バスで戻ることにします。後日、空港ターミナルにも行ってきました。<br />

    バスで戻ることにします。後日、空港ターミナルにも行ってきました。

  • 成田空港第2ターミナル展望デッキ。<br />円卓会議の結果、空港は「土地収用法による土地の代執行」を放棄しました。B滑走路や第2第3ターミナルなどは反対派との粘り強い話し合いの末に少しずつ建設されていきました。<br />1992年に第2ターミナル完成、2002年に不完全ながらようやくB滑走路が供用開始、2010年に滑走路延伸と少しずつ整備は進んでいきます。

    成田空港第2ターミナル展望デッキ。
    円卓会議の結果、空港は「土地収用法による土地の代執行」を放棄しました。B滑走路や第2第3ターミナルなどは反対派との粘り強い話し合いの末に少しずつ建設されていきました。
    1992年に第2ターミナル完成、2002年に不完全ながらようやくB滑走路が供用開始、2010年に滑走路延伸と少しずつ整備は進んでいきます。

    成田空港第2ターミナル 空港

    店舗のきなみ休業中、閑古鳥が鳴く by fmi(ふみ)さん
  • 第2ターミナル南側からのぞむ、通称「象の檻」<br />反対派が建てた「横堀鉄塔」です。現在も反対派が土地を所有しており、誘導路などはこの敷地を迂回しています。

    第2ターミナル南側からのぞむ、通称「象の檻」
    反対派が建てた「横堀鉄塔」です。現在も反対派が土地を所有しており、誘導路などはこの敷地を迂回しています。

    成田空港 第2ターミナル 見学デッキ 名所・史跡

  • B滑走路から離陸しようとしているジェットスター。<br />2002年に供用開始した時のB滑走路は、2000mちょっとの長さに、「への字」に曲がった誘導路1本と言う不完全なもので運用に様々な制約がありました。周辺にいわゆる「一坪所有運動」による反対派の所有地が点在しているためです。<br />粘り強い交渉により少しずつ土地は買収し、2010年にへの字誘導路の改良や新誘導路の設置、俗に北側延伸と呼ぶ滑走路の16L方向への延伸を行いました。

    B滑走路から離陸しようとしているジェットスター。
    2002年に供用開始した時のB滑走路は、2000mちょっとの長さに、「への字」に曲がった誘導路1本と言う不完全なもので運用に様々な制約がありました。周辺にいわゆる「一坪所有運動」による反対派の所有地が点在しているためです。
    粘り強い交渉により少しずつ土地は買収し、2010年にへの字誘導路の改良や新誘導路の設置、俗に北側延伸と呼ぶ滑走路の16L方向への延伸を行いました。

  • コロナ過のもと、ひっそりと静まり返る第2ターミナル出発ロビー。<br />再び旅行客の喧騒が戻るのはいつの日か。<br />ここから電車で戻ることにしました。

    コロナ過のもと、ひっそりと静まり返る第2ターミナル出発ロビー。
    再び旅行客の喧騒が戻るのはいつの日か。
    ここから電車で戻ることにしました。

  • 最後に現在の成田市役所です。ここ成田市役所も周辺で反対派デモが幾度も行われました。<br />成田市は4代目の小川国彦市長(1995-2003)のときに円卓会議が大きく進展しました。小川市長も反対運動に参加していましたが、市長就任後は第2滑走路完成に向けて尽力しました。<br />同時期に国際交流事業も進展、韓国仁川市中区、井邑市、台湾桃園市、中国咸陽市、アメリカサンブルーノ市、ニュージーランドフォークストン、デンマークネストベズといった自治体と友好都市関係を結んでいます。その多くは、「国際空港」を持つ自治体ですが、井邑との交流は、おそらく農民運動の繋がりと思います。成田の宗吾伝説や三里塚闘争と同じく、韓国井邑は、日本で言う「東学党」農民運動発祥の地です。<br />歴史と向き合いながら成田は国際都市として未来を見据えているのです。<br /><br />成田市をめぐる歴史の旅もここで終わりです。<br />「人間なら話し合いをしてください」<br />その話し合いとは、誹謗中傷ではないし、ネットでいう「論破」や「レッテル張り」では決してないと思います。それは説明と説得であるはずです。説明責任を果たす、当たり前ですが難しくだからこそ大切なのでしょう。<br />「歴史認識」は人の数ほどあるのだと私は思います。私のつまらない歴史認識と記録が、成田を訪れる皆さんのちょっとした参考になっていただければ幸いです。<br /><br />言葉を尽くさず、義が失われるとき、人は義に殉じます。<br />「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである」(アルベール・カミュ)<br /> 来る5月20日、成田は44年目の記念日を迎えます。

    最後に現在の成田市役所です。ここ成田市役所も周辺で反対派デモが幾度も行われました。
    成田市は4代目の小川国彦市長(1995-2003)のときに円卓会議が大きく進展しました。小川市長も反対運動に参加していましたが、市長就任後は第2滑走路完成に向けて尽力しました。
    同時期に国際交流事業も進展、韓国仁川市中区、井邑市、台湾桃園市、中国咸陽市、アメリカサンブルーノ市、ニュージーランドフォークストン、デンマークネストベズといった自治体と友好都市関係を結んでいます。その多くは、「国際空港」を持つ自治体ですが、井邑との交流は、おそらく農民運動の繋がりと思います。成田の宗吾伝説や三里塚闘争と同じく、韓国井邑は、日本で言う「東学党」農民運動発祥の地です。
    歴史と向き合いながら成田は国際都市として未来を見据えているのです。

    成田市をめぐる歴史の旅もここで終わりです。
    「人間なら話し合いをしてください」
    その話し合いとは、誹謗中傷ではないし、ネットでいう「論破」や「レッテル張り」では決してないと思います。それは説明と説得であるはずです。説明責任を果たす、当たり前ですが難しくだからこそ大切なのでしょう。
    「歴史認識」は人の数ほどあるのだと私は思います。私のつまらない歴史認識と記録が、成田を訪れる皆さんのちょっとした参考になっていただければ幸いです。

    言葉を尽くさず、義が失われるとき、人は義に殉じます。
    「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである」(アルベール・カミュ)
     来る5月20日、成田は44年目の記念日を迎えます。

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