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ツアー3日目の午前中は「西面駅」から地下鉄に乗って「大淵駅」に向かいました。地上に出た後は寒空の下を歩いて「釜山博物館」に行きました。平日の朝ということもありとても空いていました。さらに韓国の博物館は無料というのも嬉しいことです。日本ではインバウンドのお客は料金を高くするということで盛り上がっていますが、韓国はずいぶん大人の国だなと思います。この博物館は釜山の歴史と文化を学べる代表的な施設で、旧石器時代から近現代までの貴重な遺物を約22,000点所蔵し、そのうち約1,300点が常設展示されています。この2日間ガイドさんから教わったことや過去に学んだことを踏まえ、さらに新しく知ることも多く学びがありました。改めて大陸からの文化の多くは半島を渡ってきたのだと感じる展示物もたくさんありました。自分の趣味でもある陶器も数多く展示されていてとても興味深く観ることが出来ました。そして朝鮮戦争のについても展示もとても興味深かったです。朝鮮戦争中の釜山は朝鮮半島の国連軍にとって重要な拠点であり、「釜山橋頭堡の戦い」と呼ばれる激しい防衛戦が行われました。また、この期間は韓国の臨時首都としても機能しました。昨年の11月にMSCベリッシマで寄港して、国際市場やチャガルチ市場などで楽しんだばかりなのでこの博物館に来ることにしましたが、過去の観光とだぶらないツアーで本当に良かったと思います。じっくり2時間見学した後は再び地下鉄に乗って「西面駅」に戻り、美味しいアワビ粥を食べることにします。

トラピックス マシッソヨ釜山4日間(6)釜山博物館で古代から朝鮮戦争までの釜山の歴史を学ぶ。

2いいね!

2026/01/28 - 2026/01/28

7177位(同エリア7464件中)

旅行記グループ 2026釜山の旅

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kojikoji

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ツアー3日目の午前中は「西面駅」から地下鉄に乗って「大淵駅」に向かいました。地上に出た後は寒空の下を歩いて「釜山博物館」に行きました。平日の朝ということもありとても空いていました。さらに韓国の博物館は無料というのも嬉しいことです。日本ではインバウンドのお客は料金を高くするということで盛り上がっていますが、韓国はずいぶん大人の国だなと思います。この博物館は釜山の歴史と文化を学べる代表的な施設で、旧石器時代から近現代までの貴重な遺物を約22,000点所蔵し、そのうち約1,300点が常設展示されています。この2日間ガイドさんから教わったことや過去に学んだことを踏まえ、さらに新しく知ることも多く学びがありました。改めて大陸からの文化の多くは半島を渡ってきたのだと感じる展示物もたくさんありました。自分の趣味でもある陶器も数多く展示されていてとても興味深く観ることが出来ました。そして朝鮮戦争のについても展示もとても興味深かったです。朝鮮戦争中の釜山は朝鮮半島の国連軍にとって重要な拠点であり、「釜山橋頭堡の戦い」と呼ばれる激しい防衛戦が行われました。また、この期間は韓国の臨時首都としても機能しました。昨年の11月にMSCベリッシマで寄港して、国際市場やチャガルチ市場などで楽しんだばかりなのでこの博物館に来ることにしましたが、過去の観光とだぶらないツアーで本当に良かったと思います。じっくり2時間見学した後は再び地下鉄に乗って「西面駅」に戻り、美味しいアワビ粥を食べることにします。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
鉄道 観光バス 徒歩
航空会社
チェジュ航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 「西面駅」から地下鉄に乗って「大淵駅」に向かい、地上に出た後は寒空の下を歩いて「釜山博物館」に着きました。

    「西面駅」から地下鉄に乗って「大淵駅」に向かい、地上に出た後は寒空の下を歩いて「釜山博物館」に着きました。

    西面駅

  • 1978年11月に開館して釜山の歴史と文化に特化した大規模な博物館です。旧石器時代から近現代までの釜山の歴史に関する多様な展示品が収蔵されています。

    1978年11月に開館して釜山の歴史と文化に特化した大規模な博物館です。旧石器時代から近現代までの釜山の歴史に関する多様な展示品が収蔵されています。

    釜山博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 「浮屠」とは仏陀、仏塔、僧侶を指す言葉です。これはサンスクリット語の「ブッダ(Buddha)」や「ストゥーパ(stûpa)」の音訳に由来し、中国で仏教が伝来した初期から南北朝時代にかけて使われました。

    「浮屠」とは仏陀、仏塔、僧侶を指す言葉です。これはサンスクリット語の「ブッダ(Buddha)」や「ストゥーパ(stûpa)」の音訳に由来し、中国で仏教が伝来した初期から南北朝時代にかけて使われました。

  • 11世紀から12世紀の高麗時代に造られた石像如来立像です。高麗時代は918年に王建(太祖)が高句麗の後継として建国し、936年に朝鮮半島を統一してから1392年に李氏朝鮮が建国されるまで続いた朝鮮の王朝時代です。

    11世紀から12世紀の高麗時代に造られた石像如来立像です。高麗時代は918年に王建(太祖)が高句麗の後継として建国し、936年に朝鮮半島を統一してから1392年に李氏朝鮮が建国されるまで続いた朝鮮の王朝時代です。

  • 9世紀の統一新羅時代に造られた石像如来立像です。統一新羅とは新羅が朝鮮半島を統一した668年(または676年)から935年までを指す時代です。この時代は朝鮮半島における文化、政治、経済が著しく発展した時期として知られています。

    9世紀の統一新羅時代に造られた石像如来立像です。統一新羅とは新羅が朝鮮半島を統一した668年(または676年)から935年までを指す時代です。この時代は朝鮮半島における文化、政治、経済が著しく発展した時期として知られています。

  • 19世紀から20世紀の石灯籠は日本のものにも似ているような気がします。

    19世紀から20世紀の石灯籠は日本のものにも似ているような気がします。

  • 18世紀から19世紀の朝鮮時代の文官石像は中国の清時代までの石像生(せきぞうせい)という主に漢字文化圏の君主、皇族、貴族、高官の陵墓に立てられた石像に由来するもののようです。神道の前に配置され、魔除けや鎮魂、故人の功績を称える意味合いがあります。

    18世紀から19世紀の朝鮮時代の文官石像は中国の清時代までの石像生(せきぞうせい)という主に漢字文化圏の君主、皇族、貴族、高官の陵墓に立てられた石像に由来するもののようです。神道の前に配置され、魔除けや鎮魂、故人の功績を称える意味合いがあります。

  • 朝鮮半島では「朝鮮石人像」と呼ばれ、元々は王陵や士大夫の墓を守るための「墓守」として据えられていました。文官像は冠をかぶり、笏(しゃく)を胸の前に持ちます。

    朝鮮半島では「朝鮮石人像」と呼ばれ、元々は王陵や士大夫の墓を守るための「墓守」として据えられていました。文官像は冠をかぶり、笏(しゃく)を胸の前に持ちます。

  • 大好きな上野の「国立博物館 東洋館」の前にもいくつかの「朝鮮石人像」が置かれています。しばらく観に行っていないので、温かくなったら行ってみようと思います。

    大好きな上野の「国立博物館 東洋館」の前にもいくつかの「朝鮮石人像」が置かれています。しばらく観に行っていないので、温かくなったら行ってみようと思います。

  • 9世紀の統一新羅時代の雙獅子石灯籠です。四つ足の獣が後脚で立ち、2頭で阿吽になっているという奇抜なアイデアでデザインです。統一新羅時代の物が3基<br />遺されていて、そのうちの2基が国宝に指定されています。残念ながらここにあるのはレピリカでした。

    9世紀の統一新羅時代の雙獅子石灯籠です。四つ足の獣が後脚で立ち、2頭で阿吽になっているという奇抜なアイデアでデザインです。統一新羅時代の物が3基
    遺されていて、そのうちの2基が国宝に指定されています。残念ながらここにあるのはレピリカでした。

  • 9世紀の統一新羅時代の石灯籠です。こういったものが日本に伝わって現在の石灯籠になっていったのだろうと感じます。

    9世紀の統一新羅時代の石灯籠です。こういったものが日本に伝わって現在の石灯籠になっていったのだろうと感じます。

  • 階段を上がって中に入ると受付があり、日本語のパンフレットがいただけました。入場料は無料です。韓国の博物館の多くは無料の所が多く、一昨年行った「国立慶州博物館」も無料でした。

    階段を上がって中に入ると受付があり、日本語のパンフレットがいただけました。入場料は無料です。韓国の博物館の多くは無料の所が多く、一昨年行った「国立慶州博物館」も無料でした。

  • 先史時代の展示室からスタートします。受付で確認しましたが、ほとんどの展示品はフラッシュを使わなければ撮影可能でした。一部NGのものには表示がありました。

    先史時代の展示室からスタートします。受付で確認しましたが、ほとんどの展示品はフラッシュを使わなければ撮影可能でした。一部NGのものには表示がありました。

  • 大きな時代の括りには韓国語と英語、日本語と中国語で説明がありました。

    大きな時代の括りには韓国語と英語、日本語と中国語で説明がありました。

  • 旧石器時代の人は主に洞窟を住処としましたが、時にテント状の施設も作ったようです。石で叩き割って作った打製石器や木や動物の骨を使って道具を作り、狩猟や採集の生活を営みました。

    旧石器時代の人は主に洞窟を住処としましたが、時にテント状の施設も作ったようです。石で叩き割って作った打製石器や木や動物の骨を使って道具を作り、狩猟や採集の生活を営みました。

  • 韓半島に人類が住み始めたのは約4-70万円前と推定され、釜山海雲台を始め、全国各地で200カ所以上の遺跡が確認されています。

    韓半島に人類が住み始めたのは約4-70万円前と推定され、釜山海雲台を始め、全国各地で200カ所以上の遺跡が確認されています。

  • 釜山地域の新石器時代は紀元前6000年頃から始まり、気温が温暖で食料資源の豊かな海に接しており、海岸や川沿いで多くの遺跡が発見されています。

    釜山地域の新石器時代は紀元前6000年頃から始まり、気温が温暖で食料資源の豊かな海に接しており、海岸や川沿いで多くの遺跡が発見されています。

  • 特に貝塚には当時の人が食した様々な動物や魚介類、植物の痕跡が残されています。

    特に貝塚には当時の人が食した様々な動物や魚介類、植物の痕跡が残されています。

  • また、舟形土器や日本列島で作られた遺物が出土していることから、先史時代に海を越えた交易が行われていたことが分かっています。

    また、舟形土器や日本列島で作られた遺物が出土していることから、先史時代に海を越えた交易が行われていたことが分かっています。

  • 青銅器時代の人々は農作物を作るのに便利な丘陵地帯の谷を開拓し、稲作やキビ、モロコシ、大麦などを作りました。狩猟や漁業も並行して行われましたが、農耕の比率が高まりました。

    青銅器時代の人々は農作物を作るのに便利な丘陵地帯の谷を開拓し、稲作やキビ、モロコシ、大麦などを作りました。狩猟や漁業も並行して行われましたが、農耕の比率が高まりました。

  • 漁網を作る技術も高いですが、網を張るための重りなどはもう現代とほとんど変わらない機能を兼ね揃えています。イラストやレプリカなど非常に分かりやすい展示になっています。

    漁網を作る技術も高いですが、網を張るための重りなどはもう現代とほとんど変わらない機能を兼ね揃えています。イラストやレプリカなど非常に分かりやすい展示になっています。

  • 石で作られた剣のクオリティにも驚かされます。

    石で作られた剣のクオリティにも驚かされます。

  • 紀元前3世紀頃になると中国大陸から流入した鉄器文化が韓半島全体に広がります。鋭利で丈夫な鉄製の道具の発達は社会の分化を促進させ、各地域では政治集団が形成されます。三韓時代(馬韓、辰韓、弁韓)の釜山には東莱地域を中心に弁韓12国の1つである弁辰瀆盧国があったと推定されます。

    紀元前3世紀頃になると中国大陸から流入した鉄器文化が韓半島全体に広がります。鋭利で丈夫な鉄製の道具の発達は社会の分化を促進させ、各地域では政治集団が形成されます。三韓時代(馬韓、辰韓、弁韓)の釜山には東莱地域を中心に弁韓12国の1つである弁辰瀆盧国があったと推定されます。

  • 三韓時代に村は土塁などの防御壁で囲まれ、人々は故人の社会的地位を強調する墳墓を建設しました。墓は地面を掘って丸太や木材で造った棺を納めて造られました。青銅製の鏡、漆器、玉の勾玉、陶器が一緒に埋葬されました。

    三韓時代に村は土塁などの防御壁で囲まれ、人々は故人の社会的地位を強調する墳墓を建設しました。墓は地面を掘って丸太や木材で造った棺を納めて造られました。青銅製の鏡、漆器、玉の勾玉、陶器が一緒に埋葬されました。

  • この時代の釜山尾人々は鉄の生産と交易で富を蓄積しました。鉄は道具や武器の製造だけではなく、交易のための貨幣としても使われました。<br />

    この時代の釜山尾人々は鉄の生産と交易で富を蓄積しました。鉄は道具や武器の製造だけではなく、交易のための貨幣としても使われました。

  • 展示室の中央には巨大な大甕が置かれてあります。これだけ大きなものを形成して焼き上げるには相当の技術が必要だと思います。

    展示室の中央には巨大な大甕が置かれてあります。これだけ大きなものを形成して焼き上げるには相当の技術が必要だと思います。

  • 灰が降り掛かって釉薬となっているということはこの時代には現代のような穴窯があって、その中で焼成されたということが分かります。

    灰が降り掛かって釉薬となっているということはこの時代には現代のような穴窯があって、その中で焼成されたということが分かります。

  • 古代から中世の展示室に移ります。ずっと見学していても我々以外に見学者の姿はありません。平日の午前中ということもありますが、少し寂しい感じがします。

    古代から中世の展示室に移ります。ずっと見学していても我々以外に見学者の姿はありません。平日の午前中ということもありますが、少し寂しい感じがします。

  • 「三韓時代の釜山」<br />三韓時代の小国は交易や農業生産力の増大に伴う強い経済力、強大な軍事力をもとに周辺地域を服属させ、徐々に国家体制を整えました。そして伽耶は川や海を利用した交通路を確保し、豊富な鉄資源を生かして経済的な富を蓄積しました。

    「三韓時代の釜山」
    三韓時代の小国は交易や農業生産力の増大に伴う強い経済力、強大な軍事力をもとに周辺地域を服属させ、徐々に国家体制を整えました。そして伽耶は川や海を利用した交通路を確保し、豊富な鉄資源を生かして経済的な富を蓄積しました。

  • 三国時代の釜山福泉洞古墳群の被葬者は強大な軍事力を持つ金官伽耶の支配者集団です。6世紀半ば以降の釜山地域は政治的文化的に新羅に統合され、新羅が三国を統一した後に東莱郡となりました。

    三国時代の釜山福泉洞古墳群の被葬者は強大な軍事力を持つ金官伽耶の支配者集団です。6世紀半ば以降の釜山地域は政治的文化的に新羅に統合され、新羅が三国を統一した後に東莱郡となりました。

  • 赤錆びた縦長板冑もリアルな歴史を感じさせますが、鐙(あぶみ)や鉄轡(てつあみ)などの馬具も現代のものと変わらないクオリティです。

    赤錆びた縦長板冑もリアルな歴史を感じさせますが、鐙(あぶみ)や鉄轡(てつあみ)などの馬具も現代のものと変わらないクオリティです。

  • 銀象嵌環頭大刀など装飾性も備えた鉄器は錆びる前はどんな姿をしていたのでしょうか。失われている鞘の装飾も気になります。

    銀象嵌環頭大刀など装飾性も備えた鉄器は錆びる前はどんな姿をしていたのでしょうか。失われている鞘の装飾も気になります。

  • 屋を納める矢籠(しこ)も残存する部品は僅かですがイラストのお陰で想像することが出来ます。矢じりなどを見ても鉄を使用することでいろいろなものが劇的に進化したのだと分かります。

    屋を納める矢籠(しこ)も残存する部品は僅かですがイラストのお陰で想像することが出来ます。矢じりなどを見ても鉄を使用することでいろいろなものが劇的に進化したのだと分かります。

  • 鋤や斧も基本的な構造は現在のものと変わらない姿です。

    鋤や斧も基本的な構造は現在のものと変わらない姿です。

  • 鎌の刃の曲線は使い勝手から徐々に曲線になり、この頃に完成形が出来上がり、それ以降は鋼材の精度は上がっても形状の進化は無いようです。

    鎌の刃の曲線は使い勝手から徐々に曲線になり、この頃に完成形が出来上がり、それ以降は鋼材の精度は上がっても形状の進化は無いようです。

  • 3世紀後半以降の釜山地方では登り窯で1000℃以上の高温で焼成された無釉土器が使用されるようになります。無釉土器は工房で熟練した職人によって大量生産されました。

    3世紀後半以降の釜山地方では登り窯で1000℃以上の高温で焼成された無釉土器が使用されるようになります。無釉土器は工房で熟練した職人によって大量生産されました。

  • 器の種類は細分化され、形状は時代と共に着実に変化し、地域ごとに独自の土器が生産され、三国時代の活発な交流が明らかになりました。

    器の種類は細分化され、形状は時代と共に着実に変化し、地域ごとに独自の土器が生産され、三国時代の活発な交流が明らかになりました。

  • 池山洞古墳群は高霊邑の後方、主山(チュサン)の主稜線上に築造された大型古墳や南東の斜面に築造されたおよそ200基の古墳のことをいいます。1977年から発掘された32~35号古墳では鉄製の兜や鎧、金銅冠などが出土し、支配階級の墓であることが明らかになりました。

    池山洞古墳群は高霊邑の後方、主山(チュサン)の主稜線上に築造された大型古墳や南東の斜面に築造されたおよそ200基の古墳のことをいいます。1977年から発掘された32~35号古墳では鉄製の兜や鎧、金銅冠などが出土し、支配階級の墓であることが明らかになりました。

  • 三国を統一した新羅は地方制度の整備によって王権の強化を図り、釜山地域も「東莱群」という1つの地方になりました。この時期には仏教文化が隆盛して仏教式の葬送手段である火葬が全国に広まったほか、各地で様々な規模の寺院が造営され、仏舎利塔や僧侶の舎利を納めた僧塔が建てられました。

    三国を統一した新羅は地方制度の整備によって王権の強化を図り、釜山地域も「東莱群」という1つの地方になりました。この時期には仏教文化が隆盛して仏教式の葬送手段である火葬が全国に広まったほか、各地で様々な規模の寺院が造営され、仏舎利塔や僧侶の舎利を納めた僧塔が建てられました。

  • 「山清 石南巌寺址 石造毘盧遮那仏坐像 蝋石舎利壺」<br />柔らかい蝋石を壺の形状に削り出し、胴の部分には鋭利な金物で漢字が彫り込まれています。

    「山清 石南巌寺址 石造毘盧遮那仏坐像 蝋石舎利壺」
    柔らかい蝋石を壺の形状に削り出し、胴の部分には鋭利な金物で漢字が彫り込まれています。

  • 「仏像文塼」<br />統一新羅時代には石室墓と火葬墓が用いられました。副葬品の種類と量は大幅に減少し、土器の形状は標準化されました。仏教文化の普及に伴い、火葬墓が現れ始めました。様々な模様が刻まれた蓋つきの鉢や甕が火葬に用いられました。

    「仏像文塼」
    統一新羅時代には石室墓と火葬墓が用いられました。副葬品の種類と量は大幅に減少し、土器の形状は標準化されました。仏教文化の普及に伴い、火葬墓が現れ始めました。様々な模様が刻まれた蓋つきの鉢や甕が火葬に用いられました。

  • 塼仏(せんぶつ)とは粘土を凹型につめて成形し、脱型後に焼成して金泥や箔で装飾した浮彫タイル状の仏像のことで、中国では瓦像ともいい、中国では6世紀中頃から製作され、唐代にその最盛期を迎えます。日本には7世紀中頃に伝播して飛鳥時代後期を中心に制作されています。

    塼仏(せんぶつ)とは粘土を凹型につめて成形し、脱型後に焼成して金泥や箔で装飾した浮彫タイル状の仏像のことで、中国では瓦像ともいい、中国では6世紀中頃から製作され、唐代にその最盛期を迎えます。日本には7世紀中頃に伝播して飛鳥時代後期を中心に制作されています。

  • 「石像如来三尊立像」

    「石像如来三尊立像」

  • 「金銅如来立像」

    「金銅如来立像」

  • 「印花文壺」<br />印花(いんか)とは陶磁器の表面に型を押し当てて模様をつける装飾技法です。こういった陶器が日本に伝わり、素地に模様を彫り込み白い化粧土を埋め込んで文様を表現する象嵌技法の三島手になっていくのだろうかと思いました。

    「印花文壺」
    印花(いんか)とは陶磁器の表面に型を押し当てて模様をつける装飾技法です。こういった陶器が日本に伝わり、素地に模様を彫り込み白い化粧土を埋め込んで文様を表現する象嵌技法の三島手になっていくのだろうかと思いました。

  • 三国時代から屋根に瓦を乗せ、屋根の耐久性と防水効果を高める装飾文化が流行しました。

    三国時代から屋根に瓦を乗せ、屋根の耐久性と防水効果を高める装飾文化が流行しました。

  • 統一新羅時代には新しい屋根瓦や煉瓦が開発され、前時代の伝統と中国の唐王朝の影響を融合させた多様な模様が生まれました。

    統一新羅時代には新しい屋根瓦や煉瓦が開発され、前時代の伝統と中国の唐王朝の影響を融合させた多様な模様が生まれました。

  • 宮殿や寺院がより大規模に建設されるにつれて、木造建築の装飾要素として屋根瓦の使用が増加していきます。

    宮殿や寺院がより大規模に建設されるにつれて、木造建築の装飾要素として屋根瓦の使用が増加していきます。

  • 918年に高麗が建国され、その翌年に首都が開京(ケギョン)に遷されると釜山地域は辺境の地となりました。それに伴い政治的にも阻害されて地位が低下しました。高麗中期以降の東莱地域の土着勢力である東莱鄭氏家を中心に中央政界への進出が活発化し、地方官が破片される主県に昇格されました。高麗後期になり倭寇が頻繁に出没するようになると釜山地域は国防の要衝と注目されていきます。

    918年に高麗が建国され、その翌年に首都が開京(ケギョン)に遷されると釜山地域は辺境の地となりました。それに伴い政治的にも阻害されて地位が低下しました。高麗中期以降の東莱地域の土着勢力である東莱鄭氏家を中心に中央政界への進出が活発化し、地方官が破片される主県に昇格されました。高麗後期になり倭寇が頻繁に出没するようになると釜山地域は国防の要衝と注目されていきます。

  • 「象嵌青磁大碟」<br />象嵌青磁は高麗時代に独自に発展した装飾技法です。中国の陶磁器には見られない朝鮮半島独自の美意識を示しています。12世紀前半頃に考案され、高麗青磁が最盛期を迎える頃に技術が円熟しました。

    「象嵌青磁大碟」
    象嵌青磁は高麗時代に独自に発展した装飾技法です。中国の陶磁器には見られない朝鮮半島独自の美意識を示しています。12世紀前半頃に考案され、高麗青磁が最盛期を迎える頃に技術が円熟しました。

  • 「青磁花形碟匙」<br />中国では「碟(せつ)」と呼ばれ、宋の時代を中心に多く作られました。

    「青磁花形碟匙」
    中国では「碟(せつ)」と呼ばれ、宋の時代を中心に多く作られました。

  • 30年くらい前にソウルの「踏十里(タプシムニ)古美術商店街」で李朝箪笥とバンダジを買ったことがありました。当時は家具類は安く妻が買ったタンスは28,000円で、郵便局から9,000円で送れたのにはびっくりしました。私が買ったバンダジは11,000円だったので送料がもったいなくて担いで持ち帰りましたが1メートルほどのケヤキの無垢材で重たくて苦労しました。

    30年くらい前にソウルの「踏十里(タプシムニ)古美術商店街」で李朝箪笥とバンダジを買ったことがありました。当時は家具類は安く妻が買ったタンスは28,000円で、郵便局から9,000円で送れたのにはびっくりしました。私が買ったバンダジは11,000円だったので送料がもったいなくて担いで持ち帰りましたが1メートルほどのケヤキの無垢材で重たくて苦労しました。

  • その時に別の店で古い陶器の良いものを探したのですが、骨董店の主人に「いいものを探すんだったら日本で探しなさい。」と言われたことを思い出しました。

    その時に別の店で古い陶器の良いものを探したのですが、骨董店の主人に「いいものを探すんだったら日本で探しなさい。」と言われたことを思い出しました。

  • 高麗時代の男性は主に家の外での活動を担当し、家事や子育てや教育は女性の役割でした。政治的屋社会的に制限はあったものの女性は家庭内では男性とほぼ同等の立場にありました。日常生活では陶器の他に地元で生産された質の低い青磁も使用されていました。

    高麗時代の男性は主に家の外での活動を担当し、家事や子育てや教育は女性の役割でした。政治的屋社会的に制限はあったものの女性は家庭内では男性とほぼ同等の立場にありました。日常生活では陶器の他に地元で生産された質の低い青磁も使用されていました。

  • 仏教国家と呼ばれる高麗は国政運営を含む多くの麺で宗教の影響を強く受けていました。強い宗教的熱意のもと高麗の工芸品の発展は寺院でのぶっよう儀式や僧侶の修行に必要な品々を中心に展開しました。梵魚寺や長安寺や万徳寺は釜山で栄えました。

    仏教国家と呼ばれる高麗は国政運営を含む多くの麺で宗教の影響を強く受けていました。強い宗教的熱意のもと高麗の工芸品の発展は寺院でのぶっよう儀式や僧侶の修行に必要な品々を中心に展開しました。梵魚寺や長安寺や万徳寺は釜山で栄えました。

  • 「金銅観音菩薩坐像」<br />この像には「願文」が納められていたようで、隣に展示されていました。チベット仏教の様式を感じる台座の表現などからも高麗後期の仏像と推定されているようです。

    「金銅観音菩薩坐像」
    この像には「願文」が納められていたようで、隣に展示されていました。チベット仏教の様式を感じる台座の表現などからも高麗後期の仏像と推定されているようです。

  • 「青銅舎利盒」<br />盒(ごう)は蓋を意味する文字です。仏塔の付いた蓋の中には蓮の花の中に舎利を納める蓋つきの容器が納められています。

    「青銅舎利盒」
    盒(ごう)は蓋を意味する文字です。仏塔の付いた蓋の中には蓮の花の中に舎利を納める蓋つきの容器が納められています。

  • 「圓瓦當」<br />圓瓦當とは屋根瓦の軒先部分に取り付けられる円形の装飾瓦のことです。主に中国の古代建築で用いられ、軒先の保護や排水、屋根の美化といった役割を担っていました。前日に食べたクックァ(菊花)パンを思い出させる形です。

    「圓瓦當」
    圓瓦當とは屋根瓦の軒先部分に取り付けられる円形の装飾瓦のことです。主に中国の古代建築で用いられ、軒先の保護や排水、屋根の美化といった役割を担っていました。前日に食べたクックァ(菊花)パンを思い出させる形です。

  • 「松善寺」「祇?寺」と寺院の名前が読み取れる型押しされた瓦です。

    「松善寺」「祇?寺」と寺院の名前が読み取れる型押しされた瓦です。

  • 「石塔」<br />この石塔は元々は海雲台付近のホテルの庭園にあったもので、高麗時代の木造建築を模倣して造られた当時の建築様式を見ることが出来る貴重な史料です。元々は五層以上の多宝塔だった可能性があります。

    「石塔」
    この石塔は元々は海雲台付近のホテルの庭園にあったもので、高麗時代の木造建築を模倣して造られた当時の建築様式を見ることが出来る貴重な史料です。元々は五層以上の多宝塔だった可能性があります。

  • 「青磁象嵌菊花文托盞」<br />高麗時代にはこの托盞と類似した形態と文様を備えた金属製托盞が多く製作されました。特に盞と托の口縁の端の目立つ部分は金属製托盞の製作過程で生じた痕迹が青磁にそのまま移ったものです。

    「青磁象嵌菊花文托盞」
    高麗時代にはこの托盞と類似した形態と文様を備えた金属製托盞が多く製作されました。特に盞と托の口縁の端の目立つ部分は金属製托盞の製作過程で生じた痕迹が青磁にそのまま移ったものです。

  • 「青磁瓜型注子」<br />瓜形の器形は高麗時代に好まれ、瓜形の水注は大小のものが作られました。宋の使節として高麗の都開城(ケソン)を訪れた徐兢(じょきょう)の著作「高麗図経」にも言及されています。高麗青磁特有の青緑色の釉薬が瓜形の稜間に濃く溜まり、表情を生み出しています。蓋と持ち手には鈕を通す穴があります。

    「青磁瓜型注子」
    瓜形の器形は高麗時代に好まれ、瓜形の水注は大小のものが作られました。宋の使節として高麗の都開城(ケソン)を訪れた徐兢(じょきょう)の著作「高麗図経」にも言及されています。高麗青磁特有の青緑色の釉薬が瓜形の稜間に濃く溜まり、表情を生み出しています。蓋と持ち手には鈕を通す穴があります。

  • 「青磁蓮弁文広口瓶」<br />北宋から南宋時代に中国の龍泉窯で作陶され、刻花で蓮弁文を表現されたもののデザインが朝鮮半島まで伝わったのでしょうか。元々は蓋があったのかもしれません。

    「青磁蓮弁文広口瓶」
    北宋から南宋時代に中国の龍泉窯で作陶され、刻花で蓮弁文を表現されたもののデザインが朝鮮半島まで伝わったのでしょうか。元々は蓋があったのかもしれません。

  • 「青磁陰刻蓮花文瓶」<br />12世紀の高麗青磁最盛期の典型作で、繊細な線彫りが美しいです。

    「青磁陰刻蓮花文瓶」
    12世紀の高麗青磁最盛期の典型作で、繊細な線彫りが美しいです。

  • 「青磁象嵌柳蘆水禽文瓶」<br />象嵌で描かれた柳の枝が下がる水面には水鳥が遊び1つの風景になっています。何年か前に大阪を旅した際に行った「大阪市立東洋陶磁美術館」を思い出します。

    「青磁象嵌柳蘆水禽文瓶」
    象嵌で描かれた柳の枝が下がる水面には水鳥が遊び1つの風景になっています。何年か前に大阪を旅した際に行った「大阪市立東洋陶磁美術館」を思い出します。

  • 続いては別棟の釜山館に移動します。それにしても見学者に出会わないどころか係員の姿も見掛けません。

    続いては別棟の釜山館に移動します。それにしても見学者に出会わないどころか係員の姿も見掛けません。

  • 朝鮮時代の釜山は国防と外交の第一線にありました。釜山は1397年に釜山浦に陣地が設置され、1592年に現在の水営区に慶尚左水営が設置されたことで国防の要塞となります。また朝鮮内で唯一倭館が設置されたことから日本の施設や商人の往来が頻繁になり、朝鮮の施設が日本に派遣される際には経由するなど対日外交と貿易の中心地でもありました。

    朝鮮時代の釜山は国防と外交の第一線にありました。釜山は1397年に釜山浦に陣地が設置され、1592年に現在の水営区に慶尚左水営が設置されたことで国防の要塞となります。また朝鮮内で唯一倭館が設置されたことから日本の施設や商人の往来が頻繁になり、朝鮮の施設が日本に派遣される際には経由するなど対日外交と貿易の中心地でもありました。

  • 「東莱釜山古地図」<br />東莱地域を正確に描写していて、地名は赤い四角枠で囲んでいます。東莱邑城、金正山城。左水営を細かいながら力強く描いています。現在の釜山の死骸図と見比べて見ても面白いです。

    「東莱釜山古地図」
    東莱地域を正確に描写していて、地名は赤い四角枠で囲んでいます。東莱邑城、金正山城。左水営を細かいながら力強く描いています。現在の釜山の死骸図と見比べて見ても面白いです。

  • 「諭書」<br />1731年に壬辰倭乱(じんしんわらん)、文禄・慶長の役の以降崩れていた東莱邑城を改築した鄭氏に永祖がその功績を称えた書です。ハングルは1446年10月9日に「訓民正音」という名前で正式に公布されますが、その後であっても公式の文書は漢字が使われていたのだと感じます。

    「諭書」
    1731年に壬辰倭乱(じんしんわらん)、文禄・慶長の役の以降崩れていた東莱邑城を改築した鄭氏に永祖がその功績を称えた書です。ハングルは1446年10月9日に「訓民正音」という名前で正式に公布されますが、その後であっても公式の文書は漢字が使われていたのだと感じます。

  • 1894年のハングル国字化以降も公文書や新聞などでは漢字は積極的に用いられていました。その後1948年に「ハングル専用法」でハングルを法的に正統な文字と定め、1970年に「漢字廃止宣言」を行ったことでハングルのみの使用に本格的に傾きます。子供の頃に韓国の新聞を見たことがありますが、昭和40年代でもかなり漢字が混在していたことを思い出しました。

    1894年のハングル国字化以降も公文書や新聞などでは漢字は積極的に用いられていました。その後1948年に「ハングル専用法」でハングルを法的に正統な文字と定め、1970年に「漢字廃止宣言」を行ったことでハングルのみの使用に本格的に傾きます。子供の頃に韓国の新聞を見たことがありますが、昭和40年代でもかなり漢字が混在していたことを思い出しました。

  • 16世紀後半になると北東アジアの国際秩序に変化が起こり始めたことで、日中韓の三国は国内外で揺らぎ始めました。この当時の日本は乙卯倭変と寧波の乱以降、朝鮮と明との貿易が廃止され経済的に大きな打撃を受けます。これに戦国時代を終結させた豊臣秀吉は経済的困窮を解決し、国内勢力間の対立を解消するために朝鮮を侵略し文禄・慶長の役が始まります。

    16世紀後半になると北東アジアの国際秩序に変化が起こり始めたことで、日中韓の三国は国内外で揺らぎ始めました。この当時の日本は乙卯倭変と寧波の乱以降、朝鮮と明との貿易が廃止され経済的に大きな打撃を受けます。これに戦国時代を終結させた豊臣秀吉は経済的困窮を解決し、国内勢力間の対立を解消するために朝鮮を侵略し文禄・慶長の役が始まります。

  • 1760年に東莱部軍官が描いた壬辰倭乱の最初の戦闘である釜山鎮城を描いています。日本では文禄・慶長の役と呼ばれる戦いは、豊臣秀吉の大明帝国の征服を目指したことにより起きました。

    1760年に東莱部軍官が描いた壬辰倭乱の最初の戦闘である釜山鎮城を描いています。日本では文禄・慶長の役と呼ばれる戦いは、豊臣秀吉の大明帝国の征服を目指したことにより起きました。

  • 秀吉は明の冊封国である朝鮮に服属を強要しましたが拒まれたため、この遠征軍はまず朝鮮に差し向けました。

    秀吉は明の冊封国である朝鮮に服属を強要しましたが拒まれたため、この遠征軍はまず朝鮮に差し向けました。

  • 学生時代の歴史の勉強でも詳しく学ぶことはありませんでしたが、その戦いの始まりがここ釜山であったことは初めて知りました。まだまだ学ばなければならないことはたくさんあると感じた釜山の旅です。

    学生時代の歴史の勉強でも詳しく学ぶことはありませんでしたが、その戦いの始まりがここ釜山であったことは初めて知りました。まだまだ学ばなければならないことはたくさんあると感じた釜山の旅です。

  • 朝鮮半島において戦場で身を守るための服である鎧は中国から伝わりました。鎧はカボッ、鎧と兜を合わせた意の甲冑はカプチュtぴょばれます。鎧は基本は武官軍服の具軍服クグンボクの上に重ね着するだけなので、日本の甲冑のように着るのに時間と手間がかかることはなかったようです。

    朝鮮半島において戦場で身を守るための服である鎧は中国から伝わりました。鎧はカボッ、鎧と兜を合わせた意の甲冑はカプチュtぴょばれます。鎧は基本は武官軍服の具軍服クグンボクの上に重ね着するだけなので、日本の甲冑のように着るのに時間と手間がかかることはなかったようです。

  • 「盧蓋邦 追贈教旨」<br />釜山鎮の戦いで釜山と周辺の砦を陥落させた後、日本軍は沿岸部の橋頭堡を確保する必要がありましたが北の漢城へ通じる主要道の間に東萊城がありました。侵入する日本軍に代将宋鳳寿・梁山郡守趙英珪・東萊教授盧蓋邦・助防将洪允寛など、朝鮮側諸将は次々に討死ていきます。この書は亡くなった盧蓋邦へ贈られた教旨です。

    「盧蓋邦 追贈教旨」
    釜山鎮の戦いで釜山と周辺の砦を陥落させた後、日本軍は沿岸部の橋頭堡を確保する必要がありましたが北の漢城へ通じる主要道の間に東萊城がありました。侵入する日本軍に代将宋鳳寿・梁山郡守趙英珪・東萊教授盧蓋邦・助防将洪允寛など、朝鮮側諸将は次々に討死ていきます。この書は亡くなった盧蓋邦へ贈られた教旨です。

  • 「烈女金口祠堂扁額」<br />東萊府使の宋象賢は敗北を覚り、朝服姿になって楼閣に上って端坐し、落城の際に扇に「孤城月暈り大鎮救わず 君臣の義重く父子の恩軽し」と辞世の句を書いて息絶えました。

    「烈女金口祠堂扁額」
    東萊府使の宋象賢は敗北を覚り、朝服姿になって楼閣に上って端坐し、落城の際に扇に「孤城月暈り大鎮救わず 君臣の義重く父子の恩軽し」と辞世の句を書いて息絶えました。

  • 「萬公壇碑」<br />中国の明国の萬世徳が導いた軍隊は1599年に日本の軍隊を追い出し、釜山城を占領したことでこの碑が造られたようです。

    「萬公壇碑」
    中国の明国の萬世徳が導いた軍隊は1599年に日本の軍隊を追い出し、釜山城を占領したことでこの碑が造られたようです。

  • 通信使は対馬藩や瀬戸内海の藩を通り、海路で大阪へ向かいました。そこからさらに京都へ進み、最終的には江戸まで向かいました。通信史は通過するすべての藩で熱烈な歓迎を受け、王の手紙を届けるという重大な任務を遂行した後に帰還しました。

    通信使は対馬藩や瀬戸内海の藩を通り、海路で大阪へ向かいました。そこからさらに京都へ進み、最終的には江戸まで向かいました。通信史は通過するすべての藩で熱烈な歓迎を受け、王の手紙を届けるという重大な任務を遂行した後に帰還しました。

  • 「朝鮮人渡海船文長皿」<br />有田で生産されたと思われる染付の長皿です。見込みには海を渡る竜頭船とその上で官服を着て文章を読む人が描かれています。

    「朝鮮人渡海船文長皿」
    有田で生産されたと思われる染付の長皿です。見込みには海を渡る竜頭船とその上で官服を着て文章を読む人が描かれています。

  • 天和2年の1682年に日本へ来た「朝鮮人来朝之記」と宝暦13年の1763年の「大全記」が残されています。日本人が記録したものが良く残っていたと思います。

    天和2年の1682年に日本へ来た「朝鮮人来朝之記」と宝暦13年の1763年の「大全記」が残されています。日本人が記録したものが良く残っていたと思います。

  • 通信使の要員が何人いてどんな役割でどんなものを持っていたかが詳細に記録されています。旗を掲げて麻の傘を差し、ほら貝や喇叭を吹きながらの行列は壮観だったことでしょう。

    通信使の要員が何人いてどんな役割でどんなものを持っていたかが詳細に記録されています。旗を掲げて麻の傘を差し、ほら貝や喇叭を吹きながらの行列は壮観だったことでしょう。

  • 「商船通信使行列図版画」とありましたが日本では「浮絵御祭唐人行列絵」というタイトルで江戸時代の18世紀に西村重長によって作られた横大判紅絵です。

    「商船通信使行列図版画」とありましたが日本では「浮絵御祭唐人行列絵」というタイトルで江戸時代の18世紀に西村重長によって作られた横大判紅絵です。

  • 「彩色通信使皿」<br />吉祥模様の中に東海道を江戸に向かう通信使の一行が描かれています。裏面の高台の内側には富貴長春と書かれてあるようです。江戸時代にはこのような通信使を描いたものが人気だったようです。

    「彩色通信使皿」
    吉祥模様の中に東海道を江戸に向かう通信使の一行が描かれています。裏面の高台の内側には富貴長春と書かれてあるようです。江戸時代にはこのような通信使を描いたものが人気だったようです。

  • 「対馬島宗家印章」<br />対馬宗家は鎌倉時代から明治時代まで約600年間に渡り対馬を治めた武家・華族です。 室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮王朝との外交や貿易において重要な役割を担いました。豊臣秀吉に服属した宗義智は秀吉の朝鮮出兵を回避する努力をしましたが開戦後は日朝国交回復に尽力しました。江戸時代になると徳川幕府の下で日朝外交と貿易の窓口を独占しました。江戸幕府が設定した「四つの口」の1つである対馬口を担い、特に朝鮮通信使の対応を通じて日朝関係の維持に重要な役割を果たしました。

    「対馬島宗家印章」
    対馬宗家は鎌倉時代から明治時代まで約600年間に渡り対馬を治めた武家・華族です。 室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮王朝との外交や貿易において重要な役割を担いました。豊臣秀吉に服属した宗義智は秀吉の朝鮮出兵を回避する努力をしましたが開戦後は日朝国交回復に尽力しました。江戸時代になると徳川幕府の下で日朝外交と貿易の窓口を独占しました。江戸幕府が設定した「四つの口」の1つである対馬口を担い、特に朝鮮通信使の対応を通じて日朝関係の維持に重要な役割を果たしました。

  • 「曹命采肖像」<br />1748年の通信使従事官として日本へやってきた人物です。

    「曹命采肖像」
    1748年の通信使従事官として日本へやってきた人物です。

  • 「通信使屏風」<br />江戸城内での通信使一行が描かれた六曲一双の屏風です。福建寺所有の「江戸城内応接絵図」とも同じ構図のため、その写しと考えられているようです。

    「通信使屏風」
    江戸城内での通信使一行が描かれた六曲一双の屏風です。福建寺所有の「江戸城内応接絵図」とも同じ構図のため、その写しと考えられているようです。

  • 「馬上才圓巻」<br />馬上で行われる様々な曲芸演舞が描かれています。三国時代にはすでに行われ、高麗時代と朝鮮時代には非常に人気がありました。

    「馬上才圓巻」
    馬上で行われる様々な曲芸演舞が描かれています。三国時代にはすでに行われ、高麗時代と朝鮮時代には非常に人気がありました。

  • 17世紀以降は朝鮮の馬術は日本にも知られており、徳川幕府では朝鮮政府へ通信使派遣時に馬術一行を送るように要請しました。その甲斐もあり1636年から一行が通信使の随行員となりました。

    17世紀以降は朝鮮の馬術は日本にも知られており、徳川幕府では朝鮮政府へ通信使派遣時に馬術一行を送るように要請しました。その甲斐もあり1636年から一行が通信使の随行員となりました。

  • 同じような馬術は中国を旅した際にいろいろなショーで見たことがあります。最近では三峡下りのクルーズでは忠県から観に行った「烽煙三国」というショーが素晴らしかったです。<br />烽煙三国:https://4travel.jp/travelogue/11972907

    同じような馬術は中国を旅した際にいろいろなショーで見たことがあります。最近では三峡下りのクルーズでは忠県から観に行った「烽煙三国」というショーが素晴らしかったです。
    烽煙三国:https://4travel.jp/travelogue/11972907

  • 朝鮮通信使一行が通過する際に日本人は通信使一行の人物から書を書いてもらうように依頼することが多くあったそうです。この書には「麟鳳」と書かれてあり、その意味は「麒麟」と「鳳凰」からの一文字づつが書かれてあります。その横には「朝鮮金守正九年書」とあることから朝鮮人の9歳のキム・スジョンという人物が描いたと分かります。

    朝鮮通信使一行が通過する際に日本人は通信使一行の人物から書を書いてもらうように依頼することが多くあったそうです。この書には「麟鳳」と書かれてあり、その意味は「麒麟」と「鳳凰」からの一文字づつが書かれてあります。その横には「朝鮮金守正九年書」とあることから朝鮮人の9歳のキム・スジョンという人物が描いたと分かります。

  • 「布袋図」<br />法眼月岡雪斎とあることから江戸時代に大坂で活躍した浮世絵師の作だということが分かります。布袋は唐代末から五代時代にかけて実在した伝説的な仏僧です。常に袋(頭陀袋)を背負っていたことから布袋という俗称がつけられ、中国では弥勒の化身とされます。日本では鎌倉時代に禅画の題材として布袋が受容され、子供と一緒に描かれることも多いです。ここでは手に持った朝鮮通信使の人形に視線が向かいます。

    「布袋図」
    法眼月岡雪斎とあることから江戸時代に大坂で活躍した浮世絵師の作だということが分かります。布袋は唐代末から五代時代にかけて実在した伝説的な仏僧です。常に袋(頭陀袋)を背負っていたことから布袋という俗称がつけられ、中国では弥勒の化身とされます。日本では鎌倉時代に禅画の題材として布袋が受容され、子供と一緒に描かれることも多いです。ここでは手に持った朝鮮通信使の人形に視線が向かいます。

  • 「倭館図」<br />1783年に描かれた倭館の図です。釜山浦倭館とも呼ばれ、現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱鎮城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にありました。1494年には450人程度の日本人が居住し、1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されましたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開されました。釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続しました。

    「倭館図」
    1783年に描かれた倭館の図です。釜山浦倭館とも呼ばれ、現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱鎮城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にありました。1494年には450人程度の日本人が居住し、1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されましたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開されました。釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続しました。

  • 「鷹図」<br />朝鮮時代に製作された絵の画中に「朝鮮」の国名が掛かれている場合、それは長選の画家が通信使として日本に行った際に製作したものか、東莱の画家が日本へ輸出する目的で描いたものです。

    「鷹図」
    朝鮮時代に製作された絵の画中に「朝鮮」の国名が掛かれている場合、それは長選の画家が通信使として日本に行った際に製作したものか、東莱の画家が日本へ輸出する目的で描いたものです。

  • 「竹虎図」<br />この図にも「朝鮮」の文字がありました。中国や日本と違った虎の雰囲気が何とも言えません。

    「竹虎図」
    この図にも「朝鮮」の文字がありました。中国や日本と違った虎の雰囲気が何とも言えません。

  • 「古土器集覧」<br />江戸時代に観光されたこの本には日本の茶道に活用された様々な陶磁製品の絵と簡単な説明が載っています。陶磁器関係の展示は興味深いのでついつい多くの写真を撮ってしまいます。

    「古土器集覧」
    江戸時代に観光されたこの本には日本の茶道に活用された様々な陶磁製品の絵と簡単な説明が載っています。陶磁器関係の展示は興味深いのでついつい多くの写真を撮ってしまいます。

  • 「立鶴茶碗」<br />ところどころにピンク色の斑模様が現れた萩焼のような肌に、鶴の絵が描かれた茶碗。徳川三代将軍家光が描いた立鶴の絵をもとに、小堀遠州が朝鮮に注文して焼かせたという伝承があります。「御本茶碗」とは日本からの注文を受けて、朝鮮で焼かれた茶碗のことをいいます。注文の際に、手本となる下絵や、器の形を示す切り形を添えたことから、「御手本」の意味で「御本」と呼ばれるようになりました。

    「立鶴茶碗」
    ところどころにピンク色の斑模様が現れた萩焼のような肌に、鶴の絵が描かれた茶碗。徳川三代将軍家光が描いた立鶴の絵をもとに、小堀遠州が朝鮮に注文して焼かせたという伝承があります。「御本茶碗」とは日本からの注文を受けて、朝鮮で焼かれた茶碗のことをいいます。注文の際に、手本となる下絵や、器の形を示す切り形を添えたことから、「御手本」の意味で「御本」と呼ばれるようになりました。

  • 倭館は中世から近世にかけて朝鮮半島に設けられた日本人居留地で、江戸時代には対馬藩が朝鮮との外交や貿易を担っていました。これらの禁止事項は、朝鮮と対馬藩が協議を重ね、「約条」「禁条」「禁制」「節目」といった形で成文化され、倭館に滞在する日本人の行動を統制するために制定されました。特に「癸亥約条」(1683年)と「交奸約条」(1711年)は、これらの規定の集大成とも言えるものでした。

    倭館は中世から近世にかけて朝鮮半島に設けられた日本人居留地で、江戸時代には対馬藩が朝鮮との外交や貿易を担っていました。これらの禁止事項は、朝鮮と対馬藩が協議を重ね、「約条」「禁条」「禁制」「節目」といった形で成文化され、倭館に滞在する日本人の行動を統制するために制定されました。特に「癸亥約条」(1683年)と「交奸約条」(1711年)は、これらの規定の集大成とも言えるものでした。

  • 近代という新しい時代が海を渡って朝鮮に訪れると1876年には日本によって結ばれた日朝修好条規が前途多難を暗示させます。同条約後に朝鮮発の近代的な開港場となった釜山には多くの西洋人も訪れました。開港当時は漁村に過ぎなかった釜山は次第に都市へと変化していきます。

    近代という新しい時代が海を渡って朝鮮に訪れると1876年には日本によって結ばれた日朝修好条規が前途多難を暗示させます。同条約後に朝鮮発の近代的な開港場となった釜山には多くの西洋人も訪れました。開港当時は漁村に過ぎなかった釜山は次第に都市へと変化していきます。

  • 太極旗は1883年に朝鮮の国旗として初めて公布され、1948年からは大韓民国の国旗となりました。白地に太極模様と四卦が配置されたデザインは、中国の伝統的な思想を取り入れています。

    太極旗は1883年に朝鮮の国旗として初めて公布され、1948年からは大韓民国の国旗となりました。白地に太極模様と四卦が配置されたデザインは、中国の伝統的な思想を取り入れています。

  • 「太極旗」<br />太極旗の制定に関する議論は1876年に始まりました。1882年に朴泳孝が日本へ向かう船中で太極四卦の図案を考案し、神戸港で掲揚したのが始まりとされています。初期の太極旗は現在のものとは色や形、配置が異なっていました。

    「太極旗」
    太極旗の制定に関する議論は1876年に始まりました。1882年に朴泳孝が日本へ向かう船中で太極四卦の図案を考案し、神戸港で掲揚したのが始まりとされています。初期の太極旗は現在のものとは色や形、配置が異なっていました。

  • 日本は開港直後に設けた専管居留地を足場に植民地収奪のための施設を拡大していきます。朝鮮人は新たな教育を受け入れ、近代かと民主主義教育を活性化させます。1910年に日韓併合により自主的な近代化は失敗してしまいます。日本は統治時代に釜山のインフラを整備して植民都市としていきます。

    日本は開港直後に設けた専管居留地を足場に植民地収奪のための施設を拡大していきます。朝鮮人は新たな教育を受け入れ、近代かと民主主義教育を活性化させます。1910年に日韓併合により自主的な近代化は失敗してしまいます。日本は統治時代に釜山のインフラを整備して植民都市としていきます。

  • 現在の日本と韓国の定期航路は大阪・福岡・下関・対馬くらいでしょうか。この当時は東京駅からベルリンまでの切符が買えたなんて話を思い出しました。ある意味現代よりもグローバルな世界があったのだと感じます。

    現在の日本と韓国の定期航路は大阪・福岡・下関・対馬くらいでしょうか。この当時は東京駅からベルリンまでの切符が買えたなんて話を思い出しました。ある意味現代よりもグローバルな世界があったのだと感じます。

  • 釜山の地図や釜山桟橋食堂の寿司弁当には今回も行った「松島海岸」や「龍頭山公園」の文字が見えます。

    釜山の地図や釜山桟橋食堂の寿司弁当には今回も行った「松島海岸」や「龍頭山公園」の文字が見えます。

  • 「朝鮮鉄道案内書」<br />よく読んでいくと釜山を出発して鴨緑江鉄橋を渡り、中国の安東までの鉄道路線の案内書です。ガラスケースから出してもらって読んでみたくなります。

    「朝鮮鉄道案内書」
    よく読んでいくと釜山を出発して鴨緑江鉄橋を渡り、中国の安東までの鉄道路線の案内書です。ガラスケースから出してもらって読んでみたくなります。

  • 「朝鮮鉄道地図」<br />1914年には朝鮮半島を縦断し、中国へ繋がる鉄道網が整備されていたことが分かります。その上部の38度線以北はもう鉄道を利用していくことは出来ません。

    「朝鮮鉄道地図」
    1914年には朝鮮半島を縦断し、中国へ繋がる鉄道網が整備されていたことが分かります。その上部の38度線以北はもう鉄道を利用していくことは出来ません。

  • 「釜山電車路線図」<br />昭和40年代では似たようなパンフレットが日本各地にもありました。釜山の路面電車の路線図を見ていくと観光地の盛衰も感じられます。

    「釜山電車路線図」
    昭和40年代では似たようなパンフレットが日本各地にもありました。釜山の路面電車の路線図を見ていくと観光地の盛衰も感じられます。

  • 日本による韓国併合時の米政策は、主に日本の食糧問題解消と朝鮮半島での経済的支配強化を目的としていました。中でも「産米増殖計画」が中心的な政策として立案・実施されました。

    日本による韓国併合時の米政策は、主に日本の食糧問題解消と朝鮮半島での経済的支配強化を目的としていました。中でも「産米増殖計画」が中心的な政策として立案・実施されました。

  • 昭和14年の朝鮮総督府の職員名簿の表紙を見てしまうと自分の人生とそう遠くない時代だったのだと感じます。

    昭和14年の朝鮮総督府の職員名簿の表紙を見てしまうと自分の人生とそう遠くない時代だったのだと感じます。

  • 「陸軍少年兵募集ポスター」<br />昭和初期に発行されたプロパガンダのポスターです。なかなか日本国内で観ることは少ないですが、中国東北部の博物館では見ることが多いです。

    「陸軍少年兵募集ポスター」
    昭和初期に発行されたプロパガンダのポスターです。なかなか日本国内で観ることは少ないですが、中国東北部の博物館では見ることが多いです。

  • 日本人でありながら初めて見るポスターに目が留まってしまいます。

    日本人でありながら初めて見るポスターに目が留まってしまいます。

  • 1948年の分断国家の樹立以降、南北朝鮮の対立は次第に激化していきます。1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を越えて進行し戦争が勃発します。国内戦で始まった朝鮮戦争は米軍と国連軍が介入し、その後に中国軍が加わったことで国際戦争の様相を呈していきます。

    1948年の分断国家の樹立以降、南北朝鮮の対立は次第に激化していきます。1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を越えて進行し戦争が勃発します。国内戦で始まった朝鮮戦争は米軍と国連軍が介入し、その後に中国軍が加わったことで国際戦争の様相を呈していきます。

  • 朝鮮戦争が勃発した後は戦火を避けて南へ避難する人々が増えていきます。その週着地はほとんどが釜山でした。1951年1月4日の中朝軍によるソウル千両で釜山への避難民の数は最多の60万人に達しました。

    朝鮮戦争が勃発した後は戦火を避けて南へ避難する人々が増えていきます。その週着地はほとんどが釜山でした。1951年1月4日の中朝軍によるソウル千両で釜山への避難民の数は最多の60万人に達しました。

  • 朝鮮戦争後の釜山の社会経済的状況は政府機関のソウル移転にと共に一時的な停滞時期を迎えます。1950年代半ばになると急速的な復興期を迎え特に援助材料を元にした小麦粉と砂糖と紡績の三白産業が頭角を現していきます。ガイドさんがバスの中で話してくれた北と南の冷麵の違いも南では小麦粉があったからだということが実感できます。

    朝鮮戦争後の釜山の社会経済的状況は政府機関のソウル移転にと共に一時的な停滞時期を迎えます。1950年代半ばになると急速的な復興期を迎え特に援助材料を元にした小麦粉と砂糖と紡績の三白産業が頭角を現していきます。ガイドさんがバスの中で話してくれた北と南の冷麵の違いも南では小麦粉があったからだということが実感できます。

  • 最後に「書画工芸室」を見学します。ここでは1978年以降に購入を通じて収集してきた仏教関係の彫刻や陶器、絵画、書などのコレクションが展示されています。

    最後に「書画工芸室」を見学します。ここでは1978年以降に購入を通じて収集してきた仏教関係の彫刻や陶器、絵画、書などのコレクションが展示されています。

  • 「高麗白磁」11世紀から12世紀高麗時代<br />高麗白磁は中国の白磁から大きな影響を受けており、特に宋代以降の中国製が多くを占めるとされています。ここに並ぶ白磁の特徴は明代の建窯白磁に似た象牙や乳白色ガラスを思わせる色合いです。

    「高麗白磁」11世紀から12世紀高麗時代
    高麗白磁は中国の白磁から大きな影響を受けており、特に宋代以降の中国製が多くを占めるとされています。ここに並ぶ白磁の特徴は明代の建窯白磁に似た象牙や乳白色ガラスを思わせる色合いです。

  • 「青磁陽刻饕餮文方鼎形香爐」<br />型押しした板造りでありながら微妙に歪んだ姿が何とも素晴らしいです。「饕餮文」とは体は牛か羊で曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つという怪物です。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意味があります。殷代から周代にかけて饕餮文と呼ばれる模様が青銅器や玉器の修飾に部分的に用いられ、この頃の王は神の意思を人間に伝える者とされました。

    「青磁陽刻饕餮文方鼎形香爐」
    型押しした板造りでありながら微妙に歪んだ姿が何とも素晴らしいです。「饕餮文」とは体は牛か羊で曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つという怪物です。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意味があります。殷代から周代にかけて饕餮文と呼ばれる模様が青銅器や玉器の修飾に部分的に用いられ、この頃の王は神の意思を人間に伝える者とされました。

  • 「青磁陽刻牡丹唐草文瓦」<br />これは実際に屋根に葺くために造られた瓦なのだろうかと思いました。あまりにも1枚のクオリティが高すぎ、高い所に並んでもその美しさは目では確認できません。

    「青磁陽刻牡丹唐草文瓦」
    これは実際に屋根に葺くために造られた瓦なのだろうかと思いました。あまりにも1枚のクオリティが高すぎ、高い所に並んでもその美しさは目では確認できません。

  • 「青磁陰刻蓮花文瓶」<br />首にひもを結ぶ環があるので元々は蓋があったのだろうと思えます。中国の餞州窯の青磁の技術を導入して焼き始められたもので、主な製作地は全羅南道の康津と全羅北道の扶安です。宋の越州窯の青磁は中国で「秘色」と呼ばれましたが、高麗では12世紀前半に粉青色の陶器が生産出来る様に成ると粉青色を「翡色」と呼びました。

    「青磁陰刻蓮花文瓶」
    首にひもを結ぶ環があるので元々は蓋があったのだろうと思えます。中国の餞州窯の青磁の技術を導入して焼き始められたもので、主な製作地は全羅南道の康津と全羅北道の扶安です。宋の越州窯の青磁は中国で「秘色」と呼ばれましたが、高麗では12世紀前半に粉青色の陶器が生産出来る様に成ると粉青色を「翡色」と呼びました。

  • 「青磁象嵌菊花折枝文瓶」<br />高麗青磁象嵌は高麗時代に朝鮮半島で発展した独自の装飾技法です。これは陶磁器の表面に文様を彫り、その溝に異なる色の土を埋め込み、青磁釉をかけて焼き上げることで文様を際立たせるものです。

    「青磁象嵌菊花折枝文瓶」
    高麗青磁象嵌は高麗時代に朝鮮半島で発展した独自の装飾技法です。これは陶磁器の表面に文様を彫り、その溝に異なる色の土を埋め込み、青磁釉をかけて焼き上げることで文様を際立たせるものです。

  • 「青磁象嵌牡丹文篇瓶」

    「青磁象嵌牡丹文篇瓶」

  • 「白磁大壺」<br />上下別々にものを堂で繋いでいるので整った形に仕上がらず、胴のゆがみやひずみが壺の表情を豊かにしています。こうした大壺は韓国では「満月壺(タルハンアリ)」と呼ばれ、朝鮮白磁の粋として珍重されています。「大阪市立東洋陶磁美術館」に納められた壺を思い出しました。この壺は戦争中に世話になったお礼に志賀直哉から東大寺元管長の上司海雲師に贈られたものでしたが、1995年に盗みに入った賊によって粉々にされた後、修復を経て以前と変わらない姿で蘇りました。

    「白磁大壺」
    上下別々にものを堂で繋いでいるので整った形に仕上がらず、胴のゆがみやひずみが壺の表情を豊かにしています。こうした大壺は韓国では「満月壺(タルハンアリ)」と呼ばれ、朝鮮白磁の粋として珍重されています。「大阪市立東洋陶磁美術館」に納められた壺を思い出しました。この壺は戦争中に世話になったお礼に志賀直哉から東大寺元管長の上司海雲師に贈られたものでしたが、1995年に盗みに入った賊によって粉々にされた後、修復を経て以前と変わらない姿で蘇りました。

  • 「青銅金鼓」<br />青銅金鼓は高麗時代に朝鮮半島で制作された青銅製の金工品です。中央の蓮花と縁の雲門が仏教を感じさせます。

    「青銅金鼓」
    青銅金鼓は高麗時代に朝鮮半島で制作された青銅製の金工品です。中央の蓮花と縁の雲門が仏教を感じさせます。

  • 「商州 安水寺銘 銅鐘」<br />

    「商州 安水寺銘 銅鐘」

  • 「粉青沙器彫花?地牡丹葉文瓶」<br />粉青沙器は、朝鮮半島で李氏朝鮮時代の前半の15世紀を中心に作られた磁器の一種です。鉄分の多い陶土に肌理細かい白土釉で化粧掛けを施し、透明釉を掛けて焼造します。高麗時代末期の14世紀半ばに発祥し、15世紀に最盛期を迎え、16世紀前半には消滅して、その後の朝鮮王朝の磁器は李朝白磁が主体となっていきます。

    「粉青沙器彫花?地牡丹葉文瓶」
    粉青沙器は、朝鮮半島で李氏朝鮮時代の前半の15世紀を中心に作られた磁器の一種です。鉄分の多い陶土に肌理細かい白土釉で化粧掛けを施し、透明釉を掛けて焼造します。高麗時代末期の14世紀半ばに発祥し、15世紀に最盛期を迎え、16世紀前半には消滅して、その後の朝鮮王朝の磁器は李朝白磁が主体となっていきます。

  • 「粉青沙器印花縄簾文’義興長興庫’銘大碟」<br />粉青沙器印花は朝鮮時代に作られた粉青沙器の一種です。粉青沙器は鉄分の多い胎土に白土で化粧掛けをし、透明な釉薬をかけて焼成した陶磁器で、高麗時代の青磁の技術を受け継ぎながら独自の発展を遂げました。

    「粉青沙器印花縄簾文’義興長興庫’銘大碟」
    粉青沙器印花は朝鮮時代に作られた粉青沙器の一種です。粉青沙器は鉄分の多い胎土に白土で化粧掛けをし、透明な釉薬をかけて焼成した陶磁器で、高麗時代の青磁の技術を受け継ぎながら独自の発展を遂げました。

  • 「粉青沙器印花縄簾文’軍威仁壽府’銘大碟」<br />日本では「三島(みしま)」や「刷毛目(はけめ)」「粉引(こひき)」などとも呼ばれ、特に「三島」は印花文様を表すものがこれにあたります。

    「粉青沙器印花縄簾文’軍威仁壽府’銘大碟」
    日本では「三島(みしま)」や「刷毛目(はけめ)」「粉引(こひき)」などとも呼ばれ、特に「三島」は印花文様を表すものがこれにあたります。

  • 「粉青沙器象嵌蓮花文瓶」

    「粉青沙器象嵌蓮花文瓶」

  • 「粉青沙器鉄描三葉文俵壺」<br />俵壺(ひょうこ)は俵を横にしたような形状の壺を指します。韓国ではチャングンと呼ばれ、酒や醤油、水などを入れる容器として使われました。

    「粉青沙器鉄描三葉文俵壺」
    俵壺(ひょうこ)は俵を横にしたような形状の壺を指します。韓国ではチャングンと呼ばれ、酒や醤油、水などを入れる容器として使われました。

  • 「白磁象樽」<br />アルマジロかと思いましたが象のようです。

    「白磁象樽」
    アルマジロかと思いましたが象のようです。

  • 「白磁八角祭器」

    「白磁八角祭器」

  • 「白磁青書山水文扁瓶」

    「白磁青書山水文扁瓶」

  • 「白磁青書牡丹蝙蝠文注子」

    「白磁青書牡丹蝙蝠文注子」

  • 「白磁銅書日月燕雲文壺」

    「白磁銅書日月燕雲文壺」

  • 「白磁鉄書文武官明器」<br />朝鮮時代の墓の副葬品として作られた「明器」です。奈良の東大寺別当だった清水公照の造った泥仏を思い出すユニークな姿です。

    「白磁鉄書文武官明器」
    朝鮮時代の墓の副葬品として作られた「明器」です。奈良の東大寺別当だった清水公照の造った泥仏を思い出すユニークな姿です。

  • 「白磁鉄書馬形明器」

    「白磁鉄書馬形明器」

  • 「李鍾林肖像」<br />朝鮮末から大韓民国の官僚である李鍾林(イ・ジョンリム)の53歳の肖像画です。この図では正三品以上の文官が着る団領(ダルリョン)の官服を着ています。

    「李鍾林肖像」
    朝鮮末から大韓民国の官僚である李鍾林(イ・ジョンリム)の53歳の肖像画です。この図では正三品以上の文官が着る団領(ダルリョン)の官服を着ています。

  • 朝鮮時代の花鳥画は花や鳥を題材にした絵画です。多様な意味合いを持ち、人々の生活に密着した形で発展しました。

    朝鮮時代の花鳥画は花や鳥を題材にした絵画です。多様な意味合いを持ち、人々の生活に密着した形で発展しました。

  • つがいで描かれた鳥は夫婦円満を意味します。昨年行った北京のお土産物屋で偶然手に入れたシルク地に描かれた花鳥画はいくらもしませんでしたがまとめて額装したらとても見事なものになりました。

    つがいで描かれた鳥は夫婦円満を意味します。昨年行った北京のお土産物屋で偶然手に入れたシルク地に描かれた花鳥画はいくらもしませんでしたがまとめて額装したらとても見事なものになりました。

  • 大学の先生だという画家の方についてちゃんと聞いて来ればよかったと後悔しています。

    大学の先生だという画家の方についてちゃんと聞いて来ればよかったと後悔しています。

  • 何故か兎が描かれていました。それ以外の絵は全て鳥でしたが何故ウサギと思いながらいろいろなことを考えてしまいました。日本では兎を1羽2羽根と数えますが、これは江戸時代に仏教の影響で四つ足の獣肉を食べることが禁止されていましたが鳥だと言い張るためだとか、ウサギの「ウ」を鵜、「サギ」を鷺と見立て、鳥の仲間だと解釈したなんていう話を思い出しました。

    何故か兎が描かれていました。それ以外の絵は全て鳥でしたが何故ウサギと思いながらいろいろなことを考えてしまいました。日本では兎を1羽2羽根と数えますが、これは江戸時代に仏教の影響で四つ足の獣肉を食べることが禁止されていましたが鳥だと言い張るためだとか、ウサギの「ウ」を鵜、「サギ」を鷺と見立て、鳥の仲間だと解釈したなんていう話を思い出しました。

  • これまで韓国や朝鮮半島の歴史などにあまり注意を払いませんでしたが、ツアーのフリータイムでしたが充実した時間になりました。お腹も空いてきたので西面に戻ることにします。コインロッカーで荷物を撮って、カウンターの女性にお礼を言って博物館を後にしました。

    これまで韓国や朝鮮半島の歴史などにあまり注意を払いませんでしたが、ツアーのフリータイムでしたが充実した時間になりました。お腹も空いてきたので西面に戻ることにします。コインロッカーで荷物を撮って、カウンターの女性にお礼を言って博物館を後にしました。

    西面駅

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