2024/02/10 - 2024/02/11
1398位(同エリア1428件中)
emi_uさん
- emi_uさんTOP
- 旅行記142冊
- クチコミ353件
- Q&A回答0件
- 148,460アクセス
- フォロワー5人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
ご覧いただきまして、ありがとうございます。
大内宿の雪まつりからはしごして、鶴ヶ城の会津絵ろうそくまつりに向かいます。
大内宿の雪まつりについては、こちらをぜひご覧ください!
https://4travel.jp/travelogue/11886220
-
大内宿の打ち上げ花火を途中で切り上げて向かったのは鶴ヶ城
-
廊下橋から本丸へ向かう
-
18時過ぎに大内宿を出て、車で40分程度
駐車場から歩いてここに到着したのは19時過ぎ -
わざわざこんな夜に何故駆け付けたかというと、「会津絵ろうそくまつり」を開催しているから
地元の中学生の作品も並ぶ
銅板にニードルで穴を開けて作成されている会津絵ろうそくまつり ~ゆきほたる~ 祭り・イベント
-
暗がりの中に鶴ヶ城が見えてくる
-
入場券売場の横には大きい赤べこがお出迎え
-
赤べこ、かわいい♪
-
鶴ヶ城天守閣入場券410円を購入し、19:20ごろ入城
つまりここまでは無料だから、絵ろうそくまつりは無料で十分楽しめる -
茶室・麟閣(りんかく)とのセット券520円(茶室のみ210円)もあるのだが、当然この時間にはやっていない
(麟閣について、パンフレットより)
天正19年、千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。この時、千利休の茶道が途絶えることを惜しんだ会津の領主、蒲生氏郷は、利休の子の少庵を会津に匿い、豊臣秀吉に「千家再興」を願いでました。この結果、少庵は京都へ帰り、千家茶道は少庵の子の宗旦(そうたん)に引き継がれ、その孫により武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され現在に伝えられています。
この「麟閣」は少庵が会津に匿われていた時、氏郷のために造ったと伝えられており、戊辰戦争後は茶人森川善兵衛宅で大切に保存されてきました。
会津若松市では平成2年、市制90周年を記念し、この麟閣を元の場所へ移築復元し後世へ伝えるものです。 -
天守閣内は郷土博物館
-
鶴ヶ城歴代藩主は、1384年葦名家が東黒川館を建ててから、
伊達家、蒲生家、上杉家、蒲生家、加藤家、保科家、松平家と変遷
1864-65年の戊辰戦争の後、天守閣は政府の命令により1874年に取り壊し
1965年に天守閣再建工事落成、2011年には天守閣屋根瓦を赤瓦に葺き替えた -
地下は塩蔵(しおぐら)
天守閣で見ることができる唯一の遺構
天守閣の土台となる石垣は「天守台」と呼ばれる。鶴ヶ城の天守台は、城跡公園内で最も古い石積みと考えられている。内部は空洞になっていて、一年を通じて周囲よりも冷涼な環境であることから、江戸時代には「塩」を貯蔵しており「塩蔵」と呼ばれていた。 -
塩蔵について家臣が説明してくれる
-
石積みの解説
<野面積み(のづらづみ)>~蒲生氏郷築城当時のまま残る
自然石をそのまま積み上げる方法。
石の種類がまちまちで加工技術も未熟であったため、形状の均一性も乏しく、積み上げる角度も緩やか。しかし地震などの影響を受けにくく、城内では最古の事例として天守閣を支える。
↓
<打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)>~表面を加工して平らに仕上げる
外側に面する部分を削って平らにして、できたすき間には「栗石(ぐりいし)」と呼ばれるくさびとなる薄い石を打ち込んで埋める。同じ場所から切り出された同じ種類の石が用いられている。急な角度で積むことが可能になった。
↓
<切り込み接ぎ(きりこみはぎ)>~角が直角に仕上げられた石積み
すべての面が密着するように仕上げることによって、規則正しい方形の石が並んでいる。江戸時代の前期には多<用いられるようになる積み方たが、加工する道具や技量によって出来栄えの差は大きい。 -
1384年に葦名直盛が鶴ヶ城の前身となる東黒川館を建て、1589年に伊達政宗が会津に入って以降、30年ともたずに城主が変わる
二層では歴代城主が紹介されている
■伊達家 1589-1590
葦名氏をやぶり会津を手中にするも秀吉の命により没収
米沢の領主だった伊達政宗は、磐梯山麓の磨上原(すりあげはら)で葦名氏をやぶり、念願だった会津を手中におさめた。その後も近隣と戦いを繰り返して領土を拡大し、最大時には会津地方と米沢に加え、現在の宮城県の半分という広大な領土を有するようになる。全国支配を進める豊臣秀吉への服従には渋っていたが、内部の不安要素が続出し、小田原の北条攻めをしていた秀吉のところへ出向いて忠誠を誓い、会津領を明け渡した。政宗はわずか一年余りで会社を離れ米沢に戻ることとなったのである。
<黒塗六十二間筋兜>
伊達政宗が、会津の甲冑師だった雪下氏を自らの家臣に加え、会津から離れる際にも連れ帰り、自藩で甲冑の製作を命じた。政宗の甲冑として最も有名な、国指定重要文化財にもなっているこの三日月の前立のある黒漆塗の甲冑は、仙台では「仙台胴」と呼ばれているが、会津では「雪下胴」と呼んでいる。 -
■蒲生家 1590-1598、1601-1627
東北支配の要衝会津を城下町として初めて整備
豊臣秀吉の奥州仕置により、会津は蒲生氏郷に与えられる。会津入りした氏郷は城下の監備を進め、町の名を「若松」と改め、「鶴ヶ城」を築城する。また、産業を根付かせるなど当時の国内中央の文化や情報を会津へもたらした。さらに秀吉が進める全国統一で、東北地方を平定させるのに氏郷が果たした役割は小さくない。氏郷の没後、一時会津を離れるが再び会津領主に返り咲いた。ただ、その後不運が続いて蒲生家は三代で終わりを告げた。
<燕尾形兜>
蒲生氏郷の所持していた兜としては、「鯰尾(なまずお)」と呼ばれる細長くそびえたった兜がよく知られているが、現存する兜がなく、どのようなものだったのか詳しいことがわかっていない。一方、この燕尾形(えんびなり)の兜は岩手県に伝えられたもので、氏郷の妹が南部家に嫁いだときに持参したという由来を持つもので、変わりの中でも人気が高い。
この兜はかなりいかつい、重そうだ -
■上杉家 1598-1601
関ヶ原の戦いに敗れ志半ばにして会津より退く
蒲生氏の後、五大老の一人だった上杉景勝が会津領主となる。石高は全国3位の百二十万石であった。秀吉の死後、その遺志を尊重しようとする景勝は、自分の支配を広げようとする徳川家康と対立する。景勝が神指城(こうざしじょう)を着工すると、家康はすぐに中止することを命じる。景勝の重臣である直江兼続が、そうした態度を手紙で非難すると、家康は会津討伐のため京都から出陣。そこを狙って石田三成が挙兵すると、家康は引き返して関ヶ原で衝突した。戦いは家康が勝利し、景勝は会津を没収されて米沢三十万石へ大幅な減封処分となった。
<黒塗六十二間筋兜>
上杉景勝は、戦国時代に「軍神」と称された武将上杉謙信の甥。この兜は頭をおさめる鉢の部分が小ぶりで、景勝が大人になる前にかふっていたものではないかと考えられている。
武士の信仰をあつめた摩利支天のシンボルである卍を、いのしし形の前立にあしらったテザインが特徴的である。 -
■加藤家 1627-1643
街道を開き城を整備するも領地を幕府へ返上
蒲生忠郷が亡くなると、幕府は伊予松山城主だった加藤嘉明に会津四十万石の領主を命じた。嘉明は賤ケ岳の七本槍として名を馳せ、その後も文禄・慶長の役などの海戦で功を挙げた。すでに年老いていた嘉明が会津入りすると、子の明成との二代にわたって城下の大規模な改修を行なった。縄張を北向きにするという大がかりな改修にともない出丸も拡張、天守閣を再建し、街道の整備などを実施した。しかしむかしながらの圧政をし、家臣の反乱も抑えることができず、明成は領地を幕府へ返上した。
<大黒頭巾烏毛飾兜>
加藤嘉明は、おもに船を用いた水軍戦を得意とした武将で、晩年に伊予国松山から会津へ移った。この兜は前任地の松山城に伝えられている甲冑のものである。ほかに嘉明の兜としては、銀箔を貼った富士山形兜(靖国神社所蔵)や金銀象嵌南蛮兜(大阪城天守閣所蔵)などの変わり兜がいくつか伝えられている。 -
会津の松平家の祖・保科正之が定めた、会津藩主として守るべき家訓
第一条にある将軍家への絶対服従が、幕末の京都守護職を受諾するよう迫られた最大の要因となった
「婦人女子の言葉は一切聞いてはならない」とか、ナンてこった!と思いながら見る -
会津藩第9代藩主、松平容保
京都守護職時代の20代後半の撮影と伝わる -
三層では幕末の混乱が舞台
恥ずかしながら白虎隊の飯盛山での自刃が最後と思っていたので、これが1日目なのか、と目から鱗 -
30日後、籠城の末、降伏
降伏式に敷かれた緋毛氈は、降伏の無念と悲嘆の象徴として“泣血氈(きゅうけつせん)”と名付けられ、藩士たちは小さく切り分け持ち合った
翌日城内から出てきた籠城者は約5000人に上った -
最上階の五層からは城下町・会津若松の夜景を一望
-
ライトアップでハートマークとPEACEの文字が書いてあるのだが…
-
わかりづらいなぁ
-
加工したら多少見えるかな
-
右上の端に写るのが食糧を貯蔵していた干飯櫓(ほしいやぐら)
本丸との間にある本丸への表門・鉄門(くろがねもん)をつなぐのが南走長屋(みなみはしりながや)
主に武器などが置かれていた
干飯櫓と南走長屋は、初の本格的復元建造物として2001年春に完成 -
確か19時半からだったか、お城自体のライトアップもしているので、終わらないうちに一旦外から見てみる
鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡
-
本丸一帯に絵ろうそくが並ぶ
-
お城のライトアップという意味では、この辺りが松の間を縫ってきれいに見えるか
本丸エリアを1周してから、天守閣へ再入場 -
先ほど人込みでよく見えなかったこちらを見に来た
ジオラマの上にプロジェクションマッピング的にこの城の変遷を映しながら解説してくれる -
八重さんが降伏前夜に白壁に刻んだと言われている歌も紹介
「明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月かげ」 -
出口のミュージアムショップも満喫して、鶴ヶ城を後にする
ここからこの後行くラーメン屋さんと宿はすべて車で10分程度の圏内 -
夕飯は喜多方ラーメン!
来夢 会津若松駅前店
夜遅くまでやっていて助かる -
醤油ラーメン 700円
来夢 会津若松駅前店 グルメ・レストラン
-
喜多方チャ-シュー麺 1130円
すっきりした味わいで、夜ももたれない -
宿泊はこちら、東山温泉のYUKKURA INN
到着は21時過ぎなので、写真は翌朝撮ったもの
普通のマンションのようだが、「ノンサービス」が売りで、本館のお風呂が利用できるのにお手頃価格で泊まれる
この建物の1階にも男女別の、家族風呂程度の大きさのお風呂はある
この日は2名1室13,200円YUKKURA INN ~ゆっくらイン~ 宿・ホテル
-
こちら”本館”こと庄助の宿 瀧の湯(こちらも翌朝撮影)
宿泊するYUKKURA INNから300mほど、徒歩5分くらい
チェックインはこちらでする庄助の宿 瀧の湯 宿・ホテル
-
最初に目にするのはこちらの滝
伏見ヶ滝(看板より)
上部の雄滝(約5m)と下部の雌滝(約6m)から成る。由来は、藤という娘が淵に身を投じたという説と、行基がここを訪れた際に一夜にして滝が出現し「不思議ヶ滝」と呼んだという説がある。 -
車を停めると水の音がするので、覗き込むとこの滝が見える
-
明るいときの方がよく見えるかと思ったが、ライトアップされているときの方が滝がよく見える
-
ただ、2段ある滝の上部、雄滝は明るいときにしかわからなかった
-
さて、チェックインをしたら宿泊する建物へ
2階へは階段で、その先にはエレベーターがある -
部屋の玄関にはスリッパの他に、外に履いていける下駄もある
本館のお風呂に行くときに便利
雪が降って寒かったが、まぁ下駄でも何とかなる距離
外に出る階段のところには傘も置いてあり、親切 -
玄関を入ってすぐに、洗面台とトイレ
-
WiFi、冷蔵庫、ドライヤー、テレビと一通りあり、シンプルながら清潔で快適なお部屋
早速、本館にお風呂に入りに行ってみる -
中は落ち着いた雰囲気で高級感がある
開湯1300年、創業140余年の歴史あるお宿 -
湯川越しに「花心殿」
-
花心殿は能舞台で、お能はもちろん、プロジェクションマッピングが行われたりする
-
お風呂の近くに小原庄助さん愛用の石風呂が展示されていた
「庄助の宿の由来」も書いてあった
小原庄助は会津藩に保科正之公が最上より会津へ移封の折、主君に従った郷頭であった。
彼は豪快な人柄で自由洒脱な生活を満喫できる立場にあったが歌にあるような遊惰な人柄ではなかった。当時といえば「滝の湯」の温泉場が随一で庄助さんも又、滝の湯の良さを気に入り愛顧していたという。又当館松島閣(名称変更あり)は庄助の縁戚にあたりそこでの気安さにも格別なものがあったと思われる。 -
本館の立派なお風呂と、シンプルにすっきりした清潔なお部屋でゆっくり休み、目覚めた朝はいい天気
向かいの山の木がきれいに雪をかぶっている
さて、早速観光に出発!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったスポット
この旅行で行ったグルメ・レストラン
会津若松(福島) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
51