2025/07/18 - 2025/07/26
45位(同エリア132件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2025/07/25
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バスでの移動
オフリド:12時30分→スコピエ:15時30分頃
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市内観光
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コンスタンティヌス大帝と聖ヘレナ信徒教会
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アレクサンダー大王像
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徒歩での移動
マケドニア市民の橋
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母オリンピアとアレキサンダーの噴水
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フィリッポス2世像(アレクサンダー大王の父)
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ナショナル・ギャラリー・マケドニア
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聖デメトリウス正教会
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マケドニアのユダヤ人のためのホロコースト・メモリアル・センター
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この旅行記スケジュールを元に
マケドニア王国は、ピンドス山脈で移牧を営んでいたマケドニア人がピエリア山脈の山裾に定住し、紀元前7世紀半ばにアイガイを都として王国を建てたのが起源というのが通説です。
ただ、考古学資料は発見されていません。
1つだけヘロドトスの記述が伝承としてあるのみです。
アレクサンドロス1世の前に6人の王がいたことがわかっています。
さて、アレクサンドロス大王の古代マケドニア王国の5割はギリシャ領です。そして北マケドニアは4割に満たしてません。その他にブルガリア、アルバニアの一部も古代マケドニア王国にあたります。
そのため1991年に独立した際に、マケドニア共和国としたのですが、これに対し、ギリシャは反発し、経済制裁を科しました。
紆余曲折ありましたが、暫定名称のマケドニア旧ユーゴスラビア共和国を経て、最終的に2018年に北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)となりました。
つまり、この国名になってからまだ10年も経っていません。
【旅程】
7/18(金)
羽田(HND)21:45発(ターキッシュエアラインズ(TK199便))
7/19(土)
イスタンブール(IST) 4:50着
イスタンブール(IST) 7:15発(ターキッシュエアラインズ(TK1061便)
リュブリャナ(LJU) 8:30着【スロベニア】
↓
ブレッド10:00
ブレッド湖
聖マリア教会
ブレッド城
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ポストイナ15:00
鍾乳洞
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オパティア【クロアチア】18:30
7/20(日)
オパティア8:30
↓
プリトヴィイツェ13:00
プリトヴィッツェ湖群国立公園
↓
ザダル18:00
旧市街
7/21(月)
ザダル9:00
↓
スプリット11:30
ディオクレティアヌス宮殿
↓
モスタル【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
スターリ・モスト
7/22(火)
モスタル8:30
↓
ドブロヴニク12:00
セルビア教会
ブラホ教会
スルジ山
城壁
フランシスコ教会
大聖堂
7/23(水)
ドブロヴニク8:00
↓
コトル【モンテネグロ】11:00
聖トリプン大聖堂
城壁内
海岸沿いドライブ
↓
ティラナ【アルバニア】20:00
7/24(木)
ティラナ8:00
↓
スカンデルベグ広場
マザーテレサ広場
クロックタワー
↓
ベラート12:30
ベラート市内
ベラート城
↓
オフリド【北マケドニア】19:00
7/25(金)
オフリド8:15
↓
オフリド湖畔
聖ソフィア大聖堂
ローマ劇場
サミュエル要塞
聖ヨハネカネヨ教会
市内
↓
●スコピエ15:30
●市内
●石の橋
●マケドニア広場
●バザール(オールドマーケット)
↓
●スコピエ(SKP) 20:20発(ターキッシュエアラインTK1006便)
イスタンブール(ISL) 23:00着
7/26(土)
イスタンブール(ISL) 2:00発(ターキッシュエアラインTK198便)
羽田(HND) 19:20着
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- エイチ・アイ・エス
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北マケドニアの首都のスコピエです。
ミレニアム・クロスが見えます。
ヴォドノ山の頂上にある高さ66m(217フィート)の十字架です。
これはマケドニアにおけるキリスト教2000年を記念して建設されました。
スコピエのランドマークとなっています。
ロープウェイもありますが、登山ルートも整備されているようです。 -
こちらは市内のショッピングセンターです。
実は観光前のトイレタイムのために来ました。 -
「VERO」大型スーパーです。
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カラフルなフルーツが整然と並んでいます。
ただ、よく見ると特別に変わったフルーツはありませんでした。(-_-;) -
何やらドーム型の気になる建物が見えます。
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こちらは、Skopje City Museum(スコピエ市博物館)です。
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スコピエ市博物館の庭にあった古代ローマ時代のステラ(墓標)です。
スコピエ近郊にある古代都市Skupi(スクピ)の遺跡から出土したもののようです。
スクピはかつてローマ帝国のダルダニア属州として栄えた場所です。
古代ローマにおいては、故人の面影を残すため家族が制作を依頼したものが多く、おそらく一般市民であると思います。
碑文に文字が刻まれていますが、経年劣化で摩耗しているため判読は難しいです。 -
こちらが博物館の正面です。
北マケドニア国旗が掲げてあります。
この時計の針は5時17分位をさしていますが、実際には午後4時02分位でした。
この時間は1963年の大地震発生時間です。
時間がストップしてしまいました。
こうして今も地震の恐ろしさを忘れることなく記憶に留めています。
ところで地震は旧ユーゴスラビア時代発生し、マグニチュード6.1で1000人以上が犠牲となってしまい、スコピエ市内の建物の約8割が倒壊してしまったようです。
その後、復興支援が進められ、日本の建築家の丹下氏が、都市再建計画策定の国際コンペに参加し、復興の土台となりました。
そして現在もその姿を残しています。
北マケドニアだけでなく、この前に訪問したアルバニアもそうでした。スコピエ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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闘牛のようなオブジェがあります。
今にも勢いよく走って来そうです。 -
Church Temple "Holy Equal-to-the-Apostles Emperor Constantine & Empress Helena"(コンスタンティヌス大帝と聖ヘレナ信徒正教会)
Church Temple "Holy Equal-to-the-Apostles Emperor Constantine & Empress Elena" 寺院・教会
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コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国皇帝で、複数の皇帝で分割されていたのを統一した皇帝です。
また、ローマ皇帝として初めてキリスト教を公認した皇帝です。
ヘレナはコンスタンティヌス1世の母で、信仰心が篤く巡礼を重ね、高齢であったのにも関わらずエルサレムに巡礼し、キリストの十字架を発見しました。
残念ながら外から見ただけです。 -
正教会のお隣に来ました。
マザーテレサ記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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Mother Teresa(マザーテレサ)です。
1910年8月26日に、北マケドニアのスコピエで生まれました。
当時はオスマン帝国ユスキュプでした。
1997年9月5日に、87歳で亡くなりました。亡くなったのはインドでした。
母はアルバニア人、父はアルーマニア人(ルーマニア人と同系の少数民族)でした。 -
この階段の下はアーチ状になっていて、マザー・テレサが見えます。
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日本語のしおりの写真です。
マザーテレサは「神の愛の宣教者会」を設立しました。
伝統的な修道服ではなく、インドの最も貧しい女性たちが着用していた安価なサリーを修道服としていました。
白は「純潔」「真理」、そして3本の青いストライプですが「清貧」「従順」「貞潔」という修道会の3つの誓願を象徴しています。 -
Mother Teresa Memorial House
(マザー・テレサ・メモリアル・ハウス)
1910年8月26日、ゴンジャ・アグネス・ボヤシュウはスコピエで生まれました。
これがマザー・テレサの名前です。
8月27日、スコピエのカトリック教会「イエスの聖心」で洗礼を受けました。
1916年、初聖体拝領を受けました。
1919年、ニコラ・ボヤジュが死去しました。
1922年、神に仕える召命を受けます。
1928年9月26日、故郷スコピエを離れ、アイルランドのダブリンにあるロレート修道女会(聖母マリア修道会)に入会します。
12月1日、船でインドへ出発
1929年1月6日、インドのカルカッタに到着
1931年5月25日、ダージリンでシスター・テレサとして初誓願を立てます。
カルカッタの聖マリア学校で地理、歴史、カテキズム(キリスト教の教理をわかりやすく説明した解説)を教えました。
愛の宣教者
1746年9月10日、カルカッタからダージリンへ列車で旅している途中「呼び声の中に呼び声」を受け、ロレート修道院を離れ、病人や貧しい人々の世話をはじめるきっかけを得ます。
1948年4月12日、教皇ピウス12世の勅命により、バチカンからロレートを離れ最貧困層の間で宣教を始める許可を得ました。
1949年3月19日、最初の候補者であるスバシニ・ダス(アグネス修道女、MC)がマザーテレサに加わりました。
1950年10月7日、当時12名の会員で構成されていた「神の愛の宣教者修道女会」が正式に教区修道会として設立されました。
1951年12月14日、マザーテレサはインド国籍を取得。
1953年2月、修道会の中心であるマザー・ハウスに移りました。
1963年3月25日、神の愛の宣教者修道女会を設立。
7月26日、スコピエで壊滅的な地震が発生した後、彼女は他の国々に連帯を呼びかけました。
1965年2月1日、愛の宣教者会が教皇の承認を受けました。
1970年5月、スコピエの最初の訪問で、彼女はヨアキム・ヘルブト司教と赤十字センターを訪問しました。
1971年1月6日、パウロ6世教皇からヨハネ23世平和賞を授与されました。
1973年、テンプルトン賞を受賞しました。
1977年、ケンブリッジ大学で神々の名誉博士号を取得しました。
バルザン財団から、人類と人々の平和に対するホセ賞を受賞しました。
1978年3月27日、スコピエを2度目に訪問し、トメディ・アントフ市長の歓迎を受け、スコピエ市功労章を授与されました。
1983年11月24日、エリザベス2世女王から功労勲章を授与されました。
1985年、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンが彼女に大統領自由勲章を授与しました。
1986年9月19日、スコピエを最後に訪問。ヘルブト市長と会見し、宣教活動の中心地を設立しました。
晩年
1996年、アメリカ合衆国名誉市民となりました。
1997年9月5日、カルカッタにて87歳で死去。
9月13日、インド政府は感謝の印として国葬を執り行いました。
列福と列聖
1999年6月12日、マザー・テレサの列福と列聖の教区段階が始まりました。
2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世がマザー・テレサの福者を宣言しました。
2016年9月4日、フランシスコ教皇がマザー・テレサを聖人と宣言しました。 -
北マケドニアの公文書です。
これはマザーテレサに関するファイルで447番です。 -
十字架やロザリオが展示されていました。
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ミニチュアの家です。
このような家に住んでいたのでしょうか。
家の前には井戸もあったようです。 -
ステンドグラスには、マザーテレサが描かれています。
テレサと言う名前は修道名です。
本名はアルーマニア語で
Agnesa/Antigona Gongea Boiagi(アグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ)
アルバニア語で
Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu(アニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ)
現在の北マケドニアのスコピエで生まれましたが、当時はオスマン帝国コソボ州ユスキュプでした。 -
よくできている像です。
マザーテレサの父はNikola(ニコラ)、母はDoranafile(ドラナフィル)です。
2人は旧ユーゴスラビアのコソボ共和国、プリズレンで結婚し、こちらに移ってきました。
父は建築請負業と食料輸入を共同経営していました。
そして業務は好調で、父はスコピエの市議会の議員になりました。
そして多言語が話せました。
父は忠実なカトリック教徒であり、熱心なアルバニア愛国者でもありました。
父だけでなく母もカトリック教徒でした。
ですからマザーテレサは子どもの頃から教会によく通っていました。 -
簡素なベッド周りです。
可愛らしい刺繍のようなものがあります。
織り込まれているのは鶏でしょうか・・・。
マザーテレサの母は、刺繍を扱う仕事をしていました。
そして事業を拡大してカーペットも。
スコピエのカーペットは有名でした。 -
可愛らしい小花柄のテーブルクロスです。
実はマザーテレサの父は第一次大戦後、アルバニア愛国者運動の政治活動をしていたのですが、毒殺されてしまいました。
しかも資産を共同経営者に横領されてしまい、ご家族には家が遺されただけになっていまいました。
そのため、貧しい生活を余儀なくされることになりました。
マザーテレサの母は子どもたちのために、仕事を始めました。 -
1979年のノーベル平和賞(複写)です。
マザーテレサはテレサという修道女名をつけられ、18歳で修道女会に入り、インドのカルカッタに赴任することになりました。その際、母は困っている人のために自分のすべてを捧げるように言いました。
その後、テレサは修道院で暮らしながら、聖マリア学院の地理の先生となり、教師として暮らす日々が続きました。
そし34歳で、学校の校長となります。
ついに学校の責任者となった事を祖国の母に手紙で知らせました。
きっと喜んでくれると思ったのでしょう。
ただ、母からは、何のためにインドに行ったのか、貧しい人を助けるために修道院に入ったのではないかと、諌められました。
お母さんは、そんな方でした。
マザーテレサの兄は、彼女は母とそっくりだと話していたようです。
お母さんもノーベル賞に相応しい方だったようですね。 -
「宣教師マザーテレサの生涯 スコピエからカルカッタへ」
上智大学出版の本です。 -
シスター・ニルマラからの花輪です。
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2003年10月19日、ローマのサンピエトロ広場
列福式の様子です。 -
2007年8月23日
元首相の安倍晋三夫人である明恵さんです。
マザーテレサのお墓参りをした時の様子です。 -
1987年、カルカッタでシスターたちの祈りの様子です。
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奇跡のメダイです。
罪人、病人、危険や苦しみに苦しむ人々に対するマリアの善意の手段です。
私などマザーテレサの爪の垢でも煎じて飲まなければいけないです。(;^_^A -
さて、通りに出てきました。
自転車が止めてありますが、どう見ても自転車置き場ではなさそうです。
自転車の盗難防止のために勝手にオブジェにチェーンをつけてるように見えます。
その先には靴磨きの少年像のようなものがあります。 -
レリーフがありますが、戦いの場面のようです。
有名なガウガメラの戦いでしょうか?
それともイッソスの戦いでしょうか?マケドニア広場 広場・公園
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「馬上の戦士」の像
雄々しいお姿のアレクサンドロス大王です。
ちなみに父のフィリッポス亡き後、20歳の若さで即位したアレクサンドロスですが、紀元前334年春には、父の遺志を継いで東方遠征に出発しました。
10年にも及ぶ遠征でアケメネス朝ペルシアを滅ぼし、インダス川に至るまでの広大な領土を征服しました。
ただ彼の13年の治世の内に、本国であるマケドニアにいたのは、東方に出発する前の1年半ほどだけでした。
それから、このアレクサンドロスの馬ですが、かの有名な名馬ブケファロスです。
紀元前326年、アレクサンドロスが12歳の頃のことです。
ある商人がテッサリア産の有名な馬の血統の名前で「雄牛の頭」を意味する荒馬を売りに来ました。(肩に雄牛の頭の烙印があったので、このように呼ばれてました。)
売値は13タラントン。当時のギリシャでは1タラントンの財産があれば富裕層に数えられました。そして平均的な馬の価格は5分の1タラントンでした。
ところがこの馬は気性が荒く、誰も近づくことさえできません。
アレクサンドロスは馬が自分の影の動きを怖がって暴れるのを見て取り、頭を太陽に向けて落ち着かせ、それから騎乗して見事に調教してみせました。
誰もが歓声をあげました。
父であるフィリッポスは涙を流して喜び「おまえにふさわしい王国を探すがいい。マケドニアには、おまえの居場所がない。」と言ったそうです。
遠征中のアレクサンドロスは、全ての戦闘でこの馬に乗って戦いました。
紀元前326年、インドでブケファロスが老衰のために亡くなると、彼は死を悼み都市を築いて「ブケファラ」と名付けました。
ちなみに、大英博物館には、ブケファロスを象った、セレウコス1世時代のソリドゥス金貨が所蔵されています。
ちなみに、馬について。
マケドニアの軍隊の主力は騎兵です。
マケドニアの広大な平原は馬の飼育に適していました。貴族の子弟は幼い時から乗馬の訓練を受けました。古代にはまだ鐙が発明されていませんでした。騎乗の際に足で踏ん張ることができないため、両太ももで馬の脇腹をしっかりと締め付けなければなりません。この体勢で馬を自在に操り、しかも槍を持って戦うには高度の熟練を要しました。騎兵こそ花形だったのです。
これはギリシャでは重装歩兵が中心で騎兵はわき役でした。
マケドニアには「敵を1人も殺したことのない者は、帯の代わりに馬の端綱で腰を締めよ。」という法律があったほどです。
また狩猟も貴族にとって重要でした。勇敢な戦士を育てるための訓練場でもあったのです。貴族であっても槍だけで野猪を仕留めたことのない者は、食事の際に寝椅子に横になることが許されず、椅子に座らされたようです。
※古代ローマ時代なども、横になって食事していました。(-_-;) -
マケドニア王国の領土を拡大した地図です。
斜線部分が紀元前5世紀初頭のマケドニア王国です。
グレーの部分が父王フィリッポス2世の時代のマケドニア王国です。
『古代マケドニア全史・フィリッポスとアレクサンドロスの王国』
澤田典子著 -
紀元前356年にアルゲアス朝マケドニア王国の都ペラで生まれました。
ペラは現在のギリシアの北部のテッサロニケの北方にあります。
アレクサンドロス大王の本来の故郷は現ギリシャです。 -
2011年6月、首都整備計画の要として設置されました。
高さ24mです。
数百万ユーロの巨費を投じたと言われています。
国威をかけた大事業でしたが、隣国ギリシャから強い抗議を受けました。
ただ、2012年5月には対岸に父であるフィリッポス2世の像が設置されました。
ところで、アレキサンドロスについて語る時、「ヘレニズム」と言う言葉が出てきます。
これは、アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称しています。
ただ、これは後年になってできたものです。
19世紀プロイセンの歴史家のドロイゼンが提唱した概念です。
つまりギリシャには、紀元前5~4世紀の最盛期がクローズアップされますが、マケドニアに征服された以降の衰退の一途を辿った時期については積極的な研究がされていませんでした。
そのためか、ドロイゼンは、アレクサンドロスが新しいヘレニズム時代としました。
一般的にはアレキサンドロスは英雄として祀られています。
特に古代ローマの中にも憧れる人々は多かったようです。
ポンペイウスはアレクサンドロスに似ていたそうです。そのため、人々は彼のことをアレクサンドロスと呼んだそうです。
嫌な気はしなかったのか、それとも嬉しかったのか、ポンペイウスはそう呼ばれることを拒まなかったようです。
紀元前61年、カエサルは属州であるスペインに赴任した際に、アレクサンドロスの伝記を読んで涙したそうです。それは、アレクサンドロスは若くして多くの民族の王となったのに、自分はまだ何も成しえていないことを嘆きました。
この時、39歳でしたが、ルビコン川を渡ってローマ終身独裁官になるのは次の年でした。
アウグストゥスは初代ローマ皇帝になった際、各種の書類や書簡に押印する時、アレクサンドロスの肖像を象った印を用いていたことがあったようです。
五賢帝のトラヤヌスは、ペルシャ湾岸に達した折、自分も若ければ必ずインドに行っただろうと言ったようです。
また、尊敬されたと同時に、知識人の間では無慈悲な暴君と思われ、まるで東方の専制君主と同類の野蛮な支配者と思われていた頃もありました。
4世紀の教父であるアウグスティヌスは、『神の国』で「正義が失われれば王国も大きな盗賊団にほかならない。」としています。
アレクサンドロスは、海賊が捕らえられた時「海を荒らすとはどういうことか。」と言いました。
それに対して、海賊は「陛下が全世界を荒らすのと同じことです。ただ、私は小さな船でするので海賊と呼ばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝と呼ばれるだけです。」この答えは適切で真実を衝いてるとアウグスティヌスは評価したそうです。
確かに・・・・。笑 -
真下から見上げてみました。
この日はかなりの暑さでした。今回の旅行中で最高気温42度になりました。
私が今まで体感した中でも最高気温です。
年々暑さが更新していくのが怖いです。
夫は夏に暑い国に行くのは、もう懲り懲りだと話してました。 -
この先にКамен мост(Stone Bridge)(石橋)があり、その先にはフィリッポス2世の像があります。
そして手前に2体の像があります。
右側はGoce Delchev Monument(ゴツェ・デルチェフのモニュメント)
ブルガリアと北マケドニアで国民的英雄です。
マケドニア人の革命家でした。
左側はDame Gruev Monument(ダム・グルエフのモニュメント)
ブルガリアと北マケドニアで国民的英雄です。 -
昔は「アレクサンドロス大王」のことを、恰幅のいい中年を過ぎた年齢の王であると勝手に思っていました。
なにしろ「大王」ですから。
そのためポンペイで発見されたモザイク画(ナポリ考古学博物館所蔵)を見た時にショックを受けました。若い王だとは思ってもみなかったからです。
名前だけが1人歩きして、具体的なことは理解していませんでした。
ところでアレクサンドロスの家庭教師は、アリストテレスでした。
実はアレクサンドロスが13歳になった時、父フィリッポスは息子に本格的な帝王教育を施すために、哲学者のアリストテレスを教師に招きました。
学校は首都から西へ40km離れた風光明媚なミエザに設けれました。
ここにはアレクサンドロスと同年代の貴族の子弟たちも集められました。
いずれも東方遠征の際に側近として活躍する者たちです。
アリストテレスはギリシャ文化、政治学、倫理学、文学、医学と広範囲に教えました。
とりわけトロイ戦争における英雄たちの武勇を語る、ホメロスの叙事詩「イリアス」は戦争の資料として読まれました。
また、東征中にアレクサンドロスの要請でアリストテレスは「王道論」「植民論」を書き送ったと言われています。
ところで、アリストテレスは三大哲学者の1人です。
ソクラテス・プラトン・アリストテレスです。
3人は師弟関係です。
彼らは単なる思想の継承ではなく独自性を持っています。
ソクラテスは「無知の自覚」
プラトンは「イデア論」
アリストテレスは「経験主義」
この流れは、西洋哲学の基盤となっています。 -
「1910年8月26日、ここにマザーテレサが誕生しました。」とあります。
-
こんなにも広い通りです。
この先には凱旋門のようなアーチが見えます。 -
Triumphal Arch(ポルタ・マケドニア)記念アーチ
ペラ広場にあります。
2012年に完成してます。アーチは21mです。
外壁は193平方メートルの大理石彫刻のレリーフで覆われてます。
マケドニア独立20周年記念として建設されました。
白が際立ち美しいのですが、歴史的な建造物ではありません。(-_-;)ポルタ マケドニア 建造物
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「スコピエ2014」はマケドニア政府が資金提供をしたプロジェクトで、その一環として作られました。
マケドニアの観光を促進するためのプロジェクトです。
ギリシャ外務省は、これに対して苦言を申し出ました。 -
位置関係です。
マケドニア広場を中心に放射状に位置しています。
ところで、アレクサンドロス3世(大王)についてですが、探求心があり征服欲は並外れていました。
ただ、性格的には問題もあったようです。
幼い頃からの友であり忠臣であったクレイトスと酒席で口論の果て悲劇が起こってしまいました。
クレイストスはかつてグラニコスの会戦で自分が王の命を救ったことを持ち出しました。
その結果、カッとなったアレクサンドロスはクレイトスを刺し殺してしまったのです。
(この頃は自分の父であるフィリッポスが父であることを否定し、アメン神の子だと公言してました。しかもペルシア人らを登用して侍らせていました。)
※ エジプトのルクソール神殿にはアレクサンドロス大王の聖舟祠堂があります。
こちらがルクソール神殿の旅行記です。
↓
https://4travel.jp/travelogue/11317389#google_vignette -
また、近習(王に仕える若者)たちの陰謀事件がありました。
ヘルモラオスという近習の1人が、狩猟の最中に野猪がアレクサンドロスめがけて襲い掛かり、それを射止めました。ただ、アレクサンドロスは自分の獲物を奪われたと怒り、鞭打ち等しました。
この恨みだけでなく、この頃アレクサンドロスの思い上がりは耐え難いものとなっていました。フィロータスの不当な処刑、その父のパルメニオンや当時殺された人々、クレイトス殺害・・・恨みは重なっていました。
その結果、近習たちは就寝中のアレクサンドロスを殺害する計画をたてました。ただ、たまたま宴会に出席していて難を逃れ、しかも陰謀が明るみに出たため、裁判にかけられ有罪判決で全員投石によって処刑されました。(-_-;)
インドでは、インド兵の象使いを投げ槍で倒す作戦をとりました。象使いが亡くなると、象が暴走してしまい味方のインド兵を踏みつぶしてしまいました。
【東方遠征ルート】
紀元前335年
テーベ制圧(北方のトラキアと南方のギリシア本土テーベ)
遠征:ここから
紀元前334年5月(22歳)
ペラ→東方のアンフィポリスに軍を集結させ遠征に出発
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紀元前334年
グラニコス河畔(トルコ)→川を強行突破し勝利
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サルディス
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紀元前333年11月
イッソス(トルコ)→ダレイオス3世と会戦、ダレイオス東方へ逃亡
↓
アンティオキア
↓
紀元前332年1月
ティルス(レバノン)→フェニキア人の海上都市を7ヶ月包囲し苦戦の末、攻略
↓
紀元前332年冬
メンフィス(エジプト)→無抵抗・歓迎
アレクサンドリア(エジプト)→都市を建設・ファラオ即位
↓
ダマスクス
↓
紀元前331年10月
ガウガメラ(イラク)→ダレイオス3世破り、ペルシャ帝国滅亡
↓
紀元前331年末
バビロン(イラク)→平和に入城、さらにスサに至る
↓
紀元前330年1月
ペルセポリス(イラン)→ペルシャの象徴都市に入る、王宮焼失させる
同年、ダレイオス3世は部下に殺害されペルシア帝国滅亡
↓
エクバタナ
↓
ヘカトンピュロス
↓
バクトリア
↓
サマルカンド
前327年春
ソグディアナの豪族の娘ロクサネと結婚
↓
紀元前326年
ヒュダスペス河畔(パキスタン)→インド王ポロスと象部隊との死闘
↓
ジャングルや激しいモンスーン、食糧難、そして想像を超える暑さと湿度、将兵の中に帰国を望む声強くなる
↓
紀元前326年末
インダス河口到達からバビロンに帰還
↓
紀元前323年6月17日
熱病に罹患し死去(32歳) -
中央に見えるのがStone Bridge(石橋)です。
オスマン帝国のメフメト2世後援のもと、1451年から1469年の間にローマの基礎の上に建設されました。
その起源はビザンツ皇帝ユスティニアヌスの治世下の527年から535年の間に遡ります。
ヴァルダル川の左岸での考古学的発見により、かつての橋の遺構が発掘されました。 -
Археолошки музеј на Република Северна Македонија
(北マケドニア共和国考古学博物館)
白亜の美しい建物です。国立考古学博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
Eye (Civilizations)Bridge(アイ・ブリッジ)
この橋はマケドニアの文明の橋として知られています。
橋の上には28体の彫像が並んでいます。アイ ブリッジ 建造物
-
この石橋はドゥシャノフ・モストと呼ばれ、1345年にスコピエで戴冠したセルビア王ステファン・ドゥシャンにちなんで名付けられました。
ちなみに、オスマン帝国時代には処刑の場として使われ、1689年のカルポシュの処刑も含まれます。
この橋はオスマン建築の卓越した技法で建設されています。
全長約220m、幅6m強の橋梁で、巨大な石橋脚と13の半円アーチで支えられています。
1555年の地震で4本の柱が損傷しましたが、すぐに改修工事が行われました。
また、第二次世界大戦中、ドイツ軍は橋の下に爆薬を仕掛けましたが、パルチザン部隊がダイナマイトの爆発を防ぎ、橋の破壊を免れています。
現在の姿は、1992年から2004年にかけて修復が行われています。
※ ちなみにメフメト2世は30年間にわたる事業から征服王とも言われています。
このバルカン半島、アナトリア半島を征服しました。これによってアレクサンドロスとも比較されます。
そしてメフメト2世はアレクサンドロスの伝記など読んでいたようです。
おそらく敬意をもって参考にしていたのかもしれません。石橋 (カメン モスト) 建造物
-
ヴァルダル川沿いは遊歩道になっています。
ヴァルダル川の流域は北マケドニア全土の3分の2にもなります。
北マケドニア最長の川で、388kmにもなります。
ギリシャのテッサロニキの西でエーゲ海に流れ込みます。
ギリシャではアクシオス川と呼ばれています。
かつて木材の運送に使われていたようです。ヴァルダル川 (アクシオス川) 滝・河川・湖
-
御覧のように、この橋の両側には彫刻がずら~りと並んでいます。
夜にはライトアップされてるようです。 -
川には船が浮かんでいました。
Hotel Senigallia(ホテル・セニガリア)です。
レストランもあるようです。
Restaurant Senigallia(レストラン・セニガリア)です。ホテル セニガリア ホテル
-
橋の斜め側方から見た様子です。
一定の間隔で銅像があります。
古代ギリシャの歴史と文明、そして世界の文化遺産と歴史遺産に属する歴史上の人物、ペルディッカス1世に敬意を表して。
ペルディッカス1世は最初のマケドニア王です。 -
古代ギリシャの歴史と文明、そして世界の文化と歴史遺産に属する歴史上の人物、パルメニオンに敬意を表して。
パルメニオンはフィリッポス2世王の最も信頼する将軍であり、マケドニア軍の育成に尽力しました。 -
フィリッポス5世(Philip V of Macedon)
古代マケドニア王国の国王です。
フィリッポス5世(Philip V, 紀元前238年~紀元前179年)について
アレクサンドロス大王亡き後のアンティゴノス朝マケドニアの王です。
ローマ帝国の拡大に立ち向かい、マケドニアの再興に尽力した野心的な君主として知られています。
左足を一歩踏み出し、左手で何かを指し示すような威厳のあるポーズが特徴です。 -
ヴァルダル川の水は綺麗とは言い難いです。
ちなみに語源は明確ではありませんが、ヴァルダルは印欧祖語で「黒い水」という意味があるようです。語源との関係性は不明ですが、個人的には納得してしまいました。(;^_^A -
コチョ・ラツィン(Kočo Racin)
1908~1943年
コチョ・ラツィンは、現代マケドニア文学の創始者の一人とされる詩人・小説家です。
代表作は、1939年に出版された詩集『白い夜明け(Beli Mugri)』が非常に有名で、当時のマケドニアの人々の苦しみや希望を歌い、マケドニア語文学の確立に大きく貢献しました。
彼は単なる文筆家ではなく、革命家としても活動し、第二次世界大戦中に非業の死を遂げました。そのため、マケドニアでは国民的な英雄として深く尊敬されています。 -
イヴァン・ヴラディスラフ(Ivan Vladislav)
ブルガリア帝国の皇帝(ツァーリ)です。
彼は、1015年から1018年にかけて第一次ブルガリア帝国を治めた最後の君主の一人です。
イヴァン・ヴラディスラフは、マケドニア地域の歴史において重要な役割を果たした中世の統治者です。
ブルガリア帝国を滅ぼそうとするビザンツ帝国の皇帝バシレイオス2世(通称「ブルガリア人殺し」)に対して激しく抵抗しました。
彼はビトラの要塞を再建した際に刻ませた「ビトラ碑文」は、彼が自分自身を「ブルガリアの専制君主」と称していたことを示す重要な歴史的資料となっています。
このブロンズ像は、中世の戦士の甲冑を身にまとい、威風堂々としています。 -
プチョ・プチンジスキ(St. Prochorus of Pchinja)
11世紀の東方正教会の聖人です。
北マケドニアやセルビアで深く崇敬されている隠修士(修行者)の一人です。
11世紀に活動したキリスト教の聖人で、山中で孤独に修行を重ねた「砂漠の父」の流れを汲む人物です。
修道士の衣服をまとい、右手で祝福のジェスチャーを、左手に小さな教会の模型を持っています。
この教会の模型は、彼が創設に関わった、あるいは彼に捧げられた修道院を象徴しています。 -
スコピエのこのエリアは、2014年に行われた都市再開発プロジェクト(Skopje 2014)によって、短期間に非常に多くの像が建てらました。
石橋の周辺には、大きく分けて2つの新しい歩行者専用橋があり、それぞれ異なるテーマの像が並んでいます。
1. 文明の橋 (Bridge of Civilizations)・・・この橋
石橋のすぐ隣にあり、北マケドニア国立考古学博物館の正面へと続く橋です。別名「アイ・ブリッジ(Eye Bridge)」とも呼ばれます。
マケドニアの歴史上の重要人物像が並んでいます。
これらの像は古代から中世にかけての国王、聖職者、戦士など28体の像が並んでいます。
主な人物として・・・
サムイル王: ブルガリア帝国の皇帝。
ユスティニアヌス1世: 東ローマ帝国の皇帝(スコピエ近郊の出身)。
ツァール・ドゥシャン: セルビア王国の王。
2. アート橋 (Art Bridge)・・・この橋の更に先に見える橋です。
位置的には少し下流です。また装飾が美しい橋です。
マケドニアの文化や芸術の発展に貢献した人物像があります。
芸術家、作家、作曲家、俳優など計29体の像が並んでいます。
橋の両側に14体ずつ、中央に1体(歌手のトシェ・プロエスキ)の像があります。
主な人物として・・・・
トシェ・プロエスキ: 「バルカンのエルヴィス」と称された伝説的人気歌手。
ブラジェ・コネスキ: マケドニア語の標準化に貢献した詩人・言語学者。
博物館前の広場
考古学博物館の正面にあるフィリップ2世広場には、アレクサンダー大王の父であるフィリップ2世の巨大な像が建っています。また、その周辺にはマザー・テレサやキリル文字を作った聖キリルと聖メトディウスの像などもあります。アート ブリッジ 建造物
-
逆光になってしまいました。
ゴチェ・デルチェフ(Goce Delčev)
革命家の騎馬像です。
オスマン帝国からのマケドニア解放運動における重要人物である彼を記念して建てられました。
石橋(カメン・モスト)の入り口付近、マケドニア広場側に位置しています。 -
かなり広い広場です。
広場だから広くて当然かもしれませんが、日本には広場があまりないので、海外に来ると、広さを感じます。(-_-;)(-_-;)(-_-;) -
マケドニア王国は一夫多妻でした。
(通常の人々は一夫一婦制だったようです。)
父王であるフィリッポス2世には妻が7人いました。
その妻は以下のとおりです。
フィラ
アウダタ
ピリンナ
オリュンピアス(アレクサンドロスの母)
ニケシポリス
メーダ
クレオパトラ・エウリュディケです。 -
フィリッポス2世像
この像は、先述しましたが、2012年5月に設置されました。
高さはアレクサンドロスよりも高く29mの立像です。フィリップ2世広場 広場・公園
-
フィリッポス2世の父はマケドニア王であるアミュンタス3世です。
幼少期、フィリッポスは人質となっていました。人質といってもある程度は自由がきく人質でした。
そのため、将軍家で教育を受けました。その間、色々な戦術等を学びました。
そして兄王崩御の後、摂政を経験し、王位につきました。
紀元前356年に始まる第3次神聖戦争
紀元前338年にカイロネイアの戦いで、アテネ・テーバイ軍を破り、全ギリシアに覇権を唱えました。
さらに、ペルシア遠征を目指していましたが、祝宴の席で護衛のパウサニアスにより暗殺され、ペルシア遠征は息子のアレクサンドロス3世に引き継がれることとなりました。
紀元前336年、アレクサンドロスは20歳でした。 -
紀元前338年(または337年)にフィリッポスは、クレオパトラを娶り、妻としてエウリュディケの名を与えられました。
(このクレオパトラは古代エジプト最後の女王のクレオパトラ7世とは別人。)
この出来事はオリュンピアを不安にさせました。
王位継承権を脅かされたのです。
フィリッポス殺害事件は、オリュンピアが黒幕とも言われています。
この頃、離婚していましたので。
そして、この暗殺にアレクサンドロスが関与したという説もあります。 -
こちらは、幼いアレクサンドロス3世と母であるオリュンピアスです。
オリュンピアス(Oλυμπιάς)は何度か名前が変わっています。
ポリュクセナ(エピロスの王女)
ミュルタレ(ディオニソス教団の信者の時)
オリュンピアス(夫フィリッポス2世の馬がオリュンピア競技で勝利した時)
ストラトニケ(BC317年エウリュディケに勝利した時)
オリュンピアスは、少女時代から密儀宗教(蛇崇拝のディオニソス信仰)に入信するなど熱烈な信者でした。蛇を操る怪しい密議に没頭していたと言われています。
また、権力欲が旺盛で野心もあり、夫フィリッポス2世の暗殺を背後であやつっていたと言う説もあります。
他にも王族の女性たちを暗殺したという噂もあります。
この像は、そんな姿を微塵も感じさせない良妻賢母のように見えます。
実際にアレクサンドロスに対して愛情を注いだのは事実なようです。 -
実は余談ですが、ある怪しげな話があります。
ネクタネボスはアレクサンドロス大王の実の父で、蛇神の名を騙って蛇に変身して、アレクサンドロスの母のオリュンピアに近づき、英雄を産ませた・・・というバルカンの伝説があります。
なにしろバルカンには、吸血鬼になりすまして(又は神々の名を騙って)女性の寝室に入り込む人が存在したそうです。このような欺瞞は「ネクタネボスの惑わし」と呼ばれてます。
※ネクタネボスとは、エジプトのネクタネボ2世のことです。エジプト第30王朝の3番目で最後のファラオです。
ただ、これは昔の噂話でフィリッポス2世が真のアレクサンドロスの父です。 -
Horse Fountain(馬の噴水)
アレクサンドロスの父方は、ヘラクレスを祖に持つとされ、また、母方の家系はアキレウスの血をひくとされ、ギリシャにおける最高の家系に生まれました。 -
これは親子3人水入らずの様子です。
噴水だけに本当に水いらずです。
アレクサンドロスが、まだ幼い頃のようです。
ちなみに、アレクサンドロスの名誉心はかなりのものだったようです。
プルタルコスによると、アレクサンドロスは、フェニキア諸都市を占領した後、彼は少年時代の家庭教師であったレオニダスに、500タラントンの乳香、100タラントンの没薬(香料)を贈りました。
実はかつてアレクサンドロスが犠牲を捧げる際に、香料を両手でつかんで火にくべたところ、レオニダスが「そんなにどっさり使うのは、香料の産地を占領した時になさい。今はあるだけの物を節約してお使いになるべきです。」と言ったのです。
そこでフェニキアを占領した今、レオニダスに手紙を書き「乳香と没薬をどっさり贈りましたから、神々にケチな振る舞いはなさいませんように。」と言い返したそうです。自尊心を傷つけられた者に対する恨みを執念深く抱き続ける性向だったようです。 -
ライオン獅子
Lions Fountain(ライオンの噴水)
323年6月10日、アレクサンドロスはバビロンで亡くなりました。
ただ、彼の亡き後の後継者は決まっていませんでした。
しかも王族には後継者となりうる成年男子は存在しませんでした。
そのため。異母兄弟のアリダイオス(知的障害があり)をフィリッポス3世として即位させ、そして生まれて間もない息子(王妃ロクサネが生んだ子)をアレクサンドロス4世として即位させました。ただ2人とも統治能力はありませんでしたので、側近のペルディッカス(病床の大王から指環を委ねられていたため)が摂政に選ばれました。
ただ、ほどなく対立し始め、マケドニア王国は断絶し、紀元前306年から304年に後継将軍たちが名乗りをあげ、5つのヘレニズム王国が誕生し、さらにそれらは3つに淘汰され、次のようになりました。
アンティゴノス朝マケドニア
プトレマイオス朝エジプト
セレウコス朝シリア
となりました。
また、母であったオリュンピアは、ヒュドナの町に包囲され、数か月の籠城の末、紀元前316年の春、降伏し処刑されました。
こうしてマケドニア王国の女性たちは例外なく非業の死を遂げ、マケドニア王国は虚しく終焉を迎えローマの属州となってしまいました。 -
時計塔が少し見えます。
時計塔はムラト2世モスクのすぐ北にあり、16世紀に古い建造物の土台の上に築かれたものです。
かつては木造でしたが1902年に煉瓦造りとなりました。
6角形の塔は1963年のスコピエ震災によって大きく損壊しましたが、後に再興されました。 -
ワンちゃん、暑いので水たまりに座り込んでいます。
いくら何でもこんな所でいいの~?
それぐらい暑いです。 -
ハマムの跡が、バザールになっています。
このバザールではアイスを買いました。
なんとお安くて1ユーロでした。キウイ、レモンにしました。
このスタラ・チャルシヤ(バザール)の繁栄期には30を超えるモスク、多数のキャラバンサライ、その他多くのトルコ式の建造物やモニュメントが立ち並んでいたようです。オールドバザール 史跡・遺跡
-
このドームがハマムの跡を物語っています。
Çifte Hamam(チフテ・ハマム)跡です。
トルコ語で二重風呂の意味です。
建物は男性用・女性用の2つの部分に分かれています。
Isa Bey(イーサ・ベイ)によって15世紀に建設されました。
1915年まで公共浴場として利用されていました。
1963年の震災により損害を受けましたが修復され、現代美術の展示に使用されています。 -
Skopje Fortress(スコピエ要塞)
この要塞からは考古学的な遺品が発見されており、有史以前に人が居住していたことがわかりました。
このスコピエのある地域は紀元前4000年頃より人が居住していました。
新石器時代の集落跡がスコピエの城塞付近で発見されています。
スコピエの低地にやってきた最初の人々はおそらく、スキタイやケルト人、イリュリア人からの影響を受けたトラキア人の一部族だったようです。 -
要塞の建築は11世紀頃のようです。
スコピエ要塞は、マケドニア人には「カレ」として知られています。
この名前は英語で「Kale Fortress(カレ要塞)」と表記されることもあります。スコピエ城塞 寺院・教会
-
Orthodox Church St. Demetrius(デメトリウス正教会)
この教会は偉大な殉教者であるサロニカの聖デメトリオスに捧げられています。
教会の入口門の碑文から、その場所には16世紀の古い神殿があったことが明らかです。
1727年、初めてこの教会が大聖堂として言及され、19世紀にはスコピエ大司教区がここに置かれました。
教会は数回の増築や改修が行われ、1896年に現在の姿となり、献堂式が行われました。
20世紀には教会が非常に重要であり、「聖クリメント・オフリドスキ」教会の建設まではマケドニア正教会の大聖堂として機能していました。
スコピエで最も古い教会の1つです。聖ドミトリー教会 寺院・教会
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カルポスの反乱広場に位置しています。
マケドニア正教会聖デメトリウスは、正教会の聖人であり軍事殉教者である聖デメトリウスに捧げられた大聖堂様式の教会です。 -
ちなみにカルポスの反乱は、古代ローマにおける最大の奴隷反乱です。
紀元前73年から紀元前71年にかけて発生しました。
この反乱は、元剣闘士スパルタクスが率いる奴隷たちがローマの権力に挑んだもので、ローマ史上最大の奴隷反乱として知られています。
反乱の背景には、ローマ共和国の奴隷制度があり、特に農業や鉱山での需要が高まる中、奴隷たちの間では不満が次第に高まっていました。
スパルタクスの反乱は、奴隷たちの自由への渇望が高まる要因となりました。 -
鐘楼は1907年から1908年にかけて再建されました。
-
反対側から見た石橋です。
-
国旗の先にアレクサンドロスが見えます。
そして更にその先の山の上にはミレニアム・クロスが見えます。
スコピエを象徴しています。 -
石橋の先の別の橋です。
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石橋ですが、フィリッポス2世広場側の少し離れた所から撮った様子です。
このスコピエで感じたことは、なんて像が多いのだろう~~~ということです。
ギリシャに忖度しながらも
ギリシャの逆鱗に触れながらも
北マケドニアとしての歴史は浅いのですが・・・。 -
正教会、フィリッポス2世像の方向を見ています。
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ホロコースト跡がミュージアムになりました。
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マケドニアのユダヤ人ホロコースト記念センター
マケドニアのユダヤ人ホロコースト記念センター 博物館・美術館・ギャラリー
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1996年4月16日
マケドニア・ホロコースト・メモリアル・センター -
メノラーと六芒星のダビデ王の星が描かれています。
-
この先がバスの待ち合わせ場所です。
この後は帰国ですので、遅れないように早目に到着しました。 -
空港に向かっています。
要塞には北マケドニア国旗が見えます。 -
もう少しでスコピエ空港です。
かつてはスコピエ・アレクサンダル大王空港という名称でしたが、ギリシャとの間いで外交問題に発展しました。
そのため、現在は「スコピエ空港」です。 -
スコピエ空港に到着しました。
スコピエ空港 (SKP) 空港
-
ターキッシュエアラインを利用します。
webチェックインしたのですが、1人分は既に座席が指定されていたため変更できませんでした。イスタンブールまでは隣席だったのですが、その後のイスタンブール→羽田間が別の座席になってしまいました。
そのためイスタンブールの空港で変更してもらいました。 -
2025年7月はスロヴェニア→クロアチア→ボスニア・ヘルツェゴヴィナ→クロアチア→モンテネグロ→アルバニア→北マケドニアとバルカン半島を周遊しました。
訪れた国はかつてのユーゴスラビアがほとんどでした。まさに「南スラヴ人の国」でした。
バルカン半島は先史時代以来、多くの民族が往来し、文明が交錯していました。
それが近年になってからも、民族が対立しヨーロッパの列強の思惑もあり、いつ何が起きるかわからないような一触即発の状態で「ヨーロッパの火薬庫」とまで言われました。
そんな痕跡が現在も残っています。
このような悲惨な歴史を忘れてはいけない・・・と今回の旅を通じて痛感しました。
最後まで御覧いただき、ありがとうございました。
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