2025/07/18 - 2025/07/26
5位(同エリア444件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2025/07/21
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バスでの移動
スプリット(クロアチア):14時00分頃→モスタル(ボスニア):17時30分頃
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Franjevacka Crkva u Mostaru
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徒歩での移動
Onceukova通り
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スターリモスト
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Koski Mehmed pasina dzamija(コスキ・メフメット・パシナ・7ジャミーヤ)
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モスクそばカフェ
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ビュースポット
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Villa Saivia(夕食)
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バスでの移動
バス停→ホテルへ
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ホテル「Bristol」
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買物
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この旅行記スケジュールを元に
2025年の夏は、スロベニア~クロアチア~バルカン半島を周遊しました。
『人間が生きる本能に駆られて築き、建てたものの中で、私の見るところ、橋よりも優れ、価値あるものはない。橋は家よりも大切であり、普遍的であるだけ聖堂よりも神聖である。だれのももでもあり、だれに対しても平等で、役に立ち、人間の必要がいちばん多く交錯する場所に、常によく考えて造られており、他の建造物よりも堅牢で、秘密のことや悪しきことには使われない。‥‥‥つまるところ、われわれの人生が示すあらゆるものー思考、努力、視線、微笑、言葉、溜息ー、それらすべては彼岸を求め、目的地として彼岸を目指し、彼岸にあってようやく真の意味を獲得する。すべてはなにかを、無秩序、死、あるいは無意味といったものを、克服し乗り越えなくてはならない。なぜなら、すべては渡し場であり、両端が無限の彼方にかすむ橋であって、これに比べれば地上の橋は子供だまし、曖昧な象徴でしかない。そして、われわれの希望はすべて彼岸にある。』
これは「イェレナ、いない女」の冒頭での橋についての記述です。
これを書いたのは、ノーベル賞作家のイヴォ・アンドリッチです。
彼は、ユーゴスラビア(オーストリア=ハンガリー帝国の占領下にあったボスニアのトラヴニク近郊)生まれの小説家であり、詩人であり、外交官でした。
彼の著書の中でボスニア3部作と言われている「ボスニア物語」「ドリナの橋」「お嬢さん」があります。
他にも興味深い作品が多く、結構読み漁りました。
特に今回は、『スターリモスト』を訪れる前後に読んでみました。
そのイヴォ・アンドリッチは「バルカンにおいては、全ての存在は悲劇的である」とエッセイで語っています。
これこそが、ボスニアの歩んできた道かもしれません。
【旅程】
7/18(金)
羽田(HND)21:45発(ターキッシュエアラインズ(TK199便))
7/19(土)
イスタンブール(IST) 4:50着
イスタンブール(IST) 7:15発(ターキッシュエアラインズ(TK1061便)
リュブリャナ(LJU) 8:30着【スロベニア】
↓
ブレッド10:00
ブレッド湖
聖マリア教会
ブレッド城
↓
ポストイナ15:00
鍾乳洞
↓
オパティア【クロアチア】18:30
7/20(日)
オパティア8:30
↓
プリトヴィイツェ13:00
プリトヴィッツェ湖群国立公園
↓
ザダル18:00
旧市街
7/21(月)
ザダル9:00
↓
スプリット11:30
ディオクレティアヌス宮殿
↓
●モスタル【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
●スターリ・モスト
7/22(火)
●モスタル8:30
↓
ドブロヴニク12:00
セルビア教会
ブラホ教会
スルジ山
城壁
フランシスコ教会
大聖堂
7/23(水)
ドブロヴニク8:00
↓
コトル【モンテネグロ】11:00
聖トリプン大聖堂
城壁内
海岸沿いドライブ
↓
ティラナ【アルバニア】20:00
7/24(木)
ティラナ8:00
↓
スカンデルベルグ広場
マザーテレサ広場
クロックタワー
↓
ベラート12:30
ベラート市内
ベラート城
↓
オフリド【北マケドニア】19:00
7/25(金)
オフリド8:15
↓
オフリド湖畔
聖ソフィア大聖堂
ローマ劇場
サミュエル要塞
聖ヨハネカネヨ教会
市内
↓
スコピエ15:30
市内
石の橋
マケドニア広場
バザール
↓
スコピエ(SKP) 20:20発(ターキッシュエアラインTK1006便)
イスタンブール(ISL) 23:00着
7/26(土)
イスタンブール(ISL) 2:00発(ターキッシュエアラインTK198便)
羽田(HND) 19:20着
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- エイチ・アイ・エス
-
この旅行の行程は、スプリット(クロアチア)→モスタル(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)→ドゥブロヴニク(クロアチア)です。
モスタルに寄らなければ、スプリットからドゥブロヴニクは海岸沿いを行けば近いのですが・・・。
ただし、実際には、それでも国境を超える必要があります。
地図を見るとわかるように、クロアチアの海岸沿いに、ちょっとだけボスニア・ヘルツェゴヴィナの領土があります。このため、結果的には国境を超えなければなりません。
ですから、国境をわざわざ超えるのなら、モスタルは割と近いので、立ち寄れます。
この行程、なるほど~と思いました。 -
泥で作った山でも、失敗したプリンでもありません。(-_-;)
クロアチアのスプリットから、ボスニアのモスタルに向かっている時に、小高い丘(山)の上に、十字架があるのを数多く見ました。
本当にたくさん見ました。
写真が撮れなかったので、絵を描きましたが下手すぎて、園児並みになりました。
(-_-;)
モスタルは標高60mのモスタル盆地にあり、ヘルツェゴヴィナの低地と山岳が交差しています。モスタルのヴェレジ山は1967mあります。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ最大のネレトヴァ川は街の中央を流れ、最終的にはクロアチアのアドリア海に流れ230kmあります。 -
そして国境です。
「Border crossing Bijača」です。
ここでの手続きは全員バスから降りて出口へ。
荷物はバスに置いたまま、パスポートを運転手さんに預け、手続きしてもらいました。
15時47分から16時16分頃で終わったので、約30分待っただけです。 -
クロアチアの国境を越えました。
ちなみに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルへ向かっています。
クロアチアでは見られなかったモスクが、チラホラ見られました。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは旧ユーゴスラビアです。
このボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、民族間の対立が激しく、紛争に発展しました。
30年前の1995年7月、独立を巡る対立で、セルビア人武装勢力が東部スレブレニツァを制圧し、避難していた8300人以上のボシュニャク人(イスラム系)を殺害しました。 -
ラウンドアバウトです。
かつて、オスマン帝国は、古代ローマ時代からの街道を整備して、1日の行程にあたる30から40kmごとにキャラバン・サライ(隊商の宿)を建築しました。
モスタルの街はベオグラード、サラエボからドゥブロヴニクに至るまでのキャラバン・ルートが通っていました。
アドリア海沿岸からは魚、塩、オリーブオイルや干しいちじくなどが、内陸部からは穀類、蜂蜜、肉、羊毛などが運ばれました。 -
到着しました。
駐車場のすぐ側です。
高----い鐘楼です。
Mostar Peace Bell Tower(モスタル平和鐘楼)です。
ボスニアでいきなり、このような教会を目にするとは思ってもみませんでした。 -
1866年に建てられた元の鐘楼の跡地に立っています。
現在の建物は1990年代の戦後に再建されたものです。
内部には1927年の5つの鐘と、2015年の新しい鐘が2つあります。
この鐘楼はフランシスコ会の聖ペテロ・パウロ教会の一部です。
エレベーターで高さ45mまで登り、その後、100段以上の階段を登って高さ75mの地点に到達し、パノラマの景色を眺めることができます。
頂上からは、スターリモスト、ネレトヴァ川、周囲のベレス山脈とプレンニ山脈などの景色を眺めることができます。 -
建設年:2000年(聖年)
十字架付きの鐘楼の高さ:107.2m
鐘楼の外径:7.8×7.8m
打設コンクリート量:2300立方メートル
設置鉄量:251,820kg
展望台の高さ:75m
階段:370段
75mの高さ:パノラマビュー -
Franjevacka Crkva u Mostaru
フランシスコ会の聖ペテロ・パウロのカトリック教会です。
フランシスコ会は14世紀にモスタルに、そして15世紀には教会と修道院を建設しました。
ただ、1583年オスマン帝国の侵略により教会と修道院の両方が破壊され、修道士が処刑され、遺体がネレトヴァ川に捨てられました。
カトリック教会がモスタルに再建されたのは19世紀半ばになってからです。
その後、1859年スルタン・アブドゥルメジド1世はキリスト教徒に宗教の自由を与える法令を発表しました。
修道士たちはイタリア人建築家マッテオ・ロレンツォーニに教会のプロジェクトの設計を依頼し、オークの幹を使って壁を建て1875年に完了しました。
ただ、第二次世界大戦の爆撃と、内戦で建物は2回にわたって破壊され、その後、教会は南東ヨーロッパで最も高い鐘楼として再再建されました。 -
1967年から1970年にかけて行われた考古学調査により、三つ葉型の後陣(25×25)を特徴とする単一の身廊をもつバシリカの存在が明らかになりました。
おそらくこれは、4世紀に遡るサルセンテルム司教区の所在地を示すものであり、この都市の創設以来、組織化されたキリスト教が存在していたことを証明します。
このバシリカの遺跡の上には、9世紀から12世紀の遺物が豊富に出土した古代クロアチアの墓地が出現しました。
(A)ナオス・大聖堂の主身廊
(B)聖域・祭壇エリア・司祭席
(C)洗礼堂・洗礼室・洗礼盤
(D)ナルテックス・玄関ホール・大聖堂のポーチ
(E)ディアコニコン・聖具室
(F)プロミテーゼ・追加の聖具室
(G)(H)司祭がミサの準備をする部屋 -
地面にはこのように描かれていました。
Baptistery(洗礼堂)の案内表示です。
4~6世紀の洗礼堂跡がここにあることを意味しているようです。
古代ローマ末期からビザンツ初期の時代です。
周囲には古代から中世にかけての遺跡が残っています。
モスタルはオスマン時代の街並みで有名ですが、その下には古代キリスト教の遺跡が眠っているなんて歴史を感じます。
ちなみに表示が『Ⅳ.-Ⅵ. st』となっているのは、考古学的な発掘・調査の結果この遺構がその時期に属すると判断されたためと考えられるようです。年代判定には発掘状況や出土物、場合によっては放射線炭素年代測定等が用いられます。 -
この青銅の扉には聖母子が描かれているようです。
周囲には天使の姿も見えます。
また聖母子の左には、旧約聖書の場面が、右側には新約聖書の場面が描かれているようです。 -
ボスニアの歴史の中で、フランシスコ修道会は、ローマ教皇庁からボスニアに派遣され、宣教活動を開始しました。
13世紀、ブルガリア渡来の異端と言われるボゴミール(宇宙が善と悪の闘争から成ると説く二元論)に対抗するためでした。
ちなみに、ボゴミール派は10世紀にブルガリア帝国で生まれ、バルカン半島全域に広まった二元論的なキリスト教の異端宗派です。
特にボスニアでは、中世に栄えたボスニア教会と関連付けられてきました。
セルビアなどの周辺国で迫害されたボゴミール派信者の多くが、比較的寛容だったボスニアに逃げ込みました。
長い間、ボスニア教会はボゴミール派の教義を採用した組織であると考えられてきましたが、近年の研究では、ボスニア教会が本当に二元論を信奉していたのか、それとも単にカトリックや正教会から異端視されていただけの正統派キリスト教の一派(自分たちは「クルストヤニ」と呼んでいた)だったのかについては議論があるようです。
15世紀のオスマン帝国による征服後、カトリックと正教会の両方から迫害されていたボスニア教会の信者の多くは、イスラム教に集団改宗したと考えられており、これによりボゴミール派の痕跡も消滅したようです。
ボスニアとその周辺地域に点在する独特な中世の墓石(ステチャク)は、かつてボゴミール派の遺産であるとされていましたが、これも現在では真偽について議論されてます。
15世紀にボスニアがオスマン帝国に征服され、属州になると封建領主や地主貴族や自由農民は征服者の宗教を受容し、ボスニアの支配階級の宗教はイスラム教となり、ギリシャ正教、ローマカトリック、ユダヤ教の信奉者たちは非回教徒と呼ばれて抑圧される立場になりました。
ただ、フランシスコ修道会は、オスマントルコ治世の時代に政府当局から活動を許可されていた唯一のカトリック修道会でした。
司祭職の不足、税の取り立て等の様々抑圧がありましたが、国内のカトリック教徒を保護し、精神生活の支えとなりました。修道師団の大半はボスニア出身で、質素な生活り、啓蒙活動をそれなりの試み、地域の人々との精神的な繋がりを保っていきました。 -
案内板です。
左はSpanish Square(スペイン広場)、Musala Square(ムサラ広場)などがあります。 -
この道をまっすぐ進みます。
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内戦の痛々しい痕跡が残っています。
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、こうした痕がたくさんあります。 -
ユネスコの世界遺産のマークがあります。
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足元の様子です。
この付近は、道幅も狭まり、かなりの混雑です。
周囲には土産物屋やレストランなどがひしめき合っています。
スロベニア、クロアチアとは、また全然雰囲気が違います。
イスラム圏にやって来たと感じます。 -
モスクのミナレット(尖塔)が見えました。
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Halebija Tower(ハレビヤ塔)
橋のたもとにあります。
この塔は橋の西側にあり、東側には半円形のTara tower(タラ塔)があります。
いずれも橋の支柱であり、橋の防衛にあたります。
かつてはオスマン帝国の弾薬庫でした。
その後、博物館となりましたが、現在はお店になっています。 -
カラフルなランプが並んでいます。
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堅固な石の上に木造の建物が重ねられているようです。
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橋はご覧のようにすり減った石畳で、結構滑ります。
段差が小さな階段状にはなっています。
ただ、世界遺産で転んで頭を打たないように、注意して渡りました。 -
橋の上からネレトヴァ川を眺めた様子です。
これは橋の上から右側の川の様子を写したものです。 -
船が見えます。
川で泳いでいる人たちもいます。
かなり暑いので、気持ち良さそうです。
また、この橋からの飛び込みは有名です。
既に1664年には飛び込み大会があったとの記録が残されているそうです。
そして、1968年からは公式大会が開催されています。
橋から川までの高さは24mです。 -
今度は橋の左側です。モスクが見えます。
川沿いにはカフェなどもあって、気持ち良さそうです。 -
橋の上は人でごったがえしています。
芋洗い状態です。
橋が落ちないか、ちょっと心配でした。 -
ジェズベ(コーヒーポット)やチャイ用セット(茶器セット)です。
ボスニアでは銅製品が有名です。
チャイ用グラスは持っているのですが・・・・。
今までにもイスラム圏で、何度か購入しようか迷っていて結局買っていませんでした。
また、ここで未練が残ります。 -
対岸も同じように石畳です。
ちょっと独特な石畳です。
裸足で歩いたら、足ツボにはいい刺激になりそうです。
もっとも、この時期は熱すぎて火傷します。 -
これから演奏が始まりそうです。
この付近はOld Bazar Kujundziluk(オールド・バザール・クユンジュルク)です。 -
トルコの甘いロクムなどのお菓子がたくさんあるようです。
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モスクまでやって来ました。
Koski Mehmed Pasha Mouque(コスキ・メフメット・パシャ・モスク)
ちなみに橋のこちら側は、ボシュニャク人、そして橋の反対側はクロアチア人と住み分けがされているようです。コスキ メフメド パシャ モスク 寺院・教会
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暑いので木陰は嬉しいです。
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入場料を払います。
鐘楼は別料金です。
モスクの入場は5ユーロ
鐘楼も含むと7ユーロでした。
靴は履いたままで大丈夫です。ただ、絨毯内は立ち入り禁止です。 -
他のイスラム圏で見たドームとは違い、幾何学模様、アラベスク、カリグラフィーがぎっしりと描かれているのではなく、かなりシンプルです。
ただ白を基調として綺麗で可愛らしいドームです。 -
左にミフラーブ、右にミンバルがあります。
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モスタルの全てのモスクとマスジドのうち、ドームでアーチ型になっているのは3つだけで、他の全ては複数のアーチ型の木造屋根構造で覆われています。
これら3つのモスクは、カラジョズ・ベイのモスク、ヴチヤコヴィッチのネスアガモスク、コスキ・メフメト・パシャのモスクです。 -
ステンドグラスは白、青、赤の丸いシンプルなタイプですが、光の加減で別の色にも見えて綺麗です。
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旧市街、ネレトヴァ川の左岸、川の間、クジュンジルク通り、旧橋の北約150 m、マラテパの南約20 mに位置しています。
17世紀初頭に古典的なオスマン様式で建てられました。
ユネスコの保護下にあったものの、1993年に砲撃でミナレットを失いました。
中庭もドームも免れませんでした。 -
歴史を感じる写真が数多くありました。
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コスキ・メフメト・パシャはモスタルで生まれました。
彼は大宰相ラル・メフメト・パシャ・ソコロヴィッチによってロザリオに任命され、その後軍のデフターダルになりました。
退役後、コスキ・メフメト・パシャはさらに5年間生き、1611年に亡くなりました。モスクの建設は彼の兄弟マフムードによって完成しました。 -
モスクでは、適切な服装をすることが義務づけられています。
肌の露出はタブーです。また、ストールを忘れずに。 -
2階の礼拝スペースから眺めた様子です。
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上から見ると、何枚かの絨毯を組み合わせて、敷いていることがわかります。
端の部分は小さめの物で調整してます。
旧オーストリア君主制から贈られた絨毯があるようですが、これがそれかはわかりません。
また、こちらのモスクには、コーランからの珍しい写本のコレクションがあるようです。 -
木の中に、アラビア文字が見えます。
たぶん「神」と書かれているようです。 -
イチオシ
この橋は2005年、世界遺産に登録されました。
この街は15世紀から16世紀にオスマン帝国の辺境の町として発展し、その後、モスタルは19世紀から20世紀のオーストリア・ハンガリー帝国時代に発展しました。
また、トルコの古い家や古い橋で有名でした。
ただ、1990年代の紛争で、歴史的な町と旧橋のほとんどが破壊されてしまいました。
かつて、街の中心には、木製の吊り橋が架かっていました。
スターリ・モストは1556年のオスマン帝国に支配されていた時代に軍事目的で建造されました。
橋の建設者は、Mimar Hayruddin(ミマール・ハイルッディン)でした。
彼はスレイマニエ・モスクなどを建設したかの有名な建築家Mimar Sinan(ミマール・シナン)の弟子でした。
地元の石灰岩を使いトルコ式アーチ型の石橋として架け替えたのです。
橋の建設は当時は一台事業でした。万が一失敗した場合は死罪になりました。
そのため、橋の近くに自分の墓穴を掘っていたようです。
恐ろしい時代です。私なら建築に携わりたくないと思ってしまいます。
ただ、この象徴的な橋だったのですが、1発のロケット弾で崩落してしまいました。
その後、紛争終結後に再建されて、当時のように、地元の石灰岩が使用されました。ユネスコの援助もありました。
※ ちなみにボスニアのヴィシェグラードの橋はシナンが手掛けました。 -
この地は、多文化都市集落です。
多様な文化的、民族的、宗教的コミュニティが共存しています。
複雑な歴史の中で現在に至っています。
まず、ここには石橋以前に吊り橋と跳ね橋の2つがあったことが明らかになっています。
1474年のドゥブロヴニクの文書に「モスタル」の名が初めて登場しています。
それによると、石橋以前からこの街がモスタルと呼ばれていたことがわかります。
街の名はこの「橋を守る者(mostari)」に由来しています。
現在の市章もこの橋を図案化しています。
まさに街の象徴です。
Stari Mostの「スターリ」は古い、「モスト」は橋なので、古い橋という意味です。(スラブ語)
フィレンツェのアルノ川にかかるPonte Vecchio(ポンテ・ヴェッキオ)(古い橋)みたいです。
ただ、完成当時は「古い橋」ではありませんでした。当然ですが。
最初は「スルタン・スレイマン橋」、次いで「ヴエリキ・モスト(大橋)」と呼ばれました。
その後、300年以上経った19世紀の終わりになってから、現在のように呼ばれてます。
建設以後は、市場・キャラバン・サライ(隊商宿)・ハマム(公衆浴場)などが建設されました。
そして街は発展しました。
ただ、地中海世界の争いの中、17世紀末には海洋都市国家ヴェネツィアの攻撃を何度も受け、イスラム圏の最前線として街の戦略上の重要性が再認識されました。
そして市場を囲む防壁が建設されました。
監視塔と要塞の役割をもつ東西の塔は時代の要請に応じて作り替えられました。スターリモスト橋 建造物
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ベンチには、可愛い赤いクッションがあり、赤いお花とマッチしてます。
こちらはカフェです。
モスク入場者は、この中に入れます。
眺めもいいため、小さなゲートがあり、入場制限されてます。 -
カフェから対岸を撮ったものです。
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イチオシ
Stari Most / Стари мост(スターリモスト)が良く見えます。
その左奥には飛び込み台が見えます。
この橋の上からも飛び込みが行われます。 -
モスクの入口付近です。
メフメト・パシャは、神の愛がこの場所にあるためにこのモスクを建てました。聖霊は「神の神殿であり、善良な人々の住まいである。」と言われました。 -
ウドゥのための洗い場です。
イスラム教では、礼拝の前には身を清めなければなりません。 -
こちらはイスラム教徒の墓地です。
墓地はモスクに隣接するのが一般的です。礼拝と同じく共同体の一部として位置づけられています。
オスマン時代の役人や宗教関係者が眠っています。
モスタルの墓碑の特徴は下記のとおりです。
男性の墓石→頭部がターバンやフェズ帽型
女性の墓石→装飾の少ないシンプルな石柱
高官や学者の墓→より大きく、石枠や装飾が立派
庶民の墓→小型で質素
【ターバン型】(巻物状・層になった形)
男性用のお墓。特にウラマー(学者)、宗教指導者、役人など社会的に高い地位の人に使われることが多いです。
ターバンの巻き方の違いで、その人の所属や階層を表すこともあります。
【フェズ帽型】(丸みを帯びた石や帽子状の彫刻)
男性のお墓に多く、特に19世紀以降オスマン帝国で一般的だった赤いフェズ帽を象徴しています。
市井の一般男性や兵士のお墓に見られることがあります。
【シンプルな石柱】(装飾が少ない縦石)
女性のお墓に多いとされます。
男性のように頭飾りの形を模さず、シンプルな形状が一般的。
【横の長方形の囲み】(棺のような形)
墓石の間に長方形の石枠を置いて、亡くなった人の身体を象徴的に囲うもの。
実際の遺体はその下に埋葬されます。
こうしたオスマン様式の墓碑はボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、アルバニア、トルコなど広く残っています。 -
意識してませんでしたが、アーケードの様になっていまいた。
こちら側はモスク側です。 -
両側にお店が並んでいます。
先ほども通りましたが、Old Bazar Kujundziluk(オールド・バザール・クユンジュルク)で賑わっています。 -
この付近からの眺めも綺麗です。
スターリモスト(オールド・ブリッジ)は、全幅4.49m、全長30m 、川面からの高さ24mのアーチです。
橋の両端には2つの要塞化された塔が立っています。
塔は「橋の番人」と呼ばれています。
Helebija(ヘレビヤ塔)が橋の西端を守っています。下層階に刑務所があり、上層階に兵舎がありました。
川の対岸にある半円形のTara(タラ塔)には、旧橋博物館があります。 -
銅製品に目が釘付けです。
ただ、買っても、使用するのはせいぜい1~2回です。
・・・ということで旅の勢いで買って後悔しないよう、冷静に考えて諦めました。
ちなみに、この通りをクコンジルク(Kujundziluk)と言います。
金細工師(クユンジュ)が多く住んでいたことから名前が付きました。 -
橋の上から眺めた様子です。
橋の西側です。川沿いのカフェいいですね~。 -
こちらは東側の、先ほど行ったモスク付近の様子です。
ところで、このスターリモスト(オールド・ブリッジ)のこの橋からそう遠くないところに、曲がった橋という名前の別の古代建造物があります。
曲がった橋はオールド ブリッジよりも数年古い橋です。
ネレトヴァ川の支流であるラドボルジャ クリークにまたがっています。
オールドブリッジにそっくりらしいです。
オールドブリッジのテストモデルだったと思われます。 -
駐車場近くの教会に戻ってきました。
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この教会周辺は広場のようで、結構広いです。
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向かい側にあるレストランで夕食です。
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Villa Salvia(ヴィラ・サルヴィア)
Villa Salvia ホテル
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階段を降りてきました。
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夕食はĆevapi(チェヴァピ)です。ピタで挟んでいただきます。
ケバブ風です。ボスニアやセルビア、コソボ、モンテネグロ、クロアチア、スロベニアなどでもあります。
この時は暑すぎたのでビールにしましたが、この付近ではZilavka(ジラヴカ)という品種の白ワイン、Blatina(ブラティナ)という品種の赤ワインが古くから作られています。
地中海性気候で葡萄やサクランボ、杏やいちじくなどが栽培されてます。 -
レストランから写真を撮りました。
全体像がわかります。 -
この鐘楼は、かなりの高さのため、モスタルのランドマーク的な存在です。
では、ホテルに向かいます。 -
Hotel Bristol(ホテル・ブリストル)
お湯が出ないトラブルが! by noelさんホテル ブリストル ホテル
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こちらはお部屋です。
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前日の部屋よりは広くて使いやすいです。
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家具の色調も落ち着いています。
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洗面所
バスタブはありません。
特に問題はないのですが、1つ決定的な問題が発生しました。
それは、お湯が出ないのです。
工事の関係で、1時間後には出ると言われ、この間に近くのお店に買物に出かけました。 -
買物に繰り出したところ、夜を楽しむ人で賑わっていました。
食事をしていなかったら、この付近でゆっくりしたい気分でした。
ただ、スプリットで汗をかいてましたので、シャワーは浴びたいので買物を終えてさっさと戻りました。
ただ、いくら待ってもお湯は出ません。
眠いので、仕方なく水で我慢しました。真夏だったからよかったようなもの・・。
翌日ホテルから謝罪として、レセプション横の冷蔵庫の飲み物サービスがありました。
どれでもいいというので、遠慮なくビールをいただき、持ち帰りました。 -
7月22日の朝です。
ホテルの部屋から、昨日の教会が見えました。
そしてその先の山には、十字架が見えます。
先ほど私が描いた下手な絵と同じです。 -
部屋からの眺めです。
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ホテル外観です。
朝早いので、邪魔されずに撮影できました。 -
ホテル前の道です。
橋の方に行ってみます。
Mostarskog bataljona橋 -
橋の上から見たネレトヴァ川です。
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シェアサイクルがありました。
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この建物の再建は、イタリア政府からモスタル市民への贈り物です。
2003年3月
何の建物かは不明です。
この先を右に川に沿って散歩します。 -
真正面にモスクとミナレットが見えました。
ちなみに、モスタル滞在中に、アザーンを聞きませんでした。
実際には私が耳にしなかっただけで、他の人によると、音量は小さいものの、聞こえていたようです。
さすが、ボスニア・ヘルツェゴビナ、多様な宗教・民族が共存していくのにはお互い自分以外のものに対する寛容さが必要です。 -
橋の反対側の様子です。
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モスタルの地図です。
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Ose Grebe通り
朝早いので、お店は閉まっています。 -
Ruznameci ibrahim Efendi Camii
1620年以前に建設されたと考えられてます。
ネヴェシンホ出身のイブラヒム・エフェンディはムラドの治世中に宮殿の「ルズナメシシ」(日記番)を務めました。さらにラドボリャ川の水をモスタルまで運ぶことで、都市の水需要を満たす重要な役割を果たしました。
ミナレットのバルコニー部分は1967年の嵐で破壊されましたが、2年後に再建されました。 -
かなり古く廃墟かと思ってしまいました。
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道標がありました。
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Cimetiere des victimes du genocide(虐殺犠牲者墓地)
モスク近くのこの墓地には、ジェノサイドで亡くなった方々の遺体が安置されています。この墓地は1990年代の戦争でボスニア人が経験した痛みと悲劇を思い出させます。 -
Karadozbegova Dzamija(ガラゴズ・ベイ・モスク)
モスタルのカラジョズ・ベグ・モスクは、16世紀に建てられたオスマン帝国のモスクです。
特大のドームと、そのサイズのモスクとしては高いミナレットがあります。
モスタル地方で最大のモスクとして有名です。
1557年に最初のキリスト教の殉教者である聖ステファン教会の遺跡の上に建てられました。
礎石に刻まれたアラビア語の基礎碑文には、このモスクが宰相の兄弟であると考えられているメフメト・ベグ・ビン・アブ・アル・サダトによって依頼されたと書かれています。
当時の大宰相はルステム・パシャでした。彼の唯一の兄弟はシナン・パシャという名前で呼ばれていました。石に書かれていることは多くありません。
モスクのデザインは、当時の第一人者である帝国建築家であるミマール・シナンの作品であると考えられています。基本的な形は、二重の柱廊玄関を備えたドーム型の立方体です。内側の柱廊玄関には、4本の大理石の柱で支えられた3つの小さなドームがあります。外側の柱廊玄関の屋根には小さな八角形の柱があります。
高さ35フィートのメイン ドームは、窓と尖ったアーチを備えた8面のドラム状の構造を覆っています。モスクは第二次世界大戦と1993年のボスニア戦争で深刻な被害を受けました。2004年7月に全面改装され、リニューアルオープンしました。 -
1557年に建設されたようです。
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塔に登ることもできるようです。有料です。
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Museum of war and genocide Victims(戦争及びジェノサイド犠牲者博物館)
民族の「浄化」、強制収容所、大量殺戮がここで記憶されています。
バルカン半島の物語が刻まれています。 -
展示されている品物や工芸品の数は増えています。
これらは英語とボスニア語で書かれています。
マスコミには一度も公開されていない残虐行為の証言や捕虜や兵士が撮影した写真が数多くあります。
民間人を保護できなかった国連平和維持軍の証言が入手可能です。
集団墓地から発掘された私物、生存者の供述、文書が内戦の悲惨さを証明しています。 -
博物館は政府の支援を受けていないため、寄付を歓迎しているようです。
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Koski Mehmed Pasha Mosque (コスキ・メフメド・パシャ・モスク)
コスキ メフメド パシャ モスク 寺院・教会
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ビューポイントにやってきました。
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昨日とは大違いです。
ゆっくりと橋を渡れそうです。 -
私が歩いて来た側です。
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反対側です。
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Divers Club(ダイバーズ・クラブ)の「Mostari」
年季の入った白壁に、木製の扉が趣きがあります。 -
昨日来た時は、超混み合っていましたが、この時はすきすきです。
やはり早起きは三文の徳です。
西側から渡ってます。 -
東側から渡ってます。よく見ると柵もありました。
転落したら大変ですし。 -
橋の袂のあたりは細長い小さな石が敷き詰められていました。
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この橋は飛び込みもあるように結構高さが高いです。
この真下のネレトヴァ川の水深が気になります。
結構深いことは間違いないかと思いますが、いったいどの位あるのでしょうか。 -
『Mimar』とあります。
Old Bridge Museum(旧橋博物館)です。
ミマールというのは、建築家のミマール・ハイルッディンのことでしょうか。 -
ミナレットが垂直に天にも昇るように立っています。
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Mimar Hayruddin (ミマール・ハイルッディン)は建築家で1500年頃生まれました。オスマン帝国の主任建築家(トルコ語:ミマール)で、スルタン・バヤズィト2世(在位1481年 - 1512年/ヒジュラ暦886年 - 918年)とスルタン・スレイマン1世(在位1520年 - 1566年)の統治下で活躍した土木技師でした。
父親も建築家だったようです。
イスタンブールのバヤジト2世モスク、エディルネのスルタン・バヤジト2世のキュリイエ・コンプレックス、アマスィヤの町の別のモスクの建設も担当しました。
ミマール・シナンの弟子でした。
ハイルディンは自分の設計が失敗すると確信し、9年間の建設を経て、橋が公開された日に命を懸けたといいます。
ハイルディンの設計は、1993年にクロアチア軍によって破壊されるまで持ちこたえました。
彼は古典的なオスマン建築家の創始者の一人です。 -
今まで、色々な橋を見てきました。
古代ローマのような石の橋。石で堅固であるため現存している橋も多いです。
主に軍事目的で架けられました。
また、近年になって鉄橋。
産業革命の象徴として世界初のイギリスのコールブルックデイル橋、スコットランドのフォース橋、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ、オーストリアのゼメリング鉄道などなど‥‥。
個人的にはスペインのクエンカにあるサンパブロ橋、周囲の景色も良くていいなぁと思います。
木造の橋はの静岡県島田市にある蓬莱橋、スイスのカペル橋、日本では特に歩行者用として現在も活躍してる橋もあります。
いずれにしても、もし橋がなかったら、私たちの生活は一変します。
素材はともかく、なくてはならないです。
それゆえに、有事の際には狙われて分断されてしまうことも多々です。
特にこのスターリモストは。 -
このピンクのお店、昨日も橋の側で見かけました。
やっぱり目立ちます。 -
Konzulat Republike Turske(トルコ共和国 モスタル領事館)
こちらはトルコの国旗が掲げられています。 -
ちょっと重々しい扉になっています。
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朝早いので、ほとんど人に会いませんでした。
ただ、帰路の際には早くから開いているお店に、ちらほら人がいました。
いつもは私から挨拶するのですが、英語で声をかけて来た女性がいました。
そして写真を一緒に撮ってくれと言われました。
1人でいると、たまにカメラのスイッチを押してほしいと頼まれることはあるのですが。
以前ロンドン郊外で、一緒に写真を撮ってくれと言われた直後、偽警察官からコカイン所持で逮捕すると言われたことを思い出して、女性ではあったものの、どこかに連れがいるのではないかと警戒しました。
水とスマホとカメラしか持っていなかったのですが。
でも心配。
結果的に単にツーリストでした。(-_-;)
ちなみにボスニアの朝の挨拶もクロアチアと同じで、Dobro Jutro(ドブロ・ユトロ)です。 -
Kulturni center Kralj Fahd (キング・ファハド文化センター)
これはサウジアラビアのファハド国王にちなんで名前がつけられたようです。
橋の手前にありました。
スターリモストの1つ先の橋です。 -
ボスニア・ヘルツェゴビナは、東方正教会に帰属するセルビア人、西方教会に帰属するカトリック教徒クロアチア人、イスラム教に改宗したムスリム人が混在しています。
14世紀末には、さらにスペインから追われて難民となったユダヤ人が移住して共同体を形成しました。
中世のバルカン半島では、スラブ系民族国家は独立を失い、2つの巨大な帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と、オスマン・トルコ帝国に引き裂かれました。 -
ネレトヴァ川は長い歴史を見てきました。
ローマ人とイリュリア人の重要な貿易の中心地である古代の集落は、2000年前から、そして中世の面影や、オスマン帝国支配下、内戦と数々の歴史と時代を超越しています。 -
ホテルが見えます。
橋の左側にあります。 -
山頂に十字架が見えます。
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八百屋さんのようです。
カラフルな野菜が並んでいました。 -
こちらはホテルの横にある橋です。
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スターリモストとは反対方向を眺めています。
左がホテルです。
テラス席だと眺めが良さそうです。
川を挟んでHotel Nertva(ホテル・ネレトヴァ)があります。 -
Hotel Bristol(ホテル・ブリストル)です。
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このテラスのある場所が朝食会場でした。
ただ、暑いので窓際ではなく、奥の席でいただきました。 -
この階下がレストランです。
古い写真がありました。
内戦前の橋の様子でしょうか。
それとももっと前の大戦前でしょうか。 -
朝食は少な目にしておきます。
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私の泊まった部屋の向かい側です。
1階はお店ですが、2階には弾痕が御覧のように残っています。 -
ズームしました。
このような弾痕が街のあちこちに残っています。
平和ボケしている私にとっては衝撃的です。
そして世界では、まだまだ戦争や紛争が収まりません。 -
1階はドネルケバブのお店ですが、2階には銃弾がたくさんあります。
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当時のままの状態です。
忘れてはならない・・・と戒めているかのようです。 -
遠くに教会が見えます。
少し丸みを帯びた教会です。セルビア正教会でしょうか・・・。
さて、この後は国境を越えてクロアチアの最後の訪問先、ドゥブロヴニクへ向かいます。
それにしても、この地を訪問できるとは、思ってもみませんでした。
こうして旅ができるのも、平和で安全だからこそ。
ただ、現在の世界は分断の一途を辿っているように思えます。
そうならない事を願ってます。
この国の弾痕を忘れてはいけません。
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この旅行記へのコメント (4)
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- sanaboさん 2025/12/23 00:31:07
- スターリ・モスト
- noelさん、こんばんは~
モスタルも是非とも行ってみたい街の1つです。
クロアチアの海岸沿いに少しだけボスニア・ヘルツェゴヴィナの
領土があるそうですね。ここだけは譲れない、と死守したのかしら?
国家としてはやはり港とかビーチとか海は絶対欲しいですよね。
ウクライナ侵攻したロシアを見ていてもそう思いました。
イラストを見て何かと思ったら、noelさんの心に刻まれた
シーンだったのですね。
絵はお上手ですけど、コメントが可笑しくてふふっとしてしまいました。
100mを超える高さの聖ペテロ・パウロ教会の鐘楼は立派ですね。
戦争を乗り越え、平和の象徴としてそそり立ってる感じがします。
とはいえ、街中には内戦の痛々しい痕跡があちこちに残されているのですね。
スロベニアやクロアチアとは雰囲気も異なり、イスラム圏にやってきたと
感じると仰ってましたけど、そもそも民族も宗教も異なる人々が
1つの国として一緒に住むこと自体、難しいことだったでしょうね。
今までにチャイ用セットをイスラム圏で何度か目にされ
購入を迷われたそうですね。
お土産って買っても買わなくても後悔することがあるし
悩ましいですよね(´艸`*)
有名なスターリ・モストですけど、最初は違う名前で
300年以上経って古くなってからそのように改名されたことを
今回初めて知りました。
川沿いのカフェも良い雰囲気ですね☆彡
翌朝のお散歩では前日の人混みが嘘のような静けさで
スターリ・モストも独り占めでき、三文以上の徳がありましたね(^_-)-☆
今年もあとわずかとなりましたね。
メリークリスマス、そしてよいお年をお迎えください☆
sanabo
- noelさん からの返信 2025/12/23 20:44:59
- Re: スターリ・モスト
- sanaboさん、こんばんは~!
いつもありがとうございます。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、不思議な国土です。
sanaboさんの言うように、確かに港とかビーチとか海は絶対欲しいと思います。
ウクライナ侵攻を考えると説得力ありますね。
下手な絵で失礼しました。
丘の上の十字架が印象的だったのですが、いい写真が撮れなかったので描いてみました。(-_-;)(-_-;)(-_-;)
鐘楼の高さには驚きでした。
しかも他の国なら納得ですが、ボスニアにあることに吃驚でした。
正に平和の象徴ですね。
ただ、内戦の爪痕がたくさんでした。むしろ心に刻むために残されてるようでした。
お土産については、sanaboさん、悩ましさわかってくれて、ありがとうございます。
スターリ・モストの名前、面白いですよね。
確かにできた当初から古い橋では変です。
そして朝のスターリモストは、とっても良かったです。
早起きしてラッキーでした。
今年も早いものですね。
メリークリスマス!
sanaboさんも良いお年をお迎えくださいね。
今年もありがとうございました。
noel
-
- しんちゃんちかさん 2025/12/06 18:30:03
- 細やかな説明に脱帽です!
- noelさんへ
早朝、1人の時に知らない人に声掛けられると、一瞬身構えますよね。
イギリスでは怖い目に遭ったのですね…
この旅行中、私たちは国境越えの時、全てバスから降りずに座ったままパスポート徴収のみだったのですが、ボスニア・ヘルツェゴビナ入国の時はバスから降りて審査があったのですね。
国境の写真は私たちと同じBorder crossing Bijača (BiH ??) Granični prijelaz Bijača (BiH)ですが、文章の方で国境の名前がRupa border crossing Granični prijelaz Rupa (HR)と書かれています。
Rupa border crossingはポストイナ鍾乳洞からオパティアへ向かう道の、スロベニアとクロアチアの国境ですので書き間違えかなと思いました。
実際にはスロベニアもクロアチアも同じEU圏内なのでノーチェックで添乗員さんから今国境を通過しました、と言われるまで気付きませんでしたが(≧∇≦)
ホテルでお湯が出なかったのは困りましたね…
本来ならお部屋交換が適当かなとも思いましたが、飲み物1本なんて…
他の方のお部屋はどうでしたか?
しんちゃんちかより
- noelさん からの返信 2025/12/06 20:17:07
- Re: 細やかな説明に脱帽です!
- しんちゃんちかさん、こんばんは。
御覧いただきありがとうございます。
そして、まずは国境の名前、ご指摘ありがとうございます。
オパティアへの国境でした。うっかりしてました。
国境の対応は、その時によって違うようですね。
それから、以前、偽警察官からの声掛けがあったので、どうしても海外では、警戒してしまいます。
ホテルのお湯が出なかったのは、全員でした。
そんなわけで部屋替えもできず・・・・。
飲み物でごまかされました。(-_-;)
しんちゃんちかさんの時は、大丈夫だったようで良かったですね。
しんちゃんちかさんの旅行記を見ると、ほぼ同じ行程なのですが、色々なお店を見ていたり、レモンシャーベットを食べてたり、自分の時間を上手にとってらっしゃるがわかります。
まずは、お知らせいただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
noel
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