2025/07/18 - 2025/07/26
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noelさん
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2025年の夏は、スロベニア~クロアチア~バルカン半島を周遊しました。
クロアチアの歴史についてですが、クロアチア人が到来する以前から、現在のクロアチアにさまざまな人々が住んでいたようです。
各地に点在する遺跡からうかがうことができます。
旧石器時代の遺跡では、ネアンデルタール人(当地ではクラピナ人とも)のものが知られています。
新石器時代から銅器時代にかけての遺跡は東スラヴォニアのドナウ河岸に多いです。
これらの植民市の後背地にはイリュリア人が多数の部族に分かれて暮らし、内陸部にはケルト系の諸部族も居住していたようです。
ただ、ローマに征服されて歴史の表舞台から消え去ってしまいました。
古代ローマ時代の遺跡もクロアチア各地に点在しています。
その1つがここスプリットのディオクレティアヌス宮殿です。
ほかにもダルマツィアのイアデル (現ザダル)やサロナ(現ソリン)、パンノニアのシスキア(現シサク)やムルサ(現オシイエク)などローマ起源の都市は少なくありません。
そして、ゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が分裂し、とくに5世紀後半に西ローマ帝国が滅亡しました。
東ゴート王国やビザンツ帝国の支配下に置かれた時期です。
このビザンツ支配の時代にクロアチア人と呼ばれる集団がクロアチアに到来したことは、10世紀前半にビザンツ皇帝コンスタンティノス7世が著した『帝国統治論』などに記されています。
クロアチア人は現在のポーランド南部にあった「白クロアチア」と呼ばれる地方に住んでいた集団で、7世紀前半にビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世に招かれ、アヴァール人の脅威に対抗する目的でバルカン半島に移住したとされています。
なお、それ以前からスラヴ人のバルカン移住が進展していたと考えられていますが、まだ謎も多いです。
【旅程】
7/18(金)
羽田(HND)21:45発(ターキッシュエアラインズ(TK199便))
7/19(土)
イスタンブール(IST) 4:50着
イスタンブール(IST) 7:15発(ターキッシュエアラインズ(TK1061便)
リュブリャナ(LJU) 8:30着【スロベニア】
↓
ブレッド10:00
ブレッド湖
聖マリア教会
ブレッド城
↓
ポストイナ15:00
鍾乳洞
↓
オパティア【クロアチア】18:30
7/20(日)
オパティア8:30
↓
プリトヴィイツェ13:00
プリトヴィッツェ湖群国立公園
↓
ザダル18:00
旧市街
7/21(月)
ザダル9:00
↓
●スプリット11:30
●ディオクレティアヌス宮殿
↓
モスタル【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
スターリ・モスト
7/22(火)
モスタル8:30
↓
ドブロヴニク12:00
セルビア教会
ブラホ教会
スルジ山
城壁
フランシスコ教会
大聖堂
7/23(水)
ドブロヴニク8:00
↓
コトル【モンテネグロ】11:00
聖トリプン大聖堂
城壁内
海岸沿いドライブ
↓
ティラナ【アルバニア】20:00
7/24(木)
ティラナ8:00
↓
スカンデルベルグ広場
マザーテレサ広場
クロックタワー
↓
ベラート12:30
ベラート市内
ベラート城
↓
オフリド【北マケドニア】19:00
7/25(金)
オフリド8:15
↓
オフリド湖畔
聖ソフィア大聖堂
ローマ劇場
サミュエル要塞
聖ヨハネカネヨ教会
市内
↓
スコピエ15:30
市内
石の橋
マケドニア広場
バザール
↓
スコピエ(SKP) 20:20発(ターキッシュエアラインTK1006便)
イスタンブール(ISL) 23:00着
7/26(土)
イスタンブール(ISL) 2:00発(ターキッシュエアラインTK198便)
羽田(HND) 19:20着
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- エイチ・アイ・エス
-
7月21日の朝です。
ザダルのホテル『Porto』の朝食です。
朝から甘いドーナッツです。 -
ホテルの近くにあるスーパーに買い物に出かけます。
朝ですが、この通り、車がビュンビュン飛ばして来ました。
危ないので端っこの方を歩いてました。 -
ホテルからスーパーまでの道
-
スーパーが見えました。
徒歩5分くらいです。 -
スーパーの『LIDL』(リドル)です。
ドリンクやお土産を買いました。 -
スプリットにやって来ました。
海が見えます。
こちらはフェリーターミナルです。
船もたくさん寄港してました。
駅もあります。 -
スプリットの街に入った時に感じたのですが、なんとなくアテネの街の雰囲気に似てるような気がしました。
個人的な感想で、街に入った時の感じです。(-_-;)
よく見ると全然違うのですが。 -
まずは、ディオクレティアヌスについて。正式には
Gaius Aurelius Valerius Diocletianus
(ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス)
出生について
244年12月22日
ダルマティア属州サロナ(現在のクロアチア・スプリット近郊のソリン)
父は元老院議員アヌリヌスの解放奴隷で、母はディオクレア?・・・という名前のようです。
農園で働いていた解放奴隷の息子で下層の出身でした。
一兵卒から精鋭部隊であるドメスティクスの指揮官にまで出世しています。 -
3世紀頃のローマ帝国は、北から東からと異民族の侵攻により、危機に瀕していました。
特に260年には現職の皇帝がペルシャの捕囚になるという最悪の危機を、なんとか脱出した直後でした。
戦場での実力のある軍人出身の皇帝の時代でした。
そんな中、283年、前皇帝であるカルスはペルシャ戦役中に落雷で死去。
その後息子ヌメリアヌスもメソポタミアからニコメディアまで引き上げて来たところで行軍中の馬車の中で変死体で見つかりました。
そして直後、兵士たちがディオクレティアヌス帝を擁立しました。
後にカルス帝のもう1人の息子カリヌスも戦闘中自滅。
ディオクレティアヌスは40歳頃にローマ帝国皇帝となりました。
ただし、度重なる外敵からの国境の防衛線は1人では守り切れないと判断し、286年、自分の右腕として共同統治にマクシミアヌスを皇帝に引き上げました。
ドナウ川防衛線はディオクレティアヌス(アウグストゥス)
ガリア、ブリタニア、ヒスパニア、北アフリカはマクシミアヌス(カエサル)が担当しました。
マクシミアヌスは皇帝になる以前からディオクレティアヌスの友人でした。
また同じバルカン地方出身(シルミウム出身(現ミトロヴィカ))の一人、また同じ軍団育ちとしてマクシミアヌスを選びました。
彼はディオクレティアヌスより5歳ほど年下だったようです。
これが二頭政です。
さらに、6年後の292年には皇帝を2人加え、東西の正帝、副帝と4人で統治する四頭政へと変更していきました。
【帝国東方】
Augustus(アウグストゥス)正帝→ディオクレティアヌス 48歳
首都ニコメディア
Caesar(カエサル)副帝→がレリウス 33歳
首都シルミウム
【帝国西方】
Augustus(アウグストゥス)正帝→マクシミアヌス 43歳
首都ミラノ
Caesar(カエサル)副帝→コンスタンティウス・クロルス 43歳
首都トリアー
これにより危機を乗り切りました。
また、軍事面だけでなく官僚制を整備し、税制改革等も行いました。 -
ディオクレティアヌスは、自らをユピテルの子であると宣言し、皇帝崇拝とローマの神々を礼拝することも義務づけました。
また彼の治世期は政府や軍内部のキリスト教徒が増加していました。
このような混乱を防ぐため、当初はローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰をしてもよいとしていました。
ただキリスト教徒はローマの神々を礼拝せず、キリスト教徒の兵士が軍から離脱するなどの行為が多発しました。
戦争で人を殺すのはキリスト教の教えに反します。兵役を拒否した人々もいました。そんな中、斬首刑に処した例も「殉教者行伝」等にあります。
このようなことから、303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発したのです。 -
目の前に城壁があります。
ちょうど海を背にして写真を撮っています。
この道はプロムナードになっていて、クロアチアではRiva(リヴァ)と言います。 -
かつてはこのようになっていたようです。
ご覧のように、現在私が立っている場所は海です。
そのため、「海の門」とも呼ばれていたようです。
そして、当時スプリットは静かな漁村でした。
余生を送るのに、サロナよりも静かでした。
ただ、現在はザグレブに次いで第2の都市です。 -
ギリギリまで海だったようです。
船が横付けできました。 -
城壁の手前に建物があります。ぴったりくっついているようです。
これでいいのでしょうか?
まずは、この中央の小さなゲートが『Mjedena Vrata(銅の門)』です。南側になっています。
宮殿地下に通じています。 -
Substructures(地下構造の広大な回廊)
この地下室は、地上にあった皇帝の居住区(peristyleや皇帝の寝室など)を支えるための土台として建設されました。
宮殿の保存状態が良いのは、この地下の構造が地上の建物の配置を、ほぼそのまま反映しているためです。
石造りのアーチ天井、巨大な柱、精巧な排水システムなど、ローマ建築技術の高さがうかがえます。 -
7世紀頃、ここにはゴミが投げ捨てられていました。
そのため、20世紀になって整備しました。
実は奥にはまだ少しゴミ溜め部分が残っていますが、取り払うことができません。
それは、この上にはまだ家が建っており、地下のごみを片付けると上の家が支えきれなくなってしまうためです。
ここは半地下のようになっていて、空気が重く感じました。 -
中世にはワインやオリーブオイルの貯蔵庫、さらには住居としても使われていた記録があります。
『ゲーム・オブ・スローンズ』の撮影地としても知られ、ドラゴンの飼育場として登場しました。 -
鐘楼はスプリットの街のランドマーク的な存在になっています。
鐘楼の建設は13世紀に開始され、完成までに数世紀を要しました。
下部はロマネスク様式、中部から上部にかけてはゴシックや新ロマネスク様式が混在しています。 -
Bell Tower of Saint Domniu(聖ドムニウス大聖堂の鐘楼)
-
元々はローマ皇帝ディオクレティアヌスの霊廟として建設されました。
八角形の構造は、ローマ皇帝の神格化を象徴する形式で、彼の遺体が石棺に納められて安置されていました。
ディオクレティアヌスは303年にキリスト教徒への大迫害を行い、聖ドムニウス(サロナの司教)もこの迫害で殉教したと伝えられています。
ただ、その後のローマ皇帝コンスタンティヌスは、ローマ皇帝として初めてキリスト教を容認し、313年6月15日、ミラノ勅令を発布しました。
392年にはテオドシウス帝によってキリスト教の国教化が行われました。
帝国の宗教構造が大きく転換しました。
そして7世紀、霊廟は破壊され、キリスト教の大聖堂へと改装されました。
ディオクレティアヌスの石棺は撤去され、海に投棄されたという伝承も残っています。
代わりに、彼が迫害した聖ドムニウスの棺が安置され、彼を祀る大聖堂として奉献されました。
つまり、迫害者の墓が殉教者の聖堂に変わるという、歴史的・宗教的な逆転がこの建物には刻まれているのです。
現在も八角形の構造はほぼ当時のまま残っており、世界最古のカトリック大聖堂建築のひとつとされています。
内部にはロマネスク、ゴシック、バロック様式が混在し、時代ごとの宗教美術が融合しています。
ディオクレティアヌスは、311年12月3日、最後は静かに息を引き取ったようです。
67歳でした。この年は歴代ローマ皇帝では長生きした方でした。
しかも戦場で亡くなったのでもなく、暗殺されたのでもありません。 -
ディオクレティアヌス帝は自らを「ユピテルの子」と称し、神格化の象徴としてユピテル神殿を建設しました。
ただし、7世紀頃、ディオクレティアヌス帝の死後、キリスト教が台頭し、Sv. Ivan Krstitelj(洗礼室)として転用されました。
かつて皇帝が神性を主張するために建てた神殿が、キリスト教徒の信仰の入口=洗礼の場へと変貌したのです。
皮肉なことに、迫害者の空間が信仰の象徴へと転じる、歴史的・宗教的な逆転劇です。(-_-;) -
Peristil(ペリスティル広場)
ディオクレティアヌス宮殿の心臓部とも言える場所で、古代ローマの権威と宗教的象徴が交差する荘厳な空間です。
皇帝の居住区と宗教施設をつなぐ中庭のような役割を果たします。
多くの人でヒートアップしていました。 -
広場の東側には聖ドムニウス大聖堂とその鐘楼がそびえます。
-
東西に並ぶコリント式の石柱が広場を囲み、荘厳な雰囲気を醸し出しています
-
南側には皇帝の住居跡、北側にはユピテル神殿(現・洗礼室)があります。
人が多すぎて、写真を撮るのも大変です。
熱気で蒸し蒸ししていました。 -
ペリスティルは、皇帝崇拝の儀式が行われた場所です。
ディオクレティアヌス帝は自らを「神の子」と位置づけ、ここで臣民が彼に敬意を表したとされます。
宮殿の霊廟(後の聖ドムニウス大聖堂)とユピテル神殿に挟まれていることから、ローマ神話と皇帝崇拝が融合した空間とも言えます。 -
広場にはエジプトから持ち帰ったスフィンクス像が鎮座してます。
宮殿内には合計11体のスフィンクスがありますが、頭部を破壊されました。
かつては12体あったようです。
頭部の破壊は、これはキリスト教徒によってなされたようです。 -
この道の狭さ、おわかりになりますか?
向かい側から人が来たら、どちらかが戻らざるをえません。 -
宮殿内は密度が高いです。
現在も600人以上が宮殿内に居住しているそうです。 -
→ペリスティル広場、カテドラル(聖ドムニウス大聖堂)
←ナロドゥニ広場、公共広場
道が狭く込み入っているので、現在地がわからなくなりそうです。
ただ、ただ、ついて行ってます。 -
宮殿の中が城壁に囲まれた旧市街になっていて、かつて避難してきた人たちが、もうしっかり住み着いて、商売をしています。
-
ライオンの口からは水が溢れ出てます。
水は冷たかったようです。
半円形の石造りの水盤と、中央に彫刻されたライオンの頭部が特徴的です。
ライオンの口から水が流れるのは、古代ローマや中世ヨーロッパの公共水場や装飾泉によく見られます。
周囲の石材は宮殿の他の部分と同様に、地元産の石灰岩や大理石でできています。
風化した感じがいいです。 -
ライオンは権威・力・守護の象徴であり、皇帝の威厳や都市の守護を表すモチーフとして多用されました。
特に支配者としての力強さや神聖性を象徴してます。
また、生命の源と権力の誘導を表現してもいます。
宮殿の水は、近隣のJadro(ヤドロ)川からローマ水道を通じて引かれていたとされ、都市インフラの一部としても重要でした。 -
皇帝はこの宮殿で余生を過ごし、家庭菜園を楽しんだという逸話も残っています。
-
城壁内ですが、まるでスパッカナポリのように、洗濯物が干しています。
世界遺産なのですが、生活感満載です。 -
古い石が歴史を感じます。
狭い道ですが、博物館もあります。 -
城壁内にはこ~んなユニフォームまで売っていました。
-
金の門だったと思います。
この門はローマ時代の大都市サロナから来た時の表玄関でした。
門は二重構造になっています。
この反対側には入場した銅の門があります。 -
古代ローマ兵士の装束を着たパフォーマーです。
胸当てLorica segmentata(ロリカ・セグメンタタ風)、短いチュニカ、サンダル、槍(杖)?を持っているようです。 -
グルグール・ニンスキーの像
10世紀の司教でした。10世紀にスプリットで開かれた宗教会議では、クロアチアの教会ではラテン語のみが使用され、スラブ語の使用が禁止されましたが、彼はそれを撤回した人です。 -
グルグールという名は、ラテン語のグレゴリウスに由来しています。
他国では、グレゴール(ドイツ)、グレゴリオ(スペイン)というよくある男性名です。
この像は、クロアチアで有名な彫刻家メシュトロヴィッチが制作しました。 -
今回は北門、南門を通りましたが、
西の門「鉄の門」の外には、ナロドニ広場があります。
14世紀にスプリットの行政、商業、市民の生活の中心となった場所です。
クロアチアは、ドブロヴニク以外のアドリア海沿岸のほとんどがヴェネチア共和国の一部だったため、ここにもヴェネチア時代の建物があります。
ゴシック様式の建築の市庁舎、牢獄、劇場などです。
2階から上は1世紀に改築され、周辺には貴族や商人たちが邸宅を建てていました。
宮殿の中庭から北側部分は兵舎、皇帝の使用人の住居や作業場として使われていたところです。 -
金の門(Porta Aurea)
北門は、宮殿の最も壮麗な門とされ、当時は皇帝を称える装飾(彫像や装飾アーチ)が施されていました。
ローマ時代、この門はスプリットの宮殿と内陸部を結ぶ主要道路につながっていました。 -
金の門の外側にも城壁が残っています。
城壁には現在16の塔が残っています。
東門は銀の門と呼ばれ、外では青空市が開かれています。 -
Strossmayerov park(ストロスマエル公園)
-
ペリスティル広場に戻ってきました。
-
ペリスティルのほぼ全体を撮った様子です。
ペリスティル広場は、単なる建築空間ではなく、皇帝・神・民衆が交わる象徴的な場所です。
東(聖ドムニウス大聖堂)
キリスト教化された霊廟。迫害者ディオクレティアヌスの墓が聖人の聖堂に変わる逆転の象徴。(写真左)
西(ユピテル神殿)
ローマ神話の最高神。皇帝の神格化と宗教的正統性の象徴。(写真右)
今はレストラン。
中央(ペリスティル)
その両者の間に立つ空間。民衆が皇帝を仰ぎ見た場所。(写真前)。
古代ローマの政治的演出と宗教的権威の融合を空間的に表現しているとも言えます。1700年前の息吹を感じられるような気がします。
そしてディオクレティアヌス時代は、西側が居室で、東側はダイニングでした。
ローマ時代は、低いイスに半分寝ころぶような姿勢で食事をとっていました。
ちなみにディオクレティアヌスは、ユピテル神のみならず、征服されざる太陽神にも結びつけたようです。
これは副帝のマクシミアヌスも、ヘラクレスのみならず、太陽神にも結びつけました。 -
さて、大聖堂に入りたかったのですが、入場料が必要です。
宝物館だけでなく大聖堂もです。
当然、鐘楼や地下クリプトもです。
チケットを購入しようと思ったのですが、かなり混んでいて、時間的に無理でした。
残念。 -
こちらはクリプトです。
304年に殉教した聖ルチアの礼拝堂になっています。
礼拝堂は、剥き出しの土壁のようです。
洗礼盤
十字型の深い洗礼盤が中央に設置。側面にはクロアチア王が十字架を持つ姿の浮彫があり、11世紀のプレ・ロマネスク様式
ちなみに昔は体全体を水に浸す洗礼が行われたので、ここにあるのはバスタブサイズの大きな洗礼盤です。
思えばイスラエルに行った際に、イエスがヨハネによってされたのは、天然の洗礼盤ヨルダン川でした。いつしか小型化したのでしょう。
聖ヨハネ像
洗礼者ヨハネの像は、クロアチアの彫刻家イヴァン・メシュトロヴィチによる作品
天井彫刻
多様な顔が彫られたユニークな天井装飾は、ローマ時代の職人技術の粋 -
現在も修復中のようでした。
ところで、キリスト教徒迫害について、民衆からこんな反応がありました。
例えばティベリウス川が氾濫するとかナイル川が氾濫しないとかで、キリスト教徒を、ライオンに与えろと叫び声が上がりました。
また、疫病の発生、地震、激しい嵐など、大衆の見解では神々の寵愛が後退したため起こる災禍とみなされました。
ローマ人は人間に対する神々の善意がなければ、宇宙の均衡は保たれないと信じていました。
神々の善意はその社会の構成員の敬虔な心、言い換えれば、確立された祭儀と供犠の執行を通じて保たれなけれはならないと考えました。
キリスト教徒は祭儀を拒んだ非同調集団であり、平安を乱し、神々の庇護を後退させてると思われたのです。 -
大聖堂のファサード
入口は、1214年に造られた木製の扉が残っています。
クルミの木の上に、樫の板でキリストの生涯を表した28枚の彫刻のレリーフがはめ込まれています。 -
鐘楼への入口です。1人通るだけの幅です。
高さ60mで173段の階段です。 -
こちらは鐘楼からの出口です。
狭いので一方通行のようでした。 -
大聖堂入口付近のライオンと聖人像です。
入口の階段の両脇にありました。
石造りのライオンです。
権威・守護・力の象徴であり、聖域への入口を守る存在として中世建築でよく用いられました。
↓
信仰の門を守る力で、かつては皇帝の権威であったのですが、聖人の守護へと、その象徴が転換されたことを示唆しているのでもあるようです。
ライオンの背後に立つローブ姿の人物像
通常聖ドムニウス(スプリットの守護聖人)や他の聖人を表しています。
↓
殉教者としての聖ドムニウスが、かつての迫害者(ディオクレティアヌス)の霊廟を聖域へと変えた象徴でもあります。
また、ここに配置されたのは、聖域に足を踏み入れる前に、信仰と歴史の重みを感じるよう設計されているのだそうです。 -
下から鐘楼を見上げた様子です。
今回の旅行での最高気温は、北マケドニアの首都スコピエの43度でしたが、実際の体感で、ここスプリットのこの旧市街の方が暑く感じました。(-_-;) -
鐘楼の下部はロマネスク様式を基調とし、コリント式の円柱と尖塔アーチが並ぶ荘厳なファサードが特徴です。
石材は、地元産の白い石灰岩です。
柱頭にはアカンサスの葉などの装飾が施され、古代ローマの美術様式を継承しています。
アーチの間には聖人像や動物の彫刻が配置されており、宗教的象徴と物語性を空間に与えています。
柱の間の壁面には、幾何学模様や植物文様が刻まれています。
鐘楼の下部は、地上と天上をつなぐ門としての象徴性を持ちます。
柱とアーチの繰り返しは、永遠性と秩序を表現しています。 -
聖堂内には入ることができませんでしたので、周囲を回ってみました。
そこから城壁を見た様子です。
大聖堂内の主祭壇を抜けた奥にある小さな部屋には、大聖堂にまつわる聖遺物や金細工などの宗教美術が展示されているようです。
また、聖ドムニウスの聖遺物が納められた銀の容器や、12世紀の聖アルニラの聖遺物が納められているようです。 -
この左端にもスフィンクスがあります。
-
古代ローマの衛兵に扮した方
-
宮殿の復元図
五賢帝時代の皇帝たちは、民主的な皇帝として、ローマの大公衆浴場にも、しばしば顔を出していました。
ただ、絶対君主として君臨したディオクレティアヌスは、市民とは距離をおき、303年の凱旋式も終わると、さっさとニコメディアに戻り、大浴場完成の際にも、ローマを訪れませんでした。
絶対君主政を確立した皇帝でした。
そして浴場が完成した1年後、引退しました。しかも副帝マクシミアヌス帝も。
※ ローマの共和国広場に「ディオクレティアヌス帝の浴場跡」という遺跡が残っています。
テルミに駅の近くです。現在はその一部が、サンタ・マリア・アンジェラ教会となっています。
※ 写真はいずれも『ローマ人の物語 最後の努力』塩野七生氏より。 -
ディオクレティアヌス宮殿の平面図です。
宮殿はおおよそ長方形(約 215×180m)の城塞都市のような造りで、四方に1つずつ門がありました。
それぞれはローマ帝国時代の象徴的な名前を持ち、外の道路と直結していました。
北門 ― 金の門(Porta Aurea)
宮殿の中で最も豪華な門。
彫像や装飾が施され、かつては皇帝への礼拝や行列の場として重要視されました。
宮殿から北方へと伸びる街道とつながり、内陸部(特にサロナの都市)と結ばれていました。
今日では観光客が最もよく訪れる門で、門前にローマ兵のパフォーマーが立っているのもここです。
南門 ― 銅の門(Porta Aenea / Porta Meridionalis)
アドリア海に面した門。
宮殿の地下部分とつながっており、海側の港へ直接出られました。
皇帝や物資の搬入に使われたと考えられています。
現在は地下室(「セラー」)を通って南門から出ることができます。
東門 ― 銀の門(Porta Argentea)
宮殿東側にある門。
ディオクレティアヌス時代、サロナ(当時の州都、現在のソリン)から延びる街道がここに接続していました。
城壁に接続する重要な出入り口でしたが、金の門ほど装飾的ではありませんでした。
現在も旧市街の東の玄関口の1つとなっています。
西門 ― 鉄の門(Porta Ferrea)
宮殿西側の門。
比較的堅牢で防御的な造り。
中世以降も現役で使われ続け、門の上には中世に建てられた小さな教会(聖テオドール教会)が残っています。
スプリット旧市街の生活動線の1ちで、現在も市民や観光客が頻繁に通る門です。 -
現在の市街図です。
ディオクレティアヌスが引退後に選んだのは、生まれた場所に近かったのですが、人里離れたスパラトゥムでした。ルネサンス時代はヴェネツィア共和国が基地にしていたため、イタリア語形式でスパラトと呼ばれてました。現在はクロアチアの、スラブ式のスプリットと呼ばれてます。
宮殿とはいうものの、ローマ軍団の基地のような城塞と呼ぶべき広大で堅固な建物です。
ローマ帝国の末期でも充分に建造物として機能していたようです。
つまり蛮族の襲撃があるたび、付近の住民はこの中に逃げ込んだのも不思議ではありません。
そして逃げ込んだ人が次第に住み着くようになっていったようです。
他の皇帝はヴィラとして、優美な建造物が多いのですが、こちらは対照的です。
そして、古代ローマの最高神ユピテルに捧げた神殿に墓所も作らせました。
ただ、100年後に弾圧したキリスト教の教会に変えられてしまうとは思っていたでしょうか‥‥。 -
これは氷の自動販売機です。
大きな業務用のような氷の自販機でした。
道路の片隅に設置されていましたが、いったい誰が買っていくのか不思議です。 -
さて、スプリットの街から少し離れた所でランチです。
-
Cafe Restrant Bolero
どう考えても、こちらは結婚式場として使われているようにしか見えません。
ハートマークのディスプレイもありました。
みんなで勝手に、クロアチアの結婚式事情を想像してました。
『Bolero Restaurant & Weddings』
Velebitska ul. 125, 21000, Split, Croatia
帰国後調べたところ、やはり結婚式場として利用されているようです。
他にケータリングやレストランにもなっているようでした。 -
野菜サラダです。
-
ポレンタです。
イタリア料理にあるとうもろこしの粉で作ったお粥状のものです。
結構苦手な方もいましたが。
さて、次は国境を越えて、ボスニア・ヘルツェゴビナに向かいます。
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モスタル
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⑧ Dubrovnik (Croatia)2025 ドゥブロヴニク(スロベニア・クロアチア・バルカン半島周遊...
2025/07/18~
ドブロブニク
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この旅行記へのコメント (2)
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- sanaboさん 2025/12/03 23:23:46
- お久しぶりです^^
- noelさん、こんばんは~
ずっと忙しくしていてフォートラから遠ざかっていたので
すっかり出遅れてしまいました_(._.)_
スプリットもクロアチア旅行では絶対に外せない場所ですよね。
noelさんの手にかかると単なる観光地としてではなく
その歴史的意味合いなども知ることができ、本当に勉強になります。
奥の深い内容にいつも敬服しながら読ませていただいてます^^
かつては絶大な権力を誇った皇帝ディオクレティアヌスの霊廟が
のちに破壊されてキリスト教の大聖堂になってしまったとは
なんとも皮肉な歴史の変遷ですね。
城壁内の洗濯物がはためく風景がイタリアっぽいな~。
(かつてのヴェネツィア共和国ですものね)
バカンスシーズンだから人が多くて大聖堂に入れなかったのは
残念でしたね。
でも何となく城壁内を見て回ってる他の観光客よりも
各スポットを詳しくご覧になって解説もされてるnoelさんの方が
よほどたくさんの意義あるものを目にされてると思うわ~(^_-)-☆
ただ、この日もとても暑かったようですね。
スコピエの43度も驚きだけど、スプリットの体感温度は
もっと高かったそうですね。食欲は大丈夫でしたか?
コロナ前に計画したクロアチア旅では城壁内のホテルを予約していたので
幻の風景をnoelさんの旅行記で楽しませていただきました♪
急に寒くなりましたので、お風邪ひかれないように
気をつけてお過ごしくださいね。
続きも楽しみにお待ちしていま~す!
sanabo
- noelさん からの返信 2025/12/04 20:43:10
- Re: お久しぶりです^^
- sanaboさん、こんばんは!
お忙しいのに、ありがとうございます。
そしてお疲れ様です。
sanaboさん、城壁内のホテル予約されていたのに勿体なかったですね。
真夏は避けたいですが、他の季節だったら、きっと素敵なステイができたでしょうね。
特にスプリットの城壁は、広すぎないので濃密な滞在ができたかもしれません。
ディオクレティアヌス皇帝は、混乱を収束して、最終的に4人で統治したところまでは良かったものの、キリスト教徒にとっては大迫害をした嫌な皇帝だったかもしれません。霊廟が大聖堂になるなんて、皮肉なものですね。
でも、その割には暗殺などされずに退位して、この地で隠棲したわけですから、不思議なものです。
それから、洗濯物がはためく風景がイタリアっぽいですよね~。城壁内なのにいいのかな~と笑いながら見てました。
そして大聖堂、チケット購入の行列を見て、がっかりでした。
それにしても、人・人・人・・・・。どこを見ても人でいっぱいでした。
濃密な暑さで食欲はなくゲンナリで、そのため、ビタミン剤を持参していました。
メモしながら必死に見てましたが、字が汚すぎて後に判別できなかったり、写真撮影は人が多すぎて、撮るに撮れずもどかしかったです。
これが、閑散期だったら、どうなのかしら~?と気になりました。
sanaboさんの旅行記も気になりますが、時間に余裕ができたら、よろしくお願いしますね!
今日もかなり寒い1日でした。
実は既に11月末に風邪をひき、熱はなっかったのですが、喉が痛く、声がかすれてでませんでした。(-_-;)
まだまだ油断できませんね。
sanaboさんも、お忙しいと疲れがとれませんから、どうぞお気をつけてくださいね。
ありがとうございました。
noel
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