2025/07/18 - 2025/07/26
1位(同エリア86件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2025/07/20
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バスでの移動
プリトヴィツェ:16時すぎ→ザダル:18時頃
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徒歩での移動
ザダル・マリーナ付近:18時頃→聖ストシャ大聖堂:18時05分頃
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聖ストシャ大聖堂:18時05分頃→18時10分頃
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聖エリア教会横の遺跡
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海岸(Obala Petra Kresimira 4 Jetty Head)付近
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フォロ(ローマ時代の遺物)
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Porporela(レストラン)
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Selena Souvenirs / Liquer / Cosmetic shop(ショッピング)
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Studenac Market(ショッピング)
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城壁散歩
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Park of Heads(公園)→小武器庫
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マリーナ付近(シーゲート付近)集合:20時10分
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マリーナ付近 : 20時10分頃→Porto(ホテル): 20時30分頃
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この旅行記スケジュールを元に
2025年の夏は、スロベニア~クロアチア~バルカン半島を周遊しました。
プリトヴィッチェ湖群国立公園はクロアチアの中では、内陸部にあります。
また首都であるザグレブも更に内陸部に入った場所に位置しています。
さて、今度はダルマチア地方に移動します。
そしてこれからは、しばしダルマチア地方を巡ります。
その最初の地がザダルです。
【旅程】
7/18(金)
羽田(HND)21:45発(ターキッシュエアラインズ(TK199便))
7/19(土)
イスタンブール(IST) 4:50着
イスタンブール(IST) 7:15発(ターキッシュエアラインズ(TK1061便)
リュブリャナ(LJU) 8:30着【スロベニア】
↓
ブレッド10:00
ブレッド湖
聖マリア教会
ブレッド城
↓
ポストイナ15:00
鍾乳洞
↓
オパティア【クロアチア】18:30
7/20(日)
オパティア8:30
↓
プリトヴィイツェ13:00
プリトヴィッツェ湖群国立公園
↓
●ザダル18:00
●旧市街
7/21(月)
ザダル9:00
↓
スプリット11:30
ディオクレティアヌス宮殿
↓
モスタル【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
スターリ・モスト
7/22(火)
モスタル8:30
↓
ドブロヴニク12:00
セルビア教会
ブラホ教会
スルジ山
城壁
フランシスコ教会
大聖堂
7/23(水)
ドブロヴニク8:00
↓
コトル【モンテネグロ】11:00
聖トリプン大聖堂
城壁内
海岸沿いドライブ
↓
ティラナ【アルバニア】20:00
7/24(木)
ティラナ8:00
↓
スカンデルベルグ広場
マザーテレサ広場
クロックタワー
↓
ベラート12:30
ベラート市内
ベラート城
↓
オフリド【北マケドニア】19:00
7/25(金)
オフリド8:15
↓
オフリド湖畔
聖ソフィア大聖堂
ローマ劇場
サミュエル要塞
聖ヨハネカネヨ教会
市内
↓
スコピエ15:30
市内
石の橋
マケドニア広場
バザール
↓
スコピエ(SKP) 20:20発(ターキッシュエアラインTK1006便)
イスタンブール(ISL) 23:00着
7/26(土)
イスタンブール(ISL) 2:00発(ターキッシュエアラインTK198便)
羽田(HND) 19:20着
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- エイチ・アイ・エス
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自然豊かなプリトヴィッチェ湖群国立公園の後は、アドリア海沿岸のダルマチア地方です。
途中の景色です。干し草ロールです。 -
遠くには少し高めの山が見えます。
牛が放牧されているの~んびりした光景に癒されます。 -
ザダルの旧市街にやって来ました。
これより、もっと右の先にあるGradski most Zadarには歩行者専用の橋があります。
この橋は旧市街のNova Vrata(New Gate・新門)に通じています。
私たちはバスでやって来ました。
そしてマリーナ前のバス停付近で下車しました。 -
HISからいただいた地図です。
ピンクが集合場所です。 -
こちらはSea gate(海の門)ではなく、その1つ先の右の道から城壁内に入った所です。
車がたくさん駐車していて雑然としてます・・・。(-_-;)
そして更に道が細くなりますが、直進します。 -
Katedrala sv. Stošije(Cathedral of St. Anastasia)
(聖ストシャ大聖堂・聖アナスタシア大聖堂)
聖アナスタシアは、アドリア海沿岸の守護聖人の一人です。
この聖堂は、ダルマチア地方最大の教会です。
またザダルのカトリック大司教区の中心的な教会です。
ザダルは1202年に十字軍に包囲され、街はほぼ壊滅状態に陥りました。
大聖堂は破壊され焼失しましたが、その後すぐに再建が始まり、1324年まで続きました。
正教会は毎年1月15日に聖アナスタシアの祝日を祝います。
この聖人はロシアやギリシャだけでなく、クロアチアやイタリアでも広く崇拝されています。
ローマの貴族の女性で、結婚後も信仰のために処女を貫くことを誓っていましたが、夫が間もなく亡くなり、アナスタシアは財産を貧しい人々に分け与え、修道院に入りました。
ただ304年、キリスト教信仰が広まったことで、それに反する当時のローマ帝国の命令により(ディオクレティアヌス帝の時代に)現セルビア領シルミウムで火刑に処されました。
遺体はコンスタンティノープルまで運ばれました。
この遺骨を東ローマ皇帝ニケファロス一世がここへ譲渡しました。
その移送と保管の命をうけた9世紀ザダルの司教ドナトゥスが石棺を造らせました。
そして、ザダルの当時の聖ペトロ大聖堂に安置され、後に聖アナスタシア大聖堂と改名されました。
★ただし、もう1つの説もあります!
ローマで殉教したともされています。両方の説がありますが、シルミウムのアナスタシアと伝えられているため、シルミウム殉教説が有力という研究者もいるようです。
実は彼女は「薬剤師の守護聖人」として知られ、毒殺された囚人を助けたことから、迫害を受けたという伝説もあります。
大聖堂内には初期ロマネスク様式のフレスコ画が数多く保存されており、聖アナスタシアの遺体が納められた大理石の石棺は19世紀のものです。
※ 聖ストシャ(Stošija)と聖アナスタシア(Anastasia)は同一人物です。
「聖ストシャ」はクロアチア語での呼び方で、特にザダル地方ではこの名で親しまれています。
一方「聖アナスタシア」はラテン語や英語などで一般的に使われる名前です。聖ストシャ大聖堂 寺院・教会
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ファサードです。
聖母子のレリーフなどが描かれているようです。 -
祭壇には、アーチ型の天蓋(バルダキン)が設けられています。
3つの身廊からなるロマネスク様式の大聖堂です。 -
手前には磔刑のイエスが。
そして石棺はアプス(後陣)中央の壁際にあります。
石棺は大理石製で、彫刻や装飾が施されており、12世紀のロマネスク様式の影響が見られます。 -
天井は木製で梁があります。
全体的に簡素です。 -
Altar of the Blessed Sacrament(聖サクラメント)の祭壇です。
側廊にあった祭壇です。
中央には聖母マリアが亡くなったキリストを抱くピエタが描かれています。
天井には父なる神、そして天使が周囲に描かれています。
これは1719年にAntonio VivianiとFrancesco Cabiancaによって制作されたようです。バロック期の作品です。
また祭壇上の彫像は四福音者(マタイ=人/天使・マルコ=獅子・ルカ=牛・ヨハネ=鷲のいずれか・・・)、そしてモーゼと預言者エリヤが変容を示す役割で配置されているようです。
おそらく右は本を持っているのでマタイではないかと・・・。
また6本前後の燭台は荘厳なミサや聖体礼拝に合わせた配置で「光=キリストの存在」を象徴してます。 -
ヨハネ・パウロ2世です。
聖アナスタシア大聖堂は記念碑的なロマネスク様式の建物で、2人の教皇がひれ伏したシルミア殉教者の名前が付けられています。彼女の墓を訪れたアレクサンドル3世と、2003年に大聖堂の正門の前でひれ伏した教皇ヨハネ・パウロ2世シルミア殉教者の名前が付けられています。 -
12世紀と13世紀に建てられ、9世紀と11世紀の古い建物の上に建てられました。
初期キリスト教の大聖堂の跡地に建てられたため、大聖堂の最初の段階は早くも4世紀と5世紀にさかのぼります。
大聖堂は使徒聖ペテロに捧げられましたが、9世紀初頭にザダルのストシヤとして知られるザダルで、ザダルの司教ドナトスがシルミアの殉教者聖アナスタシアの遺物を入手し、大聖堂は彼女にちなんで名付けられました。 -
側廊の礼拝堂にある大聖堂内聖遺物や聖具を納める小聖具室の入口の装飾扉です。
バロック時代に作られたようです。
扉にはプットー(天使)のレリーフが描かれてます。
中央付近の絵画は聖母子です。
そして手前の聖人は、聖ドン・ボスコ(聖ヨハネ・ボスコ)像で、ロザリオを持ち、司祭服を着用しています。
両脇の赤い大理石の柱は、大聖堂内部の副礼拝堂を荘厳に仕切るためのフレームです。 -
こちらも側廊の祭壇群です。
木彫扉と赤大理石の柱です。
上部の半円形のレリーフは聖母マリアと思われます。
胸に手をあて、祈る姿が描かれています。
これはSide altar(副祭壇)の1つで、礼拝の対象となる聖画を中心に捉え、その両脇に天使や聖人を配置して額縁化しているもののようです。
これは17~18世紀のバロック期に、ザダルの裕福な市民や修道会が奉献したものが多く、典型的なアドリア海沿岸都市のバロック聖堂内装飾です。
中央に描かれた聖人画については、撮り方が悪くてはっきりしませんが、聖母マリアか殉教聖人かと思います。
両側には布を持っている天使像があります。額縁を天上のカーテンで飾る役割を果たしています。 -
St. Anthony of Padua(パドヴァの聖アントニオ)
フランシスコ会の修道服を着て、腰にはロザリオを下げています。
そして右手に幼子イエスを抱いています。これは典型的な聖アントニオ像です。
彼は1195年ポルトガル生まれで、イタリアのパドヴァで活躍したフランシスコ会士です。
博学と説教で知られ、奇跡を多く行ったと伝えられています。
失くし物の守護聖人でもあります。
この像も側廊にありました。 -
煉獄の魂の祭壇ですが、中央部分です。
1805年に白、灰色、黒の大理石を組み合わせて作られました。
祭壇はPietro Oniga(ピエトロ・オニガ)によって作られました。
祭壇にはヴェネツィアの巨匠Jacopo Palma il Giovane(ヤコポ・パルマ・イル・ジョヴァーネ)(1548-1628年)の晩年の作品の1つである、より古い祭壇画が置かれました。
聖ヨセフ・聖ヨアキム・聖ウルスラその上にセラフィムの父である聖フランチェスコが立っています。 -
煉獄の魂の祭壇ですが、その左側部分です。
Caritas(カリタス・愛)
神学的美徳の彫刻があります。 -
煉獄の魂の祭壇ですが、その右側部分です。
Spes(スペス・希望)の彫刻があります。 -
イエスの聖心の祭壇
聖母マリアの像も左下です。
キリストの背景にある青と金の装飾は、天上界や神聖さを象徴している可能性があります。
聖母マリア像の胸元に描かれた「聖心」は、慈愛と苦しみを象徴するカトリックの重要なモチーフです。
白い花は純潔と希望を象徴し、祭壇の荘厳さを引き立てています。
また、金の燭台と赤白の蝋燭は、祈りの光と聖霊の存在を示すもので、特に赤は殉教や聖霊、白は清らかさを意味します。 -
パイプオルガンです。
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この聖ストシャ大聖堂は、ザダルのカトリック大司教区の大聖堂であり、ダルマチア最大のロマネスク様式の教会でもあります。
その歴史は西暦4~5世紀にまで遡ります。
元々は初期のキリスト教の教会でした。 -
大聖堂の先を歩いていると、右側に遺跡のようなものがありました。
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この付近はCapitrium(カピトリウム)のある古代フォーラムでした。
ザダル考古学博物館が行った発掘は、セルビア正教会に隣接する取り壊された牧師館の再建の一環として行われました。
市の中央広場であるフォーラムでの建設工事の始まりは、BC1世紀に遡ります。
広場は3世紀に完成しました。長さ95m、幅45.5mです。
三辺はポルティコで囲まれたタベルナ(食堂)南東側と北東側に沿って並んで、議会、公開集会、裁判などが行われました。 -
ザダルは第二次世界大戦の空爆で、かなり被害を受けました。
瓦礫を取り除き、いくつかの建物を再建し、新しい建物を建設するのに何年も要しました。 -
St.Eloas's Church(聖エリアス教会)
18世紀にバロック様式で建てられ、かつて正統派ギリシャ人、兵士、船員が使用していた教会の跡地に建てられました。
聖エリアスの教会は脱走兵として軍事国境部隊を配置した教会です。
1773年にそこに新しい教会が建てられました。
それは1805年まで奉献されませんでした。
1754年には古い教会の聖域に鐘楼が建てられました。
教会と鐘楼は後期ヴェネツィア期に建てられました。 -
かつての聖エリア教会
この写真を見ると、馬車などを使っていたことがわかります。 -
Church of St. Elijah(聖エリア教会)
Pillar of Shame(恥の柱)
一本の石柱が残されており、これはかつて罪人を鎖で繋ぎ晒すために使われた「恥の柱」として知られています。
柱の上部には装飾的な彫刻が施されています。 -
恥の柱
北西側にある2つの記念碑的な柱の内、現在残っているのは1つです。
フォーラムから約1.8m上にあります。
軽犯罪者や道徳的違反者(盗み、詐欺、姦通など)がこの柱に鉄の鎖で繋がれ、晒し者にされました。
市民はその人物に侮辱の言葉を浴びせたり、物を投げたりすることで、社会的制裁を加えました。
柱の存在自体が法と秩序の象徴であり、都市の中心に置かれることで「見せしめ」の効果を持っていました。
ヴェネツィア共和国に占領された1202年のザラ包囲戦の後、都市の統治体制が大きく変わり、公共の秩序維持のためにこの柱が活用されたと考えられています。
また、柱の存在は市民の道徳的規範を維持するための装置として機能しており、宗教的な価値観と結びついた「罪と罰」の思想が背景にあります。
柱は古代ローマ時代は奉納柱でした。
カピトリニスのユピテル、ユノ、ミネルヴァに捧げられた神殿がありましたので。 -
Monastery of St. Francis(聖フランシスコ修道院)
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左側を見ると古代ローマのフォロ(フォーラム)があります。
ここから海に向かった際に、右手には寿司なども扱ったレストランがありました。
ちなみに、クロアチアでは他にも何軒も寿司屋を見ました。
確かクロアチア産まぐろが輸入されるはずです。
こちらで消費されても不思議ではないです。 -
そして、まっすぐに行くと海です。
直進すると桟橋のようなものが見えます。 -
Zara subacquea 桟橋の奥に見えます。
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この先に島が見えます。
Uglian(ウグリャン島)かと思います。
この付近には島がたくさんあります。
そして、更にその先にはアドリア海をはさんで、イタリアのAncona(アンコーナ)があります。 -
この右の最先端まで行くと、シーオルガンや建築家ニコラ・バシッチによる近代的な「太陽への挨拶」があります。
もし行くのなら、夕陽の時間がベストです。
残念ながら、もう夫は行きたくないというため、諦めました。
人生は諦めの連続です。(一人だったら絶対行きます。ここまで来たのですから。)
ヒッチコックも愛した景色だそうです。 -
先ほどの桟橋です。
実はこの側の公園内にパブリックのトイレがあります。
綺麗とはえいませんが、係の人がいて50セントだったような・・・。
2名で1ユーロ支払ったような気がします。(記憶が曖昧になってます。) -
フォロ(フォーラム)にやって来ました。
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ザダルは、文書や歴史的遺物で集落として最初に言及された 3,000 年前に遡る都市です。古代ローマ時代には完全に都市化された中心地となり、さらに2000年間継続的にその状態が続きました。
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【先史時代】
ザダル地方における人とその文化の物質的遺跡は、石器時代後期にまでさかのぼります。シメという名前の最古のダルメシア人とリリという名前の旧石器時代のヴィーナスが、ドゥギオトクの15,000年前の層で発見されました。ザダルにあるプンタミカとアルバナシの集落は、新石器時代後期にさかのぼります。 -
【リバーニアン時代】
2,700年前、ザダルはリブルニアの入植地として、すでに多くの貿易航海の重要な中心地、停泊地、港となっていました。
リブルニア人はイタリアのエトルリア人やレバントのフェニキア人と同時代人で、鉄器時代の最も影響力のある文明人と同じくらい貿易と航海に熟練していました。リブルニア人は、後に地中海を支配するローマ帝国無敵艦隊(Naves Liburnae)の主要な建設者になりました。 -
Church of St. Donat's (聖ドナト教会)が手前に、そしてその奥には聖ストシャ大聖堂の鐘楼が見えます。
大聖堂の鐘楼からは街全体を一望できます。
登りませんでしたが。(-_-;) -
左には聖ドナート聖堂(円筒型)と聖ストシャ大聖堂の鐘楼が、そして中央から右側にはフォロ(フォーラム)の跡が見えます。
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あら、ちびっ子ちゃんが、遺跡の上に登って遊んでいます。
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文字がなんとなく見えます。
MARC までは見えます。MARCOでしょうか?
この付近はタベルナのようですから、その名前でしょうか? -
【ローマ帝国時代】
ローマとの連合は、ギリシャ人と近隣のダルマタイの進軍によって脅かされていた北ダルマチア領土内の土地を失うのを防ぎました。
また、帝国の時代に、ザダルは建設され、都市化され、繁栄し、古代後期と中世の歴史的期間全体を通して(第一次世界大戦の初めまで)、東アドリア海の中心となりました。
フォロ・ロマーノは、その時代の証です。 -
獅子(ライオン)の頭部のレリーフのようです。
ローマ建築に用いられた装飾ブロックの断片のようです。
元は神殿のファサード、公共の泉、あるいは邸宅の装飾だったかもしれません。
【中世時代】
6世紀にアイスランドで発生した大地震と連続した火山噴火により、ザダルとその古代との関係はすべて絶たれたため、都市は中世初期に変化し、そして徐々に回復しました。
ザダルはビザンチン帝国でもヴェネツィアと同じくらい強く進歩したダルマチアの中心地になりました。当時は、ザダル地域、町、そして最も広い範囲でアドリア海の島々を支配していたため、空間の特徴は同じままでした。
都市領土開発、造船(隣接する歴史的町ニンのコンドゥラ・クロアチカとセリリア・リブルニツァ)、そしてザダルの大都市として重要な地でした。
そして14世紀の終わりに、クロアチア領土で最初の大学がドミニコ会によってここに設立されました。 -
【ヴェネツィア共和国統治下時代】
11~14世紀にかけて、ザダルの公爵たちはヴェネツィア共和国と絶え間ない戦争を繰り広げていましたが、ヴェネツィア共和国は近隣での重要で強力な貿易競争を好意的に見ていませんでした。
1069年にザダル市とダルマチアの自治体を合意の上併合しましたが、12世紀初頭にすぐに、ザダルとクロアチア王国はハンガリー王国と個人的な連合を結びました。名目上は、ザダルとダルマチアが10万ドゥカットの価格でヴェネツィア共和国に売却された1409年まで、ナポリ王国と神聖ローマ帝国に属していました。
後期は、制御された開発によって特徴付けられ、16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国の危険が増大しました。都市の外観を大幅に変えた新しい要塞と城壁システムの建設により、すぐにヴェネツィア共和国で最大の都市要塞となり、その防衛システムはユネスコの世界遺産リストに登録されています。
【ナポレオン戦争時代】
18世紀末にヴェネツィアが陥落すると、オーストリアに併合されましたが、1806年になるとすぐにザダルはナポレオンによるフランスの支配下に置かれました。フランス領イリュリア州内のザダルとダルマチアを支配したわずか7年間で、フランス人は地域を近代化しようとしていたため、ザダル大学は医学部、外科学部、薬学部、法学部、建設学部、測地学部とともに再設立されました。同時に、ザダルは行政の中心地となり、クロアチア語で最初の新聞であるクラグルスキーダルマチンが執筆され、印刷されました。1813年にナポレオンが陥落し、ザダルが包囲された後、オーストリア軍は再びザダルに入城しました。 -
パン(牧神)・ファウヌス・サテュロスでしょうか。
角があるので、羊や山羊を象徴しているようです。神話的な半獣でしょうか。
髭と荒々しい顔立ちをしています。
いずれも先ほどと同様に使用されていたと思われます。
考古学博物館に行けばわかるのですが・・・。 -
【オーストリア帝国時代】
ザダルに対する2番目のオーストリアの支配は、1918年と第一次世界大戦の終わりまで続き、ザダルは首都ダルマチアの都市の役割を維持しました。
ザダルはダルマチア議会の本拠地であり、ダルマチア全体の教会大都市でもあり、オーストリアにも属していたイタリアからの多くの役人によって徐々に定住しました。1816年に高校と公共公園(クイーンエレナマディエフカ公園)がザダルにオープンし、国立博物館が設立されました。
1838年には近代的な都市給水システムが使用されました。そして数多くの広場と公共スペース、豪華なコーヒーハウスとホテル、図書館と読書室を備えた近代的なヨーロッパの都市になり、6つの印刷所と40以上の異なる新聞や雑誌さえ持っていました。33種類のリキュールが生産されました。世界で最も有名なのはマラスキーノです。1894年の最終日にザダルで最初の電気都市の明かりが点灯し、クロアチアで最初の配電網が体系的に設置されました。
【ユーゴスラビア時代】
オーストリア・ハンガリー君主制は1918年に崩壊したため、その結果、1920年にアドリア海東海岸の飛び地としてイタリアに併合されました。第二次世界大戦の終わりになって初めて、ザダルは再びクロアチア、そしてユーゴスラビアの一部になりました。
ユーゴスラビア時代には、1943年と1944年の第二次世界大戦中に激しい爆撃を受け、歴史的中心部のほぼ全体が荒廃したため、ザダルは完全に再建されました。この時代は都市とその周辺の工業化によって特徴付けられ、哲学部が設立され、ザダルはこの地域の強力な文化的および経済の中心地になりました。熟練した造船業者の約3000年の伝統に基づいて、大手海運会社が設立され、観光の中心地にもなりました。 -
【現代】
1991年以来、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国からの独立を宣言した後、クロアチア共和国の一部となりました。
再び、ザダルはザダル郡と呼ばれる地域の中心となり、30年という長い期間に、新しいインフラの建設、クルーズ船が停泊する大きな近代的な港と旅客ターミナル等建設を優先し、その後ザダル大学を設立し、観光産業に目を向けました。
ザダルはザグレブと高速道路で結ばれており、空港があるため、海、陸、空でヨーロッパ全体と世界と実質的につながっています。今日のザダルは学生の街であり、約7万人の住民が住む都市です。 -
Archaeological Museum of Zadar(ザダル考古学博物館)
残念ながら入館はしてません。
時間に余裕があったら、行きたかったです。 -
Crkva sv. Donato(St. Donato's Church)
聖ドナト教会
元々は聖三位一体教会で、9世紀に建築が始まりました。
建築のために使用された石はフォーラムの残骸をリサイクルして建てました。
15世紀には新しい名前、聖ドナトゥス教会として今日まで使われてきました。
この名前は建築を命じた司教にちなんでつけられた名前です。
高さ27m、幅22mでクロアチア最大の新ロマネスク様式の建物です。
建物の種類としては、初期ビザンティン様式からカロリング朝の宮廷教会に至るまで、円形の平面図を辿っています。
ただ、1930年に南側の別館が取り壊されたため、元の形ではありません。
この教会は長い間、世俗化され典礼は行われていません。19世紀後半からはザダル考古学博物館として使用されてました。
音響効果の良い教会で、ルネサンスの音楽祭の会場となってきました。
内部には円筒形の円筒が入ったような構造をしています。円錐形の屋根はローマのフォーラムの一部であった6つのピラスターと2本の柱によって内部で支えられています。
聖ドナトゥスは8世紀に生まれました。
804年にコンスタンティノープルにビザンティン皇帝ニケフォロス1世が治めていた時代に言及されていることから、彼はアーヘンの和平締結に貢献しました。
この和平によってフランク人はイストリアとクロアチアを、ビザンティン帝国はダルマチアの都市とヴェネツィアを獲得しました。
彼はドナトゥス教会と多くの類似点を持つパラティーノ礼拝堂を見ることができたアーヘンの教会の構想を思いついたようです。
聖ドナトゥスは811年に亡くなり、この教会に埋葬され、主祭壇の下に置かれたのですが、フランス軍によるザダル侵攻後、聖アナスタシア大聖堂に移され、現在も隣の大聖堂にあります。
後ろの鐘楼は聖ストシャ大聖堂のものです。
残念ながら主人のご機嫌とりをしていたため、中には入りませんでした。
こんな時、一人旅なら気楽でいいのですが・・・。 -
古代ローマ時代のサルコファガス(石棺)の様にも見えますが・・・。
他にも点在しています。
屋根のような蓋を持つ石棺は、ローマ時代後期から中世初期にかけてよく見られる形式のようです。蓋がずらされているのは、内部の構造を見せるためか、過去に開けられた痕跡かもしれません。
このような石棺は、ザダルがキリスト教化されたローマ都市であったことを示す重要な証拠です。特に聖職者や裕福な市民がこのような石棺に埋葬されることが多く、フォーラム周辺にあるということは、宗教的権威と都市の中心性を象徴しているのだそうです。 -
整然と石が並んでいて、かつての建物の基礎やや柱の一部かもしれません。
ポルティコ(柱廊)やタベルナ(食堂)の痕跡かもしれません。 -
ザダルを象徴するような鐘楼です。
鐘の音が頻繁に鳴っていました。
できたら登りたかったのですが。 -
整然と石が積まれています。
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このフォロ(フォーラム)はローマ都市の社会生活と公共生活の中心でした。
第二次世界大戦中の都市構造の破壊という不運な状況の後、包括的な調査を経て、この考古学博物館は一種の都市考古学公園として公開されてします。
BC1世紀に始まり3世紀初頭に終わったことが示されています。
フォーラムは基盤の目状の計画に沿って、Decumanus maximus(主要な縦断道路)、Cardo maximus(主要な横断道路)の交差点に位置していました。
中央には舗装された広場があり、北、東、南から2階建てのポルティコで囲まれていました。
西側にはPeribolus(壁で囲まれた宮廷)に囲まれたカピトリウムがあり、その中央にはカピトリノス三位一体のユピテル、ユノ、ミネルヴァに捧げられた神殿が建てられていました。
広場にはカピトリウムのすぐ近くに2本の巨大な奉納柱が立っており、その内1本はそのままあります。(先ほどの「恥の柱」です。)
商人のための長方形の空間であるタベルナは、ポルティコの外側の東と北側に沿って建てられました。
ニンファエウム(ニンフを祀る場所)はポルティコの南東側にありました。政治と公共生活の中心である市のバシリカは、西端と東端に半円形のExedrae((エクセドラ)(建物の半円形の部分で、上部はドームになっていることが多い))を備え、南側のポルティコのほぼ全体に沿って位置してました。
司教区の建物は、4世紀後半から6世紀にかけての初期キリスト教時代に、その複雑な建築構造の北側に既に建てられていました。それは歴史を通して補完され、19世紀末まで形作られました。南側のフォーラムのオープンエリアは、Campa(カンパ)として知られる中世の広場に部分的には置き換えられ、後にルネサンス様式の貯水槽の基礎の上に緑の広場、Pizza delle Erbe(エルベ広場)が建てられました。 -
メニューが気になります。
特にお店を決めてませんでしたので、チラチラ見ながら歩いてます。 -
そんなに食欲はないのですが、とりあえず休憩をしたい夫のため、お店に入ります。
-
向かいのお店には化粧品やお土産などがありました。
お土産用にラベンダーのポプリと自分のクリームも購入しました。 -
Porporela(レストラン)
私がお店で買い物している間に、主人はもうパスタを食べてしまってました。
実はこれはアカザ海老のパスタなのですが、海老はほぼなくなってました。(-_-;)
お味はまあまあ美味しかったようです。
私はムール貝のワイン蒸しと白ワインを。
お腹が空いていないので、パンは残してしまいました。
こちらのお店では、喫煙できました。
ビール(4.5ユーロ)白ワイン(3.9ユーロ)
アカザ海老のパスタ(23.5ユーロ)
ムール貝のワイン蒸し(13.5ユーロ)
これで45.4ユーロでした。
1ユーロは176.58円
8,017円でした。
チップは不要とのこと。 -
お腹がいっぱいなので、ちょっとお散歩します。
-
ザダルの城壁は、高さがそれほど高くありません。
階段を登って行きます。
さほど登る必要がありません。
今まで見た城壁は高さが結構あるのですが、なぜザダルの城壁は低いのでしょうか。
それは、ザダルは小さな半島の上に築かれており、三方を海に囲まれており、天然の防御力が高かったため、城壁を垂直に高く積み上げる必要性が他の内陸都市ほどなかったのが理由の1つです。
そして、ヴェネツィア共和国の影響もありました。
16世紀、オスマン帝国との戦いに備えてヴェネツィア共和国がザダルの城壁を再築したのですが、このとき導入されたのは ルネサンス期の星形要塞式(ヴォーバン式に先行するイタリア式築城)だったようです。
高く細い中世風の壁ではなく、低く分厚い城壁 と 稜堡(バスティオン) を備え、大砲に耐える構造にしたのです。
つまり、ザダルの城壁は「低い」のではなく「砲撃戦用に低く厚く設計されている」わけです。
さらに、15~16世紀には火砲(大砲)の発達により、中世の高い石壁は簡単に破壊されるようになりました。そのため、ザダルでは防御戦略を「高さ」より「厚さと角度」に重点を置いたのです。
つまり、ザダルの城壁が低く見えるのは、海に守られた地形と、ヴェネツィア時代の「大砲に耐える近世的要塞設計」によるものです。単なる中世の城壁ではなく、当時最先端の防御システムだったからこそ、低くても強固だったのです。
それは、この後、城壁に登るとわかります。 -
城壁の上がプロムナードになっています。
ベンチもいくつかあり、お散歩には最適です。
まるで、普通の道で城壁であることを忘れてしまいます。
つまり、これこそが、城壁の厚みです。 -
ザダル市の防衛システムは2017年にユネスコの世界遺産リストに登録されました。
16世紀及び17世紀のヴェネツィアの防衛施設と呼ばれる国境を越えた一連の文化遺産の一部として登録されました。
ザダルは防衛に適した地形の半島にありました。
ヴェネツィアはその周囲に堅牢な城壁を築きました。
【16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール】
・ベルガモの要塞都市(イタリア・ロンバルディア州)
・ペスキエーラ・デル・ガルダの要塞都市(イタリア・ベネト州)
・パルマノーヴァの都市要塞(イタリアフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州)
・コトルの要塞都市(モンテネグロ・コトル)
・シベニク=クニン郡の聖ニコラス要塞(クロアチア・シベニク)
・ザダルの防衛システム(クロアチア・ザダル)
海の要塞はアドリア海からレヴァント地方までの交易路と港(スタート・ダ・マール)を防衛する役目を果たしました。
防衛施設群はヴェネツィア共和国(通称Serenissima)の拡張と権威を保障し、火薬の登場による軍事技術と要塞設計に大変革をもたらしたことで、広くヨーロッパの要塞建築の模範となったことでも知られています。 -
城壁なのに、ラベンダーも咲いていて綺麗です。
しかも日陰になっていて気持ちがいいです。 -
イチオシ
船が寄港してます。
-
停泊している船がたくさんです。
-
だいぶ日が傾いてきました。
これが城壁だと思うと不思議です。
この時は私一人。主人はベンチで休んでいました。 -
城壁上の道にプレートがありました。
文字がよく見えませんが・・・。
LANCIANA:イタリアの都市「ランチャーノ(Lanciano)」に由来する可能性があり、姉妹都市や歴史的つながりを示しているかもしれません。
DELTA PLAZA:都市の一部の名称、あるいは再開発された広場の名前。ザダルでは、近代的な都市整備と歴史的保存が融合しているため、こうした名称が使われることがあります。
GAVES:人名、寄贈者、または設置に関わった団体名の可能性があります。
かつての門や塔、見張り台の位置を示している可能性もあります。 -
城壁の上を歩いていたのですが、気付いたら普通の道になっていました。
自然に合流するようになっているようです。 -
もう、すっかり普通の街並みです。
城壁はどこに行ったのでしょうか・・・・。
気付いたら、城壁はなくなっていました。 -
左折すると、公園らしきものがありました。
-
像がたくさんありました。1つずつ確認していきます。
Dragutin Parcic(1832-1902年)
Jezikoslovac
この方はドラグティン・A・パルチッチで、クロアチア語ーイタリア語辞典の著者です。ローマのクロアチア人司祭でした。 -
Juraj Barakovic(1548-1628年)
Knjzevnik
ユライ・バラコヴィッチです。
以下の著書を残しています。
「Jarula」(ヴェネツィア)旧約聖書・新約聖書を物語形式で再構成した作品
「Draga, rapska pastirica」クロアチア文学の田園詩
「Vila slovinka」(ヴェネツィア)13巻からなる叙事詩 -
Ivo Pridan(1852-1933年)
Politicar
イヴォ・プロダン、ダルメティア地方の政治家でありジャーナリストです。
1876年に司祭に叙階しました。
「ダルマジア・カトリカ」の編集者です。
「Hrvatska」(1884?93)や「Hrvatska kruna」(1892?1919)などの著書があります。
クロアチアで最初に聖職者から政治の世界に入った人物でした。
1918年以降は、政治から完全に引退しました。 -
Simun Kozicic Benja(oko 1460-1536年)
Biskup i Pisac
シムン・コジチッチ・ベンヤ
クロアチア系ダルマチアの雄弁家、ヒューマニスト、印刷業者で、1509年からモドルシュの司教を務めました。
トルコ人がモドルシュを攻撃した後、ベンヤは1530年にリエカに旅行し、グラゴール印刷機を設立しました。コジチッチは有名な作品「詩篇」を書きましたが、これは、基本的なキリスト教の祈り、祈りやミサで使用するための詩篇やその他の歌を含む小さな祈りの本でした。
1531年までに、彼はさらにグラゴール語で5冊の本を印刷しました。 -
Sime Budinic(oko 1530-1600年)
Knjizevnik
シメ・ブディニッチ
クロアチア・ザダル出身の 人文主義者・作家・翻訳者 です。
彼は16世紀後半のクロアチア文化・宗教改革期に重要な役割を果たしました。
ザダルを拠点に、ヒューマニズム思想を広め、学問や文化の発展に寄与しました。
また、当時のクロアチア語(チャカヴ語方言など)に宗教書や学術的な文献を翻訳し、地元の人々が理解できる言葉で知識や信仰を伝えました。
そして、イタリアやヴェネツィアのプロテスタント的な潮流と接触しており、クロアチア語での宗教書普及に取り組みました。
とくに聖書の一部や教理問答書の翻訳で知られています。 -
Brne Krnarutic(oko 1520-1572年)
Knjizfvnjk
ブルネ・カルナルティッチ
クロアチアのルネサンス期の詩人でした。
彼の最も有名な作品は、シゲトヴァール包囲戦(1566年)に関する歴史叙事詩である「Vazetje Sigeta grada」です。
ザダルで生まれ、ヴェネツィア軍の大尉を務め、オスマン・ヴェネツィア戦争(1537?1540)でクロアチア騎兵隊を率いました。
その後、彼はザダルで弁護士および公爵の顧問として働きました。
彼はオウィディウスの『ピラマスとティスベ』の変容を『Izvrsita ljubav i napokon nemila i nesrićna smrt Pirama i Tizbe』(ヴェネツィア、1586年)というタイトルで翻案しました。
さらにカルナルティッチの他の作品である『ヴァゼチェ・シゲタ・グラダ(ヴェネツィア、1584年)』で、シゲトヴァール包囲戦とニコラ4世ズリンスキーの死とシゲトヴァールの勇敢な擁護者(1566年)を描いたクロアチア初の歴史叙事詩です。 -
Andrija Medulic(oko -1500-1536年)
Slikar
アンドリヤ・メドゥリッチ
16世紀のヴェネツィアで最も独創的なグラフィックアーティストでした。
スキアヴォーネと呼ばれるマニエリスム画家でグラフィックアーティストでした。 -
Ivan Tanzliger-Zanotti(1651-1732年)
Leksikograf
イワン・タンツリンガー・ザノッティ
彼はザダルサークルのメンバーでした。
辞書Vocabolario di tre nobilissimi linguaggi, italiano, illirico e latinoを書き、辞書は写本として残っています。
また、ウェルギリウスの『アエネイス』の2つのカントをクロアチア語に翻訳し、1688年にヴェネツィアで2冊の本で出版しました。 -
御覧のように公園内に像が点在していました。
-
Jaksa Cedomil Jakov Cuka(1868-1928年)
Knjizevni Kriticar
文芸作品を対象とした批評活動を行い、クロアチア語文学の発展に貢献しました。彼は「近代クロアチア文学批評の創始者」の一人でした。
ザダルで神学教育を受け、ローマで教会法(カノン法 cannon law)を学び、博士号を取得。
教会におけるさまざまな職務(代教員、典礼ヴィカー、司祭としての教区・共同体での役割等)を務めました。
Matica dalmatinska(ダルマチア地域の文化協会)の機関誌 “Glasnik Matice dalmatinske” の創設者・編集者を務めました。
また、ヨーロッパの文芸批評の潮流(たとえばリアリズム、写実主義・ヨーロッパ文学の動向)を紹介し、それをクロアチア語圏の文学にも反映させようとした人物です。 -
Mali Arsenal(小武器庫)
目の前はTrg tri bunara(3つの井戸広場)通りです。
そして城壁から続く道Ui. Bozedara Petranovicaとの交差する角地にあります。
※ Google Mapで確認しました。
Mali Arsenal(小武器庫)は中世のKaštel(城塞)の一部として建てられ、16世紀頃に海運・軍事のための倉庫・武器庫として使われてきました。改修や増築を経て現在の姿になっています。
元は入口塔の下部など中世城塞の要素を残す建物で、後に gunpowder magazine(火薬庫)/小規模な兵器庫 として用いられました。近年では保存・改修され、訪問者センターや展示・文化イベントに使われています。
2017年ごろに保存・改修プロジェクトが行われ、最小限の介入で歴史的層を残しつつ、マルチメディアを使った展示や訪問者向け空間として再利用されています(建築賞を受賞した事例もあります)。
現在は観光・文化イベント会場としても使われているようです。 -
よく見ると、聖マルコの獅子(翼のあるライオン)があります。
ヴェネツィアの守護聖人の聖マルコです。
つまり、かつてヴェネツィア共和国の支配を示す紋章です。
ザダルは長くヴェネツィア支配下にあり、要塞や倉庫にこの紋章が掲げられました。獅子の位置(軒下や門の上など)は公式な印としてよく見られます。
中世からアドリア海沿岸地域の町のほとんどがヴェネツィアの影響下になっていました。ザダルもそうです。
聖マルコがベネツィアにやってきたのには、面白いエピソードがあります。
元々は聖マルコはエジプトのアレクサンドリアで殉教しています。
それは、当時エジプトがイスラム化し、聖マルコの墓地も荒れた状態でした。
828年にヴェネツィアの商人2人が、エジプトのアレキサンドリアからマルコの遺骸を持ち出しました。
そのやり方は、イスラム教徒にばれないよう、 遺骸をイスラム教徒が不浄なものとして忌み嫌う豚肉で隠して持ってきました。
この遺骸を祭るために教会が建てられました。 -
床がガラス張りのようになっていました。
なぜガラス張りなのかは不明です。
ザダルは1409年にヴェネツィア共和国の支配下に入り、1797年まで約4世紀にわたり要塞都市として発展しました。市壁や城門、兵舎・倉庫などの軍事建築の多くは、この時代に整備されたものです。
小規模な兵器庫・倉庫は砲弾や火薬の保管に使われた可能性があるようです。 -
Hotel Bastina
★4つです。 -
2025年、ミシュランになっています。
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旅客用の港で、色々な船があります。
クルーズで寄港する方も多いようです。 -
城壁です。
そして、その下は駐車場になってました。 -
この辺り一帯が駐車スペースです。
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ザダルの旧市街の地図です。
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マリーナ側ですが、徐々に日が沈み始めました。
ただ、日没は9時頃でしたので、もうホテルに向かいます。 -
イチオシ
残念ながら、シーオルガン付近からの夕陽は見れませんが、こちらも十分美しいです。
なにしろ、同じザダルの夕陽です。
城壁外ではありますが。(-_-;) -
ホテルに到着しました。
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Hotel Porto(ホテル・ポルト)
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中庭がありました。
ただ、暑いので利用することはありませんでした。 -
ホテルの廊下にあった写真です。
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こちらもホテルの廊下の写真です。
誰なのかはわかりませんが、このザダルの土地と何らかの関係のある方かと思います。
ホテルにある絵や写真、その土地を感じる事ができるので、なんとなく撮ってしまいました。 -
お部屋はスーツケースを広げるのがちょっと難しいくらいのサイズでした。
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コンパクトなベッド。
そして問題なのは、エアコンはついているのですが、効いてませんでした。
なぜかヒーターのような置き型タイプの空調らしきものがあり、冷気が出てました。
冷蔵庫は効いてませんでした。
ドライヤーもないので借りました。
購入してきたビールは下から冷気の出る空調の上に置いて冷やしました。
もはや氷をもらって冷やすのも面倒でした。 -
洗面所はこんな感じです。
ちなみに、チェックインした時には、私たちしかいませんでしたが、翌日の朝ごはんの際にレストランに行ったところ、各国から多くの観光客が来ていました。アジア系の方も多かったです。
旧市街にも割と近く、リーズナブルだからでしょうか。 -
洗面所の写真で終わるのも虚しいので、最後にもう1枚追加します。
マリーナの写真です。
ザダルでは古代ローマ時代、中世の教会等、ヴェネツィア時代の遺跡等を堪能できました。
さて、次はスプリットです。
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