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インド北東部のマニプール州の州都インパールに行ってきました。<br />インパールは、大きな戦いの場として、歴史の中に存在しています。<br />インドシナ半島とインド亜大陸の間に位置していて、人や物が行き交う、交通の環境である関係上、有史以来、戦いが絶えなかったようです。<br />特に、ビルマとの長い戦いは、この地域の安定性を損なってきた歴史があります。<br />また、第2次世界大戦末期、日本軍がインパール作戦を実施たことは、記憶が新しいところです。<br />インパールには、かつてカングラ王朝が存在していましたが、現在は、カングラ フォートが、歴史を伝えています。<br />カングラ王朝は、非常に強力だったようで、紀元33年から19世紀にかけて、イギリスの勢力に屈するまで何世紀にもわたってインパール周辺を治めていたとのことですが、1891年3月にイギリス軍に攻められ4月に陥落しました。<br />カングラとはマニプリ語(メイテイ語)で「乾いた地」と言う意味だそうです。<br />マニプール地方の歴史を、見て廻る機会を得たことは、大変、有意義なことでした。

文明発祥の地のインドの中でも、北東部の歴史は、やや様相を異にしているようです。

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2023/06/14 - 2023/06/30

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さいたまさん

この旅行記スケジュールを元に

インド北東部のマニプール州の州都インパールに行ってきました。
インパールは、大きな戦いの場として、歴史の中に存在しています。
インドシナ半島とインド亜大陸の間に位置していて、人や物が行き交う、交通の環境である関係上、有史以来、戦いが絶えなかったようです。
特に、ビルマとの長い戦いは、この地域の安定性を損なってきた歴史があります。
また、第2次世界大戦末期、日本軍がインパール作戦を実施たことは、記憶が新しいところです。
インパールには、かつてカングラ王朝が存在していましたが、現在は、カングラ フォートが、歴史を伝えています。
カングラ王朝は、非常に強力だったようで、紀元33年から19世紀にかけて、イギリスの勢力に屈するまで何世紀にもわたってインパール周辺を治めていたとのことですが、1891年3月にイギリス軍に攻められ4月に陥落しました。
カングラとはマニプリ語(メイテイ語)で「乾いた地」と言う意味だそうです。
マニプール地方の歴史を、見て廻る機会を得たことは、大変、有意義なことでした。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配
  • 今回は、インド北東部の歴史について、述べますが、宗教や民族との関連が、複雑に、影響し合っていますので、単一的、かつ割り切った表現や理解が難しい面があります。<br /><br />このため、大きな流れを整理することに、努めます。<br /><br />今回は、マニプールの王国について勉強し、インド北東部の歴史を一端を、垣間見ました。

    今回は、インド北東部の歴史について、述べますが、宗教や民族との関連が、複雑に、影響し合っていますので、単一的、かつ割り切った表現や理解が難しい面があります。

    このため、大きな流れを整理することに、努めます。

    今回は、マニプールの王国について勉強し、インド北東部の歴史を一端を、垣間見ました。

  • インド北東部は、昔、ビルマ軍に征服された歴史を有しています。<br />このビルマ軍の侵攻によって、マニプール王国やアラカン王国が、ビルマの支配下組み入れられてしまったのです。<br /><br />インド北東部は、インドシナ半島から、インド亜大陸への地政学的、かつ戦略的な地形の特性があったのです。<br /><br />インドを植民地化していた英軍は、これを契機に、ビルマ王国との3次にわたる英緬戦争が続くことになり、結果として、ビルマは、英国の植民地となり、英領インド支配の中に、組み入れられました。<br /><br />コルカタにあるウイリアム要塞に、その当時の様子の絵画がありました。

    インド北東部は、昔、ビルマ軍に征服された歴史を有しています。
    このビルマ軍の侵攻によって、マニプール王国やアラカン王国が、ビルマの支配下組み入れられてしまったのです。

    インド北東部は、インドシナ半島から、インド亜大陸への地政学的、かつ戦略的な地形の特性があったのです。

    インドを植民地化していた英軍は、これを契機に、ビルマ王国との3次にわたる英緬戦争が続くことになり、結果として、ビルマは、英国の植民地となり、英領インド支配の中に、組み入れられました。

    コルカタにあるウイリアム要塞に、その当時の様子の絵画がありました。

    ウィリアム要塞 建造物

  • 英国東インド会社は、英国のインドの植民地支配の先駆けでした。<br /><br />インドの特産の綿布や香辛料等の産物は、ヨーロッパに輸出され、英国の繁栄を支えました。<br /><br />その英国の主たる根拠地は、カルカッタ(コルカタ)でした。マドラス、ボンベイにも、英国の進出が見られます。<br />

    英国東インド会社は、英国のインドの植民地支配の先駆けでした。

    インドの特産の綿布や香辛料等の産物は、ヨーロッパに輸出され、英国の繁栄を支えました。

    その英国の主たる根拠地は、カルカッタ(コルカタ)でした。マドラス、ボンベイにも、英国の進出が見られます。

  • 英国は、インドから多くの利益を上げていました。<br /><br />インドに課税し、英国を潤す税金の額は、増加する一方で、英国の大きな財源となっていきました。

    英国は、インドから多くの利益を上げていました。

    インドに課税し、英国を潤す税金の額は、増加する一方で、英国の大きな財源となっていきました。

  • 英国は、インドへの進出を目的として、当時のカルカッタ(現在のコルカタ)に根拠地を設けました。<br /><br />英国の他、フランス、ポルトガル、オランダ等の列強も、インドに、それぞれ根拠地を設け、お互いに、競い合いました。<br /><br />英国は、カルカッタの他、マドラスやボンベイにも拠点を置きました。<br />マドラスは、現在、チェンナイと呼ばれています。<br />セントジョージ要塞は、当時の記録を残す博物館です。

    英国は、インドへの進出を目的として、当時のカルカッタ(現在のコルカタ)に根拠地を設けました。

    英国の他、フランス、ポルトガル、オランダ等の列強も、インドに、それぞれ根拠地を設け、お互いに、競い合いました。

    英国は、カルカッタの他、マドラスやボンベイにも拠点を置きました。
    マドラスは、現在、チェンナイと呼ばれています。
    セントジョージ要塞は、当時の記録を残す博物館です。

    セント ジョージ要塞/要塞博物館 史跡・遺跡

  • セポイの反乱は、インドにおける大きな事件ででした。<br />英国は、1757年のプラッシーの戦いの以来、現地で傭兵を雇用することとされました。<br />これらの傭兵は、セポイという呼ばれていました。<br />インドの高位のカーストに属し、規律正しく、有能であったので、重用され、英国の兵力の中心となっていました。<br />セポイの反乱当時、20万人のセポイ兵(シパーヒー)が存在したと記録されています。<br />セポイに対して支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の装填には、薬包を使い、湿り気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填する構造になっていました。<br />牛脂・豚脂は、ヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、また、イスラム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことでした。<br />セポイの中には、ヒンドゥー教徒もイスラム教徒もいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのが、原因でした。<br /><br />インドのセポイの反乱は、現在のデリーの北東方で発生しました。

    セポイの反乱は、インドにおける大きな事件ででした。
    英国は、1757年のプラッシーの戦いの以来、現地で傭兵を雇用することとされました。
    これらの傭兵は、セポイという呼ばれていました。
    インドの高位のカーストに属し、規律正しく、有能であったので、重用され、英国の兵力の中心となっていました。
    セポイの反乱当時、20万人のセポイ兵(シパーヒー)が存在したと記録されています。
    セポイに対して支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の装填には、薬包を使い、湿り気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填する構造になっていました。
    牛脂・豚脂は、ヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、また、イスラム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことでした。
    セポイの中には、ヒンドゥー教徒もイスラム教徒もいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのが、原因でした。

    インドのセポイの反乱は、現在のデリーの北東方で発生しました。

    ニューデリー駅

  • ビルマのマニプール王国への侵攻に際して、藩王国であったマニプール王国(カングラ王朝)は、英国に助けを求めました。<br /><br />当時は、英国の直轄地域の他の領域は、建前上、それぞれの藩王国が統治していることになっていましたが、実態は、藩王国を通じて、英国が間接統治する仕組みになっていたのです。<br />

    ビルマのマニプール王国への侵攻に際して、藩王国であったマニプール王国(カングラ王朝)は、英国に助けを求めました。

    当時は、英国の直轄地域の他の領域は、建前上、それぞれの藩王国が統治していることになっていましたが、実態は、藩王国を通じて、英国が間接統治する仕組みになっていたのです。

  • 英国のインド支配の歴史を象徴するヴィクトリア記念堂の大砲です。<br /><br />英国は、インド支配を継続するために、その強大な武力を行使しました。

    英国のインド支配の歴史を象徴するヴィクトリア記念堂の大砲です。

    英国は、インド支配を継続するために、その強大な武力を行使しました。

    ヴィクトリア記念堂 建造物

  • 英国は、広大なインド亜大陸を統治するため、インド人を軍人として雇用し、英国軍として活用しました。<br /><br />英軍に雇用されたインド人の階級は、セポイと称されました。<br />その中で、歩兵部隊に編入されたインド兵は、Riflemanと呼ばれました。<br /><br />しかしながら、聖なる牛の脂を弾薬に用いることに反発した、インド人将兵(セポイ)は、反発し、反乱を起こしました。<br />これが、セポイの乱です。<br /><br />英国は、この反乱を鎮圧するため、戒律に寛容なグルカ兵を利用しました。

    英国は、広大なインド亜大陸を統治するため、インド人を軍人として雇用し、英国軍として活用しました。

    英軍に雇用されたインド人の階級は、セポイと称されました。
    その中で、歩兵部隊に編入されたインド兵は、Riflemanと呼ばれました。

    しかしながら、聖なる牛の脂を弾薬に用いることに反発した、インド人将兵(セポイ)は、反発し、反乱を起こしました。
    これが、セポイの乱です。

    英国は、この反乱を鎮圧するため、戒律に寛容なグルカ兵を利用しました。

  • インパール及びコヒマの戦争墓地には、キリスト教徒、イスラム教徒の墓石及びヒンズー教徒の記念碑があります。<br /><br />写真は、英軍に雇用されたインド国籍のインド人の墓石です。セポイとの表記があります。<br /><br />ヨハン・ムハンマドという名前なのでしょう。<br /><br />ヒンズー教徒は、教義に基づき、火葬に付されますので、墓石はありません。

    インパール及びコヒマの戦争墓地には、キリスト教徒、イスラム教徒の墓石及びヒンズー教徒の記念碑があります。

    写真は、英軍に雇用されたインド国籍のインド人の墓石です。セポイとの表記があります。

    ヨハン・ムハンマドという名前なのでしょう。

    ヒンズー教徒は、教義に基づき、火葬に付されますので、墓石はありません。

    コヒマ戦没者墓地 観光名所

  • セポイの乱の鎮圧をはじめとして、多くのグルカ兵が、英軍に雇用されていました。<br /><br />現在も、英軍に、グルカ兵が編入されています。<br /><br />グルカ兵は、有名です。

    セポイの乱の鎮圧をはじめとして、多くのグルカ兵が、英軍に雇用されていました。

    現在も、英軍に、グルカ兵が編入されています。

    グルカ兵は、有名です。

    ナガランド州立博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 1947年、インドは、英国から独立しました。<br /><br />初代の首相のネルーの銅像が、コルカタのパークストリート駅の西側に置かれています。

    1947年、インドは、英国から独立しました。

    初代の首相のネルーの銅像が、コルカタのパークストリート駅の西側に置かれています。

    パーク ストリート駅

  • ビクトリアモニュメントには、インドの歴史を勉強する場所が多いです。<br /><br />写真は、ビクトリア駅の隣の地下鉄の駅です。<br /><br />書籍も、地下鉄駅の傍で、多く販売されています。<br /><br />

    ビクトリアモニュメントには、インドの歴史を勉強する場所が多いです。

    写真は、ビクトリア駅の隣の地下鉄の駅です。

    書籍も、地下鉄駅の傍で、多く販売されています。

    メトロ・ショッピング・センター ショッピングセンター

  • 地下鉄のマハトマ・ガンジーストリート駅です。<br /><br />インドの歴史上、忘れることが出来ない、マハトマ・ガンジーの名前に因み、地下鉄の駅名として名付けています。

    地下鉄のマハトマ・ガンジーストリート駅です。

    インドの歴史上、忘れることが出来ない、マハトマ・ガンジーの名前に因み、地下鉄の駅名として名付けています。

  • インドの歴史の中で、必ず言及されるマザー・テレサの石碑です。<br /><br />インドの歴史の勉強になります。

    インドの歴史の中で、必ず言及されるマザー・テレサの石碑です。

    インドの歴史の勉強になります。

    マザー テレサの家(マザー ハウス) 寺院・教会

  • インド北東部のマニプール州の州都インパールにあるカングラフォートの入口です。<br /><br />以前、カングラ王朝が存在していた時代、宮殿として使われていました。<br /><br />現在、部族間の抗争が激化した関係で、立ち入りが制限されています。

    インド北東部のマニプール州の州都インパールにあるカングラフォートの入口です。

    以前、カングラ王朝が存在していた時代、宮殿として使われていました。

    現在、部族間の抗争が激化した関係で、立ち入りが制限されています。

    カングラ フォート 史跡・遺跡

  • カングラフォートの入口です。<br /><br />門は、半分開けられていますが、門の中の衛兵に、入場を規制されました。<br /><br />北門もありますが、同様に入れません。

    カングラフォートの入口です。

    門は、半分開けられていますが、門の中の衛兵に、入場を規制されました。

    北門もありますが、同様に入れません。

  • カングラフォートの入口の様子です。<br /><br />衛兵が、配置されています。<br /><br />規制が厳しいです。

    カングラフォートの入口の様子です。

    衛兵が、配置されています。

    規制が厳しいです。

  • カングラフォートの西側の堀です。<br /><br />直線的な形状で、人工的なものです。<br /><br />宮殿であった建物を防護するための堀だと思います。

    カングラフォートの西側の堀です。

    直線的な形状で、人工的なものです。

    宮殿であった建物を防護するための堀だと思います。

  • カングラフォートの入口の門の横に、剣をかざした国王の銅像が置かれています。<br /><br />台座に、解説板がつけられています。

    カングラフォートの入口の門の横に、剣をかざした国王の銅像が置かれています。

    台座に、解説板がつけられています。

  • カングラフォートの領主が、馬に乗って、突撃していく様子を現しているようです。<br /><br />鉄砲ではなく、剣の時代のもののようです。<br /><br />歴史上有名なビルマとの戦いの事態なのかもしれません。

    カングラフォートの領主が、馬に乗って、突撃していく様子を現しているようです。

    鉄砲ではなく、剣の時代のもののようです。

    歴史上有名なビルマとの戦いの事態なのかもしれません。

  • インドの北東部は、ビルマからの軍が侵入してきた歴史があります。<br /><br />カングラ王朝の時代、大きな戦いがあったとのことです。

    インドの北東部は、ビルマからの軍が侵入してきた歴史があります。

    カングラ王朝の時代、大きな戦いがあったとのことです。

  • カングラフォートの入口の騎馬像の台座です。<br /><br />台座には、歴史上の出来事等を記録されているようです。<br /><br />歴史的に見て、大きな出来事だったのでしょう。

    カングラフォートの入口の騎馬像の台座です。

    台座には、歴史上の出来事等を記録されているようです。

    歴史的に見て、大きな出来事だったのでしょう。

  • カングラフォートの周辺には、多くの記念碑等が置かれています。<br /><br />それぞれには、記念碑が置かれた経緯や歴史的な変遷等について、記述があるようです。

    カングラフォートの周辺には、多くの記念碑等が置かれています。

    それぞれには、記念碑が置かれた経緯や歴史的な変遷等について、記述があるようです。

  • カングラフォートの表示です。<br /><br />カングラの西ゲートとの表示があります。<br /><br />SINGHとの文字が見られます。<br /><br />シン族に関係があるものと推察されます。 

    カングラフォートの表示です。

    カングラの西ゲートとの表示があります。

    SINGHとの文字が見られます。

    シン族に関係があるものと推察されます。 

  • カングラフォートの北門です。<br /><br />門は、堀の東側にあります。<br /><br />青色の表示には、カングラの文字が見られます。

    カングラフォートの北門です。

    門は、堀の東側にあります。

    青色の表示には、カングラの文字が見られます。

  • カングラフォートの北門です。<br /><br />門は、閉じられていて、入ることが出来ません。

    カングラフォートの北門です。

    門は、閉じられていて、入ることが出来ません。

  • カングラフォートの北門に掲げられている標識です。<br /><br />北門は、国道沿いに、北側に延びている幹線道路に通じています。

    カングラフォートの北門に掲げられている標識です。

    北門は、国道沿いに、北側に延びている幹線道路に通じています。

  • カングラフォートの表示です。<br /><br />末尾に、カングラ、インパールとの文字が見られます。<br /><br />ここにも、SINGHの名称が入っています。

    カングラフォートの表示です。

    末尾に、カングラ、インパールとの文字が見られます。

    ここにも、SINGHの名称が入っています。

  • インド北東部のマニプール州の州都インパールの南方に、インド平和メモリアルがあります。インパール空港の南側です。<br /><br />インパール作戦における日英両軍による激戦地でした。<br /><br />この場所は、日本軍の戦死者による流血で、血染めの丘といわれています。<br />

    インド北東部のマニプール州の州都インパールの南方に、インド平和メモリアルがあります。インパール空港の南側です。

    インパール作戦における日英両軍による激戦地でした。

    この場所は、日本軍の戦死者による流血で、血染めの丘といわれています。

    インパール空港 (IMF) 空港

  • インド平和メモリアルの標識です。<br /><br />地元の住民の手により、慰霊施設が置かれています。

    インド平和メモリアルの標識です。

    地元の住民の手により、慰霊施設が置かれています。

  • 以前、インド平和メモリアルの入口にあった門です。<br /><br />この門は、今、ありません。

    以前、インド平和メモリアルの入口にあった門です。

    この門は、今、ありません。

  • インド平和メモリアルの奥には、慰霊のための施設が置かれています。<br /><br />写真の右側には、血染めの丘があります。

    インド平和メモリアルの奥には、慰霊のための施設が置かれています。

    写真の右側には、血染めの丘があります。

  • インド平和メモリアルの奥には、慰霊の石が置かれています。<br /><br />慰霊の石の奥には、日本財団が設置した慰霊施設があります。

    インド平和メモリアルの奥には、慰霊の石が置かれています。

    慰霊の石の奥には、日本財団が設置した慰霊施設があります。

  • 慰霊の石を、日本財団の施設の方向から見ています。<br /><br />インパールに通ずる国道は、写真の右側にあります。<br />(左側は、血染めの丘)

    慰霊の石を、日本財団の施設の方向から見ています。

    インパールに通ずる国道は、写真の右側にあります。
    (左側は、血染めの丘)

  • 慰霊の石には、英語と日本語により、慰霊の碑文がつけられています。<br /><br />血染めの丘を巡る激戦は、1944年5月21日から29日の間、続けられ、多くの日本軍将兵が、戦死しました。

    慰霊の石には、英語と日本語により、慰霊の碑文がつけられています。

    血染めの丘を巡る激戦は、1944年5月21日から29日の間、続けられ、多くの日本軍将兵が、戦死しました。

  • インド平和メモリアルの奥の中央には、三つの大きな石が置かれています。<br /><br />インド、日本そして英国を現すと言われています。

    インド平和メモリアルの奥の中央には、三つの大きな石が置かれています。

    インド、日本そして英国を現すと言われています。

  • 三つの石の右側には、白い屏風のような壁が立てられています。<br /><br />一番左側に円形の表示がつけられています。<br /><br />その右に、水平に銘板がつけられています。

    三つの石の右側には、白い屏風のような壁が立てられています。

    一番左側に円形の表示がつけられています。

    その右に、水平に銘板がつけられています。

  • 左側に付けられているインド平和メモリアルの表示です。<br /><br />悲しい歴史を綴っている慰霊施設です。

    左側に付けられているインド平和メモリアルの表示です。

    悲しい歴史を綴っている慰霊施設です。

  • 日本語によるインド平和メモリアルの表示もあります。<br /><br />インド平和記念碑との文字が見られます。

    日本語によるインド平和メモリアルの表示もあります。

    インド平和記念碑との文字が見られます。

  • 白い屏風のような壁には、銘板がつけられています。<br /><br />日本語の文字が確認できます。

    白い屏風のような壁には、銘板がつけられています。

    日本語の文字が確認できます。

  • インド平和記念碑とあります。<br /><br />その下に、日本政府とインド政府の文字が書かれています。

    インド平和記念碑とあります。

    その下に、日本政府とインド政府の文字が書かれています。

  • インド平和記念碑<br />平成6年3月25日<br />日本政府、 協力 インド国政府とあります。<br />

    インド平和記念碑
    平成6年3月25日
    日本政府、 協力 インド国政府とあります。

  • インパール市内には、民間団体の記念館があります。<br /><br />遺品等、多くの記念品が集められています。

    インパール市内には、民間団体の記念館があります。

    遺品等、多くの記念品が集められています。

  • 戦争当時の記念品の他、平和活動を記録する写真等が展示されています。<br /><br />多くの展示物には、驚かされます。

    戦争当時の記念品の他、平和活動を記録する写真等が展示されています。

    多くの展示物には、驚かされます。

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