2024/04/17 - 2024/04/18
1位(同エリア266件中)
たびたびさん
- たびたびさんTOP
- 旅行記841冊
- クチコミ41162件
- Q&A回答431件
- 6,769,398アクセス
- フォロワー687人
この旅行記スケジュールを元に
”以前から気になっていたことをいくつか寄せ詰めたらこうなったという旅”の第二段。最後の四・五日目は、観心寺の「如意輪観音」と葛井寺の「千手観音」に叡福寺の「聖徳太子御廟」と「推古天皇陵」を二日間で回ります。
ただ、二日間の全てに触れると長くなるので仏像巡りのところだけ紹介して、イントロの旅行記の概要としたいと思います。なお、仏像巡りは、観心寺の「如意輪観音」と葛井寺の「千手観音」だけのつもりでしたが、調べると観心寺と同じエリアの河内長野に天野山金剛寺というなにやらメジャーなお寺があって、ちょうど金堂三尊の公開日が重なっていまして。時間的に回れそうなので、ここも加えてみました。
観心寺は、毎年、4月17・18日が如意輪観音の御開帳。確かに有名は有名なんですが、そんなワンポイントみたいな日程に合わせて見るほどのことなのかなあ?価値としては楠木正成の菩提寺ということだし、紅葉の時期に訪ねたことがありますしね。如意輪観音については寺の目玉であることはわかりますが、なかなか決断ができなかったという次第です。
9時半の開門前からそこそこ行列ができていて、なんと関東方面からの参拝客も何人か。すっかり全国区になっているようで、これにはちょっとびっくりです。さて、如意輪観音の方ですが、なるほどこれは文句なく素晴らしいのひと言。厨子の奥には、例えは適切ではないかもしれませんが、ワンコみたいなつぶらな瞳でこちらを向く如意輪観音。静かな表情の中にかわいらしさも感じたりして、不思議な感覚。大きさも程よいので、同じ目線で向き合えます。少し説明もありましたが、衆生をどうやって救うのかを考えている風でもあるし、この不思議な透明感はすべてをお見通しという深い安心感も感じさせるものかもしれませんね。大同3年(808年)、弘法大師空海が寺の境内に北斗七星を勧請。弘仁六年(815年) 衆生の除厄のためにこの像を刻まれたという逸話もなかなか。確かにその役割を今も果たし続けているように思います。
続いての天野山金剛寺の金堂三尊(大日如来坐像、脇侍 降三世明王坐像・不動明王坐像 附木造天蓋)。例年、観心寺の如意輪観音の御開帳に合わせて公開されるようですね。そういう意味だと観心寺のおまけという感覚もなくはなかったのですが、大寺としての風格を感じる伽藍はむしろこちらの方が数段上。お目当ての金堂三尊の素晴らしさも目を見張るもので、認識違いを大いに反省しました。
寺の始まりは天平年間。聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝わります。南北朝時代には、観心寺とともに南朝の一大拠点となり、後醍醐天皇の勅願寺。また、その後の後村上天皇、長慶天皇もここを行宮として、足利幕府軍と対峙した歴史はなかなかです。現在の金堂は、多宝塔、食堂、楼門とともに豊臣秀頼の大修理を受けたもの。そして、金堂三尊は平成29年に国宝指定。大日如来坐像は平安時代の作ですが、その他は鎌倉時代。不動明王、天蓋は快慶の弟子、行快の作と伝わり50年の歳月をかけてすべてが揃ったというのですが、なんといっても中央の黄金に輝く大日如来が圧巻。宇宙のすべてを支配するというような自信に満ち溢れたオーラがすごいです。大日如来像は真言宗の元祖である東寺や高野山でも見ているはずなんですが、これを見るとそれらの記憶がすっかり飛んでしまった感じ。観心寺の如意輪観音が静とするとこちらは動かな。負けず劣らずの仏像だと思います。
葛井寺は、藤井寺駅から商店街を抜けて、歩いて10分ほど。百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されました。現在は西国三十三所観音霊場第5番札所。本尊は奈良時代に造られた乾漆の十一面千手千眼観世音菩薩座像(国宝)。毎月18日以外は開扉されない秘仏です。像高は130cm。ちなみに、千手だと一般的には四十二手とされるのですが、こちらは胸前で合掌する2本の手のほか、実際に1039本の脇手が円形にびっしり付いています。ネットとかにもアップされていて、それを見る限りちょっとグロテスクな印象もあったのですが、実際に拝見するとそうではない。おびただしい数の手はあっても、それはあくまで仏像の一部であり脇役。それよりも最初のインパクトは顔立ちで、なんというかとても男前。思わず見入ってしまいました。もちろんオーラもすごくて、マジか~みたいに感じられるこの瑞々しさは脱活乾漆像ならでは。何度でも見たくなるような仏像だと思います。
ちなみに、この十一面千手観世音菩薩は、神亀2年(725年)、聖武天皇が42歳の厄除け祈願のために奉安したというもの。ただ、聖武天皇が活躍した天平時代を代表する仏像はいくつもあってそれぞれとんでもないレベルですからね。東大寺戒壇院の四天王立像、法華堂の日光菩薩・月光菩薩立像、興福寺の阿修羅像(八部衆)などはスーパースター。いくらこの仏像が国宝といっても、さすがにそうした仏像と並ぶものではありませんが、それでもこうしてこの地で聖武天皇への思いをつなげていること。それは間違いなく素晴らしいことだし、十分それに見合う魅力を持った仏像でもあると思います。
以上、これらの仏像巡りは、国宝の十一面観音シリーズと比較するとサプライズの連続。自分でもまだ気が付いていなかった神経を刺激されたような感じかな。これぞ仏像巡りの最高峰と言えるレベルだったと思います。それに、仏像なら奈良・京都に滋賀だとしていた認識にも修正が必要。大阪にもちゃんといいものがあって、今頃そんなことに気が付くようではやっぱりたびたびもまだまだだなあと大いに反省です。
-
千日前のカプセルを出て、朝飯は松屋。千日前道具屋筋商店街の入り口にある昔ながらのうどん屋さんです。朝早くからやっていて、出勤前のサラリーマンとか常連さんがポツポツとやってきます。
-
おじさんが何人かで切り盛りしていて、しばらく見なかったねとかのお客さんとの会話も心地よい。そんなのも含めてしっかり温まるうどん屋さんです。
-
なんば駅から南海高野線で河内長野駅へは30分ほど。河内長野駅から観心寺までは、南海バスで10分ほどです。
既に開門を待っている人が何人かいますけど思ったほどではないですね。ただ、聞くと東京から夜を徹して車で来たという家族がいたりして、関西以外の人が割と多いのはちょっとびっくりですね。 -
待つことしばし。
開門です。なるほどこれは素晴らしい by たびたびさん観心寺 寺・神社・教会
-
みなさん、如意輪観音のある金堂へ。
参道の石段は緩やか。 -
難なく本堂に到着です。
-
ただ、金堂が開くのはまだ。
-
もう少し待ってから入りました。
ところで、受付をした際に第一陣の組となって時間は決まっているのですが、やっぱりここでちゃんと並んで前の方に座れるようにするのがいいと思います。
如意輪観音は、冒頭に書いた通り。いいものを見させてもらいました。 -
あとは境内の散策です。
観心寺の建掛塔は、金堂のすぐ東側。室町時代後期に建てられたもので、国の重要文化財ではあるのですが、茅葺屋根のお堂のような妙な形。 -
なんでも、初重しかない未完成の塔なのだとか。そう聞いても、そんな風には見えないんですけどね。これはこれでちゃんと成り立っていて、存在感は確かにあると思います。
-
後村上天皇檜尾陵は、観心寺の境内から石段の上り口がありました。ただ、けっこう上まで続いている感じ。下から見上げるだけで済ませました。
なお、後村上天皇は、後醍醐天皇の第7皇子で、南朝第2代天皇。ただ、第97代天皇とされたのは明治期に入ってから。なかなか厳しい歴史がありました。
なお、次に回る天野山金剛寺は、5年間、後村上天皇の行宮だったところ。後醍醐天皇は足利尊氏に敗れますが、さりとて南朝がそれで即消滅したわけではない。足利幕府は内紛が続いて一枚岩ではなく、足利尊氏は死ぬまで安定期なんかほとんどなかったのではないかと思います。 -
さらに進んで開山堂。
開山堂をすぎてすぐが -
楠木正成の首塚です。
石の柵で囲われて、けっこうしっかりした構えの一角です。
もともと観心寺の子院中院が楠木家の菩提寺。楠木正成の首級は京でさらされますが、なんとかこうして観心寺に埋葬されたよう。その後、地元で大事にされてきたことが窺えます。 -
金堂に戻って石段を途中まで下りると
-
脇道があって
-
その先が霊宝殿。
楠木正成の肖像画やその他、多くの仏像群。ただ、如意輪観音を見た後だとイマイチ印象には残らないと思います。 -
だんだん人が多くなってきましたが、私はこれで退散です。
-
観心寺ではもうひとつ。
楠木正成像もチェックします。ただ、寺の駐車場の一角にあって、場所的にはあまりいい場所ではないような。像もなんとなく少し古びているように感じました。
これで観心寺は終了です。 -
観心寺からいったん河内長野駅に戻って、金剛寺は別のルートのバスで向かいます。バスの待ち合わせ時間に、バス停そばにあった丹波屋へ。おはぎを買って、ちょっと一服です。
-
金剛寺に到着。
バス停を降りるとすぐに南大門。金堂三尊(大日如来坐像、脇侍 降三世明王坐像・不動明王坐像 附木造天蓋)の特別公開を拝見 by たびたびさん天野山金剛寺 寺・神社・教会
-
南大門から先に進むのですが
この辺りからもう大寺の雰囲気。 -
観心寺のおまけで来ましたけど、
-
この楼門なんかも観心寺よりはるかに立派です。
-
楼門から境内へ。
右手前は食堂。その先、一段高い場所に -
本堂である金堂と
-
イチオシ
多宝塔が向かい合わせ。
-
さらにその先の高い場所には
薬師堂、五仏堂と -
渡り廊下でつながる
-
御影堂。
真言宗御室派の総本山は仁和寺ですが、ここも宮島の大聖院と並ぶ大本山。この伽藍の構えだけでも普通の寺ではないですね。 -
イチオシ
では、金堂へ。
-
金堂三尊(大日如来坐像、脇侍 降三世明王坐像・不動明王坐像 附木造天蓋)は、予想外の迫力。
-
金ぴかの大日如来坐像の圧倒的な存在感を脇侍がしっかり支える組み合わせの妙も秀逸でした。
空海の真言宗は、荘厳でダイナミックな仕掛けも重要な要素ですからね。胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅もそう。大日如来を中心とする世界観なのですが、ただ、そもそも、密教は本当に仏教なのかは疑問です。まあ、仏教もインド哲学とかインドの長い思索の積み重ねから生まれたものであって、密教が仏教ではないにしても、その根っこは重なっていますから、それを論じてもあんまり意味はないかもしれませんけどね。
ところで、最澄が日本にもたらした大乗仏教。すべての人が成仏できるという考え方の偉大さは前回触れましたが、対して空海の功績はなにかというと私は現世利益に向き合ったことだと思います。それを叶えるための加持祈祷はまあ一部として、これによってインド哲学がいう”知と行のバランス”が初めて認識されたことが重要です。比叡山から大衆仏教である鎌倉仏教が生まれたことはその通りなのですが、真の大衆仏教に脱皮するための必須アイテムは行。口称念仏や踊り念仏、題目口唱、座禅は行に相当するものであり、そのヒントを空海の密教は与えてくれたのではないか。鎌倉仏教は、最澄と空海のハイブリッド。それが私の解釈です。 -
楼門を出て、お隣りの摩尼院へ。
-
後村上天皇が5年間(正平9年(1354年)~正平14年(1359年))、行宮とされた子院です。
-
ここも特別公開ですが、建物内は撮影禁止なので、お庭だけ。
-
後村上天皇も眺めた庭かどうかは分かりませんが、
-
まあ、それらしくは感じられます。
-
最後はさらに進んで
-
金剛寺本坊。
摩尼院が南朝、後村上天皇の行宮だった期間(正平9年(1354年)~正平14年(1359年))とほぼだぶって、本坊(観蔵院)は、正平9年(1354年)から正平12年(1357年)まで、北朝、光厳上皇、光明上皇、崇高上皇らが北朝御座所としていたところ。 -
不思議なように感じますが、これは足利幕府の内紛にも起因するもの。尊氏が一時は南朝、後村上天皇に降伏したり、北朝、光厳上皇が南朝に拉致されるとか。この辺りは目まぐるしく局面が変わります。
まあ、天皇の正当性も同じかな。かつては、北朝の光厳、光明、崇高が正統とされていましたが、明治に入ってからは南朝の後村上天皇が正統と認められています。 -
イチオシ
中に入ると日月四季山水図屏風。
これは国宝で、密教の灌頂の儀式に用いられたというものです。 -
やまと絵風ですが、大胆な構図はモダンアートのようでもあり、今の感覚で見ても強烈なインパクトがありますね。
-
そのすぐ奥が
-
金剛寺本坊庭園。
-
室町時代に作庭された枯山水庭園。その後桃山時代に阿波国徳島藩主、蜂須賀家政が改修し、江戸時代には雪舟流の家元、谷千柳が改めて改修したと伝わります。
平庭のように十分な広さがあって、 -
築山はありませんが、
その中に立つこのちょっと異様な姿の松がシンボリック。 -
イチオシ
曼殊院の松のように
-
この松が庭全体の景色を締める存在となっています。
-
これが一番上手の方。
ここまで来ると松の影響は受けていませんが、しっかりした石組と苔とか緑のバランスがめちゃめちゃいいですね。 -
イチオシ
改めて、一番下手の方に戻りますと
ほ~
松の存在に気を取られてしまいましたが、やっぱり基本はこの石組ですね。全体のバランスといい -
パーツパーツの出来もしっかりしていて
-
イチオシ
スキというものがないですね。
やっぱり庭の基本は石組なんですが、それも江戸期の趣味もあってか特に平石の美しさが目立っています。 -
そのため穏やかに見えるのですが、隅々まで計算されつくした美がありますね。
特に名勝とかにはなっていないのですが、とても見応えがある庭だと思います。 -
奥殿の方に移動して、ここが北朝御座所だったところ。
襖はとても当時のものではないでしょうが、雅な雰囲気。 -
回り込んで、
-
杉戸の絵も鮮やかで、
-
イチオシ
この奥が
-
上座ですね。
御簾があって、御座所は一段高くなっています。 -
以上で、金剛寺はおしまい。また河内長野駅に戻ります。
-
昼飯は、麺坊 万作。
河内長野駅前のノバティながの南館の二階。レストラン街の一角にある普通のそばやうどんのお店です。このレストラン街では一番繁盛しているお店かなと思います by たびたびさん麺坊 万作 ノバティながの店 グルメ・レストラン
-
私は親子丼ぶりをいただきましたが、普通にきちんとしたおいしさ。
それなりに活気があるし、このレストラン街では一番繁盛しているお店かな。観光客にとっては安心感があるのではないかと思います。 -
ここからは時間も限られるし、せっかくなので、河内長野駅の近場を探索です。
吉年邸のくすのきは、河内長野市の指定天然記念物。樹高約20m、幹囲約4.7m、枝張り約30m。
邸宅の中庭にある楠木で、表の方から見ると母屋の裏手になるのですが、河内長野市の指定天然記念物 by たびたびさん吉年邸のくすのき 名所・史跡
-
側面の通りの坂の下から塀の向こうに立つくすのきを眺めると尋常でないその姿がよく分かります。
-
そのまま進む道は西高野街道。堺から高野山を目指す道です。河内長野駅の辺りで京都府八幡市から高野山を目指す東高野街道と合流し、そこから先は西も東もない高野街道となる。ここは、河内長野の天野酒の前の通り。東高野街道に合流する前の西高野街道です。
-
天野酒にも寄って、ちょっと拝見。
-
こちらは、享保3年(1718年)創業の老舗酒蔵。
ただ、”天野酒”の歴史はもっと古く、室町時代には僧坊酒。女人高野天野山金剛寺由来の古酒と紹介されていました。 -
大阪産料理 天空は、天野酒の向かい側の建物。ここも国の登録文化財の建物で、そこを使って、天野酒の関係がやっているお店です。あいにくお昼はもう食べていたので、ちょこっと中だけ覗かせてもらいました。真ん中を囲むようなカウンターの席。これは素晴らしい雰囲気ですね。こんなところで食事をしたら、たまらないなというお店でした。ランチで3,000円ちょいくらい。値段も手ごろです。
-
さらに歩いて。
-
烏帽子形八幡神社は、楠木七城のひとつ、烏帽子形城の鎮護として社を創祀したのが始まり。
-
その後、荒廃した時期もあったようですが、元和3年(1617年)に楠木一族の後裔、甲斐庄正房が再建したとか。
-
正面から上ると険しい石段ですが、上り切ったらその先にはいい感じで古びた社殿が建っていました。ここも楠木一族にゆかりのある神社です。
-
そこから、もう少し頑張って烏帽子形城跡まで足を延ばします。
-
城は、烏帽子形山に築かれた戦国時代の山城。交通の要衝であった高野街道を抑えるには都合の良い場所だったようで、国の指定史跡。応仁の乱のきっかけのひとつともなった畠山氏の後継者争い。そういった文献にこの城が登場するのだそうで、戦国時代の幕開けを告げる城といった説明がありました。
-
城跡の周辺は、烏帽子形公園。
烏帽子形八幡神社からここまでやってきましたが、やっぱりけっこう距離があるし、上り坂も長いので、河内長野駅から歩ける範囲としてはぎりぎりのところのような気がします。 -
再び、河内長野駅に戻ってきて。
御菓子司 友井堂 ショップ南海店は、駅の自由通路にあるお店。創業120年という地元の老舗の和菓子屋さん。塩豆大福、かしわもちに名物は楠の里とか。商品は割とバラエティに富んでいますね。あんこの味わいがとてもいいと思います。 -
河内長野駅から近鉄南大阪線で、今夜の宿がある大阪阿部野橋駅まで帰ってきました。
ここからは晩飯と翌日の朝飯の調達とか。
まずは、阿倍野筋商店街に向かって、 -
ビアン シュールへ。ネットの情報だと人気のお店のはずでしたが、店構えは意外におとなしいし、店内の感じも普通の感じでした。
-
翌日の朝飯にしたのは、シナモンの風味の付いた甘いチーズ入りのパン。ちょっと複雑系の味わいで、人気店の片りんを少し感じることが出来ました。やっぱり実力のあるお店なのかなと思います。
-
そして、晩飯はアベ地下の人気お好み焼き屋さん、あべとん。行列必至ということだったので、何日か前に予約をしていました。やっぱりこれは正解でしたね。
-
いただいたのは、とろとろチーズおむそば。基本のソース焼きそばがしっかりしているところに、とろとろチーズ。おいしくないわけはないんですが、もんじゃだとチーズ明太子餅とかあって、それと比べるとどうなんでしょうね。もんじゃは出汁のベースがあって、うまみというだけならそっちが上なんでしょうが、対して大阪の味はひねっているようでいて、実はそうでもないさりげなさかもしれません。目の前で調理するパーフォーマンスを見ながら待ちましたが、その雰囲気だけでもけっこう飲まれてしまったような。料理の味だけでなく、とにかく勢いのあるお店です。
-
宿は、スマイルホテル大阪天王寺。天王寺駅から少し歩きますが、大通り沿いだし、分かりやすくて安心感がありました。
なお、部屋は暗証番号で入るタイプ。鍵もカードもないのでちょっと心もとなく感じましたが、まあ、結果はなんということはない。部屋はダブルベッドのタイプで、脇にちゃんとしたテーブルもあったり。意外にゆったりと過ごせました。 -
翌朝、大阪阿部野橋駅から藤井寺駅に向かいます。
堀越神社は、宿から大阪阿部野橋駅に向かう谷町筋沿い。
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として祀ったのが始まり。四天王寺七宮の一つです。 -
谷町筋沿いですから、都会の真ん中みたいなところなんですが、この神社は全体が森のようになっていてこんもり。通りから一段上がると潤いのある境内です。
-
藤井寺駅に到着して、葛井寺に向かいます。
藤井寺一番街商店街は、その途中。シャッター商店街に近いような感じもしますけど、やっぱりそこは葛井寺のお膝元ですからね。それなりに参詣者もやってくるし、そこまで閑散としたものではないですね。この辺だとお店のあるのは藤井寺駅の近くとここの二つくらいです。 -
西門から境内へ。
-
ちょうど藤の花の時期ですね。
-
まだ、御開帳までには時間があるので、境内を散策。
本堂から18日の開帳日に by たびたびさん葛井寺 寺・神社・教会
-
紫雲石灯篭に
-
青銅鳥居。
灯籠ですけど、名前は鳥居。これ如何に? -
南大門は、こちらが正門ですね。
-
では、本堂へ。
-
入り口はこの奥。
-
この扉が入口です。
いやいや、十一面千手観世音菩薩は素晴らしいものでした。想像以上。
冒頭に紹介した通り。何度でも見たくなる気持ちはよく分かります。 -
ヴィクリディタ・サマディきりくは、葛井寺の境内にある喫茶店。
本葛粉を寒天で固めたという、葛井寺の名物の葛もちはここで扱っています。 -
お土産でうちに帰って食べると。。プルプルはしていますが、けっこう固いのでフォークを押し付けて切ろうとしてもなかなか切れない。そういうところは、むしろゼリーの感覚に近いかもしれません。けっこう個性があるひと品でした。
-
葛井寺の御開帳からは併せて、野中寺の弥勒菩薩半跏思惟像と地蔵菩薩立像も訪ねます。野中寺の開帳日も毎月18日。葛井寺とセットで回るのがほぼ定番になっていますからね。
弥勒菩薩半跏思惟像と地蔵菩薩立像を拝見 by たびたびさん野中寺(やちゅうじ) 寺・神社・教会
-
野中寺も久しぶり。
-
赤い仁王門と仁王像を確認して、
-
正面が本堂。
-
御開帳の入り口はその先の建物です。
縁側の方にちょこんと置かれた弥勒菩薩半跏思惟像。天智5年(666)の刻があり、白鳳期初頭の作であることがはっきりしているという貴重な金銅仏。東京国立博物館の法隆寺宝物館にもたくさんの白鳳期金銅仏がありますが、似たようでいてもそれぞれがそれぞれに魅力がありますからね。
こちらの金銅仏は、衣文の文様が大胆で美しい。頭部から宝冠の辺りの作り込みもとても細かくて高い技術が窺われました。なるほど、なるほど。 -
もうひとつの地蔵菩薩立像は金網越しの拝観。衣文の文様が截金かな。かなり煌びやかなデザインですね。ただ、お顔の方はよく見えませんでした。
-
野中寺からはバスで藤井寺駅に帰りまして。
昼飯は、掌。かなり古びた小さな飲食店街の中にあるのですが、その一角の雰囲気とは違って、ちょっと一格上のうどん屋さん。 -
天ぷらうどんをいただきましたが、ぷりぷりのエビやしっかりした塊の野菜などにも天ぷらの高級感を感じるし、小豆島産の醤油にこだわりがあるよう。
ちなみに、お客さんは観光客半分、地元の人半分といった感じです。 -
藤井寺駅から近鉄南大阪線で上ノ太子駅へ。ここが今回の旅の最後の目的地です。
上ノ太子駅そばの”羽曳野市観光協会レンタサイクル上ノ太子駅駐輪場”で電動自転車を借りて出発です。
孝徳天皇大阪磯長稜は、上ノ太子駅からは3キロ弱。ずっと緩やかな上りだし、ここでも歩いてだとちょっと無理がありそうですね。細い峠道のような竹内街道沿いにある集落の端っこ。竹内街道からは少し入ったところです。
ちなみに、孝徳天皇は大化の改新で皇極天皇から譲位を受けて即位した天皇。後の天智天皇である中大兄皇子が堅く辞退したためであり、この時、中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となっています。難波長柄豊碕宮への遷都を行い、大化の改新後の新政が始まりますが、その後、中大兄皇子らと対立。病となって崩御したとされています。 -
大道旧山本家住宅もそのすぐそば。竹内街道沿いにある旧家です。
国登録有形文化財の建物は、瓦の部分と茅葺がツートンみたいになった屋根が特徴的ですね。ただ、内部の公開は、土日、祝日のみですが、外観からでも十分にその歴史的景観は確認できると思います。 -
竹内街道をさらに進んだ竹内街道交流館は、観光案内所と休憩所を兼ねた施設。
-
ただ、中に入ると人がたくさんいて、ここは太子町観光・まちづくり協会の事務所でもあるようですね。ちょっとした地域の紹介ビデオを拝見しながら体を休めました。
-
その先、少し高台に上がったところが竹内街道歴史資料館。けっこう立派な施設です。
-
竹内街道や太子町の歴史に思いを馳せるビデオは、小野妹子や推古天皇が登場して、まさに古代のロマンを感じさせるもの。竹内街道が日本最古の官道である意味も、けっこう納得。隋の力をそれなりに意識したものと考えれば、そんなに軽くはないような気がします。
-
竹内街道から出て。道の駅 近つ飛鳥の里太子は、国道166号線のここを越えると奈良県に入るといった峠のあたり。二上山もすぐそばですね。トラックの行き交いもけっこう多いです。
-
道の駅としては、ちょっと小さい方かな。産直ではみかんやイチゴ、新玉ねぎがちょこっと並んでいるくらいでした。
-
そこから小野妹子の墓へ。ここも、太子町の歴史散策だと外せない場所のひとつですね。小野妹子は、聖徳太子により日本で初めて遣隋使として隋に派遣された人物ですが、さすがに昔過ぎる。たぶん朽ちたようなことになっているのではないかと想像しましたが、さにあらず。小高い丘の上にあって、そこに続く石段とかの構えもなかなかたいしたもの。
-
そこらの古墳よりずっと立派なものでした。
-
推古天皇陵や聖徳太子の廟所も太子町。それらと合わせて大事にされてきたということかなと思います。
-
小野妹子の墓のふもとのにある科長神社は、級長津彦命(しなつひこのみこと)を祀る神社。
-
もともとは二上山上に鎮座し、二上権現と称していたのが、暦仁元年(1238年)に当地へ遷座。式内社で、旧社格は郷社。この地は神功皇后誕生の地という伝承もあるようです。社殿もしっかり。小野妹子の墓とセットで訪ねるべき神社です。
-
少し移動して。推古天皇 磯長山田稜は、太子町の市街南部の丘陵エリア。小高い場所にあって、遠くからでもその美しい姿がよく見えます。推古天皇は、日本史上最初の女帝であり、摂政の聖徳太子と合わせて、飛鳥時代のもっとも安定した時代を築いたという印象が強いですね。
-
スタートは、先帝の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されるという前代未聞の事件なのですが、ここからまったく違った結果を生むことに。ただ、その黄金期は逆に蘇我一族の支えもあってのもの。もしかすると蘇我一族に対しては、少し色眼鏡を取って考える必要もあるかと思います。
-
推古天皇陵から近つ飛鳥風土記の丘に回りましたが、これが思ったよりもずっと遠い。意外に遠くて、ちょっとへばりました。
-
飛鳥風土記の丘のメイン施設は大阪府立近つ飛鳥博物館。
ここは、河内飛鳥、別名、近つ飛鳥の真ん中。近つ飛鳥では、特に磯長谷には敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵、聖徳太子廟があって王陵の谷とも言われているとか。本家の飛鳥とはまた違う古代のロマンが香ります。 -
最初の「倭の五王と渡来文化」では、
-
倭の五王の時代、5世紀の頃に朝鮮半島や中国大陸からもたらされた文化が咀嚼され、6世紀になって結実。その成果が横穴式石室など近つ飛鳥の遺跡に現れているという説明でした。
倭の五王は宋書に記された時代で5世紀。ヤマト政権の誕生ははっきりはしませんが、その前で4世紀のことと推定するのが自然です。日本に発生したヤマト政権は、邪馬台国のような大きなクニが進化したものと考えられていて、そうであるならば渡来文化を積極的に取り入れたことがヤマト政権につながるとも思えます。しかし、私はちょっと疑問。邪馬台国のような弥生時代のクニとヤマト政権は質的な違いは大きすぎて、文化を取り入れるといったレベルではないように感じます。やはり、そこには文化が伝わったことと合わせて、人の移動があったと考える方が納得感がある。縄文時代が弥生時代に移行したのは弥生人の流入。弥生時代が古墳時代に移行したのも古墳人の流入。古墳人の流入の中にヤマト政権につながる一族が含まれていたのではないかというのがすっきりかな。その立場に立つと渡来文化はむしろ自分たちが持ち込んだ文化。それをベースにさらに渡来文化を取り入れていくということになって、まったく違う風景になってしまう。つまり、ヤマト政権を作った人々といわゆる渡来人は、単に渡来した時代が少しずれているだけ。古代の日本列島では絶え間なく、いろんな人々の流入があって、その中で時代が進んで行ったのではないか。「倭の五王と渡来文化」のように二つを対比させるような関係ではなかったのではないかというのが私の解釈です。 -
続いては、「仏教文化の開花」
-
寺院の瓦の文様が美しい。
-
「文字の時代」は
-
土器や陶片に書かれたもの。
この辺りからの文化の進歩はめざましいものがあると思います。 -
そして、大きな空間を使った古墳時代の展示は
-
イチオシ
様々な装飾やデザインの
-
巨大埴輪。
-
石棺に
-
巨石を運んだと思われる木そりも興味深いものですね。
古代のロマンが詰まっている近つ飛鳥。弥生時代から古墳時代にかけては、大陸からの人々の流入によって次々と新たな技術や文化が展開する。そうしたダイナミックな解釈が普通になる日が来てほしいなと思います。
ちなみに、現代人が縄文人から受け継いだDNAは1割ほど。これは弥生時代以降、いかに多くの弥生人または渡来人の流入があったかを物語る一つの証拠。結局、渡来人がどうとかそういうことではない。そもそも自分が渡来人なのですから。 -
近つ飛鳥博物館から叡福寺のエリアまで戻ってきました。
まずは、西方院。推古天皇30年(622年)、聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女が叡福寺の門前に創建した塔頭と伝わる寺。寺号は法楽寺だったとか。 -
日本最古の尼寺ということもあって、山門を入ってすぐの境内は美しい庭。
-
そして、叡福寺に向かう細い通りは、いったん下ってそこから叡福寺への石段に続くという一直線の構造。この寺と叡福寺の関係の深さを如実に表しているような気がします。
-
そして、いよいよ最後は叡福寺。聖徳太子御廟を守護する寺であり、聖徳太子は、生前、この地を自らの墓所とするよう定めたと伝わります。
-
石段を上がって二天門から
-
境内に入るとすっきりとして、広々とした眺め。
-
本堂である浄土堂と鐘楼が建っていても、一段高い場所にある聖徳太子御廟の視界を遮るものとはなっていないし、爽やかな風が通り過ぎていくような気分です。やはり中心は聖徳太子御廟であるという強いコンセプトが表れているように感じます。
-
聖徳太子御廟は、叡福寺の一番奥の一段高い場所。
-
この門のように見えるのは、たぶん割拝殿。
-
割拝殿を抜けたところが御廟です。
-
イチオシ
御廟が三骨一廟とも呼ばれるのは、聖徳太子、太子の母である穴穂部間人皇女、太子の妃である膳部菩岐々美郎女の三人が埋葬されているから。穴穂部間人皇女の前に聖徳太子と太子の妃が並ぶ廟窟内の図もありました。
-
聖徳太子は仏教を受け入れたというだけではなく、後世は聖徳太子そのものが信仰の対象となっていったのですが、ここではそうした匂いはほとんどない。静かに眠っているといった雰囲気だけがあって、とても爽やかです。
-
上ノ太子駅から阿部野橋駅に戻ってきて、ここで晩飯。
たこつぼは、阿部野橋商店街からわき道へ少し入ったところにある明石焼きのお店。ちょっと予想外でしたが、全面ガラス張りの明るい店構え。 -
明石焼きは始めはまあ普通かなと思いましたが、食べ進むにつれて、このふわふわ感と出汁の素直な味わいがだんだん染みてくるような感じ。なんか名店の匂いがする味わいでした。
-
嶋屋も阿部野橋筋商店街の名物店。三嶋焼と書かれた白い大きな提灯が目印です。
これぞまさに芋のスイーツですね by たびたびさん嶋屋 本店 グルメ・レストラン
-
イチオシ
看板商品のあべのポテトをお土産にします。
ざっくり言うと大学芋のようですが、油で揚げていても固い部分はなくて、全体にしっとり柔らかい仕上がり。蜜の甘さを十分に吸っていて、これぞまさに芋のスイーツですね。賞味期限はその日中となっているので、お土産にするにはちょっと注意が必要です。
これで、五日間の旅は終了。お疲れさまでした。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
もっと見る
河内長野(大阪) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
147