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今回は、東京メトロ・日比谷線の神谷町駅周辺を訪れる機会があり、久しぶりに足を伸ばして増上寺を参拝しながら、江戸時代に徳川将軍家の菩提寺として栄えたかつての増上寺・境内であり、1873年(明治6年)に国内初の公園として指定された広大な芝公園エリアを散策して廻りました。<br />先ずは、東京タワー通りから増上寺境内北側の通用口から増上寺境内に入り、徳川家墓所(拝観冥加料500円)に向かいました。<br />増上寺境内の北西側エリアの一画に位置するコンパクトにまとまっている徳川家墓所内は、樹木に覆われ都会にいながらがら雑踏を感じさせない静寂な空間となっており、空を見上げると間近に望むことができる近代的な東京タワーとは対照的に江戸時代の徳川将軍をはじめとする歴史上の人物が埋葬されている宝塔および燈篭などを眺めていると時空間をさまよっているような不思議な気分になりました。<br />続いて増上寺の本堂である大殿を参拝し、大殿とその背後に位置する東京タワーなどを写真撮影しながら楽しむことができました。<br />その後は、江戸時代初期の1622年(元和8年)に建立された重要文化財の増上寺の中門である三解脱門から、日比谷通り(都道409号)を南側方向に移動して、港区立芝公園内を通り抜けるようにさらに南側方向に位置する芝東照宮の参拝に向かいました。<br />港区立芝公園は、東京タワーを望むことのできる芝生広場を中心とした開放的な公園で小さな子供連れ家族のピクニックなどにお薦めできる公園です。<br />ちなみに国内初の公園として開園した現在の芝公園は、都立芝公園・港区立芝公園・プリンス芝公園で構成されています。<br />芝東照宮は、徳川家康の命で彫刻されたと伝わる自身の等身大・木造坐像となる”寿像”(木造徳川家康坐像)を御神体として祀る神社で、全国各地に鎮座する東照宮における四大東照宮のひとつに数えられており、樹木に囲われたコンパクトな境内には徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が植樹したと伝わる御神木の大イチョウなどの見所もあります。<br />芝東照宮の大鳥居から再び日比谷通りを南側方向に移動して、都立芝公園(芝公園1号地)の梅園を通り抜けて芝丸山古墳エリアを散策して廻りながら墳丘の遊歩道からプリンス芝公園に向かいました。<br />芝丸山古墳は、4世紀後半から5世紀後半ごろに築造されたと推測される都内最大規模の前方後円墳です。<br />樹木に覆われているので古墳の全景は、見た目では分かりませんが墳丘には遊歩道が整備され古墳内に立ち入ることができます。<br />また芝丸山古墳エリアには、紀元前となる縄文時代と推測される丸山貝塚も確認されており、墳丘の遊歩道を歩きながらこの地で古代の人々がどのような暮らしをしていたのか想像して楽しむことができました。<br />そのほか墳丘の頂部に伊能忠敬測地遺功表などの記念碑もあり、さまざまな時代の日本史について考え学ぶことのできるエリアです。<br />プリンス芝公園は、”ザ・プリンス パークタワー東京”の会議・宴会場施設上部となるホテル2階レベルの人工地盤上に芝生広場を中心とするホテル敷地内に整備された公園施設であり、墳丘の遊歩道からも自由に出入りできます。<br />プリンス芝公園からは、東京タワーの全景を望むことができるので、東京タワーの撮影スポットとしてお勧めできます。<br />プリンス芝公園で東京タワーの写真撮影をしたあとは、日比谷通り側の出入口となる徳川家霊廟(徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠の霊廟)の建造物である台徳院霊廟惣門から日比谷通りを北側方向に移動し、同じく徳川家霊廟(徳川幕府・第7代将軍:徳川家継の霊廟)の建造物である有章院霊廟二天門および江戸時代の増上寺境内の北側通用口であった御成門の写真撮影をして今回の街歩きを終了しました。

芝公園エリアを街歩き

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2022/11/15 - 2022/11/15

589位(同エリア942件中)

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hiroさん

この旅行記のスケジュール

2022/11/15

この旅行記スケジュールを元に

今回は、東京メトロ・日比谷線の神谷町駅周辺を訪れる機会があり、久しぶりに足を伸ばして増上寺を参拝しながら、江戸時代に徳川将軍家の菩提寺として栄えたかつての増上寺・境内であり、1873年(明治6年)に国内初の公園として指定された広大な芝公園エリアを散策して廻りました。
先ずは、東京タワー通りから増上寺境内北側の通用口から増上寺境内に入り、徳川家墓所(拝観冥加料500円)に向かいました。
増上寺境内の北西側エリアの一画に位置するコンパクトにまとまっている徳川家墓所内は、樹木に覆われ都会にいながらがら雑踏を感じさせない静寂な空間となっており、空を見上げると間近に望むことができる近代的な東京タワーとは対照的に江戸時代の徳川将軍をはじめとする歴史上の人物が埋葬されている宝塔および燈篭などを眺めていると時空間をさまよっているような不思議な気分になりました。
続いて増上寺の本堂である大殿を参拝し、大殿とその背後に位置する東京タワーなどを写真撮影しながら楽しむことができました。
その後は、江戸時代初期の1622年(元和8年)に建立された重要文化財の増上寺の中門である三解脱門から、日比谷通り(都道409号)を南側方向に移動して、港区立芝公園内を通り抜けるようにさらに南側方向に位置する芝東照宮の参拝に向かいました。
港区立芝公園は、東京タワーを望むことのできる芝生広場を中心とした開放的な公園で小さな子供連れ家族のピクニックなどにお薦めできる公園です。
ちなみに国内初の公園として開園した現在の芝公園は、都立芝公園・港区立芝公園・プリンス芝公園で構成されています。
芝東照宮は、徳川家康の命で彫刻されたと伝わる自身の等身大・木造坐像となる”寿像”(木造徳川家康坐像)を御神体として祀る神社で、全国各地に鎮座する東照宮における四大東照宮のひとつに数えられており、樹木に囲われたコンパクトな境内には徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が植樹したと伝わる御神木の大イチョウなどの見所もあります。
芝東照宮の大鳥居から再び日比谷通りを南側方向に移動して、都立芝公園(芝公園1号地)の梅園を通り抜けて芝丸山古墳エリアを散策して廻りながら墳丘の遊歩道からプリンス芝公園に向かいました。
芝丸山古墳は、4世紀後半から5世紀後半ごろに築造されたと推測される都内最大規模の前方後円墳です。
樹木に覆われているので古墳の全景は、見た目では分かりませんが墳丘には遊歩道が整備され古墳内に立ち入ることができます。
また芝丸山古墳エリアには、紀元前となる縄文時代と推測される丸山貝塚も確認されており、墳丘の遊歩道を歩きながらこの地で古代の人々がどのような暮らしをしていたのか想像して楽しむことができました。
そのほか墳丘の頂部に伊能忠敬測地遺功表などの記念碑もあり、さまざまな時代の日本史について考え学ぶことのできるエリアです。
プリンス芝公園は、”ザ・プリンス パークタワー東京”の会議・宴会場施設上部となるホテル2階レベルの人工地盤上に芝生広場を中心とするホテル敷地内に整備された公園施設であり、墳丘の遊歩道からも自由に出入りできます。
プリンス芝公園からは、東京タワーの全景を望むことができるので、東京タワーの撮影スポットとしてお勧めできます。
プリンス芝公園で東京タワーの写真撮影をしたあとは、日比谷通り側の出入口となる徳川家霊廟(徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠の霊廟)の建造物である台徳院霊廟惣門から日比谷通りを北側方向に移動し、同じく徳川家霊廟(徳川幕府・第7代将軍:徳川家継の霊廟)の建造物である有章院霊廟二天門および江戸時代の増上寺境内の北側通用口であった御成門の写真撮影をして今回の街歩きを終了しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
その他
  • 写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)<br />「徳川家墓所」は、かつて徳川家の菩提寺として徳川幕府が開かれた1603年(慶長8年)から1867年(慶応3年)に政権を返上するまで264年間にわたり続いた江戸時代において、徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄した当時の「増上寺」境内の大殿(本堂)を取り囲むようにその両側および裏手に壮麗な「徳川家霊廟」が建立されており、徳川幕府15代におよぶ歴代将軍の中で6名の将軍をはじめ歴代将軍の正室5名および側室5名、さらに歴代将軍の子女など合計38名が埋葬されていました。<br />しかしながら1945年(昭和20年)になると太平洋戦争末期の東京大空襲により、「増上寺」境内の大殿(本堂)をはじめ「徳川家霊廟」も大部分を焼失し、広大な境内に造営されていた「徳川家霊廟」をコンパクトに整備する「徳川家墓所」の改葬工事とあわせて文化財保護委員会が中心となった発掘調査が1958年(昭和33年)から実施されており、「増上寺」境内の「徳川家霊廟」各所に土葬されていた遺体を荼毘にふし、現在における「増上寺」境内の大殿(本堂)裏手となる北西側の一画に整備された「徳川家墓所」の宝塔に改葬されています。

    写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)
    「徳川家墓所」は、かつて徳川家の菩提寺として徳川幕府が開かれた1603年(慶長8年)から1867年(慶応3年)に政権を返上するまで264年間にわたり続いた江戸時代において、徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄した当時の「増上寺」境内の大殿(本堂)を取り囲むようにその両側および裏手に壮麗な「徳川家霊廟」が建立されており、徳川幕府15代におよぶ歴代将軍の中で6名の将軍をはじめ歴代将軍の正室5名および側室5名、さらに歴代将軍の子女など合計38名が埋葬されていました。
    しかしながら1945年(昭和20年)になると太平洋戦争末期の東京大空襲により、「増上寺」境内の大殿(本堂)をはじめ「徳川家霊廟」も大部分を焼失し、広大な境内に造営されていた「徳川家霊廟」をコンパクトに整備する「徳川家墓所」の改葬工事とあわせて文化財保護委員会が中心となった発掘調査が1958年(昭和33年)から実施されており、「増上寺」境内の「徳川家霊廟」各所に土葬されていた遺体を荼毘にふし、現在における「増上寺」境内の大殿(本堂)裏手となる北西側の一画に整備された「徳川家墓所」の宝塔に改葬されています。

    徳川家墓所 (徳川家霊廟) 名所・史跡

    歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています! by hiroさん
  • 写真:徳川家墓所・鋳抜門 (徳川家霊廟)<br />現在の「徳川家墓所」正門となる鋳抜門(銅造・鋳造製)は、1713年(正徳3年)に建立された第6代将軍:徳川家宣(諡号:文昭院)の文昭院霊廟・奥院にあった中門であり、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されていました。<br />その後の文化財保護法施行にともない国宝から重要文化財となりますが、「徳川家墓所」の改葬工事により鋳抜門を文昭院霊廟・奥院が建立されていた現在の”東京プリンスホテル”の敷地内から現在地に移設されたことで重要文化財の指定を解除されています。

    写真:徳川家墓所・鋳抜門 (徳川家霊廟)
    現在の「徳川家墓所」正門となる鋳抜門(銅造・鋳造製)は、1713年(正徳3年)に建立された第6代将軍:徳川家宣(諡号:文昭院)の文昭院霊廟・奥院にあった中門であり、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されていました。
    その後の文化財保護法施行にともない国宝から重要文化財となりますが、「徳川家墓所」の改葬工事により鋳抜門を文昭院霊廟・奥院が建立されていた現在の”東京プリンスホテル”の敷地内から現在地に移設されたことで重要文化財の指定を解除されています。

    徳川家墓所 (徳川家霊廟) 名所・史跡

    歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています! by hiroさん
  • 写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)<br />「徳川家墓所」内には、第2代将軍:秀忠(諡号:台徳院)、第6代将軍:家宣(諡号:文昭院)、第7代将軍:家継(諡号:有章院)、第9代将軍:家重(諡号:惇信院)、第12代将軍:家慶(諡号:惇信院)、第14代将軍:家茂(諡号:昭徳院)の歴代将軍6名および第3代将軍:家光の三男で第6代将軍:家宣の父親でもある甲府徳川家の綱重(諡号:清揚院)をはじめ第2代将軍・正室:崇源院(織田信長の妹・市の三女/第3代将軍の生母:江)、第6代将軍・正室:天英院(公家・近衛家の子女)、第11代将軍・正室:広大院(薩摩藩主・第8代:島津重豪の子女)、第13代将軍・正室:天親院(公家・鷹司家の子女)、第14代将軍・正室:静寛院(仁孝天皇の第8皇女:和宮)の歴代将軍・正室5名、さらに第3代将軍・側室:桂昌院(第5代将軍の生母:玉)、第6代将軍・側室:月光院(第7代将軍の生母:左京の局)、第11代将軍・側室:契真院(幕臣の子女:満)、第12代将軍・側室:見光院(幕臣の養女:金)、第12代将軍・側室:殊妙院(幕臣の子女:筆)の歴代将軍・側室:5名、そのほかに歴代将軍の子女21名が埋葬されています。

    写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)
    「徳川家墓所」内には、第2代将軍:秀忠(諡号:台徳院)、第6代将軍:家宣(諡号:文昭院)、第7代将軍:家継(諡号:有章院)、第9代将軍:家重(諡号:惇信院)、第12代将軍:家慶(諡号:惇信院)、第14代将軍:家茂(諡号:昭徳院)の歴代将軍6名および第3代将軍:家光の三男で第6代将軍:家宣の父親でもある甲府徳川家の綱重(諡号:清揚院)をはじめ第2代将軍・正室:崇源院(織田信長の妹・市の三女/第3代将軍の生母:江)、第6代将軍・正室:天英院(公家・近衛家の子女)、第11代将軍・正室:広大院(薩摩藩主・第8代:島津重豪の子女)、第13代将軍・正室:天親院(公家・鷹司家の子女)、第14代将軍・正室:静寛院(仁孝天皇の第8皇女:和宮)の歴代将軍・正室5名、さらに第3代将軍・側室:桂昌院(第5代将軍の生母:玉)、第6代将軍・側室:月光院(第7代将軍の生母:左京の局)、第11代将軍・側室:契真院(幕臣の子女:満)、第12代将軍・側室:見光院(幕臣の養女:金)、第12代将軍・側室:殊妙院(幕臣の子女:筆)の歴代将軍・側室:5名、そのほかに歴代将軍の子女21名が埋葬されています。

    徳川家墓所 (徳川家霊廟) 名所・史跡

    歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています! by hiroさん
  • 写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)<br />江戸時代の「徳川家霊廟」は、現在の「増上寺」の大殿(本堂)南側に位置する”港区立芝公園”および”ザ・プリンス パークタワー東京”から大殿(本堂)北側に位置する”東京プリンスホテル”の敷地を含む広大な境内に歴代将軍を中心とした霊廟および宝塔などが建立されていましたが、太平洋戦争末期の東京大空襲で被災したのちに改葬整備された現在の「徳川家墓所」は、焼失を免れた鋳抜門(銅造・鋳造製)を正門とした塀で囲まれたコンパクトなスペースの中に宝塔および燈篭が配置されています。<br />ちななみに「徳川家墓所」エリアは、拝観冥加料500円(高校生以下無料)です。

    写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)
    江戸時代の「徳川家霊廟」は、現在の「増上寺」の大殿(本堂)南側に位置する”港区立芝公園”および”ザ・プリンス パークタワー東京”から大殿(本堂)北側に位置する”東京プリンスホテル”の敷地を含む広大な境内に歴代将軍を中心とした霊廟および宝塔などが建立されていましたが、太平洋戦争末期の東京大空襲で被災したのちに改葬整備された現在の「徳川家墓所」は、焼失を免れた鋳抜門(銅造・鋳造製)を正門とした塀で囲まれたコンパクトなスペースの中に宝塔および燈篭が配置されています。
    ちななみに「徳川家墓所」エリアは、拝観冥加料500円(高校生以下無料)です。

    徳川家墓所 (徳川家霊廟) 名所・史跡

    歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています! by hiroさん
  • 写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)<br />「徳川家墓所」エリアからは、空を見上げると東京タワーを間近に望むことができる都会の真中に位置しますが、「徳川家墓所」の周囲が樹木で覆われており都会にいながら雑踏を感じさせない静寂な空間となっています。

    写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)
    「徳川家墓所」エリアからは、空を見上げると東京タワーを間近に望むことができる都会の真中に位置しますが、「徳川家墓所」の周囲が樹木で覆われており都会にいながら雑踏を感じさせない静寂な空間となっています。

    徳川家墓所 (徳川家霊廟) 名所・史跡

    歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています! by hiroさん
  • 写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)<br />「徳川家墓所」エリア内に設置されている案内板により、徳川家の菩提寺として徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄してきた江戸時代から明治期の「増上寺」境内の様子をうかがい知ることができます。

    写真:徳川家墓所 (徳川家霊廟)
    「徳川家墓所」エリア内に設置されている案内板により、徳川家の菩提寺として徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄してきた江戸時代から明治期の「増上寺」境内の様子をうかがい知ることができます。

    徳川家墓所 (徳川家霊廟) 名所・史跡

    歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています! by hiroさん
  • 写真:増上寺・大殿(本堂外観)<br />「増上寺」は、京都市東山区にある浄土宗の総本山・知恩院(正式名称:華頂山知恩教院大谷寺)に次ぐ七大本山(増上寺・光明寺・善光寺大本願・金戒光明寺・知恩寺・浄苑華院・善導寺)のひとつに数えられる本尊に”木造阿弥陀如来坐像”を祀る三縁山(山号)および広度院(院号)と称する港区芝公園4丁目に位置する格式の高い寺院です。<br />ちなみに「増上寺」の創建については、室町幕府第3代将軍:足利義満の時代であり57年間にわたり続いた南北朝時代が終結し南北朝合一となった翌年の1393年(明徳4年)に武蔵国豊嶋郡貝塚(現:千代田区平河町・麹町付近)にあった真言宗・光明寺を浄土宗第8祖:聖聰上人が関東における浄土宗の道場「増上寺」として改宗し復興したことがはじまりとされています。<br />その後の1590年(天正18年)になると徳川家康が領地替えにより江戸に入府する際に当時の「増上寺」法主12世:存応上人と出会ったことが縁で「増上寺」が徳川家の菩提寺となり、徳川家康の計らいで創建当時の地から日比谷の地に遷座したのち、さらに江戸城の拡張にともない1598年(慶長3年)に現在地に遷座してから明治維新までの期間にわたり徳川将軍家の手厚い保護のもと最盛期には3千人もの修行僧を率いる大寺院として繁栄しています。<br />江戸時代における最盛期の「増上寺」は、現在の港区芝公園2丁目に位置する大門を総門としていた広大な境内に120以上もの堂宇が存在していますが、明治時代以降になるとそのほとんどの建造物を度重なる火災および太平洋戦時下の東京大空襲による戦災で焼失しています。

    写真:増上寺・大殿(本堂外観)
    「増上寺」は、京都市東山区にある浄土宗の総本山・知恩院(正式名称:華頂山知恩教院大谷寺)に次ぐ七大本山(増上寺・光明寺・善光寺大本願・金戒光明寺・知恩寺・浄苑華院・善導寺)のひとつに数えられる本尊に”木造阿弥陀如来坐像”を祀る三縁山(山号)および広度院(院号)と称する港区芝公園4丁目に位置する格式の高い寺院です。
    ちなみに「増上寺」の創建については、室町幕府第3代将軍:足利義満の時代であり57年間にわたり続いた南北朝時代が終結し南北朝合一となった翌年の1393年(明徳4年)に武蔵国豊嶋郡貝塚(現:千代田区平河町・麹町付近)にあった真言宗・光明寺を浄土宗第8祖:聖聰上人が関東における浄土宗の道場「増上寺」として改宗し復興したことがはじまりとされています。
    その後の1590年(天正18年)になると徳川家康が領地替えにより江戸に入府する際に当時の「増上寺」法主12世:存応上人と出会ったことが縁で「増上寺」が徳川家の菩提寺となり、徳川家康の計らいで創建当時の地から日比谷の地に遷座したのち、さらに江戸城の拡張にともない1598年(慶長3年)に現在地に遷座してから明治維新までの期間にわたり徳川将軍家の手厚い保護のもと最盛期には3千人もの修行僧を率いる大寺院として繁栄しています。
    江戸時代における最盛期の「増上寺」は、現在の港区芝公園2丁目に位置する大門を総門としていた広大な境内に120以上もの堂宇が存在していますが、明治時代以降になるとそのほとんどの建造物を度重なる火災および太平洋戦時下の東京大空襲による戦災で焼失しています。

    増上寺 寺・神社・教会

  • 写真:増上寺・大殿(本堂外観・東京タワー)<br />「増上寺」の本堂となる大殿は、江戸時代に浄土宗の総本山である知恩院の本堂・御影堂(国宝指定:2002年)をしのぐ豪華な規模の造りでしたが、明治時代になると当時の政策による神仏分離令を発端とする廃仏運動の中で放火が原因となり1873年(明治6年)に焼失、さらに1909年(明治42年)にも「増上寺」境内で発生した大規模火災に見舞われ焼失、その後の1922年(大正11年)に数多くの寺社建築の設計を手掛けた建築家:伊東忠太氏の設計により再建されたものの太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に東京大空襲により再び焼失しています。<br />現在の建物は、1974年(昭和49年)に鉄骨鉄筋コンクリート造り(地上3階・地下2階)として再建された建造物となります。

    写真:増上寺・大殿(本堂外観・東京タワー)
    「増上寺」の本堂となる大殿は、江戸時代に浄土宗の総本山である知恩院の本堂・御影堂(国宝指定:2002年)をしのぐ豪華な規模の造りでしたが、明治時代になると当時の政策による神仏分離令を発端とする廃仏運動の中で放火が原因となり1873年(明治6年)に焼失、さらに1909年(明治42年)にも「増上寺」境内で発生した大規模火災に見舞われ焼失、その後の1922年(大正11年)に数多くの寺社建築の設計を手掛けた建築家:伊東忠太氏の設計により再建されたものの太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に東京大空襲により再び焼失しています。
    現在の建物は、1974年(昭和49年)に鉄骨鉄筋コンクリート造り(地上3階・地下2階)として再建された建造物となります。

    増上寺 寺・神社・教会

  • 写真:増上寺・大殿(本堂外観・東京タワー)<br />「増上寺」が徳川家の菩提寺となるエピソードについては、徳川家康が領地替えにより駿河国・駿府城(現:静岡市葵区)から新たな居城となる江戸城に向かう徳川家康ならびにその家臣団の一行を見物するため大勢の江戸庶民が群がる中で徳川家康の乗った馬が当時の「増上寺」(現:千代田区平河町・麹町付近)門前で足を止めて動かなくなり、門前に立っていた存応上人と徳川家康が初めて対面しています。<br />馬が動こうとしないため徳川家康の一行が「増上寺」で休憩したのち、徳川家康が”明朝にひとりで参詣し斎をともにしたい”と存応上人に告げて立ち去ると約束通りに翌朝「増上寺」を訪れた徳川家康が”先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸の地に移った自分が大将の身分で菩提所がないのは死を忘れるのと同じであるので増上寺を菩提所としたい”と存応上人に頼み込み、意気投合した存応上人が徳川家康と阿彌陀仏との縁を結ばせる十念を授けたと伝えられています。

    写真:増上寺・大殿(本堂外観・東京タワー)
    「増上寺」が徳川家の菩提寺となるエピソードについては、徳川家康が領地替えにより駿河国・駿府城(現:静岡市葵区)から新たな居城となる江戸城に向かう徳川家康ならびにその家臣団の一行を見物するため大勢の江戸庶民が群がる中で徳川家康の乗った馬が当時の「増上寺」(現:千代田区平河町・麹町付近)門前で足を止めて動かなくなり、門前に立っていた存応上人と徳川家康が初めて対面しています。
    馬が動こうとしないため徳川家康の一行が「増上寺」で休憩したのち、徳川家康が”明朝にひとりで参詣し斎をともにしたい”と存応上人に告げて立ち去ると約束通りに翌朝「増上寺」を訪れた徳川家康が”先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸の地に移った自分が大将の身分で菩提所がないのは死を忘れるのと同じであるので増上寺を菩提所としたい”と存応上人に頼み込み、意気投合した存応上人が徳川家康と阿彌陀仏との縁を結ばせる十念を授けたと伝えられています。

    増上寺 寺・神社・教会

  • 写真:増上寺・大殿(本堂内観・本尊:木造阿弥陀如来坐像)<br />1974年(昭和49年)に再建された「増上寺」の大殿(本堂)には、大殿の本尊として室町時代の制作と伝わる”木造阿弥陀如来坐像”(像高:約80センチメートル・寄木造・金箔押・漆箔)が安置されており、本尊の左側に浄土宗の開祖である法然上人の像、さらに本尊の右側には中国の高僧・善導大師を祀る祭壇が安置されています。<br />この大殿の本尊”木造阿弥陀如来坐像”は、江戸時代後期の皇族で知恩院宮門跡を務めていた尊超法親王が念持仏として崇拝していたとされる仏像で、1909年(明治42年)に「増上寺」境内で発生した大規模火災により旧大殿が焼失した際に総本山・知恩院より寄進されており、1971年(昭和46年)に東京都重宝に指定されたのち、条例改正に伴い1976年(昭和51年)に東京都有形文化財(彫刻)に指定されています。<br />また大殿・本尊”木造阿弥陀如来坐像”のほかに「増上寺」には、平安時代中期の天台宗の僧侶であり”念仏の始祖”として日本の七高僧のひとりとされる恵心僧都:源信上人の制作とも伝えられ、現在は秘仏とされる”阿弥陀如来立像”(通称:黒本尊)が本堂である大殿の脇に建つ安国殿に安置されてます。<br />「増上寺」秘仏の黒本尊”阿弥陀如来立像”は、もともと室町時代後期まで三河国・岡崎城から南西方向に3キロメートル程度の場所に位置する当時の明眼寺(現:妙源寺、愛知県岡崎市大和町)の”明眼如来”と称する本尊であり、桶狭間の戦いから4年後となる1564年(永禄7年)に岡崎城主であった松平家康(のちの徳川家康)の念持仏となり、その後の徳川家康が生涯にわたり数々の戦場に出陣する際に奉持して崇拝したとされる勝運・災難除けの霊験あらたかな仏像として伝えられています。<br />ちなみに黒本尊と称される由来は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいることに加えて源九郎義経の守り本尊であったことから”九郎本尊”と呼ばれていた説などが伝えられています。<br />また黒本尊が安置されている安国殿の名称は、徳川家康の法名”安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士”によるものです。

    写真:増上寺・大殿(本堂内観・本尊:木造阿弥陀如来坐像)
    1974年(昭和49年)に再建された「増上寺」の大殿(本堂)には、大殿の本尊として室町時代の制作と伝わる”木造阿弥陀如来坐像”(像高:約80センチメートル・寄木造・金箔押・漆箔)が安置されており、本尊の左側に浄土宗の開祖である法然上人の像、さらに本尊の右側には中国の高僧・善導大師を祀る祭壇が安置されています。
    この大殿の本尊”木造阿弥陀如来坐像”は、江戸時代後期の皇族で知恩院宮門跡を務めていた尊超法親王が念持仏として崇拝していたとされる仏像で、1909年(明治42年)に「増上寺」境内で発生した大規模火災により旧大殿が焼失した際に総本山・知恩院より寄進されており、1971年(昭和46年)に東京都重宝に指定されたのち、条例改正に伴い1976年(昭和51年)に東京都有形文化財(彫刻)に指定されています。
    また大殿・本尊”木造阿弥陀如来坐像”のほかに「増上寺」には、平安時代中期の天台宗の僧侶であり”念仏の始祖”として日本の七高僧のひとりとされる恵心僧都:源信上人の制作とも伝えられ、現在は秘仏とされる”阿弥陀如来立像”(通称:黒本尊)が本堂である大殿の脇に建つ安国殿に安置されてます。
    「増上寺」秘仏の黒本尊”阿弥陀如来立像”は、もともと室町時代後期まで三河国・岡崎城から南西方向に3キロメートル程度の場所に位置する当時の明眼寺(現:妙源寺、愛知県岡崎市大和町)の”明眼如来”と称する本尊であり、桶狭間の戦いから4年後となる1564年(永禄7年)に岡崎城主であった松平家康(のちの徳川家康)の念持仏となり、その後の徳川家康が生涯にわたり数々の戦場に出陣する際に奉持して崇拝したとされる勝運・災難除けの霊験あらたかな仏像として伝えられています。
    ちなみに黒本尊と称される由来は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいることに加えて源九郎義経の守り本尊であったことから”九郎本尊”と呼ばれていた説などが伝えられています。
    また黒本尊が安置されている安国殿の名称は、徳川家康の法名”安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士”によるものです。

    増上寺 寺・神社・教会

  • 写真:増上寺・三解脱門(三門)<br />「増上寺」は、1598年(慶長3年)に徳川家の菩提寺として現在地に遷座してから徳川家康が征夷大将軍に任命され1603年(慶長8年)に徳川幕府が開かれるとその2年後より「増上寺」の大規模な造営がはじまり、徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠の時代である1611年(慶長16年)のになると徳川幕府の助成により「増上寺」の中門となる三解脱門(通称:三門)が建立されています。<br />しかしながら、三解脱門の建立から10年後の1621年(元和7年)に大風の影響により倒壊し、現在の三解脱門は倒壊した翌年の1622年(元和8年)に再建されており、その後の「増上寺」境内における度重なる火災などの災害に見舞われ多くの建造物が被災する中で現存する江戸時代初期に建立された東京都内で現存する数少ない大規模建造物として1915年(大正4年)になると国の重要文化財に指定されています。

    写真:増上寺・三解脱門(三門)
    「増上寺」は、1598年(慶長3年)に徳川家の菩提寺として現在地に遷座してから徳川家康が征夷大将軍に任命され1603年(慶長8年)に徳川幕府が開かれるとその2年後より「増上寺」の大規模な造営がはじまり、徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠の時代である1611年(慶長16年)のになると徳川幕府の助成により「増上寺」の中門となる三解脱門(通称:三門)が建立されています。
    しかしながら、三解脱門の建立から10年後の1621年(元和7年)に大風の影響により倒壊し、現在の三解脱門は倒壊した翌年の1622年(元和8年)に再建されており、その後の「増上寺」境内における度重なる火災などの災害に見舞われ多くの建造物が被災する中で現存する江戸時代初期に建立された東京都内で現存する数少ない大規模建造物として1915年(大正4年)になると国の重要文化財に指定されています。

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  • 写真:増上寺・三解脱門(三門)<br />江戸時代に大寺院として繁栄していた当時の「増上寺」の中門であった三解脱門(通称:三門)の建築様式は、入母屋造り本瓦葺き・朱塗り・五間三戸二階二重門であり、その規模は高さ:約21メートル・間口:約19メートル・奥行:約9メートルとして東日本最大級を誇る木造門とされています。<br />ちなみに三解脱門は、三門と呼ばれ三つの煩悩とされる”貪欲”(むさぼり)・”瞋恚”(いかり)・”愚痴”(おろそか)の三悪をこの門をくぐり阿弥陀如来と縁を結ぶことで解き放たれる(解脱)と伝えられています。

    写真:増上寺・三解脱門(三門)
    江戸時代に大寺院として繁栄していた当時の「増上寺」の中門であった三解脱門(通称:三門)の建築様式は、入母屋造り本瓦葺き・朱塗り・五間三戸二階二重門であり、その規模は高さ:約21メートル・間口:約19メートル・奥行:約9メートルとして東日本最大級を誇る木造門とされています。
    ちなみに三解脱門は、三門と呼ばれ三つの煩悩とされる”貪欲”(むさぼり)・”瞋恚”(いかり)・”愚痴”(おろそか)の三悪をこの門をくぐり阿弥陀如来と縁を結ぶことで解き放たれる(解脱)と伝えられています。

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  • 写真:芝公園(港区立芝公園)<br />「芝公園」は、明治政府による国内初の公園として1873年(明治6年)に徳川家の菩提寺であり大寺院として繁栄した江戸時代の広大な「増上寺」境内を1号地から25号地からなる25区画に区分けして開園しています。<br />ちなみに国内初の公園は、”公園制定に関する太政官布達”により、多くの人が集まる神社仏閣の境内などを中心とした「芝公園」を含む5箇所(浅草:浅草寺、上野:寛永寺、芝:増上寺、深川:富岡八幡宮、王子:飛鳥山)が指定されています。<br />その後に太平洋戦争が終結すると1947年(昭和22年)に”社寺等に無償貸付してある国有財産の処分に関する法律”により、政教分離の観点から宗教色のない寺社敷地以外が公園エリアとなり、「増上寺」境内などの外周部分を取り囲むようにリング状の緑地帯で形成された敷地の「都立芝公園」(現:港区芝公園1~4丁目)とともに東京都特別区部再編による港区の誕生にあわせて「増上寺」境内南側の1号地エリアの日比谷通り(都道409号)沿いの一画に「港区立芝公園」(現:港区芝公園4丁目)が形成されています。

    写真:芝公園(港区立芝公園)
    「芝公園」は、明治政府による国内初の公園として1873年(明治6年)に徳川家の菩提寺であり大寺院として繁栄した江戸時代の広大な「増上寺」境内を1号地から25号地からなる25区画に区分けして開園しています。
    ちなみに国内初の公園は、”公園制定に関する太政官布達”により、多くの人が集まる神社仏閣の境内などを中心とした「芝公園」を含む5箇所(浅草:浅草寺、上野:寛永寺、芝:増上寺、深川:富岡八幡宮、王子:飛鳥山)が指定されています。
    その後に太平洋戦争が終結すると1947年(昭和22年)に”社寺等に無償貸付してある国有財産の処分に関する法律”により、政教分離の観点から宗教色のない寺社敷地以外が公園エリアとなり、「増上寺」境内などの外周部分を取り囲むようにリング状の緑地帯で形成された敷地の「都立芝公園」(現:港区芝公園1~4丁目)とともに東京都特別区部再編による港区の誕生にあわせて「増上寺」境内南側の1号地エリアの日比谷通り(都道409号)沿いの一画に「港区立芝公園」(現:港区芝公園4丁目)が形成されています。

    芝公園 公園・植物園

    国内初の公園として開園し、現在は都立芝公園・港区立芝公園・プリンス芝公園で構成されています! by hiroさん
  • 写真:芝公園(港区立芝公園)<br />「港区立芝公園」は、東京タワーが一望できる芝生広場がメインとなる開放的な公園で花壇の草花もよく整備されています。

    写真:芝公園(港区立芝公園)
    「港区立芝公園」は、東京タワーが一望できる芝生広場がメインとなる開放的な公園で花壇の草花もよく整備されています。

    芝公園 公園・植物園

    国内初の公園として開園し、現在は都立芝公園・港区立芝公園・プリンス芝公園で構成されています! by hiroさん
  • 写真:芝東照宮・大鳥居(参道)<br />「芝東照宮」は、明治時代初期に当時の政府が設けた公園制度により広大な敷地を1号地から25号地の25区画に整備して国内初の都市公園とした”芝公園”の1号地(現:港区芝公園4丁目)に鎮座し、”東照宮大権現”の神号を授けられた徳川家康の等身大・木造坐像となる”寿像”(木造徳川家康坐像)を御神体として祀る神社です。<br />「芝東照宮」の御神体”寿像”は、1601年(慶長6年)に還暦を迎えた徳川家康の命で彫刻されたと伝わるもので、その後に徳川幕府を開き初代将軍となった徳川家康が将軍職を第2代将軍:徳川秀忠に引き継いだのち大御所として居城にした駿府城(現:駿府城公園・静岡市葵区)内に祀られていました。<br />徳川家康が死去した翌年の1617年(翌元和3年)になると徳川家康の遺言により、徳川家の菩提寺である増上寺・境内の一画に徳川家康の法名”安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士”から”安国殿”と呼ばれる堂宇が建立され、”寿像”をその社殿に奉遷したことが「芝東照宮」のはじまりとされています。<br />その後に徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が1633年(寛永10年)に新たな社殿となる”安国殿”を建立、さらに1641年(寛永18年)になると現在地に”安国殿”を移し再建しています。<br />また明治時代になると当時の政策による神仏分離令により”安国殿”が増上寺から分離されて「芝東照宮」となっています。<br />現在の「芝東照宮」参道入口の大鳥居に掲げられた”東照宮”と書き込まれた扁額には、明治維新後に徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜の跡を継いだ徳川宗家・第16代当主となる徳川家達の名前も書き込まれています。

    写真:芝東照宮・大鳥居(参道)
    「芝東照宮」は、明治時代初期に当時の政府が設けた公園制度により広大な敷地を1号地から25号地の25区画に整備して国内初の都市公園とした”芝公園”の1号地(現:港区芝公園4丁目)に鎮座し、”東照宮大権現”の神号を授けられた徳川家康の等身大・木造坐像となる”寿像”(木造徳川家康坐像)を御神体として祀る神社です。
    「芝東照宮」の御神体”寿像”は、1601年(慶長6年)に還暦を迎えた徳川家康の命で彫刻されたと伝わるもので、その後に徳川幕府を開き初代将軍となった徳川家康が将軍職を第2代将軍:徳川秀忠に引き継いだのち大御所として居城にした駿府城(現:駿府城公園・静岡市葵区)内に祀られていました。
    徳川家康が死去した翌年の1617年(翌元和3年)になると徳川家康の遺言により、徳川家の菩提寺である増上寺・境内の一画に徳川家康の法名”安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士”から”安国殿”と呼ばれる堂宇が建立され、”寿像”をその社殿に奉遷したことが「芝東照宮」のはじまりとされています。
    その後に徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が1633年(寛永10年)に新たな社殿となる”安国殿”を建立、さらに1641年(寛永18年)になると現在地に”安国殿”を移し再建しています。
    また明治時代になると当時の政策による神仏分離令により”安国殿”が増上寺から分離されて「芝東照宮」となっています。
    現在の「芝東照宮」参道入口の大鳥居に掲げられた”東照宮”と書き込まれた扁額には、明治維新後に徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜の跡を継いだ徳川宗家・第16代当主となる徳川家達の名前も書き込まれています。

    芝東照宮 寺・神社・教会

    樹木に覆われ都会の雑踏を感じさせない居心地のよい空間です! by hiroさん
  • 写真:芝東照宮・社殿(外観)<br />徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が1641年(寛永18年)に再建した「芝東照宮」の社殿(安国殿)は、1915年(大正4年)に現行法による重要文化財に相当する当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定されましたが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失しており、現在の社殿は1969年(昭和44年)に再建(権現造り・鉄筋コンクリート造)されたものとなります。<br />ちなみに「芝東照宮」は、徳川家康を祀る全国各地に鎮座する「東照宮」において、「日光東照宮」(栃木県日光市)・「久能山東照宮」(静岡県静岡市駿河区)・「上野東照宮」(東京都台東区)とともに「四大東照宮」のひとつに数えられています。

    写真:芝東照宮・社殿(外観)
    徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が1641年(寛永18年)に再建した「芝東照宮」の社殿(安国殿)は、1915年(大正4年)に現行法による重要文化財に相当する当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定されましたが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失しており、現在の社殿は1969年(昭和44年)に再建(権現造り・鉄筋コンクリート造)されたものとなります。
    ちなみに「芝東照宮」は、徳川家康を祀る全国各地に鎮座する「東照宮」において、「日光東照宮」(栃木県日光市)・「久能山東照宮」(静岡県静岡市駿河区)・「上野東照宮」(東京都台東区)とともに「四大東照宮」のひとつに数えられています。

    芝東照宮 寺・神社・教会

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  • 写真:芝東照宮・御神木(大イチョウ)<br />都会の雑踏を感じさせない樹木に覆われた静寂で穏やかな雰囲気が漂う「芝東照宮」境内はコンパクトですが、1641年(寛永18年)に社殿となる”安国殿”の再建にあわせて徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が植樹したと伝えられる存在感のある御神木の大イチョウがあり、1956年(昭和31年)になると東京都の天然記念物に指定されています。

    写真:芝東照宮・御神木(大イチョウ)
    都会の雑踏を感じさせない樹木に覆われた静寂で穏やかな雰囲気が漂う「芝東照宮」境内はコンパクトですが、1641年(寛永18年)に社殿となる”安国殿”の再建にあわせて徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が植樹したと伝えられる存在感のある御神木の大イチョウがあり、1956年(昭和31年)になると東京都の天然記念物に指定されています。

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  • 写真:芝丸山古墳(石碑および現地案内板を撮影)<br />「芝丸山古墳」は、古墳時代中期となる4世紀後半から5世紀後半ごろの全国各地に前方後円墳の築造が広まった時期に築造されたものと推測されている都内最大規模の前方後円墳であり、明治時代初期に政府が設けた公園制度により国内初の都市公園となった広大な芝公園の1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現:港区芝公園4丁目)に位置します。<br />この「芝丸山古墳」の規模については、現地案内板によると全長:106メートル前後・後円部径:約64メートル・前方部前端幅:約40メートル・くびれ部幅:約22メートルと記載されていますが、江戸時代以降に後円部の改変が加えられ墳頂部などの一部が削られているのをはじめとして原型が部分的に失われていることから全容が不明確な部分もあり全長が125メートル前後などと推測する説も存在しています。<br />「芝丸山古墳」に関する調査については、このエリアの不自然な地形であると感じていた日本における人類学および考古学の創始者:坪井正五郎が1898年(明治31年)に発掘調査を実施しており埴輪片などが出土しています。<br />但し、この地に埋葬されたと思われる人物の遺骨および副葬品などは、古墳の主体部となる埋葬施設が失われている状態で確認できていません。<br />そのほか1952年(昭和27年)に”東京都指定史跡”として指定されたのち1955年(昭和30年)になると一時期”東京都指定旧跡”に指定、さらに1979年(昭和54年)になると種別変更により”東京都指定史跡”となっています。<br />「芝丸山古墳」の全景は、樹木に覆われているため見た目では分かりませんが、標高約16メートルとされる高低差のある墳丘には階段状の遊歩道があり、墳丘に立ち入ることができる古墳となっています。<br />余談となりますが「芝丸山古墳」からの出土品は、”明治大学考古博物館”(千代田区神田駿河台)に収蔵されており一般公開されています。

    写真:芝丸山古墳(石碑および現地案内板を撮影)
    「芝丸山古墳」は、古墳時代中期となる4世紀後半から5世紀後半ごろの全国各地に前方後円墳の築造が広まった時期に築造されたものと推測されている都内最大規模の前方後円墳であり、明治時代初期に政府が設けた公園制度により国内初の都市公園となった広大な芝公園の1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現:港区芝公園4丁目)に位置します。
    この「芝丸山古墳」の規模については、現地案内板によると全長:106メートル前後・後円部径:約64メートル・前方部前端幅:約40メートル・くびれ部幅:約22メートルと記載されていますが、江戸時代以降に後円部の改変が加えられ墳頂部などの一部が削られているのをはじめとして原型が部分的に失われていることから全容が不明確な部分もあり全長が125メートル前後などと推測する説も存在しています。
    「芝丸山古墳」に関する調査については、このエリアの不自然な地形であると感じていた日本における人類学および考古学の創始者:坪井正五郎が1898年(明治31年)に発掘調査を実施しており埴輪片などが出土しています。
    但し、この地に埋葬されたと思われる人物の遺骨および副葬品などは、古墳の主体部となる埋葬施設が失われている状態で確認できていません。
    そのほか1952年(昭和27年)に”東京都指定史跡”として指定されたのち1955年(昭和30年)になると一時期”東京都指定旧跡”に指定、さらに1979年(昭和54年)になると種別変更により”東京都指定史跡”となっています。
    「芝丸山古墳」の全景は、樹木に覆われているため見た目では分かりませんが、標高約16メートルとされる高低差のある墳丘には階段状の遊歩道があり、墳丘に立ち入ることができる古墳となっています。
    余談となりますが「芝丸山古墳」からの出土品は、”明治大学考古博物館”(千代田区神田駿河台)に収蔵されており一般公開されています。

    芝丸山古墳 名所・史跡

  • 写真:丸山貝塚・現地案内板(芝丸山古墳エリア)<br />「芝丸山古墳」の前方部となる南東側裾の緩やかな傾斜地には、古墳時代よりも歴史の古い紀元前となる約3500年前から4000年前の縄文時代中期末から後期のものと推測される「丸山貝塚」も確認されています。<br />この「丸山貝塚」からは海産系の貝殻が出土していることから、この周辺エリアが当時の海岸沿いであり、「芝丸山古墳」に埋葬されたとされる人物についてはこの周辺付近の水田地帯に生産基盤を構えながら海岸周辺の海上交通および南北に通じる陸路などを支配していた当時の南武蔵エリア有数の豪族であると推測されています。

    写真:丸山貝塚・現地案内板(芝丸山古墳エリア)
    「芝丸山古墳」の前方部となる南東側裾の緩やかな傾斜地には、古墳時代よりも歴史の古い紀元前となる約3500年前から4000年前の縄文時代中期末から後期のものと推測される「丸山貝塚」も確認されています。
    この「丸山貝塚」からは海産系の貝殻が出土していることから、この周辺エリアが当時の海岸沿いであり、「芝丸山古墳」に埋葬されたとされる人物についてはこの周辺付近の水田地帯に生産基盤を構えながら海岸周辺の海上交通および南北に通じる陸路などを支配していた当時の南武蔵エリア有数の豪族であると推測されています。

    芝丸山古墳 名所・史跡

  • 写真:伊能忠敬測地遺功表(芝丸山古墳エリア)<br />「伊能忠敬測地遺功表」は、明治時代初期に政府が設けた公園制度により国内初の都市公園となった広大な芝公園の1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現:港区芝公園4丁目)に位置する都内最大規模の前方後円墳である”芝丸山古墳”の墳頂部に国内で初めて全国各地を測量して廻り作成した日本地図”大日本沿海輿地全図”(通称:伊能図)で知られる近代日本地図の始祖:伊能忠敬の功績を顕彰して東京地学協会により1965年(昭和40年)に建立した石造の記念碑です。<br />この「伊能忠敬測地遺功表」は、もともと1889年(明治22年)に東京地学協会が青銅製(高さ約7.3メートル・2丈4尺)のオリベスク(方尖柱)型の記念碑として建立しましたが、その後の太平洋戦争が激化する中で金属類回収令により青銅製の記念碑は撤去されおり、現在の記念碑は以前の青銅製・記念碑があった土台の上に再建されたものです。<br />ちなみに伊能忠敬は、江戸時代中期となる1745年(延享2年)に現在の千葉県山武郡九十九里町小関の生まれで17歳で現在の千葉県香取市佐原で酒造家を営んでいた伊能家の婿養子となり、江戸時代後期の1795年(寛政7年)になると江戸・深川黒江町(現:江東区門前仲町1丁目)に住居を構えて50歳で隠居生活をはじめるとともに本格的に天文学および測量技術を学んでいます。<br />さらに伊能忠敬が55歳となった1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)までの17年間におよび伊能忠敬を中心とする測量事業の全国をめぐる旅が合計10回実施(第9次測量事業のみ伊能忠敬は不参加)され、測量結果を基に”大日本沿海輿地全図”の作成を進めている途中の1818年(文化15年)に伊能忠敬(73歳)の生涯は終えますが、”大日本沿海輿地全図”の作成作業が引き継がれて1821年(文政4年)に大・中・小の縮尺が異なる3種類の地図が完成し各地を実測した測量資料とともに徳川幕府に納められています。<br />精度が高い”大日本沿海輿地全図”は、徳川幕府の秘蔵の禁制品扱いとして保管されていましたが、長崎オランダ商館付の医師・シーボルトによって地図の写しが海外に流出したことで日本の測量技術の高さが海外に認識されるようになっています。

    写真:伊能忠敬測地遺功表(芝丸山古墳エリア)
    「伊能忠敬測地遺功表」は、明治時代初期に政府が設けた公園制度により国内初の都市公園となった広大な芝公園の1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現:港区芝公園4丁目)に位置する都内最大規模の前方後円墳である”芝丸山古墳”の墳頂部に国内で初めて全国各地を測量して廻り作成した日本地図”大日本沿海輿地全図”(通称:伊能図)で知られる近代日本地図の始祖:伊能忠敬の功績を顕彰して東京地学協会により1965年(昭和40年)に建立した石造の記念碑です。
    この「伊能忠敬測地遺功表」は、もともと1889年(明治22年)に東京地学協会が青銅製(高さ約7.3メートル・2丈4尺)のオリベスク(方尖柱)型の記念碑として建立しましたが、その後の太平洋戦争が激化する中で金属類回収令により青銅製の記念碑は撤去されおり、現在の記念碑は以前の青銅製・記念碑があった土台の上に再建されたものです。
    ちなみに伊能忠敬は、江戸時代中期となる1745年(延享2年)に現在の千葉県山武郡九十九里町小関の生まれで17歳で現在の千葉県香取市佐原で酒造家を営んでいた伊能家の婿養子となり、江戸時代後期の1795年(寛政7年)になると江戸・深川黒江町(現:江東区門前仲町1丁目)に住居を構えて50歳で隠居生活をはじめるとともに本格的に天文学および測量技術を学んでいます。
    さらに伊能忠敬が55歳となった1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)までの17年間におよび伊能忠敬を中心とする測量事業の全国をめぐる旅が合計10回実施(第9次測量事業のみ伊能忠敬は不参加)され、測量結果を基に”大日本沿海輿地全図”の作成を進めている途中の1818年(文化15年)に伊能忠敬(73歳)の生涯は終えますが、”大日本沿海輿地全図”の作成作業が引き継がれて1821年(文政4年)に大・中・小の縮尺が異なる3種類の地図が完成し各地を実測した測量資料とともに徳川幕府に納められています。
    精度が高い”大日本沿海輿地全図”は、徳川幕府の秘蔵の禁制品扱いとして保管されていましたが、長崎オランダ商館付の医師・シーボルトによって地図の写しが海外に流出したことで日本の測量技術の高さが海外に認識されるようになっています。

    伊能忠敬測地遺功表 名所・史跡

    都内最大規模の前方後円墳・墳頂部分に建立されています! by hiroさん
  • 写真:プリンス芝公園<br />「プリンス芝公園」は、”ザ・プリンス パークタワー東京”(地上33階・地下3階建て・高さ104.4メートル)のホテル地下フロア部分に広がるの会議・宴会場施設などの上部空間となる建物2階レベルの人工地盤からなる芝生広場を中心とした設計のもと緑地整備が施されているホテルが管理・運営する公園です。<br />ちなみに”ザ・プリンス パークタワー東京”は、明治時代に明治政府により国内初の公園となった広大な芝公園の1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現:港区芝公園4丁目)に位置しており、民間活力による都市計画公園等整備事業の特許事業として東京都の許可を取得し、2005年(平成17年)に”東京プリンスホテル パークタワー”としてオープンしています。<br />2007年(平成19年)になるとプリンスホテルグループ内のブランド再編により、上級クラスのホテルとして国内に6施設ある”ザ・プリンス”シリーズのひとつとして現在のホテル名称に変更されています。<br />「プリンス芝公園」からは東京タワーの全景を望むことができるので、東京タワーの撮影スポットとしてお勧めできます。

    写真:プリンス芝公園
    「プリンス芝公園」は、”ザ・プリンス パークタワー東京”(地上33階・地下3階建て・高さ104.4メートル)のホテル地下フロア部分に広がるの会議・宴会場施設などの上部空間となる建物2階レベルの人工地盤からなる芝生広場を中心とした設計のもと緑地整備が施されているホテルが管理・運営する公園です。
    ちなみに”ザ・プリンス パークタワー東京”は、明治時代に明治政府により国内初の公園となった広大な芝公園の1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現:港区芝公園4丁目)に位置しており、民間活力による都市計画公園等整備事業の特許事業として東京都の許可を取得し、2005年(平成17年)に”東京プリンスホテル パークタワー”としてオープンしています。
    2007年(平成19年)になるとプリンスホテルグループ内のブランド再編により、上級クラスのホテルとして国内に6施設ある”ザ・プリンス”シリーズのひとつとして現在のホテル名称に変更されています。
    「プリンス芝公園」からは東京タワーの全景を望むことができるので、東京タワーの撮影スポットとしてお勧めできます。

    プリンス芝公園 公園・植物園

  • 写真:プリンス芝公園<br />「プリンス芝公園」は、”ザ・プリンス パークタワー東京”ホテル敷地内の会議・宴会場施設などの上部空間となる建物2階レベルの人工地盤に整備された緑地空間ですが、隣接する東京都が管理する「都立芝公園」および港区が管理する「港区立芝公園」と一体化するように整備されています。<br />「プリンス芝公園」への出入りは、ホテル建物・2階部分のほかに「都立芝公園」および「日比谷通り(都道409号)」沿いの1632年(寛永9年)に建立された「台徳院霊廟惣門」(国指定:重要文化財)からも自由に出入り可能な一般公開されている公園のため気軽に立ち寄ることができます。

    写真:プリンス芝公園
    「プリンス芝公園」は、”ザ・プリンス パークタワー東京”ホテル敷地内の会議・宴会場施設などの上部空間となる建物2階レベルの人工地盤に整備された緑地空間ですが、隣接する東京都が管理する「都立芝公園」および港区が管理する「港区立芝公園」と一体化するように整備されています。
    「プリンス芝公園」への出入りは、ホテル建物・2階部分のほかに「都立芝公園」および「日比谷通り(都道409号)」沿いの1632年(寛永9年)に建立された「台徳院霊廟惣門」(国指定:重要文化財)からも自由に出入り可能な一般公開されている公園のため気軽に立ち寄ることができます。

    プリンス芝公園 公園・植物園

  • 写真:台徳院霊廟惣門<br />「台徳院霊廟惣門」は、徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠(諡号:台徳院)が逝去した1632年(寛永9年)に当時の「増上寺」境内・南側に建立された「台徳院霊廟」の壮麗な建造物のひとつに数えられる正門とされる惣門(入母屋造り銅瓦葺き・三間一戸八脚門)であり、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に「台徳院霊廟」として指定されています。<br />ちなみに太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲において「増上寺」境内の多くの建造物が焼失したものの被災を免れた数少ない建造物のひとつであり、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行にともない「旧台徳院霊廟惣門」として国指定の重要文化財となっています。<br />現在では、港区芝公園4丁目に位置する”ザ・プリンス パークタワー東京”のホテル施設”プリンス芝公園”に通じる日比谷通り(都道409号)側の歩行者専用・出入口となるホテル敷地内に配置されています。

    写真:台徳院霊廟惣門
    「台徳院霊廟惣門」は、徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠(諡号:台徳院)が逝去した1632年(寛永9年)に当時の「増上寺」境内・南側に建立された「台徳院霊廟」の壮麗な建造物のひとつに数えられる正門とされる惣門(入母屋造り銅瓦葺き・三間一戸八脚門)であり、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に「台徳院霊廟」として指定されています。
    ちなみに太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲において「増上寺」境内の多くの建造物が焼失したものの被災を免れた数少ない建造物のひとつであり、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行にともない「旧台徳院霊廟惣門」として国指定の重要文化財となっています。
    現在では、港区芝公園4丁目に位置する”ザ・プリンス パークタワー東京”のホテル施設”プリンス芝公園”に通じる日比谷通り(都道409号)側の歩行者専用・出入口となるホテル敷地内に配置されています。

    台徳院霊廟惣門 名所・史跡

    徳川秀忠を祀っていた霊廟の正門です! by hiroさん
  • 写真:有章院霊廟二天門<br />「有章院霊廟二天門」は、徳川幕府・第7代将軍:徳川家継(諡号:有章院)が逝去した翌年の1717年(翌享2年)に当時の「増上寺」境内・北側に建立された「有章院霊廟」の正門とされる二天門(切妻造り銅瓦葺き・三間一戸八脚門)であり、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に「有章院霊廟」として指定されています。<br />ちなみに太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲において「増上寺」境内の多くの建造物が焼失したものの被災を免れた数少ない建造物のひとつであり、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行にともない「有章院(徳川家継)霊廟二天門」として国指定の重要文化財となっています。<br />現在では、港区芝公園3丁目に位置する”東京プリンスホテル”ホテル敷地内・駐車場東側の日比谷通り(都道409号)沿いに配置されています。

    写真:有章院霊廟二天門
    「有章院霊廟二天門」は、徳川幕府・第7代将軍:徳川家継(諡号:有章院)が逝去した翌年の1717年(翌享2年)に当時の「増上寺」境内・北側に建立された「有章院霊廟」の正門とされる二天門(切妻造り銅瓦葺き・三間一戸八脚門)であり、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に「有章院霊廟」として指定されています。
    ちなみに太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲において「増上寺」境内の多くの建造物が焼失したものの被災を免れた数少ない建造物のひとつであり、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行にともない「有章院(徳川家継)霊廟二天門」として国指定の重要文化財となっています。
    現在では、港区芝公園3丁目に位置する”東京プリンスホテル”ホテル敷地内・駐車場東側の日比谷通り(都道409号)沿いに配置されています。

    有章院霊廟二天門 寺・神社・教会

    徳川幕府・歴代最年少将軍を祀る霊廟の惣門です! by hiroさん
  • 写真:有章院霊廟二天門<br />徳川幕府・第7代将軍:徳川家継は、徳川幕府・歴代最年少将軍であり、1709年(宝永6年)に第6代将軍:徳川家宣の四男として誕生した4年後の数え年で5歳となった1713年(正徳3年)に征夷大将軍に任命され、その3年後の1716年(正徳6年)に逝去(死因:風邪による急性肺炎)しています。

    写真:有章院霊廟二天門
    徳川幕府・第7代将軍:徳川家継は、徳川幕府・歴代最年少将軍であり、1709年(宝永6年)に第6代将軍:徳川家宣の四男として誕生した4年後の数え年で5歳となった1713年(正徳3年)に征夷大将軍に任命され、その3年後の1716年(正徳6年)に逝去(死因:風邪による急性肺炎)しています。

    有章院霊廟二天門 寺・神社・教会

    徳川幕府・歴代最年少将軍を祀る霊廟の惣門です! by hiroさん
  • 写真:御成門<br />「御成門」は、江戸時代に徳川家の菩提寺として徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄した当時の「増上寺」境内北方馬場に位置していた裏門であり、現存する「御成門」の建立時期は定かではありませんが、当時の江戸城に近い位置に配置されていたこともあり、歴代将軍が「増上寺」を参詣する折にこの裏門を利用していたことから「御成門」と呼ばれるようになっています。<br />現在では、港区芝公園3丁目に位置する”東京プリンスホテル”ホテル敷地内・駐車場北側の日比谷通り(都道409号)・港区芝公園三丁目交差点を西側方向の白山祝田田町線(都道301号)に通じる道路沿いに配置されています。

    写真:御成門
    「御成門」は、江戸時代に徳川家の菩提寺として徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄した当時の「増上寺」境内北方馬場に位置していた裏門であり、現存する「御成門」の建立時期は定かではありませんが、当時の江戸城に近い位置に配置されていたこともあり、歴代将軍が「増上寺」を参詣する折にこの裏門を利用していたことから「御成門」と呼ばれるようになっています。
    現在では、港区芝公園3丁目に位置する”東京プリンスホテル”ホテル敷地内・駐車場北側の日比谷通り(都道409号)・港区芝公園三丁目交差点を西側方向の白山祝田田町線(都道301号)に通じる道路沿いに配置されています。

    御成門 名所・史跡

    江戸時代に歴代将軍が増上寺参詣の折に利用した裏門です! by hiroさん
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