徳川幕府・歴代最年少将軍を祀る霊廟の惣門です!
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- 旅行時期:2022/11(約3年前)
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by hiroさん(男性)
三田・田町・芝浦 クチコミ:16件
『有章院霊廟二天門』は、江戸時代・中期となる1716年(正徳6年)に逝去された徳川幕府・第7代将軍「徳川家継」(諡号:有章院)を祀る霊廟として徳川家の菩提寺であり当時の徳川将軍家の手厚い保護により繁栄していた大寺院「増上寺」の広大な境内北側に位置する先代の徳川幕府・第6代将軍「徳川家宣」(諡号:文昭院)を祀る「文昭院霊廟」のさらに北側に隣接して「徳川家継」が逝去した翌年の1717年(翌享2年)に徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」によって建立された霊廟建築群の入口として惣門(正門)となる銅瓦葺き切妻造り屋根の三間一戸八脚門です。
また、第8代将軍「徳川吉宗」がその後に当時の徳川幕府・財政再建を主導した政策の「享保の改革」により霊廟建築の建立が廃止されており、『有章院霊廟』以降は既存する「徳川将軍家霊廟」に合祀する形式に代わっており、「徳川吉宗」以降の徳川将軍家の遺体については、既存の霊廟・奥院に新たに宝塔のみが造営され埋葬されるようになっています。
ちなみに第7代将軍「徳川家継」は、「徳川家宣」が第6代将軍に就任した1709年(宝永6年)に「徳川家宣」の四男として誕生してから、わずか3年後の1712年(正徳2年)に第6代将軍「徳川家宣」が逝去したことに伴い、翌年の1713年(正徳3年)に徳川幕府・歴代最年少将軍(数え5歳、満4歳)として第7代将軍に就任していますが、先代の「徳川家宣」と同様に将軍に就任してから3年後の1716年(正徳6年)に風邪による急性肺炎が原因と考えられている病でこの世を去っています。
『有章院霊廟』の建造物群については、「本殿・相之間・拝殿」が一体となった権現造りの御霊屋を中心に惣門の「二天門」から御霊屋に通じる参道廻りに「勅額門」、「鐘楼」、「水盤舎」、「井戸屋形」、「中門及び前廊」など、そのほか奥院に通じる「唐門及び前廊」、「拝殿」、「中門」、「宝塔」など複数の建造物で構成されており、かつての広大な「増上寺」境内にあった「徳川将軍家霊廟」とともに1930年(昭和5年)になると当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に指定されています。
1945年(昭和20年)の太平洋戦争末期になると「増上寺」境内も東京大空襲による戦災に見舞われており、『有章院霊廟二天門』をはじめいくつかの建造物が被災を免れていますが、江戸時代に繁栄した「増上寺」境内のほとんどの建造物が焼失しており、国宝保存法から1950年(昭和25年)に新しく制定された文化財保護法施行に伴い戦災を免れた『有章院(徳川家継)霊廟二天門』が国指定の重要文化財となっています。
さらに1958年(昭和33年)になると「増上寺」境内北側および南側に存在していた「徳川将軍家霊廟」の発掘調査が実施され遺体・遺骨を調査した上、荼毘に付されて新たに整備された現在のコンパクトな「徳川家墓所」に埋葬されています。
かつての『有章院霊廟』および「文昭院霊廟」跡地となった「増上寺」境内・北側エリアは、1964年(昭和39年)に開催の「東京オリンピック」にむけて民間の敷地に代わりオリンピック開幕直前に「東京プリンスホテル」がオープンしているほか、戦災を免れて敷地内に残る『有章院霊廟二天門』も敷地と同様に「増上寺」からホテル経営の民間所有となり現在に至っています。
今回は、「芝公園」エリアを訪れる機会があり現在の「増上寺」を中心に散策して廻り、「東京プリンスホテル」敷地内駐車場の東側となる日比谷通り(都道409号)沿いに位置する『有章院霊廟二天門』を写真撮影しましたが、2015年(平成年)から4年間の保存修理工事が実施されており、色鮮やかな朱塗りの木造部分に金色の鍍金が施された華やかな装飾金物が目を引く惣門で見ごたえがあり、太平洋戦争で焼失した御霊屋などの建造物を想像しながら楽しむことができました。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営地下鉄三田線・御成門駅A1出口から直ぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後に立ち寄りましたが、日比谷通り歩道を通る方も少なく写真撮影をする方を数名見かける程度です。
- バリアフリー:
- 4.0
- 日比谷通り歩道から数段の石段がありますが、二天門の周囲に柵があるので歩道から写真撮影する程度であれば問題ありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 徳川家継を祀る有章院霊廟の惣門であり国指定の重要文化財です。
クチコミ投稿日:2024/09/15
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