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江戸時代に歴代将軍が増上寺参詣の折に利用した裏門です!

  • 3.5
  • 旅行時期:2022/11(約2年前)
hiroさん

by hiroさん(男性)

三田・田町・芝浦 クチコミ:11件

「御成門」は、建立時期など定かではありませんが江戸時代に徳川家の菩提寺として繁栄した当時の広大な「増上寺」境内の北方馬場に位置していた裏門の通称であり、明治維新後の近代化が進む中で関東大震災および東京大空襲など東京の都心を襲った大災害に見舞われながらも現存する数少ない江戸時代に造営された建造物のひとつになります。
この裏門が「御成門」と呼ばれるようになるまでの歴史については、豊臣秀吉の小田原征伐により戦国の時代に終止符が打たれた1590年(天正18年)に領地替えによって「江戸城」を居城とした徳川家康が江戸入府を機に「増上寺」が徳川家の菩提寺となったことがはじまりとなります。
さらに「江戸城」拡張工事にともない1598年(慶長3年)に現在の港区芝公園エリアに遷座した「増上寺」は、江戸時代を迎えると徳川将軍家の手厚い保護により徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠をはじめ第6代将軍:家宣、第7代将軍:家継、第9代将軍:家重、第12代将軍:家慶、第14代将軍:家茂の6名におよぶ歴代将軍のほか歴代将軍の正室(5名)・側室(5名)さらに歴代将軍の子女など(22名)の合計38名が埋葬される壮麗な「徳川家霊廟」が「増上寺」本堂(大殿)の両側に建造されるなど大寺院として繁栄し、最盛期の江戸時代における広大な境内には120以上もの堂宇が造営されています。
そのような中で歴代徳川将軍が「徳川家霊廟」を参詣する折に「江戸城」から「増上寺」までの参詣ルートとして最短となる「増上寺」境内の北側の裏門を利用していたことから「御成門」と呼ばれるようになっています。
明治時代を迎えてからは、広大な「増上寺」境内が1873年(明治6年)に国内初の公園に指定され境内を25区画(1号地から25号地)に区分けされた「芝公園」が開園、また1888年(明治21年)になると江戸時代に歴代徳川将軍の墓所があった江戸時代の「寛永寺」であり、「増上寺」と同様に国内初の公園に指定された「上野恩賜公園」に向かう南北方向を結ぶ区間が当時の一等道路(現:日比谷通り・都道409号)に指定され、この道路整備工事にともない1901年(明治34年)に「御成門」を現在の日比谷通り・御成門交差点付近から南側に位置する日比谷通り・港区芝公園三丁目交差点を西側方向の白山祝田田町線(都道301号)に通じる道路沿いとなる「芝公園」3号地エリア内に移設しています。
さらに昭和時代を迎えると太平洋戦末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により、「芝公園」となった「増上寺」境内の建造物のほとんどが戦災で焼失した中で「御成門」はかろうじて焼失を免れています。
また「御成門」が移設された「芝公園」3号地エリアは、1964年(昭和39年)に開催された”東京オリンピック”にあわせて「東京プリンスホテル」の敷地となりホテルがオープンしています。
「東京プリンスホテル」敷地内駐車場の北側にひっそりと立入防止用の鋼製フェンスで囲われた現在の「御成門」の景観を見ていると徳川将軍が利用していたころの華やかであったと想像できる江戸時代とのギャップが大きく寂しさがこみ上げてきましたが、「御成門」にまつわる歴史を改めて学び楽しむことができました。

施設の満足度

3.5

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.0
都営地下鉄三田線・御成門駅A1出口から直ぐです。
人混みの少なさ:
4.0
平日の午後に立ち寄りましたが、人通りも少なく立ち止まって見るのは自分だけでした。
バリアフリー:
3.5
鋼製フェンス越しに見るだけなので段差など特に問題ないです。
見ごたえ:
3.0
鋼製フェンスで囲われ、外側を歩道から、内側をホテル敷地内駐車場からフェンス越しに見るだけです。

クチコミ投稿日:2024/05/26

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