2023/12/02 - 2023/12/02
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gianiさん
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倉敷村原始の地、
小野が城→倉敷代官所→クラボウ本社工場と歴史が詰まった向山(城山)跡等の歴史スポットを中心に回りつつ、美観地区を堪能します。
美観地区として知られる街並み保存には、クラボウ創業者の曾孫大原謙一郎が大きくかかわっています。
- 旅行の満足度
- 5.0
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美観地区を目指します。
倉敷駅を出て、アーケードを進みます。倉敷センター街商店街 市場・商店街
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アーケードが続き、雨にぬれずに移動できました。
えびす通商店街 市場・商店街
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アーケード出口の横には、小山(鶴形山)と神社。
阿智神社は、倉敷村の産土神である宗像三神を祀ります。海岸線から遠く離れたこの土地がなぜ海上安全の神様を祀っているのか?という素朴な疑問。阿智神社 寺・神社・教会
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岡山平野の一角に位置する倉敷は、吉備の穴海と呼ばれる内海が広がり、多くの島々が連なっていました。鶴形山も、その一つです。
4世紀初めに、漢の霊帝の曽孫阿知主(あちのおみ)が一族を伴って帰化します。倉敷周辺は阿知郷、吉備の穴海は別名阿知潟とも呼ばれます。 -
高梁川河口は酒津でしたが、堆積作用で海退し、分流倉敷川河口の倉敷が港として栄えました。1584年に毛利傘下の宇喜多秀家による干拓事業で、現在の景観が誕生しました。秀家は秀吉の高松城水攻めに参加して締切堤防を学び、早島から酒津に至る「宇喜多堤」を築きました。
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眼下は、こんな光景です。当時は新田(水田)でした。
鶴形山公園 公園・植物園
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山を下りて美観地区を数分歩くと、次の歴史スポットが。本町地区です。
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小野が城(倉敷城)
939年の藤原純友の乱の際、征伐使として遣わされた小野好古が拠点として向山に築いた城と云われます。戦国時代の1493年には、城主の小野好信が城山に稲荷神社を勧請しました。オリジナルの地に今も残ります。城山稲荷神社 寺・神社・教会
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倉敷代官所跡
徳川政権で、倉敷は天領(幕府直轄領)になりました。備中国(現在の岡山県西部)の天領を統括する備中松山(現在の高梁市)代官所の管轄下で、「倉敷支配所」が設置されます。倉敷代官所跡 名所・史跡
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物流の要衝
岡山県三大河川の一つ高梁川の河口に位置する倉敷は、流域で収穫された米の集積場でした。大坂冬の陣では重要な兵糧供給地として重要視され、松山代官小堀遠州は倉敷に陣屋を建設します。
豊臣氏が滅びた1615年に松山代官所は松山藩になり、倉敷支配所が備中の天領を統括します。 -
倉敷代官所(1642-)
1642年に支配所から代官所に昇格し、備中/美作/讃岐3国の天領を統括しました。倉敷代官職は、旗本が遠国奉行などに出世するための足掛かりとなるポジションでした。
写真のように、代官所の敷地は現在のアイビースクエアの敷地内に近似しており、四方を堀で囲まれていました。
※17世紀に庭瀬をはじめとする藩領となった時期もありましたが、代官所は幕府直轄のままでした。歴代藩主が幕閣(老中等の政権中枢)だったために、問題は生じませんでした。 -
アイビースクエア内の倉紡記念館の部分には、代官所と市街を仕切る西辺の堀が残っています。赤レンガ側が市街で土蔵側が代官所、突き当りが北辺です。
倉敷代官所内濠遺構 名所・史跡
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反対側の景色。
廃藩置県により、代官所は倉敷県の県庁になりました。 -
井戸も残っています。倉敷三大名井の一つ。
倉敷代官所井戸 名所・史跡
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代官所の正門は南辺にあり、向かいにはおもちゃ博物館があります。
倉敷おもちゃ博物館 美術館・博物館
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代官所は、住民の手形を発行する等の役所業務を担います。
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代官所は、司法の場でもあります。写真は、1828年の判決文。百姓勘四郎に獄門を言い渡しています。
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代官所跡地は1889年に、前年に創立した倉敷紡績所になります。
蔦が這う旧工場レンガ壁の横にメタセコイアの木を植え、米国東海岸アイビーリーグのキャンパス内をほうふつとさせる観光スポットに生まれ変わりました。倉敷アイビースクエア 名所・史跡
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スクエアには、倉敷とクラボウの歴史が学べる記念館があります。
倉紡記念館 美術館・博物館
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東大橋家宅跡
美観地区と規制のない地区の境界に位置します。
備中国の米が集結する地の利を活かして繫栄した大橋家の一族です。倉敷物語館 名所・史跡
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江戸時代の土蔵には、ちょっとした展示も。
江戸時代に進んだ干拓は、モノが集まる商業機能や政治都市だけでなく、周囲を農地へと変えました。新しい干拓地は塩分が強いので、稲ではなく綿花やイグサが栽培されました。こうした換金作物(⇔食物)は、倉敷にさらなる富をもたらします。 -
倉敷川は市街地では暗渠ですが、物語館の先で再び顔を出します。両岸の大原美術館/旧大原邸に挟まれたロケーションです。
倉敷美観地区 名所・史跡
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東進して中橋詰めを南方向へ折れます。
中橋 名所・史跡
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倉敷町庁舎(1917)
折れ曲がるところには、旧倉敷町役場庁舎が建ちます。1894年に町制、1928年に市制を施行します。倉敷館 名所・史跡
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1階は観光案内所、2階は休憩スペースになっています。眺めも良いです。
(ミネラル)ウォータークーラーが開放されていて、重宝しました。 -
2階から中橋を望む。
たまたま中華圏からの団体さんと出会い、日本人は皆無の状態。中国の杭州かと錯覚しました。 -
柳の並木
船が行き交える広い運河でした。倉敷川 自然・景勝地
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高砂橋で景観地区は終わります。代官所南面に面した通りと交わります。
この先、倉敷川は児島湾に注ぎます。1959年に堤防で湾が閉め切られるまでは、水上輸送が栄えました。 -
倉敷川を遡って、今橋まで戻ります。南詰めには大原美術館。石塀ですが、武家の通用門のように慎ましい入口です。丸窓も素敵。内部からも鑑賞できます。建物内は、撮影禁止です。
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ファサード
日本初の西洋美術館だけあります。大原美術館 美術館・博物館
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本館を出ると最初のミュージアムショップが。ポストカードが充実しています。出口に面したショップと品揃えが違うので、良いものがあったらここでゲットしましょう(失敗談)。
続いて工芸館/東洋館です。 -
江戸時代の蔵を展示室に利用しています。タイルでリノベするなど、良いセンスです。個人的には、棟方志功のフロアが白眉でした。
大原美術館 工芸・東洋館 美術館・博物館
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倉敷川に面したレトロなカフェ。
大原美術館の至宝「受胎告知」の作者エル・グレコに因んだ名前です。
大原美術館の創始者が、鑑賞後の余韻に浸れる極上のカフェをという願いで設置しました。 -
今橋の北西詰には、地主かつクラボウの創始者大原家の邸宅が。
今橋 名所・史跡
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門を入ると土間です。客をもてなせるよう、大きな釜が設置されています。
旧大原家住宅 名所・史跡
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壁には大原家の面々が。
2018年オープンだけあって、展示もクールです。語らい座 大原本邸(旧大原家住宅) 美術館・博物館
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行く手を遮る発言集
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廊下を渡ります。右側の蔵は展示室です。
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大原家の歩みが、工場経営と社会奉仕の二本立てということを学べます。
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一番奥は、読書カフェ。スピーカーが良いものを使っていて、BGMもgood.
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壁には、棟方志功の作品。
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贅沢です。
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蔵の向かいは、大原家のプライベートスペース。
拠点は東京へ移りましたが、2018年まで大原家が定期的に帰省していました。 -
白眉はこの部屋。
長居大歓迎とのことです。 -
縁側から眺める庭は、こんな感じ。
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紅葉のピークは過ぎましたが、雨で良かった気がします。
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静寂を破る雨音
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秋は暮れ、冬が近づいています。
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有隣荘
大原孫三郎が建てた別邸で、昭和天皇も行幸の際に宿泊しました。
光の当たり具合で緑色に見える瓦が素敵です。
通称、緑御殿。有隣荘 名所・史跡
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大原家住宅と有隣荘の間を抜けると、本町通り。倉敷村発祥の鶴形山の南面を横断する昔からの大通りです。林源十郎商店の2階にはちょっとした資料室が。
林源十郎商店 専門店
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こんな感じで、漢方を調合していた近世の薬局。
大正期に製薬メーカーになり、戦後は卸に専念しました。 -
黒船襲来時の記録が残っています。
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ペリー提督の部下、アダム中佐。
鼻の高さが10㎝以上のギネスもの、額がごく僅か。 -
事業史の方は、忘れました。
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本町通りには、江戸時代から続く建築もちらほら。
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公民館
実は昭和40年代の建築。 -
美観地区に溶け込む建築です。
倉敷公民館 名所・史跡
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大原幸四郎が設立した倉敷銀行の建物は、美術館になっています。直近は、中国銀行倉敷本町出張所です。
中国銀行倉敷本町出張所 名所・史跡
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井上家
国の重文指定で、美観地区最古の建物。修復後は、一般公開されるとか。井上家住宅 名所・史跡
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以上が本町通りでした。
本町 名所・史跡
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明治になると、産業は米と綿花だけの倉敷は、文明開化の波に乗り遅れます。
大橋澤三郎/小松原慶太郎/木村利太郎の3名は倉敷を立て直すことを志し、紡績工場の設立を決意。渋沢栄一の助言を得て、倉敷の大地主大原孝四郎に資金援助を依頼します。 -
大原孝四郎(1833-1910)
こうして、1888年に有限責任倉敷紡績所が設立されます。大原は初代社長に就任します。 -
創立時の1号株券
頭取には大原孝四郎、取締役には実業家の木山精一、林醇平(林源十郎商店創始者の息子)、大橋澤三郎、小松原慶太郎の名前が連なります。 -
本社工場(1889-1945)
写真は、1892年の姿。レンガ造りの工場が並びます。左手前の角には、見覚えのある建物が。実は、倉紡記念館の建物です。創業時の原綿保管倉庫です。北は左方向です。 -
社章/社訓/登録商標
社訓は、大原家に伝わる家訓「譲受の精神」です。一番になると慢心するので、常に二番三番手時代の向上心を忘れない謙虚な心を。という内容です。社章の二、三のマークに込められた意味です。
1895年の商標は、社章に三つ馬です。中国輸出を見据え、中国人が縁起物と喜ぶ馬と三を掛け合わせました。 -
工場建設に際して、渋沢栄一の設立した大阪紡績を参考にしました。現在の東洋紡で、六紡の筆頭です。設計は、日本初の紡績工場(薩摩藩鹿児島紡績)を建設した2名を招聘します。当時、日本の精紡機はミュール精紡機と呼ばれる旧式設備が主体でしたが、当時最新のリング精紡機を採用します。
1889年の4,472錘から始まり、5回に及ぶ増築で1906年に29,584錘になります。 -
孝四郎は、1881年に倉敷銀行を設立し/頭取を兼任し、地域経済の発展にも力を注ぎます。有望な青年への奨学金や、地域の貧困家庭の子女が学校へ通えるように援助する等の活動も行います。1906年には、実業界から引退し4年後に亡くなります。
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当時の機械
最良のものは英国から輸入するのが現状でした。左は混綿機で、原綿からゴミを除去します。右は丸締機で、綿糸をドラム缶ほどの大きさに梱包します。 -
大原孫三郎(1883-1943)
孝四郎の息子で、2代目社長(1906-41)に就任します。会社は、どんどん拡大します。写真を撮り忘れました。 -
玉島工場(1908-50)
吉備紡績所を買収して、倉紡玉島工場に改めます。工場買収時の運転錘数は29,336なので、会社の生産力が二倍になりました。
※戦中に倉敷航空機工業へ貸与、返還後は山陽紡績へ売却。 -
営業部
1911年には、19世紀末に進出した大阪の事務所へ営業部を移転させます。綿業の中心地は大阪だからです。理屈はわかりますが、大胆な手法です。 -
万寿工場(1915-92)
紡績不況期の1912年に着工。構内に引き込み線を有し、搬入/搬出を従来の水運から鉄道輸送に切り替えました。第一工場は30,000錘、1918/1919年には、第2/第3(織糸)工場も稼働。先鋭さゆえに、紡績界で注目されました。
第一次世界大戦の長期化に伴う保護貿易により綿糸価格は4倍に暴騰し、後押しします。本社工場閉鎖後、倉敷工場の名を引き継ぎます。 -
生産力の拡大
坂出/松山/高松工場と、低賃金かつ豊富な労働力のある四国へ進出します(1918-20)。早島/岡山工場、大阪枚方工場と拡大します。買収/合併も積極的に行いました。 -
発電所建設
1914年に竣工した倉敷発電所は、本社/玉島/万寿工場の電源を賄い、余剰分は倉敷電灯に供給しました。これにより、工場の動力が蒸気機関から電気へ変わります。
四国の電力事情が良くなかったので、1920年に高松発電所を竣工し、高松/坂出工場へ電気を供給しました。 -
事業の多角化
第一次世界大戦(1914-18)後には深刻な不況が訪れます。綿糸一辺倒から、事業を多角化して対応します。
1925年に京都帝大の福島博士を所長とする京化研究所を設立し、先端技術だった人造絹糸(レーヨン)の国産化を目指します。翌年に倉敷絹織を設立、現在のクラレ(Kuraray)です。クラリーノやマジックテープなど、お馴染みのものを生み出します。現在はクラボウグループを離脱しています。
※綴りがrayなのは、レイヨン(rayon)の略ゆえ。東レ(東洋レーヨン)もTorayと綴ります。 -
倉敷毛織
レイヨンと並ぶ多角化の要は、(羊)毛織でした。1926年に三豊紡績を香川県に設立し、1935年に倉敷毛織となります。その後、クラボウ津工場(写真)となります。
1938年には、倉敷紡績の紡機設備はピークに達します。 -
2代目社長大原孫三郎は、事業を拡大して財閥を作り上げただけでなく、人格主義に基づく思想を実践する人でした。
職工村(社宅)
1915年に竣工した万寿工場は、600戸の社宅を併設しているのが画期的でした。 -
分散型寄宿舎
当時の女工は、40~50畳の大部屋での集団生活を送り、衛生/プライバシー面で問題を多く抱えていました。孫三郎の指揮下で1908年から模索が続けられ、万寿工場では分散型寄宿舎を採用しました。 -
分散型寄宿舎の模型
建物は4軒長屋とコンパクト化し、1軒の定員は5名、広間6畳のほかに2畳間が付属し、家族的な雰囲気とプライバシーの確保を実現しました。現代人からすると劣悪な環境に見えますが、当時としては画期的/魅力的な環境でした。実際、伝染病罹患率/離職率が下がり、出勤率が向上しました。
工員が教育を受けられるよう、尋常小学校(現在の9年制義務教育に相当)も開設しました。 -
倉敷労働科学研究所(1921-36)
万寿工場内に誕生した、衛生/心理/生理学から労働を科学する機関。紡績工場のみならず、産業衛生全般に及ぶテーマを扱い、1936年に大原記念労働科学研究所として発展解散しました。現在はクラボウの手を離れています。 -
職場での伝染病予防/労災防止のみならず、従業員に適性検査を施して、適所適材を実践しようとしました。写真は、箸で豆を掴ませることで、手先の器用さを測る検査。
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設立の背景
孫三郎の書簡を見ると、職業病を克服する願いが伝わります。労働者を交換可能な消耗品と考えず、一個人として見ていたことが伝わります。また、自社のみならず、社会全体の労働環境を変えようとする願いが伝わります。 -
倉紡中央病院(1923-)
病院の在り方を変える発想で、治療本位(⇔研究主体)、病院くさくない明るい雰囲気、病室に等級を無くす(患者の平等)等を実現しました。従業員のみならず地域に開かれた病院として開業し、1934年にクラボウより独立して倉敷中央病院として現在に至ります。 -
大原美術館(1935-)
より上質な芸術品に人々や画家が接することができるようにと開館。当時美術館は、国内に数えるほどしかありませんでした。モネの「睡蓮」は、本人から直接買い付けました。 -
ほかにも、大原社会問題研究所、大原奨農会農業研究所が挙げられます。桃/梨/ブドウ等の品種改良、温室ブドウの栽培研究を行い、果物王国・岡山県の基礎を築きました。1953年に岡山大学付属となり、現在は資源生物科学研究所となっています。
日露戦争後には、会社の利益の殆どを(主に戦争)孤児のために使いました。
孫三郎の執務机が展示されており、「わしの眼には10年先が見える」「「仕事を始めるときには、10人のうち2, 3人が賛成するときに始めなければいけない。1人でも賛成がないというのでは早すぎるが、10人のうち5人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ。7, 8人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」といった言葉が誕生します。 -
美観地区にある民芸館を整備する際には、建築費を寄付しています。
倉敷民藝館 美術館・博物館
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大原総一郎(1909-68)
クラレ社長を経て、1941-46まで第3代社長を務めます。その後は、政府機関や経済団体、各企業の役員等を務めます。最期のオーナー社長です。 -
統制経済と敗戦
国策で紡績会社の合併が進み、国光紡績等と合併します。原綿不足と輸出規制に伴い、遊休設備はスクラップ鉄と化して兵器の原料に充てられました。一方で、フィリピンの綿花栽培とジャワの紡績経営という2大事業を割り当てられます。
1944年には社名を倉敷工業に改め、軍需会社に指定されます。航空機等の重工業も担います。
敗戦に伴い、上海/青島工場等の固定資産や海外預金/株券等の海外債権、空襲による焼失等、大きな損害を背負いました。生産設備の70%を失いました。
戦後も統制は続き、設備上限と衣料品配給制が解除されたのは朝鮮動乱の2日後です。 -
ローテンブルク構想
アイビースクエアは、本社工場を再開発して誕生しました。旧工場を這う蔦(アイビー)は、空調目的で昭和初期に導入されたもの。総一郎は、ドイツロマンチック街道の都市ローテンブルクのように、旧市街を歴史の面影を残す姿にしようと行動し、天領時代の街並みと明治の遺産を共存させた「倉敷美観地区」の原型となるプランを推し進めました。 -
朝鮮特需
話は実業界に戻ります。
総一郎のキャリアから分かるように、大原家はクラボウの経営から遠ざかります。長男の謙一郎(1940-)は、倉敷の地域振興に身を捧げます。ちなみに妻は、同じ岡山の名士犬養毅の孫娘です。
写真は1951年度の法人売上高ランキング。1位カネボウ、2位東洋紡、3,4位のちの新日鉄、と紡績がトップを占めました。クラボウは12位です。 -
安城工場(1951-)
前年から建設を開始し、88,800錘の規模と東洋一の新鋭工場として稼働しました。1958年には第4工場も竣工し、176,376錘/織機962台を擁する世界第2の工場となりました。
羊毛部門の津工場、染色の枚方工場等も、最新設備を入れました。 -
多角化
化学繊維の開発で蓄えたノウハウを生かして非繊維部門(化成品分野)へ進出、1962年に寝屋川工場を新設します。自動車/住宅建材、半導体/フィルム事業等が生まれます。
1960年代に繊維業は発展途上国へシフトし、業界としては合併を通して過剰設備を整理します。1973年のオイルショックでは、化繊/化成品の原料となる原油の値上がりで、紡績大手9社は全て赤字決算になります。 -
現在
繊維等の5部門を柱にしています。
紡績は安城工場オンリー、津工場は化成品部門にシフト、寝屋川をはじめとするほとんどの工場は化成品部門です。繊維は、静電気を引き起こさない等の差別化を図って生き残っています。不動産部門は、倉敷(万寿)工場跡にチボリ公園を誘致し、閉園後はショッピングモール(アリオ)を誘致しています。
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