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兼六園/偕楽園と並ぶ三名園のひとつです。<br />ミシュランのガイドブックで★★★評価を得ていることからも、外国人にもわかりやすい日本らしさを堪能できるスポットだと言えるのではないでしょうか。<br />後楽園の名称は明治に入ってから命名された等、意外な歴史が詰まったスポットです。<br />岡山城/城下町の旅行記は↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11882155<br />

後楽園:秋の午後に日本三名園を堪能する

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2023/11/07 - 2023/11/07

1655位(同エリア1681件中)

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gianiさん

この旅行記のスケジュール

この旅行記スケジュールを元に

兼六園/偕楽園と並ぶ三名園のひとつです。
ミシュランのガイドブックで★★★評価を得ていることからも、外国人にもわかりやすい日本らしさを堪能できるスポットだと言えるのではないでしょうか。
後楽園の名称は明治に入ってから命名された等、意外な歴史が詰まったスポットです。
岡山城/城下町の旅行記は↓
https://4travel.jp/travelogue/11882155

旅行の満足度
5.0

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  • 旧西国街道を奉還町商店街から東進すると後楽園通りという名称が付されます。西国街道は右へ折れますが、後楽園通りは真っ直ぐ東へ延びます。

    旧西国街道を奉還町商店街から東進すると後楽園通りという名称が付されます。西国街道は右へ折れますが、後楽園通りは真っ直ぐ東へ延びます。

  • 通りの北側には、地元の名門就実学園が。

    通りの北側には、地元の名門就実学園が。

  • 通りを進むと

    通りを進むと

  • 鶴見橋で旭川を渡ります。

    鶴見橋で旭川を渡ります。

    鶴見橋 名所・史跡

  • 橋から下流を眺めると、旭川が分岐して中洲が存在します。中洲部分に整備されたのが後楽園です。

    橋から下流を眺めると、旭川が分岐して中洲が存在します。中洲部分に整備されたのが後楽園です。

  • 全体図(1863)<br />全方向を旭川に囲まれています。岡山藩2代目藩主池田綱政の命で、1687年から断続的に整備されました。日本三名園の一つとされます。<br />※東京の小石川後楽園は水戸藩の大名庭園で、こちらの方が名称/造園共に歴史が古いです。

    全体図(1863)
    全方向を旭川に囲まれています。岡山藩2代目藩主池田綱政の命で、1687年から断続的に整備されました。日本三名園の一つとされます。
    ※東京の小石川後楽園は水戸藩の大名庭園で、こちらの方が名称/造園共に歴史が古いです。

  • 延養亭<br />敷地の北西に位置し、綱政の居間として建設されました。<br />園内で最も立派な建物で、明治天皇の岡山行在所としても使用されました。

    延養亭
    敷地の北西に位置し、綱政の居間として建設されました。
    園内で最も立派な建物で、明治天皇の岡山行在所としても使用されました。

    岡山後楽園 公園・植物園

  • 綱政は、建物の縁側に座って景色を眺めました。<br />1707年には能舞台も増築され、領民の前で綱政が能を舞いました。<br />6代藩主斉政の時代には、一度に6万人の領民が来園したという記録も残っています。<br />

    綱政は、建物の縁側に座って景色を眺めました。
    1707年には能舞台も増築され、領民の前で綱政が能を舞いました。
    6代藩主斉政の時代には、一度に6万人の領民が来園したという記録も残っています。

  • 縁側には、意匠に富む水路が配されています。<br />延養亭は岡山大空襲で焼失し、1960年に再建されました。

    縁側には、意匠に富む水路が配されています。
    延養亭は岡山大空襲で焼失し、1960年に再建されました。

  • 借景<br />延養亭から東を望むと、遠くの操山が借景として利用されています。現在も、ここからの視界にビル等が写り込まないよう条例規制され、江戸時代から続く景観が守られています。

    借景
    延養亭から東を望むと、遠くの操山が借景として利用されています。現在も、ここからの視界にビル等が写り込まないよう条例規制され、江戸時代から続く景観が守られています。

  • 鶴鳴館<br />延養亭に隣接して建ちます。1949年に吉川邸(旧岩国藩主)を移築しました。園内の建物はすべて県民の財産なので、破格の値段で貸出されます。

    鶴鳴館
    延養亭に隣接して建ちます。1949年に吉川邸(旧岩国藩主)を移築しました。園内の建物はすべて県民の財産なので、破格の値段で貸出されます。

  • 北側の景観<br />寒翠細響軒が見えます。冴えた緑色/細やかな響きという意味があり、背後の松の緑と沢の池の水の響きが由来とされています。

    北側の景観
    寒翠細響軒が見えます。冴えた緑色/細やかな響きという意味があり、背後の松の緑と沢の池の水の響きが由来とされています。

  • 正面には、広大な沢の池があります。池には、砂利島/御野島/中の島が浮かびます。中央の砂利島は、左の突き出した部分と繋がっていましたが、いつしか切り離されて島と化しました。

    正面には、広大な沢の池があります。池には、砂利島/御野島/中の島が浮かびます。中央の砂利島は、左の突き出した部分と繋がっていましたが、いつしか切り離されて島と化しました。

  • 綱政は、素朴な田園風景を好んだとされます。当時、面積の3/4を占めたのは田畑でした。

    綱政は、素朴な田園風景を好んだとされます。当時、面積の3/4を占めたのは田畑でした。

  • 凪ぐと巨大な鏡と化します。<br />

    凪ぐと巨大な鏡と化します。

  • 後楽園は、歴代藩主の趣向/気分や社会事情を反映して、今に伝わりました。

    後楽園は、歴代藩主の趣向/気分や社会事情を反映して、今に伝わりました。

  • そうした意味で、庭園は生き物、絶えず変化するものでした。<br />左奥の建物は慈眼堂で、綱政が篤く信仰していた観音像2体が安置され、歴代藩主と家老は年3回参拝する必要がありました。右隣の鳥居の先には5代藩主治政が勧請した稲荷宮、10代藩主章政が旧江戸藩邸から遷座した由加神社があります。

    そうした意味で、庭園は生き物、絶えず変化するものでした。
    左奥の建物は慈眼堂で、綱政が篤く信仰していた観音像2体が安置され、歴代藩主と家老は年3回参拝する必要がありました。右隣の鳥居の先には5代藩主治政が勧請した稲荷宮、10代藩主章政が旧江戸藩邸から遷座した由加神社があります。

  • 手前には、中の島が浮かびます。中の島へは石橋を渡って行けます。奥の建物は中の島に建つ島茶屋で、1934年の室戸台風の水害で損傷。

    手前には、中の島が浮かびます。中の島へは石橋を渡って行けます。奥の建物は中の島に建つ島茶屋で、1934年の室戸台風の水害で損傷。

  • 中の島の左奥には、御野島が浮かびます。釣殿と呼ばれる東屋が見えます。屋根には鳳凰が付いています。

    中の島の左奥には、御野島が浮かびます。釣殿と呼ばれる東屋が見えます。屋根には鳳凰が付いています。

  • 実は、岡山城の背後に立地するので「御後園」という名称でした。<br />1871(M.4)年に池田章政(10代藩主/岡山藩知事)は、名称を「後楽園」に改めました。中国古典の一節「先憂後楽」から採られました。常に民に先立って国を憂い、民が楽しんだ後に自分が楽しむという意味があります。

    実は、岡山城の背後に立地するので「御後園」という名称でした。
    1871(M.4)年に池田章政(10代藩主/岡山藩知事)は、名称を「後楽園」に改めました。中国古典の一節「先憂後楽」から採られました。常に民に先立って国を憂い、民が楽しんだ後に自分が楽しむという意味があります。

  • 第3代藩主池田継政は、池の南面に築山を築きました。

    第3代藩主池田継政は、池の南面に築山を築きました。

  • 拡大<br />幾つかの稜線から成ります。

    拡大
    幾つかの稜線から成ります。

  • 築山は唯心山と呼ばれ、高さ6m。景観に立体感を与えました。山頂からの眺めが白眉です。<br />山頂からの光景を3枚のパノラマで見てみます。

    築山は唯心山と呼ばれ、高さ6m。景観に立体感を与えました。山頂からの眺めが白眉です。
    山頂からの光景を3枚のパノラマで見てみます。

  • 左から

    左から

  • 中央、

    中央、

  • 右側。

    右側。

  • 芝が水田のように見えます。

    芝が水田のように見えます。

  • ちなみに地上から芝生を見るとこんな感じで、味気ないです。マジックのようです。

    ちなみに地上から芝生を見るとこんな感じで、味気ないです。マジックのようです。

  • 井田<br />現在田圃として残っているのは、この部分だけです。<br />5代藩主治政は1771年に倹約のために田畑を芝生に変えますが、12年後に園の東側は田畑に戻されます。井田は、その名残です。<br />※倹約…園内の田畑で耕作する農夫の人件費削減

    井田
    現在田圃として残っているのは、この部分だけです。
    5代藩主治政は1771年に倹約のために田畑を芝生に変えますが、12年後に園の東側は田畑に戻されます。井田は、その名残です。
    ※倹約…園内の田畑で耕作する農夫の人件費削減

  • 継政は唯心山を築くなど、沢の池の各地点ごとに景色が変化する回遊式庭園というスタイルを取り入れました。<br />手前の水路のように見える「ひょうたん池」を設けたのも、継政です。

    継政は唯心山を築くなど、沢の池の各地点ごとに景色が変化する回遊式庭園というスタイルを取り入れました。
    手前の水路のように見える「ひょうたん池」を設けたのも、継政です。

  • 縦横自在に伸びる池が幾重にも重なる妙は、ほかの名園では味わえないオリジナルのエッセンスだと思います。

    縦横自在に伸びる池が幾重にも重なる妙は、ほかの名園では味わえないオリジナルのエッセンスだと思います。

  • 唯心山を下ります。

    唯心山を下ります。

  • 唯心山を囲む水路<br />

    唯心山を囲む水路

  • ひょうたん池<br />幾分湾曲した水路のような形をしていますが、若干中央部が窪んでいて瓢箪の形をしていると表現できる形状です。地上から見ると、不思議な光景です。

    ひょうたん池
    幾分湾曲した水路のような形をしていますが、若干中央部が窪んでいて瓢箪の形をしていると表現できる形状です。地上から見ると、不思議な光景です。

  • 曲水<br />右奥より唯心山、水路、ひょうたん池の順の構図。<br />池同士の高低差も感じられます。<br />水路が蛇行する景観は、曲水と呼ばれます。

    曲水
    右奥より唯心山、水路、ひょうたん池の順の構図。
    池同士の高低差も感じられます。
    水路が蛇行する景観は、曲水と呼ばれます。

  • 廉池軒<br />綱政の時代に建てられ、記録を見ると本人が一番入り浸っていたスポットです。上の写真も、廉池軒のそばから撮ったものです。

    廉池軒
    綱政の時代に建てられ、記録を見ると本人が一番入り浸っていたスポットです。上の写真も、廉池軒のそばから撮ったものです。

  • 廉池軒の前の池<br />旭川の水をこの池に通し、ここからひょうたん池を経て最大の沢の池へ導水しました。

    廉池軒の前の池
    旭川の水をこの池に通し、ここからひょうたん池を経て最大の沢の池へ導水しました。

  • 池には、石橋が架かっています。<br />実は、園内で戦災を免れた貴重な建物です。

    池には、石橋が架かっています。
    実は、園内で戦災を免れた貴重な建物です。

  • 廉池軒は、さざなみ茶屋を利用することで藩主と同じ目線で景色を楽しめます。<br />

    廉池軒は、さざなみ茶屋を利用することで藩主と同じ目線で景色を楽しめます。

    さざなみ茶屋 グルメ・レストラン

  • 余談ですが、池田家は財政難に伴い、莫大な維持費の掛かる後楽園を1884年に県に売却、園は県庁付属地となります。営業を許可された茶店は3店のみでした。

    余談ですが、池田家は財政難に伴い、莫大な維持費の掛かる後楽園を1884年に県に売却、園は県庁付属地となります。営業を許可された茶店は3店のみでした。

  • 唯心山の景観と並ぶ、園のハイライトです。

    唯心山の景観と並ぶ、園のハイライトです。

  • 廉池軒のすぐ裏は、水源である旭川です。

    廉池軒のすぐ裏は、水源である旭川です。

  • 唯心山を挟んで廉池軒の反対(東)側の流店へ向かいます。

    唯心山を挟んで廉池軒の反対(東)側の流店へ向かいます。

  • 園内マップ

    園内マップ

  • 流店(りゅうてん)<br />名前の通り、建物内のど真ん中を水路が縦断して流れています。<br />両側の板張りの床の中央に水路が流れ、音と気化熱で涼を楽しみました。<br />今回は、結婚式の撮影中でした。

    流店(りゅうてん)
    名前の通り、建物内のど真ん中を水路が縦断して流れています。
    両側の板張りの床の中央に水路が流れ、音と気化熱で涼を楽しみました。
    今回は、結婚式の撮影中でした。

  • 6つの奇石を配しています。<br />こちらも戦災を免れた貴重な建築です。<br />当時は、水路沿いにカキツバタが植えられていました。

    6つの奇石を配しています。
    こちらも戦災を免れた貴重な建築です。
    当時は、水路沿いにカキツバタが植えられていました。

  • ほかの見どころは、桜林、つつじ、茶畑、蓮池等です。藩政時代には、鶴が放し飼いされていました。<br />11月上旬の訪問なので、これらを楽しむには春夏にも訪れる必要があります。楽しみな宿題が増えました。

    ほかの見どころは、桜林、つつじ、茶畑、蓮池等です。藩政時代には、鶴が放し飼いされていました。
    11月上旬の訪問なので、これらを楽しむには春夏にも訪れる必要があります。楽しみな宿題が増えました。

  • 奥の左右には一面の茶畑。青い屋根の建物は新殿/新御殿と呼ばれ、高床式で一歩高い目線から茶畑越しに西方向の園の風景を楽しめます。県民の財産なので、普通に貸し出されています。

    奥の左右には一面の茶畑。青い屋根の建物は新殿/新御殿と呼ばれ、高床式で一歩高い目線から茶畑越しに西方向の園の風景を楽しめます。県民の財産なので、普通に貸し出されています。

  • 景観破壊<br />1934年の水害、1945年の空襲が挙げられます。1947年の占領軍宿舎としての接収時には、園内に25mプールが建設されるなど景観破壊がピークに達します。こうした困難を経て、1967年に現在の状態まで回復されました。<br />番外編としては、1756年の水不足時には園内に旭川の水を引くのを自粛しました。

    景観破壊
    1934年の水害、1945年の空襲が挙げられます。1947年の占領軍宿舎としての接収時には、園内に25mプールが建設されるなど景観破壊がピークに達します。こうした困難を経て、1967年に現在の状態まで回復されました。
    番外編としては、1756年の水不足時には園内に旭川の水を引くのを自粛しました。

  • 藤棚の下が客席の福見茶屋、城見茶屋と碧水園を越えると南門です。

    藤棚の下が客席の福見茶屋、城見茶屋と碧水園を越えると南門です。

    碧水園 グルメ・レストラン

  • 旭川と対岸の岡山城

    旭川と対岸の岡山城

    岡山城 名所・史跡

  • 現在は月見橋が城と園を結びます。

    現在は月見橋が城と園を結びます。

    月見橋 名所・史跡

  • 歴代藩主は、政務の合間に舟で渡りました。歴史的には、南門付近の舟入跡が後楽園の正面玄関と言えます。<br />次の旅行記↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11860471

    歴代藩主は、政務の合間に舟で渡りました。歴史的には、南門付近の舟入跡が後楽園の正面玄関と言えます。
    次の旅行記↓
    https://4travel.jp/travelogue/11860471

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