羽黒・余目旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「最上川舟下り」を終えた後はバスに乗って「羽黒山五重塔」の見学になります。途中の車窓からは新緑の山とところどころにワンポイントになった山桜の花がきれいに見えます。かなり山道を走ると道路の脇には雪が残っていました。駐車場でバスを降りて添乗員さんを先頭に「随神門」から杉小谷の中の石段を下り国宝の「羽黒山五重塔」に向かいます。長い石段を下るということは最後に登らなければならないということです。途中からは小さい社が並び、厳かな雰囲気になってきます。坂の途中から杉の木はどんどん太くなり、禊川の対岸には「須賀の滝」という神域も見えてきます。参道を進むと「爺杉」という樹齢1000年を超える古木がそびえています。その木立から五重塔も見えました。他の皆さんはすでに戻りかけていますが、我々は最後に到着しました。こんな山中になぜ建てたのかが気になります。しばらく対峙した後は同じルートを戻ります。本当はこのまま先へ進めば羽黒山の山頂まで行けるのですが、年配者の多いツアーではバスで上まで行ってくれます。本当は金剛杖を持って登りたいところでした。母が亡くなって実家を片付けてると、子供の頃に家族で登った富士登山の焼き印の押された金剛杖が出てきました。1本くらい残しておけば良かったと思いますが、その時は余裕もなくすべて処分してしまったのが悔やまれます。山頂の駐車場でバスを降りた後は山伏のガイドさんが「三神合祭殿」参拝までの道中を案内してくれます。法螺貝を拭いてスタートするのですが、子供の頃に父に連れられて、紀伊半島の多き根さんを縦走したことを思い出しました。この時は山伏の一行と一緒に山を登り、西の覗では崖の上から逆さ吊りにされる修行もし、一行と同じ宿坊に泊まりました。そんな思い出がよみがえってきます。「三神合祭殿」では全員で本堂の中で御祈祷もしていただきました。旅については父との思い出が強く残っているので、国内を旅しているといろいろな所でその足跡を辿ってしまうことがあります。バスは来た道を戻り、この日宿泊する「湯野浜温泉」に向かいます。<br />

クラブツーリズム おいしい山形庄内旅(3)妻への結婚記念日のプレゼントは随神門から国宝五重塔往復し、三神合祭殿で御祈祷を受ける。

4いいね!

2023/04/25 - 2023/04/25

154位(同エリア191件中)

旅行記グループ 2023山形庄内の旅

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kojikoji

kojikojiさん

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「最上川舟下り」を終えた後はバスに乗って「羽黒山五重塔」の見学になります。途中の車窓からは新緑の山とところどころにワンポイントになった山桜の花がきれいに見えます。かなり山道を走ると道路の脇には雪が残っていました。駐車場でバスを降りて添乗員さんを先頭に「随神門」から杉小谷の中の石段を下り国宝の「羽黒山五重塔」に向かいます。長い石段を下るということは最後に登らなければならないということです。途中からは小さい社が並び、厳かな雰囲気になってきます。坂の途中から杉の木はどんどん太くなり、禊川の対岸には「須賀の滝」という神域も見えてきます。参道を進むと「爺杉」という樹齢1000年を超える古木がそびえています。その木立から五重塔も見えました。他の皆さんはすでに戻りかけていますが、我々は最後に到着しました。こんな山中になぜ建てたのかが気になります。しばらく対峙した後は同じルートを戻ります。本当はこのまま先へ進めば羽黒山の山頂まで行けるのですが、年配者の多いツアーではバスで上まで行ってくれます。本当は金剛杖を持って登りたいところでした。母が亡くなって実家を片付けてると、子供の頃に家族で登った富士登山の焼き印の押された金剛杖が出てきました。1本くらい残しておけば良かったと思いますが、その時は余裕もなくすべて処分してしまったのが悔やまれます。山頂の駐車場でバスを降りた後は山伏のガイドさんが「三神合祭殿」参拝までの道中を案内してくれます。法螺貝を拭いてスタートするのですが、子供の頃に父に連れられて、紀伊半島の多き根さんを縦走したことを思い出しました。この時は山伏の一行と一緒に山を登り、西の覗では崖の上から逆さ吊りにされる修行もし、一行と同じ宿坊に泊まりました。そんな思い出がよみがえってきます。「三神合祭殿」では全員で本堂の中で御祈祷もしていただきました。旅については父との思い出が強く残っているので、国内を旅しているといろいろな所でその足跡を辿ってしまうことがあります。バスは来た道を戻り、この日宿泊する「湯野浜温泉」に向かいます。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム
  • 午後3時になって「羽黒山五重塔」の観光が始まります。羽黒山は会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいるようです。

    午後3時になって「羽黒山五重塔」の観光が始まります。羽黒山は会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいるようです。

    羽黒山天地金神社 寺・神社・教会

  • 山岳修験の道場である月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山といい、このうち羽黒山には三山の神を祀る「三神合祭殿」があり、そこへ至る参道の途中の木立の中に五重塔が建っています。「羽黒山」は出羽三山の表玄関とされ、昔から「西の伊勢参り、東の奥参り」と呼ばれるほど信仰のある地でもあります。

    山岳修験の道場である月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山といい、このうち羽黒山には三山の神を祀る「三神合祭殿」があり、そこへ至る参道の途中の木立の中に五重塔が建っています。「羽黒山」は出羽三山の表玄関とされ、昔から「西の伊勢参り、東の奥参り」と呼ばれるほど信仰のある地でもあります。

  • 今回のツアーでは五重塔を見学した後は再びここへ戻り、バスで山頂の「三神合祭殿」まで移動するようです。先に山頂まで行って、下りだけでも参道を歩きたいと思いました。まぁ同じツアーの参加者の方は70歳以上の方がほとんどなので、なるべく歩かない日程が組まれているようです。

    今回のツアーでは五重塔を見学した後は再びここへ戻り、バスで山頂の「三神合祭殿」まで移動するようです。先に山頂まで行って、下りだけでも参道を歩きたいと思いました。まぁ同じツアーの参加者の方は70歳以上の方がほとんどなので、なるべく歩かない日程が組まれているようです。

  • 羽黒山参詣道の入り口に建つ、赤い山門が「随神門」で、左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々が安置されています。元々は仁王門と呼ばれていましたが、明治の神仏分離により像も入れ替わったようです。

    羽黒山参詣道の入り口に建つ、赤い山門が「随神門」で、左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々が安置されています。元々は仁王門と呼ばれていましたが、明治の神仏分離により像も入れ替わったようです。

  • 山頂から歩きたい人と、この随神門から往復する人とかかる時間は同じような気がするのですが。今回のツアーの日程は修正の余地があるように感じます。「石段詣」は「お注連」をかけて参りたかったのですが、団体行動なので随神門授与所に寄っている時間はありません。最も全部を歩くわけではないので授与されないのかもしれません。

    山頂から歩きたい人と、この随神門から往復する人とかかる時間は同じような気がするのですが。今回のツアーの日程は修正の余地があるように感じます。「石段詣」は「お注連」をかけて参りたかったのですが、団体行動なので随神門授与所に寄っている時間はありません。最も全部を歩くわけではないので授与されないのかもしれません。

  • 「随神門」の脇にあったのは「天拝石」というもので、この石を通して天を祭ったもので、修験者の行法を行った場所の石です。麓の個人宅にあったものを昭和16年の1941年に移転したと説明文に書かれてありました。

    「随神門」の脇にあったのは「天拝石」というもので、この石を通して天を祭ったもので、修験者の行法を行った場所の石です。麓の個人宅にあったものを昭和16年の1941年に移転したと説明文に書かれてありました。

  • 左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々の豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と弓矢をもって鎮座しています。

    左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々の豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と弓矢をもって鎮座しています。

  • この象は宝暦2年の1752年に大仏師大熊宮内の作ということなので、明治の廃仏毀釈の後に造られたものではないことが分かります。

    この象は宝暦2年の1752年に大仏師大熊宮内の作ということなので、明治の廃仏毀釈の後に造られたものではないことが分かります。

  • 「随身門」をくぐるとすぐに急な下りの石段が現れます。この「継子坂(ままこざか)」は特別天然記念物の「羽黒山参道と杉並木」の2446段の石段が続いています。果たしてここまで戻ってこれるだろうかと振り返ってみます。

    「随身門」をくぐるとすぐに急な下りの石段が現れます。この「継子坂(ままこざか)」は特別天然記念物の「羽黒山参道と杉並木」の2446段の石段が続いています。果たしてここまで戻ってこれるだろうかと振り返ってみます。

  • 山頂までの石段にはひょうたんや杯、蓮や天狗などの絵が33個彫られていて、その中の18個の絵を見つけると願いが叶うと言われていますが、写真を撮るのが精いっぱいでそんな余裕はありません。

    山頂までの石段にはひょうたんや杯、蓮や天狗などの絵が33個彫られていて、その中の18個の絵を見つけると願いが叶うと言われていますが、写真を撮るのが精いっぱいでそんな余裕はありません。

  • 真っすぐ伸びた杉の木立の美しさに驚かされます。山頂までの1.7キロの道中には右に284本、左に301本の樹齢300年から500年を超える老杉が植林されています。慶長初期から寛永期の間に第48代別当の宥源、第49代の宥俊、第50代の天宥までの3代が十数年の歳月をかけて植えたものです。

    真っすぐ伸びた杉の木立の美しさに驚かされます。山頂までの1.7キロの道中には右に284本、左に301本の樹齢300年から500年を超える老杉が植林されています。慶長初期から寛永期の間に第48代別当の宥源、第49代の宥俊、第50代の天宥までの3代が十数年の歳月をかけて植えたものです。

  • 下りきった辺りには小さな祠がいくつも見えます。思い返せば峯入りするのは中学1年生の時に父と弟と紀伊半島の大峰山を山伏の人たちと一緒に登って以来です。西の覗という岩場でロープを肩に掛けて逆さ吊りされたのも良い思い出です。

    下りきった辺りには小さな祠がいくつも見えます。思い返せば峯入りするのは中学1年生の時に父と弟と紀伊半島の大峰山を山伏の人たちと一緒に登って以来です。西の覗という岩場でロープを肩に掛けて逆さ吊りされたのも良い思い出です。

  • 「磐裂神社(いわさくじんじゃ)」祭神の磐裂神は「古事記」の神産みの段で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が十拳剣で妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の死因となった火神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について2つの神が生まれました。<br />

    「磐裂神社(いわさくじんじゃ)」祭神の磐裂神は「古事記」の神産みの段で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が十拳剣で妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の死因となった火神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について2つの神が生まれました。

  • 「根裂神社(ねさくじんじゃ)」祭神の根裂神は「日本書紀」でも同様で、磐裂神と根裂神の子として磐筒男神と磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしています。

    「根裂神社(ねさくじんじゃ)」祭神の根裂神は「日本書紀」でも同様で、磐裂神と根裂神の子として磐筒男神と磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしています。

  • 「五十猛神社(いたけるじんじゃ)」の祭神の五十猛神は須佐之男命(すさそうのみこと)の子で、大屋津姫命と枛津姫命は妹にあたります。林業の神として信仰され、土の船を作り海を渡ったことから、造船や航海安全、大漁の神として信仰されました。

    「五十猛神社(いたけるじんじゃ)」の祭神の五十猛神は須佐之男命(すさそうのみこと)の子で、大屋津姫命と枛津姫命は妹にあたります。林業の神として信仰され、土の船を作り海を渡ったことから、造船や航海安全、大漁の神として信仰されました。

  • 「随神門」からこれだけの階段を下りてきました。下るだけでも少々疲れましたが、後でこれを登ると思うと気が重くなってきます。

    「随神門」からこれだけの階段を下りてきました。下るだけでも少々疲れましたが、後でこれを登ると思うと気が重くなってきます。

  • 「大年神社(おおとしじんじゃ)」の祭神は大年神は日本神話では「古事記」において須佐之男命と神大市比売の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としています。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神とされています。

    「大年神社(おおとしじんじゃ)」の祭神は大年神は日本神話では「古事記」において須佐之男命と神大市比売の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としています。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神とされています。

  • 「天神社(てんじんじゃ)」の祭神は少彦名神は「古事記」によれば大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗り、波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加しました。また国造りの協力神、常世の神、酒造とされます。

    「天神社(てんじんじゃ)」の祭神は少彦名神は「古事記」によれば大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗り、波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加しました。また国造りの協力神、常世の神、酒造とされます。

  • 「豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)」の祭神の豊玉姫神は初代天皇の神武天皇の父方の祖母、母方の伯母として知られます。ようやく知った名前が出てきたような気がします。海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされます。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)という怪物とされます。

    「豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)」の祭神の豊玉姫神は初代天皇の神武天皇の父方の祖母、母方の伯母として知られます。ようやく知った名前が出てきたような気がします。海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされます。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)という怪物とされます。

  • 「随神門」より「継子坂」を下りると祓川に掛かる「神橋」に出ました。昔の三山詣での人々は必ず祓川の流れに身を沈め、水垢離をとって三山への登拝の途につきました。朱塗りの美しい「神橋」は向かいの懸崖から落ちる「須賀の滝」と相対し、その景観は美しいです。

    「随神門」より「継子坂」を下りると祓川に掛かる「神橋」に出ました。昔の三山詣での人々は必ず祓川の流れに身を沈め、水垢離をとって三山への登拝の途につきました。朱塗りの美しい「神橋」は向かいの懸崖から落ちる「須賀の滝」と相対し、その景観は美しいです。

    祓川 (京田川) 自然・景勝地

  • 「須賀の瀧」は承応3年の1654年当時の別当の天宥により月山山麓の水呑沢より約8キロの間を引水して祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けられました。一般的には神域とは「随神門」と伝えられていますが、ここより山上と山麓を呼び分け、明治維新までは山上には本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいました。

    「須賀の瀧」は承応3年の1654年当時の別当の天宥により月山山麓の水呑沢より約8キロの間を引水して祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けられました。一般的には神域とは「随神門」と伝えられていますが、ここより山上と山麓を呼び分け、明治維新までは山上には本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいました。

  • 「祓川神社(はらいがわじんじゃ)」の祭神は瀬織津比咩神(せおりつひめがみ)、速開津比咩神(はやあきつひめがみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめがみ)で、川の早瀬や地底に関わる女神が祀られています。

    「祓川神社(はらいがわじんじゃ)」の祭神は瀬織津比咩神(せおりつひめがみ)、速開津比咩神(はやあきつひめがみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめがみ)で、川の早瀬や地底に関わる女神が祀られています。

  • 「須賀の瀧」は明治時代までは「不動滝」とか「御祓滝」と呼ばれていましたが、明治3年の1870年に初代宮司となった西川須賀雄は須佐之男命と奇稲田姫神が結婚し、宮を建てる土地を求め出雲の須賀の地に着いたことから滝の名前を「須賀の瀧」に改めたそうですが、自分の名の2文字を滝の名前にするとはすごいと思います。

    「須賀の瀧」は明治時代までは「不動滝」とか「御祓滝」と呼ばれていましたが、明治3年の1870年に初代宮司となった西川須賀雄は須佐之男命と奇稲田姫神が結婚し、宮を建てる土地を求め出雲の須賀の地に着いたことから滝の名前を「須賀の瀧」に改めたそうですが、自分の名の2文字を滝の名前にするとはすごいと思います。

  • 「神橋」は清流と杉木立の中に朱塗りの橋が美しいです。

    「神橋」は清流と杉木立の中に朱塗りの橋が美しいです。

  • 「岩戸分神社(いわとわけじんじゃ)」の祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸から顔をのぞかせた時、天照大神を引きずり出した神として有名です。

    「岩戸分神社(いわとわけじんじゃ)」の祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸から顔をのぞかせた時、天照大神を引きずり出した神として有名です。

  • 「注連掛け桜」がありました。注連は結界を意味し、山中の魔障が憑かないようにするものです。本来羽黒山参りを終えた信仰者は、秡川の橋の前で注連を外し、その袂にある「注連かけ桜」に注連を掛けてから橋を渡って現世に戻りました。

    「注連掛け桜」がありました。注連は結界を意味し、山中の魔障が憑かないようにするものです。本来羽黒山参りを終えた信仰者は、秡川の橋の前で注連を外し、その袂にある「注連かけ桜」に注連を掛けてから橋を渡って現世に戻りました。

  • 「下居社(おりいじゃ)」の祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、句々延馳神(くくのち)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、水波女神(みづはのめのかみ)と盛りだくさんです。

    「下居社(おりいじゃ)」の祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、句々延馳神(くくのち)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、水波女神(みづはのめのかみ)と盛りだくさんです。

  • 先に五重塔まで行って、戻ってきた同じツアーの方が「すごいわよ。」と教えてくれたのが「羽黒山の爺杉」でした。ちょうど誰もいないタイミングなので写真を撮っておきます。

    先に五重塔まで行って、戻ってきた同じツアーの方が「すごいわよ。」と教えてくれたのが「羽黒山の爺杉」でした。ちょうど誰もいないタイミングなので写真を撮っておきます。

    羽黒山の爺スギ 名所・史跡

  • 杉の巨樹老木が多数生育する羽黒山の山中でも最大規模の杉であり、昭和26年の1951年に国の天然記念物に指定されています。推定される樹齢は約1,000年で、別名「千年杉」とも呼ばれ、秋田杉系列のもののようです。かつては同様の規模を誇る「婆(ばば)杉」と呼ばれる巨樹が並んで生育していましたが明治35年の1902年の暴風により倒れてしまったそうです。

    杉の巨樹老木が多数生育する羽黒山の山中でも最大規模の杉であり、昭和26年の1951年に国の天然記念物に指定されています。推定される樹齢は約1,000年で、別名「千年杉」とも呼ばれ、秋田杉系列のもののようです。かつては同様の規模を誇る「婆(ばば)杉」と呼ばれる巨樹が並んで生育していましたが明治35年の1902年の暴風により倒れてしまったそうです。

  • そこから杉木立越しに五重塔が見えてきました。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院がありましたが、今はなく五重塔だけが「一の坂」の登り口の左手に素木造りに柿葺、三間五層の優美な姿で建っています。

    そこから杉木立越しに五重塔が見えてきました。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院がありましたが、今はなく五重塔だけが「一の坂」の登り口の左手に素木造りに柿葺、三間五層の優美な姿で建っています。

  • 現在の塔は薬00年前の長慶天皇の文中年間に庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられています。

    現在の塔は薬00年前の長慶天皇の文中年間に庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられています。

  • しばらくこの景色を1人で眺めていましたが、何とも贅沢な風景です。

    しばらくこの景色を1人で眺めていましたが、何とも贅沢な風景です。

  • 先に行った妻を追いかけて「羽黒山五重塔」に着きました。塔は総高約29.2メートル、相輪を除いた塔身高は22.2メートルで、屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔です。

    先に行った妻を追いかけて「羽黒山五重塔」に着きました。塔は総高約29.2メートル、相輪を除いた塔身高は22.2メートルで、屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔です。

    羽黒山五重塔 寺・神社・教会

  • 明治時代の神仏分離により神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど取り壊されましたが、五重塔は取り壊されずに残された仏教式建築の1つです。

    明治時代の神仏分離により神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど取り壊されましたが、五重塔は取り壊されずに残された仏教式建築の1つです。

  • 2月の台湾旅行の前に立ち寄った成田山新勝寺の彩色された三重塔も美しかったですが、この五重塔は木組みの美しさが際立っています。国宝の五重塔は国内に9塔ありますが、広島の明王院と京都の木津川の海住山寺以外の7塔を見たことになります。

    2月の台湾旅行の前に立ち寄った成田山新勝寺の彩色された三重塔も美しかったですが、この五重塔は木組みの美しさが際立っています。国宝の五重塔は国内に9塔ありますが、広島の明王院と京都の木津川の海住山寺以外の7塔を見たことになります。

  • 五重塔は元々古代インドで釈迦の遺骨を祀った仏舎利塔(ストゥーパ)がルーツです。ストゥーパが古代インドから中国に仏教が伝来した際に「卒塔婆」と音訳され、それが略されたものが「塔」です。五重塔を構成する5つの楼閣を、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)といいます。5層それぞれは独自の世界(思想)を示し、仏教的な宇宙観を表しています。<br /><br />

    五重塔は元々古代インドで釈迦の遺骨を祀った仏舎利塔(ストゥーパ)がルーツです。ストゥーパが古代インドから中国に仏教が伝来した際に「卒塔婆」と音訳され、それが略されたものが「塔」です。五重塔を構成する5つの楼閣を、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)といいます。5層それぞれは独自の世界(思想)を示し、仏教的な宇宙観を表しています。

  • 宇宙観の「宇」は天地四方を表し、「宙」が古往今来(こおうこんらい=時間)を表す言葉で、空間と時間の広がりを指す言葉です。

    宇宙観の「宇」は天地四方を表し、「宙」が古往今来(こおうこんらい=時間)を表す言葉で、空間と時間の広がりを指す言葉です。

  • ツアーの方はとっくに戻ってしまったので妻と2人きりになってしまいました。

    ツアーの方はとっくに戻ってしまったので妻と2人きりになってしまいました。

  • 参道まで戻ると待っていてくれた添乗員さんが写真を撮ってくれました。

    参道まで戻ると待っていてくれた添乗員さんが写真を撮ってくれました。

  • 「神橋」を渡って現生に戻っていただきましょう。先日の別府の旅では地獄めぐりをして、あっちへ行ったり来たりなかなか忙しい人生です。

    「神橋」を渡って現生に戻っていただきましょう。先日の別府の旅では地獄めぐりをして、あっちへ行ったり来たりなかなか忙しい人生です。

  • 楽しい後には苦労が待っています。声を掛けても顔も上げられません。

    楽しい後には苦労が待っています。声を掛けても顔も上げられません。

  • 随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がります。随神門はこの広い神域の表玄関ということです。いつか三山を巡る旅にも行ってみたいと思います。

    随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がります。随神門はこの広い神域の表玄関ということです。いつか三山を巡る旅にも行ってみたいと思います。

  • 駐車場の周辺には軒に太い綱をつるしているのを見かけます。これは「松例祭(冬の峰)」に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えられています。これはバスのドライバーさんに教えてもらいました。

    駐車場の周辺には軒に太い綱をつるしているのを見かけます。これは「松例祭(冬の峰)」に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えられています。これはバスのドライバーさんに教えてもらいました。

  • バスはさらに羽黒山の山中を走ります。道路の脇には雪が積もっていたりしますが、木々には春が訪れています。

    バスはさらに羽黒山の山中を走ります。道路の脇には雪が積もっていたりしますが、木々には春が訪れています。

  • 標高が上がると時折日本海が見えたりします。

    標高が上がると時折日本海が見えたりします。

  • バスは10分くらいで山頂に到着しました。ここからは山伏の方が山中を案内してくれるようです。まずは法螺貝を吹いてスタートします。

    バスは10分くらいで山頂に到着しました。ここからは山伏の方が山中を案内してくれるようです。まずは法螺貝を吹いてスタートします。

  • 「随神門」から続く杉並木は山頂まで続いていました。

    「随神門」から続く杉並木は山頂まで続いていました。

  • 普通だったら夫婦杉とか名前が付きそうですが、特に説明もありませんでした。

    普通だったら夫婦杉とか名前が付きそうですが、特に説明もありませんでした。

  • 「蜂子皇子(はちのこのおうじ)」は欽明天皇23年の562年に崇峻天皇の第3皇子として誕生したと伝わります。崇峻天皇5年の592年に父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良から海を船で北へと向います。そして八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、近くの海岸に上陸しました。蜂子皇子は海岸から三本足の烏に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われています。ここにはその蜂子皇子の墓がありました。皇子の墓は東北地方で唯一の皇族の墓で、現在も宮内庁によって管理されています。

    「蜂子皇子(はちのこのおうじ)」は欽明天皇23年の562年に崇峻天皇の第3皇子として誕生したと伝わります。崇峻天皇5年の592年に父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良から海を船で北へと向います。そして八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、近くの海岸に上陸しました。蜂子皇子は海岸から三本足の烏に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われています。ここにはその蜂子皇子の墓がありました。皇子の墓は東北地方で唯一の皇族の墓で、現在も宮内庁によって管理されています。

    蜂子皇子の墓 名所・史跡

  • 羽黒山伏の装束は紺と白の石畳模様(市松模様)の摺衣(すり)が印象的です。結袈裟ではなく太多須嬉(ふとだすき)に錫杖ではなく振鈴(ふりすず)を身に着けています。頭につけているのは頭巾(ときん)というものです。首にかけている太多須緒は出羽三山の「秋の峰入り」を3回以上の荒修行を積んだ方のみが着用を許されるそうです。

    羽黒山伏の装束は紺と白の石畳模様(市松模様)の摺衣(すり)が印象的です。結袈裟ではなく太多須嬉(ふとだすき)に錫杖ではなく振鈴(ふりすず)を身に着けています。頭につけているのは頭巾(ときん)というものです。首にかけている太多須緒は出羽三山の「秋の峰入り」を3回以上の荒修行を積んだ方のみが着用を許されるそうです。

  • 多数の末社が散在していますが、ここはそのままスルーでしたので、後で参拝することにします。

    多数の末社が散在していますが、ここはそのままスルーでしたので、後で参拝することにします。

  • 境内には松尾芭蕉の像も置かれてありました。元禄2年の1689年に松尾芭蕉と河合曾良は新庄の本合海から舟で最上川を下り清川で上陸します。その後は徒歩で狩川宿を経由し、夕方に出羽三山の宿坊街である手向宿に到着します。すっかり暗くなってから露丸子の道案内で羽黒山に登り、羽黒山本坊若王寺の別当代である会覚阿闍梨と合い、もてなしを受けて中腹にある南谷別院(高陽院紫苑寺)で宿泊しました。ここで「有難や 雪をかほらす 南谷」と詠んでいます

    境内には松尾芭蕉の像も置かれてありました。元禄2年の1689年に松尾芭蕉と河合曾良は新庄の本合海から舟で最上川を下り清川で上陸します。その後は徒歩で狩川宿を経由し、夕方に出羽三山の宿坊街である手向宿に到着します。すっかり暗くなってから露丸子の道案内で羽黒山に登り、羽黒山本坊若王寺の別当代である会覚阿闍梨と合い、もてなしを受けて中腹にある南谷別院(高陽院紫苑寺)で宿泊しました。ここで「有難や 雪をかほらす 南谷」と詠んでいます

  • 「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」<br />「加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那(かたられぬゆどのにぬらすたもとかな)」<br />「雲の峯 幾つ崩て 月の山」<br />

    「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」
    「加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那(かたられぬゆどのにぬらすたもとかな)」
    「雲の峯 幾つ崩て 月の山」

  • 最上川から出羽山へと進んできて、多少は松尾芭蕉を知ることが出来たでしょうか。母方の京都の家は芭蕉庵に出入りしていた小川破笠(おがわはりつ)と縁があり、奥座敷の書院の地袋には見事な破笠細工の引き戸が残されています。中学の時に俳句を作る授業があったのですが、才能がないと悟り筆を折りました。

    最上川から出羽山へと進んできて、多少は松尾芭蕉を知ることが出来たでしょうか。母方の京都の家は芭蕉庵に出入りしていた小川破笠(おがわはりつ)と縁があり、奥座敷の書院の地袋には見事な破笠細工の引き戸が残されています。中学の時に俳句を作る授業があったのですが、才能がないと悟り筆を折りました。

  • ここにもさざれ石が置かれてありました。「君が代」に歌われるさざれ石を初めて見た山王日枝神社で感激しましたが、その後各地の神社で見掛けるとありがたみは無くなりました。

    ここにもさざれ石が置かれてありました。「君が代」に歌われるさざれ石を初めて見た山王日枝神社で感激しましたが、その後各地の神社で見掛けるとありがたみは無くなりました。

  • 「天宥社」は羽黒山中興の祖と言われる天宥法印を祀った神社です。天宥法印は寛永7年の1630年に25歳で第50代羽黒山別当に就任しています。当時出羽三山は戦国時代の争乱や兵火により衰微し、各登山口が別個の勢力として統一制を欠き往時の勢いはありませんでした。天宥は幕府の実力者である天海大僧正が天台宗だったため、真言宗だった出羽三山全山を天台宗に改宗し幕府の庇護を得ようと画策し、寛永18年の1641年には天海僧正に弟子入りし、天海の「天」の字を賜り宥誉から「天宥」に改称しています。

    「天宥社」は羽黒山中興の祖と言われる天宥法印を祀った神社です。天宥法印は寛永7年の1630年に25歳で第50代羽黒山別当に就任しています。当時出羽三山は戦国時代の争乱や兵火により衰微し、各登山口が別個の勢力として統一制を欠き往時の勢いはありませんでした。天宥は幕府の実力者である天海大僧正が天台宗だったため、真言宗だった出羽三山全山を天台宗に改宗し幕府の庇護を得ようと画策し、寛永18年の1641年には天海僧正に弟子入りし、天海の「天」の字を賜り宥誉から「天宥」に改称しています。

  • 鳥居から先は開けていて、その奥に「三神合祭殿」などの施設があろうことが想像されます。

    鳥居から先は開けていて、その奥に「三神合祭殿」などの施設があろうことが想像されます。

  • 鳥居の扁額には出羽三山の神社の名前が書かれています。

    鳥居の扁額には出羽三山の神社の名前が書かれています。

  • 説明が終わったところで山伏の方と記念写真を撮らせていただきました。

    説明が終わったところで山伏の方と記念写真を撮らせていただきました。

  • 「出羽三山神社参集殿」から入って、ツアー全員で参拝した後に御祈祷をしていただくということはここにきて初めて知りました。

    「出羽三山神社参集殿」から入って、ツアー全員で参拝した後に御祈祷をしていただくということはここにきて初めて知りました。

    出羽三山神社 (三神合祭殿) 寺・神社・教会

  • 「鐘楼と建治の大鐘」は切妻造りの萱葺きで、小さいですが豪壮な建物です。最上家信の寄進で元和4年再建され、山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物です。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では東大寺や金剛峰寺に次いで古いものです。

    「鐘楼と建治の大鐘」は切妻造りの萱葺きで、小さいですが豪壮な建物です。最上家信の寄進で元和4年再建され、山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物です。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では東大寺や金剛峰寺に次いで古いものです。

  • 鐘の口径1.68メートル(5尺5寸5分)、唇の厚み22センチ(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05メートル(6尺7寸5分)、笠形の高さ13センチ(4寸4分)、龍頭の高さ68センチ(2尺2寸3分)あります。この鐘は文永弘安の蒙古襲来の際に羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は羽黒山の霊威を感じて鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て羽黒山に奉ったといわれます。

    鐘の口径1.68メートル(5尺5寸5分)、唇の厚み22センチ(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05メートル(6尺7寸5分)、笠形の高さ13センチ(4寸4分)、龍頭の高さ68センチ(2尺2寸3分)あります。この鐘は文永弘安の蒙古襲来の際に羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は羽黒山の霊威を感じて鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て羽黒山に奉ったといわれます。

  • 「鏡池」東西38メートル南北28メートルの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、羽黒信仰の中心でもあったそうです。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え、古来より多くの人々により奉納された銅鏡が埋納されているので鏡池といいます。

    「鏡池」東西38メートル南北28メートルの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、羽黒信仰の中心でもあったそうです。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え、古来より多くの人々により奉納された銅鏡が埋納されているので鏡池といいます。

  • 「神輿舎」は名前の通り神輿などを納める建物ですが、夏に行われる花祭りの神輿が納められているのでしょうか。

    「神輿舎」は名前の通り神輿などを納める建物ですが、夏に行われる花祭りの神輿が納められているのでしょうか。

  • 「東照社」は寛永18年の1641年に第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の1つに東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出ました。天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年の1645年に藩主は社殿を寄進した。以来は歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきました。明治時代に東照宮は「東照社」と改められ、現在の社殿は昭和55年に解体復元したもののようです。天宥別当の勧請のねらいは東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃に緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあったようです。

    「東照社」は寛永18年の1641年に第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の1つに東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出ました。天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年の1645年に藩主は社殿を寄進した。以来は歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきました。明治時代に東照宮は「東照社」と改められ、現在の社殿は昭和55年に解体復元したもののようです。天宥別当の勧請のねらいは東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃に緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあったようです。

  • 境内の説明が終わり、「出羽三山神社参集殿」に向かいます。ここにも「松例祭(しょうれいさい)引綱」の綱が祀られ、由来が書かれてありました。毎年大晦日から明くる元旦にかけて夜を徹して行われることから別名「歳夜祭」ともいわれ、羽黒修験の四季の峰のひとつ「冬の峰」の満願の祭事です。12月30日は地元地区の若者が昇山し「位上方」と「先途方」に分かれ、悪魔に擬した「ツツガムシ」をかたどった2体の大松明を作る「大松明まるき」があります。以降すべての行事はこの位上方と先途方の優劣と遅速等、競争の形をとり進められていきます。

    境内の説明が終わり、「出羽三山神社参集殿」に向かいます。ここにも「松例祭(しょうれいさい)引綱」の綱が祀られ、由来が書かれてありました。毎年大晦日から明くる元旦にかけて夜を徹して行われることから別名「歳夜祭」ともいわれ、羽黒修験の四季の峰のひとつ「冬の峰」の満願の祭事です。12月30日は地元地区の若者が昇山し「位上方」と「先途方」に分かれ、悪魔に擬した「ツツガムシ」をかたどった2体の大松明を作る「大松明まるき」があります。以降すべての行事はこの位上方と先途方の優劣と遅速等、競争の形をとり進められていきます。

  • 「出羽三山神社参集殿」から「三神合祭殿」に入り参拝します。その後は一段奥に入り、頭を垂れて御祈祷を受けました。これはとても厳かなもので、60歳を過ぎるといろいろ想うところもあり、ありがたく感じました。御祈祷の費用も含めてこんな安いツアーで良いのかと思います。

    「出羽三山神社参集殿」から「三神合祭殿」に入り参拝します。その後は一段奥に入り、頭を垂れて御祈祷を受けました。これはとても厳かなもので、60歳を過ぎるといろいろ想うところもあり、ありがたく感じました。御祈祷の費用も含めてこんな安いツアーで良いのかと思います。

  • 「三神合祭殿」は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28メートル(9丈3尺)桁行24.2メートル(13間2尺)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで屋根の厚さは2.1メートル(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物です。

    「三神合祭殿」は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28メートル(9丈3尺)桁行24.2メートル(13間2尺)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで屋根の厚さは2.1メートル(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物です。

  • 現在の合祭殿は文政元年の1818年にに完成したもので、当時工事に動員された大工は35,138人を始め木挽や塗師、葺師に石工に彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達しました。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員され、建設当時は赤松脂塗でしたが、昭和45年から47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となりました

    現在の合祭殿は文政元年の1818年にに完成したもので、当時工事に動員された大工は35,138人を始め木挽や塗師、葺師に石工に彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達しました。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員され、建設当時は赤松脂塗でしたが、昭和45年から47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となりました

  • 三山の開祖の蜂子皇子は難行苦行の末に羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神と湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したといわれます。明治の神仏分離後に大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を「三神合祭殿」と称しています。

    三山の開祖の蜂子皇子は難行苦行の末に羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神と湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したといわれます。明治の神仏分離後に大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を「三神合祭殿」と称しています。

  • 「三神合祭殿」は一般神社建築とは異なり、ひと棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山と羽黒山と湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されています。また御本殿長押には二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書とのことです。

    「三神合祭殿」は一般神社建築とは異なり、ひと棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山と羽黒山と湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されています。また御本殿長押には二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書とのことです。

  • 月山と湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので三山の年中恒例の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われます。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもありました。内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀っています。

    月山と湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので三山の年中恒例の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われます。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもありました。内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀っています。

  • 御祈祷を受けた後は三々五々にバスへ戻ります。先ほど参拝できなかった小さい社にも参ってみます。出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在しているようです。一番手前の「八坂神社」から奥へ進んでいきます。

    御祈祷を受けた後は三々五々にバスへ戻ります。先ほど参拝できなかった小さい社にも参ってみます。出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在しているようです。一番手前の「八坂神社」から奥へ進んでいきます。

  • 「八坂神社」の祭神は須佐之男命(すさのおおのみこと)です。神格は農業神で冥府の神でもあります。

    「八坂神社」の祭神は須佐之男命(すさのおおのみこと)です。神格は農業神で冥府の神でもあります。

  • 「思兼神社(おもいかねじんじゃ)」祭神は八意思兼神(やこころおもいかねのかみ)と大市姫神(おおいちひめのかみ)、しぎ山姫神(しぎやまのひめかみ)、稲荷神(いなりしん)、天八百日魂神(あめのやおひみたまのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)です。猿田彦大神以外は聞いたこともない神ばかりです。

    「思兼神社(おもいかねじんじゃ)」祭神は八意思兼神(やこころおもいかねのかみ)と大市姫神(おおいちひめのかみ)、しぎ山姫神(しぎやまのひめかみ)、稲荷神(いなりしん)、天八百日魂神(あめのやおひみたまのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)です。猿田彦大神以外は聞いたこともない神ばかりです。

  • 「白山神社」の祭神は菊理姫神で神格は白山の神で、農業神や出産の神、育児の神でもあります。星野之宣の「宗像教授伝奇考」という作品の中で、菊理媛(くくりひめ)と組紐と屈葬について描かれていたことを思い出します。

    「白山神社」の祭神は菊理姫神で神格は白山の神で、農業神や出産の神、育児の神でもあります。星野之宣の「宗像教授伝奇考」という作品の中で、菊理媛(くくりひめ)と組紐と屈葬について描かれていたことを思い出します。

  • 「大山祇神神社(おおやまつみじんじゃ)」祭神は大山祇神で、神格は山の神、海の神、酒造りの祖神です。

    「大山祇神神社(おおやまつみじんじゃ)」祭神は大山祇神で、神格は山の神、海の神、酒造りの祖神です。

  • 「稲荷神社」の祭神は保食神(うけもちのかみ)」で、神格は五穀の神、養蚕の起源神です。

    「稲荷神社」の祭神は保食神(うけもちのかみ)」で、神格は五穀の神、養蚕の起源神です。

  • 「建角身神社(たけつぬみじんじゃ)」の祭神は建角身神で、神武天皇を大和に導いた紙で八咫烏とも呼ばれます。神徳は旅の安全と健脚なので、たくさんの靴や下駄などが納められています。

    「建角身神社(たけつぬみじんじゃ)」の祭神は建角身神で、神武天皇を大和に導いた紙で八咫烏とも呼ばれます。神徳は旅の安全と健脚なので、たくさんの靴や下駄などが納められています。

  • 「大雷神社(おおいかずちじじゃ)」の祭神は大雷紙で、神格は稲作の守護神で武神でもあります。

    「大雷神社(おおいかずちじじゃ)」の祭神は大雷紙で、神格は稲作の守護神で武神でもあります。

  • 境内にはまだ雪が残り、春先だというのに巻きもまだ残っています。厳冬期は3メートルの積雪があるので厳しい修行の場所なのだと思います。参拝を終えてバスは湯野浜温泉に向けてラストスパートです。

    境内にはまだ雪が残り、春先だというのに巻きもまだ残っています。厳冬期は3メートルの積雪があるので厳しい修行の場所なのだと思います。参拝を終えてバスは湯野浜温泉に向けてラストスパートです。

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