天草諸島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
バスは宇土半島の先端の「三角西港」を離れて天草五橋の1つ目の「天文橋」を渡って「大矢野島」に入ります。しばらく走ると「藍のあまくさ村」という施設があり、そこには巨大な「天草四郎像」が立っていました。こういった情報はバスガイドさんがいなければ分からないことで、そうでなければ写真を撮ることも出来ません。ツアーの良いところはこういった情報だと思います。この像はふっくらとした上に好青年の姿で、 天草・島原の乱の悲壮感はありませんが、十字架を持って祈る姿は印象的です。バスは減速もせずに先へ進み、停車したのは「道の駅天草さんぱーる」です。ここで20分ほどのトイレ休憩になります。ほとんどの時間は農産物や海鮮の売店をひやかしていました。熊本や天草の名産品が並んでいますが、柑橘類は昨晩購入して、店から宅急便で送ってしまったので購買意欲に火が付きません。この辺りは車エビの養殖でも有名なところなので期待していましたが、シーズンオフのようでもありました。バスの車窓からでも養殖池の水を抜いて、底の砂を積み上げて消毒している光景が見られました。通りの反対側には教会の姿をした「天草四郎ミュージアム」の建物が見えましたが、立ち寄っている時間も無いので諦めました。バスは2番目の橋「大矢野橋」を通過して、「永浦島」もあっという間に通過して3つ目の「中の橋」渡ります。この辺りの橋を通過する際には小さな島や入り組んだ入り江が見え、さらにその先には島原半島が見えます。天気も良く美しい景色が堪能できました。4番目の「前島橋」も間の「大池島」も「池島」もあっという間に通過します。「前島」と5番目の「松島橋」を超えると残りは大きな「上島」と「下島」だけになります。この後の観光はこの2つの島を巡ります。島原半島の口之津を結ぶフェリーの港である「鬼池港」にも天草四郎の図が海に向かって立っています。以前はもっとたくさんの航路があったようですが、利用客の減少もあって現在は2ルートくらいしか残っていないようです。中世に南蛮貿易の通詞(通訳)が住んでいたといわれる「通詞島」の手前のレストランでらんちになりました。大きなガラス窓からは美しい海の広がりが見えます。ここでいただくのはウニやアワビの乗った海鮮丼です。これは豪華で千秋に食べた北海道の海鮮とはまた違ったおいしさがあります。追加で鵜にも頼んでしまい、ビールから日本酒とお酒も進みます。この店は熊本県のクーポンが使えたので追加料金は発生しませんでした。「通詞島」の周辺はイルカが見られることで有名なのですが、この時はその姿を見ることは出来ず、代わりに見えたのは「おっぱい岩」だけでした。バスは一度海岸線を離れますが、この辺りはレタスの生産が盛んだとガイドさんが教えてくれます。長崎県の佐世保で戦後の進駐軍のアメリカ兵相手にバーガー屋さんが出来ましたが、その当時はレタスが無くてここで栽培されたものが送られたという歴史があるそうです。その先には九州電力の巨大な苓北発電所が見えます。ここは火力発電所で、付属する港には中国から輸入された石炭が山のように積まれてありました。先ほど訪ねた「三角西港」が栄えたころには三池炭鉱の石炭を送り、現在はその逆になっているというわけです。バスは国道389号線を離れ、下島の西海岸の「十三仏公園」で停車します。ここで20分ほどの休憩になり、美しい断崖と青い海を見ることが出来ました。対岸には長崎市から南西に伸びる長崎半島がきれいに見えました。半島の陰になった裏側には「軍艦島」があるとガイドさんが教えてくれます。バスは白い「大江天主堂」を右手に見ながら「崎津」の港に入っていきます。

クラブツーリズム 阿蘇・熊本・天草うまいモン旅(3)天草五橋を超えて、雲仙の美しい姿を眺めながら十三仏公園を経て崎津を目指す。

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2023/03/13 - 2023/03/13

476位(同エリア832件中)

旅行記グループ 2023阿蘇・熊本天草の旅

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kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

バスは宇土半島の先端の「三角西港」を離れて天草五橋の1つ目の「天文橋」を渡って「大矢野島」に入ります。しばらく走ると「藍のあまくさ村」という施設があり、そこには巨大な「天草四郎像」が立っていました。こういった情報はバスガイドさんがいなければ分からないことで、そうでなければ写真を撮ることも出来ません。ツアーの良いところはこういった情報だと思います。この像はふっくらとした上に好青年の姿で、 天草・島原の乱の悲壮感はありませんが、十字架を持って祈る姿は印象的です。バスは減速もせずに先へ進み、停車したのは「道の駅天草さんぱーる」です。ここで20分ほどのトイレ休憩になります。ほとんどの時間は農産物や海鮮の売店をひやかしていました。熊本や天草の名産品が並んでいますが、柑橘類は昨晩購入して、店から宅急便で送ってしまったので購買意欲に火が付きません。この辺りは車エビの養殖でも有名なところなので期待していましたが、シーズンオフのようでもありました。バスの車窓からでも養殖池の水を抜いて、底の砂を積み上げて消毒している光景が見られました。通りの反対側には教会の姿をした「天草四郎ミュージアム」の建物が見えましたが、立ち寄っている時間も無いので諦めました。バスは2番目の橋「大矢野橋」を通過して、「永浦島」もあっという間に通過して3つ目の「中の橋」渡ります。この辺りの橋を通過する際には小さな島や入り組んだ入り江が見え、さらにその先には島原半島が見えます。天気も良く美しい景色が堪能できました。4番目の「前島橋」も間の「大池島」も「池島」もあっという間に通過します。「前島」と5番目の「松島橋」を超えると残りは大きな「上島」と「下島」だけになります。この後の観光はこの2つの島を巡ります。島原半島の口之津を結ぶフェリーの港である「鬼池港」にも天草四郎の図が海に向かって立っています。以前はもっとたくさんの航路があったようですが、利用客の減少もあって現在は2ルートくらいしか残っていないようです。中世に南蛮貿易の通詞(通訳)が住んでいたといわれる「通詞島」の手前のレストランでらんちになりました。大きなガラス窓からは美しい海の広がりが見えます。ここでいただくのはウニやアワビの乗った海鮮丼です。これは豪華で千秋に食べた北海道の海鮮とはまた違ったおいしさがあります。追加で鵜にも頼んでしまい、ビールから日本酒とお酒も進みます。この店は熊本県のクーポンが使えたので追加料金は発生しませんでした。「通詞島」の周辺はイルカが見られることで有名なのですが、この時はその姿を見ることは出来ず、代わりに見えたのは「おっぱい岩」だけでした。バスは一度海岸線を離れますが、この辺りはレタスの生産が盛んだとガイドさんが教えてくれます。長崎県の佐世保で戦後の進駐軍のアメリカ兵相手にバーガー屋さんが出来ましたが、その当時はレタスが無くてここで栽培されたものが送られたという歴史があるそうです。その先には九州電力の巨大な苓北発電所が見えます。ここは火力発電所で、付属する港には中国から輸入された石炭が山のように積まれてありました。先ほど訪ねた「三角西港」が栄えたころには三池炭鉱の石炭を送り、現在はその逆になっているというわけです。バスは国道389号線を離れ、下島の西海岸の「十三仏公園」で停車します。ここで20分ほどの休憩になり、美しい断崖と青い海を見ることが出来ました。対岸には長崎市から南西に伸びる長崎半島がきれいに見えました。半島の陰になった裏側には「軍艦島」があるとガイドさんが教えてくれます。バスは白い「大江天主堂」を右手に見ながら「崎津」の港に入っていきます。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス タクシー JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • 「三角西港」を出たバスは三角の瀬戸に沿って走り、天草五橋の1号橋の「天門橋」を渡ります。1本に見えますが近づいていくと2本の橋が架かっているのだと分かります。

    「三角西港」を出たバスは三角の瀬戸に沿って走り、天草五橋の1号橋の「天門橋」を渡ります。1本に見えますが近づいていくと2本の橋が架かっているのだと分かります。

    天門橋展望所 名所・史跡

  • 橋の上から見返すと「三角浦保木の下漁港」の左手に「三角西港」が見えます。

    橋の上から見返すと「三角浦保木の下漁港」の左手に「三角西港」が見えます。

  • 明治時代になぜここを選び、ひと時は時代を先取りし、そして歴史から忘れられながら時間の止まった町が残されていることに驚きました。

    明治時代になぜここを選び、ひと時は時代を先取りし、そして歴史から忘れられながら時間の止まった町が残されていることに驚きました。

  • バスは「大矢野島」にじゃ入り、しばらくすると「藍のあまくさ村」という施設に差し掛かりました。ここには高さ15メートルの「日本一大きな天草四郎像」が置かれてありました。少しふっくらした姿は天草・島原の乱の悲壮感は感じられません。うまく写真が撮れたのはバスガイドさんが事前に像の存在を教えてくれたからです。

    バスは「大矢野島」にじゃ入り、しばらくすると「藍のあまくさ村」という施設に差し掛かりました。ここには高さ15メートルの「日本一大きな天草四郎像」が置かれてありました。少しふっくらした姿は天草・島原の乱の悲壮感は感じられません。うまく写真が撮れたのはバスガイドさんが事前に像の存在を教えてくれたからです。

    藍のあまくさ村 専門店

  • さらに進んだ「道の駅 上天草さんぱーる」で20分ほどのトイレ休憩になります。農産物や鮮魚の店が面白かったのですが、買うに至りませんでした。この辺りは車エビの養殖が有名ですが、さすがに生きたエビは買えませんでした。<br />

    さらに進んだ「道の駅 上天草さんぱーる」で20分ほどのトイレ休憩になります。農産物や鮮魚の店が面白かったのですが、買うに至りませんでした。この辺りは車エビの養殖が有名ですが、さすがに生きたエビは買えませんでした。

    道の駅 上天草さんぱーる お土産屋・直売所・特産品

  • 駐車場にはこんな巨大なオブジェが並んでいました。他にもガザミとパール柑もありました。

    駐車場にはこんな巨大なオブジェが並んでいました。他にもガザミとパール柑もありました。

  • 通りを挟んだ反対側には「天草四郎ミュージアム」の建物が見えました。天草四郎を中心とした島原・天草一揆を今に伝える映画やジオラマがあるようで見たい気持ちはありましたが、20分では外観の写真を撮るだけでした。

    通りを挟んだ反対側には「天草四郎ミュージアム」の建物が見えました。天草四郎を中心とした島原・天草一揆を今に伝える映画やジオラマがあるようで見たい気持ちはありましたが、20分では外観の写真を撮るだけでした。

  • 道路が海岸線に出ると砂の積まれた景色が続きました。これは車エビの養殖池で、1年に1度、この時期に水を抜いて砂を消毒するするそうです。天草は養殖車エビの発祥の地だそうで、明治38年に蓄養という形で養殖が始まったそうです。

    道路が海岸線に出ると砂の積まれた景色が続きました。これは車エビの養殖池で、1年に1度、この時期に水を抜いて砂を消毒するするそうです。天草は養殖車エビの発祥の地だそうで、明治38年に蓄養という形で養殖が始まったそうです。

  • バスは「大矢野橋 (2号橋)」「中の橋 (3号橋)」「前島橋 (4号橋)」「松島橋 (5号橋)」と小さな島を渡っていきます。小さな漁港もいくつも通過して、バスであっという間に通り過ぎてしまうにはもったいない景色が続きます。

    バスは「大矢野橋 (2号橋)」「中の橋 (3号橋)」「前島橋 (4号橋)」「松島橋 (5号橋)」と小さな島を渡っていきます。小さな漁港もいくつも通過して、バスであっという間に通り過ぎてしまうにはもったいない景色が続きます。

  • バスの中ではガイドさんから天草四郎と天草・島原の乱にについての説明がありました。慶長17年の1612年の徳川秀忠の時代にキリスト教の禁教令がしかれました。当時天草は関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名の小西行長に代わり、唐津領主の寺沢広高が治めていましたが、広高は天草の石高を合計を約42,000石と算定しましたが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だったようです。

    バスの中ではガイドさんから天草四郎と天草・島原の乱にについての説明がありました。慶長17年の1612年の徳川秀忠の時代にキリスト教の禁教令がしかれました。当時天草は関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名の小西行長に代わり、唐津領主の寺沢広高が治めていましたが、広高は天草の石高を合計を約42,000石と算定しましたが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だったようです。

  • 天草四郎(益田時貞)の生涯については生まれながらにしてカリスマ性があり、経済的にも恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようでです。小西行長の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立され、神格化された人物と考えられており、様々な奇跡を起こしたという逸話もあります。

    天草四郎(益田時貞)の生涯については生まれながらにしてカリスマ性があり、経済的にも恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようでです。小西行長の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立され、神格化された人物と考えられており、様々な奇跡を起こしたという逸話もあります。

  • 上津浦の南蛮寺にいたママコス神父が「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して澳門に去ったという話があり、人々の不安の中で四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まり、寛永14年の1637年に勃発した島原の乱では総大将に担ぎ上げられました。<br />

    上津浦の南蛮寺にいたママコス神父が「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して澳門に去ったという話があり、人々の不安の中で四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まり、寛永14年の1637年に勃発した島原の乱では総大将に担ぎ上げられました。

  • 総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは父の甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。原城に籠もった四郎は歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

    総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは父の甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。原城に籠もった四郎は歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

  • 寛永14年11月14日から16日までの合戦で、3500人の一揆勢が唐津藩の富岡城番代の三宅藤兵衛の首を打ち取るなど勝利を収めた際の様子が書き残されているようです。「白い絹の着物を着て、はかまを着て、頭には苧(からむし)を三つ組にしてあて、緒をつけのど下にてとめ、額には小さな十字架を立てていた。手には御幣を持って、一揆軍を指揮していた」と詳細な描写がされています。

    寛永14年11月14日から16日までの合戦で、3500人の一揆勢が唐津藩の富岡城番代の三宅藤兵衛の首を打ち取るなど勝利を収めた際の様子が書き残されているようです。「白い絹の着物を着て、はかまを着て、頭には苧(からむし)を三つ組にしてあて、緒をつけのど下にてとめ、額には小さな十字架を立てていた。手には御幣を持って、一揆軍を指揮していた」と詳細な描写がされています。

  • 3ヵ月に及ぶ籠城戦は水利があったため続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられます。四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士の陣佐左衛門に討ち取られ、その首は原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒されました。

    3ヵ月に及ぶ籠城戦は水利があったため続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられます。四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士の陣佐左衛門に討ち取られ、その首は原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒されました。

  • 海岸線を見ていても天草と対岸の島原が近いことは体感出来ました。どこを走っても必ず対岸には長崎半島と島原半島が見える1日でした。

    海岸線を見ていても天草と対岸の島原が近いことは体感出来ました。どこを走っても必ず対岸には長崎半島と島原半島が見える1日でした。

  • 中学の歴史でほんの一瞬習っただけの天草四郎や 島原の乱がとても身近に感じられました。やはり百聞は一見に如かずということなのだと思います。

    中学の歴史でほんの一瞬習っただけの天草四郎や 島原の乱がとても身近に感じられました。やはり百聞は一見に如かずということなのだと思います。

  • 「天草港上津浦」の灯台越しに雲仙普賢岳のドームが見えます。<br />

    「天草港上津浦」の灯台越しに雲仙普賢岳のドームが見えます。

  • 1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動は、38回の土石流と7回の大火砕流を起こし、死者41人に行方不明3人、負傷者12人という悲劇は記憶に鮮明に残っています。特に大火砕流の映像は衝撃的でした。

    1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動は、38回の土石流と7回の大火砕流を起こし、死者41人に行方不明3人、負傷者12人という悲劇は記憶に鮮明に残っています。特に大火砕流の映像は衝撃的でした。

  • 車エビの養殖池はいくつもあるようで、どこもブルトーザーなどの重機が入って作業をしていました。

    車エビの養殖池はいくつもあるようで、どこもブルトーザーなどの重機が入って作業をしていました。

  • 天草川の「鬼池港」から長崎県の「口之津港」へ向かうフェリーが出港していきました。島原半島にキリスト教布教の拠点を置くことが決定された口之津は450年前に南蛮船来航による南蛮貿易とキリスト教布教の時代、後の日本におけるキリスト教の歴史が左右される決定がなされた場所でもあります。

    天草川の「鬼池港」から長崎県の「口之津港」へ向かうフェリーが出港していきました。島原半島にキリスト教布教の拠点を置くことが決定された口之津は450年前に南蛮船来航による南蛮貿易とキリスト教布教の時代、後の日本におけるキリスト教の歴史が左右される決定がなされた場所でもあります。

  • 今回は天草半島を旅しましたが、近いうちに雲仙にも行きたくなってきました。その時はフェリーも利用したいと思います。

    今回は天草半島を旅しましたが、近いうちに雲仙にも行きたくなってきました。その時はフェリーも利用したいと思います。

  • 「鬼池港」にも天草四郎像が立っていました。その姿は道路にではなく、対岸の島原半島を見上げているようです。

    「鬼池港」にも天草四郎像が立っていました。その姿は道路にではなく、対岸の島原半島を見上げているようです。

  • これもバスガイドさんに教えてもらわなければ撮れなかった写真です。

    これもバスガイドさんに教えてもらわなければ撮れなかった写真です。

  • 下島の「鬼池港」辺りが対岸の島原半島と一番近いようで、普賢岳のドームもより鮮明に見えてきました。

    下島の「鬼池港」辺りが対岸の島原半島と一番近いようで、普賢岳のドームもより鮮明に見えてきました。

  • 口之津港の南に突き出た小さな半島はなだらかな丘で段々畑に覆われています。この半島には最高峰が標高100メートルもない烽火山(のろしやま)があります。飛鳥時代の白村江の戦いの後、大陸からの侵攻を警戒した朝廷は西日本各地と畿内を結ぶ通信網であるノロシの中継システムを構築しました。ここ口之津は長崎半島の野母崎と大宰府を結ぶ中継点であったようです。段々畑ではジャガイモが作られているようです。

    口之津港の南に突き出た小さな半島はなだらかな丘で段々畑に覆われています。この半島には最高峰が標高100メートルもない烽火山(のろしやま)があります。飛鳥時代の白村江の戦いの後、大陸からの侵攻を警戒した朝廷は西日本各地と畿内を結ぶ通信網であるノロシの中継システムを構築しました。ここ口之津は長崎半島の野母崎と大宰府を結ぶ中継点であったようです。段々畑ではジャガイモが作られているようです。

  • バスは国道を外れ「通詞島」方面へ右折します。冬から春にかけて旬を迎える波穏やかな有明海で採れる島原わかめはこの辺りの名産です。昨年はこの時期に鳴門でワカメ漁を体験したことを思い出します。最高に楽しい体験で、獲れたての生ワカメをしゃぶしゃぶでいただいたら最高においしかったです。

    バスは国道を外れ「通詞島」方面へ右折します。冬から春にかけて旬を迎える波穏やかな有明海で採れる島原わかめはこの辺りの名産です。昨年はこの時期に鳴門でワカメ漁を体験したことを思い出します。最高に楽しい体験で、獲れたての生ワカメをしゃぶしゃぶでいただいたら最高においしかったです。

  • 「通詞島」の手前にある「天草生うに本舗 丸健水産」で昼食になりました。看板を見たらイルカを食べるのかと思いました。妻の生まれ育った富士宮市では魚屋では昔はイルカが半身で売られていたそうです。イルカの味噌煮は匂いがきついのでゴボウと一緒に炊くのだそうですが、小学校から帰ってきて家の近くに来ると晩御飯がイルカと分かって嫌だったそうです。

    「通詞島」の手前にある「天草生うに本舗 丸健水産」で昼食になりました。看板を見たらイルカを食べるのかと思いました。妻の生まれ育った富士宮市では魚屋では昔はイルカが半身で売られていたそうです。イルカの味噌煮は匂いがきついのでゴボウと一緒に炊くのだそうですが、小学校から帰ってきて家の近くに来ると晩御飯がイルカと分かって嫌だったそうです。

    丸健水産 グルメ・レストラン

  • テーブルに座るとすぐに海鮮丼が出てきました。今回のツアーはお昼も料金に含まれていました。なんか申し訳なくなってきます。

    テーブルに座るとすぐに海鮮丼が出てきました。今回のツアーはお昼も料金に含まれていました。なんか申し訳なくなってきます。

  • 1種間前は知床半島の羅臼でオホーツク海の冬の魚の海鮮丼をいただきましたが、今日は天草から東シナ海の海鮮丼がいただけます。車エビにタイにマグロ、アワビにカンパチにウニなどがてんこ盛りです。

    1種間前は知床半島の羅臼でオホーツク海の冬の魚の海鮮丼をいただきましたが、今日は天草から東シナ海の海鮮丼がいただけます。車エビにタイにマグロ、アワビにカンパチにウニなどがてんこ盛りです。

  • これには妻も大喜びです。少しは残さないかと思いましたが、ぺろりと平らげていました。昨年は稚内で「死ぬまでに1度うに丼が食べたい。」というのでご馳走しましたが、翌日は留萌近くの小平町で「もう1ッ回。」とおねだりされました。一度東京に戻った翌週も小樽から積丹半島へ向かう途中でお願いされました。

    これには妻も大喜びです。少しは残さないかと思いましたが、ぺろりと平らげていました。昨年は稚内で「死ぬまでに1度うに丼が食べたい。」というのでご馳走しましたが、翌日は留萌近くの小平町で「もう1ッ回。」とおねだりされました。一度東京に戻った翌週も小樽から積丹半島へ向かう途中でお願いされました。

  • ということでここでも追加で紫ウニを1皿。この辺りでは桜が咲く頃が絶品のムラサキウニは「桜うに」とも呼ばれるそうです。ビールから冷酒へと進んでいきます。お支払いは熊本県のクーポンが使えたので実質支払いはありませんでした。

    ということでここでも追加で紫ウニを1皿。この辺りでは桜が咲く頃が絶品のムラサキウニは「桜うに」とも呼ばれるそうです。ビールから冷酒へと進んでいきます。お支払いは熊本県のクーポンが使えたので実質支払いはありませんでした。

  • 沖背は大きなガラス張りの窓なので、有明海の一番外海に近い絶景が楽しめました。

    沖背は大きなガラス張りの窓なので、有明海の一番外海に近い絶景が楽しめました。

  • 表の海には黒い浮き球がたくさん見えました。これは真珠の養殖です。ワカメであれば海中は黒く見えるはずです。ワカメならいくらでも買ってあげますが、近くに真珠の店が無くてよかったです。

    表の海には黒い浮き球がたくさん見えました。これは真珠の養殖です。ワカメであれば海中は黒く見えるはずです。ワカメならいくらでも買ってあげますが、近くに真珠の店が無くてよかったです。

  • この辺りはイルカウォッチングでも有名なので目を凝らしますが、姿は見えませんでした。

    この辺りはイルカウォッチングでも有名なので目を凝らしますが、姿は見えませんでした。

  • 「通詞島」へ渡る「通詞大橋」がきれいに見えました。昔は瀬戸を手漕ぎの渡し舟が行き来をする長閑な島だったようですが、昭和50年に通詞大橋が開通して便利になったそうです。中世には南蛮貿易の通詞(通訳)が住んでいたり、外国語をマスターした漁師が住んでいた」などが島名の由来だとガイドさんが教えてくれました。

    「通詞島」へ渡る「通詞大橋」がきれいに見えました。昔は瀬戸を手漕ぎの渡し舟が行き来をする長閑な島だったようですが、昭和50年に通詞大橋が開通して便利になったそうです。中世には南蛮貿易の通詞(通訳)が住んでいたり、外国語をマスターした漁師が住んでいた」などが島名の由来だとガイドさんが教えてくれました。

  • 天草は「海にうかぶ博物館」といわれ、傾斜した地層が風化や浸食によってつくるケスタ地形に、天草陶石が採掘されるような特徴的な地質や地形の宝庫です。天草の地層は1億年の歴史を記録しているといわれています。この鳥居は2019年10月に完成しましたが、この先にあるのが「おっぱい岩」です。この「おっぱい岩」は雲仙岳の噴火で飛んできた石からできたといわれいます。残念あガラ干潮にならないとその全体は見えないようです。

    天草は「海にうかぶ博物館」といわれ、傾斜した地層が風化や浸食によってつくるケスタ地形に、天草陶石が採掘されるような特徴的な地質や地形の宝庫です。天草の地層は1億年の歴史を記録しているといわれています。この鳥居は2019年10月に完成しましたが、この先にあるのが「おっぱい岩」です。この「おっぱい岩」は雲仙岳の噴火で飛んできた石からできたといわれいます。残念あガラ干潮にならないとその全体は見えないようです。

    おっぱい岩 自然・景勝地

  • 「通詞島」の風力発電の風車はお色直しのようです。大型の風力発電の設計寿命年数は20年程度だそうです。

    「通詞島」の風力発電の風車はお色直しのようです。大型の風力発電の設計寿命年数は20年程度だそうです。

  • 島原半島がバスの後方になってくると今度は長崎半島がきれいに見えてきます。あの半島の向こう側に長崎市があると知っても地理的な位置関係がまだ理解できません。

    島原半島がバスの後方になってくると今度は長崎半島がきれいに見えてきます。あの半島の向こう側に長崎市があると知っても地理的な位置関係がまだ理解できません。

  • バスは少し内陸部を走ります。バスガイドさんからこの辺りはレタスの一大産地だと教わります。第2次世界大戦後に連合国軍(米海軍)の掃海艦が佐世保に入港してから始まったアメリカ軍の佐世保基地でハンバーガーに使うレタスが必要になったことが始まりだそうです。

    バスは少し内陸部を走ります。バスガイドさんからこの辺りはレタスの一大産地だと教わります。第2次世界大戦後に連合国軍(米海軍)の掃海艦が佐世保に入港してから始まったアメリカ軍の佐世保基地でハンバーガーに使うレタスが必要になったことが始まりだそうです。

  • 当時日本ではレタスの栽培がほとんどなかったことからこの地が選ばれて、収穫されたレタスは長崎県の佐世保に送られたそうです。海上運送するとしても100キロ以上の距離があるようです。

    当時日本ではレタスの栽培がほとんどなかったことからこの地が選ばれて、収穫されたレタスは長崎県の佐世保に送られたそうです。海上運送するとしても100キロ以上の距離があるようです。

  • バスは「九州電力 苓北発電所」を通過しました。海外炭を燃料とする石炭専焼の火力発電所だそうです。午前中に見学した「三角西港」からは明治時代には中国へ向けて石炭を輸出したと聞きましたが、この発電所では中国から石炭を運んでいるそうです。

    バスは「九州電力 苓北発電所」を通過しました。海外炭を燃料とする石炭専焼の火力発電所だそうです。午前中に見学した「三角西港」からは明治時代には中国へ向けて石炭を輸出したと聞きましたが、この発電所では中国から石炭を運んでいるそうです。

    九州電力(株)苓北発電所 名所・史跡

  • 「天草島原の乱」の際に一揆軍に対して徹底抗戦を行った富岡城の城跡はここから北方約5キロの距離にあるようです。

    「天草島原の乱」の際に一揆軍に対して徹底抗戦を行った富岡城の城跡はここから北方約5キロの距離にあるようです。

  • 敷地内には真っ黒な石炭が積まれてありました。

    敷地内には真っ黒な石炭が積まれてありました。

  • バスは海岸線を走る国道389号線を走ります。天気はさらに良くなってきました。絵にかいたような青い海と青い空と岩に砕ける白波と緑の松。これで鶴でも飛んでいたらおめでたい掛軸になりそうです。<br />

    バスは海岸線を走る国道389号線を走ります。天気はさらに良くなってきました。絵にかいたような青い海と青い空と岩に砕ける白波と緑の松。これで鶴でも飛んでいたらおめでたい掛軸になりそうです。

  • 長崎半島の先端の椛島の辺りが見えます。バスガイドさんによるとあの向こう側に軍艦島があるということです。

    長崎半島の先端の椛島の辺りが見えます。バスガイドさんによるとあの向こう側に軍艦島があるということです。

  • この辺りからはもう島原半島は見えません。

    この辺りからはもう島原半島は見えません。

  • 「天草西海岸サンセットライン」を南下し始めると長崎半島が遠くなっていきます。

    「天草西海岸サンセットライン」を南下し始めると長崎半島が遠くなっていきます。

  • 砂利が積まれたような場所を通りがかるとバスガイドさんが「天草陶石」について教えてくれましたこれは採掘された陶石が積み上げられたものだということです。 1616年に有田町の泉山で陶石が発見されると採石が始まり、400年もの間に掘り尽くされます。大正時代以降はこの天草産の陶石が使われますが、単体で磁器を作れる世界でも珍しい高級原料だそうです。

    砂利が積まれたような場所を通りがかるとバスガイドさんが「天草陶石」について教えてくれましたこれは採掘された陶石が積み上げられたものだということです。 1616年に有田町の泉山で陶石が発見されると採石が始まり、400年もの間に掘り尽くされます。大正時代以降はこの天草産の陶石が使われますが、単体で磁器を作れる世界でも珍しい高級原料だそうです。

  • バスは国道389号線を離れて「十三仏公園」に向かいます。駐車場から高台の展望台に向かって歩くと、美しい景色が広がっています。

    バスは国道389号線を離れて「十三仏公園」に向かいます。駐車場から高台の展望台に向かって歩くと、美しい景色が広がっています。

  • どこまでも美しい海岸線が続いています。この「十三仏公園」は妙見浦から白鶴浜海水浴場までを一望でき、夕陽の見えるポイントとして名高い公園です。近くに十三仏堂というお堂があり、室町時代に普及した十三仏供養にちなんで名づけられたと案内板にありました。

    どこまでも美しい海岸線が続いています。この「十三仏公園」は妙見浦から白鶴浜海水浴場までを一望でき、夕陽の見えるポイントとして名高い公園です。近くに十三仏堂というお堂があり、室町時代に普及した十三仏供養にちなんで名づけられたと案内板にありました。

  • 明治40年の1907年に「新詩社」の与謝野鉄幹(34歳)と同社の北原白秋(22歳)、木下杢太郎(21歳)、平野万里(22歳)、吉井 勇 (20歳)の5名が九州方面に向け東京駅を夜行列車で立ちました。出発から10日経って天草を巡っている頃から5名は 「五人づれ」 という名で旅行記「五足の靴」を「東京 二六新聞」 に連載し始めます。

    明治40年の1907年に「新詩社」の与謝野鉄幹(34歳)と同社の北原白秋(22歳)、木下杢太郎(21歳)、平野万里(22歳)、吉井 勇 (20歳)の5名が九州方面に向け東京駅を夜行列車で立ちました。出発から10日経って天草を巡っている頃から5名は 「五人づれ」 という名で旅行記「五足の靴」を「東京 二六新聞」 に連載し始めます。

  • 「五足の靴」の旅がクライマックスを迎えるのは天草下島の苓北町から道なき道を南下して、ガルニエ神父に会いに行くくだりのようです。ガルニエ神父は明治25年から隠れ切支丹の里に住まい、清貧の布教活動に身を挺していました。神父に会うために、自家製の松明をかざしながら夜道を進みました。ようやく「大江天主堂」に着き、神父から清らかな一杯の水を振る舞われます。

    「五足の靴」の旅がクライマックスを迎えるのは天草下島の苓北町から道なき道を南下して、ガルニエ神父に会いに行くくだりのようです。ガルニエ神父は明治25年から隠れ切支丹の里に住まい、清貧の布教活動に身を挺していました。神父に会うために、自家製の松明をかざしながら夜道を進みました。ようやく「大江天主堂」に着き、神父から清らかな一杯の水を振る舞われます。

  • 切支丹文化に出会って彼らに南蛮趣味が生まれます。翌年の明治41年に白秋や木下らが起こした「パンの会」にも受け継がれ、旅の2年後に上梓された白秋の最初の詩集 「邪宗門」や木下の 「南蛮寺門前」などに影響が見られます。(邪宗門とは権力者が排斥する宗教に貼ったレッテルで、ここではキリスト教が当たります。日蓮宗の不受不施派も邪宗門とされました。)

    切支丹文化に出会って彼らに南蛮趣味が生まれます。翌年の明治41年に白秋や木下らが起こした「パンの会」にも受け継がれ、旅の2年後に上梓された白秋の最初の詩集 「邪宗門」や木下の 「南蛮寺門前」などに影響が見られます。(邪宗門とは権力者が排斥する宗教に貼ったレッテルで、ここではキリスト教が当たります。日蓮宗の不受不施派も邪宗門とされました。)

  • 天気は最高ですが”江蘇省”から東シナ海を渡る風は強かったです。それでもポカポカ陽気で気持ち良い日でした。

    天気は最高ですが”江蘇省”から東シナ海を渡る風は強かったです。それでもポカポカ陽気で気持ち良い日でした。

  • 「妙見浦」は2つの島と岬からなりたち、海食洞門と複雑に連結しています。南から、十三仏崎、妙見岩、長ハエ、蓬莱島、鬼海ヶ浦、角橋、烏帽子岩、玄武崎などの奇岩や洞門が連なっています。江戸時代には付近一帯は「穴の口」と呼ばれていたそうです。この洞門は「ぞうさん岩」と呼ばれるものの頭の部分です。

    「妙見浦」は2つの島と岬からなりたち、海食洞門と複雑に連結しています。南から、十三仏崎、妙見岩、長ハエ、蓬莱島、鬼海ヶ浦、角橋、烏帽子岩、玄武崎などの奇岩や洞門が連なっています。江戸時代には付近一帯は「穴の口」と呼ばれていたそうです。この洞門は「ぞうさん岩」と呼ばれるものの頭の部分です。

  • ここから見る長崎半島はもう先端しか見えません。

    ここから見る長崎半島はもう先端しか見えません。

  • この「十三仏公園」のある地で歌人与謝野寛(鉄幹)と昌子夫妻は、壮大な落日と素晴らしい磯の風情をそれぞれ讃え、その歌碑が建立されていました。<br />

    この「十三仏公園」のある地で歌人与謝野寛(鉄幹)と昌子夫妻は、壮大な落日と素晴らしい磯の風情をそれぞれ讃え、その歌碑が建立されていました。

    十三仏公園展望所 公園・植物園

  • 「天草の 十三仏の やまに見る 海の入日と むらさきの波」鉄幹<br />「天草の 西高浜の しろき磯 江蘇省より 秋風ぞ吹く」晶子

    「天草の 十三仏の やまに見る 海の入日と むらさきの波」鉄幹
    「天草の 西高浜の しろき磯 江蘇省より 秋風ぞ吹く」晶子

  • 展望台の南側には「白鶴浜海水浴場」が見えます。熊本に住む方は遠浅で水の濁った有明海を避けて、この辺りまで海水浴に来るそうです。

    展望台の南側には「白鶴浜海水浴場」が見えます。熊本に住む方は遠浅で水の濁った有明海を避けて、この辺りまで海水浴に来るそうです。

    白鶴浜海水浴場 ビーチ

  • 「日本の快水浴場百選」の1つで、熊本県内でも数少ない指定を受けている海水浴場だそうです。1.3キロにも及ぶ白浜のビーチは鶴がその翼を広げたように見えることから名づけられたということです。

    「日本の快水浴場百選」の1つで、熊本県内でも数少ない指定を受けている海水浴場だそうです。1.3キロにも及ぶ白浜のビーチは鶴がその翼を広げたように見えることから名づけられたということです。

  • バスは「白鶴浜海水浴場」には熊わず、来た道を戻って、国道389号線を「津崎集落」に向かいます。

    バスは「白鶴浜海水浴場」には熊わず、来た道を戻って、国道389号線を「津崎集落」に向かいます。

  • 右手に「大江天主堂」が見えてきました。ここでギリシャを路線バスで旅していたことを思い出しました。日曜のアテネの大聖堂の奉神礼テレビ中継されているほどですが、観ることが出来ない人のためにラジオでも放送されています。なので日曜日のバスの車内ではラジオ放送がされています。バスに座った方々は祈りを捧げています。時折車窓にこのような教会堂が見えると大変で、全員が教会に向かって胸で正教の十字を切って祈りを捧げます。これはバスのドライバーも一緒なので、その数秒は誰も前を見ていないことになります。1人で「南無阿弥陀仏」を唱えました。

    右手に「大江天主堂」が見えてきました。ここでギリシャを路線バスで旅していたことを思い出しました。日曜のアテネの大聖堂の奉神礼テレビ中継されているほどですが、観ることが出来ない人のためにラジオでも放送されています。なので日曜日のバスの車内ではラジオ放送がされています。バスに座った方々は祈りを捧げています。時折車窓にこのような教会堂が見えると大変で、全員が教会に向かって胸で正教の十字を切って祈りを捧げます。これはバスのドライバーも一緒なので、その数秒は誰も前を見ていないことになります。1人で「南無阿弥陀仏」を唱えました。

  • 「大江天主堂」はキリスト教解禁後に天草で最も早く造られた教会で、現在の建物は昭和8年の1933年に天草への伝道に生涯を捧げたフランス人宣教師のガルニエ神父が地元信者と協力して建立したものです。「五足の靴」の面々がやってきたのはここだったわけです。ガルニエ神父は明治25年に32歳でこの地を訪れ、昭和16年に82歳で亡くなるまでの49年間布教に努め、 天草言葉を巧みに使いこなして村人からは「パアテルさん」と呼ばれ慕われたそうです。

    「大江天主堂」はキリスト教解禁後に天草で最も早く造られた教会で、現在の建物は昭和8年の1933年に天草への伝道に生涯を捧げたフランス人宣教師のガルニエ神父が地元信者と協力して建立したものです。「五足の靴」の面々がやってきたのはここだったわけです。ガルニエ神父は明治25年に32歳でこの地を訪れ、昭和16年に82歳で亡くなるまでの49年間布教に努め、 天草言葉を巧みに使いこなして村人からは「パアテルさん」と呼ばれ慕われたそうです。

  • 丘の上に建つ真っ白いロマネスク様式の教会です。残念ながら今回の観光ルートには含まれていないので国道を走るバスから一瞬見えただけでした。そして「崎津集落」へ向かって坂道を下ります。

    丘の上に建つ真っ白いロマネスク様式の教会です。残念ながら今回の観光ルートには含まれていないので国道を走るバスから一瞬見えただけでした。そして「崎津集落」へ向かって坂道を下ります。

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2023阿蘇・熊本天草の旅

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