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京都の桜なんて、何年ぶりでしょうか。確認すると、まともに見るのは2013年以来のよう。桜は紅葉と違って時期が短いし、それで天気の日の土日となると日程を合わせるのがとても難しいですからね。幸い今は時間が自由になるし、今回は曜日にかかわらずベストのタイミングを狙ってのスケジューリングです。<br /><br />という中で、選んだ桜は醍醐寺の桜。秀吉が最晩年に催した醍醐の花見ゆかりの桜です。こちらは2010年4月以来でしたが、青空をバックにシャワーか滝のように降り注ぐ豪快な枝ぶりは、前回見た時の記憶とほとんど変わることなく、期待通りの見事さ。何代目かの桜のようですが、改めて、安土桃山時代の絢爛豪華な気風をそのまま今に伝えている桜のような気がしました。加えて、国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院の庭園や国宝建物の内部が撮影可になったのもうれしいこと。以前は、撮影禁止でしたからね。<br />寝殿造りの表書院から庭全体を眺めると、三宝院はやっぱりここでしか味わえないような痛快さがあります。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が醍醐の花見に際して自ら基本設計をしたと伝わる庭園も、室町時代に一世を風靡した枯山水からするとまさに隔世の感がありますね。群雄割拠の戦国時代。小京都といわれる文化を花開かせた大内氏や朝倉氏に今川氏。大友氏も加えてもいいかもしれませんが、人々を引きつける文化の力に着目した大名はいたにはいたのですが、それらの大名は皆、夢半ばで斃れています。しかし、天下人となった秀吉は新しい文化や価値を積極的に創造し、かつ、思う存分に示して周囲を圧倒してみせる。それは秀吉の明るい性格と相まって、何より戦乱の時代が終わり新しい時代が到来したことを天下に広く周知させる意味があったのだと思います。自らは太閤という武家とは距離を置く身分となったこともそのためだったし、桃山文化も秀吉にとっては新しい天下統一の世を告げる重要なアイテムのひとつだったのですね。私は、利休との衝突も、その辺りが根本的なものではなかったかという気がしてなりません。新しい時代の到来を雄弁に語る文化を求める秀吉と時代を超え普遍的な価値を求める利休が交わりにくいのは仕方ないことでしょう。信長も鉄砲や武具を始め南蛮文化を積極的に取り入れたり、ひとつの茶道具に領地と同等の価値を見出したり、大いなる創造をしていますが、秀吉の太閤検地や刀狩りも堂々とした王者ならではの着眼点。秀吉は、信長と同じくらいまつりごとや文化の多方面にわたって新機軸を打ち出しただけでなく、分かりやすい演出方法にも十分に気を配っていたように思います。<br />もちろん、その桃山文化の粋は、大阪城であり聚楽第であり伏見城であったのですが、一部の唐門等が残っているだけ。対して、醍醐寺三宝院のこの遺産は、秀吉がどんな夢を追っていたのかを瑞々しく感じられる稀有な場所。その価値はいくら強調しても強調し過ぎることはないように思います。<br /><br />そして、醍醐寺の後は、醍醐天皇陵や小野小町の随心院・勧修寺辺りから岩屋寺、大石神社まで。醍醐天皇と菅原道真の物語や忠臣蔵にも思いを寄せて、京都の旅はいつも濃密です。

関西春の花旅(二日目)~秀吉が晩年に催した醍醐の花見で知られる醍醐寺の桜。豪華絢爛な美しさは三宝院の庭園と合わせて桃山時代の偉大な遺産です~

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2023/03/28 - 2023/03/28

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たびたび

たびたびさん

京都の桜なんて、何年ぶりでしょうか。確認すると、まともに見るのは2013年以来のよう。桜は紅葉と違って時期が短いし、それで天気の日の土日となると日程を合わせるのがとても難しいですからね。幸い今は時間が自由になるし、今回は曜日にかかわらずベストのタイミングを狙ってのスケジューリングです。

という中で、選んだ桜は醍醐寺の桜。秀吉が最晩年に催した醍醐の花見ゆかりの桜です。こちらは2010年4月以来でしたが、青空をバックにシャワーか滝のように降り注ぐ豪快な枝ぶりは、前回見た時の記憶とほとんど変わることなく、期待通りの見事さ。何代目かの桜のようですが、改めて、安土桃山時代の絢爛豪華な気風をそのまま今に伝えている桜のような気がしました。加えて、国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院の庭園や国宝建物の内部が撮影可になったのもうれしいこと。以前は、撮影禁止でしたからね。
寝殿造りの表書院から庭全体を眺めると、三宝院はやっぱりここでしか味わえないような痛快さがあります。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が醍醐の花見に際して自ら基本設計をしたと伝わる庭園も、室町時代に一世を風靡した枯山水からするとまさに隔世の感がありますね。群雄割拠の戦国時代。小京都といわれる文化を花開かせた大内氏や朝倉氏に今川氏。大友氏も加えてもいいかもしれませんが、人々を引きつける文化の力に着目した大名はいたにはいたのですが、それらの大名は皆、夢半ばで斃れています。しかし、天下人となった秀吉は新しい文化や価値を積極的に創造し、かつ、思う存分に示して周囲を圧倒してみせる。それは秀吉の明るい性格と相まって、何より戦乱の時代が終わり新しい時代が到来したことを天下に広く周知させる意味があったのだと思います。自らは太閤という武家とは距離を置く身分となったこともそのためだったし、桃山文化も秀吉にとっては新しい天下統一の世を告げる重要なアイテムのひとつだったのですね。私は、利休との衝突も、その辺りが根本的なものではなかったかという気がしてなりません。新しい時代の到来を雄弁に語る文化を求める秀吉と時代を超え普遍的な価値を求める利休が交わりにくいのは仕方ないことでしょう。信長も鉄砲や武具を始め南蛮文化を積極的に取り入れたり、ひとつの茶道具に領地と同等の価値を見出したり、大いなる創造をしていますが、秀吉の太閤検地や刀狩りも堂々とした王者ならではの着眼点。秀吉は、信長と同じくらいまつりごとや文化の多方面にわたって新機軸を打ち出しただけでなく、分かりやすい演出方法にも十分に気を配っていたように思います。
もちろん、その桃山文化の粋は、大阪城であり聚楽第であり伏見城であったのですが、一部の唐門等が残っているだけ。対して、醍醐寺三宝院のこの遺産は、秀吉がどんな夢を追っていたのかを瑞々しく感じられる稀有な場所。その価値はいくら強調しても強調し過ぎることはないように思います。

そして、醍醐寺の後は、醍醐天皇陵や小野小町の随心院・勧修寺辺りから岩屋寺、大石神社まで。醍醐天皇と菅原道真の物語や忠臣蔵にも思いを寄せて、京都の旅はいつも濃密です。

  • 神戸市の宿から朝イチで醍醐駅まで到着。醍醐寺がメインなんですが、まだ開いていない時間なので、その前にここから周辺の散策に向かいます。<br />小栗栖街道は、伏見区桃山町山ノ下から山科区勧修寺までの3㎞の道。歴史的なものとして、明智光秀が坂本城に落ち延びる際に討たれたという明智薮や明智光秀の胴塚があるんですね。これは新道の方で右手に入って行くと旧道があります。

    神戸市の宿から朝イチで醍醐駅まで到着。醍醐寺がメインなんですが、まだ開いていない時間なので、その前にここから周辺の散策に向かいます。
    小栗栖街道は、伏見区桃山町山ノ下から山科区勧修寺までの3㎞の道。歴史的なものとして、明智光秀が坂本城に落ち延びる際に討たれたという明智薮や明智光秀の胴塚があるんですね。これは新道の方で右手に入って行くと旧道があります。

    小栗栖街道 名所・史跡

    明智薮や明智光秀の胴塚 by たびたびさん
  • 旧道の方に入って、明智藪を目指します。<br />ちなみに、山崎の戦いで敗れた明智光秀はいったん近くの勝竜寺城に退却しますが、抗しきれず居城であった琵琶湖の坂本城に落ち延びることに。明智藪は、その途中、落ち武者狩りをしていた付近の百姓に討たれたとされる場所です。山際の集落の一角にライオンズクラブが建てた石碑と

    旧道の方に入って、明智藪を目指します。
    ちなみに、山崎の戦いで敗れた明智光秀はいったん近くの勝竜寺城に退却しますが、抗しきれず居城であった琵琶湖の坂本城に落ち延びることに。明智藪は、その途中、落ち武者狩りをしていた付近の百姓に討たれたとされる場所です。山際の集落の一角にライオンズクラブが建てた石碑と

    明智藪 名所・史跡

    地元で大事に守られてきたことを感じました by たびたびさん
  • その少し先には藪の中に木製の駒札も立っています。<br />明智光秀なんて人気があるとも思えないんですが、とにもかくにも地元では大事に守られてきたことを感じます。<br />本能寺の変は、天正10年6月2日、山崎の戦い6月13日、明智藪での最期はその深夜とされていて、三日天下とはよく言ったものです。本能寺の戦いの動機は謎とされていて、怨恨説も有力ですが、まあ、魔が差したんでしょうね。配下の武将を駒のように使う信長にはいつ捨てられるか分からない。プライドの高い光秀が一か八かのチャンスにかけて信長とどちらが運が強いのか比べたくなったとか。そういう意味だと秀吉に敗れたにせよ最初の賭けには勝って名前は残せたわけですから、目的の何割かは達成したかもしれません。

    その少し先には藪の中に木製の駒札も立っています。
    明智光秀なんて人気があるとも思えないんですが、とにもかくにも地元では大事に守られてきたことを感じます。
    本能寺の変は、天正10年6月2日、山崎の戦い6月13日、明智藪での最期はその深夜とされていて、三日天下とはよく言ったものです。本能寺の戦いの動機は謎とされていて、怨恨説も有力ですが、まあ、魔が差したんでしょうね。配下の武将を駒のように使う信長にはいつ捨てられるか分からない。プライドの高い光秀が一か八かのチャンスにかけて信長とどちらが運が強いのか比べたくなったとか。そういう意味だと秀吉に敗れたにせよ最初の賭けには勝って名前は残せたわけですから、目的の何割かは達成したかもしれません。

  • また、醍醐寺駅の方に戻って。<br />このアルプラザ醍醐は、醍醐寺駅直結のショッピングモールもチェック。醍醐寺駅はそんなに大きな駅ではないのですが、地元でお馴染みのスーパーである平和堂が核テナントとして入っているし、それも含めてそれなりに規模が大きいのでとても頼りになる存在です。

    また、醍醐寺駅の方に戻って。
    このアルプラザ醍醐は、醍醐寺駅直結のショッピングモールもチェック。醍醐寺駅はそんなに大きな駅ではないのですが、地元でお馴染みのスーパーである平和堂が核テナントとして入っているし、それも含めてそれなりに規模が大きいのでとても頼りになる存在です。

    アル プラザ醍醐 ショッピングモール

    とても頼りになる存在です by たびたびさん
  • さて、醍醐寺です。

    さて、醍醐寺です。

    醍醐寺 寺・神社・教会

  • 総門から

    総門から

  • 境内に入ると桜馬場。

    境内に入ると桜馬場。

  • 桜馬場の両側も桜の花が満開です。

    桜馬場の両側も桜の花が満開です。

  • 左手が三宝院ですが、ここは後にして

    左手が三宝院ですが、ここは後にして

  • まっすぐ歩いて仁王門へ。

    まっすぐ歩いて仁王門へ。

  • 安置されている仁王像は、平安後期の長承3年(1134年)に大仏師勢増、仁僧によって造られたもの。<br />元々は南大門にあったのですが、豊臣氏による再興事業の際に修理され、慶長10年(1605年)にここに移されました。豊臣氏が亡びるのは、元和元年(1615年)の大坂夏の陣。その10年前のことですね。

    安置されている仁王像は、平安後期の長承3年(1134年)に大仏師勢増、仁僧によって造られたもの。
    元々は南大門にあったのですが、豊臣氏による再興事業の際に修理され、慶長10年(1605年)にここに移されました。豊臣氏が亡びるのは、元和元年(1615年)の大坂夏の陣。その10年前のことですね。

  • 憤怒の形相はしていますが、しなやかに伸びる体躯が印象的です。<br />

    イチオシ

    憤怒の形相はしていますが、しなやかに伸びる体躯が印象的です。

  • 仁王門を入って、紅白の幕が張られた順路を奥の方へ。<br />幕に描かれた紋は、五七の桐。秀吉が太閤となってから使い始めたものと言われます。

    仁王門を入って、紅白の幕が張られた順路を奥の方へ。
    幕に描かれた紋は、五七の桐。秀吉が太閤となってから使い始めたものと言われます。

  • さらに進んで

    さらに進んで

  • 清滝宮の辺り。

    清滝宮の辺り。

  • 奥の枝垂れ桜が見事。

    奥の枝垂れ桜が見事。

  • これは素通りできませんよね

    これは素通りできませんよね

  • 下から見上げても

    下から見上げても

  • うっとりです。

    うっとりです。

  • 清滝宮の拝殿の方に回りますが、こちらも枝垂れ桜が満開。

    清滝宮の拝殿の方に回りますが、こちらも枝垂れ桜が満開。

  • そよそよと風に揺られて

    そよそよと風に揺られて

  • いい塩梅ですね~

    いい塩梅ですね~

  • 清滝宮から<br />そのまま五重塔の方に抜けていきます。

    清滝宮から
    そのまま五重塔の方に抜けていきます。

  • 本来であれば、絶好のアングルなんですが<br />この時間は逆光でいかんともし難い。残念ながら、これが精いっぱいですね。

    本来であれば、絶好のアングルなんですが
    この時間は逆光でいかんともし難い。残念ながら、これが精いっぱいですね。

  • 下から見上げるともう少しましかな。<br />ちなみに、この塔は、醍醐天皇の菩提を弔うために次代の朱雀天皇が発願。天暦5年(951年)に完成しました。高さ38.2mは、国宝の五重塔9塔の中では東寺、興福寺に次いで3番目。前回のイメージでは、ぶっとくて美しさに少し欠けるかなという印象だったのですが、今回は素直に美しいと感じました。その時の気分もあるんでしょうかね。

    下から見上げるともう少しましかな。
    ちなみに、この塔は、醍醐天皇の菩提を弔うために次代の朱雀天皇が発願。天暦5年(951年)に完成しました。高さ38.2mは、国宝の五重塔9塔の中では東寺、興福寺に次いで3番目。前回のイメージでは、ぶっとくて美しさに少し欠けるかなという印象だったのですが、今回は素直に美しいと感じました。その時の気分もあるんでしょうかね。

  • さらに奥に進んで<br />祖師堂から

    さらに奥に進んで
    祖師堂から

  • 日月門を抜けて

    日月門を抜けて

  • 少し進むと

    少し進むと

  • 今度は観音堂。<br />西国三十三所の十一番札所とされていますが、本来は上醍醐のはずなんですけどね。<br />そこのところはちょっと不思議です。

    今度は観音堂。
    西国三十三所の十一番札所とされていますが、本来は上醍醐のはずなんですけどね。
    そこのところはちょっと不思議です。

  • 隣りの池を回り込むと

    隣りの池を回り込むと

  • 池の先には弁天堂。

    池の先には弁天堂。

  • 池を挟んで観音堂が桜に埋もれるように見えています。<br />では、ここで引き返しましょう。

    池を挟んで観音堂が桜に埋もれるように見えています。
    では、ここで引き返しましょう。

  • 観音堂の辺りの鐘楼も桜とのコラボでいい感じ。

    観音堂の辺りの鐘楼も桜とのコラボでいい感じ。

  • 不動明王を中心に五体の明王を安置する不動堂も

    不動明王を中心に五体の明王を安置する不動堂も

  • 静かな佇まいです。

    静かな佇まいです。

  • そして、国宝の金堂まで帰ってきました。<br />五重塔と金堂は向かい合わせですね。

    そして、国宝の金堂まで帰ってきました。
    五重塔と金堂は向かい合わせですね。

  • 当初の金堂は、醍醐天皇の御願により延長4年(926年)に建立。現在の建物は、豊臣秀頼の時代、慶長5年(1600年)に完成したもの。<br />醍醐寺の本尊である薬師如来坐像を安置していますから、ここが醍醐寺の本堂という位置づけでしょう。

    当初の金堂は、醍醐天皇の御願により延長4年(926年)に建立。現在の建物は、豊臣秀頼の時代、慶長5年(1600年)に完成したもの。
    醍醐寺の本尊である薬師如来坐像を安置していますから、ここが醍醐寺の本堂という位置づけでしょう。

  • 金堂の周囲も背の高い桜が見事。気持ちのいいほどよく育っています。

    金堂の周囲も背の高い桜が見事。気持ちのいいほどよく育っています。

  • ほどなく仁王門まで帰ってきました。

    ほどなく仁王門まで帰ってきました。

  • 桜の馬場もまた人が多くなってきています。

    桜の馬場もまた人が多くなってきています。

  • 三宝院に向かいますが、桜の馬場の途中にある唐門は、勅使門。黒い漆塗に五七の桐と菊の四つの大きな金の紋。いかにも外連味のないスカッとした意匠は、秀吉好みということでしょう。

    三宝院に向かいますが、桜の馬場の途中にある唐門は、勅使門。黒い漆塗に五七の桐と菊の四つの大きな金の紋。いかにも外連味のないスカッとした意匠は、秀吉好みということでしょう。

  • では、ここからが三宝院です。

    では、ここからが三宝院です。

    醍醐寺三宝院 名所・史跡

    そこかしこが安土桃山時代の豪壮で華やかな雰囲気 by たびたびさん
  • 参道の左手には

    参道の左手には

  • あ~、これこれ。

    あ~、これこれ。

  • 醍醐寺の桜の本命中の本命はこの桜なんですよね。

    醍醐寺の桜の本命中の本命はこの桜なんですよね。

  • ここまで見てきた桜も十分に立派な桜はたくさんあったんですが、

    ここまで見てきた桜も十分に立派な桜はたくさんあったんですが、

  • やっぱり、これは別格。<br />シャワーのような滝のような<br />豪快に降り注ぐ枝ぶりがたまりません。

    イチオシ

    やっぱり、これは別格。
    シャワーのような滝のような
    豪快に降り注ぐ枝ぶりがたまりません。

  • めでたい、めでたい。まさに天下人の得意絶頂を彩った桜。

    めでたい、めでたい。まさに天下人の得意絶頂を彩った桜。

  • 秀吉の醍醐の花見のDNAをそのまま受け継いで、今に伝えているといっても過言ではないでしょう。

    秀吉の醍醐の花見のDNAをそのまま受け継いで、今に伝えているといっても過言ではないでしょう。

  • これこそ私がまた見たかった桜。<br />以前に見た時の感動がそのまま蘇った感じ。本当に素晴らしいです。<br /><br />

    イチオシ

    これこそ私がまた見たかった桜。
    以前に見た時の感動がそのまま蘇った感じ。本当に素晴らしいです。

  • 中門を入って、庭園の方を拝見します。

    中門を入って、庭園の方を拝見します。

  • はいはい、これが三宝院の庭園。

    はいはい、これが三宝院の庭園。

  • やっぱり、比類ない庭園ですよね。

    やっぱり、比類ない庭園ですよね。

  • ところで、醍醐寺三宝院は、永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主、勝覚僧正が灌頂院として創建。醍醐寺の本坊的な存在とされています。<br />さきほどの唐門と醍醐の花見の際に奈良から移されてきた能の楽屋を転用したという表書院が国宝であるほか、醍醐の花見の際に秀吉が自ら基本設計をしたというこの庭園も国の特別史跡・特別名勝なんです。とにかくそこかしこが安土桃山時代の豪壮で華やかな雰囲気。ここまでそれを感じることができる場所はちょっと思いつかないですね。<br />そして、これまでは建物も庭園も撮影禁止でしたが、最近、それができるようになりまして、とてもありがたいことですね。

    イチオシ

    ところで、醍醐寺三宝院は、永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主、勝覚僧正が灌頂院として創建。醍醐寺の本坊的な存在とされています。
    さきほどの唐門と醍醐の花見の際に奈良から移されてきた能の楽屋を転用したという表書院が国宝であるほか、醍醐の花見の際に秀吉が自ら基本設計をしたというこの庭園も国の特別史跡・特別名勝なんです。とにかくそこかしこが安土桃山時代の豪壮で華やかな雰囲気。ここまでそれを感じることができる場所はちょっと思いつかないですね。
    そして、これまでは建物も庭園も撮影禁止でしたが、最近、それができるようになりまして、とてもありがたいことですね。

  • さて、玄関から表書院の方に向かいます。

    さて、玄関から表書院の方に向かいます。

  • 玄関に入ってすぐにも障壁画がありますが、

    玄関に入ってすぐにも障壁画がありますが、

  • まあ先を急ぎましょう。

    まあ先を急ぎましょう。

  • しばらく進んで

    しばらく進んで

  • まずは、表書院の下段の間です。

    まずは、表書院の下段の間です。

  • 少し色あせたところもありますが、

    少し色あせたところもありますが、

  • 襖絵は円山応挙の師としても知られる江戸中期の絵師、石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄。

    襖絵は円山応挙の師としても知られる江戸中期の絵師、石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄。

  • ちょっと古風な感覚が残っていて、それが個性のある味になっていますね。

    ちょっと古風な感覚が残っていて、それが個性のある味になっていますね。

  • 下段の間は畳をあげると能の舞台になっているのだそうですが、ちょっとイメージは難しいかな。

    下段の間は畳をあげると能の舞台になっているのだそうですが、ちょっとイメージは難しいかな。

  • 縁側から庭園の方も見てみましょう。<br />池の真ん中には

    縁側から庭園の方も見てみましょう。
    池の真ん中には

  • 鶴島と亀島。

    鶴島と亀島。

  • 池の周囲も含めて

    池の周囲も含めて

  • これでもかというほど立石を使って、これ以上ない贅沢な景色ですね。

    これでもかというほど立石を使って、これ以上ない贅沢な景色ですね。

  • 手前の賀茂の三石辺りも名石が惜しげもなく使われて

    イチオシ

    手前の賀茂の三石辺りも名石が惜しげもなく使われて

  • 緩んだところが全くない。

    緩んだところが全くない。

  • それでいて、悠々とした余裕も感じさせますから、まあ、とんでもない庭ということです。<br /><br />ところで、日本庭園の系譜でいえばその最高峰は、江戸時代に広まった池泉回遊式のいわゆる大名庭園なんですが、三宝院の庭園はまだ座観式。しかし、座観のポイントがいくつもあって、そういう意味では大名庭園に限りなく近いです。しかし、しかし。。例えば、これも名勝庭園である二条城の二の丸庭園は小堀遠州の作った江戸時代前期の時代を代表する大名庭園ですが、私の感覚でいうとどこから見ても絵になるけどどこから見ても同じレベルというもの。それだけ完成度が高いということではあるのですが、私は三宝院の庭と比べるとある意味メリハリがないように感じます。どこから見ても絵になるけど、それでいて正面とそうではない面のきちんとしたメリハリもある。それが三宝院の庭だし、さらに言えば、秀吉が設計し秀吉の思いがこもっているという物語があるのがまた素晴らしい。徳川家康の思いがこもっている庭なんか聞いたことないですからね。とにかく、たびたび的にはいろんな意味で別格です。

    それでいて、悠々とした余裕も感じさせますから、まあ、とんでもない庭ということです。

    ところで、日本庭園の系譜でいえばその最高峰は、江戸時代に広まった池泉回遊式のいわゆる大名庭園なんですが、三宝院の庭園はまだ座観式。しかし、座観のポイントがいくつもあって、そういう意味では大名庭園に限りなく近いです。しかし、しかし。。例えば、これも名勝庭園である二条城の二の丸庭園は小堀遠州の作った江戸時代前期の時代を代表する大名庭園ですが、私の感覚でいうとどこから見ても絵になるけどどこから見ても同じレベルというもの。それだけ完成度が高いということではあるのですが、私は三宝院の庭と比べるとある意味メリハリがないように感じます。どこから見ても絵になるけど、それでいて正面とそうではない面のきちんとしたメリハリもある。それが三宝院の庭だし、さらに言えば、秀吉が設計し秀吉の思いがこもっているという物語があるのがまた素晴らしい。徳川家康の思いがこもっている庭なんか聞いたことないですからね。とにかく、たびたび的にはいろんな意味で別格です。

  • 次は中段の間へ。

    次は中段の間へ。

  • 一段高くなっています。

    一段高くなっています。

  • 雪に埋もれた笹の冬の情景から始まって

    雪に埋もれた笹の冬の情景から始まって

  • 紅葉の秋から桜の春へ。

    紅葉の秋から桜の春へ。

  • この襖絵は、平成に入っての浜田泰介作。

    この襖絵は、平成に入っての浜田泰介作。

  • 浜田泰介の作品は、東寺の観智院や大覚寺とか京都にも多いですが、愛媛出身ということで屋島寺や八栗寺、白川郷の明善寺でもお目にかかったりといろんなところで出会います。<br />銀閣寺の奥田元宋とか薬師寺の平山郁夫と比べるとあんまり大家というイメージはないですが、嫌味がなくて、華やかさを適度に演出する作風ですから、名のあるお寺からすると安心して任せられる画家のような位置づけなのかと思います。

    浜田泰介の作品は、東寺の観智院や大覚寺とか京都にも多いですが、愛媛出身ということで屋島寺や八栗寺、白川郷の明善寺でもお目にかかったりといろんなところで出会います。
    銀閣寺の奥田元宋とか薬師寺の平山郁夫と比べるとあんまり大家というイメージはないですが、嫌味がなくて、華やかさを適度に演出する作風ですから、名のあるお寺からすると安心して任せられる画家のような位置づけなのかと思います。

  • 中段の間からもお庭を拝見。

    中段の間からもお庭を拝見。

  • やっぱり視点が少し高くなっていますから、眺めは俯瞰的な感じかな。

    やっぱり視点が少し高くなっていますから、眺めは俯瞰的な感じかな。

  • 下段の間と一緒に見ると写真としては面白いですね。

    イチオシ

    下段の間と一緒に見ると写真としては面白いですね。

  • 中段の間の縁側も長いですよ~

    中段の間の縁側も長いですよ~

  • 上段の間は、三宝院の本堂という位置づけ。<br />本尊は、快慶作の弥勒菩薩です。

    上段の間は、三宝院の本堂という位置づけ。
    本尊は、快慶作の弥勒菩薩です。

  • 最後、一段下がったところで

    最後、一段下がったところで

  • 奥宸殿を確認。<br />ここは江戸時代の建物です。

    イチオシ

    奥宸殿を確認。
    ここは江戸時代の建物です。

  • ここでもう一度お庭のチェックかな。<br />庭の中心にある藤戸石は、阿弥陀三尊を表しすもの。足利義満、義政、義昭、信長と引き継がれたことから天下の名石といわれる石だそうです。

    ここでもう一度お庭のチェックかな。
    庭の中心にある藤戸石は、阿弥陀三尊を表しすもの。足利義満、義政、義昭、信長と引き継がれたことから天下の名石といわれる石だそうです。

  • 庭の写真も存分に撮りましたが、これが一押しかな。下手からのアングル。奥にとても深い庭のスケール感が伝わるかなと思います。

    イチオシ

    庭の写真も存分に撮りましたが、これが一押しかな。下手からのアングル。奥にとても深い庭のスケール感が伝わるかなと思います。

  • 三宝院の次は霊宝館のエリアです。

    三宝院の次は霊宝館のエリアです。

  • こちらも桜がけっこうあって

    こちらも桜がけっこうあって

  • 見応えがあるんですよね。

    見応えがあるんですよね。

  • 霊宝館の前庭は背は高くないけど幹は太くて力強い桜も多くて

    霊宝館の前庭は背は高くないけど幹は太くて力強い桜も多くて

  • 低層の桜といった感じ。<br />少し離れると

    低層の桜といった感じ。
    少し離れると

  • また背の高い枝垂れ桜があって、

    また背の高い枝垂れ桜があって、

  • 霊宝館の横の桜は

    霊宝館の横の桜は

  • またまた見事。<br />危うく見落とすところでしたが、事なきを得ました。<br />霊宝館の方ですが、国宝 薬師三尊像がポイント。醍醐天皇の発願により建立された薬師堂の本尊です。ただ、醍醐の花見に秀吉やねねが詠んだ歌。その他、名だたる武将の歌も含めて、花見短冊が展示されています。本物は台紙に貼られているので、この時はレプリカだったようですが、それでも優雅なものですねえ。<br />秀吉は、「あらためて名を替えてみむ深雪山 うずもる花もあらわれにけり」<br />ねねは、「ともなひて ながめにあかじ 深雪山 帰るさ惜しき 花のおもかげ」<br />淀君は、「花もまた君のためにと咲き出でて世にならびなき春にあふらし」<br />秀吉の歌は、醍醐山は桜が見事だから、深雪山に名前を変えたらどうかと提案したもの。それもあってでしょう。醍醐寺の山号は深雪山となっています。

    またまた見事。
    危うく見落とすところでしたが、事なきを得ました。
    霊宝館の方ですが、国宝 薬師三尊像がポイント。醍醐天皇の発願により建立された薬師堂の本尊です。ただ、醍醐の花見に秀吉やねねが詠んだ歌。その他、名だたる武将の歌も含めて、花見短冊が展示されています。本物は台紙に貼られているので、この時はレプリカだったようですが、それでも優雅なものですねえ。
    秀吉は、「あらためて名を替えてみむ深雪山 うずもる花もあらわれにけり」
    ねねは、「ともなひて ながめにあかじ 深雪山 帰るさ惜しき 花のおもかげ」
    淀君は、「花もまた君のためにと咲き出でて世にならびなき春にあふらし」
    秀吉の歌は、醍醐山は桜が見事だから、深雪山に名前を変えたらどうかと提案したもの。それもあってでしょう。醍醐寺の山号は深雪山となっています。

  • では、もう一度仁王門のところに戻って、

    では、もう一度仁王門のところに戻って、

  • 北に向かって、醍醐寺を後にします。

    北に向かって、醍醐寺を後にします。

  • すぐに参道が現れて、これは長尾天満宮。

    すぐに参道が現れて、これは長尾天満宮。

    長尾天満宮 寺・神社・教会

    長い階段を上った先 by たびたびさん
  • 醍醐寺の北側に続く長い階段を上った先です。<br />

    醍醐寺の北側に続く長い階段を上った先です。

  • 祭神は菅原道真。<br />醍醐天皇の勅願により道真の霊を慰めるために創建されたとも言われますが、入り口に立つ駒札の説明だとそうした説明はなく、道真とここに墓地を築くことを約束した醍醐寺開祖が太宰府から衣装や遺物を持ち帰り埋めたと伝わるとしています。

    祭神は菅原道真。
    醍醐天皇の勅願により道真の霊を慰めるために創建されたとも言われますが、入り口に立つ駒札の説明だとそうした説明はなく、道真とここに墓地を築くことを約束した醍醐寺開祖が太宰府から衣装や遺物を持ち帰り埋めたと伝わるとしています。

  • 醍醐天皇は藤原時平の讒言を容れ、菅原道真を大宰員外帥に左遷した天皇としても知られていて、勅願説はそれは痛恨の出来事と解釈した後世の人々の思いもあるかもしれません。<br />そもそも、菅原道真の左遷は藤原氏を抑制してきた宇多上皇の政治力を排除するためのものだったとも言われていて、菅原道真の評価は評価として、醍醐天皇については別。一方的な評価はすべきでないと思います。

    醍醐天皇は藤原時平の讒言を容れ、菅原道真を大宰員外帥に左遷した天皇としても知られていて、勅願説はそれは痛恨の出来事と解釈した後世の人々の思いもあるかもしれません。
    そもそも、菅原道真の左遷は藤原氏を抑制してきた宇多上皇の政治力を排除するためのものだったとも言われていて、菅原道真の評価は評価として、醍醐天皇については別。一方的な評価はすべきでないと思います。

  • なお、現在の建物は、文政4年(1821年)に再建されたもの。色はけっこうはげ落ちていますが、豪華なものだったことはうかがわれます。

    なお、現在の建物は、文政4年(1821年)に再建されたもの。色はけっこうはげ落ちていますが、豪華なものだったことはうかがわれます。

  • 長尾天満宮から降りてきて、醍醐寺理性院というのもふと気づいて寄ってみました。<br />平安時代、醍醐寺の僧、賢覚によって開かれた真言宗醍醐派の別格本山。三宝院、金剛王院、無量寿院、報恩院と並んで醍醐五門跡のひとつとも。<br />

    長尾天満宮から降りてきて、醍醐寺理性院というのもふと気づいて寄ってみました。
    平安時代、醍醐寺の僧、賢覚によって開かれた真言宗醍醐派の別格本山。三宝院、金剛王院、無量寿院、報恩院と並んで醍醐五門跡のひとつとも。

  • 山門を入ると正面に千体地蔵。

    山門を入ると正面に千体地蔵。

  • 右手の中門の奥を覗くと本堂の手前には見事な松と枝垂れ桜が目を見張るような眺めでした。<br />

    右手の中門の奥を覗くと本堂の手前には見事な松と枝垂れ桜が目を見張るような眺めでした。

  • 建物は非公開ですが、境内をぐるりと確認して

    建物は非公開ですが、境内をぐるりと確認して

  • これでも十分かと思います。

    これでも十分かと思います。

  • 改めて、朱雀天皇 醍醐陵へ。<br />

    改めて、朱雀天皇 醍醐陵へ。

  • 朱雀天皇は、醍醐天皇第11皇子として誕生し、第61代天皇となった天皇。8歳で即位したため、在位中は藤原忠平が摂政・関白として執政。醍醐天皇の父、宇多天皇は藤原氏を遠ざけ親政を行いましたが、また元の木阿弥。藤原氏の影響から距離を置くのは第72代白河天皇が上皇になって院政を敷いてからになります。なお、朱雀天皇の在世中は平将門の乱や藤原純友の乱が起きたりして、あまり芳しくない時代となりました。<br />なお、父の第60代天皇醍醐天皇陵を上ノ御陵に対し、この陵は下ノ御陵と称されてきたようですが、とてもよく整備されていて美しい姿です。

    朱雀天皇は、醍醐天皇第11皇子として誕生し、第61代天皇となった天皇。8歳で即位したため、在位中は藤原忠平が摂政・関白として執政。醍醐天皇の父、宇多天皇は藤原氏を遠ざけ親政を行いましたが、また元の木阿弥。藤原氏の影響から距離を置くのは第72代白河天皇が上皇になって院政を敷いてからになります。なお、朱雀天皇の在世中は平将門の乱や藤原純友の乱が起きたりして、あまり芳しくない時代となりました。
    なお、父の第60代天皇醍醐天皇陵を上ノ御陵に対し、この陵は下ノ御陵と称されてきたようですが、とてもよく整備されていて美しい姿です。

  • 続いて、上ノ御陵。第60代天皇醍醐天皇のお墓です。在位は、寛平9年(897年)から延長8年(930年)。醍醐天皇が生まれた時、父の宇多天皇はまだ臣籍だったので、臣籍の身分として生まれた唯一の天皇だとか。<br /><br />

    続いて、上ノ御陵。第60代天皇醍醐天皇のお墓です。在位は、寛平9年(897年)から延長8年(930年)。醍醐天皇が生まれた時、父の宇多天皇はまだ臣籍だったので、臣籍の身分として生まれた唯一の天皇だとか。

  • ちなみに、宇多天皇は天皇になって藤原氏から冷たい仕打ちを受けたようで、その後、藤原氏を遠ざけますが、その懐刀が菅原道真。醍醐天皇に譲位をした後、引き続き、菅原道真を重く扱うよう申し伝えますが、醍醐天皇は宇多上皇の影響力を嫌い、菅原道真を太宰府に左遷する。皮肉な巡りあわせですが、天皇を巡る権力闘争ではそんなことは日常茶飯事。ある意味、そうしたことは一種の競争だし、日本は出自にとらわれない実力主義という科挙の制度を採り入れませんでしたが、それでも一定の優秀性が確保されたのはこうした競争があったからともいえるのでは。マイナスの面ばかり見ても仕方がないと思います。<br />それにしても、陵は長い参道からよく整備されていて、

    ちなみに、宇多天皇は天皇になって藤原氏から冷たい仕打ちを受けたようで、その後、藤原氏を遠ざけますが、その懐刀が菅原道真。醍醐天皇に譲位をした後、引き続き、菅原道真を重く扱うよう申し伝えますが、醍醐天皇は宇多上皇の影響力を嫌い、菅原道真を太宰府に左遷する。皮肉な巡りあわせですが、天皇を巡る権力闘争ではそんなことは日常茶飯事。ある意味、そうしたことは一種の競争だし、日本は出自にとらわれない実力主義という科挙の制度を採り入れませんでしたが、それでも一定の優秀性が確保されたのはこうした競争があったからともいえるのでは。マイナスの面ばかり見ても仕方がないと思います。
    それにしても、陵は長い参道からよく整備されていて、

  • 美しい眺めです。

    美しい眺めです。

  • 醍醐寺から随心院までやってきました。<br />この辺りは、醍醐寺、随心院、勧修寺というのが定番コースですからね。

    醍醐寺から随心院までやってきました。
    この辺りは、醍醐寺、随心院、勧修寺というのが定番コースですからね。

  • 梅園の方はもう花が終わった感じ。若葉が芽生えてきていて、新緑が爽やかです。

    梅園の方はもう花が終わった感じ。若葉が芽生えてきていて、新緑が爽やかです。

  • はねずおどりもこの時期の名物ですからね。

    はねずおどりもこの時期の名物ですからね。

  • 梅園の先にある小野小町化粧井戸は小野小町の屋敷跡と伝えられる場所で、小野小町はここで朝と夕に顔を洗ったとされるよう。傍らに詳しい説明の駒札が立っていて、小野小町は出羽国司を勤めた小野篁の孫。書家小野道風とも従妹同士という血筋。小野小町がここに戻ってきたのは、仕えていた仁明天皇が崩御した後とも書かれていました。<br />井戸はそれなりに大きくて小さな石が丁寧に積み上げられているのが印象的です。

    梅園の先にある小野小町化粧井戸は小野小町の屋敷跡と伝えられる場所で、小野小町はここで朝と夕に顔を洗ったとされるよう。傍らに詳しい説明の駒札が立っていて、小野小町は出羽国司を勤めた小野篁の孫。書家小野道風とも従妹同士という血筋。小野小町がここに戻ってきたのは、仕えていた仁明天皇が崩御した後とも書かれていました。
    井戸はそれなりに大きくて小さな石が丁寧に積み上げられているのが印象的です。

  • 随心院からは、勧修寺方面へ。<br />明智光秀胴塚は、その途中。今朝訪ねた明智藪からは少し離れた場所。首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠され、胴体が埋葬されたと伝えられるのがこの近くです。ただ、光秀の首と胴は秀吉の命により粟田口で磔にされたともあって、全体としてあまりはっきりとはしていません。塚は駐車場の奥のような場所。詳しい駒札も立っています。

    随心院からは、勧修寺方面へ。
    明智光秀胴塚は、その途中。今朝訪ねた明智藪からは少し離れた場所。首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠され、胴体が埋葬されたと伝えられるのがこの近くです。ただ、光秀の首と胴は秀吉の命により粟田口で磔にされたともあって、全体としてあまりはっきりとはしていません。塚は駐車場の奥のような場所。詳しい駒札も立っています。

  • 西向寺は、勧修寺の近くにある浄土宗の寺。

    西向寺は、勧修寺の近くにある浄土宗の寺。

  • 特に観光の寺ということではないと思いますが、門から本堂まで続く参道がいい感じの延べ段になっていて、それが唯一の見どころくらいじゃないでしょうか。参道横には日本庭園風のものもありますが、ちょっと荒れた感じです。

    特に観光の寺ということではないと思いますが、門から本堂まで続く参道がいい感じの延べ段になっていて、それが唯一の見どころくらいじゃないでしょうか。参道横には日本庭園風のものもありますが、ちょっと荒れた感じです。

  • ここからしばらくは、勧修寺周辺のマイナースポットのチェック。その後、岩屋寺、大石神社の方に向かいます。<br />吉利倶八幡宮は、仁壽3年(853年)の創建。かつては勧修寺の鎮守社だったとか。<br />赤い鳥居を入って、ぐるっと回り込むようにして上の本殿に向かって石段が続きます。

    ここからしばらくは、勧修寺周辺のマイナースポットのチェック。その後、岩屋寺、大石神社の方に向かいます。
    吉利倶八幡宮は、仁壽3年(853年)の創建。かつては勧修寺の鎮守社だったとか。
    赤い鳥居を入って、ぐるっと回り込むようにして上の本殿に向かって石段が続きます。

  • 本殿は工事中でしたが、

    本殿は工事中でしたが、

  • 見える部分だけ見ても切妻造平入の本殿は金の金具が豪華だし、それなりの威厳を感じます。

    見える部分だけ見ても切妻造平入の本殿は金の金具が豪華だし、それなりの威厳を感じます。

  • 宮道神社は、寛平10年(898年)、宮道氏の祖神である日本武尊とその子である稚武王を祀ったのが始まり。

    宮道神社は、寛平10年(898年)、宮道氏の祖神である日本武尊とその子である稚武王を祀ったのが始まり。

  • その後、宮道弥益、その妻列子を合祀していますが、この宮道弥益なる人物は、醍醐天皇の生母、藤原胤子の祖父で、醍醐天皇の命により母を弔うためにその邸を寺としたのが勧修寺という関係です。<br />周囲を囲む白い塀が神社らしくなくて、異彩を放っているのが面白いです。

    その後、宮道弥益、その妻列子を合祀していますが、この宮道弥益なる人物は、醍醐天皇の生母、藤原胤子の祖父で、醍醐天皇の命により母を弔うためにその邸を寺としたのが勧修寺という関係です。
    周囲を囲む白い塀が神社らしくなくて、異彩を放っているのが面白いです。

  • 仏光院は、勧修寺を大本山とする真言宗山階派のお寺。<br />境内に詳しい説明書きがあって、昭和11年、大石順教尼というもとは芸妓で人斬り事件に巻き込まれ、両腕を失った人物が障碍者のための施設を作り、この地で生涯をささげたということ。壮絶な生涯に少し驚きました。

    仏光院は、勧修寺を大本山とする真言宗山階派のお寺。
    境内に詳しい説明書きがあって、昭和11年、大石順教尼というもとは芸妓で人斬り事件に巻き込まれ、両腕を失った人物が障碍者のための施設を作り、この地で生涯をささげたということ。壮絶な生涯に少し驚きました。

  • 坂上田村麻呂は、桓武天皇の軍事を支え、征夷大将軍として蝦夷征討に功績があり、アテルイ、モレの降伏なども含めて神格化されたところもありますね。その坂上田村麻呂の墓の周辺が公園となっていて、それが坂上田村麻呂公園。

    坂上田村麻呂は、桓武天皇の軍事を支え、征夷大将軍として蝦夷征討に功績があり、アテルイ、モレの降伏なども含めて神格化されたところもありますね。その坂上田村麻呂の墓の周辺が公園となっていて、それが坂上田村麻呂公園。

  • こんな住宅地の近くの日当たりのいい場所に静かに眠っているというのはちょっと感慨深いものがありました。

    こんな住宅地の近くの日当たりのいい場所に静かに眠っているというのはちょっと感慨深いものがありました。

  • 折上稲荷神社は、和同4年(711年)、伏見稲荷大社の奥宮として創建。<br />

    折上稲荷神社は、和同4年(711年)、伏見稲荷大社の奥宮として創建。

  • 境内の説明板には、幕末、孝明天皇が女官の病気平癒を祈願し、長命箸を奉納されたという逸話やJ・P・モルガンの甥と結婚した芸妓、モルガンお雪も深く信仰していたという話も紹介されていました。<br />こじんまりとしていますが、清潔感のある神社です。

    境内の説明板には、幕末、孝明天皇が女官の病気平癒を祈願し、長命箸を奉納されたという逸話やJ・P・モルガンの甥と結婚した芸妓、モルガンお雪も深く信仰していたという話も紹介されていました。
    こじんまりとしていますが、清潔感のある神社です。

  • さて、岩屋寺、大石神社のエリアに到着しました。勧修寺からでも少し距離がありまして、私もこの辺りまで来るのは今回が初めてです。<br />大石良雄閑居祉は、山科西野の岩屋寺境内。元禄年間(1688~1704年)赤穂浪士大石良雄が潜居した跡。

    さて、岩屋寺、大石神社のエリアに到着しました。勧修寺からでも少し距離がありまして、私もこの辺りまで来るのは今回が初めてです。
    大石良雄閑居祉は、山科西野の岩屋寺境内。元禄年間(1688~1704年)赤穂浪士大石良雄が潜居した跡。

  • つまり、討ち入り後、岩屋寺の境内となったものですが、岩屋寺の方が荒廃。幕末の嘉永年間(1848~1854年)に京都町奉行だった浅野長祚の尽力で再興したようです。うねった地形ですが、公園のように整備されていて、立派な石碑も立っています。

    つまり、討ち入り後、岩屋寺の境内となったものですが、岩屋寺の方が荒廃。幕末の嘉永年間(1848~1854年)に京都町奉行だった浅野長祚の尽力で再興したようです。うねった地形ですが、公園のように整備されていて、立派な石碑も立っています。

  • 大石良雄閑居祉から石段を上がると岩屋寺です。<br />この寺は、寛平9年(897年)、宇多天皇の命により山科神社の神宮寺として創建。その後、忠臣蔵の大石内蔵助が隠棲した大石良雄閑居祉を境内に含めたことから、以降は大石寺とも。

    大石良雄閑居祉から石段を上がると岩屋寺です。
    この寺は、寛平9年(897年)、宇多天皇の命により山科神社の神宮寺として創建。その後、忠臣蔵の大石内蔵助が隠棲した大石良雄閑居祉を境内に含めたことから、以降は大石寺とも。

  • 本尊の不動明王は、内蔵助の念持仏であったとも言われるようですし、浅野内匠頭の位牌や四十七士の木造も安置しているようですが、この雰囲気だと普段は見れないのではないかと感じました。

    本尊の不動明王は、内蔵助の念持仏であったとも言われるようですし、浅野内匠頭の位牌や四十七士の木造も安置しているようですが、この雰囲気だと普段は見れないのではないかと感じました。

  • 山科神社は、岩屋寺の脇からさらに山の上の方。急な坂道をけっこう上っていったところです。

    山科神社は、岩屋寺の脇からさらに山の上の方。急な坂道をけっこう上っていったところです。

  • 先ほども触れましたが、寛平9年(897年)、宇多天皇の勅命による創建という古社です。

    先ほども触れましたが、寛平9年(897年)、宇多天皇の勅命による創建という古社です。

  • 拝殿の奥、少し離れたところの高台に本殿が建つというのは古社の形式かな。<br />日本武尊、稚武王を祀るのですが、日本武尊、稚武王は地元の豪族の宮道氏の祖神なので、宮道氏とも関係があったかもしれません。<br />宇多天皇、醍醐天皇、宮道氏の関係は先に述べたとおりです。

    拝殿の奥、少し離れたところの高台に本殿が建つというのは古社の形式かな。
    日本武尊、稚武王を祀るのですが、日本武尊、稚武王は地元の豪族の宮道氏の祖神なので、宮道氏とも関係があったかもしれません。
    宇多天皇、醍醐天皇、宮道氏の関係は先に述べたとおりです。

  • 岩屋寺のところまで戻って、少し山越えで大石神社に向かいます。<br />これはその途中にある大石内蔵助の遺髪塚です。

    岩屋寺のところまで戻って、少し山越えで大石神社に向かいます。
    これはその途中にある大石内蔵助の遺髪塚です。

  • さて、大石神社のところに出てきました。<br />神社は、大石内蔵助を祀りますが、昭和初期、浪曲師の吉田大和之丞が、忠臣蔵の大石内蔵助が閑居していた岩屋寺の北隣りに神社を創建することを計画したという歴史はまだまだ新しい神社。<br />

    さて、大石神社のところに出てきました。
    神社は、大石内蔵助を祀りますが、昭和初期、浪曲師の吉田大和之丞が、忠臣蔵の大石内蔵助が閑居していた岩屋寺の北隣りに神社を創建することを計画したという歴史はまだまだ新しい神社。

  • 境内には見事な枝垂れ桜があって、私も以前からけっこう気になっていました。<br />今年は例年に比べると花が早かったのですが、ここの桜はもうほとんど終わっていましたか。楽しみにしていましたが、残念!

    境内には見事な枝垂れ桜があって、私も以前からけっこう気になっていました。
    今年は例年に比べると花が早かったのですが、ここの桜はもうほとんど終わっていましたか。楽しみにしていましたが、残念!

  • 石段を上がって

    石段を上がって

  • 近くで眺めると、本当に足元の方まで枝が下がっています。ここまで枝垂れるってなかなかないですね。それなりに評判になっているのは納得です。<br /><br />

    近くで眺めると、本当に足元の方まで枝が下がっています。ここまで枝垂れるってなかなかないですね。それなりに評判になっているのは納得です。

  • また、向かいには四十七士の資料館。<br />

    また、向かいには四十七士の資料館。

  • 映画の写真や

    映画の写真や

  • 屏風絵とかがあって、意外に見応えがありました。

    屏風絵とかがあって、意外に見応えがありました。

  • ところで、忠臣蔵は大石内蔵助以下、四十七士の面々が苦労の果てに、主君、浅野内匠頭の仇、吉良上野介を討つという物語。時は元禄、5代将軍、綱吉の時代。江戸城殿中松之大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだことに端を発します。浅野内匠頭は即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しも決定。綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに大激怒したと伝わります。

    ところで、忠臣蔵は大石内蔵助以下、四十七士の面々が苦労の果てに、主君、浅野内匠頭の仇、吉良上野介を討つという物語。時は元禄、5代将軍、綱吉の時代。江戸城殿中松之大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだことに端を発します。浅野内匠頭は即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しも決定。綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに大激怒したと伝わります。

  • 禁を破った浅野内匠頭への処分は当然だと思います。しかし、吉良上野介へのお咎めはなし。けんか両成敗の原則も破られたという公儀への不満もくすぶり、大石内蔵助の苦難が始まるという展開ですね。<br />

    禁を破った浅野内匠頭への処分は当然だと思います。しかし、吉良上野介へのお咎めはなし。けんか両成敗の原則も破られたという公儀への不満もくすぶり、大石内蔵助の苦難が始まるという展開ですね。

  • ただ、大石内蔵助の苦難は何かという問題です。改易となった赤穂藩の藩士たちを結束させて、吉良上野介を討つというのは大変な困難なのですが、そもそもなぜ吉良上野介を討つのかという大義名分の問題です。<br />平和な江戸時代、家禄を食む家臣は一朝事あれば藩主に報いることが忠義。それが鎌倉時代から続く御恩と奉公の関係であり、武士道の基本でした。しかし、さらに大きく見れば、藩主も徳川幕府から藩を預かり藩主としての地位を認められているという恩義があり、その幕府から罪を咎められ罰せられたわけですから、公儀に従うのは同様に忠義となるわけです。<br />つまり、無念の死を遂げた藩主への忠義が吉良上野介を討つことだとしても、それは公儀への不忠。小さな忠義と大きな不忠がぶつかることになるのですね。

    ただ、大石内蔵助の苦難は何かという問題です。改易となった赤穂藩の藩士たちを結束させて、吉良上野介を討つというのは大変な困難なのですが、そもそもなぜ吉良上野介を討つのかという大義名分の問題です。
    平和な江戸時代、家禄を食む家臣は一朝事あれば藩主に報いることが忠義。それが鎌倉時代から続く御恩と奉公の関係であり、武士道の基本でした。しかし、さらに大きく見れば、藩主も徳川幕府から藩を預かり藩主としての地位を認められているという恩義があり、その幕府から罪を咎められ罰せられたわけですから、公儀に従うのは同様に忠義となるわけです。
    つまり、無念の死を遂げた藩主への忠義が吉良上野介を討つことだとしても、それは公儀への不忠。小さな忠義と大きな不忠がぶつかることになるのですね。

  • 忠義と不忠は、庶民の世界におきかえると義理と不義理の関係。歌舞伎や人形浄瑠璃で一世を風靡した近松門左衛門の脚本は、義理と人情の板挟みという言い方をされますが、実はそうではない。もしそうであれば、義理を忘れ人情に流されるというくだらないばか話にしかなりませんからね。<br />つまり、義理と人情ではなく小さな義理や大きな義理のぶつかり合い。義理詰めというのがそのポイントなのです。心中物の中でも、男女の仲を軸にしつつも、主従の義理、夫婦の義理、男と男の義理、女と女の義理まで設けて網をかけ、登場人物をがんじがらめにしていくというのが近松の真骨頂。忠臣蔵もそのスタイルに見事にハマっているわけですね。<br />で、このことはある意味とても興味深いことを示しています。というのも忠義や義理は儒教の考え方。その儒教の考え方が広く浸透していなければ忠臣蔵も近松門左衛門も庶民にもてはやされることはなかったはず。徳川家康が儒教を奨励したというのは知られていると思いますが、ただ、それが成功したということではない。そうではなくて、平和な時代になって、その中で人間関係をどう合理的にコントロールしていくのか、それが大事な時代になった時に、行動を律する儒教の考え方が庶民にとっても都合がよくなっていたということではないかと思います。戦乱の時代から平和な時代になって、人々の価値観もいつのまにか劇的に変わっている。そのことがとても興味深いことだと思うのです。<br />さらに言えば、義理詰めで追い詰められた赤穂浪士は切腹。義理と人情の板挟みの末に待つのは心中。いずれも死をもってしか解決の道はない。死は儒教の世界ではなく、仏教の世界。最後の安らぎは儒教ではなくやはり仏教。そんなことも示唆しているようで、日本人の思考は多層的でとても深い。日本人は無宗教だとか、無思想だとか言われたりもしますが、決してそうではない。多種多様な文化や思想を時代に合わせて取り入れて、精神的活力や心の安定の糧としていく。そうして今日の日本人なるものが形成されたことはもっと知っていていいし、誇っていいのではないかと思います。<br />ちょっと余談のつもりが長くなりました。

    イチオシ

    忠義と不忠は、庶民の世界におきかえると義理と不義理の関係。歌舞伎や人形浄瑠璃で一世を風靡した近松門左衛門の脚本は、義理と人情の板挟みという言い方をされますが、実はそうではない。もしそうであれば、義理を忘れ人情に流されるというくだらないばか話にしかなりませんからね。
    つまり、義理と人情ではなく小さな義理や大きな義理のぶつかり合い。義理詰めというのがそのポイントなのです。心中物の中でも、男女の仲を軸にしつつも、主従の義理、夫婦の義理、男と男の義理、女と女の義理まで設けて網をかけ、登場人物をがんじがらめにしていくというのが近松の真骨頂。忠臣蔵もそのスタイルに見事にハマっているわけですね。
    で、このことはある意味とても興味深いことを示しています。というのも忠義や義理は儒教の考え方。その儒教の考え方が広く浸透していなければ忠臣蔵も近松門左衛門も庶民にもてはやされることはなかったはず。徳川家康が儒教を奨励したというのは知られていると思いますが、ただ、それが成功したということではない。そうではなくて、平和な時代になって、その中で人間関係をどう合理的にコントロールしていくのか、それが大事な時代になった時に、行動を律する儒教の考え方が庶民にとっても都合がよくなっていたということではないかと思います。戦乱の時代から平和な時代になって、人々の価値観もいつのまにか劇的に変わっている。そのことがとても興味深いことだと思うのです。
    さらに言えば、義理詰めで追い詰められた赤穂浪士は切腹。義理と人情の板挟みの末に待つのは心中。いずれも死をもってしか解決の道はない。死は儒教の世界ではなく、仏教の世界。最後の安らぎは儒教ではなくやはり仏教。そんなことも示唆しているようで、日本人の思考は多層的でとても深い。日本人は無宗教だとか、無思想だとか言われたりもしますが、決してそうではない。多種多様な文化や思想を時代に合わせて取り入れて、精神的活力や心の安定の糧としていく。そうして今日の日本人なるものが形成されたことはもっと知っていていいし、誇っていいのではないかと思います。
    ちょっと余談のつもりが長くなりました。

  • 大石神社からもう一つ。花山稲荷神社は、延喜3年(903年)、醍醐天皇の勅命による創建。<br />祭神は、スサノオノミコトの子や妻の宇迦之御魂大神、神大市比売大神、大土之御祖大神の三神。古墳の上に位置していて、市街地からの進入路が分かりにくいです。

    大石神社からもう一つ。花山稲荷神社は、延喜3年(903年)、醍醐天皇の勅命による創建。
    祭神は、スサノオノミコトの子や妻の宇迦之御魂大神、神大市比売大神、大土之御祖大神の三神。古墳の上に位置していて、市街地からの進入路が分かりにくいです。

  • ここから歩いて帰ろうと思ったのですが、やっぱりけっこう遠い。<br />京阪バスで山科駅まで帰ることにします。

    ここから歩いて帰ろうと思ったのですが、やっぱりけっこう遠い。
    京阪バスで山科駅まで帰ることにします。

  • 山科駅のすぐ前の商業施設、ビエラ山科。一階のスタバと二階のふたば書房が目立っていますが、いずれにしても規模は小さくて、ミニマムな感じですね。山科は大津以東に向かう東海道線と湖西線が分かれる駅なので、もう少し大きな商業施設であってもいいような気がしますが、少し離れた場所にラクト山科ショッピングセンターがあるので、ちゃんと棲み分けが出来ているのかもしれません。

    山科駅のすぐ前の商業施設、ビエラ山科。一階のスタバと二階のふたば書房が目立っていますが、いずれにしても規模は小さくて、ミニマムな感じですね。山科は大津以東に向かう東海道線と湖西線が分かれる駅なので、もう少し大きな商業施設であってもいいような気がしますが、少し離れた場所にラクト山科ショッピングセンターがあるので、ちゃんと棲み分けが出来ているのかもしれません。

  • 山科駅から、今夜の宿の大津に到着。<br />大津駅もビエラがあって、ビエラ大津。そこに入っているちゃんぽん亭で、晩飯にしました。

    山科駅から、今夜の宿の大津に到着。
    大津駅もビエラがあって、ビエラ大津。そこに入っているちゃんぽん亭で、晩飯にしました。

  • 近江ちゃんぽんというようですが、和風出汁で野菜が多いのも特徴かな。滋賀でちゃんぽんってあんまり気分は出ませんでしたが、ちょっとヘルシーな感じでそれなりにおいしくいただきました。

    近江ちゃんぽんというようですが、和風出汁で野菜が多いのも特徴かな。滋賀でちゃんぽんってあんまり気分は出ませんでしたが、ちょっとヘルシーな感じでそれなりにおいしくいただきました。

  • 大津駅から宿に向かう途中。<br />天孫神社では夜の桜のライトアップが行われていました。

    大津駅から宿に向かう途中。
    天孫神社では夜の桜のライトアップが行われていました。

  • ちょうど見ごろだったので、境内は桜の花で埋め尽くされた感じ。

    ちょうど見ごろだったので、境内は桜の花で埋め尽くされた感じ。

  • 近くの人もたくさんやってきていて、美しい桜を楽しんでいました。

    近くの人もたくさんやってきていて、美しい桜を楽しんでいました。

  • 特に宣伝もやっていなくて、たまたま出会っただけですが、こんなに大津駅にも近いしもう少しアピールしてもいいんじゃないかと思いますね。

    特に宣伝もやっていなくて、たまたま出会っただけですが、こんなに大津駅にも近いしもう少しアピールしてもいいんじゃないかと思いますね。

  • で、今夜の宿はホテルブルーレーク大津。けっこう安かったので、それなりのホテルなんだろうなあと期待してはいませんでしたが、琵琶湖浜大津駅から至近で観光にはとても便利なところ。建物周りやフロントもしっかりしているし、けっこう安心感がありますね。やっぱり部屋は少し狭めの感じですが、それでもこれならとてもお得感があると思います。<br />明日は、三井寺から石山寺。どちらも滋賀を代表する桜の名所ですから、とても楽しみです。

    で、今夜の宿はホテルブルーレーク大津。けっこう安かったので、それなりのホテルなんだろうなあと期待してはいませんでしたが、琵琶湖浜大津駅から至近で観光にはとても便利なところ。建物周りやフロントもしっかりしているし、けっこう安心感がありますね。やっぱり部屋は少し狭めの感じですが、それでもこれならとてもお得感があると思います。
    明日は、三井寺から石山寺。どちらも滋賀を代表する桜の名所ですから、とても楽しみです。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • Antonioさん 2024/01/10 00:39:54
    三宝院
    こんばんは。私も年末に醍醐寺まで行ってきました。観月橋から六地蔵を通過し、醍醐寺まで歩きましたが、京都中心部から離れているので、観光客は少なかったですね。三宝院は入場料が必要なので、見学を控える人が多いように感じましたが、ここの日本庭園は素晴らしかったです。醍醐寺自体は、桜の季節に人が一番多く集まるのかもしれませんが、他の都道府県にあれば、県内で1,2を争う観光名所でしょうね。

    たびたび

    たびたびさん からの返信 2024/01/11 09:58:03
    RE: 三宝院
    そうですか。
    私は上醍醐も気になっていたんですが、今回も行けずじまい。醍醐寺からでも、けっこう遠いみたいですからね。今はそれがちょっと心残りです。

                               たびたび

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