2023/03/04 - 2023/03/04
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gianiさん
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酒井家庄内藩の藩庁となった鶴岡の博物館を巡ります。
時代順の地図情報も参考にしてください。
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まずは、庄内藩の歴史がわかる致道館を訪問します。
藩校致道館 名所・史跡
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関ヶ原後、最上義光(伊達政宗の母方の伯父)の統治する山形藩55万石の領地となる。大物外様大名を怖れた幕府により、孫の代に改易(1622)。旧山形藩領は、分割統治される。
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新制庄内藩を任されたのは、譜代のど真ん中徳川四天王の嫡流(孫)酒井忠勝だった。会津の松平家と共に伊達66万石の監視を担う。
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家康と酒井家は遠い親戚、四天王の一人忠次は、家康の義叔父でもある。浜松入府後は、地元三河をまとめる役も務めた。
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鶴ヶ岡城下は鶴岡と略され、60年かけて町が整備された。最上時代よりも人口は5倍規模になった。写真は、現在の鶴岡市役所付近。
城下町造営、天災、凶作、自腹の公共工事で幕府へ奉公、米価の下落といった全国共通の問題で、18世紀に財政破綻。エキストラとしては、5代藩主忠寄が老中を務めたゆえに余計支出が増えます。鶴岡公園 名所・史跡
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藩政改革
7代藩主忠徳は、参勤交代を終えて鶴岡へ帰る費用を捻出できず、苦労する。諸藩が改革に取り組む中、酒田の豪商本間光丘を登用し、藩政改革に取り組む。以降、本間家は藩への資金援助も惜しまなかった。領民の保護と、恒久的財源創出を行う。郡代白井矢太夫は、農民への貸付を白紙にして救済した。 -
藩校致道館創設
諸藩は藩校を創設し、教育にも力を注いだ。白井は1805年に致道館を創設。個性と自主性を重んじ、数人で討論させるゼミナール形式も取り入れた。幕府推奨の朱子学ではなく、藩政改革で成果を出した徂徠学を採用した。 -
三方領知替え
川越藩・松平家、庄内藩・酒井家、長岡藩・牧野家の組み合わせを、右へ一つずらす転封。財政の苦しい松平家は潤沢な庄内へ、酒井家は長岡7.4万石に転落。黒幕は川越藩主松平斉典で、筆頭老中に水野忠邦をバックに工作活動を行う。天保の改革のダーティな側面。 -
幕府は、長岡藩の抜け荷を理由に、庄内藩にはでっち上げの罪状で「懲罰措置」を実行しようとする。酒田の豪商本間光暉は酒井忠徳を全面バックアップし、幕閣を味方に付けるための政治工作資金を提供する(結局は実弾が飛び交うのが、政治の世界)。しかし、決め手は領民と世論だった。
領民は酒井家に代わり、評判の悪い川越松平家が入府することに反対し、結束して各地で反対集会を開く(写真)。スローガンは「百姓と雖(いえど)も二君に仕えず」だった。 -
本間光丘による藩政改革以降、農村の手厚い保護が続き、藩への信頼は厚かった。江戸三大飢饉の一つ天保の大飢饉(1833-39)の際も、光丘が実行した備蓄米や買入米で餓死者を出さなかった。領民は結束し、江戸の有力政治家の屋敷へ直談判を決行する。多くは事前に阻止されたが、11名が幕閣5名への直訴に成功する(天保義民事件・写真は江戸城大手門を出た水野忠邦に直訴する場面)。
領主の悪政を訴えるならともかく、善政を訴えるケースは前代未聞。江戸市民を味方に付ける。折良く将軍が代替わりし、国替えの件は再吟味され、幕命は翻らないという慣例を打ち破り、撤回された。各大名も口には出せないが、領民に二君に仕えずと言われた忠徳に憧れ、同情した。
※農民の直訴は死罪だが、最終的に無罪放免になった。 -
幕末と薩摩藩邸焼き討ち
黒船来航以降、庄内藩は江戸品川の台場警備と、蝦夷地の警備、江戸市中の治安維持(新徴組)と、任務も増えます。慶応3年12月25日(以下旧暦)には、幕命に従って、討幕運動の先鋒薩摩藩の江戸藩邸(下屋敷)焼き討ちを実行します。戊辰戦争の引金がひかれました。
※新徴組が昼夜巡回することで治安がかなり改善され、市民から「お巡り」と呼ばれます。後に交番勤務の警察官がお巡りさんと呼ばれたルーツです。 -
戊辰戦争
慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まります。庄内藩士は、江戸や蝦夷地から領内に戻ります。 -
最上川中流域の領地を守るために、最上川沿いに進軍。4月24日に新庄藩との境界に近い清川口で薩長軍と衝突します(清川口の戦い・写真)。現在堰がある辺りです。
この戦いで勝利し、寒河江領を目指して進軍。天童で米沢藩と合流し、4藩連合軍と交戦し勝利する(天童の戦い)。朝敵になることを怖れて鶴岡へ撤退するが、新政府に朝敵指定される。さみだれ大堰フィッシュギャラリー 名所・史跡
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7月4日には、秋田藩が新政府軍に寝返る。隣接する大藩の脅威に庄内藩は、即座に派兵(秋田戦争)。新庄・院内・湯沢・横手と要所で交戦し、庄内藩は勝利する。下の写真は8/11-13の横手の戦い。
9月9日には雄物川を突破し、秋田城下最後の砦椿台も落とすが、越後から新政府軍が進行し、鶴岡へ撤退する。 -
9/27に庄内藩は、降伏する。それまでに東北諸藩は全て新政府軍の手に墜ちていた。
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連戦不敗のまま降伏した根源は、欧米の最新兵器だった。1865年のアメリカ合衆国南北戦争終結に伴い、武器市場はダブついており、新たなマーケットを必要としていた。庄内藩は本間家の献金を財源にプロイセン商人からそれらを購入した。前年の新潟開港によって、供給ルートも確立された。
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もう一つは、士気。兵には2000名の農民、189名の商人も含まれたが、天保の三方領知替えに通じる気質が伴った。
庄内軍で大活躍したのが、二番大隊。隊長の酒井玄蕃の指揮能力もあった。敵からは鬼玄蕃と怖れられた存在。 -
幕末に藩の舵を切ったのが、藩主忠篤。仙台・盛岡藩が降伏した時点で、ほぼ無傷状態なのに降伏を英断。武力を頼りに闘いを続けていたなら、会津藩のような悲劇が起きていたかもしれない。
降伏に際しての寛大な措置は、西郷隆盛の判断による。 -
忠篤は隠居し、弟の忠宝が家督を継ぐが、転封を申し渡される。家老の松平親懐と中老の菅実秀が、藩と領民のために奔走し、転封を阻止します。その際に本間家の献金30万両で大蔵大臣大隈重信を懐柔しました。
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庄内藩の窮地を救い寛大な措置を取った西郷に恩義を感じ、菅は旧藩士と共に教えを請いに鹿児島を訪れています。これが西郷と庄内の交流の始まりです。酒田に西郷を祀る南洲神社がある所以です。憲法発布時の恩赦で西郷の汚名が除かれたのに際し「南洲翁遺訓」を出版したのは薩摩ではなく、菅実秀でした。
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致道博物館へ移動。隠居した藩主の邸宅でした。
江戸藩邸にあった赤門が移設されています。
5代藩主忠寄が、田安徳川家の姫を輿入れする際に使用。大名が将軍家の姫君と結婚する際には、特別な住居と赤門を準備して迎えるのがルールでした。将軍家との姻戚もあり老中に就任するなど、出費の多い治世でした。致道博物館 美術館・博物館
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明治期の警察署も移設。
旧鶴岡警察署 名所・史跡
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取調室。
江戸時代の御白州と同じ状況。旧内務省の体質がわかるシーンです。
警察署には、北前船に関する展示室もありました。 -
庄内藩の物流
最上川が現在の山形県全域を網羅し、天領・米沢・山形・上山・新庄各藩の物流を支配していました。河口の酒田は庄内藩領で、大いに賑わいました。紅花・蝋等の特産品もありますが、圧倒的物量は米の輸送でした。 -
西廻り航路
日本海側の米は敦賀や小浜で船から馬に積み替えられて大坂へ運ばれましたが、積替時のロス米が多く、船で直接大坂へ運ぶ安全な航路・航海術が求められました。最上川流域には15万石の幕府領があり、米を大阪へ運ぶことは国策でした。1672年に河村瑞賢が西廻り航路を開拓し、酒田は起点として栄えました。 -
加茂湊
主力は酒田ですが、鶴岡にも加茂という外港がありました。現在は鶴岡市域に組み込まれ、加茂水族館で有名な場所です。加茂は加賀越前等と直取引しました。風間家などの豪商が鶴岡にも存在しました。写真は明治30年ごろのもの。 -
船手形・鑑札
藩の境界を超えるには、入境チェックと身分証が必要。写真右は、船手形で、パスポートのようなもの。中央は鑑札で、簡易的なもの。船旅の最重要品で、厳重に保管された。 -
米は現金に換えられ、藩や幕府の運営財源に充てられた。一方で、庄内には木綿等の温暖地域の産物が運ばれた。当初の米の送り先は専ら大坂だったが、北方開発に伴い、米の獲れない蝦夷地へも送られた。アイヌとの交易を偲ぶ物品も残っている。
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北前船
江戸中期に西廻り航路で主流になった船舶。中世末に瀬戸内海で誕生し、櫓や櫂でこぐのではなく、帆を張って風力で推進する。コメなら千石以上積載でき、頑丈な構造。速さよりも安全性を重視。全長30mほど。 -
北前船の錨
木製で実物。 -
漆の実
稲の収穫後のメンテナンスがひと段落した晩秋に実が成る。採集して乾燥させます。いったい何に使うのでしょうか?答えは、和ろうそくの原料(蝋)になります。 -
乾燥した枝を、ベイと呼ばれる叩き棒でたたきます。それをトオシと呼ばれる篩で振るいにかけます。網の目は1cm四方ほどの粗さなので、実だけが通過します。
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臼で実を突きます。果実は粉に、種は潰れず、外皮は剥がれます。
振るいにかけて、粉状の果実だけ抽出します。 -
粉を蒸籠で蒸し上げ、厚い麻製の搾り袋へ詰める。
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麻袋は、2本の棒で口を締める。
胴(ケヤキ材の搾り台)の穴に麻袋を入れ、両側を搾り板で挟み、楔を杵で打ち込んでいく。 -
胴の穴の下に鍋を置き、滴る蝋汁を受ける。
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蝋搾りの道具
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こちらは、出羽三山へ通じる街道上の伝統的家屋。
1822年築の渋谷家住宅。多層民家旧渋谷家住宅 名所・史跡
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豪雪地帯の4層住宅で、メインの柱の高さは15.4m。
兜造りと呼ばれる茅葺屋根の構造は、東欧の木造教会を連想させます。
明治初期に2層目以降を養蚕スペースに変更しています。田麦俣の多層民家(旧渋谷家住宅) 名所・史跡
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横からの眺め、
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出入り口があります、右側の張り出している部分は、若夫婦の寝床。防犯担当は、年寄りよりも若者ですね。若夫婦寝床の下の隙間、実は鶏の住居になっています。目覚まし機能も付いています。
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明り取り窓が。
内部は2層目まで見学できますが、撮影は禁止されています。 -
反対側は、こんな感じ。
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鶴岡には、カトリック教会もあります。
鶴岡カトリック教会天主堂 寺・神社・教会
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おまけ
雰囲気で選んだ駅近くのラーメン屋さん。なぜか本場の燕ラーメンがいただけます。文句なしの一杯でした。らぁ麺と肴 榊 グルメ・レストラン
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早めに行ったのですが、完売寸前。退店時は、閉店になっていました。ギリギリ駆け込みセーフ。
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https://4travel.jp/travelogue/11818831
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