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2021年12月23日(木)4時ちょっと前、友人との忘年会の後、思い付きで来ることになった清水寺に到着。約1200年の歴史を誇り、世界遺産にも認定された由緒正しい寺院。 境内には「清水の舞台から飛び降りる」の語源となった本堂や三重塔などの国宝、重要文化財が立ち並ぶ。私が来るのは2013年の4月以来。<br />https://www.facebook.com/media/set?set=a.478602162209813&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />北法相宗の大本山の寺院で、山号は音羽山(おんわさん)。正式には音羽山清水寺と号する。南都六宗の一つの法相宗系の寺院で、平安京遷都以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院。また、日本でも有数の観音霊場。<br /><br />創建は奈良時代末期の778年と伝わる。奈良で修行を積んでいだ僧、賢心(のちの延鎮)が夢で「北へ清泉を求めて行け」とお告げを受ける。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけ、老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会う。年齢200歳になるという行叡は観音力を込めたという霊木を授け、「この観音霊地を守ってくれ」と言い残し去る。行叡が観音の化身であったと悟った賢心は、霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まり。<br /><br />その2年後、鹿狩りに音羽山を訪れた坂上田村麻呂が延鎮と出会う。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのだが、賢心に観音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の功徳を説かれた。その教えに深く感銘を受けた田村麻呂は後日、十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。<br /><br />805年に太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、810年に嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となる。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。<br /><br />清水寺の伽藍は1063年の火災以来、江戸前期の1629年まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。現在の本堂は1633年に徳川家光の寄進により再建されたもの。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。<br /><br />明治時代入り、宗旨を真言宗醍醐派に改めたが、1885年(明治18年)に法相宗に復した。1914年(大正3年)に貫主に就任した大西良慶氏が1965年に法相宗から独立して北法相宗を開宗する。氏は1983年に満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。<br /><br />清水坂の正面に建つのが仁王門。境内入口に建つ朱塗りの門で赤門とも呼ばれる清水寺の正門。室町時代、応仁の乱の戦火で1469年に焼失し、1500年前後に再建された。2003年に解体修理された。<br /><br />入母屋造、檜皮葺き。正面約10m、側面約5m、棟高約14mの再建当時の特徴を示す堂々たる三間一戸楼門で、国の重文。正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士像を安置する。扁額「清水寺」は平安時代中期の公卿で三蹟の一人に数えられる藤原行成の筆。<br /><br />清水寺の境内はこの仁王門を正門とし、標高242mの音羽山中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。門に向かって左手にある馬駐(うまとどめ)は参詣者が馬を繋いだところで、全国的に希少な遺構。切妻造、瓦葺きの簡素な建物だが、室町時代後期の再建で、これも国の重文。2010年に解体修理が行われた。<br /><br />馬駐の手前で拝観券(一般500円)を購入して仁王門を抜けて境内に入る。仁王門の右奥に西門。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のようで、特殊な用途をもった建物と推定されている。江戸初期の1633年再建でこれも国の重文。<br /><br />西山に沈む夕日を見ながら西方極楽浄土を観想する日想観の聖所。仏教の理想郷「極楽浄土」は西方にあるといわれ、静かな心で西の空に沈む太陽に見つめ、自身の内面と向き合うことを云う。<br /><br />その奥に清水寺のシンボル的な存在である三重塔。高さ約31mある国内最大級の塔でこれも国の重文。創建は平安初期の847年で、現在の建物は江戸初期の1632年に再建されたもの。1987年に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には密教の曼荼羅世界が造形され、中央には大日如来が安置されている。<br /><br />仁王門を抜けた左手には鐘楼。平安期に建造され、江戸初期の1607年に現在の場所に再建・移築された。仁王門、馬駐と共に1629年の大火をまぬがれている。桃山建築様式の粋を凝らした造りで、牡丹彫刻の懸魚や、菊花彫刻の蟇股、四隅の柱の先にある獏と象の木鼻などが見所。これも国の重文。<br /><br />鐘楼の奥、突き当りに随求堂(ずいぐどう)。元は塔頭・慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により江戸中期の1735年にこの地に移築された。ご本尊は秘仏の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像。脇侍として吉祥天立像と重文の毘沙門天立像を安置していたが、毘沙門天立像は宝蔵殿に移されている。堂の地下は暗闇の空間となっており胎内めぐりが出来るが、この日もしなかったし、したことない。<br /><br />随求堂の右手に経堂。入母屋造、瓦葺きの五間堂、1633年の再建で国の重文。平安時代中期には一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる講堂があったところで、寛永の火災後の復興に併せて教学の場として建立された。内部には釈迦三尊像を安置し、天井には江戸時代の絵師・岡村信基筆の円龍が描かれている。2000年に解体修理が行われた。堂は工芸品などの展示場として使用されることもある。<br /><br />経堂を回り込んで東に進むと開山堂。田村堂とも呼ばれる。入母屋造、瓦葺きの三間堂で、これも1633年の再建で国の重文。2006年に修復され、繧繝彩色という手法が施され、丹塗りの柱と屋根をつなぐ組み物は、朱や緑など五色で彩られている。内部には開放形の厨子(これも重文)内に坂上田村麻呂・高子夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀るが、堂内は通常非公開。<br /><br />開山堂の奥には朝倉堂(あさくらどう)。洛陽三十三所観音霊場第13番札所。入母屋造、瓦葺きの五間堂で全面白木造り。これも1633年の再建で国の重文。2013年に解体全面修復された。清水観音を篤く信仰した越前国の守護大名朝倉貞景が1510年に法華三昧堂として寄進した建物だったことから朝倉堂と称する。創建当初は朱が鮮やかな舞台造りだった。堂内の宝形作り唐様厨子(これも重文)に秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊のほか、西国三十三所の観音像を安置するが、堂内は通常非公開。<br /><br />その右手の轟(とどろき)門は1631年から33年に掛けて再建されたもので、これも国の重文。本堂への入口。2016年に全面改修を終えた。正面左右両脇に持国天と広目天、背面に阿・吽形の狛犬を安置している。門の前の手水鉢は、台石の上に乗っているが、前後の真ん中の台石それぞれに「梟(フクロウ)・菩薩・梟」が彫られており、梟の手水鉢と呼ばれる。写真では見えない。<br /><br />轟門を抜けて国宝の本堂へ。ご本尊の十一面千手観世音菩薩をお祀りしており、音羽山の断崖に建つ。徳川家光の寄進による1633年の再建。屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい寄棟造りで、建築様式の随所に平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影が残っている。<br /><br />本堂の東・西・北面には1間幅の裳階(もこし=差し掛け屋根)がめぐらされ、正面に当たる南面には1間幅の庇を設けられ、正面両サイドには入母屋造の翼廊が突き出している。轟門の先に進むと裳階の西外側に翼廊を設けた車寄。ここから本堂に入る。<br /><br />その内側の北側の間口9間、奥行7間の身舎(もや)が主体部で、奥の3間分が内々陣、真ん中の1間分が内陣、一番外側の3間分が外陣(げじん)となっている。裳階、翼廊を含めた平面規模は間口36m、奥行31m。内々陣と内陣の部分を正堂、外陣部分を礼堂(らいどう)とも称する。ご本尊は内々陣に安置されている。<br /><br />礼堂は東・西・南面を1間幅の廊下で囲まれ、礼堂と廊下との境には蔀戸(しとみど)がある。東と西の廊下は裳階の下で、南の廊下は庇の下になる。なお、一般拝観者が立入りできるのは外陣までだが、千日詣りなどの特別な法会の際には内々陣への立ち入りやご献灯ができる。<br /><br />車寄を抜けると西側の礼堂廊下だが、北側(左手)の正堂突き当り部分に出世大黒天像がある。室町時代に造られたもので、元々は鴨川にあった五条(今の五条通とは違う)の中州のお堂に祀られていた。江戸時代に門前町の法政寺に移され、その後に清水寺に移された。立身出世のご利益が満載であると云うことから出世大黒天とのこと。色鮮やかなのは2008年に京都伝統工芸大学により修復されたから。<br /><br />礼堂南廊下に進む。左手に礼堂、右手に舞台となる。礼堂(外陣)は内々陣に祀られている秘仏の本尊に向かって礼拝する場所。ケヤキの大きな柱で支えられている板敷の間。<br /><br />お賽銭箱の奥、金色の隠元吊灯籠の後ろの菱欄間には写真には写ってないが、懸仏あるいは御正体(みしょうたい)と呼ばれる直径約2mの銅製円盤が3枚掛けられている。それぞれご本尊と地蔵菩薩、毘沙門天のお姿をそのまま彫刻にしたもの。本堂の再建時(1633年)に奉懸された。<br /><br />礼堂の前(南側)、両サイドに突き出した翼廊の間が、あの有名な清水の舞台。断崖の上に最長約12mの巨大なケヤキの柱を並べ、懸造り(かけづくり)と云う、釘を一本も使わない手法で組み上げた木造建築の舞台。本堂の礼堂南廊下から突き出た形になっており、庇の先になるので屋根はない。高さは約18mで4階建てのビルの高さに当たる。<br /><br />この舞台は御本尊である観音さまに芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納され、現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われている。観覧者は本尊の観音様だけなので座席はないが、増え続ける参拝者の為に平安時代に拡張され現在の規模となった。<br /><br />現在の舞台は1633年の本堂再建時に造られたものだが、2~30年毎に床板は張り替えられており、最近ではこの約1年前の2020年12月まで半年余りかけて張り替えられた。<br /><br />舞台の正面には谷をはさんで子安塔が見える。谷の左手には音羽の滝、その上に奥の院や阿弥陀堂などが見える。なお、10日ほど前の12月13日にこの舞台で今年の漢字が発表され、その後展示されていたが、この日に八坂神社西楼門前の漢字ミュージアムに移されたとのことだった。ちなみに2021年の漢字は「金」だった。<br /><br />清水の舞台と云えば、「清水の舞台から飛び降りる」と云うことわざがあり、切り立った断崖に張り出している清水寺本堂の舞台から飛び降りるほどの覚悟で物事を実行する決意を表している。このことわざは江戸時代末期の滑稽本に記載されており、少なくとも江戸時代には使われていたと考えられている。<br /><br />実際に飛び降りた人の数は、江戸中期から末期までの170年間で未遂を含み235件あり、死亡者は34人で生存率は85.4%だったという記録が清水寺には残る。ただし、動機は自殺目的ではなく、病気の治癒や暇が欲しいとで、「観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなう」と云う熱い信仰心によるものだったそうだ。1872年(明治5年)に京都府が飛び落ちを禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで以後は影をひそめた。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9011238578946086&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />奥の院に向かう前に地主神社に寄るが、続く

京都 東山 清水寺(Kiyomizu Temple,Higashiyama,Kyoto,Japan)

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2021/12/23 - 2021/12/23

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旅行記グループ 東山

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年12月23日(木)4時ちょっと前、友人との忘年会の後、思い付きで来ることになった清水寺に到着。約1200年の歴史を誇り、世界遺産にも認定された由緒正しい寺院。 境内には「清水の舞台から飛び降りる」の語源となった本堂や三重塔などの国宝、重要文化財が立ち並ぶ。私が来るのは2013年の4月以来。
https://www.facebook.com/media/set?set=a.478602162209813&type=1&l=223fe1adec

北法相宗の大本山の寺院で、山号は音羽山(おんわさん)。正式には音羽山清水寺と号する。南都六宗の一つの法相宗系の寺院で、平安京遷都以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院。また、日本でも有数の観音霊場。

創建は奈良時代末期の778年と伝わる。奈良で修行を積んでいだ僧、賢心(のちの延鎮)が夢で「北へ清泉を求めて行け」とお告げを受ける。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけ、老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会う。年齢200歳になるという行叡は観音力を込めたという霊木を授け、「この観音霊地を守ってくれ」と言い残し去る。行叡が観音の化身であったと悟った賢心は、霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まり。

その2年後、鹿狩りに音羽山を訪れた坂上田村麻呂が延鎮と出会う。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのだが、賢心に観音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の功徳を説かれた。その教えに深く感銘を受けた田村麻呂は後日、十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。

805年に太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、810年に嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となる。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

清水寺の伽藍は1063年の火災以来、江戸前期の1629年まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。現在の本堂は1633年に徳川家光の寄進により再建されたもの。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。

明治時代入り、宗旨を真言宗醍醐派に改めたが、1885年(明治18年)に法相宗に復した。1914年(大正3年)に貫主に就任した大西良慶氏が1965年に法相宗から独立して北法相宗を開宗する。氏は1983年に満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。

清水坂の正面に建つのが仁王門。境内入口に建つ朱塗りの門で赤門とも呼ばれる清水寺の正門。室町時代、応仁の乱の戦火で1469年に焼失し、1500年前後に再建された。2003年に解体修理された。

入母屋造、檜皮葺き。正面約10m、側面約5m、棟高約14mの再建当時の特徴を示す堂々たる三間一戸楼門で、国の重文。正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士像を安置する。扁額「清水寺」は平安時代中期の公卿で三蹟の一人に数えられる藤原行成の筆。

清水寺の境内はこの仁王門を正門とし、標高242mの音羽山中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。門に向かって左手にある馬駐(うまとどめ)は参詣者が馬を繋いだところで、全国的に希少な遺構。切妻造、瓦葺きの簡素な建物だが、室町時代後期の再建で、これも国の重文。2010年に解体修理が行われた。

馬駐の手前で拝観券(一般500円)を購入して仁王門を抜けて境内に入る。仁王門の右奥に西門。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のようで、特殊な用途をもった建物と推定されている。江戸初期の1633年再建でこれも国の重文。

西山に沈む夕日を見ながら西方極楽浄土を観想する日想観の聖所。仏教の理想郷「極楽浄土」は西方にあるといわれ、静かな心で西の空に沈む太陽に見つめ、自身の内面と向き合うことを云う。

その奥に清水寺のシンボル的な存在である三重塔。高さ約31mある国内最大級の塔でこれも国の重文。創建は平安初期の847年で、現在の建物は江戸初期の1632年に再建されたもの。1987年に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には密教の曼荼羅世界が造形され、中央には大日如来が安置されている。

仁王門を抜けた左手には鐘楼。平安期に建造され、江戸初期の1607年に現在の場所に再建・移築された。仁王門、馬駐と共に1629年の大火をまぬがれている。桃山建築様式の粋を凝らした造りで、牡丹彫刻の懸魚や、菊花彫刻の蟇股、四隅の柱の先にある獏と象の木鼻などが見所。これも国の重文。

鐘楼の奥、突き当りに随求堂(ずいぐどう)。元は塔頭・慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により江戸中期の1735年にこの地に移築された。ご本尊は秘仏の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像。脇侍として吉祥天立像と重文の毘沙門天立像を安置していたが、毘沙門天立像は宝蔵殿に移されている。堂の地下は暗闇の空間となっており胎内めぐりが出来るが、この日もしなかったし、したことない。

随求堂の右手に経堂。入母屋造、瓦葺きの五間堂、1633年の再建で国の重文。平安時代中期には一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる講堂があったところで、寛永の火災後の復興に併せて教学の場として建立された。内部には釈迦三尊像を安置し、天井には江戸時代の絵師・岡村信基筆の円龍が描かれている。2000年に解体修理が行われた。堂は工芸品などの展示場として使用されることもある。

経堂を回り込んで東に進むと開山堂。田村堂とも呼ばれる。入母屋造、瓦葺きの三間堂で、これも1633年の再建で国の重文。2006年に修復され、繧繝彩色という手法が施され、丹塗りの柱と屋根をつなぐ組み物は、朱や緑など五色で彩られている。内部には開放形の厨子(これも重文)内に坂上田村麻呂・高子夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀るが、堂内は通常非公開。

開山堂の奥には朝倉堂(あさくらどう)。洛陽三十三所観音霊場第13番札所。入母屋造、瓦葺きの五間堂で全面白木造り。これも1633年の再建で国の重文。2013年に解体全面修復された。清水観音を篤く信仰した越前国の守護大名朝倉貞景が1510年に法華三昧堂として寄進した建物だったことから朝倉堂と称する。創建当初は朱が鮮やかな舞台造りだった。堂内の宝形作り唐様厨子(これも重文)に秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊のほか、西国三十三所の観音像を安置するが、堂内は通常非公開。

その右手の轟(とどろき)門は1631年から33年に掛けて再建されたもので、これも国の重文。本堂への入口。2016年に全面改修を終えた。正面左右両脇に持国天と広目天、背面に阿・吽形の狛犬を安置している。門の前の手水鉢は、台石の上に乗っているが、前後の真ん中の台石それぞれに「梟(フクロウ)・菩薩・梟」が彫られており、梟の手水鉢と呼ばれる。写真では見えない。

轟門を抜けて国宝の本堂へ。ご本尊の十一面千手観世音菩薩をお祀りしており、音羽山の断崖に建つ。徳川家光の寄進による1633年の再建。屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい寄棟造りで、建築様式の随所に平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影が残っている。

本堂の東・西・北面には1間幅の裳階(もこし=差し掛け屋根)がめぐらされ、正面に当たる南面には1間幅の庇を設けられ、正面両サイドには入母屋造の翼廊が突き出している。轟門の先に進むと裳階の西外側に翼廊を設けた車寄。ここから本堂に入る。

その内側の北側の間口9間、奥行7間の身舎(もや)が主体部で、奥の3間分が内々陣、真ん中の1間分が内陣、一番外側の3間分が外陣(げじん)となっている。裳階、翼廊を含めた平面規模は間口36m、奥行31m。内々陣と内陣の部分を正堂、外陣部分を礼堂(らいどう)とも称する。ご本尊は内々陣に安置されている。

礼堂は東・西・南面を1間幅の廊下で囲まれ、礼堂と廊下との境には蔀戸(しとみど)がある。東と西の廊下は裳階の下で、南の廊下は庇の下になる。なお、一般拝観者が立入りできるのは外陣までだが、千日詣りなどの特別な法会の際には内々陣への立ち入りやご献灯ができる。

車寄を抜けると西側の礼堂廊下だが、北側(左手)の正堂突き当り部分に出世大黒天像がある。室町時代に造られたもので、元々は鴨川にあった五条(今の五条通とは違う)の中州のお堂に祀られていた。江戸時代に門前町の法政寺に移され、その後に清水寺に移された。立身出世のご利益が満載であると云うことから出世大黒天とのこと。色鮮やかなのは2008年に京都伝統工芸大学により修復されたから。

礼堂南廊下に進む。左手に礼堂、右手に舞台となる。礼堂(外陣)は内々陣に祀られている秘仏の本尊に向かって礼拝する場所。ケヤキの大きな柱で支えられている板敷の間。

お賽銭箱の奥、金色の隠元吊灯籠の後ろの菱欄間には写真には写ってないが、懸仏あるいは御正体(みしょうたい)と呼ばれる直径約2mの銅製円盤が3枚掛けられている。それぞれご本尊と地蔵菩薩、毘沙門天のお姿をそのまま彫刻にしたもの。本堂の再建時(1633年)に奉懸された。

礼堂の前(南側)、両サイドに突き出した翼廊の間が、あの有名な清水の舞台。断崖の上に最長約12mの巨大なケヤキの柱を並べ、懸造り(かけづくり)と云う、釘を一本も使わない手法で組み上げた木造建築の舞台。本堂の礼堂南廊下から突き出た形になっており、庇の先になるので屋根はない。高さは約18mで4階建てのビルの高さに当たる。

この舞台は御本尊である観音さまに芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納され、現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われている。観覧者は本尊の観音様だけなので座席はないが、増え続ける参拝者の為に平安時代に拡張され現在の規模となった。

現在の舞台は1633年の本堂再建時に造られたものだが、2~30年毎に床板は張り替えられており、最近ではこの約1年前の2020年12月まで半年余りかけて張り替えられた。

舞台の正面には谷をはさんで子安塔が見える。谷の左手には音羽の滝、その上に奥の院や阿弥陀堂などが見える。なお、10日ほど前の12月13日にこの舞台で今年の漢字が発表され、その後展示されていたが、この日に八坂神社西楼門前の漢字ミュージアムに移されたとのことだった。ちなみに2021年の漢字は「金」だった。

清水の舞台と云えば、「清水の舞台から飛び降りる」と云うことわざがあり、切り立った断崖に張り出している清水寺本堂の舞台から飛び降りるほどの覚悟で物事を実行する決意を表している。このことわざは江戸時代末期の滑稽本に記載されており、少なくとも江戸時代には使われていたと考えられている。

実際に飛び降りた人の数は、江戸中期から末期までの170年間で未遂を含み235件あり、死亡者は34人で生存率は85.4%だったという記録が清水寺には残る。ただし、動機は自殺目的ではなく、病気の治癒や暇が欲しいとで、「観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなう」と云う熱い信仰心によるものだったそうだ。1872年(明治5年)に京都府が飛び落ちを禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで以後は影をひそめた。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9011238578946086&type=1&l=223fe1adec


奥の院に向かう前に地主神社に寄るが、続く

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