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増賀上人の墓「念誦崛(ねずき)」は摩訶不思議なドーム形状をした2段石組みの円墳です。談山神社の西大門跡から林道を1kmほど登った墓石群の一画にあります。150段もの石段を登りきった最上段の墓所に鎮座し、方形2重石壇上に、2重石積円形塚が築かれ、塚の墳上に五輪塔の地輪だけが置かれています。<br />増賀上人は坐ったまま入滅されたと伝わり、「決して荼毘に伏すな」との言葉通りに念誦したままの姿で安置され、衣服は朽ちてもその身体は腐乱することなく3年が経ち、遺言通りに大きな穴を掘って坐禅の姿のまま埋められたとされます。その穴の上に築かれたのがこの石組です。石組自体は江戸時代中期以降の石材を使用していることから、幾度も補修されたと窺えます。しかし、白昼にも拘わらず、漂う妖気にはただならぬものを感じました。<br />

あをによし 多武峰~明日香逍遥⑥多武峰 念誦崛(ねずき)

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2022/11/18 - 2022/11/18

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

増賀上人の墓「念誦崛(ねずき)」は摩訶不思議なドーム形状をした2段石組みの円墳です。談山神社の西大門跡から林道を1kmほど登った墓石群の一画にあります。150段もの石段を登りきった最上段の墓所に鎮座し、方形2重石壇上に、2重石積円形塚が築かれ、塚の墳上に五輪塔の地輪だけが置かれています。
増賀上人は坐ったまま入滅されたと伝わり、「決して荼毘に伏すな」との言葉通りに念誦したままの姿で安置され、衣服は朽ちてもその身体は腐乱することなく3年が経ち、遺言通りに大きな穴を掘って坐禅の姿のまま埋められたとされます。その穴の上に築かれたのがこの石組です。石組自体は江戸時代中期以降の石材を使用していることから、幾度も補修されたと窺えます。しかし、白昼にも拘わらず、漂う妖気にはただならぬものを感じました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 談山神社の紅葉もこれで見納めかと思うと、どこかセンチメンタルな気持ちになります。<br />

    談山神社の紅葉もこれで見納めかと思うと、どこかセンチメンタルな気持ちになります。

  • 途中までは明日香・石舞台方面へのハイキングコースを辿りますが、この分岐点を右へ進みます。念誦崛(ねずき)は、談山神社の西北約1kmの距離にあり、妙楽寺奥の院と呼ばれた念誦窟紫蓋寺(ねづきしがいじ)の跡地です。<br />尚、明日香へのルートはこの先に万葉展望台経由の山道もありますが、当方はこの分岐点まで戻り、ハイキングコースを歩きました。

    途中までは明日香・石舞台方面へのハイキングコースを辿りますが、この分岐点を右へ進みます。念誦崛(ねずき)は、談山神社の西北約1kmの距離にあり、妙楽寺奥の院と呼ばれた念誦窟紫蓋寺(ねづきしがいじ)の跡地です。
    尚、明日香へのルートはこの先に万葉展望台経由の山道もありますが、当方はこの分岐点まで戻り、ハイキングコースを歩きました。

  • 分岐点からなだらかな上り坂を5分ほど歩くと小集落、その先に三社神社が見えてきます。<br />そこを超えると右手に城郭寺院を偲ばせる石垣が現れます。

    分岐点からなだらかな上り坂を5分ほど歩くと小集落、その先に三社神社が見えてきます。
    そこを超えると右手に城郭寺院を偲ばせる石垣が現れます。

  • 経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)<br />その先の左脇に「念誦崛不動尊コノ下」と標柱が建てられています。<br />

    経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)
    その先の左脇に「念誦崛不動尊コノ下」と標柱が建てられています。

  • 経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)<br />谷への降り口は少し躊躇するほどの荒れ模様かつ急勾配です。<br />トレースもなく、暫く人が入った気配がありませんが、何となく道らしきものが続いています。

    経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)
    谷への降り口は少し躊躇するほどの荒れ模様かつ急勾配です。
    トレースもなく、暫く人が入った気配がありませんが、何となく道らしきものが続いています。

  • 経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)<br />標柱から5分ほど獣道のような踏み分け道を一気に下ると小さな谷と合流し、その水源と思しき奥まった所に忽然と磐座に刻まれた不動尊が現れます。<br />高さ約2m程ある花崗岩の磐座に、高さ130cmほどの火焔形光背を彫窪め、鬼のような形相をした不動明王像を半肉彫で刻み出した磨崖仏です。光背にある火焔の表現は珍しいものです。<br />像の左に「延文三年戊戌正月宣快」と陰刻された銘があり、南北朝時代の延文3年は西暦1358年で、紀年銘のある石仏としては大和では古い部類に入るそうです。「宣快」は制作者名かと思われます。<br />因みに、増賀上人は、自作の不動明王像の前で行法を修していた時に三目八臂の天魔が現われたので、不動明王の姿をとって天魔を追い払ったとも伝えます。多武峰周辺では不動尊信仰が広まっていたことが窺えます。

    経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)
    標柱から5分ほど獣道のような踏み分け道を一気に下ると小さな谷と合流し、その水源と思しき奥まった所に忽然と磐座に刻まれた不動尊が現れます。
    高さ約2m程ある花崗岩の磐座に、高さ130cmほどの火焔形光背を彫窪め、鬼のような形相をした不動明王像を半肉彫で刻み出した磨崖仏です。光背にある火焔の表現は珍しいものです。
    像の左に「延文三年戊戌正月宣快」と陰刻された銘があり、南北朝時代の延文3年は西暦1358年で、紀年銘のある石仏としては大和では古い部類に入るそうです。「宣快」は制作者名かと思われます。
    因みに、増賀上人は、自作の不動明王像の前で行法を修していた時に三目八臂の天魔が現われたので、不動明王の姿をとって天魔を追い払ったとも伝えます。多武峰周辺では不動尊信仰が広まっていたことが窺えます。

  • 経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)<br />この不動尊には怪奇譚が伝承されています。<br />ある人の夢枕にこの不動尊が立ち、「土に埋まっている自分を掘り起こしてくれたら、首から上の病を治してやろう」とお告げがありました。そして、その場所から不動尊を掘り起こすと、忽ちにして頭痛が治ったそうです。<br />磨崖仏ですので俄かには信じ難い話ですが、磐座ごと谷に埋まっていたのを掘り起こしたと考えることもできます。<br />因みに、近年、霊験あらたかということが口コミで知られ、大阪方面から念誦崛不動尊へのお参りが絶えないそうです。かつて多武峰が山岳信仰の霊地であったことを示す証左とも言えます。<br />実は、相方が長らく片頭痛に悩んでおり、藁にも縋る思い出でお参りさせていただきました。「信じる者は救われる」ですから…。

    経堂ヶ谷 不動磨崖仏(念誦崛不動尊)
    この不動尊には怪奇譚が伝承されています。
    ある人の夢枕にこの不動尊が立ち、「土に埋まっている自分を掘り起こしてくれたら、首から上の病を治してやろう」とお告げがありました。そして、その場所から不動尊を掘り起こすと、忽ちにして頭痛が治ったそうです。
    磨崖仏ですので俄かには信じ難い話ですが、磐座ごと谷に埋まっていたのを掘り起こしたと考えることもできます。
    因みに、近年、霊験あらたかということが口コミで知られ、大阪方面から念誦崛不動尊へのお参りが絶えないそうです。かつて多武峰が山岳信仰の霊地であったことを示す証左とも言えます。
    実は、相方が長らく片頭痛に悩んでおり、藁にも縋る思い出でお参りさせていただきました。「信じる者は救われる」ですから…。

  • 無事お参りを済ませて林道まで戻りました。<br />林道とは言え、このように苔生してします。

    無事お参りを済ませて林道まで戻りました。
    林道とは言え、このように苔生してします。

  • ふと足元に目をやると、何やら野生動物の糞らしきものが落ちています。<br />恐らく、鹿のものでしょう。<br />奈良県内のツキノワグマの生息域は、五條市より南部、和歌山県にかけての山地で、生息数は100~250頭程と推定されています。2021年度は19件の出没情報がありました。この辺りはギリギリ圏外ではあれ、もしもこんな人気のない所で熊に遭遇すれば命の危険に及びます。今回「熊よけ鈴」を持ってこなかったことを深く後悔した次第です。何事も「備えあれば患いなし」です!

    ふと足元に目をやると、何やら野生動物の糞らしきものが落ちています。
    恐らく、鹿のものでしょう。
    奈良県内のツキノワグマの生息域は、五條市より南部、和歌山県にかけての山地で、生息数は100~250頭程と推定されています。2021年度は19件の出没情報がありました。この辺りはギリギリ圏外ではあれ、もしもこんな人気のない所で熊に遭遇すれば命の危険に及びます。今回「熊よけ鈴」を持ってこなかったことを深く後悔した次第です。何事も「備えあれば患いなし」です!

  • 右手に「増賀上人墓」と書かれた道標があり、その小路に分け入ります。<br />大西良慶和上誕生地にある大西家の墓地の手前を右折すると左上部に石仏などが背を向けて並んでいます。<br />大西良慶は、京都清水寺の貫主を務め、晩年は日本の長寿記録保持者として名を馳せた北法相宗の僧です。1976年に国内初の5つ子の名付け親となり、107歳の長寿を全うされました。1875年に妙楽寺奥の院跡地で生まれたのかもしれません。

    右手に「増賀上人墓」と書かれた道標があり、その小路に分け入ります。
    大西良慶和上誕生地にある大西家の墓地の手前を右折すると左上部に石仏などが背を向けて並んでいます。
    大西良慶は、京都清水寺の貫主を務め、晩年は日本の長寿記録保持者として名を馳せた北法相宗の僧です。1976年に国内初の5つ子の名付け親となり、107歳の長寿を全うされました。1875年に妙楽寺奥の院跡地で生まれたのかもしれません。

  • 墓地入口に立つ2体の石仏と2基の石造物が存在感を顕わにしています。<br />左端は錫杖を持つ地蔵菩薩です。155cmの舟形光背に像高120cmの定形地蔵尊を半肉彫しています。室町時代末期の1558(弘治4)年造立の刻銘があります。<br />中央は来迎印を結んだ阿弥陀石仏です。160cmの舟形光背に像高120cm程に半肉彫しています。安土桃山時代の1583(天正11)年造立の刻銘があります。<br />右端は珍しい五輪角板碑です。角柱状の自然石に五輪塔の形を刻んだ塔婆で、鎌倉時代から南北朝時代を中心に死者の供養などを願って建立されました。高さ95cm程の五輪塔を薄肉彫りし、「道円 善光大徳 妙円」の法名を刻みます。室町時代末期の作とされます。

    墓地入口に立つ2体の石仏と2基の石造物が存在感を顕わにしています。
    左端は錫杖を持つ地蔵菩薩です。155cmの舟形光背に像高120cmの定形地蔵尊を半肉彫しています。室町時代末期の1558(弘治4)年造立の刻銘があります。
    中央は来迎印を結んだ阿弥陀石仏です。160cmの舟形光背に像高120cm程に半肉彫しています。安土桃山時代の1583(天正11)年造立の刻銘があります。
    右端は珍しい五輪角板碑です。角柱状の自然石に五輪塔の形を刻んだ塔婆で、鎌倉時代から南北朝時代を中心に死者の供養などを願って建立されました。高さ95cm程の五輪塔を薄肉彫りし、「道円 善光大徳 妙円」の法名を刻みます。室町時代末期の作とされます。

  • 宝篋印塔<br />「寛永三年(1626)造立」と「施主 法眼○○」の銘刻があります。<br />法眼は「法眼和尚位」の略で、法印に次ぐ僧位です。<br />1654(承応3)年に多武峰町石(52基)を造立した法眼和尚位と同一の僧と思われます。

    宝篋印塔
    「寛永三年(1626)造立」と「施主 法眼○○」の銘刻があります。
    法眼は「法眼和尚位」の略で、法印に次ぐ僧位です。
    1654(承応3)年に多武峰町石(52基)を造立した法眼和尚位と同一の僧と思われます。

  • 墓所へは左の150段の石段を登るか、右の迂回路を進むかの選択ができます。<br /><br />増賀上人について紹介してきます。<br />増賀は、917(延喜17)年、参議 橘恒平の子として誕生しました。10歳で比叡山延暦寺の中興の祖と言われる慈恵僧正 良源に師事して天台教学を学び、名僧になると噂さた存在だったようです。その後、963(応和3)年に藤原高光(如覚)の勧めで多武峰に移り、草庵 一乗房を結んで隠棲しました。『魔訶止観』を講じ、法華文句を説き、毎年四半期毎に「法華三昧」を修したそうです。高い名誉や利権を殊更嫌い、奇行譚を多く残した僧侶です。

    墓所へは左の150段の石段を登るか、右の迂回路を進むかの選択ができます。

    増賀上人について紹介してきます。
    増賀は、917(延喜17)年、参議 橘恒平の子として誕生しました。10歳で比叡山延暦寺の中興の祖と言われる慈恵僧正 良源に師事して天台教学を学び、名僧になると噂さた存在だったようです。その後、963(応和3)年に藤原高光(如覚)の勧めで多武峰に移り、草庵 一乗房を結んで隠棲しました。『魔訶止観』を講じ、法華文句を説き、毎年四半期毎に「法華三昧」を修したそうです。高い名誉や利権を殊更嫌い、奇行譚を多く残した僧侶です。

  • こちらが迂回路です。参道にはずらりと石仏や五輪塔が並びます。<br /><br />『宇治拾遺物語』に記された増賀上人のエピソードを紹介しておきます。<br />増賀の師 良源は、毎年のように僧位を上げ、行基以来の大僧正となり比叡山延暦寺の座主となりました。増賀は3千人いた良源の一番弟子でした。良源は、お礼言上の折り、夥しい僧侶や従者を伴って行列を進めたが、そこへ増賀が現れました。瘦せた牝牛に乗り、干鮭を太刀にぶらさげ、「牛車の先導をいたしましょう」と言いながら牛の向きを再三変えて乗り回し、「名聞(名声)は苦しいものだ。気楽なのは乞食の境涯だけだ」と謡いました。これが増賀の道心でした。良源は「名刹(名誉と利権)を求めぬ心は判った。但し威儀は正せ」と諭しますが、増賀は受け入れません。「いかでか、身をいたづらにせん」が増賀の思いでした。<br />「投身、入海、身燈」という宗教的自殺に走る者が多かった時代でしたが、増賀は身体的な消滅を願った訳ではありませんでした。名誉と利権を追い求める気持ちを捨てるため、狂人を装って奇行を繰り返し、師から破門されるよう導いたのです。これは仏道修行を貫くためであり、そのため高僧と崇敬されました。<br />増賀の信念や信仰、道心は、多武峰にどんな形で引き継がれて行ったのか興味深い所です。

    こちらが迂回路です。参道にはずらりと石仏や五輪塔が並びます。

    『宇治拾遺物語』に記された増賀上人のエピソードを紹介しておきます。
    増賀の師 良源は、毎年のように僧位を上げ、行基以来の大僧正となり比叡山延暦寺の座主となりました。増賀は3千人いた良源の一番弟子でした。良源は、お礼言上の折り、夥しい僧侶や従者を伴って行列を進めたが、そこへ増賀が現れました。瘦せた牝牛に乗り、干鮭を太刀にぶらさげ、「牛車の先導をいたしましょう」と言いながら牛の向きを再三変えて乗り回し、「名聞(名声)は苦しいものだ。気楽なのは乞食の境涯だけだ」と謡いました。これが増賀の道心でした。良源は「名刹(名誉と利権)を求めぬ心は判った。但し威儀は正せ」と諭しますが、増賀は受け入れません。「いかでか、身をいたづらにせん」が増賀の思いでした。
    「投身、入海、身燈」という宗教的自殺に走る者が多かった時代でしたが、増賀は身体的な消滅を願った訳ではありませんでした。名誉と利権を追い求める気持ちを捨てるため、狂人を装って奇行を繰り返し、師から破門されるよう導いたのです。これは仏道修行を貫くためであり、そのため高僧と崇敬されました。
    増賀の信念や信仰、道心は、多武峰にどんな形で引き継がれて行ったのか興味深い所です。

  • 石段の出前には手水鉢も備えられています。<br /><br />談山神社『増賀上人行業記絵巻』では、奇行に走るほど極端に名利を嫌うようになった経緯を次の逸話で明かしています。<br />増賀は比叡山の良源を師として万縁を杜絶して久しく山を下りることなく修行に励んでいたが、ある時、思い悩んで山を下って生家に帰ると父はすでに亡くなった後だった。母は増賀に言った。「お前は仏門に入った身だ。お前が生家に戻ってくることなど望んではいない。ただお前が教えの通りに修行し、早く聖人の位に昇り、その道力のお蔭で父母の私達が共に俗界を離れて涅槃寂静の境地に入れる(出離)よう願うだけだ。それなのに、今のお前は立派な衣を着て、召使いまで従えている。私はそれを見て、お前の心が菩提(悟り)にではなく、出家者が最も厭離すべき名利にあることが分かる。もし、お前が道から逸れて名利を求めて菩提を求めなければ、出離が得られないばかりか、かえって地獄の屑と成り果ててしまうに違いない」。<br />増賀は、母のこの言葉が骨身に染みて大いに恥じ入り、謹んで慈訓の真意を了解した。根本中堂でのかの「道心つきたまえ」という礼拝祈願は、この母の痛烈な訓戒を受けて叡山に帰山した直後の出来事でした。<br />増賀にとっては、それ以来、名利を厭離すること恰も怨敵に逢うがごときであったに相違ありません。増賀の奇行の背景には、その母の無上の慈愛が窺えます。

    石段の出前には手水鉢も備えられています。

    談山神社『増賀上人行業記絵巻』では、奇行に走るほど極端に名利を嫌うようになった経緯を次の逸話で明かしています。
    増賀は比叡山の良源を師として万縁を杜絶して久しく山を下りることなく修行に励んでいたが、ある時、思い悩んで山を下って生家に帰ると父はすでに亡くなった後だった。母は増賀に言った。「お前は仏門に入った身だ。お前が生家に戻ってくることなど望んではいない。ただお前が教えの通りに修行し、早く聖人の位に昇り、その道力のお蔭で父母の私達が共に俗界を離れて涅槃寂静の境地に入れる(出離)よう願うだけだ。それなのに、今のお前は立派な衣を着て、召使いまで従えている。私はそれを見て、お前の心が菩提(悟り)にではなく、出家者が最も厭離すべき名利にあることが分かる。もし、お前が道から逸れて名利を求めて菩提を求めなければ、出離が得られないばかりか、かえって地獄の屑と成り果ててしまうに違いない」。
    増賀は、母のこの言葉が骨身に染みて大いに恥じ入り、謹んで慈訓の真意を了解した。根本中堂でのかの「道心つきたまえ」という礼拝祈願は、この母の痛烈な訓戒を受けて叡山に帰山した直後の出来事でした。
    増賀にとっては、それ以来、名利を厭離すること恰も怨敵に逢うがごときであったに相違ありません。増賀の奇行の背景には、その母の無上の慈愛が窺えます。

  • 当方は石段を選択しました。<br /><br />増賀は、名誉と利権を追い求める気持ちを捨てるため、狂人を装って奇行を繰り返しました。それは、仏道修行を貫くためであり、それ故、高僧と崇敬されました。実は、そのストイックな生き方が俳人 西行や芭蕉に慕われていたと言います。<br />説話集『撰集抄』には、西行が訪れ、増賀が悟りを得たという伊勢神宮での出来事に関する逸話が載せられています。それを基に松尾芭蕉が『笈の小文』で伊勢神宮参拝の際に詠んだのが次の句です。<br />「裸には まだ衣更着(きさらぎ)の 嵐哉」<br />増賀上人は、ある時、伊勢神宮を参拝し、そこで夢のお告げを受けました。「道に達したいのなら、自分の体を大事と思わないでいなさい」。すると増賀は、「そうか。神様は全てを捨てろと言われている」と納得し、着ていたものを全て脱いで門前の乞食に与え、全裸で比叡山に戻りました。<br />師の良源は増賀を呼び入れ、「何もかも捨ててやっていこう、というのは判ります。でも、それは心の問題であり、素っ裸で良いということではありません」。「お師匠様、全てを捨てた後には、心も全て捨てることができます。でも、今はこうして全裸でやっていくのが楽しいのでございます」。そう答えて師匠の部屋から出て行きました。その後ろ姿を見送りながら、良源は涙を流したそうです。やがて増賀は大和国の多武峰 智朗禅師の元に辿り着いたそうです。その後、増賀は入寂するまで多武峰を出ることはありませんでした。増賀にとり、山を出ることは甚だしい宗教的な堕落でした。

    当方は石段を選択しました。

    増賀は、名誉と利権を追い求める気持ちを捨てるため、狂人を装って奇行を繰り返しました。それは、仏道修行を貫くためであり、それ故、高僧と崇敬されました。実は、そのストイックな生き方が俳人 西行や芭蕉に慕われていたと言います。
    説話集『撰集抄』には、西行が訪れ、増賀が悟りを得たという伊勢神宮での出来事に関する逸話が載せられています。それを基に松尾芭蕉が『笈の小文』で伊勢神宮参拝の際に詠んだのが次の句です。
    「裸には まだ衣更着(きさらぎ)の 嵐哉」
    増賀上人は、ある時、伊勢神宮を参拝し、そこで夢のお告げを受けました。「道に達したいのなら、自分の体を大事と思わないでいなさい」。すると増賀は、「そうか。神様は全てを捨てろと言われている」と納得し、着ていたものを全て脱いで門前の乞食に与え、全裸で比叡山に戻りました。
    師の良源は増賀を呼び入れ、「何もかも捨ててやっていこう、というのは判ります。でも、それは心の問題であり、素っ裸で良いということではありません」。「お師匠様、全てを捨てた後には、心も全て捨てることができます。でも、今はこうして全裸でやっていくのが楽しいのでございます」。そう答えて師匠の部屋から出て行きました。その後ろ姿を見送りながら、良源は涙を流したそうです。やがて増賀は大和国の多武峰 智朗禅師の元に辿り着いたそうです。その後、増賀は入寂するまで多武峰を出ることはありませんでした。増賀にとり、山を出ることは甚だしい宗教的な堕落でした。

  • 石段の途中の踊り場<br />最上段にある増賀上人の墓を中心に、妙楽寺一山の僧侶の千基にも及ぶ墓碑や石仏が残されています。<br />中には平成の刻印もありますが、全てが苔生して古色蒼然としており、ただならぬ雰囲気を醸しています。

    石段の途中の踊り場
    最上段にある増賀上人の墓を中心に、妙楽寺一山の僧侶の千基にも及ぶ墓碑や石仏が残されています。
    中には平成の刻印もありますが、全てが苔生して古色蒼然としており、ただならぬ雰囲気を醸しています。

  • 石段の途中の踊り場<br />この周辺は多武峰 奥の院と呼ばれた紫蓋寺の寺域であり、廃仏毀釈までは念仏常行堂や地蔵堂、鐘楼、僧坊などが建ち並んでいたそうです。盛時には増賀上人の霊堂、坊中6宇、往古13を数えたようです。今は廃墟と化していますが、往時を偲ばせる石垣や石段が残されています。<br />中世には、多武峰の西の守りとして念誦崛付近に念誦崛城砦が造られ、増賀上人の墓「念誦崛」のある尾根伝いに連郭式と呼ぶ砦群があったようです。奈良県遺跡情報地図には「多武峰城塞跡念誦崛地区」と記されています。

    石段の途中の踊り場
    この周辺は多武峰 奥の院と呼ばれた紫蓋寺の寺域であり、廃仏毀釈までは念仏常行堂や地蔵堂、鐘楼、僧坊などが建ち並んでいたそうです。盛時には増賀上人の霊堂、坊中6宇、往古13を数えたようです。今は廃墟と化していますが、往時を偲ばせる石垣や石段が残されています。
    中世には、多武峰の西の守りとして念誦崛付近に念誦崛城砦が造られ、増賀上人の墓「念誦崛」のある尾根伝いに連郭式と呼ぶ砦群があったようです。奈良県遺跡情報地図には「多武峰城塞跡念誦崛地区」と記されています。

  • 圧倒される数の石仏たちに見守られながら、満遍なく落ち葉が敷かれた石段を更に登っていきます。<br />聞こえるのは、踏みしめる落ち葉の音だけです。<br /><br />

    圧倒される数の石仏たちに見守られながら、満遍なく落ち葉が敷かれた石段を更に登っていきます。
    聞こえるのは、踏みしめる落ち葉の音だけです。

  • 念誦崛(ねずき)<br />増賀上人の墓「念誦崛」は摩訶不思議なドーム形状をした石割技法による2段石組みの円墳です。談山神社の西大門跡から林道を1kmほど登った墓群の一画にあります。150段もの石段を登りきった最上段の墓所に鎮座し、方形2重石壇上に、2重石積円形塚が築かれ、塚の墳上に五輪塔の地輪だけが置かれています。ひとつ一つの石が絶妙なバランスで組まれている様は神秘的でもあります。下段の直径が4m程、全体の高さが2m程あります。かつては木造覆堂が建てられていたことは、残された方形石壇の礎石からも窺えます。

    念誦崛(ねずき)
    増賀上人の墓「念誦崛」は摩訶不思議なドーム形状をした石割技法による2段石組みの円墳です。談山神社の西大門跡から林道を1kmほど登った墓群の一画にあります。150段もの石段を登りきった最上段の墓所に鎮座し、方形2重石壇上に、2重石積円形塚が築かれ、塚の墳上に五輪塔の地輪だけが置かれています。ひとつ一つの石が絶妙なバランスで組まれている様は神秘的でもあります。下段の直径が4m程、全体の高さが2m程あります。かつては木造覆堂が建てられていたことは、残された方形石壇の礎石からも窺えます。

  • 念誦崛<br />1003(長保5)年6月9日、増賀は87歳で亡くなりますが、法華経を誦し金剛印を結んで入滅されたそうです。入滅の様子は『今昔物語』にも記されており、「私が死んでも荼毘に付してはならない。3年後墓穴を開きて之を見よ」と遺言し、弟子たちが大桶を作って寺の後ろに埋葬、3年11ヶ月して墓穴を開くと全身壊れずに趺坐したままの姿であったと伝えます。『扶桑略記』には「長保5年6月9日辰時、増賀聖人が大和国十市郡倉橋山の多武峰南房に於いて入滅す。西方を向き金剛合唱し、居ながら遷化す。よって棺に入れず、輿を作って葬送す」とあります。<br />合掌

    念誦崛
    1003(長保5)年6月9日、増賀は87歳で亡くなりますが、法華経を誦し金剛印を結んで入滅されたそうです。入滅の様子は『今昔物語』にも記されており、「私が死んでも荼毘に付してはならない。3年後墓穴を開きて之を見よ」と遺言し、弟子たちが大桶を作って寺の後ろに埋葬、3年11ヶ月して墓穴を開くと全身壊れずに趺坐したままの姿であったと伝えます。『扶桑略記』には「長保5年6月9日辰時、増賀聖人が大和国十市郡倉橋山の多武峰南房に於いて入滅す。西方を向き金剛合唱し、居ながら遷化す。よって棺に入れず、輿を作って葬送す」とあります。
    合掌

  • 念誦崛<br />「ねずき」の語源は斉明天皇の両槻宮に由来するとの説もあり、「ふたつき」が「ねずき」に転訛したとしています。また、「念誦崛」は、増賀が念仏三昧にて入滅したことと、墓所の形から漢字が宛てられたとも伝わります。「念」は念仏、「誦」は経文などを唱えること、「崛」は盛り上がっていることを表します。<br />

    念誦崛
    「ねずき」の語源は斉明天皇の両槻宮に由来するとの説もあり、「ふたつき」が「ねずき」に転訛したとしています。また、「念誦崛」は、増賀が念仏三昧にて入滅したことと、墓所の形から漢字が宛てられたとも伝わります。「念」は念仏、「誦」は経文などを唱えること、「崛」は盛り上がっていることを表します。

  • 念誦崛<br />増賀上人は即身仏となったと伝わり、そう言われてみれば、ここには即身仏が納められているような気がします。<br />

    念誦崛
    増賀上人は即身仏となったと伝わり、そう言われてみれば、ここには即身仏が納められているような気がします。

  • 念誦崛<br />かつて塚の墳上には上から「南・無・増・賀・上人」と刻んだ五輪塔があったことが『西国三十三か所名所図会』から判っていますが、現在は地輪のみが残ります。<br />地輪の西面には「慶長七年十一月九日」、1602年の五輪塔造立年を刻みます。南面には「上人長保五年六月九日」、1003年の上人入滅年が刻んであります。87歳まで長生きされたようです。比叡山とは異なり、妙楽寺とは随分と水が合ったのでしょう。

    念誦崛
    かつて塚の墳上には上から「南・無・増・賀・上人」と刻んだ五輪塔があったことが『西国三十三か所名所図会』から判っていますが、現在は地輪のみが残ります。
    地輪の西面には「慶長七年十一月九日」、1602年の五輪塔造立年を刻みます。南面には「上人長保五年六月九日」、1003年の上人入滅年が刻んであります。87歳まで長生きされたようです。比叡山とは異なり、妙楽寺とは随分と水が合ったのでしょう。

  • 帰路は迂回路を通って石仏を拝みながら下って行きます。<br /><br />明治時代初頭までは、ここには増賀上人の霊堂「紫蓋寺」があったそうです。今でも城郭寺院の石垣と思しきものが散見されますが、その石垣やこれらの石仏もひょっとするとかつての斉明天皇の両槻宮の石垣をリサイクルしたものなのかもしれません。

    帰路は迂回路を通って石仏を拝みながら下って行きます。

    明治時代初頭までは、ここには増賀上人の霊堂「紫蓋寺」があったそうです。今でも城郭寺院の石垣と思しきものが散見されますが、その石垣やこれらの石仏もひょっとするとかつての斉明天皇の両槻宮の石垣をリサイクルしたものなのかもしれません。

  • 両槻宮が何処に存在したかについては、近年の発掘調査結果から酒船石のある丘陵付近とする推論もあります。また、両槻宮が天宮(あまつみや)とも呼ばれたことから標高の高い場所にあったと推測でき、『日本書紀』に記された多武峰の頂ではやや役不足のような気もします。『日本書紀』にある「宮の東の山」に何らかの施設があったと仮定しても、両槻宮とは別のものとして書き分けられているような気がしてなりません。<br /><br />この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑦明日香村(気都倭既神社・石舞台・酒船石/亀形石造物遺跡)でお届けいたします。

    両槻宮が何処に存在したかについては、近年の発掘調査結果から酒船石のある丘陵付近とする推論もあります。また、両槻宮が天宮(あまつみや)とも呼ばれたことから標高の高い場所にあったと推測でき、『日本書紀』に記された多武峰の頂ではやや役不足のような気もします。『日本書紀』にある「宮の東の山」に何らかの施設があったと仮定しても、両槻宮とは別のものとして書き分けられているような気がしてなりません。

    この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑦明日香村(気都倭既神社・石舞台・酒船石/亀形石造物遺跡)でお届けいたします。

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