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2021年11月17日(水)11時15分過ぎ、下御茶屋から中御茶屋(中離宮)へ向かう。下御茶屋の東門を出るとすぐ右手に上御茶屋に向かう松並木がある(下の写真1)が、すぐに南側の中御茶屋への松並木が分かれる(下の写真2)。この松並木は元々は棚田のあぜ道だったが、明治天皇が行幸した際、馬車が通れるよう道を広げて赤松を植樹したことから、御馬車道とも呼ばれる。<br /><br />これを進んで行くと中御茶屋の表門に突き当たる。この門は林丘寺、中御茶屋への入口となっている。国公賓が訪れたときのみ開かれる門で、現在の門になってからは一度も開かれたことがないそうだ。<br /><br />この地は下御茶屋の記の前段で記述したように江戸初期に後水尾上皇が離宮を造営する以前に円照寺が置かれていたところ。その円照寺は離宮造営時に大和(奈良と天理の間)に移され、ここには上皇の第八皇女、朱宮光子内親王のための山荘が建てられた。上皇崩御後は林丘寺となったが、明治になって境内の南東部が宮内庁に返還され、中御茶屋として離宮に編入された。<br /><br />表門は北西部にあり、門の脇の通用門から西側の森になってる部分に入る。紅葉が美しい(下の写真3)。表門の先、左手に一段高くなっている東側への石段を上がり(下の写真4)、突き当りを左に回り込んで行くと中門。柿葺の廂に襷掛けの扉を配しており,木賊張りの袖塀が左右に連なる。<br /><br />左手の通用口から中へと入ると中御茶屋。真っ直ぐ東に進み、突き当りの御文庫の手前を右手に折れ、楽只軒の横を右手に旧書院跡の傘松を見ながら進むと池泉庭園に出る。この苑池は創建当初よりあったことが古図により知られており、客殿前からの遣水が小さい滝となって落ち込んでいる。<br /><br />池を渡って東に回り込んで進むと客殿。元々は後水尾上皇皇后の東福門院の女院御所の対面所だった。東福門院が1678年に亡くなられた後、1682年に朱宮光子内親王のために移築された。入母屋造り厚めの柿葺である木賊(とくさ)葺の庇の深い屋根を持っている。南の正面前庭には遣水が流れている。<br /><br />南向きの一の間は十二畳半で、北側に一間の床の間と中央に一間半の飾り棚がある。床の間の貼付には雲形に金の砂子を散らし和歌とそれに因んだ絵の色紙をつらね、腰貼に金と群青の菱形つなぎ模様をあしらっている。右手の襖の腰張も同じだが、明るい青で、菱形も大きい。<br /><br />床脇の五段の飾り棚は大小5枚の欅が互い違いに配置されており,まるで霞がたなびく様に似ていることから霞棚(かすみだな)と呼ばれており、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚と並んで天下の三棚と称されている。<br /><br />霞棚の壁面には創建当時の修学院八景を詠んだ親王・公家達の和歌と、五山の禅僧達が創った漢詩が和漢を対にして貼り付けられている。修学院八景は、村路晴嵐・修学晩鐘・遠岫帰樵・松崎夕照・茅檐秋月・平田落雁・隣雲夜雨・叡峰暮雪。<br /><br />霞棚の右下には三角棚が置かれている。更紗模様に子供玩具・振振毬杖(ぶりぶりぎっちょう)の引手になっている。その下に地袋。地袋に描かれているのは友禅染の張場の情景で、引手は羽子板の形になっている。また、地袋の下の金具には三葉葵紋が施されており、東福門院が将軍家の出自であることを示している(徳川2代将軍秀忠の五女で母は江)。<br /><br />一の間の前の南縁座敷の杉戸には親子の鯉。全体が網で覆われているのは、夜毎に杉戸を抜け出て池で遊ぶのを防ぐためとのこと。写真はないが、裏側にも網の中に一匹の大鯉。ところどころ網が破けているのがリアル。鯉の絵の作者は不明だが,網は円山応挙の筆と伝えられている。<br /><br />この杉戸の反対側、一の間の西側畳縁突き当りの杉戸には,右に祇園祭の放下鉾と左に岩戸山が描かれている。こちらの作者は住吉具慶と云われていたが、近年の研究で狩野探幽の孫(娘の子)、狩野敦信とされる。<br /><br />客殿の奥、南東角には林丘寺の境内へ繋がる石段があるが、石組みが弱い修学院のなかでは、力強い集団石組を見ることが出来る。なお、この石段の上の門は閉ざされており、林丘寺は非公開。<br /><br />その石段の横を通り、客殿の裏側(北側)に進むと、仏間の外側の縁に数本の直線で構成される手摺がある。網干の欄干と呼ばれるもので、漁の網を干した姿を現している。客殿の西側にも網干の欄干はある(下の写真5)。<br /><br />客殿の裏側を回り込んで一段降りると楽只軒の裏側に出る。この建物が朱宮光子内親王のために建てられた山荘。扁額の年紀銘から1668年もしくはその前年に建てられたものと推測される。先に通って来た苑池に面した南側に広縁を設け、床を低くとり庭との一体感を高めている。<br /><br />東側からその広縁の奥の繋がった一の間と二の間を見ることが出来る。手前の一の間の襖壁には吉野山の桜が描かれていることから吉野の間と、奥の二の間の襖壁は金地に龍田川の紅葉の絵が貼り付けられていることから龍田の間と呼ばれている。共に狩野探幽の三男、探信の作と伝わっている。ちなみに二の間の押入れは奥の間とつながっており、通り抜けできる面白い構造となっている。<br /><br />一の間と二の間の境の長押に掛かる楽只軒の扁額は後水尾上皇の宸筆と云われている。文字は緑色で、額縁に色と柄の異なる三種の竹を用い、七宝の竹葉をあしらっている。「楽只」とは、詩経の「楽只君子、萬寿無期」より採られたもので、楽しむことを意味している。<br /><br />楽只軒の北側から御文庫の横を通って中門からの道に戻り、表門に戻る。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8283515035051781&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />最後、上御茶屋に向かうが、続く

修学院離宮 中御茶屋(Middle Garden,n,Shugakuin Imperial Villa, Rakuhoku, Kyoto)

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2021/11/17 - 2021/11/17

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年11月17日(水)11時15分過ぎ、下御茶屋から中御茶屋(中離宮)へ向かう。下御茶屋の東門を出るとすぐ右手に上御茶屋に向かう松並木がある(下の写真1)が、すぐに南側の中御茶屋への松並木が分かれる(下の写真2)。この松並木は元々は棚田のあぜ道だったが、明治天皇が行幸した際、馬車が通れるよう道を広げて赤松を植樹したことから、御馬車道とも呼ばれる。

これを進んで行くと中御茶屋の表門に突き当たる。この門は林丘寺、中御茶屋への入口となっている。国公賓が訪れたときのみ開かれる門で、現在の門になってからは一度も開かれたことがないそうだ。

この地は下御茶屋の記の前段で記述したように江戸初期に後水尾上皇が離宮を造営する以前に円照寺が置かれていたところ。その円照寺は離宮造営時に大和(奈良と天理の間)に移され、ここには上皇の第八皇女、朱宮光子内親王のための山荘が建てられた。上皇崩御後は林丘寺となったが、明治になって境内の南東部が宮内庁に返還され、中御茶屋として離宮に編入された。

表門は北西部にあり、門の脇の通用門から西側の森になってる部分に入る。紅葉が美しい(下の写真3)。表門の先、左手に一段高くなっている東側への石段を上がり(下の写真4)、突き当りを左に回り込んで行くと中門。柿葺の廂に襷掛けの扉を配しており,木賊張りの袖塀が左右に連なる。

左手の通用口から中へと入ると中御茶屋。真っ直ぐ東に進み、突き当りの御文庫の手前を右手に折れ、楽只軒の横を右手に旧書院跡の傘松を見ながら進むと池泉庭園に出る。この苑池は創建当初よりあったことが古図により知られており、客殿前からの遣水が小さい滝となって落ち込んでいる。

池を渡って東に回り込んで進むと客殿。元々は後水尾上皇皇后の東福門院の女院御所の対面所だった。東福門院が1678年に亡くなられた後、1682年に朱宮光子内親王のために移築された。入母屋造り厚めの柿葺である木賊(とくさ)葺の庇の深い屋根を持っている。南の正面前庭には遣水が流れている。

南向きの一の間は十二畳半で、北側に一間の床の間と中央に一間半の飾り棚がある。床の間の貼付には雲形に金の砂子を散らし和歌とそれに因んだ絵の色紙をつらね、腰貼に金と群青の菱形つなぎ模様をあしらっている。右手の襖の腰張も同じだが、明るい青で、菱形も大きい。

床脇の五段の飾り棚は大小5枚の欅が互い違いに配置されており,まるで霞がたなびく様に似ていることから霞棚(かすみだな)と呼ばれており、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚と並んで天下の三棚と称されている。

霞棚の壁面には創建当時の修学院八景を詠んだ親王・公家達の和歌と、五山の禅僧達が創った漢詩が和漢を対にして貼り付けられている。修学院八景は、村路晴嵐・修学晩鐘・遠岫帰樵・松崎夕照・茅檐秋月・平田落雁・隣雲夜雨・叡峰暮雪。

霞棚の右下には三角棚が置かれている。更紗模様に子供玩具・振振毬杖(ぶりぶりぎっちょう)の引手になっている。その下に地袋。地袋に描かれているのは友禅染の張場の情景で、引手は羽子板の形になっている。また、地袋の下の金具には三葉葵紋が施されており、東福門院が将軍家の出自であることを示している(徳川2代将軍秀忠の五女で母は江)。

一の間の前の南縁座敷の杉戸には親子の鯉。全体が網で覆われているのは、夜毎に杉戸を抜け出て池で遊ぶのを防ぐためとのこと。写真はないが、裏側にも網の中に一匹の大鯉。ところどころ網が破けているのがリアル。鯉の絵の作者は不明だが,網は円山応挙の筆と伝えられている。

この杉戸の反対側、一の間の西側畳縁突き当りの杉戸には,右に祇園祭の放下鉾と左に岩戸山が描かれている。こちらの作者は住吉具慶と云われていたが、近年の研究で狩野探幽の孫(娘の子)、狩野敦信とされる。

客殿の奥、南東角には林丘寺の境内へ繋がる石段があるが、石組みが弱い修学院のなかでは、力強い集団石組を見ることが出来る。なお、この石段の上の門は閉ざされており、林丘寺は非公開。

その石段の横を通り、客殿の裏側(北側)に進むと、仏間の外側の縁に数本の直線で構成される手摺がある。網干の欄干と呼ばれるもので、漁の網を干した姿を現している。客殿の西側にも網干の欄干はある(下の写真5)。

客殿の裏側を回り込んで一段降りると楽只軒の裏側に出る。この建物が朱宮光子内親王のために建てられた山荘。扁額の年紀銘から1668年もしくはその前年に建てられたものと推測される。先に通って来た苑池に面した南側に広縁を設け、床を低くとり庭との一体感を高めている。

東側からその広縁の奥の繋がった一の間と二の間を見ることが出来る。手前の一の間の襖壁には吉野山の桜が描かれていることから吉野の間と、奥の二の間の襖壁は金地に龍田川の紅葉の絵が貼り付けられていることから龍田の間と呼ばれている。共に狩野探幽の三男、探信の作と伝わっている。ちなみに二の間の押入れは奥の間とつながっており、通り抜けできる面白い構造となっている。

一の間と二の間の境の長押に掛かる楽只軒の扁額は後水尾上皇の宸筆と云われている。文字は緑色で、額縁に色と柄の異なる三種の竹を用い、七宝の竹葉をあしらっている。「楽只」とは、詩経の「楽只君子、萬寿無期」より採られたもので、楽しむことを意味している。

楽只軒の北側から御文庫の横を通って中門からの道に戻り、表門に戻る。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8283515035051781&type=1&l=223fe1adec


最後、上御茶屋に向かうが、続く

  • 写真1 下御茶屋から上御茶屋への松並木

    写真1 下御茶屋から上御茶屋への松並木

  • 写真2 中御茶屋への松並木

    写真2 中御茶屋への松並木

  • 写真3 表門内側の紅葉

    写真3 表門内側の紅葉

  • 写真4 表門から中門への石段

    写真4 表門から中門への石段

  • 写真5 客殿西側の網干の欄干

    写真5 客殿西側の網干の欄干

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