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2021年11月17日(水)1時過ぎ、鷺森神社から曼殊院に向かう。鷺森神社を南側に出ると曼殊院道に出る。曼殊院道は高野川沿いの川端通、松ヶ崎浄水場の対岸辺りから宮本武蔵で有名な一乗寺下り松を経て、曼殊院門前に至る道。<br /><br />曼殊院道を5分ほどえっちら上がって行くと武田薬品工業京都薬用植物園の正門前の三差路の正面に曼殊院門跡の石柱が建つ。真っ赤な紅葉が見事としか云いようがない。石柱に刻まれた曼殊院門跡の門の字は「つ」としか見えないわ。<br /><br />余談だが、武田薬品工業の京都薬用植物園は1933年(昭和8年)に京都武田薬草園として開設した植物園で、敷地面積は9万5千平方mあり、薬用植物を中心に絶滅危惧種を含む2800種余りの植物を保有・栽培している。年に数回の特別見学会や薬学部の学生の受け入れを除き、原則として一般公開はしていないそうで、通るたびに残念に思う。<br /><br />ここからさらに1分ほど東に登って行くと曼殊院の勅使門に突き当たる(下の写真1)。曼殊院は皇族・貴族の子弟が代々住持となる門跡寺院で竹内門跡とも呼ばれる。天台宗の寺院で、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び天台五門跡の1つに数えられる。<br /><br />寺伝では平安時代の延暦年間(782年~806年)に伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。天暦年間(947年 - 957年)の是算国師の時に、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊と称し、曼殊院ではこの是算を初代としている。その後、天仁年間(1108年~10年)に北山に別院を建て曼殊院と称し、次第にこの別院が主体となった。<br /><br />室町時代に入り、第3代将軍義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、康暦年間(1379年~81年)に洛中に移転。1495年頃、26世門主の慈運法親王(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称)が入寺して以降、代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。<br /><br />江戸初期の1656年、29世門主の良尚法親王が現在地に移転し寺観を整えた。比叡山の小坊の1つだったが廃絶した月林寺の跡地と云われている。良尚法親王は修学院離宮を造営した後水尾院の従兄弟で猶子。桂離宮を完成させた兄智忠親王のアドバイスを受けて建設しており、「小さな桂離宮」とも呼ばれる。<br /><br />私たちがここにお参りするのは2回目。前回は11年前の2010年の11月で、今回同様鷺森神社からここに回っている。「庭園の紅葉はまだちょいと早いか」と云う感想が残っていた。<br /><br />高い石段の上に西に面して立つ勅使門はこの地に移転した1656年に建てられた曼殊院の正門。左右の塀は5本の水平の筋が入った築地塀で、門跡寺院としての格式の高さを表している。この築地塀沿いの紅葉がまた見事!石段下には2012年の天皇皇后(現上皇・上皇后)両陛下行幸啓の碑が建ち、向かいには1975年の皇太子(現天皇)陛下お成り記念樹が植えられている(下の写真2)。<br /><br />勅使門は通してもらえないので北側に回り北通用門で拝観券(大人600円)を購入し入場する。門の先は国の重文の庫裡(庫裏)。寺院の台所であり通用口。これも1656年に建立されたものだが、洛中時代に存在した護摩堂を移転・改造したものと云うことが1991年~96年に行われた解体修理と痕跡調査などにより判明した。また部材に残されている刻印から護摩堂の前身となる建物があったようだ。<br /><br />この庫裡は下台所とも云われ、移転後に新たに建立された上之台所と対をなしていた。桁行約16m、梁間約12mの入母屋造本瓦葺の建物で護摩堂の形式が引き継がれている。北通用門側に唐破風が付けられ、29世門主の良尚法親王の筆の額が掲げられている。額の文字、「竈媚(右から)」は竈で働く人を大事にしなさいという意味があるそうだ。<br /><br />一般的に庫裡は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所。庫裏は禅宗寺院で、仏殿・三門(山門)・僧堂・法堂・浴室・東司とともに七堂伽藍に数えられている。大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多い。<br /><br />建物内部は時代遅れと思うが、写真撮影禁止なので、写真はない。庫裡の内部には大きな竈が7口設けられており、鎌倉時代の大黒天が祀られている。<br /><br />奥に進むと勅使門の奥にある大玄関へ。虎の間、竹の間、孔雀の間があり、それぞれの部屋の襖には、虎、竹、孔雀が描かれているが、竹は絵でなく版画で日本で最初のものと云われている。虎の襖絵は桃山時代の狩野永徳筆で国の重文。<br /><br />大玄関の南側から一文字の手水鉢や井戸がある中庭の横を東方向に進むとここも国の重文の大書院。1656年建立で、仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから重文での名称は曼殊院本堂となっているが、当の曼殊院ではこの建物を大書院と呼んでいる。寄棟造、柿葺きの住宅風建物。正面東側に十雪の間、西側に滝の間があり、十雪の間の背後には仏間、滝の間の背後に控えの間がある。<br /><br />その奥にはこれも重文の小書院。大書院と同時期の建築で寄棟造、柿葺き。東南側に八畳の富士の間とその北に主要室である黄昏の間がある。黄昏の間は七畳に台目畳二畳の上段を備え、床・棚・付書院をもつ。床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。<br /><br />大書院前から小書院前に掛けて国指定名勝の枯山水庭園が広がり、ここは撮影可。小堀遠州の作といわれるが、遠州は曼殊院の当地移転以前に没しており、実際の作庭者は不明。水の流れをあらわした砂の中に大書院前に鶴島、小書院前に亀島を配しており、小書院自体は静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現している。鶴島にある樹齢400年の五葉松は鶴を表現しており、その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。亀島にも亀を模った松があったが、枯れてしまった。<br /><br />小書院から北側に進むと八窓軒と云う茶室。大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。京都三名席のひとつでここも重文。八窓というのは、仏教の八相成道に因んでいる。にじり口上の連子窓は虹のような影が生じることから虹の窓と呼ばれて名高い。<br /><br />そこから大玄関の方に戻ると上之台所。高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房だった。周りには丸炉の間、一乗の間、花の間、宿直の間、御寝の間に分かれている。大書院・小書院や庫裡と前後して建てられたもの。<br /><br />そして、上之台所を抜けると左側に幽霊の掛け軸があるが、これももちろん撮影禁止。写した写真を持っているだけで不可解な現象に遭遇するとか。なお、曼殊院にはもうひとつ狩野探幽筆の幽霊の掛け軸もあるそうだが、こちらは通常非公開。<br /><br />20分ほどで見学を終わり、来た道を戻ると参拝者入口の先(西)に弁天池があり、弁天堂と天満宮がある。一間社、春日造、檜皮葺の天満宮は室町末期の建立で、曼殊院内で一番古い建物であり、鎮守堂でもある。弁天堂は江戸後期の建立。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8311769418893009&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />最後に狸谷山不動院へ向かうが、続く

京都 洛北 曼殊院門跡(Manshuin Monzeki Temple,Rakuhoku,Kyoto,Japan)

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2021/11/17 - 2021/11/17

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年11月17日(水)1時過ぎ、鷺森神社から曼殊院に向かう。鷺森神社を南側に出ると曼殊院道に出る。曼殊院道は高野川沿いの川端通、松ヶ崎浄水場の対岸辺りから宮本武蔵で有名な一乗寺下り松を経て、曼殊院門前に至る道。

曼殊院道を5分ほどえっちら上がって行くと武田薬品工業京都薬用植物園の正門前の三差路の正面に曼殊院門跡の石柱が建つ。真っ赤な紅葉が見事としか云いようがない。石柱に刻まれた曼殊院門跡の門の字は「つ」としか見えないわ。

余談だが、武田薬品工業の京都薬用植物園は1933年(昭和8年)に京都武田薬草園として開設した植物園で、敷地面積は9万5千平方mあり、薬用植物を中心に絶滅危惧種を含む2800種余りの植物を保有・栽培している。年に数回の特別見学会や薬学部の学生の受け入れを除き、原則として一般公開はしていないそうで、通るたびに残念に思う。

ここからさらに1分ほど東に登って行くと曼殊院の勅使門に突き当たる(下の写真1)。曼殊院は皇族・貴族の子弟が代々住持となる門跡寺院で竹内門跡とも呼ばれる。天台宗の寺院で、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び天台五門跡の1つに数えられる。

寺伝では平安時代の延暦年間(782年~806年)に伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。天暦年間(947年 - 957年)の是算国師の時に、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊と称し、曼殊院ではこの是算を初代としている。その後、天仁年間(1108年~10年)に北山に別院を建て曼殊院と称し、次第にこの別院が主体となった。

室町時代に入り、第3代将軍義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、康暦年間(1379年~81年)に洛中に移転。1495年頃、26世門主の慈運法親王(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称)が入寺して以降、代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。

江戸初期の1656年、29世門主の良尚法親王が現在地に移転し寺観を整えた。比叡山の小坊の1つだったが廃絶した月林寺の跡地と云われている。良尚法親王は修学院離宮を造営した後水尾院の従兄弟で猶子。桂離宮を完成させた兄智忠親王のアドバイスを受けて建設しており、「小さな桂離宮」とも呼ばれる。

私たちがここにお参りするのは2回目。前回は11年前の2010年の11月で、今回同様鷺森神社からここに回っている。「庭園の紅葉はまだちょいと早いか」と云う感想が残っていた。

高い石段の上に西に面して立つ勅使門はこの地に移転した1656年に建てられた曼殊院の正門。左右の塀は5本の水平の筋が入った築地塀で、門跡寺院としての格式の高さを表している。この築地塀沿いの紅葉がまた見事!石段下には2012年の天皇皇后(現上皇・上皇后)両陛下行幸啓の碑が建ち、向かいには1975年の皇太子(現天皇)陛下お成り記念樹が植えられている(下の写真2)。

勅使門は通してもらえないので北側に回り北通用門で拝観券(大人600円)を購入し入場する。門の先は国の重文の庫裡(庫裏)。寺院の台所であり通用口。これも1656年に建立されたものだが、洛中時代に存在した護摩堂を移転・改造したものと云うことが1991年~96年に行われた解体修理と痕跡調査などにより判明した。また部材に残されている刻印から護摩堂の前身となる建物があったようだ。

この庫裡は下台所とも云われ、移転後に新たに建立された上之台所と対をなしていた。桁行約16m、梁間約12mの入母屋造本瓦葺の建物で護摩堂の形式が引き継がれている。北通用門側に唐破風が付けられ、29世門主の良尚法親王の筆の額が掲げられている。額の文字、「竈媚(右から)」は竈で働く人を大事にしなさいという意味があるそうだ。

一般的に庫裡は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所。庫裏は禅宗寺院で、仏殿・三門(山門)・僧堂・法堂・浴室・東司とともに七堂伽藍に数えられている。大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多い。

建物内部は時代遅れと思うが、写真撮影禁止なので、写真はない。庫裡の内部には大きな竈が7口設けられており、鎌倉時代の大黒天が祀られている。

奥に進むと勅使門の奥にある大玄関へ。虎の間、竹の間、孔雀の間があり、それぞれの部屋の襖には、虎、竹、孔雀が描かれているが、竹は絵でなく版画で日本で最初のものと云われている。虎の襖絵は桃山時代の狩野永徳筆で国の重文。

大玄関の南側から一文字の手水鉢や井戸がある中庭の横を東方向に進むとここも国の重文の大書院。1656年建立で、仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから重文での名称は曼殊院本堂となっているが、当の曼殊院ではこの建物を大書院と呼んでいる。寄棟造、柿葺きの住宅風建物。正面東側に十雪の間、西側に滝の間があり、十雪の間の背後には仏間、滝の間の背後に控えの間がある。

その奥にはこれも重文の小書院。大書院と同時期の建築で寄棟造、柿葺き。東南側に八畳の富士の間とその北に主要室である黄昏の間がある。黄昏の間は七畳に台目畳二畳の上段を備え、床・棚・付書院をもつ。床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。

大書院前から小書院前に掛けて国指定名勝の枯山水庭園が広がり、ここは撮影可。小堀遠州の作といわれるが、遠州は曼殊院の当地移転以前に没しており、実際の作庭者は不明。水の流れをあらわした砂の中に大書院前に鶴島、小書院前に亀島を配しており、小書院自体は静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現している。鶴島にある樹齢400年の五葉松は鶴を表現しており、その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。亀島にも亀を模った松があったが、枯れてしまった。

小書院から北側に進むと八窓軒と云う茶室。大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。京都三名席のひとつでここも重文。八窓というのは、仏教の八相成道に因んでいる。にじり口上の連子窓は虹のような影が生じることから虹の窓と呼ばれて名高い。

そこから大玄関の方に戻ると上之台所。高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房だった。周りには丸炉の間、一乗の間、花の間、宿直の間、御寝の間に分かれている。大書院・小書院や庫裡と前後して建てられたもの。

そして、上之台所を抜けると左側に幽霊の掛け軸があるが、これももちろん撮影禁止。写した写真を持っているだけで不可解な現象に遭遇するとか。なお、曼殊院にはもうひとつ狩野探幽筆の幽霊の掛け軸もあるそうだが、こちらは通常非公開。

20分ほどで見学を終わり、来た道を戻ると参拝者入口の先(西)に弁天池があり、弁天堂と天満宮がある。一間社、春日造、檜皮葺の天満宮は室町末期の建立で、曼殊院内で一番古い建物であり、鎮守堂でもある。弁天堂は江戸後期の建立。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8311769418893009&type=1&l=223fe1adec


最後に狸谷山不動院へ向かうが、続く

  • 写真1 勅使門前の曼殊院道

    写真1 勅使門前の曼殊院道

  • 写真2 皇太子陛下お成り記念樹

    写真2 皇太子陛下お成り記念樹

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