2022/05/03 - 2022/05/08
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マリアンヌさん
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4日目、長崎に戻り、五島列島に渡った潜伏キリシタンが多く住んでいたという外海(そとめ)地区に出かけました。
たまに世界遺産ツアーがあるようなのですが、この時期だからなのか催行されておらず、路線バスで向かいました。
貴族の出身でありながら博愛の精神を持って私財を投げ打ち、布教だけにとどまらず村人の窮状を救い、人生を捧げたド・ロ神父の素晴らしさに感動しました。
午後は復元された出島を訪れました。
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ホテルで朝食を取ってトラムで宝町から長崎駅へ。
バス乗り場は、道沿いに待っていて20位の行先のバスが通って行く中での乗車は、不慣れな方には難しいと思った。
長崎駅前発8:28 桜の里ターミナル着9:13
桜の里ターミナル発9:20 出津文化村着9:43 -
世界文化遺産 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産である外海の出津集落へ。
長崎駅から30分もバスに乗り、振り返ると乗客は私ひとり。イタリアの村に行く時と同じじゃん(笑)
バスを乗り継ぐこと1時間半ほどで外海(そとめ)地区出津(しつ)村に到着した。
深い山のトンネルを抜け、美しい海が広がった。 -
1563年藩主大村純忠が初のキリシタン大名となり、甥にあたる島原の有馬晴信もキリシタン大名となり、居城の日野城下には、セミナリヨ(初等神学校)やコレジョ(高等神学校)が置かれた。このセミナリヨ第1期生である伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンが、天正遣欧使節として1582年長崎を出航した。
しかし大村純忠の次の喜前は棄教し、キリシタンを厳しく取り締まった。 -
しかし、大村中心部から遠く離れた外海では、長崎開港の1570年にカブラル神父が布教を始め、修道院や教会が建って5000人近い信者がいた。1629年には2人の神父が捕まってからは潜伏組織によって信仰が連綿と続けられた。一部地域(出津、黒崎、東樫山など)では比較的寛容な佐賀藩の飛び地が混じっていたことも信仰を続けやすくした。寺請制度の下、旦那寺に属していたが、見て見ぬふりをする寺もあったとされる。
1797年大村藩は五島藩の要請で農民を送るが、ほとんどは外海地方の潜伏キリシタンである。その前後を含め3000人程度が五島に移住し、外海のキリシタンは各地に広がっていった。 -
伝道師バスチャン屋敷跡。本から。
潜伏キリシタンみとって日本人伝道師バスチャンは精神的よりどころだった。
禁教下でもキリシタンの世話を続けたが、炊事の煙から外海山中で捕まり、3年以上長崎の牢で拷問を受け処刑された。
そのバスチャンは、宗教行事の基礎となる祝日を定める「バスチャン暦」を伝えた。また、①皆を7代までわが子とする。②その後はコンヘソール(罪の告白を聞いてくれる神父)が黒船でやってきて毎日でもコンヒサン(告白)ができるという予言をしたが、実際7代以降に黒船が来航して信徒発見に至った。 -
ド・ロ神父の像。
1865年大浦天主堂の建設がされ、献堂から1ヶ月後、潜伏キリシタンがプティジャン神父に自分の信仰を打ち明けた(信徒発見)。神父は密かに出津を訪れ、多くの潜伏キリシタンに出会った。その後浦上四番崩れが起こり、この地でも迫害を受けるが、キリスト教黙認後は、わらぶきの仮聖堂を造った。
信者は増え、1878年には全国で約2万人、うち長崎は17,000人程度に増えた。
このため各地区に担当神父を置くようになり、外海地区は1879年(明治11)ド・ロ神父が担当となった。 -
旧出津救助院の授産場。シスターが説明して下さった。
赴任したド・ロ神父が見たものは、陸の孤島、険しい傾斜地のやせた畑であまりにも貧しい暮らしだった。1882年(明治15)出津教会を建てるとともに慈善事業にも力を入れ、1883年(明治16)授産施設として出津救助院を開き、貧しい女性に仕事を与えた。 -
授産場では、綿織物の製糸から製織、染色、そうめんやパンの製造、醤油等の醸造がおこなわれていた。
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二階建てになっている。
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当時多くの女性が寝泊まりし、脇の押入的空間に布団をしまって、昼間は労働作業を行ったそう。
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ド・ロ神父がフランスから取り寄せた聖像。
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ド・ロ神父は信徒たちに聖歌を教え、フランスからオルガンを取り寄せた。デュモン社製の「ハルモニュウム」といわれるもので、1本指でも和音が弾ける優れもの。
シスターが見学者のために奏でてくださった。優しい音色だった。 -
こちらもド・ロ神父がフランスから取り寄せた時計。
いまだに時を刻んでいた。 -
意匠が素晴らしい。
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旧出津救助院の薬局。
腸チフスが流行すると医学知識を活かして、診療所や薬局を開き、多くの人を治療した。 -
100年以上経った今も健在する「ド・ロ塀」。
当時、日本で石積みの接合剤として使用されていたアマカワが雨に打たれるのに弱いのを見たド・ロ神父は、代わりに赤土を水に溶かして石灰と砂をこね合わせたもので接合し、地元の自然石を不規則に積み重ねた丈夫な「ド・ロ塀」を考案した。
授産場の基礎や壁の大部分に使用した。 -
旧出津救助院の旧製粉工場。
フランスパンを焼いたそう。 -
旧出津救助院のマカロニ工場。
フランスパンもマカロニも長崎居留地の外国人に販売していたそう。 -
扉口が幾分アールになっていて和洋折衷な感じ。
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ド・ロ神父記念館。
明治18年(1885)に神父自らいわし網工場として設計、施工したものでその後、保育所として使用された。昭和42年(1967)に県指定文化財になり、翌年にド・ロ神父記念館として開館した。内部には宗教関係や医療、土木、建築など神父がこの地で行った様々な事業に関する品物が収められている。 -
「無原罪の聖母」のブラケット(壁に取り付けられるもの)。
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マリア像の掛け軸。本から。
外海の潜伏キリシタンが隠し持っていたといわれるもの。 -
出津教会堂。
1879年(明治11)ド・ロ神父が外海に赴任したとき、潜伏信仰を続けるキリシタンもいたが、カトリック信者は既に2913人に達していた。出津地区には仮聖堂があり、そこを拠点に布教を始め学校も設立した。
やがて本格的な教会を造ることにし、神父自ら設計、信者の労働奉仕で1882年(明治15)完成した。 -
マルコ・マリー・ド・ロ神父は、1840年(天保11年)にフランスの由緒ある 貴族の次男としてバイユ郡ヴォスロール村で誕生し、神学校卒業後、東洋布教のためパリ外国人宣教会に入会。
まだキリシタン弾圧が続いていた1868年(明治元年)に死をも覚悟して 来日し、長崎や横浜で数々の功績を残した。 -
外海へ赴任してからは布教活動とともに、フランスで学んだ建築・医学・産業など の幅広い分野の知識を活かし、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教の教えを実践。宗教を礎とした深い人類愛で、外海の人々のために力を注 ぎ、一度も母国へ帰ることなく、1914年(大正3年)に享年74歳で逝去したそう。
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宣教師としてだけではなく、石版印刷の技術を伝えるために来日し、亡くなるまで46年間のうち、33年間を外海の人々の魂を救い、社会福祉や産業開発に尽力されたなんて、なんてすごいのでしょう。その遺徳、偉業から今なお「ド・ロさま」と呼ばれ敬愛されているそうだ。
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貴族の出身でありながら博愛の精神を持って未開の地に赴き、建築技術をはじめとした多方面の知識をもって、私財を投げ打ち人生を捧げるなんて、そう簡単に出来ないなと思う。
外海地区のキリシタンたちは、こんな神父さまと日々を過ごせて、貧しくとも幸せだったのではないだろうか。 -
内部撮影は禁止だった。
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大野教会堂。本から。
もう少し離れたところに大野教会堂も造っているが、交通の便の関係で回ることができなかった。 -
外海歴史民俗資料館。
縄文、弥生時代から人が生活していたそうで、土器から中世の生活雑貨などが展示されていた。 -
ここからコミュニティバスを利用して移動。乗客私一人だった。
出津文化村発11:56 黒崎教会前着12:04
途中、遠藤周作文学館があるのだけど、時間の都合上、断念。
海の絶景が望める場所で車ならおすすめの場所。 -
黒崎教会。
外海の黒崎地区も潜伏キリシタンが多く存在した。1865年大浦天主堂での信徒発見後、1867年クザン神父が黒崎を訪れると250人が集まり、1871年(明治4)頃には湯穴(現在の黒崎教会の近く)に仮聖堂ができたという。 -
イチオシ
1897年(明治30)ド・ロ神父の指導により造成するものの、途中で資金難で中断。サツマイモを売り、子供もレンガを運ぶなど信者が力を合わせ、ド・ロ神父亡きあとも棟梁川原忠蔵らにより1920年(大正9)完成した。
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レンガと鎧戸がマッチして美しい。
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美しい内陣だった。本から。
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素朴なステンドグラス。
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祭壇上のステンドグラス。絵葉書から。
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黒崎教会発12:36で平和公園で下車した。
外海方面のバスは1時間に1本ほどなので要注意。
平和公園(原爆落下中心地) 。 -
浦上天主堂遺壁。
爆心地から北東500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895年(明治28)から建築に着手、信徒らの献金や労働奉仕により1914年(大正3)に献堂式をあげた。
東洋一の壮大さを誇った天主堂だったが、1945年(昭和20)8月9日原子爆弾の炸裂により破壊された。
素晴らしい装飾だったんですね。 -
少し道なりに丘を登ると浦上天主堂が見えてきた。
長崎にキリスト教が伝来した1567年以降、キリスト教信者が増え、特にイエズス会領となった1584年から3年間は浦上は、長崎におけるキリスト教の一つの中心地になった。キリスト教が禁止されると、浦上の信徒たちは潜伏して信仰を続けたが、厳しい弾圧が繰り返された。信徒発見後の1867年(慶応3)浦上四番崩れ(キリシタン検挙)は最大で3,400人が各地に流配された。 -
安政条約の不平等改定を目指して派遣された岩倉具視ら使節団はキリシタン迫害に対する欧米の強い非難を受け、伊藤博文らは信仰の自由を明確にすることが国益と判断するにいたった。こうして1873年キリシタン禁制の高札が撤去された。
流配先で拷問や病気で600人あまりが死亡し、浦上に戻ることができたおは1,900人ほどだった。 -
旧浦上天主堂。本から。
1895年(明治28)フレノ神父の設計による教会の建設が開始され、未完成のまま1915年(大正4)献堂式を挙げ、その後正面双塔にフランス製のアンゼラスの鐘もつけ、1925年(大正14)石とレンガ造りのロマネスク様式で東洋一の大聖堂が完成した。原爆投下がなければ、その美しい姿を見れたと思うと残念でならない。 -
被曝した聖人の石像。
原爆投下により、建物は全壊し堂内にいた2人の神父と信徒が運命を共にした。
浦上地区の信徒12,000人のうち、8,500人が亡くなり、浦上一帯は焼け野原になった。 -
原爆資料室ピエタに展示されていた被ばくして破壊された聖人、天使たち。
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破壊を逃れた天使の像。
被爆後、1946年(昭和21)木造仮聖堂を造り、1959年(昭和34)鉄筋コンクリートの近代様式とロマネスク様式を混合した新しい天主堂が完成した。
そして教皇ヨハネ・パウロ二世の訪日を前に1980年(昭和55)外壁を煉瓦タイルに改装した。内部は撮影禁止だった。 -
ちょっと一休み。天主堂近くのフルーツ屋さんがカフェを併設していて、旬のびわパフェをいただいた。美味しかったぁ。
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トラムで出島へ。
昔、来た時にはなかった復元された出島。 -
乙名(おとな)詰所。
表門から出入りする人を監視するため出島の管理者である乙名が詰めていた。
襖紙が可愛かった。 -
展示されていたボルトガル船(左)とオランダ船(右)
1636年徳川幕府の命により、長崎の25人の有力な町人が出資して出島が築造された。町中でくらしていたポルトガル人が収容されたが、島原、天草一揆の影響で1639年ポルトガル船の来航は禁止になった。
その後、平戸で貿易をしていたオランダ商館が出島に移され、幕末まで唯一の貿易地となった。 -
1859年以降は通商条約に基づき横浜や函館でも海外貿易が行われるようになり、長崎においても貿易の中心は出島から外国人居留地へと移っていった。
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カピタン(商館長)部屋。
19世紀前半の出島のオランダ商館員の住居、貿易品を保管する土蔵、日本人役人の詰所が復元されている。 -
今使ってもいい感じの調度。
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晩さん会的な?
唐紙(からかみ)と呼ばれ和紙に木版で連続模様を刷った紙が、天井や壁に使われていて美しい。 -
復元のセンス、いいよね。
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シンプルなアンティーク。
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灯りも素敵。
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椅子も色々と取り寄せたよう。
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一番蔵。
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内部は展示場になっている。
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商館に勤める人の部屋。
結構、豪華。 -
街並みも当時の雰囲気を醸し出している。当時を再現して手すりや窓格子など、全体的に緑色のペイントが多いそう。
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当時の時計や解体新書も展示されていた。
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コスプレもあるのよ。
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幕末頃の旧石倉。(考古館になってる)
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左上:有田焼、右上:フランスのサルグミンヌ
左下:ワイルドローズ(縁に野薔薇が描かれてる)
(イギリス、サンダーランドのドーソン窯)
右下:ウィロウ(イギリス、グラスゴーのキッドストン社) -
日本最古のプロテスタント神学校:旧出島神学校。修復されたもの。
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洋館好きにはたまらない雰囲気。
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出島の南側の端っこにある大きな建物。これは、現存する中で日本最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。
1878年(明治11年)に建てられたもので、鮮やかな青い色が特徴的。 -
旧長崎内外クラブ。
1903年(明治36)T.グラバーの息子、倉場富三郎の尽力により、長崎の外国人と日本人の社交場として建てられた。 -
現在は、カフェ・レストランになっている。
カプチーノで一休み。 -
ミニチュア出島。扇形なのがわかる。
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出島近くでチェックしていた建物へ。ボロ可愛いよね。
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シャンデリア好きの私、カフェに入りたかったんだけど閉店時間。
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トラムで長崎駅まで戻り、結構急な坂を上って・・・二十六聖人記念碑へ。
豊臣秀吉は、キリスト教の急速な普及に危機感をいだき、1587年に伴天連追放令を出す。しかし、南蛮貿易を続けるため、それ以上厳しく取り締まらなかったが、1596年サン・フェリペ号事件でスペインは宣教師を送って信者を増やし、やがてその国を征服することを知り、京都奉行の石田三成に宣教師を捕まえるよう命じる。 -
その少し前にスペイン領フィリピンから来日し、布教をしないことを条件に滞在を許されたものの布教を始めたフランシスコ会のペドロ・バウチスタ神父を中心に24人が京都で捕まり、各地で引き回された後、歩いて長崎に向かう。途中2人が加わり、1598年26人は長崎の西坂で十字架にかけられた。これが大規模な殉教の始まりとなった。
ローマ教皇は1862年に26人を聖人に列し、その3年後に建設された大浦天主堂は「日本二十六聖殉教者堂」としてニ十六聖人に捧げられた。 -
ホテルに預けていた荷物をピックアップし、タクシーで今晩のお宿へ。
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福山正治の生家近くを通過しながら、稲佐山途中にあるルークプラザホテルへ。
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部屋から長崎の夜景を見たくて予約した。
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暮れなずんで来た長崎。
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ほぉ綺麗!
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夕食はホテル内のレストランを予約していた。(席数が少ないので要予約)
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ブランデーのファイヤー。
夜景をみながら楽しませてもらった。 -
煮魚や焼き魚が苦手な私、高級和食店に行きづらい。
お肉ならOKだわ。 -
行きのタクシードライバーに稲佐山山頂は、ホテルの地点とはだいぶ違う夜景が見れると言われたので、タクシーを呼んでもらって山頂へ。
1,000万ドルの夜景と称されるほどで、世界新三大夜景にも選ばれているそう。
確かにきれいだった! -
ホテルに戻ってお部屋から・・・ボーッと時間を過ごすって贅沢。
明日は、軍艦島観光&山手地区に向かいます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- るなさん 2022/05/21 10:28:42
- ボロ可愛い
- 仕事をして寝泊まりして...やっぱり教会とかって心の拠り所なんでしょうね。
時が経った古い建物には歴史がいっぱいだ~
ちょっと煤けた白い教会と青空が眩しい。
車の運転が出来ない私たちにはコミュニティバスとかフル活用だよね(笑)
でもこれがまた本数ないときたもんだ。
レンガとベビーブルーの鎧戸が美しい。
長崎とか広島とかも行ってみたいんだけど、海外解禁になったらまた国内は遠のきそうだよね(;'∀')
びわパフェ、すげぇぇ~(笑)食べるの大変そうだけど美味しそう♪びわなんて食べなくなったな。昔、おばあちゃんの家になってたの思い出すわ。
出島の雰囲気、好きだなぁ。
旧出島神学校の建物がいいな。
で、近くのボロ可愛いカフェええなぁ(*^▽^*)やっぱボロ可愛いってのはキュンとするよね♪この辺りにはいい感じのお店が多いっぽいね。
イタリア行きたい~ボロ可愛いが懐かしい!!
けど、バンコクにもバリにもいっぱいあるよ。イタリアの風情とはちょいと違うかもだけどね(笑)ふふ
るな
- マリアンヌさん からの返信 2022/05/23 10:19:47
- RE: ボロ可愛い
- るなさん いつもありがとう。
私などお墓があって代々の宗派はあるけど宗教観が薄い。
でも教会に通い、祈りの日々の人たちって、そこに精神的な拠り所があるんでしょうね。だから教会に入ると鈍感な私でも何かジーンと感じるよ。
車の運転が出来ない私たちにはコミュニティバスとかフル活用だよね(笑)
でもこれがまた本数ないときたもんだ。
⇒ホント、それ!
日本の僻地って今まで旅したことなかったから、香川とか長崎とか街から
離れると、そうイタリアと変わらないバス事情。思わず心の中で笑っちゃった。
レンガとベビーブルーの鎧戸が美しい。
長崎とか広島とかも行ってみたいんだけど、海外解禁になったらまた国内は遠のきそうだよね(;'∀')
⇒レンガや鎧戸は私たちの好物だよね(^_-)-☆
ウン、海外解禁になったら、間違いなく遠のく!
びわパフェ、すげぇぇ?(笑)食べるの大変そうだけど美味しそう♪びわなんて食べなくなったな。昔、おばあちゃんの家になってたの思い出すわ。
⇒私もびわなんて日頃買わないし・・・でもフルーツ屋さんの地産のびわ、とても美味しかった☆クリームやアイスが多くなくてサッパリ食べれたよ。お値段も良かったけどね(笑)
出島の雰囲気、好きだなぁ。
旧出島神学校の建物がいいな。
で、近くのボロ可愛いカフェええなぁ(*^▽^*)やっぱボロ可愛いってのはキュンとするよね♪この辺りにはいい感じのお店が多いっぽいね。
⇒同感、同感!ボロ可愛いっていい味出してるよね、好き♪
あのカフェ、最終日にも行ってみたんだけど満席で。空いたら電話もらったん
だけど時間切れだった(涙)
イタリア行きたい?ボロ可愛いが懐かしい!!
けど、バンコクにもバリにもいっぱいあるよ。イタリアの風情とはちょいと違うかもだけどね(笑)ふふ
⇒きゃぁ☆モチ、イタリアも行きたいけど、その前にバリね(^^♪
楽しみだぁ。
マリアンヌ
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