2022/05/03 - 2022/05/08
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マリアンヌさん
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2日目の午後、メインテーマでもある五島列島キリシタンを探る奈留島・久賀島ツアーに参加した。本当は個人で回りたかったのだけど、船の便が少なくて水上タクシーを個人使用すると高額になるし、ツアー参加必須でした。
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五島列島キリシタン物語~奈留島・久賀島編に参加。
世界遺産の奈留島の江上天主堂、久賀島の旧五輪教会堂、牢屋の窄殉教記念教会を回ります。
12:40福江港集合17:30解散予定。 -
まずはフェリーで奈留島(なるしま)へ。
五島列島の大地は、約2200~1700万年前に堆積したユーラシア大陸由来の砂と泥が基であり、その当時は大陸の一部だったそうで結構、山が多い。 -
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の位置。
一番南が福江島、その上が久賀島、そのまた上が奈留島。(江上天主堂がある島)
このほか画面に入りきらなかったが南に日野江城跡、原城跡、天草の崎津集落がある。 -
恥ずかしながら初めて知ったのだが、江戸幕府の禁教下でキリスト教信仰を子孫に継承した人々のことを「潜伏キリシタン」、明治になり、一応、解禁状態になってもカトリックに戻らず、自分たちが受け継いできた潜伏信仰をそのまま続けた人たちのことを「隠れキリシタン」と言うそう。
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鯉のぼりが、たなびいていた。
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バスに乗り込み、世界遺産ガイダンスセンターに立ち寄った後(撮影禁止が多い)
江上天主堂に着いた。奈留港からは30分くらいだった。
途中、大リーグで活躍した野茂選手の祖父?の家もあった。 -
江上天主堂の歴史は、1881年(明治14)潜伏キリシタン4家族が洗礼を受けたことにはじまる。かれらの先祖は江戸時代末期に大村藩領から移住してきたもので、江上地区には教会がなかったため、信徒の家でミサが行われていたが、1906年(明治39)現在地に簡素な教会が建てたれたそう。
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本格的な教会が建築着工されたのは、1917年(大正6)だった。当時の信徒は40~50戸だったが、各地で教会建築をしていた鉄川与助に設計施工を依頼し、信徒たちは木を伐りはらって敷地を造成した。
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緑の木々からのぞく白い壁と窓がブルーの外観からは、愛らしい印象をうけるが、浦山から雨水が流れ込みとても多湿だそう。そこで湿気を避けるため、高床式になっている。
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現在、コロナ渦で内部には入れなかった。本の写真から。
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リブ・ヴォールト(蝙蝠天井)が美しい。
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世界遺産ガイダンスセンターの写真から。
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アカンサスの柱頭が美しい。
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世界遺産ガイダンスセンターにあった復元見本。
木目に見えるものは手書きで描いたものだそう。
北欧の教会がイタリアなどと違い大理石が採れないことから、木目に大理石を描いたのに似ていると思った。 -
しかし鉄川与助さん、海外の教会を見たこともないのにすごいなと思う。
1888年五島に着任したペルー神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原棟梁のもとで多くの天主堂を建築していったそう。 -
ステンドグラスの代わりに透明ガラスに花模様を描いたそう。
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素朴で美しい。
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建築資金はすべてキビナゴの地引網で得た収入などを出し合い、1918年(大正7)に完成させた。
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破風にも十字の装飾。
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雨どいを付けたところ落ち葉がたまり、用をなさなかったので、外されたそう。
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イチオシ
木造教会として完成度が高いというのが頷ける美しいフォルムだと思う。
知らなかったのだけど、ユーミンこと松任谷由実さんが、荒井由実として活躍していた時代、五島高校奈留分校のひとりの女子生徒が、ユーミンに校歌がないので校歌を作ってほしいと手紙を送り、できた曲が「瞳を閉じて」なのだそう。 -
再びバスで奈留港に戻り、久賀島(ひさかじま)へ。
折しも知床で観光船が沈んだのでちょっとビビり。 -
奈留島に面した静かな海辺に到着した。
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旧五輪教会堂は、福江島に面した田ノ浦港に近い浜脇教会(この場所と反対側)の建て替えを機に、五輪地区に譲り受けたものだそう。
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1881年(明治14)に浜脇教会として久賀島の浜脇に建てられたものが、1931年(昭和6)に現在地に移築されたとのこと。
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旧五輪教会堂は以後役50年間、五輪地区と蕨小島の信徒たちの信仰の拠り所だったが、老朽化のため1985年(昭和60)すぐそばに五輪教会が新築され、教会の役目を終えたそう。
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この時点で解体の話が持ち上がったが、貴重な文化財として価値ある建造物を守ろうと関係者の熱意と地元信者たちの協力によって解体の危機を乗り越え、当初の姿で保存されることになったとのこと。東京から移住した若者が維持管理に携わっていた。
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外見は和風建築だが、内部は三廊式教会ですね。
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こちらもリブ・ヴォールトが美しい。
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中央祭壇にはキリストを抱いた聖ヨゼフ。
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側廊。窓からの光が美しい。
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こちらには聖母子が。
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シンプルな造形が美しい。
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入口上のステンドグラス。
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左の側廊。
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右の側廊。
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それぞれ、聖母子とキリスト?がまつられていた。
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美しい木彫り。キリストの象徴マークIHS(ギリシャ語でイエスの最初の三文字)がデザイン化してある。
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ゴシックだね。
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柱頭部分。
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厳かな雰囲気のある教会堂だった。
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額縁のような美しい景色が、信仰の厳しさ、尊さを感じさせてくれるような気がした。
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すぐ近くに建てられた新しい五輪教会。
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ここからハイキング的に結構な山道を登ります。おみ足の悪い年配の方は大変そうでした。
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でも透き通る美しい海辺だった。
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その山の頂上にタクシーが来て、車1台やっとの怖いような山道を下ること20分ほどで牢屋の窄(さこ)殉教記念教会に着いた。
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ガラス窓から。
当初、殉教地にほど近い場所に建てられ、その後老朽化により1984年(昭和59)実際に牢屋のあった場所に建て替えられたそう。 -
シンプルなステンドグラス。
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1868年(明治元)この地で久賀島内の信徒たちが捕らえられ、残酷な責め苦を受けた。のちに「五島崩れ」と呼ばれる五島におけるキリシタン弾圧のきっかけともなった出来事だそう。かれらは自らキリスト教の信仰を表明したために捕らえられたもので、12畳ほどの狭い牢に200名あまりが押し込められた。(1畳あたり17名)その狭さの中、食事はサツマイモ少々、横にもなれず排泄もその場という想像を絶する惨状だった。
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信徒たちは8ヶ月にわたりこの状況を耐え忍んだが、飢えや病、拷問のため39名が死亡し、出牢後の死者3名を加えると42名の信徒が命を落とした。
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この碑にはドミニカたせ 12才「蛆に下腹をかまれて死亡」とある。
死体も片付けられずそのままだったそうなので、沸いた蛆で・・・ということなのでしょう。悲惨すぎて言葉も出ません。 -
牢屋跡の碑。私は禁教弾圧は秀吉や江戸時代の話だと思っていたが、明治になっても迫害が続いていたとは知らなかった。
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この船で久賀島の田ノ浦港から福江島の福江港に戻った。
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五島キリシタン史について改めてまとめみたい。
五島列島は古代、遣唐使船が寄港し、交易、往来の基地として利用されていた。
中世、倭寇が横行していたが、その後将軍足利義満による日明貿易の拠点となった。
一方、西欧では羅針盤、航海技術の向上により大航海時代となり、いち早くボルトガルインドやアジアに進出し、1549年イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しキリスト教の布教を始め、1550年平戸にて布教を始めた。 -
1563年大村領主大村純忠が洗礼を受け、最初のキリシタン大名となった。1580年には長崎と茂木を寄進し多くの教会が立ち並び「小ローマ」と称されたそう。この頃、大村領民のほとんどがカトリックへ改修したそう。現在の五島のカトリック、かくれキリシタンの信徒の先祖のほとんどは、後に大村領からやって来た。
そしてザビエルが伝来して17年後1566年に五島領主、宇久純忠が息子の病気を治癒してもらうため、宣教師へ西洋医師の派遣を要請したことが、キリスト教伝来のきっかけとなり、修道士アルメイダと日本人伝道師ロレンソが来島した。
しかし1579年、五島領主の家督争いから領主がキリシタン嫌いに変わり、迫害が始まった。 -
そして1587年には豊臣秀吉によるバテレン禁止令、1612年江戸幕府による禁教令と迫害の時代に入る。
1587年、豊臣秀吉の命令によって宣教師や修道士ら26人が長崎で磔の刑に処された。1637年には島原、天草の乱が起き、幕府は一層取締りを強化し、仏寺へ強制的に所属させる寺請制度や絵踏みを実施した。出島に住まわせていたポルトガル人を追放し、鎖国へ突き進んだ。
1644年小西マンショ(小西行長の孫)の殉教により、国内には神父が不在となり、以降キリシタンは自ら信仰組織を維持し、潜伏しながら信仰を続けることになった。
五島藩では1644年キリシタンではないことを証明する「宗門改め」の徹底指示がされるなど弾圧はすすみ、「絵踏み」を実施する巡回も行われた。
踏まなければ命を奪われるという究極の選択を迫られ、絵踏みをした後コンチリサン(悔い改めのオラショ(祈り)を唱えることで良心との妥協点を見いだしていたそう。
棄教者の子孫も「切支丹類族」として扱われ生死にわたり監視された。このような政策により18世紀頃には信仰組織をふくめ、ほぼ壊滅したと考えられている。 -
五島藩では享保年間(1716~35)以降たびたび暴風、干ばつ、害虫被害による飢饉、疫病に襲われ農民が減ったり、全滅した村もあったそう。一方、大村藩では人口抑制、潜伏キリシタンの追放が課題で「千人雇い」という大村藩から五島藩への移住が行われた。最終的には3000人もの人が五島列島の各島々に移住した。移住者の多くが潜伏キリシタンだったようだ。
しかし移住した先はほとんどが山間の僻地のやせ地や漁業にも不便な海辺だったそう。 -
五島にやってきたのは大村領の外海地方(現:長崎市)からで山に囲まれた急峻地のため交通の便がわるく、監視の目が緩かったと言われ、外海の潜伏キリシタンは、神父がいた時代も巡回する機会が少なく自ら信心会(信仰組織)をつくっていた。
それゆえ信心会を基礎とした信仰組織を維持し、潜伏しながら信仰を続けることができた。
潜伏キリシタンたちは、人が亡くなれば仏僧に読経してもらうが、隣家で経取消のオラショ(祈り)をしたそう。
岸壁にマリア像が見えた。 -
1853年ペリー来航、1858年ヨーロッパ諸国との通商条約に基づいて絵踏が廃止され、外国居留民のために1862年横浜に教会が建立され、1865年長崎にも大浦天主堂が建立された。
大浦で信徒発見の奇跡となり一旦は復活を遂げたキリシタンだが、1867年浦上四番崩れ1868年牢屋の窄殉教はじめ迫害は続いた。1870年不平等条約改正に向け派遣された岩倉具視ら使節団にとって、キリスト教徒への弾圧は大きな障害だったため、1873年、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し、信仰が黙認されるようになった。
世界遺産認定には、神父不在の潜伏信仰250年が評価されたようだ。
福江島に戻り、夕食で五島牛ステーキを食べようとしたら予約満席で叶わず、お好み焼きになっちゃいました。
五島最終日は、福江島を巡ります。
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