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2021年3月30日(火)4時前、大垣城の西門から城西広場へ出る。大垣城をバックに建つのが大垣藩初代藩主戸田氏鉄(うじかね)公の騎乗姿の銅像。1994年に建てられたもの。戸田氏鉄公は江戸初期の大名で、美濃国大垣藩の初代藩主。14歳から徳川家康の近習として仕えた。<br /><br />近江膳所城主戸田一西の長男で、関ケ原の戦いに従軍。1603年に父の遺領膳所藩を継ぎ、大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹した。1616年に摂津尼崎藩5万石へ移封され、治水事業に格別の手腕を発揮。<br /><br />1635年に大垣藩の初代藩主となり、1637年の島原の乱では、寄せ手の一武将として出陣し、実戦経験の少ない幕府軍を率いて乱を鎮圧した。藩政においては新田開発や治水工事などに大きな成功を収め、大垣藩の藩政を安定に導き、文教の振興にも貢献し、美濃文化の基礎を築き、幕末までの二百三十余年に亘る大垣藩政の基礎を固めた。<br /><br />城西広場の北西にあるのが常葉神社。正確にはこの神社は大垣公園の外らしい。江戸末期の1852年に9代目藩主の戸田氏正が、初代藩主氏鉄の父、一西の250回忌の際に一西を祭神として大垣城内に創建する。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。1916年(大正5年)に氏鉄を主神として合祀し、さらに1966年、さらに2代目藩主氏信から11代目藩主氏共を合祀している。<br /><br />明治になり大垣城廃城に伴って大垣八幡神社の境内に移転し、常葉神社と改称されるが、濃尾大震災で被災したため、1902年(明治35年)に現在地で再建された。その後大垣空襲で焼失し、1950年に再建。<br /><br />創建の際に伊勢神宮神官より常葉大神と名付けられたと云うが、常葉の名前の由来は、「あらはの旗指物」からという説もある。常葉神社の社宝の旗指物であり、一西の父の氏光が家康の父の松平広忠から授かったもので、赤色の旗指物に金色の「あらは」の文字が書かれている。あらはとは、新しい葉の意味と新しい刃の意味があると云う。<br /><br />常葉神社の境内にはいくつか碑が建っているが、師騎永田正方碑と刻まれたもの以外は私には刻まれた字が読めず、何の碑か分からない。永田正方氏は大垣市史に馬術に長けた人物として記載されているらしい。<br /><br />常葉神社の西側には大垣大神宮が並んでいる。明治維新後の国家神道の教化と神宮大麻頒布のために1881年((明治14年)に伊勢神宮を勧請して神宮教第十七教区本部として創建。東日本全体の元締めとして重要な位置を占め、広大な社領を擁していた。その後、太平洋戦争で社殿は全焼し、再建されたものの境内は大幅に縮小された。1946年に大垣大神宮に改称。<br /><br />伊勢神宮の御分霊である天照大御神を主祭神として祀っている。無住神社で、大垣城の南にあった濃飛護国神社の兼帯社。<br /><br />鳥居の先の拝殿の奥に建つ本殿は高床式で、立派な造りとなっている。また、参道左手にある岩でできた手水舎は、ちょっと変わった形で、この時は出てなかったが、多分龍の口から水が出るように作られているようで珍しい。<br /><br />常葉神社の裏手に回り込むと徳吉稲荷神社がある。戦後すぐの1946年に建てられ、戦後の復興期に高砂町の芸者衆が行き帰りに参拝するなど大いに賑わったそうだ。隣に立つ楠の木は常葉神社の御神木で、高さ15m、幹回り3.2mを誇る。<br /><br />大垣公園を出て、北のJR大垣駅に向かうが途中で水門川を渡る。この川は養老鉄道の北大垣駅付近に源を発し、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、やがて揖斐川の支流である牧田川に合流しているが、元々は大垣城の外堀として整備されたもの。川の名前は江戸初期の1653年に、下流の現在東中之江川との合流地点辺りに作られた川口村水門に由来している。<br /><br />その後、大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河としても使われ、松尾芭蕉の「奥の細道」のむすびの地は大垣公園の南西の大垣船町。行ってないが、船町には奥の細道むすびの地記念館があり、大垣駅東の愛宕神社からこの記念館辺りまでの水門川沿いは2.2㎞に渡ってミニ奥の細道として遊歩道が整備されている。<br /><br />川面を見ると、川下りの舟が行く。3月下旬から4月上旬の桜の季節のみ運行されるもの。駅に近い高砂町の乗船場から船町の下船場までの約1.1㎞を約100本の桜を眺めながら下ることが出来る。機会あれば乗ってみたいものだ。<br /><br />また、GWの季節には関ケ原合戦の際に、石田三成に仕えた山田去歴の娘「おあん」が、たらいに乗って、落城する大垣城から抜け出したという戦国秘話に基ずいたたらい舟も運行されている。去年(2021年)はコロナ禍で中止だったそうだが、今年はどうだろう・・・<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7023128154423815&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />4時、大垣駅に戻り土産に季節限定の桜ういろを買って、帰路に就く(下の写真4)。一般的には外郎(ういろう)と呼ばれることの多い米粉を使った蒸し菓子。世間的には名古屋や岐阜などの銘菓のと云われることが多いが、他にも小田原市・京都市・山口市のものは知名度が高い。<br /><br />ういろうの起源については諸説あるが、この桜ういろの製造元の長良ういろでは、室町時代日本に帰化した元の国の礼部員外良職(現在の日本で云えば官房長官)の陳宗敬が訪問者にごちそうする為に自分で作ったもので、名前はその官職に由来しているそうだ。<br /><br /><br />以上で、21年春の養老・大垣観光終了

岐阜 大垣 常葉神社(Tokiwa-jinja Shrine, Ogaki, Gifu, Japan)

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2021/03/30 - 2021/03/30

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年3月30日(火)4時前、大垣城の西門から城西広場へ出る。大垣城をバックに建つのが大垣藩初代藩主戸田氏鉄(うじかね)公の騎乗姿の銅像。1994年に建てられたもの。戸田氏鉄公は江戸初期の大名で、美濃国大垣藩の初代藩主。14歳から徳川家康の近習として仕えた。

近江膳所城主戸田一西の長男で、関ケ原の戦いに従軍。1603年に父の遺領膳所藩を継ぎ、大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹した。1616年に摂津尼崎藩5万石へ移封され、治水事業に格別の手腕を発揮。

1635年に大垣藩の初代藩主となり、1637年の島原の乱では、寄せ手の一武将として出陣し、実戦経験の少ない幕府軍を率いて乱を鎮圧した。藩政においては新田開発や治水工事などに大きな成功を収め、大垣藩の藩政を安定に導き、文教の振興にも貢献し、美濃文化の基礎を築き、幕末までの二百三十余年に亘る大垣藩政の基礎を固めた。

城西広場の北西にあるのが常葉神社。正確にはこの神社は大垣公園の外らしい。江戸末期の1852年に9代目藩主の戸田氏正が、初代藩主氏鉄の父、一西の250回忌の際に一西を祭神として大垣城内に創建する。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。1916年(大正5年)に氏鉄を主神として合祀し、さらに1966年、さらに2代目藩主氏信から11代目藩主氏共を合祀している。

明治になり大垣城廃城に伴って大垣八幡神社の境内に移転し、常葉神社と改称されるが、濃尾大震災で被災したため、1902年(明治35年)に現在地で再建された。その後大垣空襲で焼失し、1950年に再建。

創建の際に伊勢神宮神官より常葉大神と名付けられたと云うが、常葉の名前の由来は、「あらはの旗指物」からという説もある。常葉神社の社宝の旗指物であり、一西の父の氏光が家康の父の松平広忠から授かったもので、赤色の旗指物に金色の「あらは」の文字が書かれている。あらはとは、新しい葉の意味と新しい刃の意味があると云う。

常葉神社の境内にはいくつか碑が建っているが、師騎永田正方碑と刻まれたもの以外は私には刻まれた字が読めず、何の碑か分からない。永田正方氏は大垣市史に馬術に長けた人物として記載されているらしい。

常葉神社の西側には大垣大神宮が並んでいる。明治維新後の国家神道の教化と神宮大麻頒布のために1881年((明治14年)に伊勢神宮を勧請して神宮教第十七教区本部として創建。東日本全体の元締めとして重要な位置を占め、広大な社領を擁していた。その後、太平洋戦争で社殿は全焼し、再建されたものの境内は大幅に縮小された。1946年に大垣大神宮に改称。

伊勢神宮の御分霊である天照大御神を主祭神として祀っている。無住神社で、大垣城の南にあった濃飛護国神社の兼帯社。

鳥居の先の拝殿の奥に建つ本殿は高床式で、立派な造りとなっている。また、参道左手にある岩でできた手水舎は、ちょっと変わった形で、この時は出てなかったが、多分龍の口から水が出るように作られているようで珍しい。

常葉神社の裏手に回り込むと徳吉稲荷神社がある。戦後すぐの1946年に建てられ、戦後の復興期に高砂町の芸者衆が行き帰りに参拝するなど大いに賑わったそうだ。隣に立つ楠の木は常葉神社の御神木で、高さ15m、幹回り3.2mを誇る。

大垣公園を出て、北のJR大垣駅に向かうが途中で水門川を渡る。この川は養老鉄道の北大垣駅付近に源を発し、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、やがて揖斐川の支流である牧田川に合流しているが、元々は大垣城の外堀として整備されたもの。川の名前は江戸初期の1653年に、下流の現在東中之江川との合流地点辺りに作られた川口村水門に由来している。

その後、大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河としても使われ、松尾芭蕉の「奥の細道」のむすびの地は大垣公園の南西の大垣船町。行ってないが、船町には奥の細道むすびの地記念館があり、大垣駅東の愛宕神社からこの記念館辺りまでの水門川沿いは2.2㎞に渡ってミニ奥の細道として遊歩道が整備されている。

川面を見ると、川下りの舟が行く。3月下旬から4月上旬の桜の季節のみ運行されるもの。駅に近い高砂町の乗船場から船町の下船場までの約1.1㎞を約100本の桜を眺めながら下ることが出来る。機会あれば乗ってみたいものだ。

また、GWの季節には関ケ原合戦の際に、石田三成に仕えた山田去歴の娘「おあん」が、たらいに乗って、落城する大垣城から抜け出したという戦国秘話に基ずいたたらい舟も運行されている。去年(2021年)はコロナ禍で中止だったそうだが、今年はどうだろう・・・
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7023128154423815&type=1&l=223fe1adec

4時、大垣駅に戻り土産に季節限定の桜ういろを買って、帰路に就く(下の写真4)。一般的には外郎(ういろう)と呼ばれることの多い米粉を使った蒸し菓子。世間的には名古屋や岐阜などの銘菓のと云われることが多いが、他にも小田原市・京都市・山口市のものは知名度が高い。

ういろうの起源については諸説あるが、この桜ういろの製造元の長良ういろでは、室町時代日本に帰化した元の国の礼部員外良職(現在の日本で云えば官房長官)の陳宗敬が訪問者にごちそうする為に自分で作ったもので、名前はその官職に由来しているそうだ。


以上で、21年春の養老・大垣観光終了

  • 写真1 師騎永田正方碑

    写真1 師騎永田正方碑

  • 写真2 不明な碑1

    写真2 不明な碑1

  • 写真3 不明な碑2

    写真3 不明な碑2

  • 写真4 桜ういろ

    写真4 桜ういろ

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