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2020年11月30日(月)13時過ぎ。醍醐寺北門から南に進み、理性院の山門の前を過ぎると醍醐寺に入る。真言宗醍醐派の総本山で、山号を醍醐山(もしくは深雪山)と称し、本尊は薬師如来。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)全体の200万坪以上を寺域とし、山上を上醍醐、裾野を下醍醐とする。豊臣秀吉による醍醐の花見が行われた地としても知られている。国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵し、古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。<br /><br />平安時代初期の874年に、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が六道に迷う衆生を救う六観音の中の准胝(じゅんでい)観音と如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山したのが起源。この時、聖宝は湧水を「醍醐味なるかな」と美味そうに飲む地主神に出会って草庵を創設し、笠取山の山頂付近を醍醐山と名付けた。醍醐は五味の一つで、牛乳を精製してつくったもので、最も美味とされ、病をなおす妙薬とされる。そのことから醍醐味とは、最高の味という意味で用いらる。<br /><br />醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、907年に上醍醐の薬師堂が建立された。さらに926年に釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立する。醍醐天皇の没後も息子の朱雀天皇・村上天皇がその意思を引き継ぎ、理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院(仁王門を抜けた先の南側にあった)、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えた。<br /><br />平安時代末には、白河上皇や源氏の帰依と共に多くの堂宇が建立され、広大なる一山は整備される。鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場としてその権威を高め、同時に多くの密教芸術を生み出す場となる。南北朝時代には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊僧正が座主となり、室町時代には3代将軍義光の黒衣の宰相と云われ重んじられた満済准后も座主を務めたが、応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなる。<br /><br />安土桃山時代になり、秀吉によって花見が醍醐寺で行われることが決まり、三宝院などが再興され1598年に「醍醐の花見」が盛大に行われた。続いて、息子の秀頼によって伽藍の整備が行われ、1600年に金堂の移築工事が完成、1605年に西大門の再建、1606年に如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が行われた。<br /><br />明治時代、廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したしたが、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けた。1939年(昭和14年)の山火事で上醍醐の経蔵、准胝堂が焼失するが、1968年に准胝堂は再建された。しかし、2008年の落雷による火災で全焼した。<br /><br />お昼を過ぎたので、参拝する前に昼食にする。総門の南側にある雨月茶屋へ。霊宝館前の入口を入ると売店、雨月恩賜館、レストランと並ぶ。雨月恩賜館は1929年(昭和4年)に宮内省より下賜され、京都御所より移築した由緒ある建物をそのまま利用しており、ここでも食事をすることが出来るが予約制。<br /><br />レストランでは名水・醍醐水と旬の素材を使った伝承の精進料理・醐山料理を食べることが出来る。精進料理に魚と松茸ご飯の季節のもみじ弁当を戴く。うまい! 2200円也。京都のGo To Eat食事券を利用。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5950412208362087&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />さていよいよ下醍醐を回るが、続く

京都 醍醐 醍醐寺(Daigoji Temple, Daigo, Kyoto, JP)

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2020/11/30 - 2020/11/30

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旅行記グループ 小野・醍醐

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月30日(月)13時過ぎ。醍醐寺北門から南に進み、理性院の山門の前を過ぎると醍醐寺に入る。真言宗醍醐派の総本山で、山号を醍醐山(もしくは深雪山)と称し、本尊は薬師如来。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)全体の200万坪以上を寺域とし、山上を上醍醐、裾野を下醍醐とする。豊臣秀吉による醍醐の花見が行われた地としても知られている。国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵し、古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。

平安時代初期の874年に、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が六道に迷う衆生を救う六観音の中の准胝(じゅんでい)観音と如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山したのが起源。この時、聖宝は湧水を「醍醐味なるかな」と美味そうに飲む地主神に出会って草庵を創設し、笠取山の山頂付近を醍醐山と名付けた。醍醐は五味の一つで、牛乳を精製してつくったもので、最も美味とされ、病をなおす妙薬とされる。そのことから醍醐味とは、最高の味という意味で用いらる。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、907年に上醍醐の薬師堂が建立された。さらに926年に釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立する。醍醐天皇の没後も息子の朱雀天皇・村上天皇がその意思を引き継ぎ、理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院(仁王門を抜けた先の南側にあった)、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えた。

平安時代末には、白河上皇や源氏の帰依と共に多くの堂宇が建立され、広大なる一山は整備される。鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場としてその権威を高め、同時に多くの密教芸術を生み出す場となる。南北朝時代には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊僧正が座主となり、室町時代には3代将軍義光の黒衣の宰相と云われ重んじられた満済准后も座主を務めたが、応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなる。

安土桃山時代になり、秀吉によって花見が醍醐寺で行われることが決まり、三宝院などが再興され1598年に「醍醐の花見」が盛大に行われた。続いて、息子の秀頼によって伽藍の整備が行われ、1600年に金堂の移築工事が完成、1605年に西大門の再建、1606年に如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が行われた。

明治時代、廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したしたが、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けた。1939年(昭和14年)の山火事で上醍醐の経蔵、准胝堂が焼失するが、1968年に准胝堂は再建された。しかし、2008年の落雷による火災で全焼した。

お昼を過ぎたので、参拝する前に昼食にする。総門の南側にある雨月茶屋へ。霊宝館前の入口を入ると売店、雨月恩賜館、レストランと並ぶ。雨月恩賜館は1929年(昭和4年)に宮内省より下賜され、京都御所より移築した由緒ある建物をそのまま利用しており、ここでも食事をすることが出来るが予約制。

レストランでは名水・醍醐水と旬の素材を使った伝承の精進料理・醐山料理を食べることが出来る。精進料理に魚と松茸ご飯の季節のもみじ弁当を戴く。うまい! 2200円也。京都のGo To Eat食事券を利用。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5950412208362087&type=1&l=223fe1adec


さていよいよ下醍醐を回るが、続く

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