2012/05/21 - 2012/05/21
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jijidarumaさん
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アウクスブルクには定番の伝説と思われる、こんな話が残っている。
Der Stoinerne Maシュトイネルネ・マ、つまり Steinerner Mannシュタイナーナー・マン、直訳すれば「石の人」)である。
その等身大の石造りの人物像はアウクスブルクの市城壁にたいへん醜い姿で立っている。
(住所:D-86152 Augsburg Schwedenweg 7)
写真はAugsburgアウクスブルク:市民の人気者Der Stoinerne Maシュトイネルネ・マ(石の人=石像)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
その場所はアウクスブルクの東部にあたり、市庁舎から北にUnterrer Grabenウンターラー・グラーベン(堀)に沿ったSchwedenstrasseシュヴェーデン通りを行くと、Sankt Galluskirche聖ガルス教会に近く、いわゆる「Schwedenstiegeシュヴェーデンシュティーゲ」(スウェーデン階段の意味)の地域にその石像を見る事が出来る(図参照)。
写真はAugsburgアウクスブルク:Schwedenstiegeシュヴェーデンシュティーゲ(スウェーデン階段)及びStoinerne Maシュトイネルネ・マの地図 -
「30年戦争にまつわる伝説:その5“アウクスブルク市民の人気者はたいへん醜い姿の「石の像」"、不思議なのだが・・・」
何やら頭上に帽子のようなものを被り、左手にパンのカケラと思われる石片(石の人だから当然だが)を持ち、鎧をつけ、右に盾のようなものが見え、片腕姿(戦乱で失ったのだろう)の石像なのだ。
不思議なことに、足下にはカタツムリ形の台座が置かれているが、この意味は分からない。
パンをこねたような形状と言えなくはないが・・・。
その石像は「Baeckerパン焼き職人Konrad Hackherコンラート・ハッカー」の武装姿を表した像だと云う。
像の鼻は人が触った形跡があって、黒く変色している。これは伝説によくあるように、人々が「鼻に触れると幸運になる」と云われているからなのだろう。
写真はAugsburgアウクスブルク:市民の人気者Der Stoinerne Maシュトイネルネ・マ(石の人=石像) -
さて、新旧のキリスト教徒の宗教戦争であった「30年戦争(1618年~48年)」の事を述べねばならない。何となれば、「シュトイネルネ・マ」の伝説はこの戦いを背景にしたものだからだ。
「30年戦争」当時、アウクスブルクは度々攻撃を受けたが、町や住民たちは何とかそれに耐えてきました。
だが、新教派のアウクスブルクにとって1634年と1635年の冬はExtremsituation極端な状況に陥ったのでした。旧教派のカトリック・バイエルン軍が冬の間ずっと包囲し、籠城戦を行い、兵や住民たちを飢えさせたのでした。
このバイエルン軍の目的は、1632年4月20日に新教派のプロテスタント・スウェーデン王Gustav II Adolfグスタフ2世アドルフの指揮下にあったスウェーデン軍にアウクスブルクを攻め落とされ、長い間占領されていたアウクスブルクを奪還することであり、それに成功した。
(尚、この時代にアウクスブルクの防衛施設の一部であるスウェーデン塔やスウェーデン階段が造られた)
この戦いで、アウクスブルクの人口の大部分が飢餓で死んだと云う。
写真はアウクスブルク:スウェーデン王Gustav II Adolfグスタフ2世アドルフのアウクスブルク侵攻図(1632年、vor den Mauern 市城壁前にこれから攻め立てようとするスウェーデン軍が見える) -
写真はグスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf)リュッツェンの戦い の絵:1632年11月16日、スウェーデン王グスタフ2世アドルフはドイツのライプツィヒ南西、リュッツェン近郊で行われたSchlacht bei Luetzenリュッツェンの戦いで戦死した。
・・・
1634年後の12年間、アウクスブルクは30年戦争の影響をそれほど受けませんでしたが、12年後の1646年9月、両者の戦いが攻守を変えて再び行われた。
新教派のスウェーデンとフランスの統一軍をスウェーデンのCarl Gustaf Wrangelカール・グスタフ・ランゲル将軍とフランス元帥Turenneテュレンヌ子爵Henri de la Tour d'Auvergneアンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュが率いて、旧教派のバイエルン軍が守るアウクスブルクに激しい砲撃をあびせ、大きな被害を出した。
アウクスブルクは再び新教派に町が占領されるものと覚悟をしていると、土壇場になって、バイエルン軍の援軍を率いたJohann von Werthヨハン・フォン・ヴェルト将軍が近づくと、スウェーデン軍はアウクスブルクの包囲・占領を断念し、撤退していった。
その後、新教派のスウェーデンとフランスの統一軍は再びバイエルンへ侵攻し、バイエルン選帝侯Maximilian I.マクシミリアン1世に和平を余儀なくさせ、翌1647年3月14日に休戦条約に署名、戦争から離脱させた。 -
アウクスブルクの伝説である「シュトイネルネ・マ」と、占領者スウェーデンに因んで呼ばれた階段「スウェーデン階段」は30年戦争当時の歴史として残る。
写真は今も残るschwedenstiegeスウェーデン階段 -
<伝説:アウクスブルクのシュトイネルネ・マ(石の人)>
パン焼き職人「コンラート・ハッカー」の伝説は以下のような話である。
30年戦争のさなか、旧教派のカトリック・バイエルン軍に攻められて、新教派のアウクスブルクが長い籠城戦に見舞われ、兵や住民たちは飢えていた。その様子を見ながら、腹の空いたコンラートは一計を案じた。
彼は鋸で木を削ってできたおがくず(Saegemehl木屑)でパンを焼き、美味そうにできたパンを持って城壁に立った。パンを攻城軍に見せつけながら、これを城壁下のGraben堀に投げ込んでみせた。
これを見ていたバイエルン軍の兵士はアウクスブルクには、なんと壁から投げ捨てるほど大量のパンがあると思ってしまった。攻城軍の兵士たちは皆士気を失い、苛立ち、激怒してコンラートめがけて矢を浴びせ射った。その一発がパン焼き職人の腕に命中したのだ。
バイエルン軍はやがてアウクスブルクの包囲を解き、撤退していった。
歴史上、この事件は30年戦争時代、正確には1634年から1635年の出来事で、カトリック・バイエルン軍がプロテスタントのスウェーデン軍に占領されていたアウクスブルクの町を包囲した際のものである。
写真はAugsburgアウクスブルク:市民の人気者はDer Stoinerne Maシュトイネルネ・マ(石の人=石像)と呼ばれている。彼の頭部の拡大。 -
伝説ではバイエルン軍はやがてアウクスブルクの包囲を解き、撤退していったと書いたが、歴史はバイエルン軍のアウクスブルク奪回が成功したものだったし、伝説に残されたパン焼き職人「コンラート・ハッカー」の働きについては、実証された歴史資料もなく、信頼できる証拠は何も遺されていない。
写真はAugsburgアウクスブルク:市民の人気者Der Stoinerne Maシュトイネルネ・マ(石の人=石像) -
この伝説に関して、1941年刊行の「Zeitschrift des historischen Vereins fuer Schwabenシュヴァーベン歴史協会雑誌」の第54号にEduard Lampartエドゥアルト・ラムパートの詳細な研究論文が掲載されており、
以下のように述べている。
【かつてPulvergaesschenプルファー小横丁とUnterer Grabenウンテラー・グラーベン(堀)に面した家の角に、元々素人が作った様な像があった。
ある時、町の土木工事の際にその像が見つかり、更に何世代が経つうちに前述の家の角に運ばれたそうだ。
この家は1810年まで「市の建築監督官」の公舎となっていた。おそらく18世紀の初めから中頃までに、建築監督官によって「シュトイネルネ・マ」(=「石の人」)の像が現在のように建てられたのだろう。
(つまり、伝説好きには残念で、面白味もないが)歴史的に裏付けのないパン焼き職人「コンラート・ハッカー」の話は、後世に考えられたものだろう推測される。】
現代の「シュトイネルネ・マ」の像は、市城壁沿いに散歩するアウクスブルクの市民に愛されていることに間違いはない。
そして、「die Nase der Steinfigur石像の鼻」に触れると幸運になると云われているので、恋人たちは好んで鼻に触れている。
写真はAugsburgアウクスブルク:市民の人気者Der Stoinerne Maシュトイネルネ・マ(石の人=石像) -
写真はAugsburg-Altstadtアウクスブルクの旧市街:発展図
(脚注の説明は下に)
A:Bischofsstadt司教(司教座が置かれた)の町・・・市の中心、
B:Obere Stadt上の町、C:Untere Stadt下の町、
D:Jakobervorstadtヤコブの町・・・中心から西に堀割を越えた一帯。中世の頃は市城壁外の地であり、後に城壁外に取り込まれた。巡礼教会のヤコブ教会がその中心にある、
E:Vorstadt“Wagenhals(向こう見ずの意味)”市城壁外の町、
注:□ 内に斜線・・・Ehemalige Romerstadtかつてのローマ時代の町とあり、斜線は対象地域のA&Cの町に引かれている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ -
写真はAugsburgアウクスブルク:1572年の町の絵・・・中央下がD:Jakobervorstadtヤコブの町になる。
参考までに:
d'Stoinerne Männer - ja woisch
https://www.youtube.com/watch?v=4PurHZceqFw -
*ドイツの伝説・民話を読むと、しばしば地域間の戦争が起こり、当時は攻城・籠城戦が多くあったようで、それに因んだ話が出て来る。
ここでは似た話である2つの伝説をあげた。お読み頂ければ幸いです。
≪クライルスハイム市長夫人の太ったお尻・Horaffensage(Crailsheim)ホラッフェン伝説≫
1379年~80年、帝国自由都市シュヴェービッシュ・ハル、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー、ディンケルスビュールの連合軍に、クライルスハイムの町は包囲され・・・。
https://4travel.jp/travelogue/10847690
写真はCrailsheimクライルスハイム市の景色 -
写真はクライルスハイムの伝説のホラッフェンと呼ばれるパン・・・2009年のバイエルン・フランケン地方の旅で城塞都市Wolframs-Eschenbachヴォルフラムス・エッシェンバッハから、南西L?21kmにあるSommerdorfゾンマードルフの村に入った。ここに典型的な水城がある。
訪ねてみると、嬉しい事に城主殿が出てきて、親切に城内を案内してくれた。
Dr. Manfred Frhr. von Crailsheim(男爵マンフレッド・クライルスハイム博士)の名刺も頂いたのをきっかけで、気になった城主の出自を調べたくなった次第。
この城主の出自であるCrailsheimクライルスハイムはバーデン・ヴュルテンベルク州のシュヴェービッシュ・ハル行政区に入り、 Schwaebisch Hallシュヴェービッシュ・ハルから東に約32km、北バイエルンのAnsbachアンスバッハの南西約40kmに位置する。人口3万人の小都市で、調べてみるとこんな伝説があった。 -
≪“麺(めん)”の異名が付いた町Kuppenheimクッペンハイム≫
クッペンハイムは30年戦争でスウェーデン王Gustav Adolfグスタフ・アドルフが指揮するスウェーデン軍(新教徒派)によって包囲され・・・。
https://4travel.jp/travelogue/11023104
写真はKuppenheimクッペンハイムの地図・・・ドイツ南西部のKuppenheimクッペンハイム(Rastattラシュタットの東南)は黒い森の北部に位置し、Murgムルグ川の下流沿いにある人口8千人の小さな町で、言わば村といった規模である。 -
写真はKuppenheimクッペンハイム:市城壁とOchsengrabenオクセングラーベン(雄牛の堀)が残る。
-
写真はSpaetzle(シュペッツレ)自家製Knoepfleクネプフレ・・・クネプフレとはシュペッツレと同じ言葉で、いわゆる当地の“麺(めん)”である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
尚、フォロー仲間のbeachさんがお書きになったドイツのクリスマス連載で、
ドイツ 2018クリスマスマーケットの旅(アウクスブルク)でDer Stoinerne Maの写真と伝説(抜粋)を見て、伝説好きですから、調べてみる気が出来ました。
2012年の私の旅にかこつけて、別稿のように纏めてみました。
beachさん、きっかけを頂きありがとうございました。
ご参考にbeachさんの該当旅行記を御紹介いたします。
https://4travel.jp/travelogue/11460217
(2021年5月26日Wiki参照・訳、編集加筆)
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この旅行記へのコメント (4)
-
- M-koku1さん 2021/05/31 15:19:14
- 変な歌ですね・・・
- jijidarumaさん
パン焼き職人の石像も無様ですが、それをまねしてアップされたyoutubeの ja woisch! 意味が分からないのですが、「うるさい」という意味ですか? 変な歌ですね。 きっとドイツ語が分かるjijidarumaさんには 面白い歌詞なのかもしれませんね。
30年戦争当たりのドイツの歴史は、本当に複雑ですね。
一度頭に入ったと思っても、すぐにわからなくなってしまいます。(年のせいでしょうね。)
パンを捨てて、相手をあきらめさせた戦略は、 ちょっと「のぼうの城」で城主が湖上に船を浮かべて、のんびり能を舞った故事と共通性があるような気がしました。
どこの国でも やることは一緒なんですね。
ワクチン接種一回目がおすみになったんですね。
私は6月の予約を取りました。打ちたくないなあと思いながら、なるべく先の予約を!
(悪あがきですね。)
10キロは遠かったですね。区は小さいので、どんなに遠くてもたいした距離ではありませんが、近くのスポーツセンター会場に取ることができました。予約可能日は選り取り見取りだったので、ニュースで予約が取れない人々がいることが不思議で仕方なかったです。自治体によってずいぶん対応が違うようですね。
お互いにスムーズにワクチンが受けられる自治体に住んでいて、良かったですね。
「だるさ」 覚悟して内に行きます。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2021/06/01 02:41:05
- Re: 変な歌ですね・・・
- M-koku1さん、
今晩は。いつもありがとうございます。
ご指摘のyoutubeの ja woisch! は私も分かりません(苦笑)。
変な歌のリズム、登場人物の姿などを楽しむだけですよ。
アウクスブルクはSchwabenシュヴァーベン地方の中心都市ですが、
「ja woisch!」はどうもシュヴァーベン語(元はアルマン語系)らしく、
標準ドイツ語辞書には出てきませんが、シュヴァーベン語の
woisch?=>標準語のwissenヴィッセン(知っているの意味)
ではないかと。・・・「ja woisch!」「やー、あんた知ってるかい!」
youtubeの下にある説明分の最初を意訳すれば、
Alter Schwede, is des pfundig: d'Stoinerne Maenner、
かつてのスウエーデン人(=親友の意味も)は大した奴だよ!
シュトイネルネ・マン(「石の人」)は・・・。
といった次第で、やや苦しまぎれですが、ご容赦を!
尚、beachさんが書かれていた1987年のヒット曲のDesireless「Voyage,voyage」は次のようなものです。
https://www.youtube.com/watch?v=sM2ZhByFcDk
30年戦争の歴史はおっしゃるように、いつも途中で混乱します。
それにしても各地に様々な伝説を残しています。
Mさんはワクチン接種一回目の予約ができた由、やはり付いている部類に
入るのではないでしょうか。
隣家の奥様も、かつて住んだ事がある柏の友人夫妻も糖尿病などの
既往症があるので、ワクチン接種は諦めていると聞きますよ。
それではまた。
jijidaruma
-
- beachさん 2021/05/27 21:10:33
- Der Stoinerne Ma !!
- jijidarumaさん
ご無沙汰しております。
如何お過ごしでしょうか。お元気そうでなによりです(^^)
私の拙い旅行記をお取り上げ頂きありがとうございます!
「Der Stoinerne Ma」伝説記事、大変興味深く拝見いたしました。
何度見てもやはり見た目は酷いですよね…。英雄ともあれ黒い鼻が不格好というか…。
特にYoutubeでご紹介いただいた「ja woisch」面白いですね~!
80年代ヒット曲のDesireless「Voyage,voyage」のカバーでアウクスブルクへのオマージュ作品のようですが、やる気が感じられないトーンとユニークで奇妙なD'Stoinerne Maennerが何とも癖になる(笑)。
ドイツではようやく先週あたりから感染者数が減ってきており規制緩和も進んできましたが、ここ暫くは非常に厳しいロックダウンだったため、通常の生活を取り戻すのも一苦労です…。何をするにもコロナ陰性証明(24時間有効)が必須のため、1日の始まりがコロナテスト会場ということも多々です…。
ドイツにいても旅行のある生活からは離れてしまい、少々気持ちが沈んでいましたが、jijidarumaさんの記事を読んで、またドイツを回りたいなと思いました。ありがとうござます(^^)
どうぞjijidarumaさんもお身体にはお気をつけてお過ごしください。
それではまた(*^^)v
beach
- jijidarumaさん からの返信 2021/05/28 01:02:23
- Re: Der Stoinerne Ma !!
- beachさん、
今晩は。早速のコメントありがとうございました。
2012年の旅にかこつけて、漸く宿題を果たしたような気分です(笑)。
これでまたドイツの伝説集に1つ加わったわけです。
「ja woisch」も気に入って頂けたようで、我が意を得た気がします。
それにしても良く飲むな!。
これを見ていると、Der Stoinerne Ma !!がアウクスブルクの市民達に溶け込んでいて、クリスマス市にお出ましになるのも当然ですね。
さて、ドイツもコロナ禍もやや改善中、結構なことですが、日本からドイツに行くにはまだまだハードルが高いように思います。
ワクチン接種はされたのでしょうか?
ワクチン接種と言えば、当市は4月26日、8時半きっかりファイザーのワクチン接種申し込みが開始されました。
方法は電話とWebの申し込みで、高齢者数が多いから、私共もまず無理だと思いながら、パソコン2画面と電話で午前8時半の開始時間に申し込みしました。
予想通り、いずれも申し込みが殺到してつながらず、パンク状態の為、直ぐ断念しました。
その日の午後になって、その状況に変化有りや?と、試しにWebでトライしてみると、なんとこれがつながり、予定の場所ではなかったのですが、 自宅から10㎞の距離の場所で5月21日(金)14時集合、夫婦二人分が同一場所、同一日時で、第一回の予約が完了しました。
第二回目は一回目の接種が終わった段階で、優先的に6月11日(金)の
同じ場所で予約も出来ることになっていました。
5月21日は所要時間が凡そ一時間、体温確認、事前質問書の提出と医師の内容確認、そしてワクチン接種(チクッとした軽い痛み)、その後の経過観察、接種完了票添付、最後に第二回目の予約完了と、予想以上にスムーズに進みました。
この会場としては最初の日、約300名が接種予定と聞きました。
搭乗業務のないANAの若いCAが事務手続きなどを手伝っていました。
接種は15時に完了、車で直ぐに帰宅し、お茶を飲んでゆっくりしましたが、
夕刻頃に接種した左の腕がやや重く感じてきて、上下に上げ下げすると
筋肉痛を感じました。翌日から3日ぐらいは、何となくだるく、筋肉痛も
ありました。発熱、頭通は特にありませんでした。
夫婦二人とも出て来たのは似た症状です。
(二回目の接種の方が、症状は顕著に出るとか、いずれにせよ体にとって、
異物が入るわけですから、何らかの反応が出ても当たり前でしょう)
以上は最近の出来事です。
beachさんのご両親も似たような事になっているのでしょうが、何事もなく接種が完了されますように・・・。
それでは良い季節のドイツ生活をお楽しみください。ではまた。
jijidaruma
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