2019/09/21 - 2019/09/21
14220位(同エリア43918件中)
su3さん
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バスに乗って京都の町をウロウロします。
お洒落カフェや文化や歴史を感じる場所がたくさんあって時間が足りないなと思いながらの旅でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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バスに揺られて暫くすると、堀川今出川に到着。
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何だかおしゃれなお店があるぞ。
tubara cafe グルメ・レストラン
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ふらっと入ってみると、tubara cafeという白を基調とした北欧風のお洒落な店でした。
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鶴屋吉信の和菓子を気軽に楽しめるカフェなんだそうです。
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これは美味しそう。
生のつばらつばらという和菓子だそうです。持ち帰りでいくつかいただきましょうか。 -
こちらの席でお待ちくださいね。と案内されて待っていたところ、レモン入りのお水をいただきました。こういうの嬉しいですね。
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持ち帰りだったのでここではいただきませんでしたが、注文してから作ってくれているようで、出来立てがいただけるというのは良いですね。商品を受け取ってウキウキでお店を出ます。
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tubaracafeのお隣の店は鶴屋吉信本店。
鶴屋吉信 グルメ・レストラン
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1803年創業老舗の和菓子屋で、先ほど購入した「つばらつばら」や「京観世」が有名だそうです。ちなみにつばらつばらの名前の由来になっているのは、大伴旅人が万葉集で歌った「浅芽原つばらつばらにもの思へば故りにし郷し思ほゆるかも」からきているんだとか。
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1992年に建てられた町家様式を生かした数寄屋建築は、景観に配慮した建築との評価で京都市都市景観賞を受賞しているんだそうです。
鶴屋吉信 グルメ・レストラン
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2階には喫茶室がありました。ただ喫茶できるだけでなく、カウンターで職人さんが練り切りを目の前で作ってくれる実演もしてくれるそうです。
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道路を渡って反対側に進むとたこ焼き屋がありました。
そういえば、ちゃんと昼食を食べてないな…京都のたこ焼きはどんな感じなんだろうと入ってみることにしました。京都たこ壱 堀川今出川店 グルメ・レストラン
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店内はそれほど広くないですがちゃんと座るところもありますね。
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へんこ焼って何だろうと見てみたら、ソースのかかっていないたこ焼きなんだそうです。面白そうなのでそちらを注文。
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へんこ焼きだけ注文して待っていたら、まさかのジョッキで水が出てきました。
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外はパリッと、中はしっとり熱々。ごま油で食べるへんこ焼きはサクラエビとだしの味がじんわりします。これは美味しい。たっぷりのネギも嬉しいです。
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お腹も満たされたので次の目的地である西陣織会館に向かいます。
西陣織会館 美術館・博物館
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中に入ってみましょう。
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ホールには西陣織の製品がずらり。
海外からの団体客がたくさんいらっしゃっていました。 -
西陣織のネクタイがずらり。有名どころのデザインネクタイが並んでいますね。
ネクタイを展示してあるだけでなく、ネクタイの作り方が潤を追って説明されていたり、ネクタイの起源、日本におけるネクタイの沿革なども紹介してありました。ネクタイは2世紀頃からあるそうですね。ローマ時代の東ヨーロッパでは防寒のため首に「フォーカル」という布を巻いており、それにはお守りの意味合いもありました。首に布を巻く習慣は、後にバルカン半島を占領した蛮族に受け継がれます。時代が下って、バルカン半島のクロアチア出身の傭兵がしていた首元の布を装いを気に入ったルイ14世が「クラバット」としてヨーロッパに再び広めました。現在の形のネクタイが生みだされたのは、それから200年後のビクトリア朝時代。英国紳士たちがクラバットのデザインを改良してシンプルにしたそうです。更に時代が進むと、スーツスタイルの中で他人と差別化できるポイントとして、イギリスのみならず世界中で広く使われるようになりました。
日本では鎖国前からネクタイ姿の西洋人との接触があり、ネクタイの存在は知られていたようですが、実際には1851年にジョン万次郎がアメリカから日本に帰国する時、持ち帰ってきたことによって広まり、1884年に帽子商の小山梅吉によって初の国産蝶ネクタイがつくられたそうです。現在主流となっている、細長いネクタイが取り入れられたのは大正時代なんだとか。 -
「西陣」とは、京都の中心部より北西部にあり、上京区・北区を中心としたエリアを指します。この辺りは西陣織に携わる職人の工房が多くあり、古くから織物の産地として名を馳せてきました。
西陣織の源流は、5・6世紀頃、朝鮮渡来の秦氏がはじめたと言われています。平安時代には宮廷御用の織部司として発展していきます。また「西陣織」の名前は、応仁の乱で堺や山口などに避難した織手たちが、大陸伝来の高機技術を取り入れ、紋織技術を習得し、戻ってきて機織りを再開したのが西軍の陣の後だったことに由来しているそうです。以来、この付近で織られるものは全て西陣織と呼ばれるようになりました。江戸末期頃からは色々な要因で需要が減少し苦境に立たされることもあったようですが、文明開化のチャンスにいち早く呼応して近代化に成功し、その後も技術進化と意匠の洗練や幅広い用途開発を続け、現在まで続いているそうです。 -
西陣織は、多彩な色糸による色彩美、精密に織り上げる文様美が魅力の日本を代表する絹織物です。多品種少量生産方式、高度に発達した分業体制で、先染紋織物を作り出していることが西陣織の特色になります。
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西陣織の生産には、企画製紋工程、原料準備工程、機準備工程、製織工程、仕上げ工程の五段階で、15~20以上の細かい工程があります。こちらでは西陣織ができるまでの工程が写真付きで主な12工程が説明されていました。
一番最初は図案制作。先染めの紋織物である西陣織にとって一番重要な工程です。伝統的なデザインに新しい感覚をプラスして描いているそうです。それを方眼紙に図案を拡大して写しとり、どのような組織で織るかを方眼紙に塗り分けます。所謂、織物の設計図で紋意匠図といいます。 -
その後は紋意匠図に基づいて、縦33cm、横4.5cm位の短冊型の紋紙にピアノ式紋彫機を使って、経糸の上げ下げを指令する穴をあける紋彫りという作業が続きます。現在では紋意匠図以降の工程をコンピュータグラフィックスにより製紋しているそうです。
撚糸は細い何本かの糸を合わせて糸の太さを調節したり、糸に特別な撚りをかけたりしてさまざまな風合いの西陣織に使う糸を作る工程になります。 -
先染めの紋織物である西陣織にとって、図案とともに重要な工程のひとつが糸染めです。織元の指定通りの色に染め上げなければならず、生糸などは手染めだそうです。
染色された糸はカセの状態になっているため、糸枠に巻き取る糸繰りを行うことで整経や緯巻の工程で扱いやすいようにします。 -
西陣織の織物は少ないもので3千本、多いものでは8千本もの経糸が使われているそうで、その必要な長さと本数の経糸を準備するのが整経です。100前後の糸枠から出た糸をドラムに巻き付けていきます。
織物を織るには、緯糸が通る杼道をあけるため、経糸を引き上げなければなりません。その引き上げにはジャカードの指令に基づいて、経糸を引き上げる綜絖という装置があり、例えば5000本の経糸を使う場合は5000の綜絖が必要になります。手先の器用さと根気と技術が必要な作業です。 -
製織工程は三種類があります。
まずは綴機。ジャカードの作用によらず、独特の爪掻きで文様を表現していく織り方です。西陣織の中でも最も出されて、歴史のある手法のひとつです。
次に手機。金襴や帯の高級品のように独特の風合いのある織物を織るときに行われます。ジャカードを使うという点で綴機と区別するんだそうです。 -
力織機は機械動力式の織機ですね。手機より早く織れ、同じ力で織り続けるので均一な織上りに出来るんですが、緯糸に使える色数に制限があり、裏にたくさん糸が渡ってしまうので仕上がりが重くなってしまうとか。
仕上げ工程では整理加工と言って、お召などのように織り上がった後で蒸気の中を通して、独特の風合いを出す整理加工の工程を通るものもあるそうです。 -
会館端の小部屋に入ると蚕について、繭から生糸ができるまで、絹利用について、織り機についてがパネルやジオラマ展示などで紹介されていました。
繭1つあたり1300mもの絹糸が取れるんですね。また絹利用についても、衣類や美術工芸品だけではなく、化粧品、医療器材、工業用品、インテリア、食品、整髪料、寝具などに使われている他、固定化剤、宇宙食への研究なども行われているそうです。思っていた以上に用途があるんですね。 -
4、5齢の蚕に平飼いで桑をたくさん与えている壮蚕飼育の写真と、食桑をやめて糸を吐きはじめた熟蚕に繭をつくる場所を与える上蔟が写真で紹介されていました。蚕は餌が無くても逃げることはないので密封する必要はありませんが、齢にあわせた気温や湿度の管理が必要だそうです。
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部屋の中心には繭を使ってつくられた動物たち。
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こちらは卵が孵化するところから繭を作るまでの蚕の成長がひと目でわかる模型。お隣の水槽の中には実際に蚕が飼われていました。
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こちらは座繰りの実演。この時は誰もいなかったので実演放されていませんでしたが、行うことは大体わかりますね。
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水振機は座繰りで紡いでできた糸枠や管に巻いた糸を綛になおす道具。
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我々が目にしている蚕の糸は精錬度合いで呼び名が変わります。生糸と絹糸です。
繭糸は主にフィブロインとセリシンの2つのタンパク質から構成されており、セリシンがフィブロインを覆うことで繭を強化・保護しています。セシリンが多いかどうかで、手触りが変わってくるのですが、こちらには生糸と絹糸以外にも蚕が最初に吐き出す「きびそ」という糸がありました。 繭の一番外側の部分でよりセリシンがおおいんだそうです。
ちなみに最近ではこの「きびそ」が注目されているそうで、水溶性の蛋白質セリシンを豊富に含み、シルクの持つ抗菌性、吸湿性、高難燃性、UVカット、抗酸化作用などの特性をすべて備えているため、スキンケア商品の成分として活用されているそうです。 -
生糸から絹糸にするには重曹を入れたお湯で煮てセリシンを溶かします。この工程は精錬といい、織物の特性によりこの度合いは変えられるそうです。
ほとんどフィブロインにした糸で染色は行われます。 -
蚕の繭を煮た物を手作業で一つずつ厚さにムラが出ないよう丁寧に引き伸ばしたものが真綿です。軽くて柔らかく、吸湿性や放湿性に優れていると同時に保温性も優れています。四角い木枠にひっかけて延ばし、角型に成形してから外して乾燥させたものが角真綿、袋状になったものを指にひっかけて引き延ばし、乾燥させたものが袋真綿。
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こちらは織機。
ベーシックな足踏み式織機ですね。 -
空引機の模型。
日本においても古くから伝えられた織機で、錦や綾を織ったことから錦機や綾機ともいわれました。普通の高機の上部に空引装置をとりつけ、そこに空引工が座り、下で地織りを織る職工と共同して文様に従って経糸の開口を操作して複雑な文様を織り出す構造となっています。明治時代に「ジャカード織機」が輸入されるまではこちらが一般的でした。 -
こちらは手織機の模型。
ジャカードが備わった織機はフランスのジャカールが発明し、明治5年には日本からリヨンに派遣された西陣の織工が、京都部の命により持ち帰ってきたそうです。 -
ジャカードは、織機の一番上にある部分で、紋紙に開けられた穴の指示を読み取る装置です。この主要部は竪針と横針で成り立っており、横針で読んだ紋紙の指示を竪針に伝え、この竪針によって経糸を上下します。
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要予約で着物体験ができるとは聞いていましたが、十二単、束帯、舞妓、芸妓の衣装をヘアメイク・記念写真付で着ることができるというのは珍しい。もちろん小紋や浴衣の着付けもあるみたいです。
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ホール横のエスカレーターで二階に登ってみます。
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二階から見たホールもなかなか素敵ですね。
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二階にも西陣織の製品が並べられていました。
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奥に進むと手織機の実物展示。大きいな。
昔はこの手機の上に設置された空引装置に空引工が座って操作しながら下の職工と共に複雑な文様を織っていたんだと思うと、よりすごいなという気持ちが湧きますね。こちらではジャカードを使い実際に西陣織の袋帯を織っている途中だったようですが、実演はなされていませんでした。 -
こちらは図案を作っているところ。
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綴機もありました。
こちらでは爪掻というノコギリの歯のようにギザギザに刻んだ爪で緯糸を掻きよせて織る高度な技法の実演をしてくださるようですが、この時は行われていませんでした。残念。 -
三階では衣裳、裂地など、西陣織の史料が展示されていました。国産第1号機の木製ジャカード機や明治5年のフランスへの留学と織機買入への出張命令書などをみることができました。企画展では羅、絽、紗の順で難しい綟り織りの夏織物がずらり。美しい。
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廊下にはずらりと伝統工芸品として指定を受けた12種類の品種が並んでいました。
こちらは綴と経錦。
平織を応用した綴織は爪をノコギリの歯のようにギザギザにきざんで、紋様の部分部分に織り込んでゆくといったこまかい織り方で、経錦は文字通り色糸を用いた経糸によって、地の文様が織り出される織り方をします。
ちなみに錦とは種々の彩糸を駆使して紋様を織り出した織物の総称であり、織物の中では最も華麗なものの代名詞になっています。 -
こちらは 緯錦と緞子。
緯錦は紋様表出にだけ必要な色糸の緯糸を用いて文様を織り出したものです。
緞子は繻子織という経緯の組織点が少なく摩擦か少ないため艶がでる織り方の中でも、経糸と緯糸が各五本ずつのものつまり五枚繻子の表裏の組織をそれぞれ地あるいは紋に用いたものが緞子といわれるそうです。緞子は古くは主として男子の料であって、女子の衣服や帯に用いられるようになったのは元禄前後からのことだとか。 -
こちらは朱珍と紹巴。
朱珍は繻子織の一種で繻珍とも言います。昔の書物では繻子は八糸緞、朱珍には七糸緞あるいは七彩という字を当てているそうで、唐音語「七糸緞」の略ともいわれています。同じ繻子織の緞子と異なる点は地上げ紋がないということです。
経緯ともに強撚糸を用い、細かい横の杉綾状又は山形状の地紋がある紹巴は、厚みがないので昔は羽織裏としての利用が多かったようです。千利休の弟子、里村紹把が所持していたところから、この名がついたといわれます。 -
こちらは風通と綟り織。
風通は多層織物の代表といわれるもので、二重、三重織で、上下あるいは、上中下のそれぞれ色の異なった織り方を交互に表面に出して模様を表します。「二色風通」と呼ばれるものは、裏と表で反対の色を出すことができる織物です。
綟り織は隣同士の経糸が絡み合って隙間を作っており、編み物のようであると言われています。製織の際には、地綜絖のほかに、綟り綜絖といわれる特殊な綜絖が必要です。別名・搦み織ともいわれ、紗・羅・絽などがあります。 -
こちらは本しぼ織りとビロード。
本しぼ織りでは精錬後染色した絹糸を使用し、その糸を引き揃えた後、下撚りをかけさらに糊をつけ、その糊が乾く前に撚りをかけていきます。二越ずつ右撚り・左撚りを交互に行ったのち、ぬるま湯の中でもみ出し、糸の撚り具合で織物の表面に表れたしわのような凹凸の「しぼ」を出すという織り方です。
ビロードはなめらかな光沢感と柔らかな手触りが特徴の織物です。西陣で織られるビロードは輪奈や羽毛を表現するため、針金を織り込み後でその部分の経糸をカットし羽毛を作り出したり、針金を引き抜いてループを作る有線ビロードという技法が使われています。 -
こちらは絣織と紬。
全国各地でも織られている絣織は、素朴な印象が強い絣ですが、西陣織の絣はお召の矢絣など、キリリとした印象の織物に用いられていたのが特色。基本的にはたて糸とよこ糸を部分的に防染して平組織に織り上げて何らかの紋様をあらわしたものが多いですが、繻子織で織られるものもあるそうです。
紬は真綿を経糸・緯糸に用いた平織りの織物のことで、こちらも各地で織られていますね。真綿から手紡で糸を製する方法から簡単でかつ丈夫な糸が得られ、屑まゆも利用できるので養蚕地帯では自家用織物として盛んに制作されました。西陣の紬は縫い取りの文様を表現するなど都会的な紬で「都ぶり」と名がついています。 -
三階のステージ部屋に訪れると丁度きものショーが開催されていました。10分程度のショーでしたが外国からのお客さん達は大興奮。
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西陣織文化を堪能しまくったので、大きく西陣と刻まれた石碑を横目に会館を後にします。
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西陣織会館から少し歩くと清明神社がありました。
晴明神社 寺・神社・教会
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一の鳥居の扁額が社紋の晴明桔梗ですね。晴明桔梗は五芒星ともセーマンとも呼ばれ、魔除けや災害避けの祈祷呪符のひとつです。天地五行の象徴でもあります。
境内に入ってみましょうか。 -
794年の平安遷都とともに一条通の堀川に架けられたと伝えられる一条戻橋。当時の一条戻橋は平安京最北の一条通にあることから、橋の向こう側は異界とされていたとか。ここには先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、一条戻橋が再現されていました。
戻橋の名の由来は、918年に文章博士三善清行の息子・浄蔵が熊野参詣の帰路、この橋で父の葬儀に出会い、浄蔵が嘆き悲しみ、棺にすがって神仏に祈ると、清行は蘇生したという所からだそうです。 -
一条戻橋は安倍晴明公が式神として使役していた十二神将をこの橋の下に呪し置いて隠していたともされ、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても有名です。切り落とした腕の処置に困って安倍晴明に相談したとも言われています。再現された一条戻橋の傍らには、式神の石像が置かれていました。
ちなみに、一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、現在も晴明神社から南へ100メートルのところにある堀川に架かっています。現在でも「戻る」を嫌って嫁入りや葬式の列は、この橋を渡らないの習わしが残っています。 -
一条戻橋の奥には日柱と、
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月柱。
南に日、北に月を配して陰陽を表しているそうです。石柱はかつて四神門の門柱として使われていたものだとか。 -
道を挟んで二の鳥居。こちらの扁額は清明社の文字。
二の鳥居をくぐって直ぐに見えるのが四神門です。 -
晴明が住んでいた頃、朝廷の使いなどが訪れると、この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそうです。現在でも、それにちなみ、電動で開閉するようにしているとか。石柱の上には、四神が掲げられていました。
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まずは手水舎で手と口を清めましょうか。
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手水鉢の中心に桔梗がありました。晴明桔梗印がこんなところにも。
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明治38年建立の清明公を祀る本殿に向かいましょう。
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本殿横には稀代の陰陽師として名を馳せた安倍晴明の像がありました。この像は神社が所蔵する安倍晴明公の肖像画を元に作成されているそうです。足だけたくさん撫でられたのか、テカテカしてますね。
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本殿左の壁には顕彰版がずらり。
顕彰板には数多くある晴明公の伝説の中から、代表的な10の逸話が紹介されています。 -
母親が狐だとする説、少年時代に下京の町を歩いていて師匠より先に百鬼夜行に気づいて難を逃れた話、蘆屋道満との術くらべで箱に入った柑子をすべて鼠に変えた話、占いで花山天皇の頭痛の原因を突き止めた話、草の葉を投げてカエルを潰す話、占いで道に呪いのものが埋めてあることを突き止める話、一条戻橋の下に式神を隠していた話などが絵付きで紹介されていました。
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清明像から参道を挟んだ反対側には、テカテカ光る厄除桃。
古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれており、厄年の方に限らず自身の厄をこの桃に撫でつけて下さい、と書いてあったので思いっきり厄を撫でつけてきました。 -
厄除桃の背後、本殿の右横には倉稲魂命の他に二柱を祀る斎稲荷社がありました。清明は稲荷神の分霊との伝えもあるようで、齋という言葉がついているは、このお稲荷さまが齋院にあったことに由来しているそうです。
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御神木の楠。
樹齢は推定300年だそうです。楠はかつて虫除けの樟脳の原料としていた木です。 -
木の周りには台が設置されており、樹皮に触れると独特の感覚があるので両手をあててみて、とされていたので手を当ててみました。思っていたよりつるりとしているかな。
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境内には桔梗がたくさん植えられていました。
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桔梗の形って面白いですよね。境内には顕彰板近くにあった桔梗苑のものも含めて2000株の桔梗が植えられているそうです。
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清明祭が執り行われるため絵馬舎には神輿やお供えがずらり。
明後日に行われる神幸祭では、少年鼓笛隊を先頭に約500人もの列が西陣地区を練り歩き、菊鉾、扇鉾、獅子、御神宝、飾馬等に晴風稚児、八乙女、四神稚児などが列をなすそうです。 -
泣不動縁起絵巻にある、晴明公が登場する一場面を西陣織の技術で織り込んだ大きな絵馬が奥に見えますね。この時は台風が接近していたため祭礼飾りつけを縮小して行っていました。
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明日の夜に行われる予定の宵宮祭では、迎え提灯のお練り歩きや湯立神楽の奉納があるようです。
釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占ったりするあれですよね。 -
こちらは晴明公が念力により湧出させた井戸。晴明井と呼ばれ、病気平癒のご利益があるとされ、湧き出す水は現在でも飲んでOKなんだそうです。
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水の湧き出るところはその歳の恵方を向いており、立春の日にその向きを変えています。卯の方向が恵方ですね。
この場所は元々清明の住んでいた場所ですが、時代が下ると千利休の家があった場所でもあるため、利休はこの晴明井の水で最後のお茶をたてたとか。 -
井戸の前には. 北斗七星をかたどった石が配列されていました。北斗七星は反閇と呼ばれる陰陽道で用いられる呪術的歩行の足跡を表しており、この形に添って歩み場を浄化するという意味があるようです。
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ふと足元を見るとこんなところに陰陽太極図。
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二の鳥居を出て、道を渡ってすぐの場所には桔梗庵という売店がありました。こちら桔梗庵では参拝記念品やお土産を販売しています。厨二心がくすぐられるものもいくつかありますねぇ。
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参拝も終わったので境内から出ましょうか。
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清明神社を後にしたら、バス停に向かいます。
少しするとバスが来たので乗り込み、次の目的地へ。 -
バスに揺られて着いた先は南禅寺・永観堂道。
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永観堂に向かう途中にあった、店の佇まいがとてもよく暖簾が素敵な、ふさ・ひも工房なかお宗。
創業135年の歴史ある房紐店で小さな店内に素敵な商品がたくさんありました。飾り結び体験教室もおこなっているそうです。京都の伝統工芸である飾り結びが体験できるのは魅力的ですね。 -
永観堂に到着。
永観堂の通称で知られる禅林寺は平安時代に弘法大師空海の弟子である真紹僧都が開いた寺院です。真紹が853年に貴族・文人の藤原関雄が山荘を構えていた地を購入し、10年後の863年に清和天皇から許可を得て正式に禅林寺となりました。中世には応仁の乱で伽藍を焼失するもその後も順調に復興。現在は浄土宗西山禅林寺派の総本山という大寺院です。永観堂 (禅林寺) 寺・神社・教会
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総門をくぐって中に入りましょうか。
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紅葉に囲まれた広い道を真っ直ぐに歩いていきます。
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智福院の壁に何かありますね。
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幼稚園のポスターでした。
いろいろ教えてもらえそう。 -
禅林寺が『秋は紅葉の永観堂』と言われるほど昔から紅葉の名所と名高いのは、この藤原関雄が古今和歌集で紅葉に関する詩を詠んでいるためだそうです。
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中門が見えてきました。
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緑のもみじに囲まれて雰囲気が有りますね。
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到着したものの拝観時間を過ぎてしまっていて入れませんでした。残念。
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しまったばかりだったため、庭園内にはお客さんがちらほら。
秋の永観堂はきっとすごいだろうなという外からの眺め。 -
気持ちを切り替えて次は南禅寺に行きましょうか。
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永観堂から南禅寺までの道の途中で野村美術館がありました。野村證券や旧大和銀行などの創業者である野村徳七のコレクションが展示されているんですっけ。
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南禅寺と永観堂を隔てるように建つ大寂門までやってきました。
大寂門は南禅寺北門になります。 -
大寂門を通らず、紋の手前にあるこちらの道から南禅寺に向かいましょう。
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南禅寺の龍渕閣に行けるようですね。
南禅寺 寺・神社・教会
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なかなか素敵な小路。
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建物が見えてきました。
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龍渕閣に到着。
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門は締まっていましたが看板に坐禅会場と記されていました。
暁天坐禅会や南禅寺文化講座などの行事をおこなう施設だそうです。 -
さらに奥に進みます。
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先に進むと方丈庭園があるようですね。
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唐破風の大玄関が見えてきましたね。
この大玄関は特別な行事の時にしか使われないそうです。 -
本坊に到着。こちらから方丈庭園を拝観することができるようです。
拝観時間内につきましたが、せっかくの小堀遠州の庭なのに拝観する時間的に少ししか見れないことが分かりこちらも拝観しないことになりました。 -
南禅寺本坊より更に奥に向かいましょうか。
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木々の間から目的のものが見えてきました。
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南禅寺水路閣に到着。
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水路閣は全長が93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m。レンガと花崗岩で作られ、今も現役の枝線水路です。
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1888年に田辺朔郎の設計デザインにより造られた水路閣は琵琶湖疏水の一部。13の橋脚が作り出すアーチの連続が素敵ですね。
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水路閣を通る琵琶湖疏水の枝線水路は、本流から蹴上で分岐し、大文字山の山麓に沿って南禅寺、若王子、高野、下鴨、堀川と流れてきています。水力発電、かんがい、防火が主な目的の用水で、疎水が南禅寺の境内を通るため、その景勝を損なわないように水路閣は設計されたとか。
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水路閣アーチにの下にはさらにアーチ。こちらを除くとずらりと奥行きのあるアーチ群が見えてとても面白いんですが、浴衣を着た人達ががたくさんいて写真を撮っていたので迂闊に覗けませんでした。
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赤レンガと花崗岩でつくられたアーチ形の水路閣はどこかローマの水道橋のような雰囲気もありますね。
南禅寺水路閣は経済産業省から「京都における産業の近代化の歩みを物語る琵琶湖疏水などの近代化産業遺産群」とする近代化遺産に認定、さらに国の史跡となっています。 -
水路閣横の坂道を登っていきましょう。
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まだ青紅葉の景色なんですが、それでも水路閣とのコントラストが素敵です。
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琵琶湖疎水閣の柱はイギリス積みで積まれています。
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建設当時は南禅寺の景観を損ねるとして多くの反対があったそうですが、こう見ると造ってもらってよかったなという感じがします。
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水路閣の上部には疎水が流れています。
琵琶湖の水が毎秒2tも流れているんだそうです。 -
水路の奥の方には門のようにデザインされた場所も見受けられますね。水路の先には煉瓦造りの隧道があるようです。
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魚を釣ろうとする人がいたんだ。
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更に進んだ先にある最勝院にも行ってみましょう。
最勝院 寺・神社・教会
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最奥にひっそりとたたずむ歴史ある塔頭である最勝院高徳庵は、いつ誰が創建した寺院なのか、定かになっておらず、以前は南禅寺の寺務所周辺にあったそうです。1915年に現在の場所に移動されました。ちなみに最勝院高徳庵の背後はもともと神仙佳境と呼ばれ、霊地として知られていたとか。
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なんとも絵になる山門までの道。
境内は鎌倉時代に天台密教の駒道智大僧正が、この地に隠棲したことに始まるといわれており、古くから勝運の神として知られていました。 -
山門をくぐると目に飛び込むのは立派な松の木。この松の木は、樹齢300年の百日紅の木の割れ目に、松の種が落ちて、そのまま成長したとされている非常に珍しいものなんだそうです。
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松の木と百日紅が仲良く一体化していることから、縁結びの松と呼ばれています
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本堂の中には福徳円満大黒天と払災殖福不動尊が安置されているそうで、「駒大僧正」と書かれた額が設置されていました。
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手入れされた庭を軽く散策。
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山門を通って外に出ましょうか。
ここからの景色もなかなか。紅葉の季節も綺麗でしょうね。 -
このあたり一帯は鎌倉時代から「神仙佳境」と呼ばれた聖地で、この道を奥に進んだところに奥の院と駒ヶ滝と呼ばれる滝があるそうです。
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もと来た道を戻りましょうか。
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京都の川はすべて南に向かって流れていますが、この水路閣は水路の傾斜が調節されていることから、水が京都市内の方角である北に向かって流れているそうです。
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アーチを潜った場所まで戻ってきました。
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水路閣奥にある階段を登って上に行きましょうか。
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南禅院に到着。
京都で唯一の鎌倉時代の国指定名勝庭園がある場所なのですが、拝観時間がほぼ終わりだったので拝観せずに回れ右。南禅寺 南禅院 名所・史跡
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何全員からばっちり水路閣も見えますね。
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階段を下りて水路閣をくぐり、お次の場所に向かいましょうか。
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いろんな角度から見るのが楽しい建造物ですね。
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この辺りには素敵な枝ぶりのもみじがたくさん植わっていました。紅葉の時期にはたくさんの人で溢れかえるというのもわかります。
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ここで水路閣とはさよならします。
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水路閣からの移動中、ふと横を見ると後嵯峨天皇皇后姞子粟田山陵の制札を発見。
亀山天皇の生母、後嵯峨天皇の中宮である大宮院姞子の陵があるそうで、先ほど訪れた南禅院勅使門を右へ行った先にあるようです。 -
南禅寺法堂に到着。
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屋根付き外置香炉で煙をいっぱい浴びます。
頭がよくなりますように。 -
創建当初の南禅寺の法堂は応仁の乱の戦火で焼失し、1479年頃に復興され、1606年には豊臣秀頼の寄進によって大改修が行われましたが、その建物も1893年に焼失。現在の法堂は1909年に再建されたものだそうです。
1990年の開山・大明国師(無関普門)700年大遠忌記念行事として、屋根の茸替え工事や床の敷瓦の取り替え工事が行われ落慶法要が行われました。 -
軒丸瓦には南禅の文字。
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参拝がてら法堂内を見てみましょう。
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法堂内には本尊の釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩が安置されており、天井には四条派の日本画家である今尾景年が描いた幡龍がいました。迫力ありますね。床全面が敷瓦というのもタイル張りみたいで面白いですね。
余談ですが、雲龍図は龍が仏法を守護する八部衆のひとつとされていることから法堂などの天井に描かれることが多いです。法堂は僧侶が経典の講義や説教などをする場なので、雨を呼ぶ水神の龍が仏法の教えを雨のように降らすと言われ、水神の龍が寺院を火から守るとの意味も込められていると言われています。 -
法式行事や公式の法要が行われる南禅寺の中心となるお堂なだけあってとっても大きいです。
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法堂近くの緑が綺麗です。
広い敷地でもよく手入れされていて凄いですよね。 -
法堂から三門までの真っ直ぐな道をのんびり歩いていきます。
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三門の裏に到着しました。こちらの三門は1295年公暁・西園寺実兼の寄進によって創立。応安年間に改築されていますが、1447年の火災で焼失しています。1628年には、伊勢津藩主で築城の名手としても名高い藤堂高虎が大坂夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建しています。1899年に国指定の重要文化財になりました。
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太くて立派な柱がずらりと並んでいますね。
時間外だったので入れませんでしたが、階段をのぼって楼上まであがり、回廊を一周することができます。 -
三門は寺院を代表する正門のことですが、山門と書かずに三門としているのはなぜでしょうか。そこには、寺院の門は俗世間と仏道世界の大きな境界とされていることが大きく関係しています。
仏教では涅槃に入る際に迷いから抜け出るために、三つの門をくぐらなければいけないとされています。仏道の修行で悟りの境地に達するために透過しなければならない三つの関門は空、無相、無作で、これら三解脱門を略したものが三門です。つまり、そのような教えを秘めた特別な門ということなんでしょうね。 -
表からの姿の三門は威圧感が凄い。高さ22mは伊達じゃないですね。
南禅寺の三門は、別名「天下竜門」とも呼ばれ、日本三大門の一つに数えられているというのもちょっと納得。 -
三門前には「この門を入れば涼風おのづから 杉洞」と刻まれた巨石がありました。
この句を詠まれたのは南禅寺の高僧で大徳の森永杉洞という方で、南禅寺の管長となる資格もある人でしたが、それを断り伊万里市の圓通寺という禅寺の一住職として生涯をおくられたようです。きっと森永杉洞の遺徳を思う方々が建てたんでしょうね。 -
中門を出て南禅寺を後にします。
本来だったらこちらから境内に入るんでしょうね。 -
南禅寺中門から蹴上の方に歩いている途中に見えた南禅寺会館。
南禅寺は宿坊もあるんですね。 -
湯豆腐のお店である順正の前には売店があり、色々お土産が売られていました。
食事処だけじゃないんですね。南禅寺 順正 グルメ・レストラン
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こんなところにブルーボトルがあったんだ。
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道の突き当りでなにやら線路跡がありました。
インクラインという琵琶湖疏水の大津から宇治川に至る20.2㎞の舟運ルートの途中にある、高低差約36メートルの水路落差がある急斜面で船を運航するために敷設された傾斜鉄道の跡地だそうです。
正面に見える噴水は、電力などを使用せず、琵琶湖疎水の高低差からうまれる水圧だけで見事に水が噴きあがる仕組みになっています。インクライン 名所・史跡
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こちらの蹴上インクラインは全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡で、1891年から運航し、舟運の衰退とともに1948年に役割を終え、現在はその廃線跡は京都市の文化財に指定されています。伏見にもインクラインがあったそうですが、蹴上のみ形態保存されており、廃線跡の横にはずらりと桜の木が植えられていました。
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横を通りすぎただけの琵琶湖疎水記念館。
水路閣を見た後だったので気になりましたが、もう開館時間をとうに過ぎていたので入れず。また今度~。 -
白河通りの川沿いを歩いてバス停に向かいます。
バス停に着くとほとんどバスを待たずに乗ることができました。やったね。ベストタイミング。 -
バスに乗って河原町松原に行き大衆酒場こうじゑんに寄ります。
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狭い路地を抜けたらポツンとお店がありました。
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カウンターにお邪魔して日本酒を飲みながら、いろんなお刺身がのっている御一人様用刺身盛りをいただきます。いい感じで色んなお刺身がのっているのが嬉しいところ。酔っ払いエビ美味しいなぁ。青柳もしっかり下処理してあっていいですね。
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ゼンマイと厚揚げの煮物は日本酒に合いますねぇ。京都藤森の日本酒・蒼空が美味しかった。
カウンター席で隣同士になったお客さん達と楽しく話して、良い時間を過ごすことがでできました。 -
バスに揺られて帰路につき、宿に帰ってからつばらつばらと宿のお菓子をいただきました。
モチモチした皮が美味しい。
まったりお風呂に浸かったら、満足して就寝。
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